2005年マルコの福音書第13講

何か見えるか

御言葉:マルコの福音書8:1-26
要 節:マルコの福音書8:23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。

先週、私たちは希望と信仰、愛の人であったスロ・フェニキヤの女の人のことを学びました。彼女は馬鹿にされるようなことばを聞いても「そのとおりです。」と答えました。それほどにイエス様を信頼していました。人間的に考えると、傷つけられるようなことばを聞いたのですが、それでもなお、イエス様を信頼して子どもたちのパンくずでもいただこうとしました。それにはイエス様も驚かれました。イエス様は彼女に「そうまで言うのですか。」と言われたのです。この女性から本当に、霊的な目が開かれた人の姿を見ることができます。人は信仰によって霊的な価値観が形成されると、本当に自分の自尊心が傷つけられること、無視されるようなことがあっても謙遜にイエス様の恵みを求めるようになります。私たちもどんな時でもイエス様を信頼し、謙遜にイエス様のあわれみを求めるクリスチャンとして生きることができるように祈ります。
今日の御言葉では、イエス様の牧者の心、イエス様が弟子たちに教えられた霊的な教訓を学ぶことができます。イエス様は空腹の群衆をかわいそうに思われ、食べさせられました。パンばかり考えている弟子たちにはパリサイ人とヘロデのパン種に十分気をつけるように言われました。特に、イエス様は盲人の目が見えるように癒すことによって弟子たちの霊的な目が開かれるように助けてくださいました。どうか、私たちをかわいそうに思ってくださるイエス様の愛を感じることができるように祈ります。イエス様の教えを受け入れ、パリサイ人とヘロデのパン種に十分気をつける生活ができるように祈ります。何よりも霊的な目がはっきりと見えるようになっていつもイエス様を見て生きる者となりますように祈ります。

?.四千人を食べさせられたイエス様(1?9)
1節をご覧ください。「そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。」とあります。「そのころ」とはイエス様が、「耳が聞こえず、口のきけない人」を癒された時のことです。7:37節を見ると「人々は非常に驚いて言った。『この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようし、おしを話せるようにしてくださった。』」とあります。人々はイエス様のなさることによって非常に恵みを受けていました。食べなくても、それに気づかなかったほどに恵みを受けていたのです。彼らは霊的に満たされていました。でも、人間は体を持っている限り、食べなければなりません。体には食べ物が必要なのです。では食べる物がなかった群衆に対するイエス様の御心はどうですか。
2,3節をご一緒に読んでみましょう。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」イエス様のお言葉から、私たちは群衆がもう三日間もイエス様と一緒にいたことが分かります。しかも、食べる物を持っていないこと、空腹のままであることが分かります。イエス様は彼らをかわいそうに思ってくださいました。弟子たちは人々の必要を考えませんでした。心の中では考えたかも知れませんが、実際に群衆を助けようとしなかったのです。しかし、イエス様は彼らをかわいそうに思ってくださいました。イエス様は「かわいそうに」と言われ、空腹のまま帰らせたくないお気持ちをことばに表わしておられるのです。イエス様は大勢の人の群れに食べ物がないこと、空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなる状態であることまでも知っておられました。知っておられるだけではなく、彼らをかわいそうに思われ、彼らを助けようとされたのです。
イエス様は私たちの状況をよく知っておられます。私たちに足りないことをよく知っておられます。知っておられるだけではなく、かわいそうに思って助けてくださいます。時には私の牧者も、私の家族も、私の親も、同じ飯を食っている同労者も私のことをよく知りません。よく知らないからよく助けることもできません。
先週、私は職場の仕事、みわざのこと、死んだ弟の事故処理などで悩みました。ある日の夜、私は心も、体も疲れていました。特に生徒の反抗、指導した生徒の親からの反発などで疲れました。12時ごろ家に帰りましたが、横になると、なんだか泣きたくなりました。それで、隣に座っている同労者に「泣きたいね」と言いました。すると、同労者は「今日、何かありましたか。」同労者は、何も知らずに「何かありましたか」と質問するばかりでした。私はさらに寂しくなりました。しかし、イエス様は私をかわいそうに思われ、助けてくださいました。イエス様は私を起こして祈るようにしてくださいました。ひざまずいて祈る時、聖霊の感動によって泣きながら自分の高慢と不信仰を悔い改めるようになりました。私はスロ・フェニキヤの女の人のようになろうとメッセージを伝えていながら、自分は少しでも自分のことで言われたくないと思っている高慢な者でした。忙しいからもっと祈りましょうと言いながら、自分は忙しさを言い訳にしてあまり祈っていない偽善者でした。神様はこんな私の状態をよく知り、悔い改めさせてくださいました。それで、悔い改めの祈りをささげると、心も体も癒されました。不思議な体験でした。本当に、イエス様は私たちの状態をよく知っておられます。そして、弱い者をかわいそうに思ってくださいます。深くあわれんでくださいます。何よりもかわいそうに思ってくださることだけではなく、実際に助けてくださいます。ではイエス様は群衆をどのように助けてくださいましたか。
