2005年マルコの福音書第18講

ご自分のいのちを与えられたイエス様

御言葉:マルコ10:32?45
要 節:マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

先週、私たちは「どんなことでも神にはできる」ということについて学びました。そして、全能の神様を信じて毎晩祈り会を行なって来ました。私は祈り会の所感を聞きながら人の前ではなく、神様の御前で真実に生きている同労者たちの信仰、ひとりひとりに仕えておられるイエス様の働きを通して多くの恵みを受けました。また、先週はxx牧者が出産しましたが、彼女の証を通して大きな恵みを受けました。彼女は37時間も続く陣痛のために苦しんでいる時、同労者の〇〇宣教師が隣で祈ってくれて励ましになったそうです。喜びのときも、苦しみのときも夫がともにいてくれることはすばらしいことです。ところが、慶原宣教師は眠ってしまった時もありました。xx牧者はちょっと寂しかったそうです。しかし、その時にもイエス様は眠ることなくxx牧者とともにいてくださったことが大きな力と励ましになったと言いました。イエス様は産みの苦しみのために大変なxx牧者に仕えておられたのです。xx牧者はそのことを証ししてくれました。私はその証しに恵みを受けました。多くの場合、人々は自分が苦しんでいる時、夫が眠ってしまったことだけを言います。だれも自分の苦しみを理解してくれなかったとつぶやきます。ところが、xx牧者は耐えがたい痛みを感じている時に夫が眠ってしまったとしてもそれをつぶやかず、隣にいてくれたことを感謝していました。何よりも、いつもともにいてくださるイエス様を覚えていたのです。すると、産みの苦しみも感謝へと変わりました。本当にイエス様中心に考えると、どんな場合にも感謝することができます。いつも喜ぶことができます。イエス様は私たちのためご自分のいのちまでも惜しまずお与えになったほどに私たちを愛しておられるからです。
今日はこのイエス様の生き方、イエス様がこの地に来られた目的を学びます。もし、私たちがイエス様の生き方を学び、それを実践するなら、互いに愛し合う家庭、共同体を作り上げることができます。イエス様のように謙遜になって人々に仕える人の心に平安と喜びがあるようになります。どうか、御言葉を通して仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたイエス様を学ぶことができるように祈ります。また、多くの人のための贖いの代価として、ご自分のいのちをお与えになったイエス・キリストの恵みが豊かにありますように祈ります。

?.栄光の座を求める弟子たち(32?41)
 32節をご覧ください。「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。」とあります。
イエス様の一行は、いよいよエルサレムに近づきました。エルサレムはイエス様に激しく敵対している宗教指導者たちのいる所です。そこで、イエス様は、祭司長、律法学者たちに引き渡されます。彼らはイエス様を死刑に定め、異邦人の手に引き渡します。すると、彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。そのエルサレムに近づいた時のイエス様の御心はどうだったでしょうか。
 一般的に栄光と祝福が待っている所に上る時は喜んで行きます。もし、ノベル賞もらうためにエルサレムに上るなら、楽しく上ることができるでしょう。でも、重い十字架、人々の嘲り、死が待っている所に上ることはやさしくありません。上るにしても人のうしろになってできるだけゆっくり歩こうとすることでしょう。しかし、イエス様は十字架の道を避けようとしませんでした。イエス様は死に向かっていく道であっても先頭に立って歩いていかれました。このイエス様の後姿に弟子たちは驚きました。彼らは言いようのない不安を覚えたことでしょう。そこで、イエス様は弟子たちにエルサレムで起こることについて話されました。
 33,34節をご覧ください。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」とあります。イエス様がご自分の受難と十字架の死、そして復活について予告されたのはこれで三度目です(8:31、9:31、10:33,34)。最後の受難予告でもあります。今回は一度目、二度目より具体的になっています。と言うのはイエス様がご自分の受難に対してある程度知っていたのではなく、どんなにひどいものかをよく知っておられたことを示唆してくれます。イエス様は残酷な十字架の死を知っておられたにもかかわらず、それを担う決断をなさったのです。そして、イエス様はご自分の受難と十字架の道について弟子たちに教えられました。弟子たちはこの教えに反発し、その意味をよく悟りませんでした。彼らは十字架の意味を悟ろうともせず、とりあえず、十字架を避けたいと思っていたのです。彼らは「苦難」「十字架」「仕えること」などは聞きたくもないと思っていました。ところが、イエス様は繰り返して彼らにご自分の十字架の受難について教えておられました。なぜでしょうか。それは十字架の福音こそ弟子たちに真の救いといのち、勝利と栄誉を得させる道であるからです。
