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15ACTS07M 主イエスよ。私の霊をお受けください

15acts07m, 主イエスよ。私の霊をお受けください, 2015年使徒の働き第7講 主イエスよ。私の霊をお受けください御言葉:使徒の働き6:8−7:60要, 節:使徒の働き7:59,60 「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」  先月、シグモンド宣教師夫婦に男の子が生まれました。その名は「ステパノ」です。それはステパノのようになってほしいという親の願いが込められていることでしょう。あるいは「ステパノ」がシグモンド宣教師の「ロールモデル」になっているかも知れません。 「ロールモデル」とは、自分にとって、具体的な行動や考え方の模範となる人物のことです。もちろん、すべてのクリスチャンにとっての「ロールモデル」はイエス・キリストです。イエス様のようになりたい、イエス様のように考え、イエス様のように判断し、イエス様のように行動したいという願いがあります。でも、イエス様は私たちの救い主、神様です。私たち人間が神様になることはできません。そういうわけで私たちにはイエス様よりはレベルが低いけれども同じ人間として真似できるようなモデルが必要だと思います。今日、学ぶ聖書の御言葉には皆様に確信を持って勧めることができる人生の「ロールモデル」ステパノのことが記されてあります。ステパノは使徒ではありませんでした。使徒パウロのように能力ある人でもなかったと思われます。彼は牧師でもなく、一般の信徒だったのです。では、どのような点で2, 000年前のステパノを今なお多くの人々が人生のロールモデルにするほどに素晴らしい人だったでしょうか。シグモンド宣教師が自分の子どもの名前にしたほどに尊敬しているステパノはどのような人だったでしょうか。また、彼が伝えた最後のメッセージにはどういうことが記されているでしょうか。この時間、ステパノの信仰とメッセージを学ぶことができるように祈ります。?.人生の「ロールモデル」ステパノの生き方とメッセージ(6, 53), 8節をご覧ください。「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。」とります。ステパノは恵みと力とに満ちていました。3節と5節を見ると「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人」、「信仰と聖霊とに満ちた人」でした。一言で言えば、ステパノは聖霊に満たされた人でした。聖霊に満たされるなら、その自然の結果として神様の知恵に満たされ、また信仰にも満たされ、なお恵みと力にも満たされます。聖霊は知恵と黙示の霊であり、信仰の霊であり、恵みの霊であり、また力の霊だからです。聖霊に満たされたステパノは人々の間で、素晴らしい不思議なわざとしるしを行なっていました。彼にどんな事が起こりましたか。9節をご覧ください。「ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。」とあります。リベルテンとは「自由」を表わすラテン語です。調べてみると、この会堂はローマの奴隷から解放され、自由にされた人々がエルサレムに来て建てました。それで、ユダヤ人のディアスポラが自由に出入りするようになっていたそうです。彼らにとって評判の良いステパノが素晴らしい不思議なわざとしるしを行なっていることが妬ましくなったでしょうか。彼らはステパノに議論をふっかけました。でもステパノに勝つことはできませんでした。彼らは見事に負けてしまいました。すると、彼らは、ある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせました。また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行きました。そして、偽りの証人たちを立てて二つのことでステパノを告訴しました。一つは、モーセの律法を汚しているということです。もう一つは、聖なる所、神殿を汚していると事です。当然ながら偽りの証人である彼らの言うことは嘘です。扇動された民衆と長老たちと律法学者たちに襲われ、ひっぱられて行ったステパノにはなんの力もありません。特に、自分には何の罪もないステパノにとってはとても腹立つことです。自分の行動が誤解され、不当な扱いを受ける時ほど腹立たしいこともないでしょう。私は一晩だけでしたが拘置所で尋問を受けることがあります。夜自転車のライトに点灯しなかったことで逮捕され、拘置所にひっぱられて行きました。その時、当時の軍事政権に対する怒りや恨み、憤りは言葉で表せないほどでした。私だけではなく、不当に逮捕された人々の顔はこみ上げる怒りのため真っ青になっていました。人間的に考えると、ステパノもそういう腹立たしい状況に置かれました。しかし、ステパノの顔はどうでしたか。15節をご覧ください。「議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。」とあります。リビングバイブルによると「彼の顔は、天使のように輝いていました。」と訳されています。彼の顔から神様の栄光が輝き出ていたの、天使のように見えたことでしょう。普通なら、彼の顔は腹立たしく、怒りや復讐心に燃えていたことでしょう。しかし、聖霊の力に満たされたステパノは違っていたのです。どうしてでしょうか。それは彼のたましいが主とともに歩んでいたからでしょう。人は誰と住んでいるか、何を考えているかによって顔色が変わると思います。「男は、40歳過ぎたら、自分の顔に責任を持て」という言葉があります, アブラハム ・リンカン, 。ステパノは聖霊とともに歩み、霊的な考えをしていたのです。だから、彼の顔は天使のように輝いていたのです。顔は生まれ持ったものであり、自然に変えられるものではありません。でも、顔の表情には内側にあるものが現われるものです。大祭司はそのステパノの顔を見たでしょうか。ステパノに訴えの内容が「そのとおりか。」と尋ねました。大祭司はステパノの顔から輝き出る神様の栄光に恐れたかも知れません。彼はステパノに弁論の機会を与えました。そこで、ステパノは彼らが問題にしている律法と神殿に関するメッセージを伝えました。第一にモーセの律法についてのステパノのメッセージ, 7章2節を見るとステパノは「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。」とやさしくメッセージを始めています。それから彼らがよく知っているはずのイスラエルの歴史を紹介しています。つまり、ステパノはメッセージを聞いている聴衆をよく把握して彼らが尊敬している彼らの先祖アブラハムから始め、旧約聖書を要約して伝えます。2, 16節までは創世記の要約です。神様がご自分の民を救うためにアブラハムとヤコブ、ヨセフを召され、導かれたことです。アブラハムの孫に当たるヤコブの時に十二人の族長が生まれました。その兄弟の中でヨセフは兄たちから妬まれてエジプトに売られていきました。しかし、神様は彼とともにおられ、あらゆる患難から彼を救い出しました。彼に恵みと知恵をお与えになり、彼をエジプトと王の家全体を治める総理大臣に任じました。そしてエジプトとカナンとの全地にききんが起こった時は、ヨセフをいのちを救うみわざに貴く用いられました。17, 43節は出エジプト記から申命記までの要約です。神様がご自分の民をエジプトから救い出すためにモーセを用いられた話です。エジプトではヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位につくときまで続きました。この王はイスラエル人を苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。このようなときに、モーセが生まれたのですが、神様はモーセを選ばれました。彼をパロの娘の子として40年間指導者としての教育を受けさせました。その後、40年間は荒野訓練を通して謙遜と忍耐を指導者として育て上げました。そうして、80歳になったとき、神様はモーセを呼ばれ、イスラエル人の指導者また解放者としてエジプトに遣わされました。そこで、モーセはイスラエル人を導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ないました。何よりも神様はモーセに律法を授かり、イスラエル人に与えるようになさいました。その中でモーセは神様から言われた通りに、神様がイスラエルの中に自分のような預言者、キリストをお立てになることも預言しました。