2006年マタイの福音書第6講

天の父が完全なように、完全でありなさい。

御言葉:マタイの福音書5:17?48
要 節:マタイの福音書5:3 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 先週、私たちは心の貧しい者が幸いであることを学びました。午後はビデオ上映を通して心の貧しい李ジソン姉妹の証も聞くことができました。私は彼女の証を通してほんとうに大きな恵みを受けました。あんなにひどい状況の中でも幸せに生きられるということがよく分かりました。もし、彼女の心が貧しくならなかったら、顔を含む体の半分以上に、3度の火傷を負わせた飲酒運転者を恨んだことでしょう。あるいは自分の変わった姿を人に見られるのを恐れ、部屋の中に閉じこもってばかりいたはずです。しかし、彼女は言いました。「世の中には、経験しないとなかなか分らないことが多いです。8つの指がなくなってこそ、爪がどれほど重要なものなのかを知りましたし、まつげがなく、大量の埃が目の中に入ってから、まつげがどれだけ必要なものかも知った。事故に遭わなかったら、私のことを愛してくれる人が、これほどたくさんいることは、想像もできなかったでしょうね」。私は健康な人よりも、はるかに明るく生きている李ジソンさんの姿を見て、多くのことをまなびました。ほんとうに、心の貧しい人はすべてのことにおいて感謝し、いつも明るく幸いな人生を生きることができますね。そして、そのような人は地の塩であり、世界の光としての役割を果たすこともできます。
 今日の御言葉はイエス様がこの地に来られた目的、イエス様が私たちクリスチャンに示された律法の到達点(ゴール)について教えてくださいます。つまり、イエス様は律法を廃棄するために来られたのではなく、成就するために来られました。そしてイエス様は私たちに「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われます。
本文の御言葉を通して神様の律法に対する姿勢、神様が私たちに願っておられる心構えと聖なる望みについて学ぶことができるように祈ります。

 17節をご覧ください。「 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」ここで、律法や預言者」とは旧約聖書を指しています。ユダヤ人は旧約聖書を「律法と預言者と諸書」と呼んでおり、しばしば省略して「律法と預言者」とか「律法」と言っていたのです。ユダヤではこの律法を厳格に守らなければならないと教えられていました。そして、外見上の姿を見ると、律法学者やパリサイ人たちは律法をよく守っていました。ところが、イエス様は律法学者やパリサイ人たちの律法主義に対して批判的でありました。イエス様は安息日にも病人を癒し、収税人や罪人たちとともに食事をしました。このようなイエス様の行動に対して人々はイエス様が律法や預言者の教えを廃棄するために来られたかのように思いました。イエス様は旧約聖書を無視し、新約聖書だけを認め、それを尊重しておられる方のように見えたからです。しかし、イエス様は律法を廃棄するためにではなく、成就するために来られたのです。では、律法に対するイエス様の見解はどうですか。
18,19節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」とあります。昨日、ヘブル語に詳しい李パウロ牧者から教えられましたが、ヘブル語には母音がないそうです。ただ発音のために一点一画の文字をつけているそうです。日本語では点によって意味が変わりますね。たとえばかんこく(韓国)とかんごく(監獄)は違います。でも、ヘブル語では点が読むための読点に過ぎないのです。それでも、イエス様は決して廃れることがないと言われました。旧約聖書の句・読点一つさえも廃ることはないと言われたのです。私たちは戒めの中で小さいものだと思ってそれをおろそかにしやすいです。たとえば、聖書に「そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。」とあります。それなのに私たちは怠けることとか、うわさ話やおせっかいをして話すことなどは軽く思ってしまいがちです。今日の御言葉にあるように兄弟に向かって「腹を立ててはならない」「能無し」と言ってもならないと教えられています。ところが、自分の奥さんや旦那さんにさえ「なんだ」と腹を立てることや人に対して「ばか者」と言うことなどに対しても軽く思う場合があります。そして、回りの人々もうわさ話やおせっかいをしているし、自分の親父が母に対してはよく腹を立てていたからそういうことは赦されるだろうと思っています。また、自分はクリスチャンとして妻を殴ったこともないし、人と喧嘩することもないからそんなに悪い人間ではないと思っています。相対的にクリスチャンとしてまじめに生きていると思って世の人々の堕落を非難し、世の中をさばきます。しかし、イエス様は何と言われますか。
20節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」とあります。イエス様は「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」と断言されました。
 律法学者やパリサイ人たちは律法を教え、守っていました。彼らは外面的な行いをしていれば律法を守っている、と考えていたし、人々から見ても律法を守っていました。だから、人々は彼らの道徳的な優位を認めていました。今日も、宗教指導者に対して道徳的な優位を認めると思います。もちろん宗教に対して批判的な人も多くいますが、一般的に牧師やカトリックの神父、シスターたちに対して戒めをよく守っていると思うのではないでしょうか。ところが、イエス様は弟子たちに律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければならないと教えられたのです。では律法学者やパリサイ人にまさる義とはどんなものなのでしょうか。イエス様は律法学者たちの教えに比較対照させて天の御国における義を教えておられます。つまり、イエス様は律法主義的な義とキリストの義(福音)を対照させて天の御国における義、律法の本質的な精神を教えてくださいます。それは六つの対立命題になっています。イエス様は律法の命題に対して「しかし、わたしは、あなたがたに言う」と言ってそれを否定し、さらに律法のほんとうの意味、福音を主張されます。では一つ一つを調べてみましょう。

