2006年聖誕第2講

私たちのために生まれるひとりのみどりごイエス様

 御言葉:イザヤ9:1-7

要 節:イザヤ9:6 「一人のみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

Merry Christmas! 先週、洗礼式と聖餐式を通して、私たちが御血の恵みを新たにすることが出来たことを感謝します。私たちは聖なるパンを食べ、聖なるぶどう酒を飲むことによってイエス・キリストの十字架の死の恵みを覚えて感謝し、キリストの血潮によってきよめられることができました。イエス様は私たちの救いのために十字架で釘を打たれて血を流し、うめき、悶えて死なれました。そして、このキリストの死はキリストの誕生から始まっています。では、イエス・キリストの誕生によって人類の歴史、個人の人生はどのように変わるでしょうか。人類の歴史は、今から2006年前に起こったイエス・キリストのご誕生で、BCとADとに分けられました。BCとは、Before Christ、英語で「キリスト以前」を意味します。ADとは、Anno Domini、ラテン語で「主の年」という意味です。世界の歴史は、イエス・キリストのご誕生の前後で区別されているのです。実は、私たち一人ひとりの人生にも、BCとADがあります。私たちの人生という歴史の中に、時が満ちて、キリストを信じ心に迎える、それが本当のクリスマスです。目に見える形ではバプテスマを受けたその日がクリスマスです。先週の日曜日は、洗礼を受けた方にとってはクリスマスです。その日が、BCからADへの転換点となります。このクリスマスの時を境にして、私たちはAD「主の年」を数えて生きるようになります。私たちがAD「主の年」を数え始めると、私たちの人生はどのように変わるでしょうか。今から2700年ぐらい前に、預言者イザヤはイエス・キリストのご誕生によって人類の歴史がどのように変わるかを預言しました。彼の預言によると、苦しみのあった所に、やみがなくなります。はずかしめを受けた人たちは光栄を受けます。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見ます。イエス・キリストによる喜びは増し加えていきます。このイザヤの預言はひとりのみどりごイエス・キリストの誕生によって成就しました。そして、今もひとりのみどりごイエス様を信じることによって自分のうちにAD主の年は始まります。苦しみの中ではずかしめを受けた人がキリストによって光栄を受け、大きな光を見るようになります。キリストによっていつも喜ぶ人生へと変えられて行きます。万軍の主の熱心がこの素晴らしい救いのみわざを成し遂げてくださいます。どうか、御言葉を通して私たちのために生まれるひとりのみどりごイエス・キリストを心から受け入れて敵の圧制と重荷から解放され、暗やみのない生涯に入りましょう。そうしてキリストの栄光を受け、また多くの実を結び、また、勝利を得て大いに喜ぶ人生を生きることができるように祈ります ?.苦しみとやみから光栄と喜びへ(1-5) まず、本文の御言葉を解き明かす前にイザヤ書について話したいと思います。なぜなら、この間、パウロチームの勉強会の時、クリスマスが近づいてくると、イザヤ9章の御言葉をよく勉強していますが、歴史的な背景はよく知らないのではないかという話があったからです。 イザヤは私たちが今年秋に学んできた列王記にあるエリシャ預言者の次の世代に活動した預言者です。アモス、ホセアと同じ時代に活動しました。その活動年代は紀元前750年より695年までと言われます。当時はイスラエル王国滅亡の前後で弱者に対する圧制といじめ、国民の不道徳と偶像崇拝が蔓延していました。ついに紀元前721年北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされました(?列王記17章)。ところが、その前後神様に対して比較的に忠実であったユダ王国にもこれらの罪悪が侵入しました。それに加えて神様への礼拝は、ただ偽善的なものになっていました。イザヤはこの時に当たって率直に王と民を指導し、人類に対する神様の公義を主張しました。 8章の終わりにも、人類に対する神様の公義を主張しています。民が罪のために苦難を受けることを預言したのです。8:22節を見ると「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」とあります。イザヤは地を見ると、人々は罪のために苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者に満ちていることを指摘したのです。しかし、イザヤは単なる断罪のメッセージだけを伝えるのではありませんでした。彼は神様がキリストを遣わして成し遂げてくださる救いのメッセージも伝えました。キリストによるいやし、慰め、ゆるしときよめの驚くべきメッセージを伝えたのです。