ところが、イスラエル人はモーセの言葉に従うことを好みませんでした。かえって彼を退け、神様に逆らって偶像崇拝の罪を犯しました。ユダヤ人は、絶えず、反逆と不従順を繰り返して来ました。モーセの時代には、金の子牛を造って反逆しました。アモスの時代には、モロクと星の神々に従いました(アモス5:27)。それゆえ、神様は、彼らをバビロンのかなたへ移されました。イスラエルは偶像崇拝の歴史をたどり、ついに、バビロンに、奴隷として捕らえ移されてしまったのです。つまり、ステパノは「あなたがたは律法、律法と叫んでいますが、あなたがたこそ律法を守っていません」と訴えました。続いて、聖なるところ、神殿についても証します。第二に、神殿についての弁論したステパノのメッセージ, 53節は主にヨシュア記、サムエル記第二から歴代誌第二までの歴史書、エゼキエル書からマラキ書までの預言書に関する内容です。ここで、ステパノは幕屋及び神殿について語り、彼らの罪を責めて結論づけます。神殿はイスラエル人が荒野生活をしていた時に神様がモーセに言われた通りに造ったあかしの幕屋でした。このあかしの幕屋は天にあるあかしの幕屋の模型でした。実物は変わりませんが模型はいつでも変わります。このあかしの幕屋はカナンの地を征服する時に、ヨシュアが運び入れ、ついにダビデの時代となりました。そして、ダビデの子ソロモンは神殿を建てました。しかし、この神殿は、人が手で造った家なので根本的に限界があります。神様はそこにはお住みになりません。神様は天地を創造された方で、天は神様の王座、地は神様の足の足台です。なのに、ユダヤ人は、全宇宙におられる全人類の神様を、エルサレムだけに住んでおられるユダヤ人の神様にしてしまいました。だから、彼らこそ、聖なる神殿を汚していたのです。結局、彼らがステパノを告訴した二つの点は彼らの先祖から始め、彼ら自身がこわし、けがしていたのです。彼らはステパノのメッセージを聞いてそれがよく分かったはずです。すると、悔い改めるべきでした。ところが、彼らは悔い改めませんでした。人は自分の罪を自ら悟ると涙ながら悔い改めますが、それが他人から指摘されるとなかなか悔い改めません。他人から指摘されても謙遜に悔い改めができる人は霊的にも人格的にも成長して行きます。ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々は悔い改めませんでした。そんな彼らに対してステパノは何と言いましたか。51, 53節をご覧ください。「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」とあります。ステパノは怒りと悲しみを込めて彼らの罪を責めました。ユダヤ人は預言者達を迫害し、神様が立てられた指導者達を捨てて来ました。同じく彼らは神の御子であるイエス様を十字架につけて殺しました。そのような罪を犯させたのは、ユダヤ人の高慢と不従順です。ですから、彼らはステパノのメッセージに答えて悔い改めるべきでした。それなのに彼らは悔い改めるどころか、ますますステパノに向かって歯ぎしりします。?.ステパノの殉教, 54節をご覧ください。ステパノが律法について、神殿についてメッセージを伝え、結論として彼らの罪を責めると、人々は、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしました。メッセージを聞いて心が刺された時は、素直に悔い改めると罪の赦しの恵みを受けます。しかし悔い改めなければ、自分のはらわたが煮え返る思いで苦しむようになります。その心はもっと頑なになります。あのユダヤ人がそうでした。では、その時、ステパノは何を見ましたか。55、56節をご覧ください。ステパノは聖霊に満たされて天を見つめ、神の栄光と、復活され神の右に立っておられるイエス様を見ました。そして、こう言いました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」ステパノはよみがえられたイエス様を見て感激しました。ここで、私たちは問題が起こった時に激しい怒りにゆがんでいる人々ではなく、天を見つめ、イエス様を見る必要があることを学ぶことができます。私たちが高慢な人、かたくなな人を見ていると怒りっぽくなります。時には腹立たしくて我慢できなくなります。しかし、そのような時にも天を仰ぎ見、イエス様を考えると、どうなりますか。心が静まり、平安になります。祈る心に聖霊が注がれ、聖霊に満たされるようになります。ステパノがそうでした。しかし、ユダヤ人達はステパノのことばを聞いて神様をけがしていると思いました。それで大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到しました。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺しました。ステパノを殺したのは、盲目的で、自制心を失った、爆発的な怒りでした。証人たちは、自分達の着物をサウロという青年の足元に置きました。この人は後に有名な使徒パウロになった人です。こうして彼らがステパノに石を投げ付けている時、ステパノは両手を広げて待っておられる主イエス・キリストを見ました。その時、ステパノはなんと祈りましたか。59,60節をご一緒に読んでみましょう。「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」ステパノは主を呼んで、こう言いました。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」ステパノは自分の霊を主に委ねました。そして、ひざまずいて、大声でこう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りにつきました。この祈りは「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られた十字架のイエス様の祈りと同じです。つまり、彼はイエス様の御姿にまで変えられていました。彼はどうやってここまでに成長したでしょうか。それは彼がイエス様の十字架の愛を知り、イエス様のようになろうとしていたからでしょう。イエス様の十字架の愛は敵でさえ赦す愛です。それはほんとうに難しいです。「敵が嘘を言っても、悪口を言っても我慢しなさい。」と言われるならある程度守ることができます。でも、敵を愛することはほんとうに難しいです。だから諦めるべきでしょうか。いいえ。ステパノはイエス様を人生のロールモデルにし、イエス様のようになろうとしていたと思います。私たちがイエス様のようになろうと思う時、希望を持つ時に、少しでも変えられて行きます。ステパノのように殺される時にも、イエス様と同じ祈りができるほどに成長して行くのです。結局、ステパノは殉教しましたが、彼の殉教によってエルサレム教会に大きな迫害が起こります。しかし、彼の殉教は世界宣教の火種となりました。激しい迫害のために人々はユダヤとサマリヤに散らされますが、それによって福音が全世界に広がるようになりました。特に、ステパノの死を目撃したサウルがパウロに変えられてから福音は力強く全世界に広がるようになります。その広がりは来週から学びます。今の時代にもキリスト教に対する迫害があります。今月15日イスラム過激派組織「イスラム国, 」はリビアで拘束したエジプトのキリスト教の一派であるコプト教の信者21人を殺害したことを公開しました。その前、日本人クリスチャン後藤さんが殺害されました。この日本ではそれほどの迫害はありません。でも、私たちが直面する困難があります。時には自分を捨てなければならない現実にぶつかります。重い自分の十字架のために心細くなる時もあります。時には自分の善意が誤解され、偽りの証言によって自分の立場が不利になり、曖昧な苦難を受ける時もあるでしょう。どうやってそういう現実を乗り越えて行くことができるでしょうか。その答えの一つはステパノように生きることだと思います。ステパノのように生きるなら勝利の人生を送ることができます。ステパノは知恵と力、恵みと聖霊に満ちていました。だから、迫害が激しい時代に生きていても大胆にキリストを証することができました。聖霊に満たされて知恵と力、恵みに満ちたメッセージを伝えることができました。そして、イエス・キリストの愛と殉教の信仰によって自分を殺す人々をも赦す祈りをささげることができました。その祈りは答えられて迫害者サウルが偉大な使徒パウロに変わるようになりました。私たちがステパノをロールモデルにしてステパノように祈り、ステパノのような信仰を持つことによって神様の栄光が輝き出る器となることができますように祈ります。やがて、人生の最期にはステパノように、イエス様と同じ祈りができるほどに成長して行きますように祈ります。

