2005年マルコの福音書第22講

生きている者の神様

御言葉:マルコの福音書12:18-34
要 節:マルコの福音書12:27「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

 先週、私たちはぶどう園のたとえを通してひとり子をお与えになったほどに私たちを愛してくださる神様の愛を学びました。イエス様はこのたとえを通して祭司長や長老たちが神様から遣わされた神のひとり子イエス・キリストを殺そうとしての罪の大きさを悟って悔い改め、神様の愛を受け入れることを願われました。しかし、彼らはイエス様が自分たちを指して語られたことに気づくと、悔い改めるどころか、ますますイエス様に対する殺意の炎を燃やしました。普段は犬猿の仲だったパリサイ人とヘロデ党の人をイエス様に遣わしてイエス様を攻撃しました。彼らは国民にとって敏感な納税の問題を通してイエス様をわなにかけるつもりでありました。しかし、イエス様は彼らに「カイザルのものはカイザルに返しなさい、そして神のものは神に返しなさい」と言われました。このことばは、彼らのわなに陥らない巧みな回答であり、問題の本質に対する答えでもありました。結局、彼らは知恵に満ちたイエス様の答えに何も言えなくなりました。しかし、彼らはあきらめませんでした。
今日の御言葉を見ると、今度はサドカイ人たちがイエス様の所に来ました。彼らは聖書と論理とによってイエス様の教え、特に復活の誤りを指摘しようとしました。そこで、イエス様は彼らの誤りを指摘し、復活について積極的に教えてくださいます。また、ある律法学者の質問に答えて律法の中にある愛を気づかせてくださいます。ここで、私たちは生きている者の神様について学ぶことができます。また、神様への愛と隣人愛を学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して、聖書の神様は生きている者の神であることを学んで生きた信仰を持って神様を愛し、隣人を愛する者となりますように祈ります。

?.生きている者の神(18?27)
  18節をご覧ください。「また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。」とあります。サドカイ人は当時のユダヤ人社会の知識階級と上流階級を形成していました。彼らは肉体の復活、未来の審判や報い、天使の実在などを認めませんでした(使徒23:8)。合理主義者の考え方を持っていて地上での楽しみ、幸せを求める生活をしていました。そして、彼らは旧約聖書の中でもモーセ5書だけ(創世記から申命記まで)を大切にし、復活や霊的実在を信じませんでした。そんな彼らがイエス様のところに来て質問しました。
 19?23節をご覧ください。サトガイ人たちは、自分たちが大切にしているモーセ五書の申命記を根拠にして復活の考えがいかにばかげているかを示そうとしました。それによって復活の世界より現実生活を重要視して自分たちの立場を合理化し、イエス様を非難しようとしたのです。申命記25:5-10によると、『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』ことになっています。その前にも、創世記38:8によると、ユダが弟息子を兄嫁のところにはいらせる場面があります。このような律法からユダヤ人は家系を絶やさないために、近親の順に未亡人と結婚して、そこに生まれた最初の男の子を跡継ぎにしていました。ところが、サドカイ人たちによると、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、「その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」ということが彼らの質問です。
ところが、こんな事が実際にありうるでしょうか。昔は子どもを多く生んでいたから七人兄弟はありうることです。でも、生まれた順番に次々と死ぬということはなかなか考えられないことです。しかも、七人が順番によって一人の女性と結婚し、子どもが生まれる前に死んだということは納得できません。特に彼らの質問は、子どもを得られない女性の苦しみも、死によって夫を次々と奪われていく悲しみも考えていない冷たいものです。永遠のいのちの世界を信じようとしない人、霊的に死んでいる人が作り出した作り話に過ぎないとしか考えられません。しかし、イエス様は彼らに嘘つきだと言われませんでした。彼らの質問を無視してしまうのではなく、彼らの質問に答える機会を生かそうとされました。この機会に彼らの思い違いを正し、復活について教えようとなさいました。では、彼らが聖書を読んでいながらも復活に関して思い違いをしている理由は何でしょうか。
 24節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」ここで、イエス様は彼らが復活を信じないで思い違いをしている理由について二つのことを取り上げておられます。
 一つ目は彼らが聖書を知らなかったからです。神様に御言葉に対する無知です。サドカイ人たちはモーセ五書を学び、とても大切にしていました。しかし、その他の聖書は認めませんでした。そうしながら彼らはモーセ五書には復活に関して言及されていないと主張しました。最も大切な聖書であるモーセ五書にもないのに、どうやって信じられるかということです。では、それに対するイエス様のお答えは何ですか。
