2006年列王記第二 第3講

イスラエルの神様のほかに神はいない

御言葉:列王記第二5章
要 節:列王記第二5:8 「神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」」

先週、私たちは良い牧者エリシャが人々の必要を満たすために多くの奇跡を行なったことを学びました。エリシャはさまざまの問題のために苦しみ、悲しんでいる人々に希望を与え、彼らの必要を満たすために奇跡を行ないました。今日も私たちはエリシャの活動を学びますが、イスラエル人ではなく、異邦人の将軍ナアマンを助けられたことです。エリシャの助けによってナアマンのらい病は癒されました。何よりもこの癒しの経験を通してナアマンはイスラエルに預言者がいることを知るようになりました。それだけではありません。彼は「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」と告白しました。
そして、イエス様はナアマンがきよめられたことを通して異邦人の中に癒しと救いのみわざが起こることを示唆してくださいました。ルカの福音書4:27節を見ると「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」とあります。では、どのようにしてナアマンの病は癒されたでしょうか。そして、異邦人であるナアマンが癒されたこと、彼の変化が私たちに示唆してくれるメッセージとは何でしょうか。 この時間、神様がナアマンを通して私たちに教えてくださる霊的な教訓を深く悟り、学ぶことができるように祈ります。何よりも、私たちもナアマンのように癒しを経験し、「イスラエルの神ほかに神はいない」と告白することができるように祈ります。

