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14Genesis16M イサクの結婚

14genesis16m, イサクの結婚, 2014年創世記第16講 イサクの結婚御言葉:創世記24, 67要 節:創世記24, 44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』 先週、私たちはアブラハムが神様の命令に従って最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげたことを学びました。実際に全焼のいけにえとして捧げたのは神様が備えられた雄羊でしたが、神様はそれをアブラハムが自分のひとり子を惜しまずにささげたことにしてくださいました。アブラハムの信仰の忠実さと神様を恐れ、愛し、第一とする心が認められたのです。さらに、それは「主の山の上には備えがある。」という信仰へつながって行きました。今日、学ぶ24章でもアブラハムは最愛の息子イサクの結婚において神様が彼の妻も備えておられると信じていたことが分かります。ここで、息子の結婚に関するアブラハムの信仰、アブラハムからイサクの妻を見つける任務を命じられたしもべの祈りと忠実さ、イサクの妻として迎えられるリベカの信仰と内面性を学びたいと思います。24章1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。先週も学んだようにアブラハムの人生は決して平坦ではありませんでした。生まれ故郷を離れて行くことからチャレンジであり、一つの冒険でした。信仰の危機も、失敗もありました。信仰の体験もありました。そうこうしているうちにアブラハムは年を重ねて老人になっていました。ではさまざまな試練の中でも信仰を守り通したアブラハムの人生はどうなっていましたか。聖書に「主は、あらゆる面でそのアブラハムを祝福しておられた」と記しています。アブラハム人生はあらゆる面で祝福されていたのです。これが私たちクリスチャンの人生ではないでしょうか。若い時は挑戦と冒険を経験します。神様を信じている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしよう。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。飛行機や船、電車の事故が怒ったら…などいう恐れがあります。実際に失敗もあります。自分の不信仰や怠けが原因であっても失敗は私たちを落胆させます。アブラハムのように結婚して25年間も子どもが生まれないような試練もあり得ることでしょう。ところが、そのような時にも信仰から離れないならどうなりますか。祈り、望みえない時に望みを抱いて信じるなら神様を体験することができます。さまざまな出来事の中で神様の深い哀れみと愛、力と不思議な導きを体験して行くことができるのです。結局、年を重なっていて見ると、ほんとうにあらゆる面で神様から祝福されていることが分かるようになります。年を重ねているおびただしいクリスチャンは言っています。「私はイエス・キリストを信じてからあらゆる面で祝福された」と。私はubf教会でも数多くの先輩から聞いています。私自身も告白できます。私は田舎者で人々からも田舎者として卑しく見られていると思い、自分自身も自信感を無くしていました。しかし、年を重ねてきた今は人々から愛され、尊敬されていると感じる時があります。先月は弟子から頼まれて500人位が集まった結婚式の司式もやって来ました。「あらゆる面で祝福されているんだなあ」と感じております。もし、現在は、何もかもうまく行かないと思っている方がいるかも知れません。毎日が辛い、苦しいと思われる試練の中に置かれている方がいるかも知れません。でもあきらめてはいけません。若い時はアブラハムのように信仰によってチャレンジし、冒険して行くものです。どんな時にもアブラハムのように祈り、感謝し、礼拝する生活をしてください。きっと神様はあらゆる面で祝福してくださいます。2, 4節をご一緒に読んで見ましょう。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。年を重ねて老人になっているアブラハムにとって息子イサクの結婚のことを考えなければならなりませんでした。アブラハムにとって人生の最後に残された重大な仕事は、信仰の後継者である息子にふさわしい妻を見つけることでした。そこで、アブラハムは息子の結婚を長年忠実に仕えてきた最年長のしもべに命じました。このしもべが誰なのかは分かりませんが聖書学者たちは15章2節に記されているエリエゼルだと言っています。アブラハムはエリエゼルに天の神、地の神である主にかけて誓わせています。何を誓わせましたか。一つ目は、カナン人の娘の中から息子の妻をめとってはならないということです。アブラハムの生まれ故郷に行き、親族の中からイサクの妻を選ぶことです。つまり、神である主を信じる信者の中から選ばなければならないということです。カナンには神様を信じる娘たちがいませんでした。しかしイサクの妻になるリベカの家族は主を信じる信者でした。