2008年秋ローマ人への手紙第1講

御名のために

御言葉:ローマ1:1?7
要  節:ローマ1:5 「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」

 神様が私たちに新旧約の聖書の中で最も愛されているローマ人への手紙を学ぶようにしてくださり感謝します。宗教改革者ルターとカルビンはすべての聖書が全部無くなってもローマ人への手紙が残っているなら、キリスト教の真理はそのまま保存されるだろうと言いました。事実、ローマ人への手紙には新約聖書の中でダイヤモンドのように輝く核心的な真理が記されてあります。このローマ人への手紙が伝えられる時、新しく解釈され、その真理が発見されるたびに世界の歴史は新しく変りました。この手紙がフィベという姉妹を通してローマの聖徒たちに伝えられた時、あのローマ帝国がキリスト教の国に変るようになりました。ルターによってこの手紙が新しく解釈されると、恐ろしい暗黒の中世時代が新しく変りました。19、20世紀に世界の教会を苦しませた自由主義、人本主義から救い出して真の信仰に導いたのもローマ人への手紙です。ローマ人への手紙を読み、勉強した人々も変りました。マニ教と快楽の奴隷だったアウグスチヌスが真理に目覚めて古代キリスト教世界において最大の影響力を持つ理論家、聖人になったのもローマ人への手紙によるものでした。アウグスチヌスはこう告白しています。神様に「わが身の純潔を祈りながらも、心の底では、『純潔と節制をお与えください、けれども今すぐにでなく』」と反対のことを望む気持ちがありました。かくして苦しみは増大し、肉の欲と真理との間で苦しみます。そして泣きながら主よ、私はいつまでこんな苦しい状態にいなければならないのでしょうか?私をゆるし救ってくださるのは、いつですか?と叫びました。すると、『とりて、読め!』『とりて、読め!』と子供たちの声が聞こえました。この声を神のみ声として従う覚悟で、近くにあったローマ人への手紙を開きました。すると「夜はふけて、昼が近付きました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。(ローマ13:12、13)」とありました。そして、アウグスチヌスの心は光に包まれ、言いようのない平安に満たさました。アウグスチヌスは新しく生まれ変わり、回心したのです。
ルターは、中世末の暗い時代に、人間がイエス・キリストにある真実の希望と愛を持って生きていくための信仰をローマ人への手紙から再発見しました。1:17と3:23,24節を読んでみたいと思います。まず1:17節です。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。3:23-24節も開いてください。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」この御言葉の意味を悟るようになったマルティン・ルター は地に倒れて今まで感じられなかった真の自由と真の救いを味わうようになります。救いは、ただ神様の恵みによって価なしに得られるという信仰をルターはこのローマ人への手紙を通して発見したのです。それが宗教改革の原動力となりました。
メソジスト派というプロテスタント教会の創始者ジョン・ウェスレ?も、ルターの説教集にあるローマ1:17の悟りから救いの確信を得て新しく生まれ変わりました。この3人だけではなく数え切れない人々がこのローマ人への手紙を読み、それを勉強するうちに光を発見し、生まれ変りました。
今の時代にも、私たちにも、ローマ人への手紙は読まれ、その真理が再発見されなければならないと思います。何よりも今日から学ぶローマ人への手紙を通して私と皆さんも光を発見し、新しく生まれ変わりますように祈ります。福音信仰の上に堅く立ち、確かな信仰を持ってひたすら御名のために、福音のために生きる者になりますように祈ります。

 ローマ人への手紙とはタイトルのとおりに、パウロがローマ人へ送った手紙ですが、内容は論文であると言えるほどに体系的に、組織的に書かれています。大きく二つの部分に分けるなら、第一に、どのように信じるべきかということを教えてくれる教理部分(1-11章)、第二に、どのように生きるべきかということを教えてくれる実践部分になっています。しかし、この手紙はただ、神学的な論文ではありません。なぜなら、この手紙は研究室で研究した結果でもなく、単なる作文でもないからです。使徒パウロは、使徒の働きに記されている伝道活動の中でこの手紙を書きました。第一次、第二次の伝道旅行を終えて第三次の伝道旅行を終わる頃に彼はコリントに行きます。そして、コリントで3ヶ月間滞在しながらこの手紙を書きますが、当時パウロは心も体も世界宣教のビジョンに満ちていました。使徒の働き19章21節を見ると「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤアとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」と言った。」とあります。このようなビジョンの中でローマにいる聖徒たちにこの手紙を書いたのです。従って私たちはただ手紙を読むような気持ちではなく、使徒パウロのビジョン、霊的な力、燃える心を持ってローマ人への手紙を学ばなければなりません。どうか、私たちが使徒の働きに現わされている使徒たちの燃える心と信仰を持ってローマ人への手紙を学ぶことが出来るように祈ります。
 
