2006年秋列王記第4講

主の言葉を聞きなさい

御言葉:Ⅰ列王記6、7章
要 節:Ⅰ列王記7:1“ エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」”

先週、私たちは異邦人であるナアマン将軍のらい病が癒された出来事を通していろんな教訓を学びました。主にナアマンの信仰、従順と謙遜を学びました。彼の信仰を持つようになったのは、イスラエルから捕らえられて来た一人の娘の話を聞いたからでしょう。まず、ナアマンの妻が女奴隷の証を聞き、彼女の話をナアマンが聞いたからこそ、彼はエリシャの所に出て行くことが出来たのです。そして、ナアマンは神の人エリシャの言葉を聞いて謙遜に従ったからこそ、不治の病らい病が癒される奇跡の体験ができました。ここで、よく考えてみると信仰が聞くことから始まっていることが分かります。実際に、ローマ10:17を見ると「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。信仰は聞くことから始まるのです。では、何を聞くべきでしょうか。今日の御言葉でエリシャは「主の言葉を聞きなさい」と言っています。皆さん、よく聞いていますか。「主の言葉を聞いてください。」(今日は見せるものを準備しませんでした。主の言葉を聞くためです。もちろん、PPTを見ながら聞くこともできますが、今日は主の言葉を聞くことに集中しましょう)
この時間、主の言葉をよく聞いてエリシャのような信仰の人になることが出来るように祈ります。それによって信仰の目と霊的な力を持つことが出来るように祈ります。私たちがいつも、信仰の目と霊的な力を持って生きるなら、圧倒的な勝利者の人生を送ることが出来るようになります。

?.人知を超えて働く神の力 (6:1?7)
6:1?7節はエリシャが沈んだ斧の頭を浮かばせた出来事です。エリシャを師匠とする預言者学校は全寮制であったようですが、生徒が増え続けていました。恐らく、力ある神の人エリシャの働きによって預言者に対する人々の認識がよくなっていたでしょう。今日で言えばUBF牧者たちに対する評判が良くて牧者になりたいと言う人が増え続けていたのです。その人数があまりにも増えてきたので、エリシャを師匠とする預言者たちの宿舎は狭くなりました。そこで、預言者たちは自分たちが材木を切り出して宿舎を作ることにしました。ところが彼らがヨルダン川のところで材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまいました。材木を切り出して家を建てる人にとって斧はとても大切な道具です。私が子どもの時、父は隣の古い家を買ってから自分で建て直しをしましたが、山から材木を切り出す時に一番大切な道具はノコギリと斧でした。大きな木をノコギリで倒し、斧を持って枝を伐ってから木材として使えるものになります。だから斧はなくてならない道具です。しかも、貧しい預言者たちは斧を借りていました。ところが、この大切な斧の頭がはずれて、川の中に落ちてしまったのです。せっかく借りたものを水の中に落としてしまって、彼はどんなに困ったことでしょうか。彼はエリシャに叫んで言いました。「ああ、わが主、あれは借り物です。」彼は非常に慌てています。ではエリシャは慌てている彼をどのように助けましたか。
6,7節をご覧ください。「神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。彼が、「それを拾い上げなさい。」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。」とあります。エリシャは木の枝を切り落として斧の頭を浮かばせました。これは自然法則を超えている出来事です。どうやって鉄で出来た斧の頭が水に浮かぶということができるでしょうか。それは出来ないでしょう。一般的に人々は水の中に潜り込んで斧を見つけようとします。そして、あまりにも水の中が深く見えたらあきらめてしまうでしょう。しかし、エリシャは自然法則、一般的な考えを超えて挑戦しました。常識的に考えると、斧が水の中に落ちたのにそこに木の枝を投げ込むと、さらに見えなくなると思います。それなのにエリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせました。それは人知をはるかに超えて働いてくださる神様の愛と力を信じたからでしょう。
私たちが人知を超えて働いておられる神様に期待することはとても大切なことです。この期待を「聖なる期待」と言います。私たちに聖なる期待がなければ、人知をはるかに超えて働いておられる神様を経験することができません。神様は私たちの一番大きな期待を超えて働いておられます。私たちが神様の働きを過小評価してしまうと、信仰の世界を経験することができません。しかし、神様に期待すると、水の中らから斧の頭を浮かばせるようなこともできます。私たちが期待すると、全く何の問題もなさそうに見えていたナアマンのような人々が癒されるみわざが起こります。誰にも言えなかったらい病のように恥ずかしいことを告白して悔い改め、癒されるみわざが起こります。去年、UBFで出版した「聖なる国民」という本に載せられた牧者、宣教師たちの証を呼んで見ると、ほんとうにさまざまな人々がイエス・キリストに出会って救われています。世界中に起こっている弟子養成のみわざは日本でも起こっています。聖霊は他の国では働いておられますが、日本では休んでおられるような方ではありません。あの教会では癒しをなさいますが、この教会では休まれる方ではありません。聖霊はここにもおられます。私たちがいつも神様に大きなことを期待しましょう。人知をはるかに超えて働いておられる神様を体験することができます。エリシャは人間に与えられた能力を超えたことを体験しました。