?.ナアマンの人格と信仰(1?7)
1節をご覧ください。ナアマンはイスラエル人ではなく、アラム人として異邦人の将軍でした。将軍の中でも何度も勝利を経験した勇士でした。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからです。それで、彼は自分の国の王から重んじられ、尊敬されていました。しかし、そんな彼にも問題がありました。ナアマンは勇士ではありましたが、らい病にかかっていたのです。らい病は重い皮膚病のことです。イスラエルでは汚れた病気とされていました。このひどい病気はナアマンにとって大きな人生問題になっていたでしょう。
今日でも外見上の姿は何の問題もなさそうに見えますが、内側ではらい病のような病を患っている人たちが多くいます。日本は、ナアマン時代のアラムのように先進国になっています。聖書の神様を信じなくても経済的に成功し、経済大国になっています。それに秩序意識が高く、治安の良い国として日本国民は平和に生きています。外見上の姿を見ると、ナアマンのように世界中の国々から重んじられ、尊敬されているしょうか。韓国と中国の以外の多くの国では経済的な援助を受けて日本を高く評価していると思います。しかし、この日本は経済大国ではありますが、らい病にかかっているような人々が多くいると言えるのではないでしょうか。いじめ問題、格差社会問題、教育問題などで重い病を患っているのです。教育問題だけを見ても去る十年間で精神的な病のために休職したり、学校を辞めたりする教師が3倍も増えました。神奈川県のある地域のアンケートでは落ち着かない生徒たちのために小学校98%、中学校92%の教師が休憩の時間を取ることができないと答えました。このような社会の中でも多くの人々がナアマンのように外見上は偉く見えてもさまざまな病を患っているのです。外見上は大学生として重んじられ、プライドを持っている兄弟姉妹たちも人生のさまざまな問題のために悩み、苦しんでいる人々が多くいます。四、五年前のことですが、早稲田大学UBFの会長として協力してくださった東後勝明教授の講演会で聞いてみると、毎年精神的な病を患っている学生が増えていると言われました。ではらい病にかかっていたナアマン将軍はどのようにして主の癒しを受け、主を知る者となりましたか。
まず、ナアマンと関わっている人々がナアマンを主のもとに導く役割を果たしました。一番目の人はナアマンの妻に仕えていたイスラエルの娘です。2、3節をご覧ください。「アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」とあります。ひとりの若い娘は家政婦の働きをしていたのですが、イスラエルから捕らえられてきた奴隷です。自分の国を略奪したナアマンのために良い知らせを伝えることはなかなか難しいことだったと思います。しかも、彼女はナアマンがサマリヤにいる預言者エリシャのところに行っても主の癒しを受けることが出来ないなら、殺されるかもしれない奴隷の身分です。しかし、彼女は大胆にも福音を証しました。何と素晴らしいことでしょうか。聖書に「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は(イザヤ52:7)。」とあります。私たちもどんな場合にも良い知らせ、福音を宣べ伝えましょう。ナアマンの癒しはこの名もないひとりの少女の証から始まっているのです。私たちがどんな場合にも福音を伝えると、それは人々の癒し、救いにつながります。イスラエルの娘はナアマンの妻に仕える家政婦の仕事をしていたから忙しかったでしょう。略奪されてきた奴隷としてつらいこともあったでしょう。それで、自分の運命を悲しみ、不平不満の中で自分の仕事だけをしていたなら、彼女のことは聖書に記されなかったはずです。しかし、自分の仕事は主人に信頼されるほどしながらも神の預言者を紹介する伝道活動をしたからこそ、死に掛けているナアマンは主の癒しを受け、主を知る者となりました。私たちも毎日自分の仕事や勉強だけに追われる生活をするなら虚しくなるでしょう。しかし、イスラエルの娘のように自分がいる場所で福音を証すると、それによって人々は主の癒しを受け、主を知る者となります。
イスラエルの娘が大胆にも良い知らせを伝えたからこそナアマンは主の癒しを受け、イスラエルの神こそほんとうの神であることを知るようになりました。二番目の人はナアマンの妻です。イスラエルの娘が福音を伝えても自分に仕えている奴隷の証を無視してしまえば、何も起こらなかったはずです。しかし、ナアマンの妻は自分の奴隷の話にも耳を傾け、自分の夫にイスラエルには預言者がいることを伝えました。三番目はアラムの王です。4,5節をご覧ください。「それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」」とあります。アラムの王はナアマンの話を聞いた時、イスラエルに行って来るようにしました。しかも、彼はイスラエルの王にあてて手紙を書いて協力を要請してくれました。王もナアマンの癒しのために積極的に協力していることが分かります。
以上で、ナアマンは自分とかかっている人々の関係が非常に良かったことも知ることができます。きっと彼は人柄が良い人だったでしょう。もし、ナアマンが乱暴な将軍だったなら、彼がらい病にかかった時に人々は喜んだはずです。「早く死んでしまえ。」と呪ったでしょう。しかし、彼とかかっている人々は皆ナアマンが癒されてほしいと願っています。それで、ナアマンが神の人のところに行って来るように良い知らせを伝え、協力しました。ナアマンが神様のみもとに出て行くように働いたのです。しかし、本人の心に神の人預言者に対する信仰がなければ何も出来ません。いくら多くの証を聞いてもナアマンに信仰がなければわざわざイスラエルまで行かなかったでしょう。信仰がなければ問題解決につながらないのです。しかし、ナアマンには信仰がありました。彼に信仰があったことはイエス様が証してくださいました。ルカ4:27に「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」とあります。ナアマンにはイスラエル人にも見られない信仰があったのです。彼はイスラエルからつれて来られた若い娘、奴隷の言うことに耳を傾け、彼女の言葉を受け入れました。そして、イスラエルの娘から聞いたことを行動に移しました。行動する信仰があったのです。ところが、彼がイスラエルの王様のもとに行った時、イスラエルの王は素直に受け入れてくれませんでした。イスラエルの王はアラムの王が送った手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言いました。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。(7)」彼は、ナアマンの妻の女奴隷のイスラエル人の少女と違って、預言者エリシャのことが思い浮かびませんでした。神様の働きを受け入れようとしない人は、神様の働きに関心がないので、神様の働きを見ることができません。しかし、神様は働き続けておられます。特に、神様は神様を信じる神様のしもべたちを通して働いておられます。神様は神の人エリシャを通して信仰によってわざわざアラムからイスラエルまではるばる出てきたナアマンのうちに働かれました。

