2010年箴言第9講 

力強い贖い主

御言葉:箴言22:17?24:34
要 節:箴言23:11「彼らの贖い主は力強く、あなたに対する彼らの訴えを弁護されるからだ。」

先週、私たちは「主を待ち望む生活」について学びました。神様が御言葉を通して私たちに主の御言葉と聖霊降臨を待ち望むようにしてくださったことを感謝します。詩篇119:49-50節に「どうか、あなたのしもべへの御言葉を思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ、悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」とありますがそのとおりです。いつでも、どこでも御言葉によって私たちを慰め、私たちを生かしてくださる主の御名を賛美します。

今日は、主の御言葉を聞くことの素晴らしさ、力強い贖い主に関して学びたいと思います。聖書勉強をしている方は分かると思いますが、御言葉によって慰められ、生かされることをう経験していることでしょう。詩篇119篇の著者はこのように告白しています。「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています(97)」「あなたの御言葉は、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです(103)。」「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です(105)。」なんと素晴らしい告白でしょう。私たちも主の御言葉を聞き、学んでいくうちに、信仰が成長し、御言葉の甘さ、その素晴らしさを体験するようになります。使徒パウロは言います。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです。(ローマ10:17)」と。私たちの信仰は1:1聖書勉強や礼拝を通して御言葉を聞くことから始まっています。そして、耳を傾けて御言葉を聞く生活をしながら、御言葉の甘さ、その力も経験して生きます。そういう意味で今日も主日礼拝に参加して御言葉を聞く時間が与えられていることは大きな恵みです。

