2006年マタイの福音書第1講

インマヌエルのイエス様

御言葉:マタイの福音書1:18?25
要 節:マタイの福音書1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 私たちは目標を目指して2006年を出発しましたが、もはや3ヶ月も過ぎました。皆さんは目標を目指して立てた計画のとおりに過ごしてきたのでしょうか。ほとんどの方は目標を目指して一心に走っていると思いますが、まだ何も始めていない方がいるかも知れません。しかし、あきらめないでください。今からでも遅くありません。四月は、新年度、新学年度の始まりです。新入生、新入社員たちが新しい目標を持って新しい学校や会社で新しく出発する時期であります。在校生も新学年を始めるし、経歴社員も新年度を始めます。私たちも、もう一度心を新たにして新学年度を出発しましょう。先週、私たちは新学年度のフィッシング、弟子養成のみわざのために毎晩祈り会を開いて祈ってきました。きっと、私たちとともにおられるインマヌエルのイエス様が私たちの出発を祝福してくださると信じます。
 では、インマヌエルのイエス様とはどんな方でしょうか。「インマヌエル」というのは聖書に書いてあるとおりに「神は私たちとともにおられる。」という意味です。マタイの福音書の著者は神様が私たちとともにおられるようになったことをイエス様の系図から説明しています。この系図は私たちにはほとんどなじまない名前がたくさん出てきます。これを読んで私たちは、「聖書とは何と読みにくい本であろう」との感を抱いてしまいます。しかし、「聖徳太子の子孫、明治天皇の子孫、平成天皇の系図」ということなら私たちも読みやすいでしょう。同様に、系図に記されている人物が基本的にどのような背景を持っているかを知っているユダヤ人にとってはイエス・キリストの系図もとても読みやすいものでした。彼らにとっては、この系図にはまことに意味深長なものがありました。彼らがひとりひとの名前を読む時、その人物とその時代の歴史的背景を次々と思い出すことができるからです。しかも、アブラハムからイエス・キリストの出現まで、約二千年間の歴史は、彼らにとって常識のようになっていたからです。しかし、その知識が無に等しい私たち外国人にとっては、この系図が理解しにくいものです。それで、基礎勉強の質問紙を作るとき、一章の前半部に系図を省いて18節から25節までの御言葉だけで質問紙を作りました。でも、ユダヤ人を対象にして書かれたマタイの福音書を理解するためには、この系図を知っておかなければならないと思います。そこで、最小限の説明をします。
1:1節をご覧ください。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」とあります。アブラハムは紀元前2100年頃の人です。神様はこのアブラハムを全人類の中からひとり選ばれて、この時より約二千年の年月をかけて人類の完全な救いの計画を立てられ実行されます。全人類はアブラハムを通して神様の祝福にあずかりうるのです。創世記12:2,3を見ると「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束されてあります。そのとおりにイエス様はアブラハムの子孫としてお生まれになりました。ダビデは紀元前1010年にユダヤの王位に就き、その後四十年間国を治めました。イスラエル王国創始者であり、イスラエルの歴史の中で最大の王です。しかも、神様はこのダビデに「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(?サムエル7:12,13)。と約束されました。つまり、イエス様は旧約聖書に預言されたとおりにキリストとしてお生まれになったのです。イエス様こそ、全人類にまことの祝福をもたらすメシヤであり、ダビデの王権を受け継ぐ王の王、キリストであられるのです。
次に2?16節に長い系図が出てきます。この系図は14人ずつ、3つのグループに分けて、意図的に整理して、慎重に配列されています。第一グループは、アブラハムからダビデまでの1,000年間ですが、国家の誕生、統一、発展の歴史です。第二グループはバビロン捕囚までの400年間で屈辱、悲劇、滅亡の歴史です。第三グループは、キリストまでの600年間ですが、この時期は、屈辱、悲劇から救いへの歴史です。特にこの中にイエス様が私たちとともにおられるために罪人の人に数えられた、人間になられたことが記されています。
系図の中には、4人の女性が出てきます。普通、系図に女性は載せられませんでした。女は法律上の権限を持たず、人として認められませんでした。女は父親か、夫の所有物であり、宗教家は日に三度、異邦人、奴隷、大衆、女でないことを神様に感謝した時代でありました。ですから、キリストの系図は例外的な系図であることが分かります。しかも、これらの女性は、ユダヤの純粋で、誇り高い伝統からすれば考えられないほど、卑しく、恥ずかしい人たち、みな異邦人でありました。タマルは、父ユダと関係して、パレスとザラを生みました(創世記38章)。ラハブはエリコの遊女でした。ルツは美しい信仰の人として知られていますが、異邦人であり、ユダヤの世界に入れないはずのモアブ人です。ウリヤの妻はダビデと姦通した人です。しかも、ウリヤが異邦人であるから彼女も異邦人であったと思われます。