リベカの兄と父親は「主に祝福された方、主から出たこと」と言っています, 31、50, 。そして、22章20, 23節を見ると、アブラハムにはアブラハムの兄弟ナホルから子どもたちが生まれたことが伝えられていました。ですから、アブラハムは必ず神様を信じる信者の中から息子の妻を見つけなければならないと命じたのです。二つ目は、息子は約束の地カナンにいさせることです。しもべはアブラハムに「もしかして、その女の人が私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と質問しました。それに対してアブラハムは「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」」と言いました。つまり、約束の子イサクが約束の地を離れてはいけないということです。ではどうやってアブラハムはしもべにこのようなことを誓わせることができたでしょうか。7節をご一緒に読んでみましょう。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分の信仰生活を通して神様を体験し、確信していたことが分かります。彼は神様の御心を第一にして従うなら、必ず神様が働いてくださると信じました。したがって彼はしもべに「天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ることができました。アブラハムは神様の御心を第一にして従うなら、必ず天の神、主は御使いを遣わして助けてくださると確信していたのです。ここで、私たちは息子の結婚でも自分の心ではなく、神様の御心を第一にしているアブラハムの信仰を学ぶことができます。私たちは大切なことほど神様の御心を求めなければなりません。人生において最も大切な結婚だけではなく、就職や進学など重要な決断をする時も、神様の御心を考え、従うことです。そして結婚、就職、進学などの大事なことを決断する時に神様の御心を第一にするなら必ず神様が助けてくださると確信することです。神様は私たちの前に御使いを遣わしてくださいます。私たちのために道を備えられ、助けてくださるのです。特に、私たちの人生の中で結婚ほど大切なこともないと思います。だからこそ、神様の御心を求めべきですし、自分の恋愛感情や親の心よりも神様の御心を第一にして決断するべきです。神様は私たちの結婚が愛と喜びと幸せが満ちていることを望んでおられます。私たちの結婚生活が潤され、私たちの心も満たされることを望んでおられます。ですから、神様は神様の御心を第一にするアブラハムが息子の妻を見つけるために遣わしたエリエゼルの働きを助けてくださいます。ここで、私たちに自分に与えられた使命を忠実に果たしたアブラハムのしもべから、神様のしもべとしての姿勢を学ぶことができます。第一に、しもべは重大な使命を果たすことを祈りから始めました。12, 14節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたががしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」とあります。さすがにアブラハムに長年仕えていたしもべですね。信仰の先祖アブラハムの影響を受けています。アブラハムの祈り生活を学んでいたことでしょう。アブラハムが祈ると、神様が彼に恵みを施してくださることを見て来たのです。だからこそ彼は何よりも先に祈りました。また、アブラハムのように具体的に祈っています。以前アブラハムがロトの救いのために祈る時、正しい人50人から10人まで減らして行きました。そのように、しもべも切に祈ったし、具体的なしるしを求めました。普通では起こらないようなことを求めて神様の働きを確かめようとしたのです。中東地域では旅人に水を飲ませることは、たいていの女性たちが行ないました。けれども旅人のラクダに水を飲ませることはしませんでした。しかも10頭のラクダに女性一人が水を飲ませるようなことは普通ではありません。でも、彼はわざと普通ではないことを求めて神様の働きを目撃し、御心を確認しようとしたのです。また、しもべは女性の外見上の美しさではなく、内面性を求めたことが分かります。彼は背が高い人を求めませんでした。目が美しい人を求めませんでした。心の美しい人を求めました。愛の豊かな女性、思いやりのある人、気配りのある女性を求めたのです。イエス様は山上の説教においてこう言われました。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい, マタイ5, 。この原理は夫婦生活でも同じです。夫か5回頼んだら、妻は10回従います。妻が5回要求したら、夫は10回答えます。このような態度で行なうならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現われるでしょう。ですから、アブラハムの信仰生活を受け継いで行くイサクの妻にもそういう態度、内面性が求められます。そこでしもべは人のために最善を尽くして仕えることだけではなく、動物までも助け、仕えることができる人を祈り求めたのです。