26、27節をご一緒に読んでみましょう。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
 イエス様は彼らがよく知っているはずのモーセの書に啓示された神様を教えてくださいました。神様は『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と言われました。「ヤコブの神であった」と言われたのではなく、「・・・である」と現在形で言われたのです。もし、死で終わったならどうやって『アブラハムの神である』と言えるでしょうか。復活を前提にしなければ、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』ということは言えません。ですから、この御言葉の中でも復活が前提されているのです。事実、私たちの信仰の先祖、アブラハムは復活信仰を持って生きていたし、復活されて神の御国にいるのです。聖書を調べてみると、アブラハムには復活信仰がありました。神様はアブラハムを召してから25年が経ったとき、アブラハムが100歳になった時に子どもを約束されました。人間的に見ると、全く不可能な時です。それで、アブラハムの妻サラは笑いました。創世記18:12節を見ると「それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」」とあります。しかし、主は言われました。「主に不可能なことがあろうか。」その時、すでにサラの胎は死んでいました。子どもを生む能力において肉体的に死んでいたのです。しかし、神様から言われると、アブラハムは神様の御言葉を信じました。驚くべき場面です。ローマ4:17?21節を開いてみてください。「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」アブラハムは「自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」まさに、これこそ復活信仰です。そして、このアブラハムの信仰が今日私たちの復活信仰の根拠になりました。続けてローマ4章24節をご覧ください。「また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。」パウロは、ここでアブラハムの復活信仰がまさに私たちの復活信仰の根拠になった事実を明らかにしています。アブラハムの復活信仰は、ここだけではありません。神様はアブラハムが奇跡的に得られた息子を全焼のいけにえとしてささげるように命じられました。神様は彼の信仰を試すためでしたが、アブラハムにとっては理解しがたいことです。アブラハムはジレンマに陥るしかなかったでしょう。しかし、彼は子どもを祭壇の上に載せました。どうやってそれができたでしょうか。ヘブル11:18,19節を読んでみましょう。「神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」とあります。アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、という復活信仰があったのです。それなのに、サドカイ人たちはモーセ5書を大切にしていると言いながらも聖書をよく知らなかったのです。
二つ目は神様の力も知らなかったから思い違いをしていました。サドカイ人の中には祭司たちも多くいたし、金持ちも多くいました。彼らはきれいな着物を着て宗教儀式を行なっていました。彼らは教会に通い、奉仕活動もしていたのです。しかし、彼らには復活信仰がありませんでした。本当に彼らが神様を信じているなら神様の御力も信じなければならなかったはずです。神様の力とは何でしょうか。創世記1章1節は言います。「初めに、神が天と地を創造した。」この御言葉を信じるでしょうか。もし、この創世記1章1節を信じる人なら復活も信じることができるでしょう。無から有を創造された神様にとって死んだ人を生き返らせることができないはずがありません。天と地を創造されたのですから、何でもおできになるのです。聖書の神様は全能の神様です。ところが、サドカイ人たちは、神の力も知らなかったのです。神様の御力をよく知らなかった時、彼らは思い違いをしました。
では復活とは何でしょうか。私たちがよみがえると、どのような体に変わるでしょうか。
25節をご一緒に読んでみましょう。「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」地上において最も親密な関わりは結婚でありましょう。本当に聖書的な結婚はすばらしいものです。幸せのシンボルになっています。ところが、人が死人の中からよみがえる時には、めとることも、とつぐこともありません。それで、ある人はこの御言葉を読んで結婚もできないから天国に行きたくないといいます。恋することも、愛することも、結婚することもない、そういうロマンスがない所ならつまらないというのです。美しい女性もなく、男性もない所なら面白くないんじゃないかということです。しかし、心配はいりません。地上の幸せ、楽しみ、その祝福は天における祝福と比べたらちっぽけなものにすぎません。結婚しなくても、復活のからだのほうがはるかにすばらしいのです。その時、私たちは天の御使いのようになります。人間の特性を持ちながら御使いのように永遠性を持つようになります。神様がこの地上の人々に結婚制度を許された理由の一つは、子孫を残すためです。ところが、私たちが御使いのようになると、永遠に死にません。死なないのです。ですから、結婚する必要がなくなるでしょう。
