2008年ローマ人への手紙第8講

キリストによる平和と望み

御言葉:ローマ人への手紙5:1?21
要 節:5:1,2 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

 先週、私の家族は天に召された父の葬式に行って来ましたが、皆さんの祈りと愛の慰めを心から感謝します。私は父との思いで、父親に良くしてあげれなかったことなどが思い出されて多く泣きましたが、父が人生の最後にでもイエス・キリストを信じて救われたことを考えると大きな感謝です。去年、父は祖母の葬式が終わった時、家族の前でこれからは聖書の神様を信じて生きると宣言しました。その後、すぐに教会に通うことは出来ませんでしたが、毎日夜明けにラジオを通して説教を聞いてきました。そして、先月、私が一時帰国した時、教会に行って礼拝をささげ、皆の前で信仰告白しました。次の週は痛みのために座っていられないような苦痛の中でも礼拝を守り、天に召される直前には国内にいる家族全員と一緒に臨終礼拝をささげました。その前に、父は母親に「我が家に来て苦労したね。ありがとう。あなたも教会に通いなさい」と言ってくれたそうです。それで、母親は父が天に召された次の主日から教会に行きました。父が入院している間に妹も主日礼拝をささげるようになったので、父は人生の最後に最愛の妻と一人娘を救いに導きました。それから、父は自分が生まれ育った故郷の自分の家で平安に天に召されて行きました。私は入棺式の時に棺に寝かされた父親の平安な顔を見て父が信仰のゆえに平安に生ける望みを持って天に召されたことを確信することができました。それで、私は家族と一緒に心から賛美をし、拍手をしながら父を葬ることができました。父の人生に現われた神様のあわれみ、繊細な導きに感激しました。私一人がクリスチャンになる時は家族の迫害も激しかったのですが、今は家族も、親戚もクリスチャンが多くてすべての葬礼儀式をキリスト教式で行うことに反対する人がひとりもいませんでした。家族福音化のためにささげてきた私の祈りは聞かれていたのです。
儒教的には父を亡くした者、特に長男は一番大きい罪人として何も言えない立場だそうですが、神様の恵みが大きくて証しさせていただきました。ほんとうに、信仰によって義と認められていることは大きな恵みです。私の母親は今まで多くの葬式に参加し、自分自身が経験して来たのですが、父の葬式ほどに平和に終わることはなかったと言いました。信仰によって義とも認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神様との平和を持っているので、何をしても争うことなく、平和の中で行うことができたのです。それで、日本に戻ってくる時、飛行機の中でいろいろ考えたのですが、何よりも「イエス様を信じて良かった。父がイエス様を信じてから天に召されてほんとうに良かった。」と思いました。ほんとうにただ信仰によって義と認められていることは大きな祝福です。
今日の御言葉である5章1-11節を通しても信仰によって義と認められた者たちに臨まれる霊的な祝福について学ぶことが出来ます。そしてパウロは12-21節までの御言葉を通してすべての霊的祝福はただイエス・キリストひとりによって私たちに臨まれていることを証ししています。
では、信仰によって義と認められた時に、私たちの生活には具体的にどんな霊的祝福が臨まれますか。

第一に、神様との平和を持っています。1節をご覧下さい。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。信仰によって義と認められた人に与えられる第一の祝福は神様との平和です。即ち罪の問題が解決された人は、神様との関係において和解されています。神様との平和を持っています。これは非常に客観的なことであって、心の中でただ気分がよくなったというような話ではありません。「シャローム」という契約の言葉であって、契約の完全な祝福の状態を表わす言葉です。死の反対はいのちだという言い方もできますが、「シャローム」は死の反対を意味していますし、呪いの反対を意味する言葉です。つまり義と認められた人は死と呪いから解放されて「シャロームの中にあって生きている」ということです。「シャローム」を持っているということは、「神様は私たちの敵ではなくなった。」ということです。