では祈りの結果はどうなりましたか。  15, 20節をご覧ください。エリエゼルがまだ言い終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。彼女はブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘でした。彼女は非常に美しく、処女で男が触れたことがありませんでした。何よりも彼女は心の美しい女性でした。彼女は旅人のしもべに水を飲ませました。彼に水を飲ませ終わると、彼女はラクダのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言いました。井戸から水を汲んでラクダに水を飲ませることは決して簡単ではありません。私は子どもの時、牛に水を飲ませていましたが一度に20リトル以上も飲んでしまいます。ラクダは牛よりもいっぱい飲むでしょう。しかも10頭のラクダに水を飲ませることは大変な仕事です。ところが彼女は急いで水瓶の水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のラクダのために汲んだのです。しかも、隣にいたしもべは水を飲ませてもらうだけで何も手伝ってくれませんでした。彼は主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。一度に20リトルを運んだとしても20回も走りながら水を汲みに行ったり来たりしていたのに、隣の男は、ただ黙って彼女を見つめていたのです。それでもリベカは何も文句を言わず、黙々と働きました。何と素晴らしい娘でしょう。エリエゼルはリベカが祈り求めたとおりの女性であって主が自分の旅を成功させてくださったことが分かりました。彼女に尋ねて彼女がアブラハムの兄弟ナホルの孫であることも確認できました。そこで、エリエゼルはひざまずき、主を礼拝してアブラハムの神、主をほめたたえました。結局、エリエゼルが自分の仕事を神様に祈ることから初めた時に神様がそれを成功させてくださることを体験することができました。祈りが成功の出発点であり、成功の近道だったのです。イエス様も一日一日の仕事をまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから始められました, マルコ1, 。私たちも何かをする時、具体的に祈ることから始めるなら神様がそれを成功させてくださることを見ることができます。素晴らしい神様の働きを体験する基礎となるものは祈りです。すべての問題の解決のカギも祈りです。どうか、私たちが日々の生活の中で切に祈り、具体的に祈ることを通して自分の仕事を成功させてくださる神様を体験することができるように祈ります。第二に、しもべは自分に与えられた任務に忠実でした。しもべは神様が彼の旅を成功させてくださったのでリベカの家の中にはいりました。ラクダの荷は解かれ、ラクダにはわらと飼料が与えられました。しもべの足と、その従者たちの足を洗う水も与えられました。それから、しもべの前に食事が出されました。先ほど水だけを飲ませてもらった彼としてすぐにでも食べたかったでしょうか。しかし、彼はまず何をしましたか。33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は家に招き入れられ、もてなしを受けましたが、用事が終わるまでは、それを食べようとしませんでした。しもべは食べることよりも使命を大切にしたのです。そして「お話ください」と言われたとき、彼は「私はアブラハムのしもべです。」と自己紹介をし、あらゆる面で祝福されたアブラハムを紹介しました。それから、アブラハムの命令によってアブラハムの息子の妻を迎えるために来たのですが、アブラハムの神、主が自分の旅を成功させてくださったことを丁寧に説明しました。そこでリベカの家族は神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命に忠実な人だったかが分かります。数多くのクリスチャンは彼から管理者の忠実さを学んだことでしょう。パウロもコリント人たちに送った手紙で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。, ?コリント4, 」と言いました。私たちは教会でも職場でも、学校でも何か任されている任務に忠実でなければなりません。この忠実なしもべの働きによってアブラハムは愛する息子の妻を見つけることができました。では、アブラハムのしもべに見つけられたリベカの信仰はどうでしたか。 58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。」とあります。結婚の最終決定はリベカがするようにしましたが、リベカは『はい。まいります。』と言いました。ほんとうに、すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。リベカは神様の御心、神様の導かが分かった時、顔も知らないイサクとの結婚を自ら決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。