神様の恵みに感謝しながら22章17、18節を読んでみましょう。「耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。」「耳を傾けて、知恵のある者の言葉を聞け。」と命じられています。イザヤ書55:3aを見ると「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」とあります。聞く人は生きるのです。ある人は穏やかで静かな教会に来ると、安心して眠たくなると言います。それでも御言葉を聞くなら、その人は生きるのです。ですから、眠たい人は御言葉を聞きながら寝てください。ただ、いびきをかかないようにしてください。隣人が聞けないといけないからです。私たちが御言葉を聞く時の姿勢は耳を傾けて聞くことです。受動的に聞くのではなく、能動的に、積極的に聞くことです。頭だけで知的に聞くのではなく、心を向けて聞きます。聞いた後には心に保つことが大切です。御言葉を自分のうちに保つなら、それは楽しいものとなります。私たちの人生にいろいろなことが起こります。順境の日もあり、逆境の日もあります。どうすれば良いのか、全く分からない日もあります。自分の知恵と力では何も出来ないような日もあります。しかし、そのような時にも、御言葉を保っているなら、楽しいことです。御言葉によって順境の日にも、逆境の日にも神様に頼り、神様に助けられることが出来るからです。先週も、自分の証をしましたが、私にとって人生の節目に自分のうちに保っている御言葉を思い出すことが出来たことはほんとうに楽しかったんです。
私は小学校3年生の時から教会に通い始めたのですが、大学生になるまであまり御言葉を保っていませんでした。週に一回くらい御言葉を聞くだけだったので一週間のうちに忘れていました。しかし、UBF教会では、同じ御言葉を何度も何度も繰り返して学び、聞くことが出来ました。それで、記憶力が乏しい私のような者でも御言葉を覚え、心に保つことが出来ました。そのお蔭で、私のような者でも、逆境の日に主により頼むことができました。そして御言葉の慰めと励まし、そして不思議な力を体験してきました。ですから、箴言の著者は何と言っていますか。
1 9節をご覧ください。「あなたが主に拠り頼むことができるように、私はきょう、特にあなたに教える。」とあります。耳を傾けて知恵ある者のことばを聞く目的は私たちが主に拠り頼むことが出来るようになるためです。著者はそのために、特に勧告と知識についての三十句を書きました。20、21節を見ると「私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである。」とあります。ここで「三十句」とはヘブル語で「すぐれた言葉」と訳すことも出来るそうです。NIV聖書の欄外注にはExcellentと翻訳することが出来ることも記されてあります。ところが、22章22節から24章22節までにちょうど30個の格言があります。つまり、勧告と知識についてのすぐれた言葉、三十句が記されてあるのです。
では一つ目の格言から見てみましょう。
22、23節をご覧ください。「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押えつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。」とあります。貧しい人、力のない人、弱い立場の人は助けられなければなりません。弱い老人たちは介護を受けなければなりません。ところが、彼らからかすめ取る人たちがいます。孫を装って老人たちを狙うオレオレ詐欺がそれです。高齢者を狙ったマネー悪徳業者、独居老人や、昼間、留守番のお年寄りだけの家を狙う悪質業者も弱い者から奪い取っています。それで、貧しい人や力のない人は、あえいで叫んでいます。心から訴えています。主は彼らの訴え、彼らの叫びを聞いておられます。時になると、彼らを裁かれます。出エジプトの前にイスラエルは貧しい者、弱い者でした。エジプト人が彼らに重労働をさせてかすめ取っていたので、彼らは悩み、叫んでいました。そこで、神様はイスラエル人の訴えを弁護し、エジプト人を裁かれました。それは激しい裁きでした。エジプトは十の災いを受け、すべての初子は殺されました。
このように、主は、弱い人たちの叫びを聞かれ、彼らを守ってくださいますが、弱い人を無視し、彼らを虐めるような人にはさばきを下されます。しかも激しいさばきを下されます。ですから、私たちは自分が貧しい、弱いと思われたら、神様に叫び、神様の助けを求めなければなりません。神様のさばきを待ち望むのです。そして、神様に助けられて、祝福されて強くなった時は、常に、貧しい人、力のない人、弱い立場の人の味方になって彼らを助けなければなりません。イエス様のように弱い子ども、病んでいる人、貧しい人には深い関心を持って仕えるのです。
二つ目の格言は24,25節です。「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。」とあります。なかなか厳しい表現ですが、職場で怒りっぽい社長、激しやすい上司がいる場合もあるでしょう。怒りっぽい夫、あるいは激しやすい妻と一緒に暮らしている場合もあるでしょう。そのような場合は会社を辞めたり、離婚したりしなければならないでしょうか。いいえ。聖書に「あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから」とあります。私たちは怒りっぽい人と交わると、自分も怒りっぽい人になり、激しやすい人と一緒に行くと、自分も激しやすくなります。しかし、そういう人がいるからといって、自分も同じことをしてはいけないのです。もし、相手が怒りっぽい者だからしようがないと言って自分も怒りっぽくなるなら、その人はわなにかかってしまいます。つまり、会社でも、家でも怒りと憤りの感情の中から抜け出せなくなってしまうのです。ですから、私たちは隣人が怒りっぽい人であっても、つねにへりくだっていて柔和なイエス様にみならう生活を心がけて生活しなければなりません。目には目、歯には歯ではなく、いつもイエス様に見習う生活に励んでいくのです。
三番目の格言は連帯保証人ならないようにという戒めです。四番目は「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。」ということです。当時の土地の地境は、その端に石が積み上げられていただけでした。つまり、石を移して自分の土地を広げ、隣人の土地を挟めることも出来たので、それをしてはならないということです。五番目はじょうずな仕事する人、勤勉な人は王の前に立つ、つまり身分が引き上げられるということです。
六番目から十八番までの格言は23章に記されてあります。ここには貪り、力強い贖い主、子どもの教育に関する格言などがあります。私は食欲の盛んな人ですが、貪り食う者になってはならないことを学ぶことが出来ます。