?.霊的に開かれた目(8?23)
8?23では神様の示しによってアラムの王のことを見抜いてイスラエルを助けたエリシャのことが記されてあります。アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は秘密の場所で作戦会議をしていましたが、すべてのことが敵軍のイスラエルに知らされてしまいました。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言いました。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」面白いことですね。エリシャはアラムの王が奥さんと、寝室の中で話し合っていることさえ知っていました。非常にプライベートなものでもエリシャは知っていたのです。そして、そのすべてをイスラエルの王に告げていました。アラムの王はそのことが分かると、神の人エリシャの霊的な力に驚いて悔い改めるべきでした。しかし、彼は悔い改めるどころか、エリシャを捕まえるために馬と戦車と大軍をエリシャがいるドタンに送りました。ドタンは、サマリヤから北に数十キロ離れている町です。たったひとりの預言者を捕まえるためにこのような大軍で包囲しました。エリシャの召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していました。彼は恐れてエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言いました。エリシャの召使は軍隊がエリシャを取り巻いたのを見て恐れ、焦っていたでしょう。しかし、エリシャは何といましたか。十六節をご一緒に読んでみましょう。「すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。この御言葉は私たちに非常に大切な霊的な真理を教えてくれます。エリシャは召使に「恐れるな。」と命じられました。その理由は私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだからです。召使には見えない天の軍勢がエリシャに見えていました。召使には見えない世界がエリシャには見えていたのです。事実、私たちは、二つの世界が同時に存在しているところで生きています。肉眼で見える物理的な世界と、目に見えない霊の世界です。そして、目に見えない霊の世界が見えている世界を支配しています。何よりも見えない世界、霊の世界は支配しておられる方がイエス・キリストです。イエス様には天においても、地においてもいっさいの権威が与えられています。イエス様はご自分に与えられた権威を持ってご自分に従う者たちを守り、導いてくださいます。数多い軍勢のような御使いたちとともに私たちを守っておられます。ではどうやって私たちはこの霊の世界を見ることができるでしょうか。
17節をご覧ください。「そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」とあります。エリシャが祈って主に願うと、主がその若い者の目を開かれました。それで、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。エリシャが祈ると召使でも霊の世界を見ることができたのです。
ここで、私たちは二つの事を学ぶことができます。
一つ目はいつでも私たちとともにいる御使いたちが大勢いることです。時々、私たちは大きな問題を見ると恐れます。サタンはいろいろな問題を作り出して私たちに攻撃してきます。私は神様のみわざに仕えながら一つ悟っていることは、私たちのうちに聖霊のみわざが活発に起こると、サタンの攻撃も激しくなることです。時には、家族のことを通して、職場のことを通して、教会のメンバーなどを通して攻撃してきます。私は個人的に先々週から私に対するサタンの攻撃が激しいと感じていました。しかし、主は御言葉を通して主が私とともにおられる、天の軍勢が私を取り巻いておられることを悟りました。皆さんがエリシャのように私のために祈ってくださるから、私の霊的な目も開かれたのです。今は、私がどんなに敵に囲まれているように見えても恐れません。私たちとともにいるものは彼らといるものよりも多いと信じているからです。日本人はほんとうに頭の良い国民だと思っています。また、合理的な考え方を持っていると思います。また、何をしてもとても細かいところも考えてから行動するような気がします。しかしなぜか、蛇を拝むのでしょうか。なぜ、自動車に神社の札などをつけているのでしょうか。なぜ、科学的な国なのに非科学的な迷信を信じている人がそんなに多いのでしょうか。なかなか理解しがたい時があります。偶像崇拝をしている人たちに囲まれているような気がする時もあります。しかし、主は言われます。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」私たちを守り、私たちを支援する天の軍勢が私たちを囲んでいます。私たちクリスチャンはどこにいても天の軍勢に囲まれているのです。ですから、私たちのクリスチャンがこの日本で1%しかいなくても心細く思う必要がありません。私たちを守っている御使いたちとともに勝利の人生を生きることが出来ます。