そして、復活のからだは人格性を持っています。ある人は今の妻が天国でも自分を分かってくるかなあと言いますが、心配はいりません。ちゃんと分かってくれます。それはよみがえられたイエス様が弟子たちの所に訪ねられた時のことを思い出せば理解できるでしょう。イエス様は弟子たちのことを分かっていて彼らと交わりができました。私たちがよみがえられた時も、人格を持って交わりができるのです。しかも、その時は完成された人格を持って愛の交わりをするようになります。この地上では不完全人格、未完成の人格を持っています。罪のために私たちの人格も、周りの環境も汚染されています。ですから、恋すること、愛すること、ロマンスがあって幸せを感じる時もありますが、傷つけられる時も多くあります。幸せのために結婚しても互いに傷つける時がどんなに多くあることでしょうか。泣いたり泣かせたりするし、分かれる人々も多くいます。しかし、私たちがよみがえると、そこには完全な愛があります。汚れてない崇高な愛で愛し合うことができます。この世では味わうことのできない愛の世界、私たち人間の論理と体験によって決して理解できないすばらしい世界なのです。そこで、私たちが完全な神様の臨在と愛を経験し、人々との間でも完全な愛を経験しながら永遠に生きるようになります。
 復活を信じる者は永遠に生きているのです。ですから、イエス様は「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」と言われました。私たちの神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神なのです。ですから、私たちは今も未来も嬉しく、幸せに生きることができます。たとえ、今は、貧しくとも、将来に希望を持って生きることができます。過去も、現在も、そして未来も導いてくださる神様を信じているからです。
サドカイ人は神様を信じているようでした。宗教活動もしていました。しかし、実は死んでいました。生活が困らないから切実に祈ることもなく、不可能なことに挑戦することもありませんでした。現実の生活に満足し、マンネリ化された信仰生活をしていました。退屈な信仰生活をしていました。イエス様がご覧になると、彼らは死んだ者たちでした。では生きている者とはどんな人のことでしょうか。復活信仰を持って生きている人です。アブラハムのように信仰によって生きている人です。神様が「不可能なことがあろうか」と言われると、不信仰を悔い改めて天と地を創造された神様の力を信じる人が生きている人です。「信じる者にはどんなことでもできる」と信じて信仰によって生きている人こそ生きている人です。その人はアブラハムのようにとりなしの祈りもするでしょう。神様は生きている人らしく生きている人の神になることを喜ばれます。いつも眠そうな顔をして生きるのではなく、生き生きとした信仰と祈りによって生きる人の神になることを喜ばれるのです。
天国は、生ける神様が、愛と力をもって支配なさる所です。この天国は、やがて行く所であると共に、キリストを信じて罪が赦され、聖霊なる神様を心にお迎えした人の心にも天国が生まれます。アブラハムのように、イサクのように、ヤコブのように、苦難の中でも試練の中でも信仰が弱まることなく、ますます強い信仰を持って生きる人に天国が臨まれるのです。ですから、その人は天国の喜びと平安の中で生きることができます。その人の信仰は生き生きとなります。聖書の神様、私たちの神様はそのように生き生きと生きている者の神様です。そして、現在生きている者に確かに今も、働いておられます。まさに生きて働いておられる神様です。この神様を信じましょう。私たちの神様は歴史上の、力のない神ではありません。今、私たちを助けてくださる神様です。永遠に私たちとともにいてくださる神様です。

?.神様を愛し、隣人を愛しなさい(28?34)
 28節をご覧ください。「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」とあります。律法学者がひとり来て、サドカイ人たちとの議論を聞いていましたが、彼はイエス様の見事の答えに感動したようです。この律法学者は、パリサイ人やサドカイ人のようなユダヤ教の宗派ではありません。学問的な専門家の集まりです。
本文の律法学者は、学者らしく、他の宗教指導者と違って、本当に答えを知りたくてイエス様のところに来たようです。というのは、律法学者の間で、一番たいせつな律法が何であるかが議論されていたからです。モーセの律法の条項は613ありますが、それがどれも有効ではあるけれども、どれが最重要事項であるか、話し合っていました。そのようなこと細かい神学論争の中で、この律法学者は真理がわからずに思い悩んでいたのでしょう。このように、律法学者は、サドカイ人と対照的に、聖書の文字の一字一句を大事にしました。では彼に質問に対するイエス様のお答えは何ですか。
