2010年箴言第5講

正しい者の天幕は栄える

御言葉:箴言12?14章
要 節:箴言14:11「悪者の家は滅ぼされ、正しい者の天幕は栄える。」

先週、私たちは正しい者の実はいのちの木であることを学びました。黙示録によると、天国にいのちの木があってに十二種の実がなり、毎月、実が出来ました。また、その木の葉は諸国の民をいやしました。この地においても、正しい者は、日々新しい御言葉によって生かされていきます。御言葉の恵みによっていやされていきます。どうか、この時間も、主が御言葉による恵みをもっともっと味わわせてくださるように祈ります。
今日は、「正しい者の天幕は栄える」ということについて学びたいと思います。神様は正しい者の生涯を見守り、支え、繁栄と安全を約束しておられます。この時間、学ぶ箴言12章―14章にも正しい者が主から恵みをいただく恵みと祝福が記されています。特に、「正しい者の天幕は栄える」と約束されました。では「正しい者とはどういう人でしょうか。聖書によると、根本的にはイエス・キリストによって救われた人です。御霊によって歩む人です。
もちろん、世の人々が考える正しい者とは、決まりを守り、人に迷惑を欠けず、人のために特別な犠牲を払う人でしょう。反対に、自分の利益のために法を犯したり、他の人に損害を及ぼしたりする人を悪者と言います。その他、大勢の人々は、どちらでもない普通の人という見方です。
しかし、聖書には、普通の人という概念がなく、悪者か正しい者かのどちらかです。そして、イエス・キリストを信じて救われた人が正しい者なのです。私たちクリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって救われています。ただ、神様の祝福を受けていのちの木となり、栄えるためには聖書に示された正しい者の道を歩んで行かなければなりません。特に、知恵ある人生、成功者の人生を生きるためには箴言の教えが有益になります。そこで、今日も、12章から14章に記された正しい者が栄える道を学びたいと思います。一節一節の御言葉が意味深く、素晴らしい教訓が記されてありますが、それら四つに分けて皆さんと共に考え、学びたいと思います。つまり、訓戒、真実、勤勉、知恵に関してです。どうか、この学びを通して私たちが何をしても栄える人生を生きるように祈ります。