15ACTS1M 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき

15acts1m, 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき, 2015年使徒の働き 第1講メッセージ(朴エズラ)聖霊があなたがたの上に臨まれるとき御言葉:使徒の働き1, 1−26要 節:使徒の働き1, 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」」今日から使徒の働きを学ぶように導いてくださった神様に感謝します。使徒の働きは、イエス様が復活された後、地の果てにまで、わたしの証人となるようにという使命をうけた弟子たちが、どのようにエルサレムからローマまで福音を伝えたかについて、記録したものです。使徒の働きは28章までしかありませんが、私たちは現在29章の舞台を飾っていると言えます。私たちが使徒の働きを通して、何故福音が地の果てにまで伝えられなければならないのか、この福音を伝える証人の姿勢はどうあるべきかについて学べるように祈ります。今日は、第1講として私たちの上に聖霊が臨まれ、力を受けることによって、イエスキリストの証人の人生が生きられることについて学びたいと思います。昔、ベニーヒン(benny, hinn)牧師が書いた、『聖霊様、おはようございます!』(1994)という本を読んだことがあります。イエス様を信じるようになった私たちの中には、常に聖霊がともにおられます。現代の私たちには、神様とイエス様は目に見えない存在ですが、聖霊様が私たちとともにおられ、私たちを導いてくださいます。私たちが今日の御言葉を通して聖霊に満たされ、力を受けることが出来るように祈ります。?。聖霊を送ると約束されたイエス様, 3節では使徒の働きの前書きです。ここでルカの福音書と使徒の働きが繋がれていることを説明しています。そこで、使徒の働きの著者もルカの福音書を書いたルカであることが分かります。イエス様は復活した後、40日の間、弟子たちとともにおられながら、彼らに復活信仰を植え付けました。イエス様が十字架に付けられ死なれた後、弟子たちの信仰は揺らぎ、共同体が壊れる危険性がありました。そこで、イエス様はガリラヤを訪れ、彼らを助けられたのです。具体的に、数多くの証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されました。わき腹と手の平を見せながら、十字架の釘の痕を触ってみるように助け、復活したご自身の姿を彼らに直接証しされました。また多くの復活の証人たちの証言も聞くようにされました。イエス様の福音の証人となるためには、まず復活信仰が絶対的に必要だったからです。次に、イエス様が教えた内容は神の国に関することでした。イエス様を信じながらも、この世に望みをおく時、聖霊の力を受けることは難しいです。そこで、イエス様の地上での教えも神の国に関するものでした。そして、使徒たちに神の国に対する望みを植え付けて、世界宣教を担えるように準備させました。それでは、イエスさまは弟子たちに復活信仰を植え付けた後、どんな方向をくださいましたか。4、5節をご覧ください。“彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。/ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」”ここで、4節の「父の約束」とは、「聖霊のバプテスマ」であることが分かります。ヨハネは悔い改めのしるしとして水でバプテスマを授けて、イエス様を受け入れるように心を準備させました。しかし、弟子たちが受ける聖霊は罪の赦しを与える聖霊のバプテスマを指しています。当時、エルサレムは弟子たちにとって非常に危ないところでした。弟子たちはガリラヤを舞台にしてイエス様とともに活動しました。しかし、イエス様がエルサレムに上られてから宗教指導者たちの執拗な迫害を受けて、最後にこのエルサレムで逮捕されて十字架につけられました。したがって、エルサレムは弟子たちにとって一刻もはやく離れたい場所でした。ペテロは、エルサレムでイエス様のうしろから遠く離れて付いていく途中、命の危険を感じて三度もイエス様を否定せざるを得ませんでした。ほかの弟子たちもイエス様が十字架で死なれる時、みんな命の危険を感じて逃げた場所でした。彼らにとって、エルサレムはまことに恐ろしくて早く逃げたい危ない場所でした。私たちも自分の属している所の状況が悪かったり、気に入らなかったりすると新しい環境をもとめ、そこを離れてどこかに逃げたい気持ちになります。新しい環境で新しく始めたいからです。しかし、この世では、私たちの気に入る完全な環境はありません。どんな所に行っても、気に入る部分と気に入らない部分があります。イエス様は、私たちが息苦しい所、気難しいところから逃げるのではなく、乗り越えて打ち勝つことを願われます。それでは、なぜ、イエス様は、弟子たちにエルサレムを離れないように言われたのでしょうか。それは、聖霊を待つためでした。イエス様はエルサレムで全人類の罪を贖うために十字架の上で死なれて3日目に復活されました。そして、弟子たちにエルサレムで聖霊を待ちなさいと言われました。旧約のユダヤ人たちがメシヤを待ったように、イエス様の弟子たちはイエス様の昇天後に聖霊を待つべきです。私たちは再び来られるメシヤを待っています。待つためには忍耐が必要です。我慢して待たなければなりません。聖霊を待ちなさいとは、聖霊に頼りなさいという意味でもあります。イエス様が一緒におられる時は、弟子たちはイエス様だけにもっぱら頼れば問題ありませんでした。しかし、イエスキリストが昇天された後は、キリストの霊である聖霊に頼りなさいという命令です。現代の私たちにとって直接会えなくなりましたが、今もイエスキリストは聖霊によって私たちとともにおられます。イエス様が弟子たちとともに生活したように、聖霊も私たちとともに住まわれます。私たちも弟子たちのように全面的に聖霊を信頼し、頼らなければなりません。?。イエスキリストの証人の人生を願われるイエス様, 6節をご覧ください。“そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」”, イエス様が, 40日間神の国に対して教え、最後の日に「父の約束を待ちなさい」とおっしゃると、弟子たちはやっと待ちに待っていた祖国の解放の時が来たと誤解をしました。当時、イスラエルの状況は、国が滅びてから約, 600年の間バビロン、ペルシア、ギリシャの植民地となり、異国の人々に蔑視され、さげすまれました。またその頃には全世界を支配していたローマ帝国の植民地となっており、苦しい毎日でした。イスラエルの民たちはローマの政治的な圧迫と人権蹂躙の中で奴隷のような惨めな状態にありました。ローマの経済的な搾取によって民たちの生活は飢えの苦痛を受けていました。神様の選民であるプライドは深く傷つけられ、羞恥と屈辱を耐え忍ぶしかありませんでした。志のあるイスラエルの若者なら、誰もが祖国イスラエルをローマから解放させる切実な願いを持っており、これこそが、当時の民たちの切実な現実問題でした。弟子たちはイエス様の神の国に対する教えを聞いて大きな感動を受けました。イエス様があらゆる病人を癒し、荒波と風も鎮められ、死んだ者も生き返らせる働きを目撃して、イエス様を通して祖国の独立の夢を成し遂げるためにイエス様に献身的に頼りました。イエス様が将来大きな能力でローマ軍隊を追い出して地上のメシヤ王国を建設することを夢見ました。その夢とビジョンのため、彼らは生活の頼りであった舟と父親を捨ててイエス様についてきました。しかし、イエス様は彼らの期待を裏切り、逮捕されてピラトから死刑宣告を受けて十字架の上で無力に死なれました。イエス様の死と同時に、彼らの望みも泡水のように消えてしまいました。ところが、イエス様は約束された通り、再び3日目によみがえられて、彼らに現われました。彼らは新しく力と勇気を得ました。とくに、壊れた彼らの夢も再び復活しました。イエス様が40日間、神の国に対して教える時、彼らは、それを地上のメシヤ王国建設だと思い込み、イエス様がエルサレムで地上のメシヤ王国を建設し、王になれば、彼らはイエスキリスト内閣の各大臣になる夢を持つようになりました。同時に、祖国イスラエルがローマの植民地の統治下から回復される夢を持っていました。