 十字架の苦難がない所には救いもなく、いのちもありません。十字架の苦難がなければ勝利もなく、栄光もありません。今日UBFは世界的な宣教団体として成長し、世界の国々でいのちの実を結んでいますが、それはMother Barry宣教師が結婚する暇がないほどに十字架を負い、多くの先輩たちが十字架の苦難を避けなかったからです。家でも父や母が十字架の苦難を避けない時、子どもたちがいのちを得、成長します。十字架は神様の知恵であり、神様の力です。ですから、イエス様はすでに十字架の死を覚悟しておられたし、弟子たちにも十字架の受難を教えられたのです。ところが、弟子たちは何を考えていましたか。
 35節をご覧ください。ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエス様のところに来て言いました。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」彼らはイエス様の教えには何の関心も示さず、自分たちの頼み事を言い出しました。今で言えば、メッセージを聞いても御言葉に対しては何も言わず、今日の食事はどうなっていますかと聞いているようなことです。御言葉を伝える人としてとても寂しいことです。しかし、哀れみ深いイエス様は彼らに言われました。「何をしてほしいのですか。」すると、彼らは「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と言いました。ますます偉いことを言っています。先ほどイエス様はエルサレムに上ると、あざけられ、つばきをかけられ、むち打ちにされ、ついに殺されることを話されたばかりです。それなのに、彼らは自分たちの頼み事ばかり考えていたのです。彼らはイエス様の弟子である立場を生かしてこの世で出世することばかり考えていました。イエス様の教えに耳を傾けることより自分の祈り課題だけを求めるような態度です。ほとんどの人が教会に通い始める時は自分の頼み事が優先になると思います。しかし、弟子たちのように3年経っても、イエス様の教えには耳を傾けず、自分の意見、自分の頼み事ばかり求めるなら、それは幼稚な行動でしょう。幼稚な人と話し合い続けることはやさしくありません。そんな人の意見は無視してしまいたくなります。しかし、イエス様は私たちがまだ幼稚な信仰を持っていても無視しません。
 38節をご覧ください。「しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」」とあります。イエス様は彼らの意見を無視せず、彼らを相手にしておられます。イエス様は彼らにイエス様の飲もうとする杯を飲み、イエス様の受けようとするバプテスマを受けることができるかについて聞かれました。ここで、「わたしの飲もうとする杯」とは苦しみの杯であり、「わたしの受けようとするバプテスマ」とは十字架の死を意味しています。ヨハネとヤコブは「できます。」と言いました。彼らはそのような苦難を受けても政治的な要職に就きたいと思っていたようです。ある程度の代価を払っても出世することができるなら、左大臣、右大臣の座に就くことができるなら、何でもできるというような感じです。今でも人々はちょっと苦労しても昇進すること、もっと高いに地位に就くことを望むでしょう。それは悪いことではありません。苦難を受ける覚悟なしに地位だけを求めるなら良くないことでしょう。しかし、苦難を受ける覚悟が出来ていれば総理大臣になることを求めても悪くありません。ですから、イエス様は彼らに言われました。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。」彼らの意思と覚悟を認められました。しかし、イエス様の苦難の杯を飲んでからはどんな態度を取るべきですか。
 40節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」イエス様は「わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。」と言われました。神様がそれに備えられた人々があるからです。私たちがイエス様の右と左に座るために苦難の杯を飲むことは自由です。本当に栄光の座に就きたいなら骨を折る苦労が必要でしょう。しかし、自分なりに骨を折る苦労をしたからと言って地位と権力を要求してはなりません。それは神様が決めることです。神様の主権と摂理によって決められるのです。ところが、ヨハネとヤコブに神様の主権と摂理に対する信仰がありませんでした。だから、彼らはロビー活動をして高い地位を獲得しようとしました。
私たちも神様の主権と摂理に対する信仰がなければ何でも自分の力によって獲得しようとします。もちろん、私たちが栄光の座に就くために、良い実を結ぶために闘争することは望ましいことです。しかし、すべての結果は神様の主権と摂理に委ねなければなりません。