ほんとうに信仰のある人は神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」結論的にイサクは神様の御心を第一にする父親アブラハムの信仰、しもべエリエゼルの祈りと忠実な働きが用いられて素晴らしい信仰の女性リベカと結婚することができました。ここで結婚している人は自分の子どもたちの結婚をどのようにするかを学ぶことができました。まだ結婚していない人はどのような信仰、どのような内面性を持っているべきかを学ぶこともできました。職場や学校、あるいは家で自分に任された仕事をどのように成し遂げ行くべきかも学ぶことができました。ここで共通することは私たちの神様の御心を第一にする価値観と神様に対する信仰です。私たちもそういう価値観と信仰を持って生きるなら、私たちの仕事を成功させてくださる神様を、あらゆる面で祝福してくださる神様を体験して行くことができます。アブラハムの神様が私たちの神様であることを信じて感謝します。

14Genesis11M 星を数えることができるなら、それを数えなさい

14genesis11m, 星を数えることができるなら、それを数えなさい, 2014年創世記第11講星を数えることができるなら、それを数えなさい御言葉, 創世記15, 1−16, 16要節, 5「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」フランスの数学者・哲学者・思想家だったブレーズ・パスカルは「神を感ずるのは心情であって理性ではない。これが信仰と言うものである。」と言いました。私も共感しているところです。アブラムを召され、彼を導かれた神様を理性では理解することができません。アブラム自身も理性では神様の導きが理解できなかったことでしょう。ところがアブラムは心情で神様を感じ、御言葉を信頼して従いました。すると、彼は神様の御言葉を体験することができます。そうしてますます深く神様と交わり、信仰が成長して行きました。先週、14章を通して学んだようにアブラムはロトを救い出すために自分の家で生まれたしもべ318人を召集してケドルラオメル大同盟軍と戦い、勝利しました。でも、それは理性では理解できない非常識、無鉄砲の行動でした。何とか国々の王たちと戦って勝利しましたが、戦いの後には連合軍の報復を恐れるようになりました。その上、命がけの戦いで救い出したロトは再びソドムの地での世俗的な生活に戻ってしまいました。この現実を思うと、ほんとうに寂しく、虚しくもなりました。そんなアブラムに主のことばが臨まれました。神様は現実の問題に縛られているアブラムに約束の御言葉を与えられます。彼の家庭の問題も解決してくださいます。この時間、御言葉を通して偏狭な自分の世界、現実問題から目を上げて神様の世界を仰ぎ見ることができるように祈ります。神様の御言葉を信じて神様に義と認められ、祝福される人生を生きることができるように祈ります。?.恐れるな。わたしはあなたの盾である15章1節をご覧ください。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」」とあります。神様は連合軍の報復を恐れているアブラムに「アブラムよ。恐れるな。」と励ましてくださいました。神様は「アブラムの盾である。」から恐れる必要がありません。「盾」は昔の戦いで自分を守る武器です。現代の家やパソコンを守るセキュリティ・システムと言えます。神様は最高のセキュリティ・システムより安全に私たちを守ってくださるお方です。神様は高感度のセコムのレーザーセンサーよりも遥かに高い感度の聖霊のセンサーで私たちを守ってくださいます。それだけではありません。神様は報いてくださる方です。神様は「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と約束してくださったのです。実際に、神様が信仰によって良心的に生きている人が受ける報いは非常に大きいです。やがてアブラムは体験して行きます。子どもが生まれるし、あらゆる面で祝福された人生であると告白するようになります。 ところが、私たちはアブラムと同じく、神様の御言葉に従って来たにもかかわらず今の状況が良くなければ恐れと不安感に苛まれます。漠然として不安感に苛まれて苦しんでいる人もいます。何度も挑戦したのになかなか就職が決まらないと不安になります。「はたして就職できるだろうか」と恐れます。就職すると安心して生きられるでしょうか。会社員は「リストラされるかも知れない。」「この会社が倒産するかも知れない。」と言う不安感に苛まれている場合が多いです。未婚の方は結婚に対する不安と恐れがありますが既婚の方は子育てや子どもの将来のことで恐れ、不安感に苛まれて苦しみます。それだけではありません。今月8日未明に乗客乗員239人を載せたマレーシア航空機が姿を消してしまいました。いつ、どこで何が起こるか分かりません。通り魔事件もあります。会社生活、社会生活の中では中傷・あざけり、おどし等などが私たちに襲って来ます。私たちが信仰によって勝利したとしてもサタンの報復は終わっていません。