2005年マルコの福音書第24講

契約の血

御言葉:マルコの福音書14:1?31
要 節:マルコの福音書14:24
「イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」」

私たちは終末に生きていると言われています。イエス様が言われたとおりに終末の前兆が現われているからです。偽キリストが現われ、紛争、地震、ききんが起こりつつあります。特に、日本に住んでいる私たちは震がますます頻繁に起こっていることを感じています。聖書によると、やがて目に見えるすべてのものが滅ぼされる日が来ます。その時、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。その日は、キリストの福音を恥かしく思い、信じなかった人々にとってさばきの日です。しかし、キリストを信じて迫害を耐え忍び、目を覚ましている人々にとっては救いの日となります。ですから、主は、今、「眠っていないで目を覚ましていなさい」と命じておられます。どうか、天から下ってこられる主をいつも待ち望み、目を覚まして主に仕えて行くことができるように祈ります。
やがて、イエス様は天から下ってこられますが、その前に、全人類の罪を贖うために過越しの子羊として十字架にかかって御血を流し、死なれました。ところが、イエス様の死を前もって備えてくれたひとりの女性がいました。とても美しい信仰の持ち主です。イエス様は彼女の信仰の行為を賞賛し、祝福してくださいました。それから、イエス様は都にはいり、弟子たちと一緒に過越しの食事をなさいました。そこで、イエス様はご自分が流される血は「契約の血」であることを教えてくださいました。どうか、私たちが、聖霊の助けによって契約の血について深く学び、日々キリストの血の力を体験する生活ができるように祈ります。

?。ひとりの女の人の香油注ぎ(1-11)
 1、2節をご覧ください。過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていました。過越の祭りは、ユダヤ人にとって年に一度のいくつかある祭りのうち最も大きなものです。出エジプト記を見ると、イスラエル人たちはエジプトで過酷な奴隷の苦役を強いられていました。四百年間も奴隷にされ、虐待されていました。その時、神様は、モーセという人をエジプトの王パロに遣わし、イスラエル人をエジプトから救い出して神様に仕えることができるようにしようとされました。ところが、パロは心をかたくなにしてイスラエル人がエジプトから解放されることを許しませんでした。そこで、神様は、エジプトに何度も災いを下しました。最後には、人であれ家畜であれ、すべて初子が打ち殺される災いを下されました。しかし、その時、イスラエル人にはそれぞれの家で傷のない子羊一頭をほふって、それを食べ、羊の血は、その家の門柱とかもいにつけるようにされました。そして、イスラエル人は門柱とかもいにつけた羊の血によって災いから救われ、エジプトの奴隷の状態から解放されました。神様は、この歴史的な日を過ぎ越の祭りとして行ない、神様がイスラエルに行なわれたことを思い出しなさい、と命じられました。そして、これは、次に来る影であって、本体はキリストにあります(コロサイ2:17)。過越の祭りは、イエス・キリストが私たちのために行なってくださることを、指し示していたのです。神様がエジプトに災いを下されたように、罪のためにサタンの奴隷にされている私たちに神様のさばきが下されます。ヘブル人への手紙9:27を見ると「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。やがてイエス様が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られるときに、すべての人はさばきを受けることが定まっているのです。ところが、そんな人間を救うためにイエス様は傷のない過越の子羊として十字架にかかって殺されます。罪のないキリストが殺されて御血を流されます。そして、その血による贖いを信じる者は救われます。イエス様の流された血によってすべての罪が赦されて神様のさばきを受けなくてもよいようになるのです。したがって今度の過越の祭りには特別な意味がありました。ユダヤ人が羊の血によって神様のさばきからまぬがれ、エジプトから救われたこと以上に、意味あるものです。また、それ以上に記念すべきものになります。キリストはご自分の血によってすべての人間に下されるさばきが過ぎ越されるようにしてくださるからです。
ところが、祭司長、律法学者たちは歴史的な「過越の祭り」のことを考えませんでした。それよりどうしたらイエス様をだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいでありました。彼らはイエス様が十字架にかかって御血を流し、死なれる意味を知りませんでした。それは知らなくても、ユダヤ人にとって最大の祭りとして守られている過越の祭りの意味を民たちに教え、神様に感謝するべきでしたが、それもできませんでした。むしろ、彼らは殺意とねたみに満ちていました。彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していたのです。しかし、このような状況の中でもイエス・キリストの死を備える一人の女性がいました。ヨハネの福音書によると、その名はマリヤです(12:3)。