一つ目は殺人罪に関することです。
これは十戒の中で第六の戒めとかかわっています(申命記5:18)。この殺人の問題は人と人との関係において最も重要な問題です。この殺人の問題は、今日においても、この世の犯罪において最も深刻であって、毎日の新聞に報道されない日がないほどです。この問題は人が人としてこの地上に生きている限り、永遠に消えうせることはないでしょう。人の知恵、人の力ではこの問題を解決することができません。ただ、全人類がイエス様の教えに従ってのみ、人と人の間に起こる問題を解決することができます。イエス様の教えを見ましょう。21、22節です。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」とあります。人々は人を殺さなければ『殺人罪』に問われることはないと思っています。実際にこの世の法律ではそうでしょう。しかし、イエス様の教えはこの世の律法にまさっています。イエス様は兄弟に向かって腹を立てる者もさばきを受けなければならないと言われました。腹を立てることは二種類の怒りです。原語で言えば「シュモス」と「オルゲー」です。「シュモス」は、シューと燃え上がり、サーっと消える怒りです。「オルゲー」は、腹の中でいつまでも、留まる怒りとして恨みとか憎しみです。これらのものも『殺人罪に』相当するのです。神様の義はほんとうに厳しいものであって、心の動機や、心のあり方こそ反省し、悔い改めて聖別しなければなりません。イエス様は、怒りや憎しみや苦味を持っていたら、その時点で殺人の罪を犯していると教えておられます。なぜなら、そうした感情によって実際の殺人を犯すからです。
ですから、実際の殺人を犯すことになる前に仲直りをすることはとても大切なことで酢。それは神様に供え物をささげることより大切なことです。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まず仲直りをしなければなりません。自分を告訴する者に対しても、彼を恨み、憎まないで彼といっしょに途中にある間に早く仲良くならなければなりません。そうでないと、告訴する者は、自分を裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡します。仲直りをしない者はついに牢に入れられることになるのです。そして、この世の裁判においてさえ、罪ある者と判決された場合には、その判決に従って刑務所に入れられます。それゆえ、天国の裁判において罪ある者とされて、永遠の地獄の火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。その時の悲しみはいかに大きいでしょうか。しかも、最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。「一コドラント」は古代ローマの最小の硬貨です。一円玉のようなものです。それまで罪の代価を払わなければ決してそこから出て来ることができないのです。ですから、自分は人を殺したことがないから正しい人間だと思う高慢を悔い改めなければなりません。人に対してばか者と言っていることやそのように思ったことさえ悔い改める生活が求められます。
 
第二つ目は姦淫に関することです(27?30)。これは十戒の第七の戒めとかかわっています(申命記5:18)。姦淫も人と人の関係を破壊させる大きな罪です。姦淫によって家庭が破壊され、子どもたちは傷つけられます。そして、傷つけられた人々の心が癒されなければ、彼らによって社会も破壊されていきます。ですから、姦淫の罪もほんとうに深刻な罪です。27、28節をご覧ください。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とあります。律法学者たちは肉体によって姦淫しなかったら、律法を守ったと考えていました。しかし、イエス様は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。
 今日、多くの人々は姦淫を大きな罪として考えています。テレビを見ると、浮気した人が持てる男だと思っているようですが、ほとんどの人は肉体的に姦淫することを考えもしないでしょう。しかし、心の中では情欲をいだいて女を見る人が多いと思います。そして、心の楽しむことは罪として思わず、罪意識を捨てようとします。それで心の中で良心の呵責を感じながらも淫乱な漫画や本、インターネットのサイトを通して情欲を楽しもうとします。特に今の時代はインターネットを通しての誘惑が多いです。毎日のように迷惑メールが送られています。すると、それを開いてみてはいけないと思いながらも肉体的に姦淫することではないからと合理化する考えも生じるのです。しかし、イエス様は肉体的に姦淫しなかったとしても心の中で情欲をいだいて楽しむことは罪だと言われます。堕落した行動だけではなく、堕落した心に対しても裁かれるのです。ですから、私たちは行ないだけではなく、心をきよく保つために霊的に闘争し、祈らなければなりません。イエス様はどれほど闘争するように言っておられますか。
 29,30節をご覧ください。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」とあります。ほんとうに厳しいことが言われています。でも、私たちは祈り生活を邪魔し、神様との関係性を断ち切ってしまう情欲の罪を厳しく扱わなければなりません。淫乱な世の中をさばく前に自分に対して厳しい目で見る必要があります。そして、情欲、姦淫の罪を犯せるようなものを取り除かなければなりません。たとえば、インターネットも人に見られる所で使う必要があるし、家にある本とかビデオも誰にでも見せることができるものにしなければなりません。創世記を見ると、ヨセフは自分の仕えていた主人の妻に、一緒に寝ておくれと誘われました。ヨセフはしつこく誘惑されたのです。でも、ヨセフはつかまれた上着を脱ぎ捨てて逃げました。その結果、少なくても2年以上牢獄に入る事になりました。このように、どんな犠牲を払っても姦淫の罪から離れなさい、とイエス様は言われたのです。神様が私たちに情欲を抱かせるようなものと大胆に取り除く信仰の決断をするように導いてくださるように祈ります。
 