?.ナアマンの謙遜と従順(8?15)
8節をご一緒に読んでみましょう。「神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 エリシャはイスラエルの王が恐れて服を引き裂いたことを聞くと心を痛めました。それで、王のもとに人をやって言いました。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 エリシャはナアマンを癒すことによってイスラエルに預言者がいることを知らせようとしました。そこで、エリシャはどんなことをしましたか。
9、10節をご覧ください。「こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」ナアマン将軍は馬と戦車を持って来て、エリシャの家の入口に立ったのにエリシャは直接に迎えることもしませんでした。ただ使いをやって「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」と言いました。ここで、エリシャは神の人としてアイデンティティのある人、また気骨のある人であったことが分かります。彼は現代のある宗教人のように権力ある者の前に頭を下げる卑屈な行動をしませんでした。エリシャの態度に対するナアマンの反応はどうでしたか。
11、12節をご一緒に読んでみましょう。「しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。」ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。」エリシャの態度に対してナアマンは怒りました。彼は怒る理由は何ですか。自分なりの考えがあったからです。ナアマンは「私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。」と言っています。彼の将軍として立場を考えると、当たり前の反応であるかも知れません。今で言えばアメリカのような国で大統領に重んじられ、尊敬されている人であって韓国にいるある牧師のところに行ったようなものだからです。しかも、エリシャは農村で働く田舎者出身の預言者です。エリシャがエリシャを呼ぶ時、エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していました(?列王記19:19)。ですから、当時、最強国であるアラムの将軍としてのプライドを持っているナアマンがエリシャの言葉に怒ることは当然なことであったかも知れないのです。地位の高い人でなくても、まじめに、勤勉に、善良な市民として生きている人なら自分になりに思っていることがあるから社会的な身分の低い牧師の言うことに従うことは難しいでしょう。自分と関わっている人々の紹介を受け入れて信仰によって教会に来たとしても小さな教会の牧師のことばに素直に従うことはなかなか難しいかも知れません。ですから、ナアマンも「この牧師、ずいぶん失礼なアドバイスするわね!」と怒って帰途についたのです。しかし、人々に勧められて教会に来ても従順がなければ癒しや奇跡を体験することはできません。御言葉への従順を通して奇跡を体験することができます。では怒って帰途についたナアマンにどんな変化がありましたか。
13節をご覧ください。ナアマンがエリシャに怒って帰途についたそのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言いました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」ナアマンのしもべたちは素晴らしいアドバイスをしてくれました。彼はしもべたちにも恵まれていますね。彼のしもべたちはナアマンが主のしもべのことばに従うように話してくれました。預言者がそんなことを言って人の心に傷つけてもいいのかと言ったのではなく、預言者の言うことに従うように話したのです。これも大切なことです。私がインターン牧者として教会に仕えている時、牧師先生は私の高慢を指摘し、裸足で大学のグラウンドを50週して来るように指示したことがあります。しかも「私は高慢なものだ。」と叫びながら走ることでした。なかなか従いにくい訓練でした。でも、私の1:1牧者は私が従うように助けてくれました。そのおかけで、私は走りながら自分がいかに高慢なものであり、汚い人間であることを悟って悔い改めることができました。ナアマンは自分のしもべたちのアドバイスによって謙遜になりました。聖書に「ナアマンは下って行き」と書いてありますが、まさに彼の心はへりくだっていったことでしょう。それから彼は神の人の言ったとおりに従いました。エリシャが言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸したのです。七たび身を浸したことは完全な従順を表しています。この謙遜と従順によってどんなことが起こりましたか。14b節をご覧ください。「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」とあります。不治の病が癒される奇跡が起こりました。ヨルダン川にある良い温泉があったから癒されたのではありません。ヨルダン川に科学的に証明されている良い水が流れていたから癒されたのでもありません。神の人の言ったとおりにしたからこそ、癒されたのです。
異邦人のナアマンがわざわざ神の人エリシャのところまで来たことは素晴らしいことです。しかしそれだけでは何も起こりませんでした。彼は自分の期待に反するエリシャの単純な言葉に失望するしかありませんでした。多くの人々、特に名誉、地位、学識のある人々は自分のなりに思っている形があるから単純なことにはなかなか従いません。ナアマンのしもべたちが言っているように、彼らはむずかしいことを言われると何とかしようとしますが、あまりにも単純なことには耳を傾けないのです。王に重んじられ、尊敬されていたナアマンもそうでした。彼は富、名誉、地位を得、プライドが高く、自信に満ちている人だから、彼もエリシャの言うとおりに従うことが難しかったのです。しかし、彼が謙遜になって神の人エリシャが言ったとおりにすると、奇跡を体験することが出来ました。らい病が癒される驚くべき神様の恵みを受けるようになったのです。聖書には従順によって奇跡を体験し、謙遜によって恵みを受けたことが何箇所も記されてあります。
ヨシュア記6章を見ると、エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして誰一人出入りする者がいませんでした。ところが、神様はイスラエルに町のまわりを回るように、六日、そのようにするように命じられました。そして、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならないと言われました。ところが、堅く閉ざしている町の城壁を回ることだけで何が起こるでしょうか。なかなか従いにくいことです。しかし、ヨシュアとイスラエルが神様の言われたとおりに従ったとき、その城壁は崩れ落ちました。イスラエルは従順を通してエリコの城壁が崩れ落ちる奇跡を体験したのです。
ヨハネの福音書2章を見ると、イエス様が行なわれた最初のしるし、奇跡が記されてあります。そして、身を持ってその奇跡を体験した人々はイエス様が言われたとおりに従った手伝いの人たちでした。ぶどう酒がなくなったと言うのに、水がめに水を満たしなさいと言われるとそれに従うことはほんとうに難しかったでしょう。しかし、手伝いたちはイエス様が言われたとおりに従う従順を通して水が良いぶどう酒に変わる奇跡を体験したのです。
ルカの福音書2章を見ると、マリヤは御使いから自分がみごもってイエス様を産むことが告げられた時、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」tお答えました。この謙遜と従順によって彼女はどの時代の人々も、彼女を幸せ者と思う恵みと祝福を受けました。聖書に「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6)」とありますが、ほんとうに私たちは従順と通して神様の奇跡を体験し、謙遜によって神様の恵みを受けるようになります。神の人エリシャによって主の癒しを受けたナアマンの態度はどうですか。
15節をご覧ください。「そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」とあります。ナアマンは「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」と告白しました。結局、エリシャはナアマンの癒しを通してイスラエルに預言者がいること、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを明かりかにしました。エリシャの働きの目的はイスラエルの神、聖書の神様こそほんとうに神様であることを知らせることにあったのです。そのために、エリシャは異邦人の将軍ナアマンに神様のしもべとしての権威を見せて彼が神様を信じるように助けました。私たちもエリシャのようなアイデンティティ、プライドを持ってこの世で重んじられている人々、ナアマンのような兄弟姉妹たちを助けることが出来るように祈ります。