 3節をご覧ください。イエス様がベタニヤで、らい病人シモンの家で食事をしておられる時でした。ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエス様の頭に注ぎました。当時、このナルド油は、ヒマラヤ原産で、シルクロードを通って運ばれてきたものですから非常に高価なものになっていたそうです。弟子たちの何人かが「三百デナリ以上」と値を踏んだことからも、その高価さ分かります。三百デナリとは、今日の日本に当てはめると、平均労働者の一年分の給料になります。マリヤはそれを惜し気もなくイエス様の頭に注いだのです。間違いなく香油のはいった石膏のつぼが割れたときには、芳しい香りが家中を漂いたでしょう。その美しい信仰の香りは今の私たちにも伝わってくるような気がします。おそらく、マリヤはイエス様のたび重なる死の予告に、その機会をのがしては、ほかにこれを使う機会はないと直感したのでしょう。本当にセンスがある女性でした。彼女は高価なナルド油の値段とか、人々の評価を考えず、ただ純粋な心からイエス様に感謝を表わし、イエス様の死を備えたのです。ところが、人々の反応はどうでしたか。
4,5節をご覧ください。何人かの者が憤慨して互いに言いました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人達に施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めました。心のやさしいマルコはただ、「何人かの者」と言っていますが、雷の子と言われていたヨハネはイスカリオテ・ユダだとはっきりと記しています。たぶんイスカリオテ・ユダが先頭に立って責めると他の弟子達もそれに同意したでしょう。彼らはイエス様のことより、香油の価値だけを考えました。彼らはマリヤの真心や犠牲的な愛、イエス様に対する感謝の心より、目に見えるものに関心がありました。
時々、人々は目に見えない心よりも目に見えるものによって人を判断してしまいます。ものによって人の価値までも判断してしまう場合もあります。特に、ノンクリスチャンはクリスチャンがイエス・キリストによって受けている恵みを知らずに、真実なクリスチャンがキリストのために捧げる時間と献金について非難します。彼らはクリスチャンが高価なナルド香油よりも高価な恵みを受けていることを知りません。ものでは表すことのできない恵みを受けていることを知らずに、香油がなくなることだけを見て判断し、人をさばくのです。イエス様の弟子たちさえも、そういう考えを持っている場合があります。マリヤの純粋な心を理解しようともせずに、無くなる香油だけを見ます。何で馬鹿なことをするのかとマリヤのような人を責めます。しかし、イエス様は、マリヤのしたことをどのように思われましたか。
6節をご覧ください。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」イエス様は彼女がりっぱなことをしてくれたと誉められました。弟子達は彼女を責めましたがイエス様は彼女の真心と献身を喜んで受け取ってくださいました。イエス様は私達のすべての真心と献身を喜んで受け取ってくださる方です。パウロは言いました。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分達の労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(?コリント15:58)。ではこの女性のしたことをどのように受け取ってくださいましたか。
7節をご覧ください。「貧しい人達は、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」私達がイエス様に仕える機会はいつまであるのではありません。私は学生の時、まだ独身であったとき、先輩たちから、今が主に全幅的に主に仕えるために一番いい時期だと言われました。でも、私は就職して、結婚して安定的になれば、その時がもっといいじゃないかと思いました。しかし、今になって考えてみると、まだ学生であったとき、まだ、独身であったときが本当に良い機会だったと思います。もちろん、今もいいですけれども、その時がもっと全幅的に主に仕えることができたと思われるのです。私たちはまだ働ける時に、主に仕える機会が与えられている時、自分の持ち物を持って主と福音のために励みましょう。なぜなら、私たちに働きたくても働けない夜が来るからです。
 8節をご覧ください。「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに前もって油を塗ってくれたのです。」とあります。彼女は自分にできることをしました。イエス様は私たちに無理な要求をなさいません。できることをやることを願っておられます。小さなことでも自分のできることをやれば、神様はそれを喜んでくださいます。私たちは仕事や勉強をしながら主のみわざに仕えています。このように仕事や勉強をしながらキャンパスの学生達に福音を宣べ伝え、彼らと1:1聖書勉強をすることはやさしくないでしょう。私は仕事のために、メッセージの準備や主のみわざに励む時間が少なくなると、神様の御前に申し訳ないという気持ちになります。メッセージのことで皆さんにすまないと思う時もあります。でも、神様は私たちが自分にできることをするなら、それを認め、喜んでくださることを感謝します。また、イエス様はこの女性が埋葬の用意にと、わたしのからだに前もって油を塗ってくれたのですと言われました。つまり、前もって用意したこと、準備したことを賞賛されたのです。ここで、私たちは自分にできることをして前もって用意することの大切さを学ぶこともできます。
昨日、関東支部支部長たちの勉強会の中で歴代誌を学びましたが、ダビデは神殿建築のために死ぬまで準備しました。彼は余裕があって準備したのではなく、困難な中にも主の宮を建築するための材料、人を用意したのです。私たちはいつ起こるか知らない地震のために防災訓練を受けながら準備しますが、それだけではなく、年老いて働けなくなら時のために準備することも必要です。何よりも主が来られるその日を待ち望みながらその日にイエス様を喜んで迎えることのできる準備をしなければなりません。マリヤはイエス様の死後のことを前もって準備しましたが、私たちは自分の死後、イエス様の再臨を準備する時、主はそれを喜んでくださるでしょう。
9節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」このイエス様のことばは、今日事実となり、世界中でこの物語が語られています。