4-9節をご覧ください。弟子たちは「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」と答えました。弟子たちは三日間も一緒にいたから十分食べさせなければならないことを知っていました。しかし、こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れるだろうと思いました。彼らの答えは否定的です。ところが、イエス様は彼らに「パンはどれぐらいありますか。」と尋ねられました。「十分食べさせる」ためには「どれぐらい足りませんか」と言われなかったのです。イエス様は弟子たちが、今あるものを主に委ねるように助けられました。弟子たちは、「七つです。」と答えました。 すると、イエス様は群衆に、地面にすわるようにおっしゃいました。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂きました。そして、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配りました。また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われました。結局、弟子たちは自分たちにあるものをイエス様の御手にゆだね、イエス様が祝福してくださったものを人々に配る使命を果たしました。すると、人々は食べて満腹しました。弟子たちも満腹したでしょう。信仰生活とはこういう生活です。自分にあるもの、わずかなものを主にゆだねると、主はそれを祝福してくださるので、それを隣人たちに配る使命を果たすことです。すると、自分も、人々も神様の祝福によって満腹するようになります。弟子たちが三日間も空腹だった人々が満腹して喜んでいる姿を見ることができたでしょう。弟子たちも喜びながら余りのパン切れを七つのかごに取り集めたでしょう。人々はおよそ四千人でありました。それからイエス様は、彼らを解散させられました。結局、イエス様は三日間、霊的に渇いていた群衆の霊的な要求を満たてくださいました。それだけではありません。肉体的な要求も満たしてから、彼らを解散させられたのです。本当にイエス様はご自分の所に集まって来る人々の要求を満たしてくださる方です。私たちの霊的な必要、肉的な必要、現に私たちに必要なすべてを十分に満たしてくださるイエス様の御名を賛美します。

?。パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい(10-21)
10-11節を読んでみましょう。「そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。」とあります。イエス様の一行は舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれました。ダルマヌタはガリラヤ湖の東側にあります。そこに、パリサイ人たちがやって来ました。彼らはイエス様に議論をしかけて「天からのしるし」を求めました。彼らがイエス様に議論をしかけたのは、イエス様を学ぶためではありません。議論して納得できればイエス様を信じるためでもありません。彼らが議論をしかけた目的はイエス様をためすことでした。では議論をしかけてしるしを求めた彼に対するイエス様の御心はどうでしたか。
12節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」」イエス様は心の中で深く嘆息されました。なぜ、嘆息されたでしょうか。
イエス様は今まで父なる神様から遣わされたメシヤである事実を多くの確かな証拠を持って人々に示されました。中風の人、さまざまな病を患っている人々を癒し、らい病人をきよめてくださいました。嵐を静められ、空腹の群衆を5千人も、四千人も食べさせられました。そして、死んだヤイロの娘を生き返らせられました。それらなのに、パリサイ人たちはイエス様に議論をしかけ、しるしを求めました。それはイエス様に対する侮辱です。今まで行なわれたしるしを認めないことになるからです。ですから、イエス様は議論をしかけてしるしを求める彼らに対して深く嘆息されたのです。そして、「しるしは絶対に与えられません。」と答えられました。イエス様は議論をしかけてしるしを求めた彼らにしるしを見せませんでした。イエス様は彼らが納得するまで議論し続けることもしませんでした。イエス様はそういう「彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれました。」
イエス様はイエス様が行なわれた活動を知っていながらも議論をしかけてくる人から離れていかれます。今日でも同じでしょう。もし私たちがイエス様をキリストとして告白したにもかかわらず、また議論をしかけてしるしを求めたりするなら、イエス様の御心はどうなるでしょうか。イエス様は心の中で深く嘆息されるでしょう。イエス様は私たちが議論をしかけ、しるしを求めることより、御言葉を聞いて従うことを願っておられます。議論することよりキリストの輝きによって輝くものになることを願っておられます。
