2005年クリスマス特集第4講

トマスの神様

御言葉:ヨハネの福音書20:24-31    
要 節:ヨハネの福音書20:28、29「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」

今年、私たちはクリスマスを迎えながらイエス・キリストに出会った人々のシリーズを学んできました。イエス様の最初の弟子たちはイエス様を見て信じました。中風の人も、マタイもイエス様を見ました。でもイザヤは見ずに信じました。実は、見て信じた人よりも見ずに信じた人がはるかに多くいます。どっちにしても彼らはイエス様を信じることによってほんとうに幸せな人生を生きるようになりました。今日はトマスの神様を学びますが、イエス様はトマスに出会ってくださいました。イエス様は疑い深いトマスに出会い、彼に「信仰」というものをプレゼントしました。彼に信仰を植えつけてくださったのです。クリスマスを迎える私たちに一番素晴らしいプレゼントは何でしょうか。それは言うまでもなく、信仰です。どうか、トマスに会ってくださった復活の主、聖霊が私たちに出会い、私たちにも信仰を植えつけてくださるように祈ります。そうして、見ずに信じる者として復活の主に『私の主。私の神。』と信仰告白し、幸いな者として祝福されるように祈ります。

24節をごらんください。「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時に、彼らと一緒にいなかった。」とあります。19、20章の前半部を見ると、イエス様は過越の小羊として十字架につけられて死なれました。神の小羊として人類の罪をその身に負われ、私たちの罪を御自分の罪とされたのです。そして、十字架刑を受けられた場所となった丘の近くの園にまだ使われたことのない新しい墓に葬られました。死が死で終わらず、死は眠りに過ぎないと言われたイエス様が十字架上で死なれ、葬られたのです。すると、弟子たちは恐れと失望の中でおじ惑いました。イエス様を捕縛した手が今度は自分たちに向けられるのではないか、と息を殺していました。しかし、十字架上で「完了した」と宣言されたイエス様は、三日目に死人の中からよみがえられました。よみがえられた復活の主はマグダラのマリヤに現れ、十二弟子に現れました。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を閉め、身を隠していましたが、その彼らの真中に、「平安があなたがたにあるように」と言ってイエス様が御自分を現されたのです。ところが、十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエス様が来られた時に、彼らと一緒にいませんでした。なぜ、一緒にいなかったか、その理由は分かりませんが、疑い深いトマスは十人の弟子たちを信頼していなかったようです。皆がこの場所が安全だと言っても、素直に信じず、彼らとは別行動をとっていました。同じグループの中でもいつも別行動をとってしまうような人と仲良く過ごすことはなかなか難しいことです。おそらく、十人の弟子は別行動を取ってしまうトマスが理解できなかったでしょう。「あいつはしようがない。いつも自分勝手だ。」と思ったかも知れません。でも、復活の主に出会った十人の弟子は変わりました。それで、彼らはトマスに「私たちは主を見た。」と言いました。しかし、トマスは、イエス様の手に釘の跡を見、槍で刺されたわき腹の傷跡にさわらなければ決して信じないと首を振りました。最も信頼し合うべき仲間の証言なのにもかかわらず、彼は信じませんでした。それも仲間のうちの一人とかふたりとかの証言ではありません。十人全員の証言でした。トマスは3年間も一緒に生活してきた仲間の証言を信じられなかったのです。ほんとうにかわいそうな人です。信じられないと思われる人たちと一緒に過ごすことが辛かったでしょう。「私の周りには信用できる仲間がない、教会に来ても信頼できる人がいない」と思っている人はほんとうに哀れな人です。そういう人と付き合っている仲間たちもかわいそうです。自分だけの意見ではなく、仲間の全員が同じ意見を出してもそれを信じてくれない人と付き合うことも辛いでしょう。そういう人には二度と話したくありません。真実を言っても信じてくれない人と付き合うことは本当に苦しいことでしょう。そんな人は仲間と一緒にいなくてもいいと思うでしょう。実際にイエス様の弟子たちはトマスが別行動をしても許していました。しかし、復活の主に出会うと、その喜びをトマスに伝えなくてはならなくなりました。そこで、「私たちは主を見た」と告げたのに、トマスはそれを信じなかったのです。そんなトマスをイエス様はどのように助けてくださいますか。