23章1-3節をご覧ください。「あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから。」とあります。6節-8節もご覧ください。「貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、「食え、飲め。」と言っても、その心はあなたとともにない。あなたは、食べた食物を吐き出し、あなたの快いことばをむだにする。」とあります。人々は支配者や身分の高い人の食卓に招かれると、非常に喜ばれます。天皇の誕生日に招かれると、とても光栄に思います。でも、そのような食事を前にしても、これまで保ってきた節制や慎み深さを崩すことのないようにしなければなりません。そのごちそうをほしがってはなりません。食欲の盛んな人はまだ乾杯もしてないのに食べてしまう場合がありますが、気をつけなければなりません。それは自分の浅薄さを見せることであり、せっかく招いてくれた人の気持ちと雰囲気を壊してしまうことでもあります。食欲の盛んな人であるなら、自分ののどに短刀を当てたつもりで食べる必要があるでしょう。けちな人に招かれた時も気をつけるべきです。彼はいつも計算しています。口では「たくさん食べてくださいね。いっぱい飲んでください。」と言っていますが、たくさん食べたら、喜びません。むしろ、表情が険悪になってしまう場合もあります。それで、そのことが自分も分かった時は、食べた物を吐き出したくなるほどに気分が悪くなります。ですから、貪欲な人のごちそうを欲しがってはなりません。また、自分も惜しみなく与えるのでなければ、初めから与えない方がいいでしょう。あるいは惜しみなく与えることが出来る分を教えて快く食べるようにするべきです。とりあえず、食べ物を貪ってなりません。飲み物もそうです。特にお酒を貪っていけません。29節から35節には酒がもたらす弊害が書いてあります。
そして、富を貪ってもいけません。私は出来れば多くの人々に気前よくおごりたいと思います。惜しみなく与え続けることは出来ないだろうかと思う時もあります。だからといって人の富を貪ることもいけません。勤勉に働くことによって富を持つことは箴言にも教えられていますが富そのものに目を留めていてはいけません。富そのものに目を留めると、それは必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んでいきます。
10、11節をご一緒に読んでみましょう。「昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑にはいり込んではならない。彼らの贖い主は力強く、あなたに対する彼らの訴えを弁護されるからだ。」これは十番目の格言です。四番目の格言でも「地境を移してはならない」と教えられました。ここでは、みなしごの畑に特定しています。早く父を失った子が持っている畑を、その弱さに付け込んで地境を移すようなことをしたら、いけないということです。一番目の格言でも学んだのですが、私たちの主は弱い者に味方するお方です。みなしごのように弱い者にとって力強い贖い主です。私たちは弱い立場にいる人々を見る時、そこには力強い贖い主がともにおられることを忘れてはいけません。同時に、私たち自身が弱くなっている時も、神様が力強い贖い主であることを忘れてはなりません。私たちの神様は弱くて足りない私たちを贖い出してくださる力強い贖い主です。
「贖い」という言葉の原語は「救い」と訳すことも出来ますが、それは「買い戻す」ことを意味しています。つまり、代価を払って自由にすることです。ルツ記は、買い戻しの権利を持つボアズがナオミを救う話です。ボアズはナオミが持っていた土地を買い戻してナオミの家族を救いました。ナオミとルツは何も払うことが出来ませんでしたが親戚のボアズが代価を払ってくれたお蔭で救われたのです。ちょうど神様がご自分の民を救ってくださるのと同じように、ボアズはナオミとルツを救ったのです。そして、ボアズのお陰で救われたルツはイエス・キリストの系図に載せられたほどに救いのみわざに尊く用いられました。
私たちも、ルツのように、イエス・キリストのお陰で救われて用いられている者です。神様は私たちを救うためにご自分のひとり子イエス・キリストを贖いの代価として払ってくださいました。ロ?マ3:24を見ると「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあります。私たちはクリスチャンになる前には自分の欲望にしたがって生きるしかなかった者でした。騙されているので、自分は何者なのかがわかりませんでした。宇宙が何なのかもわかりませんでした。生きる意味が何なのかもわからず、何のために生き、何のために死ぬのかもわかりませんでした。死の意味もわかりませんでした。このように、私たちがまだ罪人であった時、罪の奴隷であったとき、神様ご自身が私たちをその状態から救い出すために、神様ご自身が人間となってくださり、私たちの親戚となってくださいました。先週、日ごとの糧の御言葉にもありましたが、イエス様はその本体が神様ですが、私たちの罪を贖うために弱い肉体を着てくださったのです。私たちと同じように人間の弱さを経験なさいました。ついに、十字架にかかって血を流されることで、私たちの罪と咎を担いました。ですから、イエス様はご自分の体験を持って私たちの弱さを理解し、あわれんでくださいます。また私たちと同じ試みを受けられましたが、何の罪もありません。それで私たちはこのイエス様に頼ることが出来ます。力強い贖い主のイエス様から憐れみを受け、時に従って神様の恵みの御座の前に大胆に出て行くことが出来ます。そして、その時ごとに神様は力強い御手で私たちを救い出してくださいます。イエス・キリストの十字架によって贖われたことを信じれば、神様はその信仰をみて私たちのすべての罪と咎を赦し、救ってくださいます。
創世記を見ると、ヤコブの生涯は贖いの連続でした。ヤコブはまず自分を殺そうとしたエサウから救われます。そしてラバンの所に行きましたが、そこでまたラバンにだまされ、苦しめられますが、神様はラバンからもヤコブを救い出してくださいます。ラバンから救い出されたと思ったら、またエサウに殺されそうな話になります。その時、神様は再びヤコブをエサウから救い出します。このようにして、何度も「贖い」を経験したヤコブはヨセフの二人の息子を祝福する時に言いました。彼はその祝福の中で、「すべての災いから私を贖われた御使い。このこどもっちを祝福してください。」と言っています。それは「主イエス・キリストが自分の贖い主である。その贖い主がこのマナセとエフライムと共にいてくださいますように。(創世記48:16」」という意味です。その祝福の中で「贖い」という言葉が初めて使われました。そして、この言葉をたくさん遣われた預言者がイザヤです。イザヤ書では「贖い主」という言葉がたくさん出てきます。神様はイスラエルをエジプトの時と同じようにイスラエルをバビロンから贖ってくださったというのはイザヤのメッセージです。そして、新約時代のパウロのメッセージです。
パウロはコリント人への第一の手紙6章19?20節で話しています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 」もう私たちは自分のものではなく、神様のものです。奴隷の状態から代価をもって贖い出された者には新しい「主」がおられます。力強いあがない主がおられるのです。以前は自分の愚かさのために、真の権利を持たないサタンの奴隷になっていた者でした。しかし、今は、キリストが私たちを贖ってくださったので、キリストのものとなったのです。私たちの身体も思いも心もすべては主イエス・キリストのものとなりました。ですから、私たちは弱くてもヤコブのように、イスラエルのように神様に祝福されていきます。また、これからも力強い贖い主であられる神様の力と贖いを体験することが出来ます。イエス・キリストの血潮によって私たちを完全に贖ってくださった主の御名を賛美します。
子どもの教育に関する格言は先週も学んだので省略します。24章には力である知恵、人を救うべき義務が記されてあります。私たちが怠ける者になってはなりません。 箴言には何度も何度も、怠けることへの警告が 記されてあります。私たちが勤勉な者として救われた恵みをあかしして行くことが出来るように祈ります。