私はこの御言葉を準備しながら、「論争しないで輝きなさい!」という本が思い出されました。大川従道牧師先生の説教集ですが、この本の12ページにはこうことが書かれています。「説教集の題は、ボンケ先生の本(炎の伝道)の103頁「論争しないで、輝きなさい!」からいただいた。「暗やみと言い争っても、あなたは打ち負かせません。ただ神の明かりのスイッチを入れなさい。福音は力です。明かりのための力です。それを語りなさい。そうすれば、あなたは電源につながり、明かりが灯ります。」とあった。正直言って非常に感動した。牧師になって、えらく理屈っぽくなってしまった。論争する時間があるなら、輝きなさい。」と言われた。」とあります。大川先生はボンケ先生を通して感動しましたが、私は大川先生の本を通して感動し、悔い改めるようになりました。私たちはしるしを求めるためにではなく、もっと神様に喜ばれる東京UBF教会を立て上げるために議論することが必要でしょう。でも議論が必要十分条件ではありません。議論や論争より輝くことが重要でしょう。論争しないで輝く者になりましょう。
13、14節をご覧ください。「イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。」とあります。イエス様が七つのパン四千人を食べさせられた時、人々は食べて満腹し、あまりのパン切れを七つのかごに取り集めました。ところが、弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかありませんでした。でもイエス様はそのパンから弟子たちを注意されました。
15節をご一緒に読んでみましょう。「その時、イエスは彼らに命じて言われた。『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい』」パン種をパン生地の中に入れると、それが全体に広がってパンをふくらませることになります。ユダヤ人は、それを罪の象徴とし、過越にはパン種を入れないパンを食べました。悪影響を及ぼすものとして考えていたからです。弟子たちにとって、パリサイ人とヘロデのことはパン種のような存在でした。ですから、イエス様はパリサイ人とヘロデの悪影響を受けないように注意されたのです。それは私たちも十分気をつけなければなりません。世の中ではパリサイ人のように理屈っぽい議論を持っている話をすると偉く見えます。彼らは賢く見えるし、素直に、御言葉を信じて、謙遜に生きる人は愚かに見えてきます。ヘロデのパン種は情欲です。ヘロデは自分の弟の妻も自分の妻にしてしまった人間ですが、人々はヘロデのように快楽を楽しめることを望む心があります。 
ある人は、通訳のアルバイトのために夜歌舞伎町に行ったことがありますが、自分にお金さえあれば、自分も快楽を楽しんだはずだと言いました。自分には力がなくていけなかったような感じで話していました。このような時代に生きている私たちにもイエス様は命じて言われます。パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい』では、イエス様が命じて言われた言葉に対する弟子たちの反応はどうですか。
16節をご覧ください。「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。」とあります。弟子たちは「何でパンを持って来なかったの、七つで4千人も食べたから、このパン一つなら、僕たち13人は十分に食べるようにしてくれるんじゃない。」というような議論をしたでしょう。もう弟子たちに議論好きのパリサイ人のパン種が広がっていました。それに気づかれたイエス様は何と言われましたか。
17?21節をご一緒に読んでみましょう。それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
イエス様は、弟子たちをきびしく叱られました。彼らはイエス様の御言葉を悟ろうとしないで、パンのことばかり考えていたからです。そこで、イエス様は、弟子たちの「心が堅く閉じている」こと、「目がありながら見えない」こと、「耳がありながら聞こえない」ことを嘆かれたのです。そのあと、「あなたがたは覚えていないのですか。」と言われました。彼らは食べることばかり考えたので悟ることができませんでした。私たちも礼拝が終わったらおいしい食事が待っていることばかり考えているなら、何も悟ることができないでしょう。それで、今日からは礼拝の後にすぐ食べるのではなく、フェローシップ別に集まって御言葉の恵みを分かち合い、祈ってから食べることにします。私たちがイエス様の御言葉を悟ることはとても大切です。「十二」と「七つ」とかいう数を覚えることよりも御言葉の意味を悟ることが大切です。
ダニエル書を見ると、ダニエルは聖書を読む時、悟ろうとしました。ある時は、そのために断食しながらお祈りしました。すると、神様はそれをとても喜ばれました。10:12節を見ると「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと定めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」とあります。ダニエルは悟ろうとし、神様の前でへりくだろうとしていました。神様はそのようなダニエルを大きく祝福してくださいました。イエス様は弟子たちも悟りのある者になることを願われました。そこで、イエス様は言われました。「まだ悟らないのですか。」
でも、イエス様は無理やり人を悟らせることはできません。その人が自分で選択して心を開かないのであれば、だれも、イエス様でさえも悟らせることはできません。ですから、私たちはダニエルのように心を定めて悟ろうとすること、神様の前でへりくだろうとして祈ることが大切です。