第三つ目は離婚に関することです(31、32)
31,32「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」とあります。当時は離婚状についてのモーセの律法を土台にして、離婚が簡単に行われていました。妻の作った料理がまずくても離婚の理由になるほどでした。特に古代の人々は女を無視していました。ソクラテスは「妻ほど、口を利かなくて済むものがほかにあるだろうか。私は自分が男に生まれ、豚や、女に生まれなかったことを感謝する」と言いました。ローマのことわざには「結婚には二日だけ幸せな日がある。結婚の日と、妻の葬式を出す人である」ということもありました。しかし、イエス様は女性に人権を男と平等に考えておられました。ですから、「だれでも不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯せるのです。」と言われました。あまりにも簡単に、無責任で一時の情念に引き回されるような離婚が横行する時代にあって、イエス様は結婚の本質にたって、離婚は認められないことを言われたのです。」

第四つ目は誓いに関することです(33?37)
33、34節をご覧ください。「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。」とあります。
ユダヤは宗教国家ですが、人々は「神の名によって、誓います。」というセリフを乱用していました。宗教国家における、慣れあいと無感覚から誓いの厳粛さが失われていたのです。ほんとうは誓わなくても、相手に信用してもらうようなあり方こそ大事です。ところが、私たちも、「本当にこれをやってくれますか?」と聞かれた時、「うん。絶対にする!」と言いがちです。もし本当にするのなら、「はい、します。」とだけで十分なのです。イエス様は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい、と言われました。つまり、本当の意味で、自分の言ったことを守る人になりなさい、という事です。

第五つ目は復讐に関することです(38?42)
38、39節をご覧ください。「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とあります。
「目には目で、歯には、歯で。」という神様の戒めは、被害者の権利を守るための公平な裁判を遂行するためのものです。「目にはいのちを。」と言うのではなくて、「目には目を。」とあるところに、公正な判断がなされているのです。ところが律法学者たちは、復習しなければなりませんと教えていました。私たちは何か悪い事をされると仕返しをしたくなりますが、その肉の思いを助長するようなことを彼らは教えていたのです。しかし、イエス様は「。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と言われました。イエス様は私たちが自分の権利や所有物に固執せずに、キリストのためならすすんで捨てる態度を取るように言われたのです。

 第六つ目は隣人愛に関することです(43?47)
43、44節をご覧ください。「 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。これは山上の垂訓における最高峰であると言われています。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ること、これこそアガペーの愛です。知性・感情・意思・身体あげての全人格的愛です。この愛の中心は知性と意思です。敵でさえ愛することです。イエス様は言われます。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」そうです。異邦人の中でもほんとうに自分によくしてくれる人に対してよくしてあげます。もらうと必ずお返しします。自分が好きな人、自分に合う人を愛することはノンクリスチャンもよくしているのです。しかし、イエス様はそれくらいの愛ではなく、敵をも愛するアガペーの愛を求めておられます。そして、イエス様ご自身はその愛を実践されました。イエス様のご生涯に敵でさえ愛し続けられた神様の愛がよく現われています。特にイエス様はご自分を十字架につけて殺す人々をも愛して彼らのために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
私たちも、このようなイエス様の愛を実践していく時に、天にいます父の子どもになれます。でも、イエス様のように人を愛し、敵をも愛することはやさしくありません。敵を愛し、敵のために祈ることはほんとうに難しいことです。人間の本性からはできないことでしょう。それは信仰によってのみできます。信仰によって私たちは神様の子どもとされます。私たちが神様を信じる信仰によって生きると、神様は大いなる愛と、キリストの力、聖霊の導きによって私たちが敵を愛する者にならせてくださいます。ですから、私たちは敵をも愛する愛を実践する方向を失っていけません。つねにその目標を目指していくべきです。

 結論的に48節をご一緒に読んでみましょう。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」イエス様は天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。これは愛における完全です。哲学的な完全、理論的な完全ではなく、成長における完全です。言葉や口先ではなく、真心と行ないにおける愛の成熟度において完全であることです。神様が神様の敵になってしまった私たちを愛したように、私たちも自分の敵を愛することです。キリストがご自分のいのちまで捨てて私たちを愛したそのキリストの愛において成熟することです。キリストの愛が完全なように、私たちの愛も完全であることです。エペソ4:13を見ると「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあります。私たちの目指すべき信仰の成熟度、愛の成熟度はキリストの満ち満ちた身たけにまで達することなのです。栄光から栄光へ変えられてキリストのように完全であるまで変えられていくことです。どうか、私たちの信仰と愛がキリストの御姿にまで変えられていくことができるように祈ります。