26-27節を読んでみましょう。「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 おそらく、仲間の証言を信じられなかったトマスは、ますます苦しくなり、悲しみの中にいたでしょう。復活の主に出会った他の弟子たちは皆が喜んでいたのに、彼だけは悲しんでいたのです。これが不信仰によって支払わなければいけない代価です。イエス様のことを聞いて信じる人は喜びますが、信じない人は本当の喜びを味わうことができません。むしろ悲しくなるばかりです。イエス様はそんなトマスのために来てくださいました。彼に出会って彼らの信仰を助けるために彼のところに来てくださったのです。イエス様の弟子であってもイエス様に対する信仰を失ってしまうと、それこそ惨めなことになってしまうからです。
私たちは、イエス様の十字架の贖いと復活を信じているかぎり救いを失うことは決してありませんが、信じない者になるなら、すべての祝福を失ってしまいます。そして、死後には地獄に陥ってしまいます。ですから、あわれみ深いイエス様は再びトマスのところに来られて、彼の信仰を助けてくださいました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われたのです。
私たちの人生において最も大切なことは信じる者になることです。神様は私たち人間が信仰の人になることを切実に願っておられます。もちろん、何でも信じていいと言うことではありません。この世の中で最も哀れな人は信じてはいけないものを信じている人です。オーム真理教とか、統一教会、エホバの証人、詐欺師などを信じて不幸になった人々が数多くいます。また、嘘を真実として信じている人、偽装したものを本物のように信じている人も哀れな人です。何の価値のないものなのに、それが貴重なものであるかのように信じて生きている人も不幸な人です。先週、韓国では世界的な科学者としてノベール賞も期待されていた大学教授が嘘を言っていたことで国民的な失意に陥っています。ひとりの科学者に対する信頼と期待が大きかっただけに失望と後悔も大きいものになっています。
しかし、そういう人々よりもっともっと哀れな人々がいます。信じるべきものを信じない人たちです。信じるべきものは信じなければなりません。そうしなければ自分も苦しくなりますが、隣の人も苦しくなります。信頼できる夫なのに、信じることができず、疑い続ける妻は不幸な人です。素敵な妻がいるにもかかわらず、その妻を疑っている夫も、ほんとうに哀れな人です。それこそ悲劇なの中で悲劇です。互いに疑っている夫婦の子どもたちは何を学んで育つでしょうか。信仰の人と出会いは幸いをもたらしますが、不信仰の人、疑い深い人との出会いは不幸をもたらします。皆さん、考えてみてください。夫婦が互いに疑い、親子が互いに疑っている家庭に幸せがありうるでしょうか。それこそ地獄でしょう。
私たちが信じるべきものは信じなければならないのです。私たちは今この教会で礼拝をささげていますが、ここは安全だと信じているからでしょう。もし、この建物は姉歯氏が設計したもので信頼できないなら、ここに座っていられません。すべてのものが同様です。信じるべきものは信じなければなりません。信じるべきものを信じないところから不安と恐れが生じます。私たちに信仰がなければ正常的に生きることができません。ほんとうに信仰は大切です。何よりも、天地創造の神様に対する信仰は最も大切です。もし、私たちがすべての人々が神様を信じていて隣人同士も全く信頼できる社会で生きるなら、そこは天国になるでしょう。
神様は全人類が信仰の人になることを望んでおられます。神様はそのためにアブラハムを信仰の先祖として召されました。彼に信仰があったから召されたのではありません。もともとアブラハム偶像崇拝者でした。神様の召されを受けてからもなかなか信仰の人にならないで、不信仰に陥りました。ききんのために現実生活が難しくなるとエジプトに下って行き、自分の妻を妹だと偽ったこともありました。でも、神様は彼に希望の御言葉を与え、名前もアブラムからアブラハムに変えながら多くの国民の父としてくださる神様を信じ続けるように助けてくださいました。神様はアブラハムが弱くなった時も彼を信頼し続け、彼が信仰を守り通すように助けてくださったのです。それで、ローマ4章19?22節を見ると、「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」とあります。
神様はサラの信仰も助けてくださいました。創世記18章を読んでみると、面白いことが記されてあります。神様は御使いをアブラハムの家に遣わされましたが、そのひとりがアブラハムの妻に男の子が生まれることを教えてくれました。サラはそれを聞いていましたが心の中で笑いました。だれでも、九十歳のおばあさんに子どもができると言われたら笑うでしょう。サラは「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。」とあきらめていたのです。しかし、神様はあきらめませんでした。神様は「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている」と仰せられました。彼女に信仰を植え付けてくださったのです。すると、サラは、少し信仰ができたようですが、「私は笑いませんでした。」と言って打ち消しました。神様は「いや、確かにあなたは笑った。」と言われました。私だったら、「馬鹿なことを言うな、嘘をつくなよ」といいたいところですが、ただ、彼女が言ったことを認めさせ、信仰の人になるように助けられたのです。それで、サラの信仰の母になりました。何よりも、アブラハム夫婦が信仰の人として成長した時、あらゆる面で祝福されました。また、アブラハムの息子イサクも父の信仰によって信仰の人リベカと結婚し、祝福された人生を過ごすことができました。
