2008年クリスマスの御言葉第2講

私たちのために生まれる一人のみどりご

御言葉:イザヤ9:1?7
要 節:イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

Merry Chrismas!
先週、私たちは「インマヌエル!神様は私たちとともにおられる」ということについて学びました。御言葉のとおりに、いつも私たちとともにおられる神様の愛と恵みを心から感謝します。
今日は、インマヌエルのイエス様が私たちのためにひとりのみどりごとしてお生まれになったことを学びたいと思います。ひとりのみどりごはやみの中を歩んでいた民、死の陰の地に住んでいた者たちに大きな光として来られました。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。このクリスマスのメッセージが私と皆さんの心に深く臨まれますように祈ります。

1節をご覧ください。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」とあります。先週、学んだように、神の民であるユダとその王アハズにはアッシリヤの勢力の圧迫のために心を惑わされる苦しみがありました。南ユダだけではなく、北イスラエルにも苦しみがありました。北イスラエルは、ユダよりも先にアッシリヤによって滅ぼされましたが、ゼブルンの地とナフタリの地には数多くの異邦人も住み込んできました。それで、彼らは異邦人による苦しみだけではなく、同族からも異邦人のガリラヤと呼ばれるほどにはずかしめを受けました。異邦人として呼ばれることは選民意識が強いイスラエル人にとって恥辱的なことです。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。確かに、先にははずかしめを受けました。しかし、後には栄光を受けるのです。
1bをもう一度ご覧ください。「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受けた。」とあります。ここで、イザヤは後に受けることなのに「栄光を受けた」と表現しています。それは神様に対する絶対的信頼であります。イザヤはゼブルンの地とナフタリの地に苦しみがあり、人々に無視され、はずかしめを受けても、神様が彼らを捨てたり、あきらめるようなことはなさらないと信じていました。後には異邦人のガリラヤに神様が栄光を与える希望を持っておられると確信していたのです。つまり、神様の希望はイザヤの希望となっていました。その希望とは何ですか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」神様の希望、イザヤの希望はやみの中を歩んでいた民が大きな光を見るということです。やみの中を歩んでいた民にはどんな希望も夢もビジョンも持つことができません。彼らには目の前が真っ暗になっていました。未来も真っ暗になっていました。やみの中でさまように盲人のようであり、38年もの間、病気にかかっていた人のようになっていました。健康に見られても心は虚しさ、孤独、寂しさのために暗くなっている収税人のようになっていました。夜を通して働いても満足できるほどの収入が得られないガリラヤの漁師たちのようでした。何もかもうまくできない現実の中で絶望し、無気力な生活をしていたのです。絶望は死に至らせる病であると言われていますが、彼らは死の病を患っていたのです。ところが、そんな彼らが大きな光を見ました。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照ったからです。彼らに大きな光が照らされると、心にあるやみと死の陰は消え去って行きました。その代わりに彼らの心は光によって温かくなり、生き返るようになりました。彼らに将来と希望が見えてきました。では彼らが見た大きな光とは誰でしょうか。
マタイの福音書4:14?16節を開いてみましょう。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」とあります。大きな光として来られたお方はイエス・キリストです。イエス様ははずかしめを受けていたゼブルンとナフタリの地、ガリラヤに来られました。大きな光として来られました。それで、このイエス・キリストを受け入れた人たちは大きな光によって癒されました。38年もの間、病気になっていた人も、生まれながら盲人であった人も、ガリラヤの漁師たちも、輝かしい光に照らされて新しい人生を生きるようになりました。私たちが自分自身と現実だけを見ている目を上げて大きな光として来られたイエス・キリストを仰ぎ見ると、心に住み着いている暗黒と死の陰が消えていきます。冷え込んでいた心が温かくなり、将来と希望を持つようになります。真っ暗だった目の前が見えるようになり、驚くべき希望の新たらしい歴史が始まります。
過去、朴エズラ宣教師は大学入試に失敗し、浪人していましたが、その時に面倒みてくださったお祖母さんが交通事故で入院しました。その時、おばあさんから「お前が浪人していなかったこんな目にあわなかったのに・・・」と言われて大きなショックを受けました。さらに、二浪しても大学に落ちました。やっと後期入試に合格して大学生になったのです。その時、どんなに落胆していたでしょうか。彼は暗やみの中にすわっていたでしょう。死の地と死の陰にすわっていました。しかし、大学生の時、UBF教会に導かれて1:1聖書勉強を通して彼は大きな光を見ました。すると、彼のうちに驚くべき希望の歴史が始まり、今は宣教師として、大学教授として過去の自分のような人々を助ける人生になりました。朴エズラ宣教師だけではありません。ここにいらっしゃる宣教師と牧者たちの証しでもあります。では大きな光に照らされた国民はどうなりますか。
