2012年ルカの福音書第11講 

御言葉を聞いて守りなさい

御言葉:ルカの福音書8:1-18
要 節:ルカの福音書8:15「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」

 先週、私たちはイエス様をよけい愛した女の人の愛を学びました。彼女は多くの人々が見ているところでイエス様の足に口づけし、香油を塗ったほどに積極的に情熱的にイエス様への愛を表現しました。本当に、素晴らしいことです。ただ、心からイエス様を愛していても彼女のような表現はできない女性たちもいます。名もなく誉れもなく、自分を犠牲にして主と主のみわざのために献身する女性たちです。彼女たちは自分たちの名前が知らされることさえ望まないでしょう。ところが、イエス様の活動を綿密に調べたルカは彼女たちのことを書かずにいられなかったでしょうか。本文の御言葉に黙々とイエス様に仕えていた何人かの女性たちの名前、その他大ぜいの女たちのことが記されてあります。彼女たちはイエス様と12弟子たちに仕えていました。
ルカは彼女たちの活動を紹介してからイエス様が話されたたとえを記しています。恐らく、ルカはあの女性たちの労苦は無駄にならないことを示そうとしたと思われます。つまり彼女たちが仕えているイエス様が町や村の人々に蒔かれた神様の御言葉の種は良い地の人にも落ちて実を結ぶことです。また、彼女たちの奉仕と献身も知らされ、現われて輝くようになる日も来ることも伝えようとしたということです。この時間、そのようなルカの意図、何よりも叫ばれるほどに御言葉を聞いてほしいと願っておられるイエス様の御心を考えながら本文の御言葉を学びたいと思います。そのうちに、御言葉の奥義を悟ってイエス様の希望を見つけ、自分自身も成長して豊かな実を結ぶ人生を生きることができるように祈ります。

1節をご覧ください。「その後」とはイエス様がイエス様をよけい愛した女性に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と言われた後にと言うことです。その後、イエス様は、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられました。十二弟子もお供をしました。
2,3節をご覧ください。悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、自分の財産を持ってイエス様の一行に仕えたヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナの名前が記されてあります。そして、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであったことが記されています。彼女たちは名前も知らされていませんが、イエス様が神の国を説き、福音が宣べ伝えられることのために奉仕し、献身していました。2,000年を超えるキリスト教の歴史はそういう女性たちの仕えによって支えられていると言っても過言ではないでしょう。
東京UBF教会にも自発的に、献身的に主に仕える女性たちがいることを感謝します。先週、水曜日の勉強会の時にも姉妹牧者宣教師たちはもっと自分の財産を持って主に仕えようと話し合ったことを聞きました。私たちの教会ではイースター、収穫感謝祭、クリスマスの時に食事会を開いていますが、それも自分のものを持って来て仕えましょうと話し合ったということです。私は心の中でやはり女性の宣教師・牧者たちの純粋な信仰と献身的だなあと思いました。こういう信仰の女性たちによって神の国が広められ、福音が宣べ伝えられていることを感謝します。ルカは献身的に福音のみわざに仕えている女性たちを紹介してからイエス様のたとえ話を紹介しています。
4-8節をご覧ください。イエス様はたとえを用いて話されました。このたとえ話は話自体、難しいところは何もありません。当時の人々が毎年目にしていた光景でした。イエス様がこのたとえを話されると、誰でもそのとおりだとよく理解できたはずです。当時の人々は畑のあぜ道のところから種を風にまかせて「バーット」まき散らしたそうです。すると、道端に落ちる種もあれば、岩の上や茨の中に落ちる種もありました。そして、良い地に落ちて100倍の実を結ぶ種もありました。イエス様はそのことを話されたのです。それで、人々は興味を示しませんでした。事実、すでに分かっている話を聞くことは面白くないでしょう。
私は学校で数学を教えていますが、すでに分かっているような生徒は注意深く聞こうとしません。皆さんはよく知っている御言葉を伝えても謙遜に聞いてくださいますね。でも、知っているような話には耳を傾けたくないでしょう。眠くなるかも知れません。イエス様がたとえを話される時も、群衆の中には、なぜこんな誰でも知っているような話をするだろうと思う人たちがいたようです。居眠りしている人たちもいたことでしょう。イエス様が叫んでおられます。
8節の後半部をご覧ください。イエス様はこれらのことを話しながら、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれました。聖書に「叫ばれた」とあります。なぜ、イエス様は当たり前のようなことを話しながら叫ばれたでしょうか。それは当たり前のような話の中にとても大切な真理が含まれていたからでしょう。どうしても分かってほしい奥義、とても重要なことがあったのです。イエス様はそれを伝えようとしておられました。その切なるイエス様の御心が弟子たちに伝わったでしょうか。弟子たちは手を上げて(手を挙げたからは知れませんが…)、「先生、ただいま話されたたとえの意味は何ですか?」と質問しました。このたとえがどんな意味かをイエス様に尋ねたのです。やはり弟子たちは群衆とは違いました。弟子たちのように、イエス様に質問することは素晴らしいと思います。本当に何かを理解するためには問いかけがなければなりません。