イエス様を信じる前の私たちは神様の敵であり、契約的にサタンの子どもであるかのように横柄な心と態度で神様の御前に立つ、敵意の関係にありました。しかし今は、神様と「シャローム」の関係にあって祝福される者となったのです。義と認められるということは、父なる神様に愛される神様の子どもとして「シャローム」の関係に戻ったということなのです。つまり、「シャローム」の関係によってすべてが満たされているから平和なのであり、安全なのであり、幸せなのです。すべてが満たされるから、生活に必要な金銭・物資も与えられ、病気も癒され、心には満足があります。たとえ悪く思えることが起っても、それを喜び、感謝することができます。
ですから、私たちが神様との平和を持っていること、即ちシャロームの状態にいることはとても大切であり、とても大きな祝福です。私たちをシャロームの状態にしてくださったイエス・キリストの恵みに感謝しながら隣の方と挨拶しましょう。「○○さんにシャロームがるように。」シャロームがあるならすべてが満たされるからです。もし神様に対して罪を犯しているなら、神様との正しい関係を回復することができる。病気なら、癒される。悲しんでいるなら、慰められる。落ち込んでいるなら、励まされる。お金がなく困っているなら、必要なものが与えられる。誰かと仲たがいしているなら、和解できる。そしてその人がまだ神様を信じないなら、イエス様を信じて神様との平和な関係を持つことができるようになる。と言うことが「シャローム」なのです。私たちをこのような素晴らしいシャロームの状態にするものは何でしょうか。それはほかでもない、イエス・キリストです。エペソ2:14には「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、」と書いてあります。イエス様は十字架につけられ、私達の罪を赦してくださることによって、神様と人との間にある罪の壁を打ち壊してくださいました。それで、罪による不安と恐れから解放されてシャローム状態になったのです。この世がどんなに揺れ動いてもイエス様を信じる者の心にある安らぎを奪い取ることができません。私たちは聖歌254章にあるように「こころにあるこのやすきをうぼうもの地になしーこころみにて苦しむともわがやすきうごかじー・・」と歌うことができます・(一緒に歌ってみましょう)。神様はイエス様を信じる人にこのようなシャローム、平安を与えてくださいます。これは教会に通うから得られるのでもありません。イエス・キリストを信じる信仰によってのみ得られるものです。私たちが信仰によって神様との関係がシャローム状態になると、隣人とも和解し、自分自身とも和解します。彼はどこでも平和をもたらす人となります。イエス・キリストを信じる信仰によって神様との平和を持つようにしてくださった神様の恵みを感謝し、賛美します。
第二に、恵みと望みの喜びを得るようになりました。喜びは生活の原動力です。喜んで生きるということは何と幸せなことでしょう。勉強も喜んですると、能率が上がるし、仕事も喜んですると良い成果を上げることができます。ところが、この世で真の喜びを見つけ出すことがやさしくありません。「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14:13)」とあるように、この世には真の喜びを見出すことができません。イエス・キリストによって真の喜びを得ることができます。喜びは英語でJOYですが、「Jesus first, Others second, Yourself third」を意味します。私たちはイエス・キリストをファストにする時に真の喜びを得ることができます。
ここでパウロはクリスチャンの喜びを三つに分けて言っています。一つ目は未来において神様の栄光にあずかるから喜ぶ喜びです。2節をご覧下さい。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」とあります。「神の栄光」とは神様が下さる賞賛と報いです。また、私たちがやがて天国で受ける栄光です。過去、私たちはこのような望みを知らなかったし、このような望みを聞いても喜びませんでした。非現実的なものだと思っていました。私たちの喜びはこの世で認められ、報われることにありました。自己満足にありました。ところが、私たちがイエス様を信じたとき、キリストによる神様の栄光を望み、その中で喜ぶ存在に変わりました。この喜びは朝夕に変わるものではなく、神様が私たちのたましいに注いでくださる聖なる喜びであり、純潔な喜び、永遠の喜びです。二つ目は、現在には患難がありますが、その中にあっても喜ぶ喜びです。3、4節をご覧下さい。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」患難は決して喜ばしいものではありませんが、信仰の上からはむしろ有益なものとなったのです。ですから、クリスチャンにもノンクリスチャンと同じく患難がありますが、その中にあっても喜ぶ喜びがあります。たとえ悪く思えることが起ってもそれを喜ぶことができるのです。