今日学ぶ1-7節は序論の中でパウロの挨拶です。パウロは、まず自己紹介をしています。
1:1節をご一緒に読んでみましょう。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、」ここで、私たちはパウロのことを三つに分けて考えることができると思います。
一つ目は「神の福音のために選び分けられ」たことです。「選び分けられた」というのはある特別な仕事のために区別されたことを意味します。パウロは特別な「神の福音」のために区別されたことを認識していたことが分かります。私たち人間は自分に対する正しい理解と目的がなければなりません。何のために生きるかという目的がなければ、いつもさまよい、落ち着きがない生活が続くでしょう。パウロは「神の福音のために選び分けられた。」という自己理解と目的がはっきりしてました。1章14、15節をご覧ください。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」とあります。ここでパウロは「私としては・・・」と言っています。当時、大学者出身のパウロには多くの友だちがいたでしょう。ローマ市民権を持っていたのでローマにも友だちが多くいたと思われます。彼らの中で大多数の人々は自分がどんな人であり、何のために生きているのか分からなかったでしょう。あまりそういうことを考えずに生きている人が多かったでしょう。あるいは軍人として国家のために生きるんだという人もいれば、自分は家族のために生きるんだという人たちがいたでしょう。そういう人々の中で彼らと違う生活をすることはなかなか難しかったと思われます。まるで、クリスチャンの人口が1%に過ぎない日本でクリスチャンとして生きることのように難しかったでしょう。特に、当時は「神の福音」がまだ広く伝えられていませんでした。しかも、クリスチャンの中に「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありませんでした。クリスチャンがどんなに無視されていたでしょうか。それでも、パウロは「私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」と言っています。それは彼が「神の福音のために選び分けられた」という個人的な確信を持っていたからでしょう。では福音とは何でしょうか。1章16、17節もご覧ください。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」とあります。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。福音のうちには神の義が啓示されています。これが福音です。具体的に言うなら、まさにイエス・キリストです。?コリント2:2を見ると「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」とあります。パウロは「神の福音のために選び分けられた。」ということを知ってからひたすら、福音ために生きていたのです。彼の専攻も、彼の知識も、彼の未来も、彼の人格も、彼がやりたいことも、すべてが一言で「福音」になっていたのです。その福音とはイエス・キリストです。キリストは私たちのために天からこの地に下ってこられました。私たちのために十字架につけられ、死なれました。私たちのために死者の中からよみがえられました。そして、私たちのために聖霊を注いでくださいました。パウロはこの神の福音のために選び分けれたのです。
二つ目は「使徒として召された」ことです。「召された」ということは自分が決定したことではありません。神様に招待されていることです。私たちは自分に対して二つの点で正しく認識していなければなりません。自分から「私はだれだ」と思っているということと、「神様が私についてどう考えておられるか。」ということです。パウロは自分が神様に召された使徒であるという確信を持っていました。12弟子だけが使徒ではなく、パウロ自身も使徒であるという確信と権威を持って地の果てまで出て行ったのです。神様は私たちについてもご自分が遣わされた使徒として考えておられます。パウロを使徒として召されたように、神様は私と皆さんをクリスチャンとして使徒として召してくださいました。私たちにも神様から遣わされた全権大使としての力と権威が与えられているのです。これが召され(Calling)です。
