2006年マタイの福音書第8講  

神の国とその義とをまず第一に求めなさい

御言葉:マタイの福音書6:19?34
要 節:マタイの福音書6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 神様が2006年UBF世界宣教報告大会を大きく祝福してくださり感謝します。先週の主日、韓国オリンピック公園の中にあるオリンピックホールは「王である祭司、聖なる国民」として生きることを決意した6000余名の人々によって満たされました。この大会には世界60カ国から集まった韓国人宣教師300余名、現地人リーダー180余名が参加しました。日本からは宣教師、牧者を合わせて19人が参加しましたが、皆さんの祈りの支援を心から感謝します。
第一部の礼拝の時、Mother Sarah Barry宣教師は「聖なる国民」(?ペテロ2:9)」というテーマでメッセージを伝えてくださいました。メッセージによると、私たちは大祭司であられるイエス・キリストの血によって罪が赦されて神様の御前に出て行くことができるようになりました。ですから、私たちもイエス様のような犠牲を通して神様と人々の間に仲介者の役割を果たす王である祭司になり、心をよく治めて神様の栄光のために生きる聖なる国民になりましょうということを言われました。そして、聖なる国民は神様を愛し、隣人を愛すること、イエス様も弟子たちに互いに愛し合いなさいと命じられたことを強調されました。私たちが聖なる国民としてイエス様に従って互いに愛し合い、敵をも愛する愛によって世界宣教に励み、UBFから2041年までは10万宣教師を派遣することができるように祈ります。
第二部は宣教報告の時間になりましたが、この大会に参加して祝辞を述べられた韓国キリスト教総会の会長朴ゾンスン牧師は「からし種運動で始めたUBFが86カ国に1450名の宣教師を派遣した世界一の若い宣教団体になったことを祝賀する。」と言いました。また、過去UBFがPara Church運動として韓国教会から誤解されましたが、韓国キリスト教総会のメンバーシップを持って韓国教会の傘の下に入ってきたことを祝賀すると言いました。そして「韓国のキャンパスを生かし、全世界に自費糧専門人宣教師を派遣する中心的な働きをしてもらいたい」という願いも言いました。
宣教報告大会の講師は韓国宣教師3人、現地から第三国に派遣された宣教師3人の報告と牧者2人の証がありました。私は宣教報告とライフ所感に感動し、大きな恵みを受けました。特に私は韓国では専門医として、医科大学の教授として裕福な生活ができましたが、すべてを捨てて黒い大陸アフリカのウガンダのために命がけで働いている任ルカ宣教師の犠牲と信仰を通して自分の安逸と不信仰を悔い改めるようになりました。私が悔い改めにふさわしい実を結んでもっと献身的に日本宣教のために励むことができるように祈ります。
宣教大会の次の日からは、現地リーダーたちは観光地と地方センターツアーに参加し、宣教師たちはコンジアムソマン修養館で行なわれる宣教師修養会に参加しました。修養会は「それから、終わりの日が来ます」というテーマで行なわれました。世界中にイエス様が預言された終末の前兆が見えていますが、今こそ全世界に福音が宣べ伝えられなければなりません。イスラム教の国々にも、北朝鮮と中国にも福音が宣べ伝えられなければなりません。私たちはもっと効率的に福音を宣べ伝えるために世界宣教戦略を発表し合う時間を持ちました。私もアジア地域の日本代表としてヨハネの福音書10:10節に基づいた日本宣教戦略を発表しました。今、日本の景気は回復されつつありますが、精神的、霊的には病んでいます。最近8年間自殺者が毎年3万人を越えています。何もしようとしないニートたちが64万人を越えているし、青少年の犯罪が増えています。「日本沈没(小松左京原作、樋口真嗣監督)」という映画もありますが、サタンは日本を殺し、滅ぼそうとしています。しかし、イエス様は日本を生かすために天からこの地に来られました。実際にイエス様は「わたしが来たの、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。そして十字架の死と復活を通してサタンに打ち勝って私たちに勝利を確証してくださいました。今は天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられるイエス様が聖霊を通して羊がいのちを得、またそれを豊かに持つために働いておられます。何よりもイエス様だけが日本を救って癒し、生かすことができます。ですから、私はひたすらイエス様だけに頼り、愛と御言葉によって日本宣教のために励むことが宣教戦略であるということを発表しました。
以上で簡単な報告をしましたが、具体的な内容はUBFで出版された本を参考にしてください。
