2005年ガラテヤ1講

ほかの福音はない

御言葉:ガラテヤ1:1?24

要 節:ガラテヤ1:7「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

ガラテヤ人への手紙の鍵になる要節は2章16です。「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」この御言葉は、この手紙の中心テーマであり、本質的なメッセージです。使徒パウロはこの御言葉を中心として異端、異なる福音に対して戦いました。その福音に対する情熱と献身とは、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの心を打ちました。ルターはこの手紙によって心が燃やされ、推進力を得て16世紀ヨーロッパの宗教改革運動を推進することができたのです。それで『ガラテヤ人への手紙』は、宗教改革の行進曲とも言われています。
ルターにとってこの手紙は最愛の書物でした。ルターは「ガラテヤ人の手紙は私自身の手紙である。私はまるでこの手紙と結婚しているようです。これは私の愛する妻、カタリナである」と言っていたそうです。僕はあまり妻を愛していないという人もいるかも知れませんが、ルターは自分の妻をフランスと取り替えることができない、かけがえの存在として愛していました。また、彼が自分の妻カタリナがいるから世界の司祭の中で一番幸せな者だと言っていたそうです。というのはそれほどにガラテヤ人への手紙を愛し、愛読していたということです。私たちも読書の季節、この秋にガラテヤ人への手紙を愛し、愛読してパウロやルターのような信仰とスピリットを持つことができるように祈ります。
今日の御言葉はこの手紙の序論として発信者と受信者を明らかにしてから「パウロ自身の使徒職の正当性」を主張し、「ほかの福音はない。」と言うことを明らかにしています。特にパウロは自分が伝えた福音は、直接、イエス・キリストから受けたものであって、全く間違っていない絶対的なものであることを証しています。私たちは、今絶対的な価値観よりも、相対的な価値観がもっと認められている時代に生きています。特に、多神教の国である日本では唯一の神、唯一の福音に対する抵抗感があるような気がします。そういう宗教文化のためなのか、ほかの宗教に対しても、ほかの人に対して寛大さが見られます。言葉も人のことを配慮する言い方が発達しています。例えば、今日のメッセージのタイトルも普通なら「ほかの福音はないでしょう」とか「ほかの福音はないと思います。」というような言い方をするでしょう。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。ほかの福音はない。」と言うような話し方には抵抗感を感じるのです。それで、祈りや礼拝に対して「絶対にしなければなりません。絶対に守らなければなりません。」と言うことに対して言いすぎだと思うのです。
私はUBF教会に来て「絶対従順、絶対福音」という言葉をよく耳にしました。また、精鋭部隊、霊的士官学校、グリーンベレーなどの言葉を耳にしました。普通の教会とは違ってちょっと過激的な教会だなあと思いました。でも、当時私は弱くてだらしない人間だったのでUBFが気に入ったけれども、日本に来てUBFは日本キリスト教の特攻隊になるのだというと、兄弟姉妹たちからの反応は期待はずれでした。ある日、ある兄弟は私に言葉が強い、怖いよと言われました。それで、今は気をつけていますが、いつの間にか、自分の心に福音に対する情熱が弱くなっていることを感じます。本文の御言葉を読んでみると、パウロはとても強い、特攻隊以上に強い印象を与えてくれました。言い方も過激的であるほどです。純粋な心で福音真理を守ろうとする意欲がとても強く感じられます。どうか、本文の御言葉を通して私たちが自分のアイデンティティを発見し、絶対的な福音信仰を回復することができるように祈ります。ガラテヤ人への手紙が東京UBFへの手紙となり、パウロの信仰とスピリットも受けることができるように祈ります。

?.ほかの福音はありません(1?10)
1節をご覧ください。「使徒となったパウロ・・私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。・・」とあります。