三つ目は「キリスト・イエスのしもべ」であるということです。パウロは使徒としての力と権威が与えられていることを確信していましたが、そのために高ぶることはありませんでした。彼は自分から「私はイエス・キリストのしもべ」だという認識を持っていました。ここでしもべとは奴隷の意味を持っています。今日は奴隷制度が無くなっていますが、当時、ローマでは全体人口の半分以上が奴隷でした。この奴隷には人権がありません。自分の意見がなく、自己主張が出来ません。ある意味では「自分の人生」そのものがありません。ただ、自分を所有する主人の意思によって買われたり、売られたりします。ですから、だれでも奴隷になることを嫌がります。神様もイスラエルの民をエジプトの奴隷から救ってくださったし、バビロンの奴隷からも救ってくださいました。また、神様は人々が悪魔の奴隷になっていることをご覧になってかわいそうに思い、イエス・キリストを送って十字架につけられて死ぬようにされました。それによって悪魔と罪の奴隷生活から救い出して神様の子どもとして生きるようにしてくださいました。ガラテヤ5:1節を見ると、パウロ自身もこう言いました。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」ところが、パウロは自ら「キリスト・イエスのしもべ」であると宣言しています。これは驚くべき宣言です。皆さん、パウロのように宣言することが出来るでしょうか。私たちは恵みを受けると「恩返しするよ。」といいますけれども「あなたのしもべになるよ。」とは言いません。ほんとうにしもべの意味が分かれば、分かるほど「自分がしもべである」と宣言することは難しくなるでしょう。なぜでしょうか。しもべには二つが必要だからです。一つ目は先ほど言ったように「自分の主張、自分の人生」がないということ、二つ目は主人を主人として認めることです。パウロのことを考えてみてください。彼は数多くの苦難を受けました。鞭打たれたことは数え切れず、死に直面したこともしばしばでした。・・・幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました(?コリント11:23b?27)。」パウロがこのようにキリストのために数え切れない苦難を受けた理由は何でしょうか。それが彼がキリストのしもべであるからです。彼はキリストのために愛の奴隷になりました。パウロはそれは選んだのです。
私たちも神様が自分のどんな者として選んでくださったのかを知り、その神様に自分の方からどんな者として生きるかを決めなければなりません。パウロは使徒として召してくださった神様にイエス・キリストのしもべとして生きる道を選びました。
2?4節では「神の福音」ついて簡単に説明しています。2節をご覧下さい。「・・この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので」福音の起源は神様です。神様は人間が堕落した時、救い主を約束されました(創3:15)。また、アブラハムの子孫からメシヤを与えてくださると約束され、預言者たちを通して約束されました。ですから神の福音は神様から始まり、神様によって完成されます。福音は頭のいい人が作り出したものではなく、神様から来たものです。事実、神様は預言者たちを通して、イエス様に対して預言されました。イエス様の誕生の場所、誕生方法、彼の生涯と十字架と復活、昇天などすべてが旧約聖書に預言されています。福音の根拠はこの聖書にあります。旧約聖書は一日のうちに書かれたものではありません。聖書は約千五百年の間、四十名の著者達によって書かれました。記録された場所も時代も著者も違います。ところが、驚くほど一つの流れ、すなわち、統一性がありますが、それはイエス・キリストに関することです。このように福音は明白な歴史的な事実の上に根拠を置いているために信頼できるものです。旧約聖書の中であかしされ、長い間イスラエル人が、神の約束として待ち望んでいた方が、キリスト・イエスです。ではその福音の内容は何ですか。
3、4節をご覧下さい。「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」とあります。イエス・キリストは、肉によればダビデの子孫としてお生まれになりました。聖書に約束されたとおりに、イエス様はダビデの王位を受け継がれた王、メシヤとしてお生まれになったのです。また、霊的には神の御子です。イエス様が神様の御子であることをどのようにして知ることができますか。イエス様は死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示されました。復活はイエス様が神様の御子であることを証明する出来事です。死の問題は罪の問題とともに人間の一番大きな問題です。ところが、この問題を解決した人は誰もいません。一人も例外なくこの罪と死の前に屈服しました。死は人間の王となり、人間を虚しくし、絶望させ、すべての幸せを奪って行きました。ですから、人間にとって一番大きな敵は死です。ところが、イエス様はこの死の力に打ち勝ち、死者の中から復活されました。イエス様の復活によって私たちには真のいのちと平安と望みと勝利が与えられました。使徒パウロはこのイエス様を指して「私たちの主イエス・キリストです。」と告白しています。私たちも「イエス様が私の主、私のキリストです。」と告白する時に救われます。ヨハネの福音書20章を見ると、トマスはイエス様がよみがえられたことを信じることが出来ませんでした。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れて見なければ、決して信じません。」と言いました。そんなトマスの前にイエス様が現われました。すると、トマスは告白しました。「私の主。私の神。」その彼にイエス様は言われます。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」そうです。目で見なくてもイエス様を信じる者は幸いです。イエス様に関して知的に理解していてもイエス様が「私の主、私のキリストです。」と信じて告白しなければ救いがありません。しかし、信仰告白する人には救いがあります。皆さんはイエス様を個人的に信じて「私の主、私のキリストです。」と告白できますか。信じて告白する者に奇跡が起こります。私がキリストを信じて告白し、愛してキリストの力を自分の力にし、神様との交わりが始まると奇跡も始まるのです。福音にはそういう力があります。
