2008年ローマ人への手紙第3講

神様を神として崇め、感謝せよ

御言葉:ローマ人への手紙1:18?32
要 節:ローマ人への手紙1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

先週の日曜日は韓国のお盆でしたが、私は20年ぶりに両親と兄弟たちとともに過ごして来ました。父の病のために行ったので悲しみもありましたが幸せな一時でもありました。私は生まれて初めて両親と父の兄弟、私の兄弟たちの家族が参加した家族礼拝を導くことができました。何よりも父と一緒に教会に行って主日礼拝をささげることも出来ました。不思議なことに74歳になって初めて村の教会に行った父ですが、牧師先生のメッセージと質問に対して何度も「アーメン、アーメン」と答えていました。私は不思議に思われました。ところが、礼拝が終わって一言を言う時、父は「私は神様を知っていてラジオ放送の説教も聴いていた。」と言いました。父は神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせずに生きていたのです。しかし、今は聖霊の働きによってイエス・キリストの十字架と復活による救いを信じて信仰告白し、救われました。これから毎週教会に通うことも宣言しました。神様を神様としてあがめ、神様に感謝するようになったのです。神様の導きと皆さんのとりなしの祈りに心から感謝します。
きょうの御言葉は神を知っていながらも神様を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなっている異邦人の罪と神様の裁きに関して教えてくれます。きょうの御言葉を通して神様を神としてあがめず、感謝もしない人間がどんな面で罪人であり、彼らに下られる神様の裁きは何かを学びたいと思います。それによって、私たちの罪を悟り、悔い改めて常に神様を神としてあがめ、神様に感謝する生活ができるように祈ります。

先週まで学んだ御言葉を通して私たちは私たちが確信するべき福音の核心を学んできました。ここで「かくしん」とは、確かに信じているという意味での確信でもあり、また、信仰の核となる中心的内容という意味での確信ということでもあります。その「かくしん」とは16,17節にありました。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」ということです。このようにパウロが告白し、宣言できたのは「神は愛であられる。」という確信があったからです。事実、神様は愛であられるお方です。神様は私たち人間を愛しておられるからこそ、罪に対しては怒られる正義の神様です。
18節をご覧下さい。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」ここで、パウロは「神の怒り」が啓示されていると言っています。聖書は愛の神様だけではなく、愛のゆえに怒られる神様の怒り、さばきの神様についても証ししています。おそらく、多くの「神の怒り」という言葉を聞くと、なんらかの抵抗を感じるのではないかと思います。私自身も「神の恵み、神の愛」というテーマについては語りやすいですが、「神の怒り、神のさばき」について語ることはなかなか難しいです。聞いている人々の顔色が怖く見えるときもあるからです。でも、御言葉のしもべは御言葉のとおりに伝えなければなりません。もちろん、中世教会のように悪用することはいけません。キリスト教の歴史を考えて見ると、宗教改革以前には、「神の怒り」や「神のさばき」という説教が、人々を当時の教会に従順な者にするために使われたということもありました。礼拝を休んだり、献金を怠けたりすると、地獄の火で焼かれてしまうなどと教えられ、人々は神様への愛からではなく、恐怖心のから教会の規則に従う生活をしたのです。そんなことから、牧師が語る「神の怒り」という言葉に嫌気をさしている人々がいるようです。
しかし、私は中世教会の説教者のように教会に従わせるような説教をしないので心配なさらないでください。ただ、聖書に書いてあるとおりに不義を持って真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されていることを証します。
神様が人々にその真理を啓示される方法は二つあります。一つは聖書、もう一つは自然であります。自然は第二の聖書であるとも言われます。目を開いて自然界の現像を見れば、創造主であられる神様の存在とその力を認めずにはいられないはずです。現在、人類が直面している地球温暖化、環境問題などにも神様の御怒りが啓示されているのではないでしょうか。天地万物は沈黙のうちに神様の存在を私たち人間の目の前に示しているのです。ですから、私たち人間は、神秘な自然世界を考えても、また自分のうちにある宗教心から考えてみても、不義を持って真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されていることが分かります。そこで、パウロは言います。