?。何か見えるか(22?26)
22,23節をご覧ください。ダルマヌタ地方から、舟に乗られたイエス様は、湖の北側にあるベツサイダに着きました。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエス様に願いました。イエス様は盲人の手を取って村の外に連れて行かれました。どうして、イエス様は彼らの前で奇跡を行われなかったのでしょうか。それは、彼らが、イエス様がどのような奇跡を行うのだろうかと「しるし」を求めていたからです。イエス様は、しるしを求める者の前では、奇跡は行われません。それでは、この盲人はどうなったのでしょう。お前は、もう帰れと言われたのでしょうか。また、村の外で待っていなさいと言われたのでしょうか。そうではありません。
23節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。」
 イエス様はまるで母親のようにやさしく盲人を助けておられます。私が子どもの時、目にゴミがはいって目をさわっていると、母は私の痛む目に、唾をつけて目のゴミを取り除いてくれました。そのようにイエス様は盲人の目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて「何か見えるか」とおっしゃいました。すると、この時に、素晴らしいことが起こりました。24節をご覧ください。「すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。」とあります。生まれて一度も自分の目で見たことがなかったのに、確かに人の姿が見えたのです。それは、彼の人生を変える素晴らしい出来事であったに違いありません。
でも、それよりすばらしいことは心の目が開かれて、神様を見ることが出来るということです。皆さんもアメリカのヘレンケラーのことはご存知だと思います。彼女は目が見えず、耳が聞こえず、しゃべれないと言う三重苦を背負っていました。でも彼女の心の目が開かれた時、彼女は博士号を三つもとり三カ国語をマスターして「二十世紀の奇蹟」と言われました。
 その陰には家庭教師ミス・サリバンの涙ぐましい努力がありました。信仰の厚いサリバンはヘレンがかなりいろいろなことを覚えたので、一番大切な信仰のことについて教えようと思いました。サリバンは考えたあげく当時アメリカで一番有名な牧師であったフィリップ・ブルックスに相談しました。すると先生は「決して心配する必要はありません。目が見えず、耳が聞こえず、口がきけなくても、人間である限り、必ずヘレンにも神様のことが解ります。」と答えました。そして、ある日、先生がヘレンを訪問してくださり、サリバン先生がヘレンの手のひらにその言葉を書いて、熱心に信仰のことを語りました。話しが終わると、ヘレンは先生を見上げて、「先生、私はそのことを前から知っていました。ただ、その方が神様であるということを初めて知りました。」と言ったのです。それは、ヘレン・ケラーの霊的な目が開かれた瞬間でした。そして、その場にいた人達はみな非常に驚いて、御名を崇めました。ヘレン・ケラーは、残念ながら肉の目が開かれることはありませんでした。けれども、心の目が開かれて、素晴らしい人生を過ごすことが出来たのです。
 イエス様は、私たちの心の目を開いてくださるお方です。このお方に目を開いていただいて、ヘレン・ケラーのように素晴らしい人生を歩みだしていただきたいと思います。
ここで、イエス様が「何か見えるか」と言われたことも考えてみたいと思います。「何か見えるか」ということは、言い換えると「何を見ているんだ」ということになります。何を見るために目が開かれたのでしょうか。
私たちが、救われて、信仰の目が開かれたということは、本当に素晴らしいことです。ところが、けれども、救われても「何を見ているのか」よく解らないもいます。焦点が定まっていない人です。
 救われたのに、イエス様だけを見ようとはせずに、この世の権力や、この世の富や、この世の快楽を見ようとしてそれらのものに目を奪われてしまいます。そして、焦点がはっきりしていないので、躓いたり転んだりして失敗してしまうのです。そんな私たちにイエス様は、「何か見えるか」(何を見ているのだ)と語りかけておられるのではないでしょうか。ヘブル人への手紙12:2節は言います。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。」私たちの目がいつもイエス様に焦点を合わせているように祈ります。
 25節をご覧ください。「それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」とあります。「すべてのものがはっきり見えるようになった。」どうでしょうか。今日、この盲人のように、皆さんも「はっきりと見えるようになった。」と言えるでしょうか。聖霊に頼って祈り、「何でも、はっきりと見えます。」と言えるようになりましょう。まだ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と位しか見えない方もいるでしょう。そのために、この夏に、修養会が予定されています。8月11日から14日まで行なわれる日本全国夏修養会です。緑豊かな静岡県の東山荘で行なわれる修養会は、私たちの信仰の目をはっきりと開いていただく素晴らしいチャンスです。私たちも修養会で、私たちの目をはっきり見えるようにしていただいて、「道であるイエス様」に出会いましょう。