 29節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。』」 これは、申命記6章にありますが、シェマ(ヘブル語で『聞け』という意味)と言われるおきての一部です。熱心なユダヤ人は、これを一日に2度唱えました。イエス様は、まず「われらの神である主は、唯一の主である」と宣布しておられます。
日本は「八百八万(やおよろず)の神々」といって、実に無数の神々がいるかのように考えられ、また拝まれています。そしてそれぞれが自分のご利益を宣伝して、信者をかき集めています。そして「こっちの水が甘いぞ」という具合に、それぞれの神々が互いに出し抜き合って、信者を獲得しようと必死です。しかしそれではたして真理や真実、正義は成り立つでしょうか。神様が本当におられ、この世に真理や正義が成り立つには、まことの神はただお一人のはずだし、唯一の神でなければなりません。「われらの神である主は、唯一の主」です。ではこの唯一の主である神様が私たちに願っておられることは何ですか。
30節をご一緒に読んでみましょう。「心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」イエス様はこの御言葉を通してすべての戒めの中で最も重要なのは、まさに神様を愛することであると教えてくださいました。しかも、心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして私たちの神である主を愛することです。
31節をご一緒に読んでみましょう。「次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この2つより大事な命令は、ほかにありません。」
 2つ目のおきての命令は、隣人を愛することです。神様は私たちが隣人を自分自身のように愛することを願っています。私たちは隣人と交わる時間が少なくなっている時代、隣人に対する関心がない時代に生きています。それで、自分も知らずに、私たちは付き合いが苦手な人になっているかも知れません。しかし、イエス様は私たちに付き合いが苦手だから隣人を愛することをあきらめていいと言われません。自分自身のように愛することを願っておられます。特に今こそ、イエス様の教えが必要な時代です。どうか、言葉や口先だけではなく、真実と行いによって隣人を愛する生活ができるように祈ります。具体的に、教会に来られる方たちを歓迎することから、やさしく話をかけることから隣人を愛する愛を実践していきましょう。
この二つのおきての命令はどちらも「愛せよ。」でした。愛することは感情的なことではありません。テレビや映画を通して私たちは愛について誤解している場合が多くあります。感情的なもの、性的なものように考えるのです。もちろん、愛には感情が含まれますが、それより深い次元のことです。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛するためには意図的に努力が必要です。確かな野党よりも確かな決断が必要です。「愛せよ」と命じられています。私たちが神様を愛することは神様が命じられた「おきて」です。私たちが今週一週間でも愛することを考えて実践します。妻を愛して皿洗いをするとか、兄弟姉妹を愛してアイスクリームをおごるとか、小さなことから実践しましょう。日本人が「おきて」から想像することは、自己鍛練です。「嫉妬をなくす。」とか、「心の安らぎ」とかというものが、日本の宗教の主流です。自己向上、自分の幸せが究極的な目的になっています。しかし、聖書のおきての中心は、神様を愛すること、人を愛することです。私たちが結婚において深い関係を結び、愛するように、神様を個人的に深く知り、神様と交わり、愛するのが究極的な人生の目的です。また、イエス様は、「主が唯一」であることも指摘されましたが、真の愛は、ひとりとひとりの人格の関わりから生まれます。夫婦の片方が不倫をしたら、その関係が崩れるように、人が他の神々を求めたら、たちまち主との関係はくずれてしまいます。
 32、33節をご覧ください。「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなたがた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」」とあります。彼は、基本的にイエス様の言われたことをくり返しました。けれども、イエス様は、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」 とほめておられます。最も賢い答え、神の国にはいることのできるような答えは、イエス様のみことばを、そのまま受け入れることだからです。自分で納得できるように、少し変えてみたり、付け足したり、差し引いたりすることなく、そっくりそのまま受け入れるのです。そして、御言葉に従って第一に神様を愛し、次に隣人を愛する生活に励むなら、その人のうちに神の国が臨まれます。その人は、神様の愛と力の支配の中で喜びと感謝に満ちた生活ができるし、やがて天の御国で永遠に生きるようになります。

 結論的に神様は生きている者の神様です。私たちの信仰生活が復活信仰によっていつも生き生きとした生活でありますように祈ります。信仰によって生きておられる神様と交わり、神様を愛し、隣人を愛する生活ができるように祈ります。