私たちの敵であるある悪魔が、ほえたけるししのように食いつくべきものを捜し求めながら、歩き回っています(?ペテロ5, 8)。だから、私たちはしばしば恐れと不安感に苛まれて苦しむのです。しかし、神様を信じている人は恐れなくてもいいです。神様は私たちにも言われます。「アブラハム寺崎よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」「祈祷よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」神様は必ず私の盾、あなたの盾となってくださいます。この険しい世の中でも、神様は私たちを守り、私たちの行く先々に勝利を与えてくださいます。また私たちの受ける報いは非常に大きいものになります。 ですから、私たちは安心して平安に生きることができます。私たちが理性的に考えないで心から神様に信頼するならば、私たちは衣服の下に防弾チョッキを付けているようなものです。神様があらゆる敵から私たちを守ってくださるからです。また、神様は神様を信じて生きる私たちに報いてくださいます。私たちの受ける報いは非常に大きいものです。 ○○牧者はフランスで留学してきて東京大学を卒業しました。日本社会で言うところの典型的エリート街道驀進中のキャリアウーマンでした。でも、イエス・キリストを信じてからアブラムのように新しい出発をしました。世間では理解できないほどに貧しい留学生と結婚してアルバイトしながら学生の夫を支え、二人の子育てもしてきました。将来に対する恐れと不安もあったことでしょう。でも彼女は○○姉妹を始め、兄弟姉妹たちに仕え、赤門フェローシップのみわざに同労して来ました。オーケストラを結成し、忠実に仕えて来ました。それにもかかわらず、夫の崔ヨセフ宣教師の卒業が伸ばされ、就職がなかなかできなかった時もありました。ヨセフ宣教師が福岡に行っている2年間は夫と離れて生活をしてきました。時々、このような事情を考えると私自身が心配になりました。ところが、神様は今年ヨセフ宣教師を福岡ubfの支部長、九州でトップの秀才が集まる九州大学の準教授にならせてくださいました。すでに兄弟姉妹たちも送ってくださって霊的に育てるようにしてくださいました。 私はこの家族を見ながら神様がご自分を信じる者たちの盾となって守ってくださること、彼らに非常に大きい報いがあることを深く悟り、確信するようになりました。神様は決してご自分を信じる者たちが滅びるようにすることはなさいません。ご自分の子どもたちを手放して置くこともなさいません。宇宙的なセキュリティ・システムで私たちを守り、私たちの将来を保証してくださいます。神様は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいます。私たちの盾となり、非常に大きい報いとなってくださる神様に心から感謝を申し上げます。 ?.天を見上げなさい 2, 3節をご覧ください。「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」とあります。アブラムは神様から「非常に大きい報い」と言われても理解できませんでした。彼の心には子どもの問題しかなかったからです。そこで、彼は「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と言いました。彼は落胆していることが分かります。私たちもなかなか自分の問題が解決されない時は、神様の御言葉が聞こえません。神様は大切な事ほど小さな声でささやきますが、それを聞き取ることができないのです。では神様はアブラムをどのように助けてくださいましたか。4節をご覧ください。「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」」とあります。原語のヘブル語では、かなり強い語調で「その者があなたの跡を継いではならない。」と命じられているそうです。神様は、強い意志でアブラムから生まれてくる者がいるのだとおっしゃったのです。神様はアブラムが理性で考えて現実の可能性ばかりに目を向けることを叱られました。そして、ただすべてをお造りになった神様にある可能性を覚えるように助けておられます。それは天を見上げることでした。5節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」神様がアブラムを外に連れ出して神様が造られた世界の天を見上げるように命じられました。それは人間の可能性ばかり考えないで天地の創造主であられる神様を仰ぎ見なさいということです。それから神様が造られた星を数えることができるなら、全能の神様を考えなさいということです。実際に、アブラムが天を見上げて星を数えると、それを数えることができたでしょうか。東京に住んでいる私たちには星を数えることができるかも知れません。最近は朝5時になってもかなり明るくなっていますが、まだ暗い時は夜空の星が見えます。時々私は数えてみます。12個くらいで数えられなくなります。47個まで数えてみたいと思いますが一度もできませんでした。しかし、実際には数え切れない星があります。