そういった夢を膨らませている時、イエス様が急に、彼らを離れようとしたので、イエス様に質問せざるを得ませんでした。“「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」”彼らの質問にイエス様は何と答えましたか。7, 8節をご一緒に読んでみましょう。“イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。/, しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”, イエス様はイスラエルの回復は神様の主権にあるので、すべてを主に委ねて、弟子たちがやるべきことを教えてくださいました。“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”弟子たちはほとんどが地方の田舎出身であり、きちんとした教育を受けることができませんでした。また彼らの代表者であるペテロも、魚ばかり取っていた漁師出身でした。イエス様がともにしない時、彼らは、弱い存在であったし、自分たちを逮捕しようとする宗教指導者たちを恐れるしかない弱虫の人々でした。イエス様は彼らの弱さを誰よりもよくご存じでした。そこで、彼らに聖霊を約束されたのです。では、聖霊は具体的にどんな働きをしますか。第一に、聖霊を受けると、力を受けます。“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます, ここで、力とは、語源がダイナマイトと同じです。弟子たちに聖霊が臨まれる時、人々に対する恐れも乗り越えて、力のあるしもべとなれます。実際に、ペテロが聖霊の力を受け、大胆にメッセージを伝えると、一度で3, 000人が悔い改めたり、次には5, 000人が悔い改め、バプテスマを受けて、弟子に加えられ、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをするようになりました。このように聖霊を受ける時、現実の圧力と恐れを乗り越えて、大胆に神様の御言葉を伝える、大胆で力のある働きをすることができます。第二に、イエス様の証人として働くように助けます。“そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります, 。」”「わたしの証人となります。」とは、(NIV聖書では)「you, will, witnesses」となっており、イエス様の強い意志が現れています。聖霊が臨まれる目的は、すべての人がイエス様の証人になるためでした。これはイエス様のこの世での最後の地上命令であり、私たちクリスチャンにくださった使命です。福音を知らない時、人々は罪と死の問題の解決が出来ないため、罪のなかで死ぬしかありません。このような人々に罪のゆるしの福音、復活の福音を証することで罪が赦され、死の勢力から離れ、希望と意味ある人生、究極的には永遠の命を得るようにする証人の人生こそ、この世で最も偉大で価値ある仕事なのです。この世には、たくさんの仕事がありますが、このように死んでいく魂を生かすことより重要で至急な仕事はありません。使徒たちは、イエスさまからこのように偉大で重要な使命を受けたのです。この使命は、弟子たちに与えられた特権なのです。このように重要で至急な仕事なので、イエス様は使命だけ与えたのではなく、聖霊を送り、聖霊さまの力によってこの使命を担うようにされました。すなわち、証人となる主体は、弟子たちの力で担えるのではなく、ひとえに聖霊さまの力が臨まれる時、担うことができるのです。世のことは、自分の力と知恵で努力さえすればある程度は成し遂げますが、イエス様を伝え、人を救うことは自分の力と知恵では絶対に出来ないことです。証人の人生は、聖霊が臨まれる時のみ可能です。そこで、イエス様はいきなり、「私の証人となりなさい」と言われませんでした。聖霊を注いでくださると約束してくださったのです。弟子である私たちが証人の職務を担える原動力は、まさに聖霊さまなのです。聖霊が世界宣教を担える力をくださるのです。人間的な能力と才能が多いからといって世界宣教をよく担えるのではありません。むしろ、人間的な能力をたくさん持っていると、聖霊の力に頼らなくなり、それが聖霊の力を受けさせないようにする障害要因にもなります。信仰によって聖霊の力を受ける時のみ、すべての限界状況を乗り越え、力のある証人の人生を生きることができるのです。したがって、私たちは聖霊様に頼り、聖霊さまが私たちのなかで働き、聖霊さまが主体となって私の中で強く働き、私を用いてくださるように自分を備えておかなければならないのです。現在アフリカの宣教師として遣わされた李サムエル宣教師は、どうすれば聖霊に満ち溢れた人になれるかについて、『聖霊様とは』という本で、次のように記しています。「現代、私たちはあまりにも忙しい生活をしています。サタンは必要のないことにまで関わらせ、私たちをどんどん忙しくさせます。それがサタンの狙いです。聖霊さまを熱望する時間を奪っていきます。目を覚まさなければなりません。朝、起きるや否や聖霊様を心の奥底から切に熱望すべきです。聖霊様無しには一瞬も生きられないという姿勢を持たなければなりません」と。来週学ぶ予定の、使徒の働き2:38節には、聖霊を受けるためには、私たちが日々どのように生きるべきかについて教えてくれます。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と。御言葉にもあるように、私たちが、毎日、聖書の御言葉によって照らされる罪を、瞬間瞬間悔い改め、祈ることによって聖霊に満たされる1年となるように祈ります。先週、私たちは新年修養会を通してたくさんの恵みを受け、各自2015年の要節と祈り課題を決めたと思います。出発したばかりの2015年、各自が御言葉と祈りによって聖霊充満となり、力強いキリストの証人としての2015年を過ごせるように切に祈りたいと思います。そこで、私たちをめぐるあらゆる現実問題にも負けず、打ち勝つことが出来るように祈ります。また、クリスチャンの数が少ない周りの環境であっても、大胆に聖書の御言葉をのべ伝えることができるように祈ります。私も、使徒の働き6:4「私たちはもっぱら祈りと御言葉の奉仕に励むことにします」を今年の要節とし、御言葉と祈りにもっぱらはげみ、聖霊様のくださる力によって力強いキリストの証人としての1年を過ごせるように祈りたいと思います。9, 11節をご覧ください。イエス様が弟子たちに御言葉を残した後、彼らが見ている間に、天に上って行かれたので、弟子たちは天をずっと見つめていました。その時、白い衣を着たふたりの御使いたちが、彼らのそばに立って言われました。“「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」”。イエス様とともに生活した3年間、弟子たちにとってイエス様は彼らの主であり、保護者であり、師匠でした。そういったイエス様が急に昇天されると、弟子たちは意外な出来事に対する驚きと、離別による悲しみによって天を見つめていました。その時、御使いを通して、イエス様の再臨を知らせてくれました。弟子たちはイエス様が地上でイスラエルを再興されないなら、イエス様と一緒に天国に行きたいという思いが強かったでしょう。しかし、イエス様は弟子たちがイエス様の再臨を備える働きをするように助けました。イエス様の再臨を準備する人生とは、どんな人生でしょうか。昇天されたイエス様が再臨を準備する間に、私たちはこの地上でイエス様が言われたとおりに、聖霊に満たされ、力を受けた後、私たちが住んでいる東京をはじめ、日本中、さらには地の果てにまでイエス様の証人となることが求められます。つらい時、さびしい時、悲しい時、この世で失敗する時、弟子たちのようにこの世を去り、イエス様のおられる天国に行きたいと思いがちです。私たちも弟子たちのようにいつまでも天だけを呆然と見つめないで、積極的に聖霊に満たされる生活が出来るように祈ります。?。聖霊を受ける準備をする弟子たち, 弟子たちは聖霊を受ける準備をするために何をしましたか。第一に、イエス様の御言葉に順従しました, 。12節をご覧ください。“そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。”弟子たちはイエス様が昇天された後、すぐオリーブ山を越えてガリラヤに行きたい思いがくすぶったでしょう。故郷のガリラヤに行ってイエス様の証人になることもできました。エルサレムは危ない所であり、漁師が多かった彼らにとって、仕事を探すことも難しかったでしょう。しかし、エルサレムを離れないように言われたイエス様の御言葉に順従して、再びエルサレムに帰って来ました。