二つ目は、とりなしの祈りの力です。召使が朝起きて見たのはアラムの軍隊だけでした。エリシャが見ている天の軍勢を見ることはできませんでした。しかし、エリシャが祈ると彼もエリシャを取り巻いている天の軍勢を見ることができました。つまり、エリシャのとりなしによって召使の霊的な目が開かれたのです。私たちは兄弟姉妹たちと聖書勉強しますが、単なる知識のためではありません。イエス・キリストを信じて救われることを願っています。さらに御言葉を悟って霊的な世界を知り、イエス・キリストの御姿にまで成長していくことを望んでいます。ところが、なかなか霊的な話が出来ない場合もあります。その理由は聖書にあります。パウロは?コリント4:4節で「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」と言っています。すべての人々は神の形で造られているから、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせようとしています。それで、聖書勉強を始めたり、教会の礼拝に出席したりしています。ところが、この世の神が不信者の思いをくらませているのです。しかし、私たちがエリシャのように祈ると、私たちが仕えている兄弟姉妹たちの霊的な目が開かれます。私たちが祈ると聖霊が来られるからです。そして、聖霊が来られると、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」ですから、私たちが兄弟姉妹たちのためにとりなしの祈りをすることはとても大切なことです。パウロはこの事実を深く知っていました。そこでエペソ1:17節から19節を見ると、このような祈りをしています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(17-19節)」パウロはエペソの兄弟姉妹たちのために祈る時、御霊によって、心の目がはっきり見えるようになって、目に見えない神の霊的祝福と力を知り、それを、信仰をとおして体験することができるように、と祈ったのです。私たちもお互いにこのようなとりなしの祈りをしましょう。特に私たちの教会では今年水野牧者が新しく牧者として生まれました。また、坂本姉妹、田邉姉妹、田口兄弟たちが信仰告白してバプテスマを受けようとしています。この方たちの心の目がはっきり見えるようになることのために祈りましょう。
18?20節はエリシャがアラムの民を打って盲目にしてくださいと祈ってから彼らをサマリヤに連れて来たことが記されてあります。エリシャは、圧倒的な霊的な力を持って、アラム軍をサマリヤに誘導しました。そして、21?23節を見ると、エリシャは彼らをもてなしてから帰らせました。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われたイエス様の御言葉を思い浮かばせる場面です。エリシャは生かして、もてなしてから彼らを帰しました。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来ませんでした。

?.希望のメッセージを伝えたエリシャ(6:24?7:20)
6:24節をご覧ください。この後、アラムの王ベン・ハダデは全軍を召集し、サマリヤに上って来て、これを包囲しました。アラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかったのですが、アラムの王ベン・ハダデ二世はくやしくてたまらなかったようです。彼は全軍を招集してサマリヤを包囲しました。この包囲によってサマリヤの住民は、現在経済制裁を受けている北朝鮮よりも酷くなりました。サマリヤは包囲されて生活必需品の補給が途絶えているのに、ひどいききんもあったからです。徐々に彼らは息絶えて行きました。ところが、さらに悲惨なことが起こっていました。イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、ひとりの女が彼に叫んで言いました。「王さま。お救いください。」。では彼らの状況はどうでしたか。
28?29節をご覧ください。「それから王は彼女に尋ねた。「いったい、どうしたというのか。」彼女は答えた。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう。』と言ったのです。それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう。』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」」とあります。自分の子どもを煮て、食べることが起こっていました。王はあまりにもショッキングなことだったので、自分の服を引き裂きました。しかし、彼は王としての責任を取ろうとしないで、エリシャに責任転嫁しました。