今日の御言葉のテーマは「心配は無用であるからまず神の国とその義を求めなさい」ということです。私が基礎勉強の質問紙を作るためにいろいろ考えている時は心配事が多くありましたが、そのためなのか、「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」という御言葉が非情に恵みになりました。実際に、私は去年の収入と比べれば平均的に毎月七分の一位が減りました。その上、去年の収入が多かったために都民住宅である家の家賃が上がったし、新宿区からの学費補助金はもらえなくなりました。そこで、いろいろ心配している私に「心配するのはやめなさい。」と言われる主の御言葉には力がありました。そういうわけで質問紙のタイトルを「心配するのはやめなさい」にしました。勉強会の時、金ヨハネ宣教師から「私なら前向きにして「まず神の国とその義を求めなさい」にすると言われましたが、それでもタイトルを直さずに「心配するのはやめなさい」にしました。しかし、私は宣教報告大会と宣教師修養会に参加して聖なる国民とは心配をやめるくらいだけではなく、神の国とその義を求めるために積極的に励まなければならないことを深く悟りました。特に修養会の時、非公式的な行事として商売や自営業、ビジネスをしている方たちの経験談を語り合う会がありましたが、ほとんどの方たちがまず神の国とその義を求めた時、自分の生活はもちろん、教会に仕えるために必要なものも満たしてくださったことを証ししました。フランスのレベカ崔宣教師、インドのジミ李宣教師は失職して自分の家族の生計さえ苦しい経験をしました。しかし、それでも、神の国を求めながら働いた時、今はビジネスが成功し、彼らの会社を通して宣教師や牧者たちの就職まで解決してあげるようになりました。ジミ李宣教師の場合は定期的に大統領と出会って諮問する事業家になりました。アフリカ、CIS、南米の宣教師たちの中でも多くの方たちがまず神の国とその義を求める生活の中でビジネスを始めて成功し、今は自分の衣食住の問題だけではなく、宣教地の兄弟姉妹たちの生活の必要まで満たしていたのです。そういうわけで、今日のメッセージのタイトルは「まず第一に神の国とその義を求めなさい」です。
 イエス様は本文の御言葉を通して心配するのをやめてまず神の国とその義を求めなさいという方向を与えてくださいます。この時間、御言葉を通して将来に対する心配をやめてまず神の国とその義を求める信仰を持つことができるように祈ります。

 ?.永遠の宝は天に蓄えなさい(19?24)
19節をご覧ください。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」とあります。イエス様は弟子たちに「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。」と言われました。人々は自分の宝を地上にたくわえるために努力し、投資します。古代では宝を地下に埋めました。人々に見られないから安全だと思ったでしょう。でも、それは虫とさびできずものになりました。また、盗人が穴をあけて盗むこともありました。人々は地上に倉庫を作って倉庫の中に宝をたくわえても盗人が盗んでいきました。地上に蓄えても、それがずっと残ることはできなかったのです。現代人は元金を維持することだけではなく、それを増やすために銀行に貯金したり、株式会社に投資したりして自分の宝を蓄えることもします。しかし、それも安全ではありません。銀行も倒産する時があります。先週のニュースでは「村上ファンド」をめぐる証券取引法違反疑惑が報道されていますが、村上ファンドが保有する株式が急落しました。ライブドアーの堀江氏と村上氏は、ともに東京・六本木を拠点にしていて「ヒルズ族」と呼ばれましたが、今は、疑惑の代名詞になっています。彼らに期待をかけていた投資家たちの中には滅んでいく人々が多くあります。では、私たちは自分の宝をどこに蓄えるべきでしょうか。
20、21節をご覧ください。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」とあります。イエス様は「自分の宝は、天にたくわえなさい。」と言われました。その理由は何でしょうか。
第一に、天にたくわえたものだけが安全であり永遠であるからです。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。天に蓄えると、それは永遠に残るのです。
 第二に、宝のあるところに、私たちの心もあるからです。私たちの宝が地上にあるなら私たちの心もそこにあります。しかし、私たちの宝が天になるなら、私たちの心も天に向かいます。