パウロは手紙のはじめから礼を欠くほどの自己主張をしています。勢い込んで、自分が使徒であることを強調しています。使徒とは、単に遣わされた者ではありません。ある使命を帯びて遣わされた使者、大使の意味です。新約聖書では、神様の福音を宣教する使命を受けて派遣された者、「全権大使」の意味です。当時、キリストの使徒であることの条件はキリストと行動を共にした人であり、キリストの復活の証人であることでした。パウロは、明らかに、この条件を満たしてはいませんでした。彼はイエス様と侵食を共にしていた12弟子ではなかったからです。それ以上に、パウロは教会の迫害者でありました。そこで、ガラテヤ教会にひそかに入り込んだ異端の人々はパウロが偽物だと言っていました。ところが、もしパウロが偽者の使徒として知らされると、パウロが伝えた福音も偽物になってしまいます。パウロにとってそれこそ我慢できないことでありました。徹夜してでも手紙を書かざるを得なくなりました。そこでパウロは「私、パウロは、教会を迫害したサウロではない、パウロだ」、「私・パウロは、いい加減な人間ではない、使徒そのもの、全権大使なのだ」と言っているのです。なぜなら、パウロが使徒となったのは人からでなく、人によってではなく、イエス・キリストによって使徒となったからです。しかもキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神様によって使徒となったのです。実際に、彼はダマスコに行っている途中、よみがえられたイエス様に出会い、異邦人の使徒として選び分けられました。このように、彼はイエス様から直接に使徒として召されました(使徒9章)。これは使徒パウロにとってゆるぎない事実でした。パウロが使徒となった根拠と起源は「父なる神である」と言えるし、方法・手段を言うなら「イエス・キリスト」を通してです。ここに人間など介入していません。「私の場合、救いと召命は、直接、純粋に、神様ご自身から来ました。死んだ者の神ではなく、生きている者の神様です。イエス・キリストの神、イエス・キリストを死者の中から復活させられた神様です。」と言うふうにパウロは主張しています。だからと言ってパウロは教会を無視しているのではありません。パウロは諸教会に受け入れられ、諸教会と共にいました。あの「エルサレムの先輩の使徒」たちにもキッチリ承認されていました。
2節をご覧ください。「および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。」とあります。ここで、パウロとともにいるすべての兄弟たち」とはこの手紙を支持し、この手紙に同意する教会のメンバーたちです。パウロはひとりぼっちではありません。パウロのそばに多くの賛同者がいます。つまり、パウロは神様から直接召され、キリストの教会に承認され、キリストの教会とともにある者なのです。パウロは直接にイエス・キリストに出会い、御声を聞いたけれども、教会の一員としての立場を忘れませんでした。このあたりに、パウロの非凡さがうかがわれます。すぐれたバランス感覚です。
3節をご覧ください。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」とあります。パウロは恵みと平安を祝福しました。恵みとは神様の救いのみわざであり、平安とは救われた民たちの心の平安です。クリスチャンが受ける恵みの証拠は心の平安によって現われます。パウロはそれを体験し、ガラテヤ人たちも体験しているはずですがその祝福を保つためには、この福音を守らなければならないことを伝えています。パウロは教会の破壊的な迫害者、悪魔的な殺人者でした。ところが、今、「パウロス・アポストロス」と叫ばせるものになったのは、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださる、主の恵みと、恵みがもたらす平安意外の何ものでもありません。復活の神と、十字架のキリストから来る、恵みと平安がなければ、今の自分はない。あなたがたもない、それゆえに、この福音を守らなければならないということを伝えているのです。
4,5節をご覧ください。4節に「キリストは今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」と書いてあります。これは、神様の恵みの目的です。キリストは私たちを今の悪い世界から救い出すために十字架にかかられて御血を流されました。ここでの「悪の世界」とは堕落した罪人たちに満たされている世界です。サタンに支配されている今の世界、キリストに敵対している今の世界です。このような世界では人間が苦しまれるしかありません。「男はつらい」と言いますが、女もつらい世の中でしょう。人々の心に真の平安もいのちもありません。しかし、イエス様はイスラエル人をエジプトの奴隷状態から救い出されたように、私たちも救い出してくださいました。来世の永遠のいのちはもちろんのこと、現世においてもほんとうの平安といのちを享受するようにしてくださいました。罪が赦された者として祈りの力を体験し、神様との交わりができるようにしてくださいました。それはイエス・キリストが私たちの罪のためにご自分をお捨てになったことによって私たちに施された恵みです。これはほんとうに驚くべき恵みです。それで、パウロは「どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」と神様に栄光を帰しています。John Newtonは「驚くばかりのめぐみなりき・・・」と賛美しています。私たちの心にもこの救いの恵みと感激が満ち溢れるように祈ります。