私たちはヨセフの生涯を通してもこのことを確かめることができます。ヨセフは患難に生きた人でした。ヨセフはつねに人の罪を自分の身に負って、苦しみを受けました。ヨセフの兄たちは、ヨセフが父ヤコブに愛されるのを見てねたみました(37:4?11)。彼らのねたみは、ヨセフを殺したいという思いにまで達し、ミデヤン人の商人に銀20枚で売られてしまうのです(37:12?28)。またエジプトの侍従長ポティファルの妻は、美男子であったヨセフに言い寄りましたが、ヨセフに受け入れられないとわかると、ヨセフを陥れ、監獄に入れてしまいます。このように不当な取り扱いに対してヨセフは何一つ反抗することなく、苦しみを受けました。彼に患難が続きましたがそのためにその性格が曲がることはなく、その品性は神様のしもべにふさわしく整えられていきました。彼の品性は敵をも愛するイエス・キリストのように変えられて行ったのです。創世記45:4、5節を見ると、ヨセフは自分を殺そうとして罠に陥れ、売り出してしまった兄弟たちにこう言っています。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」彼はこのような品性でエジプト人のいのちを救い、自分の家族のいのちを救う神様のみわざに用いられました。結局、彼の生涯を考えてみると、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことになりました。ですから、使徒ペテロは患難の中にいる聖徒たちを励まして言いました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです(?ペテロ1:3,4)。」以上で、患難は希望を生み出すものであることが分かります。ですから、私たちは現在の患難の中でも喜ぶことができます。また、私たちが患難の中でも喜ぶことができる理由は神様の愛です。
6-8節では神様の愛がキリストの十字架に表わされたことを示します。ご一緒に6-8節を読んでみましょう。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ただ単に正しく公正な人だからと言うだけで、個人的に借りもなく、特別に愛している相手でもない人を救うために自分のいのちを捨てる人はまずいないでしょう。しかし、単に正しいだけでなく、非常に寛大で、人々を助け、親切で、多くの人が感謝をおっているような自分のためにはいのちを惜しまない人もいるかも知れません。つまり人間が他の人間のためにいのちを捨てるようなことはめったにないことなのです。特別愛しているとか、その人に対する感謝と尊敬の心がよほど深くなければ、その人のために自分のいのちを捨てたりはしないのです。ところが、キリストはどうだったのでしょうか。私たちがまだ罪人であったときに、私たちのために死んでくださいました。この「罪人であったとき」という言い方は、私たちがどんなにひどい者であったのかをよく表わしています。私たちは皆、ひとりの例外もなく、神様に敵対していました。10節では、「神の敵であった私たちが・・・」とパウロははっきり言っています。神様を憎み、逆らい、神様から逃げている。そのような罪人であったときに、私たち主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったのです。私たちは、この十字架によって、罪が赦され、「義と認められ」るゆえに、神の怒りから救われるばかりではなく、神様との平和を持つようになったのです。この大いなるキリストの愛のゆえに、私たちは患難の中でも喜ぶことができるのです。私たちはただ信仰によって十字架を見上げて神の愛を知り、聖霊を受ければ、神の愛を受けることができます。そのような一方的な愛をいただいた私たちは、その愛を覚えつつ、その十字架の愛にいつも目を留めて毎日の生活を歩んでいくように祈ります。三つ目は、未来における神様の栄光を望んで喜ぶだけでなく、現在神様ご自身を喜ぶ喜びです。11節をご一緒に読んでみましょう。