ですから、キリストの系図はアブラハムの子孫、ダビデの子孫として誇れる部分もあると同時に、罪と恥辱との系図でもあるのです。キリストの系図は、罪と、恥と、汚れと、失敗・配信・屈辱に彩られたもの、まさに、罪の世界に下られた神の子を表わしています。イエス様は、異邦人の差別、女性の差別、罪深い人間と後ろ指をさされる差別、背信の信者の差別を撤廃する救い主としてお生まれになりました。自分の生まれを、恥ずかしく思っている人、自分の生まれの血統、血筋に、劣等感を抱いている人、家族や親族から逃げ出したい人、家柄、家計を隠したくなる人、先天的、遺伝的なものに、恐怖と重荷を負っている人、絶望的な過去を背負っている人とともにおられるためにキリストは、だれよりも、もっと悪い家系に生まれているのです。これが、キリストの人間的な起源です。
18?25節はキリストの誕生のいきさつです。キリストの誕生は聖霊による妊娠であったことからキリストの神的起源が記されています。  
 18節をご覧ください。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」とあります。イエス・キリストの母マリヤはヨセフの妻と決まっていました。この時代のユダヤ社会における結婚制度によると、結婚まで四段階がありました。第一に、両家が、まず結婚に合意します。第二に、花婿の家が、花嫁の家に、花嫁料を払います。第三に、両家の結婚関係を公にします。第四に、結婚関係を公にしてから一年間で、両親の元で別々に生活します。第五に、新婚生活に入ります。ですから、「マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、二人がまだ一緒にならないうちに」というのは第四段階にあったことが分かります。希望と喜びに輝く婚約期間であります。おそらく、韓国で李ジョンミン牧者が金仁斗牧者との結婚式を挙げるその日を待ち望んでいるような心であったでしょう。
 ところが、これは何と言うことでしょうか。突如、青天のへきれきのようなことが起こりました。ある日からマリヤのお腹が段々大きくなっているのではありませんか。昼食に招かれて朝食を食べなくても出ていました。マリヤはみごもっていたのです。マリヤは心配になったでしょう。でも、神様は御使いを通して彼女とともにいてくださいました。ルカの福音書1:31節を見ると御使いガブリエルがマリヤに現われて「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と言いました。マリヤは聖霊によって身重になったことが分かったのです。しかし、ヨセフにとって理解しがたいことです。ある日、花見に行ってみたらマリヤのお腹が大きくなっていた時は、自分の目を疑ったでしょう。「あなたは、いつ見ても花より美しいよ」と言おうとしてみると、お腹が大きくなっていたのです。ヨセフにとってどんなに大きなショックだったでしょう。当時、旧約の律法によると姦淫の罪を犯した人は死刑に処せられました。申22:24に「ふたりを町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。」と言っているとおりです。もし、ヨセフが感情的な人だったなら「何だよ。マリヤ!」といって捨てたでしょう。しかしヨセフは正しい人でありました。「正しい人」は、ヨセフが真に敬虔なユダヤ人であることを意味します。またヨセフは正しい人であっただけでなく、愛と思いやりの深い人でした。彼はマリヤをさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めたのです。彼にはマリヤに対する思いやりがあったのです。
 20節をご覧ください。ヨセフがこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言いました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」創世記のヤコブの子ヨセフも、このヨセフと同様に夢見る人でした。そして、その夢とは人の夢ではなく、神様が人に与えてくださる夢でした(創世記41:16)。神様は神様を愛して経験に生きている人、人に対する愛と思いやりのある人を愛されて、夢によってさえ助けてくださることが分かります。神様は御使いを通してヨセフにマリヤを迎えるようにしてくださいました。また、マリヤの胎に宿っているものは聖霊によるのであることも教えてくださいました。これは人には全く考えられないことです。不合理の極みです。しかし、神様にはこのことが可能です。「神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)」そして、神様のなさるすべてのことに意味があります。それでは処女マリヤが聖霊によってみごもったことにはどんな意味があるのでしょうか。