6節をご覧ください。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」とあります。「私は・・・驚いています。」とは口語訳を見ると「・・・私には不思議でならない」となっています。批判、非難の気持ちを入れた言葉、言い方です。感情的に、というよりも、むしろじっくりと考え巡らしてみても、どうしても分からない、何がなんだか分からない、という言い方です。パウロの手紙は、例外なく、宛先の教会の優れている点を認めてほめ、感謝することから始まっています。例えば、ローマ人への手紙には「まず、第一に、・・・私の神に感謝しています。」とあります。?コリント人への手紙には「・・・あなたがたのことを、いつも神に感謝しています。」エペソ人への手紙には「あなたがたのために絶えず感謝をささげ、・・・」とあります。しかし、この手紙の場合は、非難を持って始めています。「そんなにも急に見捨てて、」とあるように、パウロはガラテヤ人の変心、しかも急速度で変わってしまった彼らの心に驚いて驚いたのです。もともと、パウロの伝えている福音とはこれです。「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。(2:16;ローマ3:24;エペソ2:8)」ガラテヤ人たちはこの福音を捨ててほかの福音に移って行きましたが、そのほかの福音とは救いに至る道がただ信仰によるのではなく、「信仰+律法の行ない」によるという教えです。この教えのために、純粋なガラテヤ教会の聖徒たちの心が急速度に変わって行ったのです。しかし、パウロはなんと断言していますか。
7節をご一緒に読んでみましょう。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」
パウロは「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。」と断言しています。ここの「ほかの福音」というところの「ほかの」というのは、「ヘテロス」というギリシヤ語が使われています。それは同じ性質を持っていて形だけが違うことではなく、異質のものを意味しています。ですから、「ほかの福音」はその中身がまったく異なる、質が違うから、福音とは呼べないものだということです。
私たちは私たちが受けた純粋な福音をほかのものにしてしまう悪魔の仕業に注意しなければいけません。イエス・キリストの福音を宣べ伝えているなかで、「そしてですね…キリストを信じることの他に、あれこれのことをしなければいけません。」という言葉を付け加えようとします。エホバの証人たちは聖書の御言葉を認めても「地獄はない」といいながら一定の量の伝道をしなければ救いはないと教えています。モルモン教も、統一教会も、ただイエス・キリストを信じることによって救われることを否定しています。ジョセフスミスと文センメイが再臨主であるかのように教えています。ところが、教会でもあるところでは救われた証拠として異言ができなければならないと言います。それで、そういうところでイエス様を救い主として信じていながらもその証拠として異言の賜物を受けるために努力します。もちろん、神様から賜物をいただいて異言を語り、預言をすることは素晴らしいことです。しかし、異言が救いの条件になったり、人を判断する材料になったりしてはいけません。祈ることは素晴らしいことですが、大学合格のためには自分の教会で親が「100祈祷」をしなければならないというようなことをしてはいけません。これらは福音そのものよりもご利益に基づいたほかの福音です。私たちはまず悔い改めてイエス・キリストの十字架の恵みを深く受けてそれを感謝し、その恵み心の中に置くべきです。多神教の考えが根付いている人々はキリスト教も仏教、信徒、イスラム教など、多くの宗教の中で一つであると思っています。どちらにしても自分にとって有益になればいいじゃないかと思います。このような考え方が教会にも入り込んでくると、悪影響を及ぼします。心から悔い改めて福音を信じることより、祝福と恵みだけを求めて教会を移っていく人々が増えていきます。多くの指導者たちはこのような現象がますます深化されて行くことを心配しています。罪に対して涙ながら悔い改める心とイエス様の十字架と復活に結びつく信仰者が少なくなっているのです。純粋に福音精神を守ってイエス様の愛し、イエス様のように、使徒パウロのように生きようとする情熱と献身が見えなくなっているのです。何かの異質のもの、相対的な考え方、ご利益信仰などのほかの福音が教会に入り込んでいるのです。それに対するパウロの心がどうですか。