特に、イザヤ書の後半部である40章から66章はユダヤ王国の将来の祝福とキリストの来臨が預言されています。また、救いの終局的成就であるキリストの再臨とその時における民の幸福についてもあざやかに預言しました。その中で、本文の九章前半部にもイザヤがキリストの誕生によると救いと喜びを預言しています。 1節をご覧ください。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」とあります。先ほど話したようにイザヤは8章の終わりにイスラエルの罪に対する神様の災いを預言しました。しかし、イザヤは苦しみにすぐ続いて将来の希望を預言しています。苦しみのあった所にやみがなくなります。苦しい時は目の前が見えなくなります。苦しみが大きければ大きいほど真っ先が見えなくなります。人々は波乱万丈の人生の中でさまざまな苦しみのために暗やみの中で生きています。イザヤの時代、ゼブルンの地とナフタリの地に住んでいる人々も苦しみを受けていました。国境として戦争が起こるたびに異邦人の攻撃を受けていました。残酷な兵士たちに強奪されました。虐げられました。しかも、同じ民族のユダヤ人から異邦人としてみなされるはずかしめ受けていました。そのような苦しみと恥辱を考えると一日も早くそこから抜け出したいですが、自分の力では何も出来ない状態でした。今苦しくても将来の希望が見えると、明るく生きることができます。ところが、彼らは現在の苦しみの大きさ、自分たちの無力さのために希望を持つことができず、目の前が真っ暗になっていたのです。しかし、イザヤは苦しみのあったところにやみがなくなると預言しています。それは異邦人のガリラヤが神様からの光栄を受けたからです。その暗黒の地と呼ばれる地方に住む人々に神様の光が与えられるのです。それはガリラヤ地方で成長され、そこを拠点として宣教されたイエス・キリストによって成就されました。イエス・キリストの誕生によって暗黒のBC時代は消え去り、光り輝くAD時代を迎えるようになったのです。私たちも神様からの光栄を受けると人生をおおっていたやみがなくなる経験することができます。もちろん、私たちも苦しい時に目の前が暗くなることでしょう。しかし、イエス・キリストを信じて神様の栄光を受けると自分を照らしている大きな光によって暗やみがなくなることを体験するようになるのです。 2節をご覧ください。「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者達の上に、光が照った。」とあります。闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見たと言っています。そして、この光は、死の陰の地に住んでいる者たちの上に照らされている光です。この光はいのちの光です。生物は陰の中にいると弱くなり、死んで行きます。しかし、光に照らされると生き返ります。光はこの世を明るくすることだけではなく、ばい菌を殺し、いのちを生かす力を持っています。ですから、マラキ預言者は「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」と預言しました。イエス・キリストを受け入れることによって私たちのうちに義の太陽が上ると、その翼には、癒しがあるのです。私たちは癒され、力づけられるのです。外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る喜びに満たされるようになります。ですからこの大きな光に照らされると、人はたくましく、力強く義の道を歩むことができます。そして、神様はすべての人々が大きな光を見ることを願い、その国民を増やしてくださいます。 3節をご覧下さい。「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。」とあります。大きな光を受けて義の道を歩む者に神様は喜びを増し加えてくださいます。その喜びは、農夫が刈り入れ時に喜ぶ喜びです。また、兵士たちが分捕り物を分ける時に楽しむ喜びです。これは、最高の喜びです。農夫が一番喜ぶときは言うまでもなく刈り入れの時です。私が田舎で小学校、中学校を通っている時は農繁期休みがありました。農村で一番忙しい時に学校は農繁期休みに入り、生徒たちも働くようになるのです。すると、学校を休むから喜ぶ友だちもいましたが、私にとってつらいことでした。仕事が嫌だからです。私だけではなく、農夫たちにとって農村の仕事は大変なものです。だから、農法たちは自分の子どもたちにはやらせないつもりで都市の学校に行かせる場合が数多くあります。ところが、そんな農夫たちも刈り入れの時には喜びに満たされます。毎日のように汗をかいて苦労しただけにその喜びも大きいものです。同様に、命をかけて戦って勝利した兵士たちが分捕り物を分ける時の喜びも大きいものでしょう。虐げられている圧制から救い出された勝利の喜びはどんなに大きいでしょうか。