 第一に、預言の成就です。処女マリヤが聖霊によって救い主をみごもったことはある日突然起こった出来事ではありません。神様は人類を罪と死とサタンの力から救うメシヤを女の子孫から与えると創世記3:15節で約束されました。それは将来メシヤが処女のからだを借りてこの世に来ることを暗示しています。それからイザヤは紀元前八世紀に次のように預言しました。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名付ける。」(イザヤ7:14)。それから定めの時が来て神様はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました(ガラテヤ4:4)。イエス様は処女マリヤからお生まれになることによって聖書の預言が成就されました。
 第二に、イエス様はアダムの罪を受け継がないで人間になられた神様であられるということです。人類を罪から救うためには罪のない人が必要でした。ところが、アダムの子孫であるすべての人は罪人として生まれます。しかし、イエス様は聖霊によって宿るようになりました。イエス様は本来神様である方です。また私達と同じ人間として来られます。しかし、罪のない方です(ヘブル4:15b)。イエス様は神様であり、罪のない人として神様と人との間の唯一の仲介者となることができます。?テモ2:5は次のように言っています。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」罪のないイエス様が処女マリヤからお生まれになったのは人類を救うための神様の知恵でした。
では、預言のとおりに、聖霊によってお生まれになるイエス様が成されることは何でしょうか。
21節をご一緒に読んでみましょう。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」この御言葉はイエス様がこの世に来られて成し遂げられることが何かを教えています。それは御自分の民をその罪から救うことです。イエス様はイスラエルをローマの圧政から救うために来られるのではありません。では貧乏から救うためでしょうか。重い病からでしょうか。いいえ。イエス様はご自分の民をその罪から救うためにこの世に来られました。イエス様は私たち人間をもろもろの罪から救ってくださいます。これこそキリストがこの世に来られた目的です。
人間は罪のために苦しんでいます。サタンは罪を犯した人間を支配します。この間、ナルニア国物語と映画を見ましたが、非常に聖書的なものでした。ナルニア国では罪を犯したもの、特に裏切り者の支配権は魔女にありました。そして、陛下と呼ばれる魔女に捕まえられると、アダムの子孫は自分の力ではそこから出てくることができません。他の人間が魔女の支配されている人間を救うこともできません。ただ、アスロン王(ライオン)が死ぬことによって人間が解放されるし、魔女の勢力に対する完全な勝利は、よみがえったアスロン王によってできました。
人間は罪を犯したために、サタンの支配下に置かれてしまいました。人間がそこから救われるために昔から非常な努力を尽くして来ました。罪を忘れようともします。ある人は罪を忘れるために苦行します。慈善事業を通してその罪を償おうと人もいます。罪を忘れようとお酒を飲んだり、麻薬を飲んだりもします。しかし、このようなあらゆる人間の努力にも関らず罪の問題は少しも解決できませんでした。人間の罪による悩みや苦しみはなかなか消え去ないものです。人間は罪のゆえに絶えず煩悩する人生を暮らしています。自殺してしまう人も少なくありません。
 このような人々を救うために、マリヤの体を借りてお生まれになりました。そして、イエス様は私達の罪のために十字架につけられ死なれました。十字架の死によって私達のすべての罪の代価を払ってくださいました。そして、死者の中からよみがえられました。この復活によってサタンの頭を打ち砕き、完全な勝利者となられました。ですから、誰でもイエス・キリストを信じるならその人は、救われます。すべての罪が赦されて神様の子どもとして新しい人生を生きるようになります。それで使徒パウロは確信を持って次のように言いました。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(?コリント5:17)。新しく造られた者となると、この世が新しく見えます。同労者の顔が天使のように美しく見えます。キリストによって新しくなった人は、全く身分が変わります。その人は罪の奴隷ではなく神様の子供になるからです。
 神様と子どもになるということは大きな特権です。神様がいつもともにいてくださるからです。
22、23節をご一緒に読んでみましょう。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私達とともにおられる、という意味である。)」この御言葉はイザヤが紀元前八世紀に預言した御言葉です。イエス様の誕生は神様が私たちを見捨てず、私達とともにおられる具体的な証拠です。