 香油を注いだ女とは対照的にイスカリオテのユダは、何をしていましたか。10,11節を見ると彼は、イエス様を売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行きました。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束しました。ユダはこの世の価値観から見ると、賢く金遣いをし、貧しい人に施しをする人として見られたかも知れませんが、結局自分の先生をも売ってしまう裏切り者になってしまいました。人類歴史の中で裏切り者の代名詞になりました。世の価値観から見ると、無駄遣いをし、ばかな行動をしたかのように見えたマリヤは今なお記念されている信仰の女性になりました。彼女の信仰の芳しい香りは2000年の歴史を超えて今なおこの教会にも漂っているようなものになりました。真に彼女は高価なナルド香油よりも高価な人生、本当に価値ある人生を生きるようになったのです。どうか、私たちも彼女のような信仰、ますます純粋な心を持って神様を愛し、隣人を愛する生活ができるように祈ります。

?。最後の晩餐(12-31)
 12-16節をご覧ください。種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子達はイエス様に言いました。「過越の食事をなさるのに、私達は、どこへ行って用意をしましょうか。」そこで、イエス様は、弟子のうちふたりを送って、こう言われました。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子達といっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」このように正確な位置を知らせなかったのはイスカリオテ・ユダのゆえです。イエス様は過越の食事を誰にも邪魔されず弟子達と一緒にすることを願われました(ルカ22:15)。それは彼らに過越の食事を通してご自身の十字架の死の意味を教えてくださるためでした。弟子達が出かけて行って、都にはいると、まさしくイエス様の言われたとおりでした。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をしました。そこで、イエス様は12弟子と一緒に過越の食事をしながら、衝撃的な事を言われました。
18?20節をご覧ください。イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」と言われました。最も親しい弟子であった十二人のうちの一人によって裏切られると言われたのです。それを聞いた弟子達は悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエス様に言い出しました。「かわるがわるイエスに言いだした」とあることからユダも「まさか私ではないでしょう。」と言ったようです。このことは彼が建前と本音が違う生活をしていたことが分かります。最後まで本音を隠していました。そこで、イエス様は十二人の中のひとりで、イエス様といっしょに、同じ鉢にパンを浸している者だと言われました。イエス様はますます具体的に話してユダが悔い改めるように助けておられます。イエス様は最後の最後まで彼に悔い改めるチャンスを与えたのです。しかし、彼はかわいそうにも悔い改めませんでした。そこで、イエス様は彼に警告の御言葉を言われました。
21節をご一緒に読んでみましょう。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」人は耐え難い母親の陣痛を通して生まれます。なのに、生まれなかったほうがよかったと言われるとどんなに悲しいことでしょうか。しかし、母親が「あの陣痛は二度と経験したくなかった、けれどもあなたが生まれた良かった。本当に良かった」言われるなら、自分の母親だけではなく、「あの人がこの日本で生まれて良かった。」と言われるなら、なんと素晴らしいことでしょう。確かに、この世にはそういう人たちがいます。イエス様に非常に高価なナルド油を注いだ女性のように美しい人生を生きているのです。一方では「あの人は生まれなかったほうがよかったのです」と言われそうな人生を生きている人もいます。皆さんはどちらを選ぶでしょうか。「生まれたほうが良かった。生まれてきて本当に良かった。」と思う人生、周りからも「あなたが生まれて良かった。あなたと一緒になって良かった。」と言われる人生を生きることができるように祈ります。
残念ながらユダは「そういう人は生まれなかったほうがよかった」と言われる人生になってしまいました。イエス様は彼をあわれんでくださり、最後まで悔い改める機会を与えてくださいました。でも、イスカリオテ・ユダはイエス様の警告にも関らず最後まで悔い改めませんでした。ヨハネの福音書によると、彼はイエス様からパン切れを受けるとすぐ、外に出て行きました(ヨハネ13:30)。では彼が出て行ってからイエス様は弟子たちに何を教えてくださいましたか。
22節をご覧ください。「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」とあります。イエス様はパンをご自分のからだと言われました。それはイエス様が私達の罪のために十字架につけられ、体が裂かれることを言ってくれます。イエス様は、また杯に対しては何と言われましたか。