「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。最後のところでパウロは、「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」と言っています。パウロはここで「喜びましょう」とは言っていない。クリスチャンとは、「神を喜んでいる」者なのだとパウロは教えています。彼は、私たちが神の御栄光を望んで喜ぶにとどまらず、「神御自身を喜ぶ」ということを強調しているのです。「恵みがあるから喜びましょう」ということではなく、恵み主ご自身を喜ぶのです。このように、神様御自身を喜ぶのが本当に成長したクリスチャンの信仰です。神様が何か与えてくださるのを望んで喜ぶわけではないし、助けてくれることをただ喜ぶのでもありません。もちろん、それらも喜んでよいことであり、私たちはそれらをも喜んでいます。救いの偉大さを思い、神様が与えてくださるものを喜ぶべきです。神様が常にともにいてくださることを私たちは喜ぶべきです。しかし、神様御自身を喜ぶということは、それらとは焦点が違うわけです。神様を求め、神様を知り、その神様御自身を喜ぶのです。これが成長したクリスチャンの信仰であることをパウロは教えようとしています。事実、神様との愛の交わりにはいった者は、どんな患難にあっても、「いつも喜んでいる」ことができます。
第三に、確実な救いを得るようになりました。9、10節をご覧ください。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」とあります。
ですから、という言葉から始まっていますが、一節の、「神との平和を持つ」ことに戻っています。私たちが神との平和を持っているので、ここでパウロが言っているように、神の怒りから救われます。私たちが敵であったときに、神様は御子の死において私たちと和解してくださいました。しかし、御子は死者の中からよみがえられ、今は生きておられます。御子が死なれたことによって、神様が和解してくださったのだから、生きておられる御子は、私たちのために天から来られて、私たちを、今の悪い世から救い出してくださるのは、なおさらのことなのです。私たちは確実に救いを得ているのです。
 パウロは12-21節までの御言葉を通してすべての霊的祝福はただイエス・キリストひとりによって私たちに臨まれていることを証ししています。アダムひとりによって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がりました(12)。全人類が罪を犯したのです。これはアダムの子孫である人類は罪の勢力から免れることができないことを意味します。それだけではなく罪の代価として死ななければなりません。アダム一人の不従順が人類の歴史に及ぼした影響力は致命的なものでした。しかし、イエス様の従順によって新しい歴史が始まりました。イエス様を信じる者はアダムの影響の下ではなく、イエス様の影響の下に置かれるようになります。アダムは罪の歴史、不従順の歴史を創造しました。しかし、イエス・キリストはいのちの歴史、従順の歴史を創造されました。それで歴史はイエス・キリストを中心に紀元前と紀元に分かれます。私達もイエス様をいのちの主として受け入れる時、私達のうちに新しい創造が始まります。19節をご覧下さい。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」ここで一人の大切さを学ぶことができます。私達は自分を過小評価する傾向があります。自分一人で何かできるかと思います。自分一人が信仰生活をするからといって、この国が変わるかと思います。しかし、私一人は家庭や学校、社会、さらに人類の歴史においていなければならない大切な存在であることを知らなければなりません。私ひとりの影響は大きいものです。人類の歴史は一人から始まりました。一人はこの世の何物とも変えられない尊い存在です。ですから、私たちが1:1聖書勉強によって仕えている一人の兄弟は大切な存在なのです。

今日の御言葉を通して信仰によって義と認められた人々の霊的祝福について学びました。私たちは私たちの主イエス・キリストによって、神様との平和を持つようになりました。神様の栄光を望んで大いに喜ぶ生活をするようになりました。さらに、患難さえも喜ぶようになりました。神様はイエス様を信じる信仰によって義と認められる人々をこれほど祝福してくださいます。私たちが神様から与えられたこの祝福を毎日味わいながら幸せな人として生きるように祈ります。