神様は私たちが弱くてもあきらめることなく、信仰の人になるように助けてくださいます。「私たちに「できるものなら、というのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」と言われます。私たちは心の中で笑ってしまう時もありますが、それでも、神様は私たちを見捨てません。信仰を持つように、信じない者ならず、信じる者になるように助けてくださいます。ではどうやって私たちは神様の助けを受けることができるでしょうか。それは神様の御言葉を聞くことです。聖書に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるからです。私たちが神様の御言葉を聞いている限り、私たちの信仰は成長します。御言葉によって癒しも経験することができます。詩篇107:20節に「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」とあります。
そして、私たちは自分が信じる者になることだけではなく、神様に見習って人々を信頼してあげるべきです。特に親は子どもを信頼してあげなければなりません。親が子どもを信頼してあげなければ、子どもは不安になって落ち着かなくなるそうです。しかし、親に信頼されると、子どもは信頼されるだけの能力を発揮するそうです。アメリカで教育学者たちを通して子どもの教育のために一番大切なことを調べさせてみると二つの文章にまとまったそうです。「I still love you. I still trust you.」です。子どもにとって愛されていること、信頼し続けられていることこそ、大きな励ましと力になるのです。ですから、私たちは神様が私をあきらめないで愛し続け、信じ続けてくださっておられるように、私たちも子どもたちに対して愛し続け、信じ続けるべきです。
 CEOの代名詞と言われているJack Welchさんは自分に最高の能力を発揮させるリーダーシップがあるなら、それは母のおかげであると言っています。そして、母が自分に与えてくださった一番大きなプレゼントは「自信感」であると言っています。彼は口下手でしたが、店に行って「マグロ(Tu-tuna)Sandwich」注文したら、二つのマグロ(Two tuna)Sandwichを持ってきたりしたそうです。彼は困ってしまったのですが、それでもお母さんは彼に「それはあなたがとてもりっぱな人だからだよ。だれの口もあなたの賢い頭についていくことはできないだろう」と言ってくれたそうです。それで、彼は自分が口下手であることも知らずに少年時代を過ごしたそうです。それほど信仰ある母が彼を愛し、信頼し続けたこそ、彼は何事にも自信感を持ち、世界的なCEOになったのです。兄弟姉妹たちに対する牧者の信仰も同じことが言えるでしょう。牧者の愛と信仰が兄弟姉妹たちの能力を発揮させるのです。信仰が力です。もし、私たちがほんとうに敬虔に生きるなら、ますます信頼されているという信仰が強くなるでしょう。そして、その信仰のとおりに大きな力を発揮することができるようになります。また、私たち自身は弱くて、敬虔に生きることができなかったとしても、御言葉を聞くと、悔い改めることができて神様の哀れみを悟り、ただ、神様の哀れみに頼って信仰を持つようになります。そして、その信仰によってますます大きなことをすることができます。毎日聖書を読み、毎週礼拝をささげている人は信仰が成長して自分の力以上の能力を発揮することができます。
ですから、一番大きな祝福は信仰です。神様が信じられる、子どもを信頼することができる、妻も、夫も信じられるという人は幸せな人です。教会で牧者も、宣教師も、兄弟姉妹たちも信じられるという人も幸いな人です。信じられるということは大きな祝福です。一番大きな愛は信じてあげること。正しく子どもを教育することの大切さも信じてあげることなのです。
イエス様はトマスが疑い深い人であっても最後まであきらめませんでした。彼を愛し、彼を信頼してくださいました。彼は疑い深い人で同僚の弟子たちさえ信頼できなかった人間だったようです。何でも疑ってしまう人は助けることはほんとうに難しいでしょう。ところが、イエス様はそんなトマスを最後の最後まで信頼し、彼に出会って彼が信じる者になるように助けてくださったのです。すると、どうなりましたか。