8,9節をご覧ください。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」
パウロは恵みの福音を本質から変えてしまい、ガラテヤ人たちをかき乱していた偽教師たちを糾弾しています。パウロは、ものすごい強い言葉をここで用いています。「のろわれるべきです」と言っています。これは「地獄へ落ちよ、永遠の滅びへと向かえ、」というような非常に強いことばです。それだけ、福音を変えてしまうことが恐ろしいことであるかが分かります。パウロは、天の御使いであっても、そして私たち自身であっても、と言っています。どんなに信頼できそうな存在が来ても、私たちはそれを決して信じてはいけないのです。どんなことがあっても、意固地になっても、たった一人になっても、パウロたちが宣べ伝えた福音に反することを言う者たちに対しては、ノーと言って、はねつけるべきなのです。
ご一緒に10節を読んでみましょう。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」
パウロは「呪われよ。呪われよ。」と叫びました。人間としてそのような言葉を口にしていいのでしょうか。答えは「いいのだ!当然である。」ということです。彼の動機はただひとつ、あのキリストの福音を守りたい、十字架の福音、復活の福音を守りたい、キリストのいのちがかかった福音を守ることにあったからです。もし、パウロが人の歓心を買おうとするようなら、そんなことを言えません。ところが、パウロは「キリストの福音に反することを伝えるなら、その者は呪われるべきだといいました。それはパウロが人の歓心を買おうとしなかったから言えた言葉です。彼はキリストのしもべとしてひたすらキリストの福音のために戦いました。福音のためなら、私は何でもするという覚悟で貫いています。人には妥協していいことと、妥協してはならないことがあります。ゆずっていいことと、ゆずってはならないことがあります。パウロはキリストの福音のためなら、いのちをかけて守るべき戦いをしました。
私たちが人々の人気、人の関心を買おうとして福音を伝えるなら、福音が変質してしまいます。私たちは神様の羊たちを愛するべきです。しかし、その愛は神様を愛することに優先することができません。ヨハネの福音書21章を見ると、イエス様はペテロにまず、イエス様に対する愛を確認してから羊たちを愛するように命じられました。私たちはまず第一に神様を愛し、次に隣人を愛するべきです。そして、愛されることばかり求める人ではなく、神様を愛し、隣人を愛する人として成長し、弟子養成もそういう方向を持ってしなければなりません。人より神様を喜ばせることが大切です。?コリント5:9をみると、「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」

?.キリストの啓示による福音(11?24)
11,12節をご覧ください。「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」 パウロは1節で自分の使徒職の起源が神様にあることを主張しましたが、ここでは彼が宣べ伝えた福音の起源が神様にあることを主張しています。彼は、ただイエス・キリストの啓示によって福音を受けたと主張しています。そして、それを証明するために彼の回心前と回心後の生活を語っています。パウロが回心する前の状況はどうでしたか。
13、14節をご覧ください。以前ユダヤ教徒であったころのパウロは激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また彼は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
パウロは自分の信じていた宗教への熱心さのゆえに、教会を迫害し、滅ぼそうとしました。彼は、このことがとてつもない重い罪を犯していたのです。ところが、この人生が一変します。それはキリストとの出会いによってです。パウロはそれを証しています。