弟子たちは危ない場所ですが、自分たちの安全よりもイエス様の約束の御言葉をより大切に考えました。そして、イエス様の御言葉に順従してエルサレムに帰って来ました。第二に、みな心を合わせ、祈りに専念しました, 。13, 14節をご覧ください。“彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。/, この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。”イエス様の弟子たちがエルサレムに帰って来た時、彼らは当然、行く所もなく、彼らが主に集まったマルコの屋上の間(使, 12)に上がりました。そこには、十一使徒と女性たちとイエス様の肉身の家族たちが集まっていましたが、その数は120人ほどでした。彼らは聖霊を受けるために、心を合わせて祈りに専念しました。14節をご一緒に読んでみましょう。“この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。”, 彼らは心を合わせて、祈りに専念しました。心を合わせて、祈りに専念したという意味は、祈る時、みんなが一つになったということです。そして、同じ祈り題目を持って心を合わせて祈りました。祈りが答えられるまで諦めず、祈りました。彼らは周りの環境が難しいからこそ、より一層祈りに力を入れました。どんな環境と条件でも乗り越えられる、強力な祈りをささげたのです。このように、同じ声、同じ心、同じ祈り課題で祈る時、神様の祝福を受けることができます。イエス様の弟子たちは、彼らの主であり、師匠であるイエス様との急な離別によって、未来に対する漠然とした不安と恐怖にさいなまれず、むしろ積極的に祈りました。彼らは彼らの恐れと悲しみを祈りに昇華させました。祈ることによって、未来に対する不確実な約束を確かな望みに変えました。その結果、彼らは約束された聖霊を受けることができました。さらには、究極的に世界を変える世界的なリーダーたちになることができました。彼らによってキリスト教は全世界に広がり、現在私たちも信じるようになったわけです。このように悲しみと孤独に打ち勝つことは、まさしく積極的な祈りであることを学ぶことができます。このように彼らが祈りに専念するためには忍耐する祈りが必要だったでしょう。彼らは聖霊が臨まれるまで忍耐して諦めず繰り返して祈りました。2015年、私たちも心を合わせて祈りに専念することができるように祈ります。

15ACTS02M 聖霊による不思議なわざ

15acts02m, 聖霊による不思議なわざ, 2015年使徒の働き第2講聖霊による不思議なわざ御言葉:使徒の働き2:1, 47要, 節:使徒の働き2:17, 18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」, お知らせの時間に報告させていただきますが、アジア支部長修養会のために祈ってくださり心から感謝します。修養会の一ヶ月前にシンガポール行きの飛行機事故もありました。でも16カ国から57人の方が無事にシンガポールに着きました。私にとっては4年間のアジア支部長の任期を終える修養会でもありました。神様の哀れみと皆様のお祈りのお陰で無事に任務を全うすることができたことを心から感謝します。今日は皆さんと共に使徒の働き2章を学びます。ここに、私たち東京ubfが目指す教会の姿があります。私は東京ubf教会のモデルを求めて聖書を読んでいくうちに使徒の働き2章でこれだという思いがしました。特に、2章は47節まであります。この47と言う数字から47都道府県の日本、47カ国のアジアも思い浮かぶようになりました。そこで、私は東京ubf教会が日本の47都道府県、アジアの47カ国に影響を及ぼす教会になることも目指すようになりました。どうか、今年使徒の働きを学びながら私たちの姿が使徒の働きの教会の姿に変えられて行きますように祈ります。力ある聖霊のみわざ、不思議なわざが私たちの経験となりますように祈ります。使徒の働きにある使徒たちのすべての信仰と告白とあかしが私たちの信仰と告白とあかしとなりますように祈ります。今日の第2章には初代教会が誕生するようになった五旬節の出来事が記されてあります。どうか、あの五旬節に臨まれた聖霊が今日も私たちのうちに力強く働いてくださいますように祈ります。1節をご覧ください。「五旬節の日になって、みな一つの所に集まっていた。」とあります。五旬節とは過越しの祭りから五十日目の祭りという意味です。50日の間にイエス様の復活、40日後の昇天がありました。その後、120名ほどの聖徒たちが祈りに専念していました。そこにどんなことが起こりましたか。2,3節をご覧ください。突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡りました。20年前の阪神・淡路地震のようなことが起こったのです。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。弟子たちが一つのところに集まり、心を合わせて祈っている時に聖霊が臨まれたのです。ここで、聖霊はそれを祈り求め、待ち望む者たちに臨まれることが分かります。イエス様はルカ11:9, 13節のところで、「〜求めなさい。そうすれば与えられます。〜〜 してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました。求めるなら、与えられます。聖霊を慕い求め、一つの所に集まり、心を合わせて祈り求めるなら、神様は約束の聖霊を注いでくださいます。私たちは毎週一つの所に集まって祈っています。あの弟子たちのように聖霊を慕い求めて祈っているでしょうか。神様は礼拝のために集まっている私たちが心を一つにして祈り求めている時に聖霊を注いでくださいます。私たちがますます聖霊を慕い求めて祈り、聖霊に満たされますように祈ります。主日礼拝の時だけではなく、いつも、どこで聖霊のご臨在を慕い求めて祈りましょう。それによって聖霊が豊かに注がれることを体験して行きますように祈ります。では、聖霊が注がれた時にどんなことが起こりましたか。, 4節をご覧ください。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」とあります。彼らは他国の言葉で話し出しました。彼らは自分の力ではなく、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出しました。つまり、聖霊によって外国語を大胆に語るようになったのです。カンボジアの李ドヨル宣教師は英語勉強のためにシンガポールに行きました。でも、なかなか話せませんでした。ところが、宣教のためにカンボジアに行って神学校で教える時は不思議にも英語で教えることができました。去年は兄弟姉妹たちに聖書を教えるためにカンボジア語にも挑戦しました。英語よりも難しい言葉でした。しかし、聖霊の助けによってひとりを教えると、彼が1年生の1人を教えるようになりました。それでビジョンを持つようになり、今年から首都のプノンペンに引越しして行くそうです。聖霊を受けると、不思議なわざを体験し、さらにビジョンを持ってキリストの証人として働くようになることが分かります。しかし、聖霊を受けていないユダヤ人たちは聖霊の力と働きを理解することができませんでした。120名ほどの弟子たちがそれぞれ自分の国のことばで話すのを聞いて、驚きあきれてしまいました。7節では「驚き怪しんで」、12節では「驚き惑って」と言っています。これらのことばは、それを聞いた人たちが、いかにもとまどっていた様子を表しているものです。彼らには何事が起こっているのかがさっぱり分かりませんでした。そこで、ペテロは11人の弟子たちとともに立って説教をします。そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。」とはっきりと言いました。朝から酔っぱらっている人はいないでしょう。特に当時のユダヤ社会では朝から酒を飲むことは禁じられていました。だから朝から120名ほどの人々が酔っぱらっているはずがないことを説明して彼らがよく知っている旧約聖書の御言葉が成就したことを教えています。17, 18節をご一緒に読んでみましょう。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」これは、紀元前800年頃に預言者ヨエルの預言したことばです, ヨエル書2, 28〜32, 。そして、「終わりの日」は、イエス・キリストがこの世に来られてから再び来られる時までを意味します。