31節をご覧ください。「彼は言った。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」」とあります。そのとき、エリシャは自分の家にすわっており、長老たちも彼といっしょにすわっていました(32)。恐らく、エリシャは長老たちとともにこれからどうすればよいか話していたでしょう。そのうち、彼は王からの使者をやって来ることを知り、使者が来たら、戸をしめ、戸を押してもはいれないようにしなさい。と言いました。ところが、彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言いました。「見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。」使者の言葉から私たちは王が主に期待することをやめていることが分かります。「見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。」と言っています。彼は主を意識していますが、もう絶望的です。このように、わざわいを受けているのはアハブの罪のためです(?列王20:34、42)。イスラエルの王ヨラムはアハブの不従順のためこのわざわいを受けているのです。私たちが自分たちがこの世を去って後に自分の子孫が私たちのために恥を受け、罰せられるようなことがないように気をつけなければならないことを学びます。ではこのように絶望的な時代にエリシャが何を言いましたか。
7:1節をご一緒に読んでみましょう。「エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
現実は食べ物がなくて人食いをするほどに悲惨な状況でした。しかし、このような状況の中でもエリシャは未来を見て希望のメッセージを伝えました。あすの今頃、つまり24時間後に、7.6リットルの上質の小麦粉が数十円で、大麦も15リットル程度のものが同じく数十円で売られます。平常の生活が出来るようになるのです。ほんとうに、エリシャのメッセージは希望的でありました。しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言いました。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」(2a)。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」と言いました。ここで、信仰の人が希望のメッセージを伝えてもそれを信じなければ、その人には何も起こらないことがわかります。信仰の人たちが経験する恵み世活を見ることしかできません。希望のメッセージを信じる者たちが神様祝福を自分で楽しむことができるのです。しかし、不信仰の人は実際にあるものも自分のものとすることができません。
3?11節は四人のらい病人に対する内容です。彼らはどうせ死ぬなら、たくさん食べて死のうとしました。ところが、彼らがアラムの陣営にいってみると見ると、なんと、そこにはだれもいませんでした。 主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからです。それで、良いチャンスが与えられたらい病人たちは、陣営の端に来て食べて良いものを持ち出し、それを隠しに行きました。しかし、彼らは心の中に変化が起こりました。
9節をご一緒に読んで見ましょう。「彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」」とあります。こうして彼らは良い知らせを門衛たちに伝え、彼らは王の家に告げました。しかし、王はなかなか信じられなくて家来のひとりを送って確認しましたが、彼らの報告がどうですか。
16、17節をご覧ください。「そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。」神の人が伝えたメッセージのとおりになっていました。そして、18?20節を見ると不信仰の言葉を言った侍従は死にました。不信仰の人には不信仰の代価があったのです。
以上で、私たちは主の言葉を聞いて従うエリシャの活動を学びました。彼は何をしても聖なる期待を持っていました。自然法則、常識に頼らず、人知をはるかに超えて働く神様の愛と力を信じていました。また、彼は神様の御言葉を通して教えられた霊的な世界を信じていたので、天の軍勢とともに生きることができました。私たちには、霊的な目が与えられています。信仰によって見える世界があります。その世界を経験できることは喜びであり、幸せなことです。しかし、不信仰であれば、あらゆる機会を自分で失ってしまうことになります。目に見える世界だけを見て生きるなら、人生のほんとうの幸せを味わうことが出来ないでしょう。どうか、私たち一人ひとりがいつも、信仰によって聖なる期待、霊的な目を持って勝利の人生を送ることが出来るように祈ります。