19、20節をご覧ください。「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」ということです。
人間には宗教性と良心があります。それは人間が動物と違うところです。「サルも反省する。」と言われますね。でもサルが悔い改めて神様を賛美したり、祈ったり、礼拝を捧げたりするのを見たことがあるでしょうか。犬が人をかみついてしまったことで悩み、自殺したことがあるでしょうか。しかし、人にはあります。また、人がいるところには宗教もあります。人には瞬間の快楽だけに満足できず、永遠を慕い求める心があるからでしょう。
また、神様は私たち人間が自然の世界を通しても神様を知ることができるようにして下さいました。詩篇19:1節は次のように言っています。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」宇宙万物は神様が造られた作品であり、その中には神の永遠の力と神性が現れています。
皆さん。羽があっても飛べない鳥を知っているでしょうか。ダチョウです。ダチョウは飛べません。ただ、足が速く、時速60?70キロまでも走れるそうです。また、愚かで忘れることも速い動物だそうです。それで、ダチョウは暑い夏、砂地に卵を産みますが自分が産んだ卵も、その場所も忘れてしまいます。ところが、ダチョウが忘れても熱い砂地にある卵はあたたかさが保たれて孵化し、ひよこになるそうです。神秘な自然世界ですね。一つの例として言いましたが、ダビデは詩篇139:14節でこう言いました。「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。」
ですから、人は神様を知ろうとすればいくらでも知ることができます。事実、知っています。神様を信じないことは知識の問題ではなく、態度の問題であり、心の問題です。あるいは選択の問題です。ある人「人生は選択で決まる。」と言いましたが、なるほどと思います。会社での努力による収入の格差より、どんな会社を選択したかによってもっと大きな違いあるでしょう。結婚もそうでしょう。互いに努力して良くなることもありますが、どんな人を選択したかということが人生においてもっと大きく影響されるでしょう。信仰生活もそうです。どんな宗教でもいいのではありません。まことの神様、天地創造の神様を選択して信じることが大切です。神様は人格的なお方で、私たち人間の意志をとても大切にされるお方ですから、強制的にクリスチャンにならせるのではありません。
神様はクリスチャンになったからといって強制的に導くこともなさいません。聖書を通して、自然を通してご自分を啓示されることが神様の領域ですが、その中で神様をあがめ、神様に感謝することは私たちの心、私たちの選択にかかわっています。神様をあがめること、神様に感謝することは自分の意思で選択しなければならないのです。そして、その選択によって私たちの人生は変ります。それなのに、信仰によって生きる道を選ばないでいて神様の御怒りが下されると、そのときになってやっと「神様を知らなかった。」ということは出来ません。弁解の余地はないのです。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです(21)。」
もともと、天の神様に造られた人間は神様をあがめ、神様に感謝しなければなりません。神様によって造られた被造物の第一の存在目的は、神様の栄光のために生きることです。それでパウロは?コリント10:31節で「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と言いました。人が神様をあがめないことは、自慢する心と高慢から来た罪です。私たちは何をするにも神様の栄光を現わすためにしなければなりません。そして、現在の自分に対しては神様に感謝しなければなりません。
では「感謝」とは何でしょうか。私はインターネットで調べてみましたが、いろんな説明がありました。中には「感謝とは氣付くこと。そして感謝するこころはトレーニングで高めることができます。少しの勇氣と行動で『ありがとう』を伝えると幸せは100倍になってあなたに帰ってきます。自信を持ちたい人、自信を誰かに持たせたい人、日々幸せを感じたい人は是非どうぞ。」という文もありました。また、「感謝」とは自分がもらったものをもらったと言うことだ」と書いてありました。私は「なるほど」と思いました。世の中には自分がもらったものでも、もらわなかったといったり、覚えてないという人もいます。また、また、自分がもらったものに対しては同然にもらうべきものをもらったと考えます。子どもが親からもらうこと、学生が先生から教えてもらうこと、政治家が企業からもらうことは当然なことのように思うのです。 しかし、もらったものをもらったと言うなら、この社会は今より良くなるでしょう。小さなものでももらったものを覚えて感謝の言葉を言うなら、世の中が今より良くなるはずです。私たち人間は神様からもらわなければ生きていけない存在です。太陽の光も、空気も、雨も、すべての環境が神様から与えられています。そして、私たちが神様にできることがそれを認めて感謝することだけです。感謝の心を表現するのです。そうすると、それは良い薬のように私たちの体を良くし、生活もよくしてくれます。すべてのことにおいて感謝するならすべてが良くなるのです。