28節を御一緒に読んで見ましょう。「トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」とあります。彼は主の御言葉を聞いた時、自分の不信仰を示されたようです。彼は自分の弱さを悔い改めつつ、主に対する信仰を告白したのです。「私の主、私の神」と告白しました。彼は自分のところに来てくださった主を見ました。主の手に釘の跡、体には槍の跡がありました。それはあの十字架の傷跡でした。それは、何のため、誰のためですか。トマスは、それは他でもない自分自身のためのものであることに気付いたでしょう。それは重い十字架を背負ってゴルゴタの丘を上られながら鞭に打たれた傷跡、十字架に付けられたとき、槍で刺されたあの傷跡でした。復活の主に出会った弟子たちの証言を聞いてもなお信じなかった、自分の頑なさと不信仰と弱さにもかかわらず、こうして自分に会いに来てくださった主の体に残された傷跡は、まさしくその自分の罪のためであったのです。自分の不信仰と弱さのために主は十字架にかかって死んでくださったことを、その傷跡を見ながらトマスは信じたのではないでしょうか。彼は「ゴルゴダの十字架は、私のためだった」と深く悟りました。主を信じようとはしない自分の弱さと不信仰、その罪のためにも、主は十字架にかかって死んでくださったのだということが分かったのです。だからここでトマスは、「『わたし』の主、『わたし』の神」と告白したのです。他のだれでもない、この自分のために主が十字架で死に、死を打ち破って復活してくださったのだ、それはすべて『わたし』のためだったことを信じたからこそ、「私の主、私の神」と告白したのです。そんな彼にイエス様は何と言われましたか。
29節も御一緒に読んでみましょう。「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」イエス様はイエス様を見てイエス様を信じたトマスに福音の真理、信仰の核心を教えてくださいました。それは「見ずに信じる者は幸いである」ということです。実に、見ずに信じる者は幸いです。私たちは、2000年前の弟子たちのことがうらやましいと思ってしまいがちです。直接にイエス様を見ることができたからです。でも当の弟子たちは、復活の主に出合うまでは、父なる神様がほどとおい存在でした。イエス様の弟子としての生活をしましたが、イエス様の死後、彼らは悲しみに満たされ、ユダヤ人を恐れていました。よみがえられた主に出会ってからやっと平安を持ち、目に見えない聖霊を受けてから力強いキリストの証人となりました。見えない聖霊によってほんとうに力ある人生、幸いな人生を始めるようになったのです。ですから、イエス様がよみがえられて、そして、目に見えないかたちで私たちにおられることは、実は幸せなことです。聖霊が私たちに与えられ、聖霊さまによって、父なる神様との親密な交わりがいつでも、どこでも許されていることはほんとうに大きな恵みです。どこにでもイエス様がいてくださいます。トマスはこのことを深く悟り信じたようです。聖書には何も記されていませんが伝承によればトマスは後にインドにまで行って伝道し、殉教したと伝えられています。トマスは、かつて「わたしたちも行って、(主と)一緒に死のうではないか」と言った言葉を実践したのではないかと思います。信じたいけれど信じられない、弱くて不信仰なトマスをも切り捨てられることなく、その弱さに合わせて信仰へと招いてくださった主の恵みを思うと、黙ってはいられなかったでしょう。何よりも自分の弱さと不信仰のためにも十字架にかかって死んでくださった主イエス様を、トマスは忘れることができなかったたでしょう。それで、彼は他の弟子たちよりはるかに遠いインドにまで行き、生涯を掛けて語り伝え続けていったのではないでしょうか。彼は自分の命を掛けて「わたしの主、わたしの神」である方を宣べ伝え、全世界の人々が信じる者になるように死に至るまで忠実に宣教師の使命を果たしたのではないかと思います。実はこの福音書を書いたヨハネも、すべての人がイエス様を信じる人になることを願っていました。イエス様こそ「道であり、真理であり、命である」方であるからです。イエス様は全世界の人々が信じるべきお方です。そこで、ヨハネは、この福音書を閉じるにあたり、最後にこう語りました。

結論的に30,31節をご覧ください。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子達の前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ここで、ヨハネはこの福音書を書いた目的を述べています。それは私たちがイエス様を信じて、イエス様の御名によって永遠のいのちを得るためです。ではイエス様を信じている人々にとっては意味がないでしょうか。今は信じているから大丈夫なのでしょう。そうではありません。 今、見ましたように、トマスはイエス様を信じて弟子になっていましたが、それでも信仰を失っていました。そして、イエス様はその彼に信仰を植え付けてくださいました。ですから、私たちは、クリスチャンになってもずっと、この信じるという過程を繰り返していかなければなりません。日々、御言葉を聞いてイエス様の御名によって父なる神に近づき、日々、どこにいても、イエス様の臨在を意識して歩むことを繰り返す必要があるのです。これがイエス様を神の子としてキリストとして信じることであり、そこに本当の幸いがあります。「見ずに信じる者は幸いです。」