そこには喜びだけがあるのではありません。平和もあります。 4,5節をご覧ください。「あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」とあります。その昔、ギデオンがミデヤンに大勝利を得た時のように敵の圧制から救い出されるようになります。もはや戦争道具は要らなくなります。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなります。人々は大きな光に照らされて喜びと平和の地で生きるようになるのです。この祝福はすべての人々に与えられています。ただ、イエス・キリストを「私のために生まれたキリスト」であると信じる者だけがその恵みを味わうことができます。その救いは「ひとりのみどりご、イエス・キリスト」によって与えられるからです。イザヤが預言したとおりに来てくださったイエス様によって私たちに救いが与えられるのです。では私たちを暗黒のBC時代から光のAD時代に救い出すために生まれるイエス・キリストはどんな方でしょうか。 ?.私たちのために生まれるひとりのみどりご(6,7) 6節をご一緒に読んで見ましょう。「一人のみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ここで、私たちは私たちのために生まれるひとりのみどりごの名前を知ることができます。皆さんは何個くらいの名前を持っているでしょうか。前の総理大臣小泉さんには「改革」という名前がついているかも知れません。私たちの中には自分の本名とともにクリスチャンネームで呼ばれる方も多くいます。また、よく笑う李リベカ宣教師は「平和の顔」と呼ばれるでしょう。硬い表情の方は「怖い顔」と呼ばれているかも知れません。ところが、イエス様は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。この四つの名前を通して私たちはイエス様がどんな方なのかについて学ぶことができます。第一に、その名は不思議な助言者です。新共同訳では「驚くべき指導者」と訳しているし、英語では“wonderful counselor”と訳しています。イエス様が私たちと交わり、私たちを指導してくださる方法は不思議です。私はイエス様を信じてからイエス様のカウンセリング、その導きはほんとうに不思議だなあと思う時が多くあります。先週もいろいろなことで主の導きは不思議だなあと思います。その一つをいいますと、金曜日にウマタイ宣教師に会ったことです。先週礼拝の時、ウマタイ宣教師が見えなかったので家に電話をしましたが通話が出来ませんでした。でも、私は彼が私に一時帰国することについて相談したことがあって早く飛行機の予約をしなければならないから少しでも早く彼と話し会いたいと思っていました。ところが、金曜日の夜11時過ぎに韓国から来た先輩の牧者に会ってから横浜のミナトミライの駅の改札口に入ったところ、後ろから誰かが「ダニエル宣教師!」と呼びました。びっくりして振り向いてみるとマタイ宣教師でした。私は不思議な方法で心の中で望んでいた彼と話し合いが出来たのです。不思議な体験でした。イザヤ30:21節に「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。」とありますが、ほんとうにそのとおりです。イエス様に従うなら、人生に迷うことなく、神様に導きに事欠くことはありません。その場合、自分の思いどおりに何もかもうまくいくということではありません。詩篇23:3節にあるように「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」ですから、たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。不思議な助言者イエス・キリストがおられるからです。私たちをカウンセリングし、導いて義の道を歩んでいくようにしてくださるイエス様を賛美します。第二に、その名は、力ある神様です。ひとりのみどりごイエス様は元々天地万物を創造された神様です。人は一軒の家を建てることだけでもどんなに時間がかかるでしょうか。ところが、神様は六日間だけで全宇宙を作られたお方です。イエス様にはその神様の力があるのです。イエス様には不可能なことはありません。よみがえられたイエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています(マタイ28:18b)。」と言われました。イエス様は大いなる力をもって私たちを導かれます。4節に「ミデヤンの日になされたように」とあります。それは、わずか三百人の兵士をもって何万ものミデヤン軍を撃ち破ったギデオンのことをさしています。ギデオンは元農夫でした。ミデヤン軍を恐れ、大きな酒槽の中で農作業をする小心者でした。しかし、神様は彼を指導者として立て、大敵と戦わせ大勝利をおさめさせたのです。