?.貪欲のために罰せられたゲハジ(16?27)
16?27節には生きておられる神様の前で生活しているエリシャと自分の欲に従って生きているゲハジのことが対照的に記されています。エリシャは神のしもべとしてのアイデンティティとプライドのある人です。彼は神のしもべとしての見識を持って使命を果たしました。そして、ナアマンが癒され、はるばる携えてきた莫大な贈り物を何とかして受けさせようとしてもそれを断わり、受けませんでした。16節を見ると「神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断わった。」とあります。それなのにゲハジは下品な人であり、恥の人でした。彼に忠実なエリシャのしもべであるように見せかけて自分の欲を満たしました。彼はむさぼりと嘘つきの罪を犯しました。その結果、彼は神様に罰せられてらい病にかかってしまいました。ここで、主に仕える者が、自分の欲のためにへつらいの言葉でもって横取りするものなら、神のさばきがあることを学ぶことができます。聖書には罰せられてらい病にかかった人は3人います。ゲハジのほかにふたりがいます。ミリアムは嫉妬とつぶやきの言葉のために(民数記12:1,10)、ウジヤは高慢のために(?歴代誌26:16?21)らい病にかかってしまいました。人を嫉み、つぶやくこと、高慢とむさぼりの罪がいかに嫌われている罪であるかが分かります。特に神様のしもべとして召されているものはこれらのことを厳重に受け止めなければなりません。知識が少ししか与えられていない者は少しの責任ですが、多く与えられている者は多く任されます。ですから、聖書の知識を増やすことも良いですが、聖書に従うことこそとても大切なことです。

以上をまとめますと、私たちはナアマンを助けた人々、ナアマンの信仰、従順、謙遜を学びました。特にナアマンを信仰と従順、そして謙遜へと導いていったエリシャのことを学びました。皆さんが最近、従おうとしている御言葉はどこの御言葉でしょうか。愛に関して、祈りに関して、使命に関して神様が従うように命じておられる言葉があるはずです。何も浮かばない方には神様が今年の要節の御言葉でも従うように促しておられます。私たちが日々信仰によって自分の病やさまざまな問題をイエス様に告白し、主の御言葉への従順によって癒しと奇跡を体験することが出来るように祈ります。また、謙遜によって恵みを受ける人生を送ることが出来るように祈ります。さらに進んでエリシャのように異邦人を信仰と従順、謙遜へと導き、聖書の神様こそ本当の神様であることを日本と世界に知らせることができるように祈ります。