ところが、神様を知っていながら感謝しないことは確かに罪です。奴隷の民、イスラエル人が解放されて荒野に導かれた時、犯した罪の中に神様に対するつぶやきがあります。彼らは水がないとつぶやき、肉が食べたいとつぶやきました。彼らは昼も夜もつぶやきました。そして、奴隷の生活をなつかしく思いました。このような彼らは約束の地に入ることができず、皆荒野で死んでしまいました。私たちはすべてのことについて感謝しなければなりません(?テサ5:18)。いのちを与えてくださった神様に感謝し、空気や光や水を与えてくださった神様に感謝し、一人子イエス・キリストを与えてくださった神様に感謝しなければなりません。それが、キリスト・イエスにあって神様が私達に望んでおられることです。
しかし、そのように神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝もしなかった結果人はどうなりましたか。もう一度21節をご覧下さい。第一に、思いがむなしくなります。無駄な考え、無益な考えをするようになります。人が毎日考えるのが、むなしいことばかりだったら、どれほどその人の人生はむなしいものでしょうか。第二に、無知な心は暗くなります。無知な心は分別力のない心です。人が神様を離れると善悪と真理を見分けることができなくなります。心が暗くなり、顔も、生活も暗くなります。クリスチャンも同じです。積極的に神様をあがめず、感謝もしないと心が暗くなります。信仰生活が無意味に思われます。第三に、自分では知者であると言いながら、愚かな者となります。それで詩篇14:1節は「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」と言いました。
結局、彼らはどうなりますか。23節をご覧下さい。「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人が神様に仕えなければその代わりに偶像に仕えるようになります。人間や、獣、はうものに仕えます。それはどんなに愚かなことでしょうか。インドでは牛に仕えます。鷲、龍、蛇、ワニなどに仕える所もあります。このように人間は不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。すなわち、人間は動物以下の者に転落してしまいました。ところが、動物以下に転落することだけではありません。彼らには罪に対する罰があります。
24-32節までは罪に対する神様の罰です。神様は、造り主の代わりに造られた物を拝み、仕えた人々をどのように罰せられましたか。24,26、28節には「神は、彼らを何々に引き渡された」という言葉が繰り返されています。これは神様の現在的な裁きの性格を言ってくれます。神様の裁きには終末論的な裁きと現在的な裁きがあります。人々は裁きといえば、失敗したり、病気にかかったり、事故に会ったり、死ぬことなどを考えます。もちろん、そのようなことも神様の裁きとして考えられることですが、それよりもひどい罰は神様から引き渡されることです。神様が放っておくこと、無関心であることは大きな裁きです。ところが、引き渡された人々はそれが裁きであることがよくわかりません。むしろ、自由で良いのではないかと思います。神様は愛する人々を懲らしめられます。それでヘブル12:8節を見ると、「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」と言っています。ですから、私たちは人生の道が塞がれてどうすればいいか分からない時、仕事がうまく行かない時、苦しみがある時、むしろ神様の御旨があると思い、感謝しなければなりません。罪人としての成功は決して祝福ではありません。その成功によって滅びるからです。
24節をご覧下さい。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」心の欲望のままに生きることは、堕落した人間の本性のままに生きることです。これは快楽を求める性的な堕落を意味します。人々は神様を恐れないために心の欲望のままに罪を犯し、それを美化します。最近はインターネットによる淫乱物が流行っています。段々コンピュータ教育が大切にされていて小学生もコンピュータを学び、世界の情報を簡単に手に入れることができる時代になりました。同時に簡単に淫乱サイトに入ることもできるので小学生までも淫乱物の影響の下にいます。もし、このような淫乱物に中毒されてしまうと昼も夜も情欲的な考えにさいなまれるようになります。もし、このような淫乱物に手を出している人がいるなら、早めに悔い改めましょう。