私たちの太陽系が属する銀河系には、2, 000億個の星があると言われています。そして、宇宙には銀河が1, 000億個以上もあると考えられています。まさに天文学的な数の星があるといえるでしょう。それらをどうやって数えることができるでしょうか。地球から人間の目で見える星の数だけでも7, 500個くらいだと言われていますがそれでも数えることは無理です。この無限な世界を造られた方が神様です。ですから、神様には不可能なことがありません。おそらく、アブラムは天を見上げて無限な世界を造られた全能の神様に気づかされたことでしょう。その時に、神様は「あなたの子孫はこのようになる」と仰って下さいました。神様のご計画は実に遠大なものでした。アブラムの想像をはるかに超えていました。神様はアブラムから子どもが生まれることだけではなく、その子孫は数えることができないほどに多くなると約束してくださったのです。私たちは自分の人生を自分の可能性の中で切り開くものだと考えています。自分の学歴や会社の資本金、親からの相続財産などで自分の人生が決まると思っています。ですから、それらの有無によって自分の人生の可能性も決めつけてしまいます。しかし実際はそうではありません。アブラハム寺崎牧者の家庭でも7年目に子どもが生まれました。奇跡は起こります。決して神様には不可能なことなどないのです。神様のご計画の通りにアブラハムの子孫は夜空の星のように数多く広がりました。イサク、ヤコブ、ヨセフに続いてダビデに繋がり、ダビデの子孫からイエス・キリストが生まれました。イエス様がお生まれになるとき、東方の博士たちがメシアの星を見て遠い東からベツレヘムまで訪ねて来ました。それで、ユダヤ人だけではなく、キリスト教も、イスラム教もアブラムの子孫であることを誇りにしています。このように、神様は私たちひとりひとりにも遠大な計画とビジョンを持っておられます。イザヤ55章8,9節を見ると, 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。エレミヤ29章11節を見ると「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。天が地より高いように、神様のご計画は私たちの思いより高く遠大なものです。時々、私たちはちっぽけなことで悩み、恐れています。しかし、神様は私たちが夜空に輝く星のようにこの世の中で輝く将来と希望を与える計画を持っておられます。この時間、私たちが目を上げて神様の広大な世界、荘厳な世界を見ましょう。今の現実が暗ければ暗いほど、苦しければ苦しいほど天を見上げてください。夜空に輝く星を数えてみてください。神様は私に災いではなくて平安を与える計画を持っておられます。神様のなさることは、すべて時にかなって美しいものです。神様は必ず私たちに最高のもの、最上のものを与えてくださいます。神様はアブラムに息子イサクを与えてくださいました。ですから、私たちは神様の約束の御言葉を信じ、私に対する輝かしい将来と希望も計画しておられることも信じて行かなければなりません。どうか、神様が夜空に輝く星のような祝福を計画しておられることを受け入れてどこまでも神様の御思いに心を合わせて生きることができるように祈ります。では、神様の約束に対するアブラムの反応はどうでしたか。 6節をご覧ください。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラムは主を信じました。アブラムは自分に与えられた約束の御言葉を信じました。それを神様は喜ばれます。人間的には何の根拠もありません。ただ、神様がそう言われるので信頼します。それが信仰です。人間的な根拠を求め、理性的に考えるのではなく、それを超えて素直に信じるのです。父親が約束したことを、子どもが「どうせ父さんは口だけなんだから」と考えてしまうなら、親としては悲しいことです。しかし、「ぼくは父さんを信じるよ」と信頼してくれるなら、嬉しいものです。それと同じように、私たちの父なる神様は、私たちが約束の御言葉を信じることを喜ばれます。満足なさいます。そして、そのような信仰を神様は喜ばれ、義とされるのです。神様は私の立派な何かを根拠にして喜ばれるのではありません。子が父を信頼するように、神様を信頼し、神様の御言葉を信じる者を神様は喜ばれるのです。そのような者を神様は義と認められます。私たちもアブラムのように神様の御言葉だから素直に受け入れて信じる信仰を持って生きるように祈ります。神様に信頼しながら歩む人生は、神様に造られた者として神様の造られた世界で、神様の御力を味わいながら歩む人生になります。アブラムはその信仰の人生を選び取りました。すると、神様は彼の信仰を義と認められることだけではなく、彼をカルデヤ人のウルから連れ出した目的を教えてくださいました。それはカナンの地をアブラムの所有として与えるためでした。8, 21節を見ると神様がアブラムと彼の子孫が所有する地に対して契約なさったことが記されてあります。?.主は私をご覧になっている16章にはサライの問題を解決されたことが記されてあります。神様は、アブラムの子孫を星の数のようになさると約束されました。