したがって、私たちは自分の手に入れたすべては神様のものであることを認めて、どのようにすれば天の御国のために用いられていくかを考えなければいけません。「心を天に向けよ」ということです。私たちが宝を持つこと自体に何も悪いことはありません。つまり、私たちの財産が増えて金持ちになることは、決して悪くないのです。成功した実業家たちが惜しみなくささげる献金によって、数多い教会が支えられています。UBFの中でも成功した平信徒宣教師たちによって第三世界の数多い兄弟姉妹たちが衣食住の問題を解決しています。隠されているから一般の人々には知られていないけれども、クリスチャン実業家の献金によって宣教の働きが支えられていることは事実です。実業家だけではありません。貧しく、小さい、名もなきクリスチャンがささげ続けた、小額の献金も世界宣教のために貴く用いられています。これらのことは父なる神様以外には、誰にも正しく評価できないでしょう。
ですから、この地上の宝、そのものが悪いのではなく、金銀、宝石、不動産、地位、名誉などにのみ心を奪われていることが問題です。心が地上のものに奪われてしまうと、自分は不安と恐れとのうちに滅んでいきます。しかし、心を天に向けて宝を天に蓄える人は平安と喜びのうちに輝かしい人生を過ごし、天国に入るようになります。ですから、私たちは物事を正しく見分ける正しい価値観を持つ必要があります。
 22-23節を読んでみましょう。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」ここで、「あなたの目が健全なら」と訳されている原語の意味は「一つの目的物にしっかと目をとめていれば」という意味だそうです。すなわち、神様の事にだけしっかと目をとめているという意味なのです。
ほとんどの人は、余りにも多くの事に気を散らしすぎています。実際に複雑になっている現代社会は多くのことに気を散らしていなければならないような気がするときもあります。衣食住のことだけではなく、仕事、子どもの教育、老後の生活、文化生活、レジャー、旅行などの事にも関心を持たざるを得ない時代なのです。しかし、それらに私たちの目がくらんでしまって、一番大切なことであるキリストの福音を見る目がなくなってしまうなら、それは大きな問題です。人にとってこれ以上の悲劇はありません。私は宣教報告大会と宣教師修養会を通してくらんでいた目が少しずつ見えるようになったような気がしました。終末の前兆が見えているこの時代に福音伝播のために召されていることはほんとうに感謝すべきことです。私は目が覚めた時、自分がこの福音伝播に怠けていたことを悟り、悔い改めました。また、これからますます力を注いで担うべきことは福音伝播であることも深く悟り、人生の方向と目標を再び新たにすることができました。私たちは、つねに御言葉を通して健全な目を持つ必要があります。ほとんどの人々がこの世と調子を合わせて生きていますが、その中でも福音の窓を通して物事を判断する健全な目を持たなければならないのです。つまり、一つの目的物にしっかと目をとめて生きるのです。ではどこに目をとめるべきでしょうか。
24節を読んでみましょう。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。ここで、私たちは神様だけに目をとめて行かなければならないことを学ぶことができます。私たちは神様だけに目をとめて生きるか、お金に目をとめて生きるかを決断しなければなりません。もちろん、たくさんためられたお金で多くの人々に仕えるクリスチャンとして生きることもいいでしょう。でも、お金が蓄えられたら宣教のために働こうとすることは不可能なことです。私たちは、まず自分の財産はすべて神様のものであるという認識に立つ必要があります。そして、どうすれば自分の財産が神様を愛するために用いられることができるのかを考えるべきなのです。

?.神の国とその義を求めなさい。
弟子たちは地上に蓄えたものがありませんでした。ところが、イエス様はこれからも地上に蓄えてはならないといわれました。では、弟子たちは何を食べ、何を来て生きられるでしょうか。心配せざるを得ないでしょう。実際に、心配せざるを得ない状況だったのです。しかし、イエス様は何と言われましたか。
25節をご一緒に読んでみましょう。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。イエス様は自分のいのちのことで、食べ物や着る物を心配してはいけません。と言われています。なぜなら、いのちや、身体の方が大切なのに、食べ物や着る物に思いを注ぐ事は、バランスの欠けた生活だからです。
イエス様はいのちの大切さを戒めてから、空の鳥と野のゆりを見て信仰の学習をし、信仰を強めるように言われました。
26-30節をご覧ください。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