つまり新約時代です。旧約の時代には特定の人々にだけ聖霊が臨まれました。ヨセフは少年の時に一つの幻を見ました。兄弟たちが自分を拝むようになることでした。30歳になった時に、その通りになっていました。アブラハムは老人になった時に夢を見ました。大いなる国民の父となることでしたが、その通りになりました。このように旧約時代には特定の人々が預言をし、夢を見たのです。しかし、終わりの日、つまり、新約の時代には神様を信じるすべての人々に聖霊が臨まれます。すると、息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見るのです。預言、幻、夢とはビジョンのことです。老若男女, ロウニャクナンニョ, なく、すべての人がビジョンを持つようになるということです。また、主は「わたしのしもべ」「はしため」にも聖霊を注ぐと約束されました。つまり、身分や国籍を問わずすべての人に聖霊が注がれ、それによって誰でもビジョンを持って立ち上がる時代が始まるということです。ほんとうに素晴らしいことです。実際にイエス様を信じるすべての人々に聖霊が注がれています。それで少年も、青年も、老人もビジョンを持つようになります。誰でも聖霊に満たされると、聖なるビジョンに燃える人になります。その時、物質的で肉的な人が霊的な人に変わります。考え方が積極的になります。勤勉な人になります。そうして、ビジョンのとおりになることを経験して行きます。私はこのubf教会で36年目になりますが、その間に数多くの人々が聖霊を受け、ビジョンに燃えてそのビジョンのとおりになることを見て来ました。ここに宣教師たちも誰かに説得されて来たのではなく、聖霊を受けると、ビジョンを持つようになり、日本の宣教師になったと思います。1981年に私が通い始めた韓国の光州ubfのホールは今の東京ubfより少し広いものでした。でも、この建物の4階の面積を合わせると、あの時の光州センターより広くなります。しかも当時の光州ubfは3階だけを借りていました。ところが、小さいubf教会でも人々は聖霊を受けてビジョンに満ちていました。彼らは世界の果てまで行くことのために祈っていました。私もその雰囲気に圧倒されて世界のために祈り、何も知らずに一つの国の支部長になりたいとも祈りました。今になって考えてみると、私たちに聖霊が注がれ、ビジョンを持つようになって祈っていたのです。ところが、40代になってみると、そのとおりになっていました。アジア大陸の支部長にもなっていました。もし、私がイエス・キリストを信じず、聖霊を受けなかったら、ビジョンを持つこともできなかったでしょう。箴言29:18を見ると「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」とあります。またローマ8:6では「肉の思いは死である」とあります。私もほしいままにふるまい、肉の思いによって滅びの道に歩んでいたことでしょう。現実の問題に縛られて心が腐敗して行ったと思います。しかし、神様の深い哀れみによってイエス様を信じて聖霊を受けると、ビジョンを持ち、ビジョンのとおりになることを経験して来ました。それで、私は40代からは「日本の47都道府県にキャンパス牧者」、「アジア47カ国に宣教師を派遣する」というビジョンに燃えています。このメッセージを準備しながら「老人は夢を見る」と言う言葉に恵みを受けました。ubf先輩たちは60代、70代になっても夢を見てシルバー宣教師として遣わされています。それで今年はubfにsbf, シルバーバイブルフェローシップ, が誕生するそうです。何と素晴らしいことでしょうか。老人になっても夢を見て新しく出発できるのです。どうか、この教会に聖霊が激しく臨まれて一人ひとりが幻を見、夢を見ることができるように祈ります。47都道府県、47カ国に出て行くビジョンにも満たされますように祈ります。私も、定年になると、日本の47都道府県の中でまだ開拓されていない所か、アジア47国の中で一つの国に出て行きたいと思います。ペテロは聖霊のみわざを証しした後、続けてイエス様の十字架と復活を証ししました。特に十字架の言葉をはっきりと伝えています。36節をご覧ください。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」そこにいた人々はピラトがイエス様を十字架につけたと思っていたでしょう。ローマ兵士たちが十字架につけて殺したと思っていたでしょう。あるいはイエス様をピラトに渡した宗教指導者たちがイエス様を殺したと思っていたでしょう。イエス様の死は自分たちとは関係がないと思っていたのではないでしょうか。しかし、ペテロは彼らに向かって「あなたがたが十字架につけたのです。」と言ったのです。ペテロのメッセージを聞いた民達の心にどんな御業が起こりましたか。彼らはペテロのメッセージを聞いて心を刺されました。人はイエス様の十字架の意味が本当にわかるとき、誰でも心が強く刺されます。私も初めて十字架の意味が少しでも分かった時に心を刺されて泣きました。今でも十字架の意味を悟ると泣いてしまいます。それで彼らも十字架の言葉を聞いてペテロとほかの使徒たちに、言いました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」これは真実な悔い改めの姿勢です。彼らは神様に犯した自分の罪を悟ってどうしたらいいかわかりませんでした。そこでペテロは彼らに答えました。38節をご覧ください。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」ペテロは彼らにはっきりと救いの道を提示してあげました。悔い改めこそ、救いに至る関門です。悔い改めは自分の罪を悔しく思い、反省するだけではなく、方向を変えることです。その後イエス・キリストの名によってバプテスマを受けて新しく出発して行きます。すると、すると、その人の罪がイエス様の尊い血によって罪が赦され、きよめられた所に聖霊が臨まれます。聖霊は悔い改めた人に与えられる神様のプレゼントです。聖霊は今日の私たちにも「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と言われると思います。ピラトやローマ兵士、ユダヤの祭司長たちではありません。私がイエス様を十字架につけた張本人です。私の罪のためにイエス様は十字架につけられたのです。神様が死者の中からよみがえらせて私の主・キリストとされたイエス様を私が十字架につけたのです。特に不信仰によって神様を悲しませて来ました。今回、メッセージを準備しながら聖霊の働き、大いなる聖霊の力を制限していた罪を悟りました。聖霊が臨まれると、私たちは力を受けます。私が悔い改めて聖霊の力、聖霊の働きをますます確信して行きます。どうか、私たち一人一人が自分の罪を悔い改めて賜物として聖霊を受けることができるように祈ります。, ?.教会の誕生, ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けました。その日、三千人ほどが弟子に加えられました。このようにして初代教会が誕生したのです。それでは初代教会の特徴は何ですか。42節をご覧ください。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。彼らは使徒の教えを聞くだけではなかったようです。メッセージを聞くだけで終わらなかったのです。所感を書いて堅く守る闘争をし、その恵みを分かち合う交わりをしていました。○○牧者は仕事の関係で朝の主日礼拝に参加していますが毎週書いた所感をコピーして私にも渡してくださいます。去年、一年間も私は彼女の所感を通して何度も励まされて来ました。東京ubfがこれからも初代教会のように御言葉を学び、堅く守って行きますように祈ります。また彼らは共に食事をしました。共に食事をしたことは愛の具体的な表現です。私たちは毎週の主日には昼食を一緒に食べています。この食事会を通して私たちの愛がますます深まって行くことを感謝します。そして、彼らは祈りに励みました。祈りは生きておられる神様との交わりで聖徒達の霊的な呼吸です。祈る人は霊的に生きている人です。祈るところに聖霊のみわざがあります。43節をみると、「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」とあります。それでは聖徒達の実際の生活はどうでしたか。結論的に44, 47節をご一緒に読んで見ましょう。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。このように愛と喜びが溢れる聖徒達の生活はすべての民に好意を持たれました。彼らは聖徒達の生活をうらやましく思いました。主は毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。私たち東京ubfも初代教会のように聖霊に満たされて御言葉を学んで堅く守る生活、愛の交わり、祈り生活がますます大切にして行きますように祈ります。東京の大学生たちが東京ubfのうわさを聞いてうらやましく思って集まって来るみわざが起こりますように祈ります。すると、主が毎日、救われる人々を仲間に加えられるように祝福してくださると信じます。