年老いたアブラムはそれを信じました。しかし、現実を見ると妻サライにはすぐに実現しそうには思われませんでした。そこで、サライはアイディアを出してひとつの提案をしました。自分には子ができないので、女奴隷のハガルによって夫アブラムの子を得ることです。いわゆる、代理母出産です。このような方法は当時の一般的な風習でもありました。そこで、アブラムもあまり深く考えませんでした。人間的には問題がなかったからです。しかし、それは信仰的な方法ではありませんでした。ハガルが妊娠すると、彼女は高ぶるようになりました。主人であるサライを見下げるようになりました。これでは本末転倒です。妻であるサライの立場がありません。サライは厳しい仕打ちをハガルに向けるようになります。ついにハガルは、サライの顔を避けて逃げ出しました。アブラムは神様の約束の御言葉を信じて義と認められたし、サライもそれを知っていたはずです。ところが、彼らは不安感と焦りに苛まれて人間的、理性的に考えてしまいました。その不信仰から家庭に問題が生じました。夫婦が信仰の中心を守り続けたなら、家庭問題も生じなかったはずです。新約時代のバプテスマのヨハネ「あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と言っています。もし、アブラムとサライがこういう信仰を持っていたなら家庭の危機が来なかったでしょう。ところが、彼らは理性的に考えてあれこれをもって実現しようとした結果、問題が大きくなってしまったのです。ただ、あわれみ深い神様はサライとアブラムの失敗にもかかわらず、その家庭を見捨てませんでした。神様はハガルに現われて家に戻って女主人に仕えること、お腹の子をイシュマエル(「神は聞かれる」の意)と名付けることを告げてくださいました。このような神様の助けによってハガルは勇気を得ました。顔も見たくないと思っていたサライのもとに帰ることができました。それは、奴隷の自分さえも、主はご覧になっているのだと知ったからです。それまでのハガルにとって、神様は、アブラムにしか現れてくださらない遠い存在でした。しかし神様は自分もご覧になっておられました。神様は卑しい女奴隷の自分にさえ語ってくださいました。そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼びました。エル・ロイ」とは「神は私をご覧になっている」という意味です。ハガルはこの事件を通して、霊的な視点が開かれるようになりました。それが「エル・ロイ」です。神様が私をご覧になっているという視点です。私たちには誰も分かってくれるはずがないと思われる悲しみや苦しみに悩む時があります。自分の苦労を誰も認めてくれない時もあります。しかし、神様は私をご覧になっておられます。この時間、一緒に神様に告白してみましょう。「あなたはエル・ロイ」そうです。主は私をご覧になっているのです。私の主はエル・ロイです。 どうか、私たちひとりひとりが天を見上げて神様の世界を見ましょう。そしてこの世界を造られた神様を信じ、神様から与えられた御言葉を信じて生きるように祈ります。

14Genesis12M あなたを多くの国民の父とする

14genesis12m, あなたを多くの国民の父とする, 2014年創世記第12講, 李ヨシュア)あなたを多くの国民の父とする御言葉:創世記17:1〜27要, 節:創世記17:5 「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」 , 今年も桜の季節がやってまいりました。東京でも、パンパンになっていた桜の蕾が、春の暖かい陽気で一気に咲き始めました。江戸時代後期に日本を訪れたイギリスの植物学者ロバートフォーチュン, robert, fortune、1812, 1880, は、綺麗な八重桜を目にして、「どこの国でも春は美しいが、日本の春は格別だ」と書き記したそうです。人は誰でも桜のようにいつも綺麗で美しく生きたいものです。また桜のような華々しい花を咲かせる人生になれば、と願っているはずです。今日の御言葉の個所には、アブラハムとサラに対する神様の願いが記されています。神様は15章8節で彼と契約を結びましたが、17章でも、もう一度神様は契約を結ばれます。この契約によって、アブラハムの人生は大きく変わるだけでなく、彼の人生において節目となる祝福の御言葉を受け取ります。この箇所以降から彼は「多くの国民の父」として相応しい信仰の持ち主として成長しつつ、信仰の父と呼ばれるようになります。まるで多くの人々に愛されている満開の桜のように、彼の信仰は多くの人々に受け継がれ、そして愛されるようになるのです。私たちも神様の御言葉を信じ、多くの国民の父及び母となりますよう、願いつつ、祈って行きましょう。1節をご覧ください。主がアブラハムに現れて再び契約を立てられたのは、アブラムが99歳の時でした。主の約束の子でもないイシュマエルが生まれてから、すでに13年の年月が流れてしまいました。アブラムは「天を見上げ、星を数えることが出来るなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われた主を信じ、義と認められました。