私が20年以上の教師生活を通して経験していることの一つも問いかけがある生徒は伸びるということです。先週もよく質問する子は伸びるんだということを深く悟りました。高等部3年生の期末考査が終わったのですが、対照的な二人の生徒がいます。一人は知的な顔をしていてまじめな子です。宿題もよくやって来ます。ただ、この子は考え方が否定的であってよく文句を言います。質問するのではなく、一生懸命にノートに書きながら「何で数学は難しいんだ」と文句を言うのです。一方の一人の子はニックネームが「ツルベさん」です。知的には見えないし、彼女が一年生の時も教えたのですが、成績もよくありませんでした。ところが、3年生になってからよく質問していました。私が「先生だって忙しいよ。」と言ってもまた質問をするのです。結果を見るとできそうに見えた生徒は評点「3」でよく質問していた生徒は評点が「5」でした。「5」を取った生徒は大喜びで「先生、本当ですか。」と何度も言いました。彼女はぎりぎりの成績で「5」を取ったのですが、人生において貴重な経験をしたと思われます。御言葉に対しても同じことが言えるでしょう。ただ何となく読み、聞いているだけなら奥義を悟り、恵みを受けることがなかなかできないでしょう。しかし、「この御言葉はどんな意味か」と質問する、問いかける人は奥義を悟り、大切なことを学ぶことができます。つまり、聞く耳のある人々が本当の意味を知り、恵みを受けるようになるのです。ではイエス様が話しながら叫ばれたほどに、分かってほしいと願われたたとえの意味は何ですか。
11-15節をご覧ください。このたとえの意味はこうです。種は神様のことばです。「土」は神様の言葉を聞いている人々のことです。神様の御言葉がいろいろな種類の人々に蒔かれました。そして、人々は道ばた、岩の上、いばらの中、そして良い地のようでした。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。道ばたは人々が通るところです。「通行禁止」になっていない限り、泥棒も、ヤクザも自由に通るでしょう。そして、泥棒やヤクザは良いものが見えたら持ち去ってしまいます。そのように私たちの心もいろいろなものが通ります。人々の声、テレビやインターネットの動画も通ります。その中で悪魔も通ります。そして、私たちの心の中にあるものの中から良いものを持ち去って行きます。私たちの心にあるものの中で最も価値あるものは聖書の御言葉です。だから悪魔は私たちが読んだり聞いたりして受け取った聖書の御言葉持ち去って行くのです。
ですから、この悪魔の働きに注意しなければなりません。私たちは悪魔は人のことばやテレビ、インターネットについています。私たちがコンピュータを付けてインターネットをついつい見ているうちに悪魔も入って来て私たちにある宝物、御言葉を持ち去ってしまうからです。特に悪魔は傷つける人の言葉を通しても入って来ます。一度ひどい言葉を聞くと、心の中から波紋が広がり、御言葉も消えていくからです。また悪魔は私たちに蒔かれた御言葉を信じて救われないように私たちの心や頭の中に淫乱な写真と動画などのイメージがを残そうとします。ですから、私たちは御言葉を聞く時に、自分にとって「どんな意味か」と深く考え、心に受け入れることが大切です。
次に、岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。この人たちは、聞いた時には喜んで御言葉を受け入れます。御言葉を聞くと「アーメン。ア〜〜メン」とうなずきます。しかし、問題は御言葉の種が根を張ることができないということです。根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。道ばたよりは一段階進んでいるようですが、それでも実を結ぶことができません。種が蒔かれても根を張らなければ実を結ぶことはできないのです。私たちはキリストの中に根ざすことによって良い実が結ばれます。イエス様はこう言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」本当の実はキリストの中に根ざし、キリストに留まるところが結ばれるのです。
 三つ目にいばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。」とあります。この人々はそれなりに芽を出していますし、成長しています。御言葉の素晴らしさを味わって喜んでいます。素晴らしい御言葉に励まされて自分の生活もよくなっています。しかし豊かな実を結ぶ所までは到りません。成長を妨げるもののために十分に成長することができないからです。それはイエス様が取り上げておられたように、この世の心遣い、富、楽しみなどがあります。私たちが生活の中で全く心遣いや心配ごとから避けられることは不可能です。また、富や楽しみが悪いわけでもありません。箴言10:22節を見ると「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。」とあります。問題は優先順位です。神様よりも自分の心配事、富、楽しみに目が行く時、決して成長できません。私たちはBetterのために、Bestを失ってしまいがちです。