一つ目に正しい者は訓戒を愛します。聖書は教訓の本であり、訓戒の本です。今日の御言葉の中でも訓戒に関する御言葉を調べてみると12章1節に、「訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ。」とあります。また、13:1に「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。」とあります。そして、13:24には「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」とあります。クリスチャンの中でも耐え難い試練を経験する時があります。大きな試練を経験して「ほんとうに大変だった。神様から懲らしめられた」という方もいます。それは信仰があるから言える言葉だと思います。事実、訓戒、叱責、懲らしめなどは楽しいものではありません。苦しくて苦しくて涙を流す時もあります。実際に健康が損なわれ、物質的にも損する時もあります。厳しい訓戒、叱責のために心が傷つけられる時もあります。しかし、この訓戒や懲らしめの受け方によって祝福になるか、災いになるかが決まります。
私たちは訓戒や叱責を受け、懲らしめられるとき、それを憎み、落胆してはなりません。親が子どもを訓戒すると、ある子どもは反抗し、逃げ出します。すると、親はますます腹が立つでしょう。理性を失い、感情的になってしまう場合もあります。私は子どもの時、父親に酷く殴られた時があります。その時、父は私を訓戒し始めたのですが、私が父の顔を見ると怒っていたので家の外に逃げ出しました。すると、父は追いかけてきてつかまえると、ものすごくおこって殴りつづけました。殺されるかと思われるほどでした。おばあさんが来てくれたから助かりましたが、あの時のことはいまだに鮮やかです。今、考えると、あの時、逃げなかったらそんなに殴られなかったのにと思われます。事実、父が訓戒をする時、叱責を素直に受け入れる子どももいます。訓戒し始めると、「お父さん、僕が悪かったんです。二度としません。」と誤ります。すると、むち打ちしようとしていた父の心も変わるでしょう。「二度とそんなことするな。」と言って終わります。
私たちクリスチャンも神様の訓戒を受ける時があります。家族を通して、霊的な先輩の言葉や牧師の言葉、メッセージを通して懲らしめられる時もあるでしょう。そのような時、落胆して神様を裏切り、遠く離れて行く人たちがいます。しかし、そのようにしてはいけません。試練や痛みがあればあるほど神様に近づき、神様のふところに抱かれるために励まなければなりません。私たちは父なる神様に近づかなければならないのです。申命記8章5、6節を開いて見ましょう。「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。」とあります。
イエス・キリストを信じるとすべての痛みがなくなり、苦しみもなく、すべての事がよく出来るとは言えません。もちろん、私たちはすべてのことを働かせて益としてくださる神様によって圧倒的な勝利者の人生を歩んでいきます。でも、この地上に生きている限り、ノンクリスチャンと同じく、さまざまなことを経験します。痛みも苦しみもあります。病気にかかってしまう時もあります。ノンクリスチャンよりも大きな試練や患難に遭う時もあります。しかし、そのような苦難と試練を経験しながら信仰によって生きる人生を学びます。私たちのうちにある不純物を洗い流して聖い器になることもできます。
神様がモーセを用いられる時はエジプトの王子であった時ではありませんでした。その時のモーセには、何でも自分の力と知識によって出来ると思う高慢があったからです。それで、神様は彼を荒野訓練所に送り出しました。そこで40年間の訓練を受ける時に、すべての不純物が無くなり、神様だけに頼る人になりました。謙遜と柔和な人になりました。やがて、彼はイスラエルの卓越した指導者として用いられるようになりました。
ですから、私たちは訓戒を愛し、叱責や懲らしめを受ける時も落胆しないで神様に祈るべきです。ヤコブ5:13a節を見ると「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」とあります。
二つ目に、正しい者は真実を言い、真実に行います。真実に関する御言葉を調べてみましょう。12章17節をご覧ください。「真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。」とあります。12:19に「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。」とあります。12:22には「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。」とあります。「正しい者」と言う言葉そのものが韓国語の聖書に「正直者」と訳されてあります。正しい者とは言うのは真実を言う正直者と言えるということでしょう。実際に聖書には「正直」に関する単語が約125回使われているそうです。私たちクリスチャンのニックネームを言うなら、それは「真実な人」でしょう。この「真実」という単語は原語で「ピストス(Pistos)」ですが、「忠実に、誠実に、正確に」という意味が含まれています。?ペテロ2:12節を見ると「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」とあります。私たちが真実に生きるべき理由がここにあります。クリスチャンである私たちのりっぱな行ないをみて、おとずれの日に異邦人が神様をほめたたえるようにするところに、その目的があります。