第一に、その国民はふやされます。3a節をご覧ください。「あなたはその国民をふやし(You have enlarged the nation)」とあります。「Enlarge」とは「大きくする、拡大する、広くする。」という意味を持っています。その国民は大きくされ、拡大され、広くされるということです。つまり、その国民は栄えるようになるのです。
やみの中を歩んでいる人々、死の陰の地に住んでいる人々の考え方は暗く、否定的になっています。意欲も情熱もなく、無気力になっています。ところが彼らに大きな光が照らされると、彼らの心は躍動し始めます。無気力の状態から立ち上がり、走り回るようになります。福音の光に照らされると、聖なるミッションを持って挑戦し、開拓し、征服するようになります。結局、彼らは繁栄し、その国民は増えて行きます。キリストの光に照らされる国民はふやされるのです。
第二に、その喜びは増し加えられます。3b節をご覧ください。「その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの前で喜んだ。」とあります。人はいくら金持ちであっても、名誉と地位と権力を握っていても、やみの中を歩み、死の陰の地に住んでいるなら、本当の喜びを味わうことができません。人々は喜び、楽しむために数多いエンターテイメントを作り出していますが、実際には生活の中で虚しさ、孤独を経験しています。最近のニュースによると、大麻取締法違反容疑で逮捕されたり、任意の調べを受けたりして摘発された大学生が多くなっています。今年も「名門」と言われる早稲田、慶応、同志社などを含め、多数の違反が発覚しています。それは人生の虚しさ、寂しさから解放されず、瞬間的な喜び、快楽を求めている若者たちが増えているからでしょう。しかし、大きな光に照らされると、どうなりますか。その人の喜びは増し加えられて行きます。その喜びとは、薬物やお笑いタレントによって得られるような喜びではありません。刈り入れ時に喜ぶような喜びです。農夫が熱心に種を蒔き、汗をかきながら耕して収穫の秋にその努力の汗と涙の実として刈り入れる時の喜びです。これは勤勉に、熱心に働く人々が経験する喜びです。イエス・キリストの光に照らされると、人々は安逸と無気力から立ち上がり、熱心に働く人に変ります。聖なるミッションとビジョンを持って一生懸命に活動する人になります。その人の人生は刈り入れ時の喜びに満ちあふれるようになります。この喜びはパチンコやギャンブルなどで経験する喜びとは質が全く違います。それはパチンコから出てくる人の暗い顔と聖なるミッションのために一生懸命に活動している人々の明るく、輝かしい顔を見れば分かるでしょう。そして、分捕り物を分けるときの楽しみとは、戦争に勝って凱旋する時に大いに喜ぶ楽しみです。
4節をご覧ください。その昔、ギデオンがミデヤンに大勝利を得た時(士師7:16?22)はどんなに喜んだでしょうか。そのように、キリストの光に照らされると、戦争に勝って敵の圧制から救い出され時に喜んだような楽しみがあるのです。事実、キリストの光に照らされている人は日々霊的な戦いにおいて敵を征服し、勝利する喜びを経験します。夜明けから眠りの悪魔に勝ち、安逸と情欲のサタンの勢力と戦って勝利します。その人は生活の中で挑戦し、戦って征服し、勝利する喜びと楽しみが満ちあふれるようになります。
第三に平和を所有するようになります。5節をご覧ください。「戦場ではいったすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」とあります。大きな光として来られたキリストは戦場ではいったすべてのくつ、血にまみれた着物を火のえじきのように焼いてしまいます。それによって戦争を終わらせ、まことの平和を与えてくださいます。それでキリストがおられるところに憎しみと葛藤、喧嘩と戦争が終わり、まことの平和と安息が臨まれるようになります。大きな光として来られて私たちにある人々への憎しみ、争いの心を焼き尽くし、まことの平和と安息を与えてくださるイエス・キリストの御名を賛美します。では、イエス・キリストは私たちのうちにどのように働かれるでしょうか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ここで、私たちのために生まれるひとりのみどりご、私たちに与えられるひとりの男の子とはイエス・キリストです。この方がまことの王であられます。「主権はその肩にあり」とあります。主権が当時の大国であるアッシリヤでもなく、有能な王でもありません。すべての主権はこのひとりのみどりご、ひとりの男の子であられるイエス・キリストの肩にあるのです。このイエス・キリストこそ、私たちがまことに信じるべきお方であり、私たちが頼るべきお方です。それは、イエス様は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」お方であられるからです。
 「不思議な助言者」というのは英語の訳で「Wonderful Counselor」となっています。カウンセラーというと、現代では、心理学的な意味で使われていますが聖書の時代の「カウンセラー」は、国の政策を立てたり、軍事上の戦略をさずけたりする人のことを意味していました。アメリカで言えば、大統領補佐官のような役割です。大統領には各分野に優れた補佐官がありますが。大統領ではなくても、私たち人間は誰でも助言者、カウンセラーが必要でしょう。箴言には「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。」(箴言15:22)とういう言葉があります。