ある兄弟姉妹達は牧者や宣教師たちからよく言われると、次のように言います。「私にかまわないでください。私をこのまま放っておいてください。電話もかけないでください。そんなに押し付けないでください。」しかし、それもその兄弟を愛する牧者の恵みの手であり、愛の働きであるとを知るべきです。
何度も断れると、牧者も諦めてしまいます。そのまま放っておきます。神様から見捨てられているままにしておくのです。すると、その人は自分勝手に願う通りの生活が出来るでしょう。しかし、その人生はどうなるでしょうか。イスラエルの初代王であるサウルは謙遜だった時、神様は彼を高くあげて王としてくださいました。しかし、彼が高慢になって神様の御言葉に聞き従わなかった時、神様から見捨てられました。彼は悪い霊によって苦しみ、最後には自殺することで人生を終えました。ところが、それだけで人生が終わるのではありません。ヘブル11:27節jを見ると「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。」とあります。死後にさばきがあるのです。そのさばきによっておくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもが受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にあります。これが第二の死です。(黙示録21:8)」
25節は情欲が偶像崇拝と密接な関係があることを言ってくれます。歴史的に見ると、偶像崇拝が行なわれているところには淫乱が発達しました。ノア時代に人々は肉にすぎない存在になってしまいました。すると大洪水の審判がありました。ソドムとゴモラも性的に堕落してしまった時に滅びました。
ところが、神様をあがめず、神様に感謝もしない人々の生活がどうなりますか。26,27節をご覧下さい。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」最近はこのような同性愛を公に行なっています。また、同性愛者達が自分達の権利を主張しています。聖書はこのような人々に対して当然の報いを自分の身に受けていると言っています。多くの人々が性病にかかり、天罰と言われているエイズにかかっています。ウガンダのユサムエル宣教師はエイズ患者たちを治療し、彼らを救うためにいのちをかけて働いていますが、性的堕落のためにどんな多くの人々が苦しんでいるでしょうか。世界人口白書によると、世界では、毎日1万6000人ずつエイズ感染者が出ております。エイズで死亡率が大幅に増加し、2010年までに平均寿命が40歳以下になる国が、9カ国もあると予測されています。
神様が私たち人間を愛してすべての自由意志、選択権を与えられましたが、その選択権を神様をあがめ、神様に感謝するために使わないと、罪を犯し、罪の結果、恐ろしいさばきを受けるようになるのです。
28節をご覧下さい。「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」良くない思いに引き渡されることが神様のさばきです。良くない思いとは、悪い本性、堕落した本性だけが残った心の状態です。ですから、考えることや感じることや行いがすべて正常ではありません。
29-31節をご覧下さい。罪のリストと言われるところです。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」32節をご覧下さい。「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」彼らは死罪に当たるという神様の定めを知っていながらも悔い改めず、それを行なう者に心から同意しています。彼らは罪を犯すことを合理化する罪を加えているのです。

以上から見ると、人が神様を神様としてあがめず、感謝もしない結果がどんなに恐ろしいかが分かります。人間は偶像崇拝と情欲の罪の奴隷となり、結局神様のさばきを受けるしかありません。神様から離れて罪を犯す人生になるしかありません。その罪の結果、恐ろしい神様の怒りを受けます。神様のさばきを受けて滅びるしかありません。それでは私たちはどんな人生を生きるべきでしょうか。悔い改めてイエス・キリストを受け入れなければなりません。そして、神様を神様としてあがめ、感謝する生活をしなければなりません。どうか、神様の御前で謙遜になって日々神様を神様としてあがめ、すべてのことにおいて神様に感謝する生活が出来るように祈ります。