23,24節をご一緒に読んで見ましょう。「また、杯を取り、感謝を捧げて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」すでに、イエス様が「わたしのからだ」と言われました。そのからだの中に、骨も、肉も、血も含まれているはずです。からだと言う時に血も含めた全身を意味するのです。なのに、ここでまた「血」だけを取り出されたのは何か意味があるのでないでしょうか。確かに意味があるし、それは旧約聖書とつながっていると思います。それは過越の祭りとつながっているのです。14章を読んでみると、著者のマルコは何でも過越の祭りと関連させています。1節を見ると「過越の祭りが二日後に迫っていた」ことを記しました。また、12節を見ると、「過越の小羊をほふる日に」過越の食事を用意させたことを記しています。そして、過越の食事の時に「契約の血」に関して言われたことを記しています。つまり、イエス様は過越の食事をしながら、自分たちが小羊の血によってエジプトに下ってきた災いから、恐ろしいさばきから救われ、エジプトの奴隷から解放されたことを覚えて記念していることのように、これからご自分が流される血の意味を知り、それを覚えることを望んでおられたのです。
過越の食事は、先ほども話した過越の祭りの時に行ないますが、イスラエルの先祖がエジプトの奴隷状態から救い出されたことを記念する食事です。また、この食事は神様によって命じられた食事でした。この最後の晩餐で、イエス様はパンとぶどう酒を弟子たちに与えました。そして、イエス様は裂かれたパンを食べ、杯のぶどう酒を飲むことに意味を与えられたのです。
日本では死んだ人を覚える形見(思い出の品)というものがあります。故人が大切にした物で、それを遺族で分けることがあります。形見分けといいます。形見を目の前にすると死んだ人が甦ってきます。形見である宝石を身につければ、故人と一体感を感じることもあります。「この宝石は、私なのよ」という故人の言葉が聞こえてくるように思えます。
しかし、パンとぶどう酒は、形見ではありません。ものを見て思い出を思い出すようなものではないのです。ここで、大切なのは、イエス様のからだであるパンを食べること、イエス様の血であるぶどう酒を飲むこと、つまり、その行動が大切なのです。言い換えると、イエス様を味わう、経験することです。キリストの血による贖い、罪の赦しを信じて赦された者の喜びを経験することです。罪を悔い改める者に与えられるキリストの血の力を経験することです。ヘブル人への手紙9:13,14は言います。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私達の良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」むかし、やぎと雄牛の血も力がありました。出エジプト29:36節を見ると「毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。」とあります。毎日、注がれる動物の血によって贖われていたのです。ましてキリストが傷のないご自身をとこしえの御霊によって神様におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめてくれるでしょうか。キリストの血によって私たちは罪と快楽の死んだ行いから離れて生ける神様に仕える神様の子ども、聖なる国民として生きることができます。どうか、キリストの血の力を信じましょう。悔い改める生活を通して血の力を体験しましょう。イエス様の血は十字架の強盗を新しく生まれさせる力がありました。サマリヤの女を新しく変える力がありました。取税人レビを聖マタイに変える力がありました。誰でもキリスト・イエスの血の力によって新しく造られた者になります。それで聖歌425番は次のように歌っています。「力ある主イエスの血、受けよ、受けよ、力ある主イエスの血、受けよ今受けよ。」
24節をもう一度ご覧ください。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」とあります。イエス様は愛する弟子たちのためだけではなく多くの人のために血を流されました。イエス様は霊的に渇いていた私のために十字架の上で御血を流されました。だれのためにキリストは御血を流されましたか・・・。私たちのためです。私のためです。イエス様は私を永遠のさばきから救うために、サタンの奴隷の状態から救うために御血を流されたのです。この血を飲む者は死んだ良心がきめられてきよく正しく主に仕える人生になります。
25節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とあります。先週、私たちはイエス様が再び来られることを学びました。その時に神の国が建設されます。私たちは新しい天と新しい地を見るようになります。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もありません。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界です。イエス・キリストの血によって契約が結ばれているクリスチャンはその神の国で永遠に生きるようになります。そこでは罪を犯すことも、罪を贖う必要もありません。ですから、イエス様は「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われました。
26節をご覧ください。イエス様と弟子たちは食事ののち、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行きました。目指すところは「ゲツセマネ」です。ゲツセマネでの出来事は来週学びたいと思います。
 
結論的に、私たちは高価なナルド香油を主に注いでイエス・キリストの死を前もって用意したひとりの女の人の信仰と献身を学びました。また、彼女が前もって用意したイエス・キリストの死の意味について学びました。イエス様は私たちを愛してくださり私たちの罪を贖うための過越の小羊になってくださいました。十字架につけられて貴い御血を流してくださいました。どうか、私たちが日々この御血の恵みを覚えて感謝し、香油を注いだマリヤのように主のために自分のできることをして主に喜ばれる人生を生きるように祈ります。私たちの救いのためにご自分のいのちをささげ、御血を流してくださった私たちの救い主イエス・キリストの御名を賛美し、感謝します。