それは明らかにギデオンの裁量ではなく、大いなる神様の力によるものでした。私たちもイエス様を信じ従うなら、この神様の大いなる力を経験するのです。使徒パウロはイエス様を信じる信仰により、大いなる神様の力を数え切れないほど体験しました。そこで、彼は「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリ4:13)。」と告白しました。私たちもほんとうにひとりのみどりごをキリストとして信じるなら、力ある体験することができます。人知をはるかに超えた神様の力を経験するようになるのです。第三に、その名は、永遠の父です。イエス様が私の永遠の父であるということは、本当に感動的なことです。私は自分の父を子どもの時から尊敬していますが、この世の父はいくら素晴らしい父であっても限界があります。力においても時間的にも限界があります。しかし、イエス様は永遠の父となって下さいます。しかも変わらない愛を持って私たちを守ってくださる父です。さっきまではお父さんだったけれど、今は違うということではありません。いつでも、どこでも、私たちを見捨てず、父親であり続けて下さるお方です。何よりもイエス様は不思議な助言者として、力ある神として私たちと相談し、助けてくださる永遠の父です。第四に、その名は、平和の君です。主イエスは平和の君としておいでになりました。その象徴として、いよいよ十字架にかけられるためにエルサレムに入城する時、イエス様は軍馬ではなく、ろばの子に乗って入城されました。イエス様は何故、平和の君なのでしょうか。それは、十字架によって先ず人と神様との和解を実現されたからです。また、その十字架によって人と人の和解も実現されたからです。私たちがお互いに本当に赦し合えるのは、十字架にある赦しの愛が私たちに注がれることによってです。私たちは罪深い自分のために十字架にかかってくださったイエス様の赦しを体験して初めて人を赦すことができます。そして、赦されて赦す人の心に真の平和と平安が臨まれます。ヘブル語で「平和」(シャローム)は「平安」とも「繁栄」とも訳すことができるそうです。イエス様の十字架を信じる人は神様との平和の中に生きるようになります。そして、その人生こそが平安な人生であり、神様のため、人のために実を結ぶ繁栄の人生となるのです。 結論を言いますと、イザヤは「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」と預言しました。キリストは、実に「私たちのために」生まれました。まさに「私たちのために」十字架にかかって死なれましたが、「私たちのために」よみがえってくださったお方です。そのことを信じる者は、人生のすべてにわたって、キリストの不思議な助言を受け、神の力を体験することができます。永遠の父の保護と平和を受けることができます。この時間、キリストは「私のために」お生まれくださったと信じて、キリストを人生に迎え入れるなら、Wonderful Counselorキリストが私たちを導いてくださいます。力ある神であられるキリストに強められ、キリストの保護のうちに守られ、キリストの平和によって生きる者となります。なぜなら、イエス・キリストの主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いているからです。キリストはその王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえます。今より、とこしえまで支えてくださいます。何よりも万軍の主の熱心がこれを成し遂げてくださいます(7)。私は熱心な人はいろいろなことが出来るんだなあと感心する時があります。今日、金南帝牧者は長男が一歳の誕生日を迎えたことでおごってくれますが、彼は日本に来て新聞配達しながら日本語勉強をしました。その時、私は彼が住んでいる新聞屋の部屋にも行きましたが、そこで勉強して物理博士になるとは思いませんでした。しかし、彼は熱心に働き、熱心に勉強して博士課程を終え、良い会社に就職も出来ました。来年3月は博士号も取る予定です。人の熱心も大きなことが出来るのです。まして主の熱心によって出来ないことは何もありません。イエス様「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」と言われました。神様は今も人類の救いのために熱心に働いておられるのです。しかも熱心に働いておられます。そして主が御子イエス様ご自身を人として送ってくださったことは私たちを救おうとされた主の熱心さ、本気さを表しています。キリストの再臨も主の熱心によって必ず成し遂げられます。その日まで私たちが信仰の中心を守ってイエス様の指導を受け、イエス様の力によって強められるように祈ります。再び主が来られるその日まで永遠の父なるキリストに守られ、助けられて喜びと平安の人生を生きることができるように祈ります。