インマヌエルに関する預言はイザヤが住んでいた時代、戦争の恐怖にさいなまれている民に神様が与えられた救いのしるしであり、愛のしるしでした。当時人々は神様の愛を疑っていました。彼らは神様に頼るより強大国に頼っていました。神様はこのような彼らを見捨てるしかありませんでした。そして、彼らは長い間、バビロン、ペルシヤ、ローマなどの強大国に支配されて苦しんでいたので捨てられたと思いました。しかし神様は彼らを相変わらず彼らを愛し、インマヌエルしてくださいました。彼らは自分たちの罪のために神様が自分たちから離れて行ったと思いましたが、神様はいつも彼らとともにいてくださったのです。その証拠が約束のとおりにイエス・キリストがお生まれになったかことです。私たちは時々、自分の罪のために、自分の弱さのために神様から離れてしまったような思いをします。神様が自分とともにくださらないと思うのです。しかし、そうではありません。神様はどんな時にも私たちとともにいてくださいます。
《Footprints》という詩があります。「ある夜 わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が  映し出された。 どの光景にも、 砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、 もうひとつは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには ひとつのあしあとしかなかった。 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において  わたしとともに歩み、 わたしと語り合ってくださると  約束されました。 それなのに、 わたしの人生のいちばんつらい時、 ひとりのあしあとしかなかったのです。 いちばんあなたを必要したときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、 わたしにはわかりません。」 主は、 ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、 苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」」
神様はいつも私たちとともにいてくださいますが、苦しみや試みの時に、私たちを背負って歩いてくださるのです。そのために神様であられる方であり、罪のない方なのに、この地に来てくださいました。イエス様は正しい人とともに過ごすためではなく、罪人とともにいるために来られました。マタイはこのインマヌエルのイエス様に深く出会ったのではないでしょうか。彼は公認された罪人でした。人々から捨てられた人でした。彼は貪欲のために同胞から裏切り者、売国奴として呼ばれました。それで、彼はお金をたくさん持っていても孤独な人生を過ごしていました。そんな彼を理解してくれる人はいませんでした。しかし、イエス様は彼のところに訪ねてきてくださいました。彼を弟子として呼んでくださいました。そして、彼とともにいてくださいました。キリストとともに歩む生活は幸せでした。キリストとともに歩む生活の中で、キリストと交わり、それによって彼の心の病を癒されました。悲しみは喜びに、涙は賛美に、孤独は幸せに変わりました。貪りの奴隷から施し続ける人生に変わりました。ついに彼は聖マタイになりました。インマヌエルのイエス様は、マタイだけではなく、私たちとともにいてくださいます。そして、私たちがいつもともにいてくださるインマヌエルのイエス様を信じて生きるなら、イエス様が私たちを助け、私たちを導いてくださいます。時には夢によってさえ現われてくださいます。ヨセフのように、マリヤのように主に導かれて素晴らしい救いのみわざに用いられるようになります。セイントマタイのように変えられた人生を生きるようになるのです。私たちはこれからマタイの福音書を学んでいきますが、インマヌエルのイエス様によって変えられた人々の素晴らしさを学ぶことができます。
今日、コンピュータの時代を生きている若者達は周りの人々との関係性を結ぶことを負担に思います。段々関係性が断絶され、孤独な人生を過ごしています。そこから、さまざまな社会問題も起こっています。社会的な動物である人間はひとりだけで生きることはできません。交わりが必要です。ところが、インマヌエルのイエス様は、どこでも、いつでも、私たちとともにいてくださいます。ですから、私たちはいつでも、どこでもイエス様と交わりながら幸せに生きることができます。イエス様は地上の生涯の後も臨在することを約束しておられます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。マタイの福音書は文字どおり「インマヌエル」で始まり、「インマヌエル」で閉じています。

 結論的に、私達はインマヌエルのイエス様によって春の誘惑に勝つことができます。インマヌエルのイエス様によって悲しみと寂しさを打ち勝つことができます。インマヌエルのイエス様によって自分に委ねられた使命を果たすことができます。私たちを罪から救って下さった救い主イエス様、インマヌエルイエス様をほめたたえます。