15ACTS04M この方以外には

15acts04m, この方以外には, 2015年使徒の働き第4講この方以外には御言葉:使徒の働き4:1, 31要, 節:使徒の働き4:12 「, この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」, 私たちは1章〜3章の御言葉を通して聖霊がどのように臨まれ、どのように働かれたかについて学びました。特に、先週は生つき足の不自由な男が癒され、救われた出来事を学びました。そこで、ペテロは説教を通してその男はイエス様が与える信仰によって完全に治ったことを証しました。それから、ユダヤ人はイエス様を拒み、十字架につけて処刑しましたが神様が復活させてくださったことも証しました。しかも、それは偶然に起こったことではなく、神様が昔からの預言を実現してくださったことだと証しました。こうなると、ユダヤ人の宗教指導者たちも納得し、受け入れるべきでした。しかし、彼らはペテロとヨハネを逮捕しました。聖霊のみわざが起こっているところに迫害も襲って来たのです。ではペテロとヨハネはその迫害と試練をどのようにして乗り越えて行ったでしょうか。迫害と脅迫の中でも彼らは何を証していたでしょうか。そして、釈放されたペテロとヨハネの報告を聞いた信者たちは何をしたでしょうか。今日の御言葉を通してペテロとヨハネの信仰的な勇気と霊的価値観、試練の中でも祈りと賛美にあふれている信徒たちの信仰生活を学びたいと思います。  1, 3節をご覧ください。ペテロとヨハネが話しているところへ、祭司たちや神殿の警備隊長、それに、サドカイ人たちがやって来ました。この人たちは、ペテロとヨハネが午後の祈りの時間、ずっと民を教えていた内容を聞いていたようです。ペテロとヨハネはイエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていました。それはサドカイ人にとって本当に困る内容でした。なぜなら彼らは「復活はない」と教えていたからです。ユダヤ教には大別して三つの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派です。パリサイ派は律法主義者として、エッセネ派は神秘主義者として知らされています。そして、このサドカイ派は現実主義者でした。彼らの特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったことです。ところが、ペテロとヨハネは目撃者たちと共に確かな証拠を持ってイエス様の復活を伝えていました。だから、サドカイ人たちは困り果ててしまいました。サドカイ人たちは皆の前でペテロとヨハネの証に反撃することもできず、それを許すこともできなかったからです。結局、彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕えましたが、その時はもう夕方だったので、一晩、留置場に入れて置くことにしました。そうすることによって復活の話はそれ以上広がらないだろうと思ったようです。実際に捕えられたペテロとヨハネは何もできなくなりました。しかし、その時にも聖霊は働いておられました。4節をご覧ください。「しかし、御言葉を聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」とあります。五旬節の日に三千人が回心して教会に加えられましたがさらに多くの人々が加え続けられました。男の数が五千人ほどですから男女を合わせると大人だけでも1万人を超えたでしょう。一般的に考えると教会のリーダーたちが捕えられたから、人々がその教会のメンバーになることをためらうはずです。ところがそんな人間の予想とは裏腹に大勢の人々がクリスチャンになりました。聖霊は一般的な考え、常識を超えて働いておられたことが分かります。事実、いくら権威ある集団でも、たとえ最高権力機関であっても聖霊のみわざを留めることはできません。5, 7節をご覧ください。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まりました。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席しました。彼らは数か月前にイエス様を処刑するようにピラトに渡した人たちです。つまり、彼らはイエス様を十字架につけて殺した張本人たちなのです。そんな彼らが使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだしました。その時のペテロとヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。普通に考えれば、彼らは「私たちもイエス様と同じようにさばかれて殺されるのではないか」という不安と恐れにさいなまれたはずです。しかも彼らは最高の権力者たちの前で尋問されています。震えて一言も言えないような状況なのです。しかし、ペテロは「民の指導者たち、ならびに長老の方々。…」と言い始めて大胆にイエス様を証ししました。どうしてそのようにできたでしょうか。それは「聖霊に満たされて」いたからです。8a節をご覧ください。彼らは聖霊に満たされて大胆になりました。彼らはイエス・キリストを信じて聖霊を受けていましたが、聖霊に満たされることによってますます強くなっていたのです。私たちもイエス・キリストを信じると、聖霊を受けます。そして聖霊に満たされることによってますます強くなります。聖霊に満たされると、力あるキリストの証人になります。したがって私たちはいつも聖霊に満たされることを望む必要があると思います。聖霊充満を期待し、祈り求めるのです。すると、私たちは聖霊に満たされて大胆にイエス・キリストを証することができるようになります。ペテロのように変えられて行きます。聖霊に満たされていなかったペテロはとても弱い者でした。以前にイエス様が捕えられた時は遠く離れてついて行ったし、女中の前でもイエス様を知らないと言いました。三度もイエス様を知らないと繰り返していたほどに弱かったのです。しかし、ここでは何も恐れずに大胆に説教をしています。それは、彼らが十字架につけ、神様が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によってできたことでした。事実、詩篇118:22節に預言された通りに、イエス・キリストは、家を建てる者たちに捨てられた石でしたが、礎の石となりました。イエス様はユダヤ教の指導者たちによって捨てられ、十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神様はこのイエス様を死者の中からよみがえらせたのです。なくてはならない方だったからです。この石こそ一度は捨てられたもののやがて最も栄光に満ちた礎の石となったからです。すなわち、このイエス様こそなくてはならない方、あの礎の石、聖書の中で何千年も前から預言されていた救い主であったということです。ですから、ペテロは結論として12節を言いました。12節をご一緒に読んでみましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」皆さんにもこのような確信があるでしょうか。ペテロはイエス・キリスト、この方以外に、だれによっても救いはないと確信していました事実、この方こそ、私たちを罪による永遠の破滅から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主です。ですから、私たちはこの御名を信じなければ救われません。この方の他に誰によっても救いはありません。日本は多神教の国です。多神教の国だからこそ、日本人には寛容な心があり、誰にも親切にすることができるという人もいます。だから、唯一の神様を証することに対しては抵抗する場合が多くあります。「この方以外には…」ということは独善的、排他的だと言います。そして、あれも神、これも神と言うことに対しては寛容的であると言います。