このホールでは空の鳥が見えないから、鳥を考えて見ましょう。鳥は蒔きもしません。借り入れもしません。倉に納めることもありません。ただ、鳥たちは必死で餌を探して生きています。一日一日自分で食べなければ死ぬ運命なのです。それなのに天の父なる神様は鳥たちを養っておられます。そこで、イエス様は言われます。「あなたがたは鳥たちよりも、もっと優れたものではないか、(思いわずらわないで、今日を一生懸命に生きるのだ。)」と言われるのです。また、イエス様はじっくりと、野のゆりが、どうして育つかを観察してみなさいと言っておられます。野のゆりは働きません。つむぎもしません。しかし、人類歴史上誰よりも栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていませんでした。神様は野の草さえも、今日はあっても明日は炉に投げ入れられるような草さえもこれほどに飾ってくださるのです。まして、ご自分のひとり子さえも惜しまずにお与えになったほどに私たちによくしてくださらないわけがあるでしょうか。そんなことは絶対にありません。
私たちが心配するのは、ただ信仰がうすいからです。そこで、イエス様は言われます。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
いつの時代でも、人間には心配事が付きまといます。限られた家計の中で衣食住や子どもの教育費なとのやりと、リストラ、金融不安、人間関係、犯罪、老後の不安、地震、台風などによる自然災害など、心配の種はつきません。ところが、私たちが心配していることはほとんど心配しても解決できないことです。ある調査によると、心配の40%は決して起こらないことだそうです。30%は心配しても自分ではどうしようもないこと、12%は健康についての不必要な心配だそうです。実に心配の82%は、しても何も始まらないものなのです。それなのに心配する原因は神様に対する疑いです。つまり、自分は神様に愛されていないと思うことです。人と比べて自分は愛されていないと思ってしまうことです。また、自分の罪が赦されていないと思うことです。しかし、聖書は言います。何もものも私たちの主イエスにある神様の愛から私たちを引き離すことはできません。また、聖書は「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」と言っています。
ですから、救われた私たちにとって心配は無用です。31,32節を読んでみましょう。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」私たちは聖なる国民とし、神様の子どもとして愛しておられる神様は私たちの必要をすべてご存知です。神様が私たちを助けてくださいます。問題は私たちが神様を本気で信じていないことです。うすい信仰が問題なのです。不信仰を悔い改め、心配するのは、やめましょう。働きもしない野の花がここまで着飾っているのだから、主のために、世界宣教のために働いている人々のためにはどんなに祝福してくださるでしょうか。なおさら着る物が与えられるでしょう。必ず神様が責任を持って導いてくださいます。
日本は地上でどの国よりも豊かに暮らしています。でも、生活以上に大事な価値観がありませんから、社会全体が、食べるもの、着る物、住む所を心配するような気がします。心配のためによく貯金するから、お金がよく回らないと言われるほどです。そして、老後を心配して貯金しているから年寄りには蓄えられた金が多いと思われて年寄りを相手にする詐欺事件も多発しています。私たちが、「天の父が養って下さる」という真理を信じなければ心配の中で死んで行くのです。しかし、私たち神様の子どもたちは、物質の必要に関して神様にゆだねる特権があります。また、義務もあります。 では神様を信頼して私たちが求めるべきことは何でしょうか。

結論的に33、34節をご一緒に読んでみましょう。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
 神の国とその義とをまず第一に求めなさいということは、キリストの正しさを愛と恵みに頼り、信仰によって実践することを追求しなさいということです。具体的に神の国の拡張のために、全世界に福音を宣べ伝えることです。どうか、私たちが心配することよりも神の国のために励むことができるように祈ります。すると、神様は私たちが求める神の国を体験させてくださることだけではなく、私たちの地上の生活に必要なものも豊かに満たしてくださいます。私は宣教報告大会と宣教師修養会を通してもう一度、このことを確信することができました。どうか、私たち一人ひとりが思いわずらうことなく、信仰によって神の国とその義を求める生活のためにますます励むことができるように祈ります。