奥さんチーム宣教師たちは伝道の実を結ぶために一生懸命に努力します。先週木曜日に教会に来て見ると、姉妹宣教師たちがフィッシングに出かけている間、〇〇牧者は四人の赤ちゃんたちの面倒を見ていました。自分の子どもひとりでも大変なことなのに、四人の赤ちゃんを面倒見ることはやさしくないでしょう。汗をかきながら伝道することもやさしくないでしょう。私は神様に「宣教師たちがこんなにかんばっています。何とか羊たちを送ってください」と祈りました。しかし、すべての結果は神様に属しています。私たちは何かをしたらすぐに結果を手に入れたいと思いますが、それは神様の主権なのです。私たちはイエス様の御言葉に従って伝道するべきです。しかし、救われてキャンパスの牧者や宣教師になる人は、神様がそれに備えられた人々なのです。ここにいらっしゃる皆さんも誰かの伝道によって来られたと思いますが、実は神様が備えられ人々です。ですから、熱心に働いても、その結果は神様の主権と摂理に委ねる信仰が求められるのです。ところが、イエス様の教えに対する十人の弟子の反応はどうですか。
41節をご覧ください。「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。」とあります。秘密はないですね。二人がイエス様に言ったことは他の弟子たちにばれてしまいました。すると十人の者は彼らのことで腹を立てました。実は十人の弟子たちもヤコブとヨハネと同じくイエス様に頼み事を言いたいと思っていたことが分かります。ただ表に出さなかっただけでした。つまり、12人の弟子たちの間には激しい競争があったのです。「あいつさえいなければ私が第一人者になれるのに・・・」と思っていました。その中でヨハネとヤコブ兄弟グループとペテロとアンデレ兄弟グループの競争は激しいものでした。このままの状態が続くと、12人がばらばらにならなくてもヨハネグループとペテログループに分裂する危機に処せられていました。では、イエス様はそんな彼らの問題をどのように助けられましたか。

?.ご自分のいのちをお与えになるイエス様(42?45)
 42a節をご覧ください。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。」とあります。イエス様は12弟子を呼び寄せられました。ヨハネとヤコブが問題を起こしましたが、彼らだけを注意したのではありません。他の弟子たちも同じ問題を持っていることを知り、彼らに特別講義を始められました。タイトルは「偉大な者になる道」です。
 42b?44節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。ところが、弟子たちには支配権も、権力もありません。彼らのことを考えてみると、この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。むしろ、この世の愚かな者、弱い者たちでした(?コリント1:26、27)。ですから、彼らは権力者、身分の高い者になることを望んでいたかも知れません。自分たちも彼らのように人々を支配し、権力をふるうことを望んだのです。それは一般的な人々の価値観です。しかし、イエス様は弟子たちに何と言われましたか。もう一度43、44節をご覧ください。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」とあります。
弟子たちの間では異邦人の支配者たちのように権力をふるう者になってはならないことを教えてくださいました。弟子たちの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者にならなければなりません。弟子たちの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべにならなければなりません。みなに仕える者、みなのしもべになることは決してやさしくありません。でも、みなに仕える者、みなのしもべにならなければ偉い人になることはできません。真に偉い人はみなに仕える人です。仕える者になるためには自分を否認し、自分を低くして謙遜な人にならなければなりません。そして、人の足りないことを理解し、その人の足りなさを満たしてあげるために気を配る必要があります。自己本位の考え、高慢な心を捨てて、自分の時間と財産を使って人のために奉仕し、献身する必要もあります。言葉や口先だけではなく、行ないと真実を持って人を愛し、仕える人にならなければならないのです。
ところが、このような内面性を持つことはやさしくありません。なぜ、多くの夫婦が毎日のように夫婦喧嘩をし、離婚するでしょうか。もちろんそれぞれに深刻な理由があってのことであろうと思いますが、やはりそれは互いに仕えようとしないところから始まっているでしょう。夫も、妻も、どちらも謙遜に仕えようとしないから夫婦喧嘩をします。離婚することもそうです。人々が集まる所々でさまざまな葛藤や争いが起こる原因は何でしょうか。それぞれの理由があるでしょうけれども、根本的なことは仕えられることだけを望み、仕えようとしないからです。教会に来ても居心地が悪く、喜びがないならその理由は何でしょうか。自分の方から仕えようとしないからです。真に偉い人はみなに仕える人です。みなから認められて、自分の存在感、生きがいを感じる偉大な人生を生きるためにはみなに仕える人にならなければなりません。人々の間で人の先に立ちたいと思う者は野心や能力によってできるものではありません。謙遜に自分を低くし、みなのしもべになって仕えることによって偉大な人になります。人々は直接に自分に仕えてくれなくても、みなに仕えている人の生き方をみて、その人を尊敬します。