どの神でも信じるなら救われるような教えを好む傾向があります。これが普通の日本人の宗教観ではないかと思います。富士山に登るのも、山梨県から行っても、静岡県から行ってもまじめに、まじめに上れば山頂にたどり着くのだと思うのです。それで、どの宗教もみな同じ、大切なのは信じることだ、たとえ信じなくても良い行ないをすれば、みんな良い所に行くから大丈夫だと言います。しかし、聖書はそのように教えていません。聖書は言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言うのです。私たちは最初の人間アダムの子孫として皆が原罪を持っています。その原罪と自分の罪のゆえに、私たちはみんな滅んでしまう存在になってしまいました。ところが、あわれみ深い神様は、そのあわれみによってご自分のひとり子イエス・キリストをお与えになりました。そして、イエス・キリストは私たちのすべての罪を担って十字架に架かって死なれました。それによって私たちのすべての罪の代価を払われ、赦して下さいました。それから三日目に死者の中からよみがえられました。この復活はその以前にも、以後にもありません。イエス様だけが聖書に従って死者の中からよみがえられたのです。だから、このイエス・キリストだけが唯一の救い主なのです。この方以外に救いはありません。そして、この救いは何か悟る知識ではありません。生まれつきの足なえの人が癒され、救われるような奇跡です。福音書にも使徒の働きにもイエス・キリストの御名による数々の奇跡が記されています。私たちがイエス・キリストを信じて救われるということは神様の力を体験することでもあります。自分の人生において変化と癒しを経験して行く力です。ペテロとヨハネは三年前までガリラヤ湖で漁をしていました。ユダヤ人たちが言っているとおりに無学な人、普通の人でした。ところがそんな彼らが学者やこの世の権力者を前にして、堂々と「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言いました。当時、ユダヤの最高の権力者、知識人たちを圧倒する説教をするほどになりました。それはペテロに知識と力があったからではありません。彼がイエス・キリストの御名によって救われ、イエス様の御名に頼っていたからです。, ユダヤの最高権力者たちは、ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚きました。人々はこの無学な二人が話すことを不思議に思い、どうすることもできなくなりました。ただ、自分たちが持っている世の権力で彼らを脅そうとしました。そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らに何と答えて言いましたか。19、20節をご覧ください。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」彼らは人を恐れず、神様を恐れました。「人を恐れず、神様を恐れる。」これこそ、私たちクリスチャンが持つべき霊的価値観です。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人達などを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10:28)。」と言われました。ペテロとヨハネはこのイエス様の御言葉を心から受け入れ、堅く守っていたことが分かります。彼らは主の御言葉に従ってはっきりとした霊的価値観を持っていたのです。だからが、彼らは最高権力者たちの前でも大胆にキリストの御名を証することができました。結局、宗教指導者たちは、聖霊に満たされた使徒たちの勇気と迫力に圧倒されてどうすることもできず、釈放しました。では、使徒たちはこのような勇気と力をどこから得られたでしょうか。それは聖霊によるものです。使徒たちは聖霊によって働かれるイエス様とともにいました。だからこそ彼らはイエス様と同じように勇気を持って大胆に語ることができたのです。それは彼ら自身の力によったのではありません。イエス様と深い関係にあった使徒たちが、聖霊の力によって語ったのです。私たちも同じです。私たちは弱いです。自分の力だけでは何もできないかも知れません。でもイエス様は強いのです。イエス様とともにいるならば、聖霊によってイエス様が私たちに勇気と力を与えてくださいます。聖霊は私たちが大胆にみことばを語ることができるようにしてくださいます。特に、私たちが弱い時こそ聖霊が力強く働いてくださいます。そして聖霊の力によって人々は悔い改め、回心することができます。 イギリスにチャールズ・スポルジョン, 1834, 1892, という有名な説教者がいました。彼の語る説教には迫力がありました。彼が活動している時代から150年も超えている今でも彼のメッセージは読まれているほどです。私のような人でも彼が後輩たちへ残した三冊の本を持っているほどです。しかし、ある主日の礼拝の時に、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。満足して家に帰ったとき、彼はあることに気づかされました。彼が振り替えてみると、「あれっ、失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心しました。それなのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったのです。これはいったい、どういうことなのかと思われました。そこで、彼は「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということが分かったのです。 そうです、私たちは、私たちを助けてくださる聖霊の力によってのみ人を変えることができます。どんなに無力で、普通の人でも、イエス様とともに歩む生活の中で聖霊に満たされると大胆にみことばを語ることができるようになるのです。もし、自分が無学で、普通の人であることに失望している方はいないでしょうか。神様はそのような人を用いられるのです。自分が無学で、普通の人であることに感謝しましょう。なぜなら、弱い者、足りない者であるという自覚があるかにこそ、そういう人はもっと主により頼もうとするからです。そして主の力によって大胆にみことばを語ることができるようになるからです。ではどうやって聖霊に満たされることができるでしょうか。それは一方的な神様の働きです。でも聖書を読んで見ると祈る時に神様が私たちのうちに働いてくださることが分かります。留置所から釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神様に向かい、声を上げて祈りました。彼らは祈りの力を体験していたからこそ、声をあげて祈ったと思います。彼らは何を祈りましたか。彼らは「主よ。彼らの脅迫から私たちを守ってください。無事に信仰生活が送れるようにしてください。」と祈りましたか。いいえ。そうではありません。弟子たちは「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。29、30節をご覧ください。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。聖霊の力によって神様のことばを大胆に語り出しました。神様のみこころと一致した祈りを主は聞いてくださいます。御心に反した祈りが聞かれるわけはありません。私たちの祈りが神様の御心に一致するとき、神様は天地を造られたあの力で応答してくださいます。その時、私たちはどんな権力、どんな脅迫に対してもびくともしない証し人とされるのです。, 以上から、ペテロがイエス・キリストの御名によって、足のきかない男を歩かせた出来事を通してイエス・キリストを証ししたことを学びました。イエス・キリスト、この方以外には、だれによっても救いはありません。イエス・キリストの御名は世のすべての人々を罪と死の力から救います。私たちがイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生となるように祈ります。特に祈り、声をあげて祈ることによって聖霊に満たされますように祈ります。聖霊に満たされてイエス・キリストの御名によって生まれつき足のきかない男のような人々を救いに導くことができるように祈ります。そういう生活を通してイエス・キリストの御名による救いのみわざを体験してますます大胆にイエス・キリストの御名を証しすることができるように祈ります。このイエス・キリストの御名が私達を通してあがめられますように祈ります。