この時間、私たちが自分のことを考えて見ましょう。もし、レストランで食事をしてお金を払う時に、計算が間違って定額より少なく請求されたら、どうするでしょうか。その差額を知らせてあげるでしょうか。それを自分のポケットに入れるでしょうか。もし、10万円ほど入っている財布を拾ったら、それを交番に持って行くでしょうか。あるいは自分のポケットに入れるでしょうか。ある雑誌でこの問題を持ってアンケート調査をして見ましたが、25%は自分のポケットに入れると答えたという報告がありました。それでも、私たちクリスチャンは真実に、正直に生きることを決断しなければなりません。ペテロが言っているように、私たちのりっぱな行ないが神様がほめたたえられる一つの方法であるからです。この世の中が偽り、詐欺が多くなればなるほど、私たちはもっともっと真実に生きるべきチャンスです。暗ければ暗いほど光は大きく、広く光るからです。
三つ目に、正しい者は勤勉な者です。12章24節に「勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する。」とあります。27節に「無精者は獲物を捕らえない。しかし勤勉な者は多くの尊い人を捕らえる。」とあります。13章4節に「怠け者は欲を起こしても心に何もない。しかし、勤勉な者の心は満たされる。」とあります。これらの御言葉は勤勉な者に与えられる祝福について教えてくれます。外的に、支配権が与えられるし、多くの尊い人を捕らえられます。内的に心は満たされます。勤勉な者は神様の御前で恥ずかしくないから心に平安があります。平安な心で働くので何をしてもうまくいきます。もし、うまく行かなくても心に平安があるので満足感があります。14章4節をご一緒に読んでみましょう。「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」この表現は、驚くほど示唆に富んだ表現です。箴言の御言葉は一句、一句が示唆に富んでいますが、この御言葉は勤勉な生活に深く教えてくれると思います。
昔、私の家には、農耕用の牛がいました。牛に草を食べさせ、餌をやるのが少年私の勤めでした。しかし、牛小屋には牛の糞がたまります。それを処理するのは父の役割でしたが、それは稲を育てるための効果的で安全な肥料になりました。それで、私が子どものころ、今から三十年前に、農耕用の牛を持つことができたときに、生産力は格段に飛躍しました。しかし、それに伴い、飼い葉おけその他の、牛の世話にも多くの労力が必要になってきました。それで、子どもの私は牛がいなければ、もっともっと友たちと遊べるのにと思う時もありました。牛がいなければ飼葉おけは掃除しなくてもきれいだし、牛の世話をしなくてもいいからです。でも、今になって考えてみると、牛がいなかった友だちは中学校や高校にもいけませんでした。しかし、私はあの田舎でも、大学まで勉強が出来て宣教師になりました。それは牛の力によって収穫は多くなったからでしょう。つまり、牛を飼うためには勤勉にならなければなりません。ところが、牛がいなければ収穫を多くする事もできないのです。これは、教会にも適用できます。子どもがいなければ教会は静かになるかもしれません。しかし、子どもがいなければ教会の未来はないばかりか、現在の活力も生まれないことでしょう。確かに、今の時代に、子どもを育てることはやさしくありません。家に帰っても静かに休み、読書することもなかなかできません。いろいろ、勤勉にならなければなりません。しかし、愛する子どもを育てる喜び、生きがいも大きいものです。子育てから生まれる活力も大きなものです。
私たちの生きている世界では、自分にとって都合の良いものだけを選んで、面倒なことを避けようとする人が増えていると言われます。しかし、それは自殺行為にしかなりません。実りある人生を生きるために「牛小屋に牛の糞がたまっても牛を飼う」という面倒な働きが不可欠です。勤勉に生きる時に、収穫も多くなるし、心も満たされるのです。
 四つ目に正しい者は知恵のある人です。知恵のある人に関しては箴言に何度も記されてあります。それでここではしっかりした妻の知恵を紹介したいと思います。12:4節に「しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。」とあります。14:1節には「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。」とあります。夫の妻は子どもたちにとって母です。ユダヤ人の血統は徹底に母に従います。父がユダヤ人でも母が異邦人なら、その子どもはユダヤ人ではありません。反対に、父は異邦人であっても母がユダヤ人なら、ユダヤ人になります。それはユダヤ人が母を家庭の中心であり、人生の師として思っているからです。ここにユダヤ人の母が結婚を目の前にした娘に送った手紙を紹介します。「愛する娘よ。あなたが夫を王のように仕えるなら、あなたは王妃になるはずです。もし、夫に対してただお金を稼いでくるしもべだと思うなら、あなたもしもべになるだけでしょう。あなたが度を過ぎた自尊心と誇りのために夫を無視するなら、彼は暴力であなたを支配し、治めるはずです。もし、夫の友人や家族が訪れてくるなら明るい表情をし、誠意を尽くしてもてなしなさい。そうすると、夫はなたを貴重な宝石のように思うでしょう。いつも家族に心を置いて夫を敬いなさい。すると彼があなたの頭に栄光の冠をかぶってくれるでしょう。」

以上を通して私たちは正しい者の生き方を学びました。訓戒を愛し、真実に生きる人、勤勉な人、そして知恵のある人が正しい者です。世の中は、父の訓戒、教師の訓戒よりも、個性を活かした教育が流行っています。父も、教師も、子どもに合わせて教育するように言われています。しかし、聖書的にみると、上の権威に従うことを教えています。何よりも、第一に父なる神様の訓戒、御言葉を愛して従う生活が求められています。そして、真実に、正直に、勤勉に生きることが求められています。私たちがイエス・キリストを信じると、その信仰によって正しい人となりますが、神様は正しい者たちに正しい生き方を求めておられるのです。そして、私たちが聖書の御言葉に従って正しい者として生きるなら、どうなりますか。14:11を読んでみましょう。「悪者の家は滅ぼされ、正しい者の天幕は栄える。」正しい者は何をしても栄えるようになります。一緒に暮らしている家族も、教会も、会社も、国家も栄えるようになります。