私たちは生きているうちに、様々な出来事に出会います。全く予想しなかったこと、自分の想像を超えた出来事に出会う時もあります。どうすれば良いのか、どの道を選ぶべきかを知らなくて悩みに悩む時もあります。そのような時に良いカウンセラーの話を聞くことができれば、助かります。自分だけではできないことでもカウンセラーによって成功します。そう言う点で考えてみると、xx牧者のようなクリスチャンカウンセラーがいる東京大学の学生たちは恵まれていると思います。それはクリスチャンカウンセラーはWonderful Counselorであられるイエス・キリストとつなっがっているからです。ところが、イエス様はこの世のどのカウンセラーとも比べられないWonderful Counselorです。私たちに知恵が足りない時、どのように生きるべきか、どの道に進んでいくべきか、どうすれば良いのかが分からなくて悩む時に、イエス様に出て行くなら、イエス様はWonderful Counselorとして私たちを助けてくださいます。私たちをベストの道に導いてくださいます。Wonderful Counselorは不思議にも、弱い私たちでも真理の道、いのちの道、勝利の道、栄光の道に歩むことができるように導いてくださるのです。
二番目に呼ばれる名前は「力ある神(Mighty God)」です。ひとりのみどりごイエス様は元々天地万物を創造された神様です。だからひとりの嬰児は全能の神様なのです。ひとりのみどりごイエス様は、サタンの力を打ち破る力をもって来られます。イエス様はこの世に来られ、全能の力をもって働いておられます。イエス様には不可能なことはありません。そして、イエス様を信じる者たちにその力が与えられます。使徒パウロはイエス様を信じる信仰により、空前絶後の御業を成し遂げることが出来ました。そして次のように告白しています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリ4:13)。私たちも力ある神だられるキリストを信じて生きる時、どんなことでもできる人生を生きるようになります。
 三番目に呼ばれる名前は永遠の父です。その名は「永遠の父」と呼ばれる。何と素晴らしいことでしょうか。父がいるということは大きな恵みです。子どものにとって父は大きな存在です。子どもたちを保護し、必要なものを満たします。子どもを養育し、教育します。いつまでも子どもを見守り、助けようとします。私は本文の御言葉で自分の息子たちと聖書勉強をする時「あなたにとって父はどんな存在か」と聞いてみました。すると、ふたりが違う時間に勉強したのですが答えはただ一つ「面倒を見てくれる存在」であるということでした。私はそのほかにはないかと問い続けましたが、子どもにとって父が面倒見てくれることだけでも幸せなことでしょう。ところが、この世の父はいくら素晴らしい父であっても限界があります。力においても時間的にも限界があります。しかし、イエス様は永遠の父となって下さいます。いつでも、どこでも、私たちを見捨てず、父親であり続けて下さるのです。しかも、子どものいのち、救いのためなら、どんな犠牲も惜しみません。イエス様はご自分のいのちさえも惜しまずにお与えになりました。十字架にかかって死んでくださったのです。そして、死者の中からよみがえられたイエス様は聖霊となって今は私たちの間に住まわれ、父の役割を果たしておられます。今までも、今からも永遠に父親の役割を果たしてくださるのです。
 四番目に呼ばれる名前は「平和の君」です。主イエスは平和の君としておいでになりました。その象徴として、いよいよ十字架にかけられるためにエルサレムに入城する時、イエス様は軍馬ではなく、ろばに乗って入城されました。イエス様はなぜ、「平和の君」なのでしょうか?それは、十字架によって先ず人と神様との和解を実現し、人と人の和解を実現されたからです。私たちがお互いに本当に赦し合えるのは、十字架にある赦しの愛が私たちに注がれることによってです。真の平和と平安は、イエス様の十字架にあります。イエス・キリストは、神様に敵対し、神様の怒りを受けるばかりの私たちを、神様と和解させ、神様と人との間に平和をつくり出すために十字架で死んでくださったのです。このキリストの死によって私たちは、神様との和解をいただいているのです。ローマ5:1に「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。
皆さんは、神様との平和を持っているでしょうか。神様との平和から、お互いの間の平和が生まれます。ヘブル語で「平和」(シャローム)は「平安」とも「繁栄」とも訳すことができます。神様との平和の中に生きる人生こそが平安な人生であり、神様のため、人のために実を結ぶ繁栄の人生となるのです。
 7節をご覧下さい。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。イザヤは絶望的な時代に生きていても、大きな光、メシヤがお生まれになるビジョンを見ました。そして、万軍の主の熱心がそれを成し遂げられることを確信しました。その信仰のとおりに、ひとりのみどりごがお生まれになりました。そして、このキリストのお誕生を祝う2008年クリスマスが近づいて来ました。明日からはクリスマス特別祈り会も行なわれます。
ここに飾られているクリスマスツリーはこのキリストの光のしるしであります。私たちが心から大きな光として来られたイエス・キリストを信じるなら、必ず私たちの心は光に照らされます。そして、キリストが「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」となってくださることを経験します。どんなに身分の低い人でも、どんなに弱い人でも、キリストの不思議、力あるわざを経験することができます。永遠の父、平和の君であられるイエス様によって真の平安を得ることができるのです。どうか、今年のクリスマスにも、大きな光として来られた一人のみどりごイエス・キリストの愛と恵みが豊かにありますように祈ります。