15、16aをご覧ください。「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、」とあります。神様は、パウロを、恵みをもって召してくださいました。そして、律法主義の第一人者を、恵みの福音の第一人者と変えてくださいました。これが神様の恵みです。もっともふさわしくない者を用いられるのです。そして、ここでパウロは、「生まれたときから私を選び分け」と言っています。「生まれたときから」というのは、母の胎内にいるときから、というのが直訳です。彼は、自分がイエス・キリストの知識に至る前から、母の胎内にいるときから、神様がこの働きのために自分を召してくださったのだ、ということが分かりました。すると、パウロは、生まれてからの自分もすべて神様によって導かれたこと、神様によって信仰に至ったことが分かりました。同じように、私たちの人生にも神様が関わってくださいます。私は年を取れ取るほどすべてのことは主が主権的になさったということを悟っています。私が何かを行なったからという人生ではなく、神様がこのように行なってくださったという恵みの足跡を見ることができるのです。これが恵みの福音ではないでしょうか。
ではパウロがイエス様に出会い、回心してからはどうしましたか。
16b、17節をご覧ください。「私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」とあります。直接・純粋に主からの召命を受けたパウロは直接・純粋にイエス・キリストに答えようとしました。いや、そのとき、主イエス・キリスト以外のことは、まったく頭になかったようです。すべての心、すべての精神、すべての思い、すべての力は、このただひとりのお方、主キリストに集中していました。まさに、彼はイエス・キリストに捕えられました。そこで、彼は人には相談しませんでした。先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上りませんでした。総本部、大使徒たちにもあいさつせずにアラビヤに出て行きました。何のためにアラビヤに出て行ったでしょうか。黙想のためでしょうか。伝道のためでしょうか。多くの学者たちはパウロが黙想のためにアラビヤに出て行ったと言います。そこで3年間、旧約聖書と関連してイエス様の生涯と十字架の死、復活を黙想しながら福音の啓示を受けたはずだと言っています。それから3年後、パウロはケパ(ペテロ)をたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。ペテロを訪ねたパウロの心は、キリストの生涯を知りたい、教会と宣教の実状を知りたい、自分を知らせ、代表使徒たちを知りたい、交わりを確立したいというところにあったことでしょう。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。パウロは、余計な人には会っていないことを強調しています。それから、シリヤおよびキリキヤの地方に行きました。『使徒の働き』9:30によれば、カイザリヤから海路タルソに送り出されています。その後、シリヤ、キリキヤを巡回伝道したのです。
ところが、22節をご覧ください。キリストにあるユダヤの諸教会にはパウロの顔を知られていませんでした。けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、彼らはパウロのことで神様をあがめていました。

結論的に、パウロが宣べ伝えるところの福音は、神様からのものであり、イエス・キリストの直接の啓示であることを確信することができます。私たちの救いは、ただイエス・キリストの十字架を信じる信仰から来るものです。ほかの福音はありません。神様がくださるこの福音にこそ、私たちを救いに至らせる恵みと力があります。福音に余計なものを付け加えると救いの力を失ってしまいます。しかし、福音は純粋であればあるほど、つまり、純粋に信じれば信じるほど救いの力を体験することができます。福音は変わり行く世の中でも永遠に変わらない救いの真理です。私たちにはこの福音に対する絶対的な確信が必要です。私たちが信じるところの福音は、このパウロからのものでなければいけません。そして、この福音こそ私たちにいのちと喜び、平安を与えてくれます。私たちがこの福音をますます確信を持って伝えることができるように祈ります。私たちの歩みが、人から言われたところの規則や決まり事によって縛られるのではなく、神ご自身の恵みの中に生かされたものとなりますように、お祈りします。母の胎内にいる前から前から私たちをキャンパスのたましいたちの使徒であり、キリストのしもべとして選び分けてくださった神様に感謝と賛美をささげます。