私たちが本当に実らしい実を結ぶためには、自分にとって良いこと、楽しいことを捨てる勇気を持たなければならないのです。私は毎日、日ごとの糧を通して御言葉を受け入れ、こうして毎週のメッセージも伝えています。力量の足りない私にとって職場で土曜日の午前まで仕事をしながら毎週のメッセージを準備して伝えることはやさしくありません。でも、私にとっては楽しみであり、喜びでもあります。生きがいも感じています。でも、時々、私はこの世の心づかいや、富や、快楽によって霊的な力を失ってしまいます。この間、同僚の先生が自分の奥さんのために服を買いにデパートに行ったのですが、とても高かくて変えなかったのですが、「先生はどこで買っていますか」と私に聞きました。それで私は笑いながら「妻に買ってあげるんじゃなく、買ってもらうものでしょう。」と言いました。ところが、後で私の心の中で私は夫として、父として何をして来たんだろうと思うと、力がなくなって行きました。しかし、この世の心づかいは要らないものです。マタイの福音書6:31-33節を見ると「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず、第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。本当にこの世の心づかいを捨てて神様の御言葉を聞いて守り行う生活をするなら神様がすべてのことも助けてくださいます。自分のことで凝縮ですが、この間、父の日に書いてくれた子どもたちの手紙に「パパは教師の仕事だけでも大変なのに、牧師の仕事もしながら僕たちのために働いてくれてありがとうございます。今の自分にとってできることは勉強だからもっと一生懸命に努力します」という内容もありました。私は手紙の内容を思う時、感動して涙が出そうになりました。本当に神様が育ててくださるんだなあと思いました。
私たちの周りには茨や雑草がよく育ってくるのですがその時にそれらを切り捨てなければなりません。何を選んでいくかと言うことは大切です。私たちクリスチャンにとして神様の御言葉を選び取る時に、私たちの人生は祝福され、豊かな実を結んでいくのです。
15節をごいっしょに読んでみましょう。「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」
ここで見ると、良い地の心もあるということです。私たちが一生懸命に福音を宣べ伝えても、なかなか受け入れてくれない人々が多くいます。自分の財産を持ってイエス様に仕えた女性たちのように仕えてもなかなか実を見えない時に絶望しやすいです。姉妹宣教師たちは毎週木曜日に早稲田大学に行って福音を宣べ伝えていますが、御言葉を受け入れてくれる方は多くありません。ところが、この間のバイブルアカデミーの時に「絆」というテーマで写真展を開くと、二日間で50人ほどの方たちが来られました。良い地の人たちもいるのです。今年、私たち教会のスローガンは「御言葉を宣べ伝えなさい」です。私たちが御言葉の種を蒔き続けると、必ず福音を受け入れてくれる人もいるのです。それで伝道においても豊かな実を結ぶ時が来ます。私たちの労苦は無駄になりません。
16-18節をご覧ください。「 あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」とあります。つまり、イエス様と一緒だったあの女性たちのように主に仕えたことは現われる時があります。よく聞き入れる生活をしなければ自分のうちに芽生え、成長している御言葉も実らずに消えてしまうということです。また、私たちは15節の御言葉から自分が良い地の人になり、成長して実を結ぶことも学ぶ秘訣も学ぶことができます。百倍の実を結ぶ秘訣です。霊的には愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制など御霊の実を結びます。人生の様々なことにおいても実を結ぶようになります。ではこのたとえの結論を見てみましょう。
もう一度15b節をご覧下さい。「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」とあります。良い地の特徴の一つ目は「正しいよい心で御言葉を聞く」ことです。?サムエル記3章を読んでみると、神様の語りかけに対するサムエルの態度が記されています。彼は「主よ。お話ください、しもべは聞いております(1sa 3:9)と答えました。このような姿勢を持っている人の心こそ、正しい良い心です。そういう準備された心で御言葉を聞くと実を結ぶようになるのです。耳に心地よくても悪くても、正しい心で聞くとそれが成長する秘訣、実を結ぶ秘訣です。
二つ目は御言葉をしっかりと守り、よく耐えることです。試練があって耐えることです。私たちは忙しさのために一日の中で御言葉を思い出すことさえできずに、過ごしてしまいます。仕事に流されたような日々を過ごしてしまうのです。だからといってあきらめてしまうなら、どうなるでしょうか。いつの間にか心の中に茨と雑草が生えてきます。ですから、私たちが、本当に実を結ぶ生活を望むなら、御言葉を黙想する時間を保たなければならなりません。御言葉を保っていると御言葉は私たちを導いてくださいます。詩篇119:105を見ると「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあります。私たちが毎日問いかけを持って御言葉を読み、深く黙想して奥義を悟って行くなら、御言葉が私たちを導いてくださいます。日々御言葉に導かれていくと、本当に神様に喜ばれる人生を生きるようになります。自分の自身も本当の幸せを味わい、いつも喜ぶ勝利の人生を生きるようになります。どうか、私たちが聞く耳を持って御言葉を聞き入れ、それを守り行う生活ができるように祈ります。