5節をご覧下さい。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」この御言葉から私たちは使徒パウロの人生の目的と使命が何かを知ることができます。使徒パウロはイエス様によって、恵みと使徒の務めを受けました。恵みとは何でしょうか。恵みとは値なしに与えられるプレゼントです。使徒パウロはイエス・キリストによって、罪の赦しと救いの恵みを受けました。彼は教会の迫害者でした。ステパノを石で打ち殺す時に先頭に立った罪人のかしらでした。彼は律法によれば死刑されるべき者でした。しかし、イエス様は彼のすべての咎と罪を赦してくださいました。彼に救いの恵みが臨まれました。使徒パウロはその恵みについて次のように証しています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(?テモテ1:15)。
使徒パウロは恵みとともに使徒の務めを受けたと言います。これは使命です。彼は異邦人に福音を伝える使命を受けました。それは異邦人の中に信仰の従順をもたらすことです。それはやさしいことではありません。異邦人は偶像崇拝をし、淫乱でした。また、霊的に無知でわがままでした。不従順と反抗心が強い人々でした。このような人々の中に信仰の従順をもたらすことは難しいことです。それで福音を伝えてもあまり負担に思わないように救いの恵みや祝福だけを教えることで満足しやすいです。しかし、パウロは御言葉に絶対的に従うように教えました。それはまるで岩地のような心をハンマで打ち砕くような作業のように難しいことです。多くの霊的な戦いが必要です。しかし、パウロは羊達の罪と妥協しませんでした。御言葉に絶対的に聞き従うように教えました。従順する時、成長します。神様は従順を喜ばれます。神様は能力ある人を用いるのではなく、従順の人を用いられます。従順の信仰が福音信仰です。パウロは自分がイエス・キリストのしもべとして絶対的に服従しただけではなく、教える人々にもそのようにするように教えました。
それではなぜ従順がそれほど大切なことですか。それは人間が堕落した原因が神様の御言葉への不従順から来たからです。罪はアダムの不従順によってこの世に入って来ました。しかし、イエス様の従順によって新しい御業が始まりました。イエス様は神様の御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学ばれました(ヘブル5:8)。イエス様はご自分を低くし十字架に死ぬまで神様に従われました。神様はこのようなイエス様をすべての人々の主であり、キリストとして高く上げられました。
私たちもパウロのように恵みと使徒の務めを受けました。パウロは「私は・・・」ではなく、「私たちは・・」と言っています。「私たち」の代わりに「自分の名前」を入れ替えて5を読んでみましょう。「このキリストによって、ダニエルは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」
私たちもパウロのように自分が受けた恵みをはっきりと覚えて感謝し、熱心に使徒の務めを担うことが出来るように祈ります。特に、目的をはっきりして働くことが出来るように祈ります。パウロはイエス様の御名のために働きました。パウロの人生の目的はイエス・キリストの名誉のために生きることでした。パウロは過去自分の名誉のために生きていました。元々彼の名前はイスラエルの初代王であるサウロの名前にちなんでサウロでした。彼はその名前通りに自ら大きい者と誇る高慢な人でした。しかし、イエス様に出会ってからはイエス様の御名のために自分を低くしました。名前も小さいという意味のパウロに変えました。そして、彼はイエス様の御名のために徹底的に自分を捨てる生活をしました。彼は何をするにも自分を通して主の御名があがめられるように祈りました。恵みと使徒の務めは、パウロだけでなく、イエス様によって救われたすべての人々も受けたことです。
6,7節でパウロはローマの聖徒達も、イエス・キリストによって召された人々であると言いました。彼らは神に愛されている人々、召された人々です。パウロは彼らに父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があるように祈りました

以上で、使徒パウロは、ローマの聖徒たちを、すでに、イエス・キリストによって召された人々として呼んでいます。ローマの聖徒たちは、イエス・キリストによって召されたので、御名のために生きるべき存在であることを新たに認識させているのです。私たちも、召され、信仰告白をはっきりして御名のために生きるように祈ります。