 皆さん、韓国の長老たちの間で一番尊敬されている牧師は誰だと思いますか。昨日のChristian Todayによると、世界で一番大きい教会の趙ヨンギ牧師(8.8%)ではありません。もちろん趙先生も偉い方ですが、一番多くの人から尊敬されている先生は「しもべ牧会」として知られている金Sam Hwan牧師(42.1%)だったのです。やはり人々はみなのしもべになって仕える人を真に偉い人として認め、心から尊敬するのです。
 ところが、イエス様の十二弟子は偉い人になりたい、人の先に立ちたいと願っていましたが偉い人の内面性のために闘争する方向はありませんでした。彼らは神様の御前で霊的な人、謙遜の人、献身する人、みなに仕える人として成長したいという望みがなかったのです。ただ、高い地位が与えられると偉い人になると考えていました。しかし、イエス様はどうでしたか。
45節をご一緒に読んでみましょう。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
イエス様はご自分が「来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるため」であると言われました。それはイエス様の人生の方向であり、目的です。人に仕えることがイエス様の望みでした。この世のほとんどの人々は成功し、出世して人々から認められ、仕えられることを望みます。奉仕活動や慈善事業のために励んでいる人々もそういう活動の後にはそれにふさわしい評価と賞賛、栄誉を受けることを望みます。しかし、イエス様は「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためである」とおっしゃいました。そして、イエス様は本当に多くの人々に仕えました。特にこの世の人々からは無視され、捨てられているような人々に仕えました。当時、売国奴と呼ばれる収税人レビ、だれも付き合ってくれなかったサマリヤの女に仕えてくださいました。さまざまな病を患っている人々に仕えてくださいました。12弟子たちとは侵食をともにしながら彼らに仕えてくださいました。先生としてご自分の立場を考えながら仕えたのではありません。しもべとして、奴隷として弟子たちに仕えました。ヨハネの福音書13章4,5節を見ると「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」とあります。赤ちゃんの足はかわいくて洗うことも楽しいものです。しかし、大人の足を洗うことはやさしくありません。しかも十二人の足を洗うことは労働です。ところが、イエス様は弟子たちのしもべになって弟子たちの24本の足、120本の足指を洗ってくださいました。もともと、イエス様は仕えられるのにふさわしいお方です。仕えられることが当然な方なのです。ところが、イエス様はかえって仕える人生を過ごされたのです。ついにご自分のいのちを贖いの代価としてご自分のいのちをお与えになりました。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死んでくださったのです(ローマ8:7,8a)。それで、使徒パウロは言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 (ピリピ2:6?8)」
 イエス様がこのようにご自分のいのちをお与えになるまでに私たちに仕えてくださいました。イエス様がご自分のいのちを与えるまでに私たちに仕えてくださったからこそ、私たちは救いの恵みをいただき、新しい命を得ました。仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたイエス様の謙遜と犠牲を心から感謝します。イエス様の仕えと犠牲によって私のような者も罪と死、さまざまな病と運命主義から救われて永遠のいのちを持つようになりました。イエス様の仕えによって暗くて荒野のようなこの世でもいのちのみわざが起こっています。イエス様の仕えによってこの地にも美しい信仰と愛、望みの花が咲かれるようになりました。イエス様はご自分のいのちをお与えになったほどに私たちに仕えてくださるイエス様の愛を心から賛美します。
そして、私たちもご自分のいのちをお与えになるほどに私たちに仕えてくださるイエス様に見習う生活ができるように祈ります。

結論的に、イエス様は仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られました。そして、ご自分のいのちをお与えになったほどに最後の最後まで仕えてくださいました。どうか、私たちもイエス様のように仕える生活、人々のために時間とエネルギーをささげて具体的に仕える生活ができるように祈ります。