それなのに、13年もの間「首を長くして」ずっと待ち続けても、約束の子供はなかなか与えられませんでした。それで彼は、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。」, 詩13:1, 、と心の中で叫んでいたかもしれません。そして、この時はもう諦めてしまっていたはずです。そう思います。でも、そんな時に、神様はアブラムに現われたのです。主である神様は真実な方ですので、決して約束を忘れたり破ったりはしません。主は約束されたものは必ず守る方なのです。その主はアブラムに何と言われたのでしょうか。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」, 。主はご自身を「全能の神である」と言われました。「全能の神」とは、ヘブル語では「エール・シャッダイ」であるが、「シャッダイ」とは「乳房」という意味も持っています, イザヤ60:16, 。つまり主である神様は、全知全能の神であると共に、祝福を注ぎ出す源でもあるのです。この方の前でアブラムはどう生きていくべきでしょうか。主はこう言われます。「わたしの前を歩み、全き者であれ」, と。これは全能の神の前に完全な者、欠点のない者となれ、という意味ではありません。もしそうであるならば不可能です。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです, ローマ3:10, 。ですから、私たちは自分の弱さや罪深さを謙遜に認め、主だけを頼り信仰によって歩んでいくべきなのです。2節では、主は「わたしの契約」と言われます。それはこの契約が主ご自身の計画によるものであることを示しています。しかも神様のほうから手を差し伸べて、不完全な人間と契約を結ばれたのです。この契約は永遠に変わらない契約ですので、いつまでも有効なのです。それでは、なぜ全能の神様はご自分とアブラムとの間に契約を立てられたのでしょうか。ここからはその契約の内容や意味について、考えてみたいと思います。第一に、神様はアブラハムとサラが、「多くの国民の父と母」になることを願っておられるということです, 。5節ご覧ください。神様はアブラムに言われました。「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである」と。ここで「アブラム」は、「アブラハム」と呼ばれるようになります。アブラムは「高められた父」を意味しますが、アブラハムは「多くの国民の父」を意味します。また、15, 16節を見ますと、神様はアブラハムの妻「サライ」の名も「サラ」と変えてくださいます。サライとは「私の女王」という意味があるそうですが、おそらくサライは生まれた時から美しく、他の女性とは異なった気品を感じさせる人だったのかもしれません。65歳になった彼女に対して「見目麗しい女だ」, 12:11, 、「その女は非常に美しい」, 12:14, 、といった人々の言葉がそれを物語っています。しかし、サライがいくら美貌をもつ女性だとしても、いつかは老いて死んでしまいます。そのようなサライを神様は「多くの国民の母」という意味のある「サラ」に改名してくださったのです。名はその人の実体, 人格, を表わすと言われます。古代の中東においては、人の名前には意味があり、家系, 家門, のしきたりに従って名をつけるのが一般的でした。日本では一般庶民が名字を名乗ることを許されたのは1870年頃で、それ以前までは出身地や職業、自然、身体上の特徴などを通称として用いていたそうです。明治以後の法令によって庶民も全員、名字をもたざるを得なくなったので、次々と新しい名字が誕生したといいます。例えば、「一二三 ○・」, ひるみ・まるちょん, とか、「平平 平平」, ひらたいら・へいべい, とか、・・・。現代日本では「響きの良し悪し」で名前をつけるという風潮がありますが、ちなみに昨年の赤ちゃんの名前のランキングトップ3は、男の子が「大翔」, ひろと, 、「蓮」, れん, 、「悠真」, ゆうま, 。女の子が「結菜」, ゆいな, 、「陽菜」, ひな, 、「葵」, あおい, の順だったそうです。私たち自身の名前も、私たちの親の子に対する願いが込められているだろうと思います。では、アブラハムとサラの願いはどんなものだったのでしょう。アブラハムは、イシュマエルの父として、また一家の家長として、そしてサライの場合は子供が産めないこともあり、夫アブラムに愛される一人の女性として、2人とも毎日一家団欒での楽しいひと時を過ごしたいくらいしか思っていなかったのではないでしょうか。しかし、アブラハムとサラに対する神様の願いは違いました。神様は彼らが「多くの国民の父」「多くの国民の母」となることを願っておられたのです。ここに神様の大きな希望があるわけです。自分では変ろうとしても変えることができない自己を、主は完全に変えてくださるのです。主によって寺崎平八郎さんの名が「寺崎アブラハム」に変えられました。名前が変わるということは単に形式的なことではありません。名前が変えられるということは、内容も中身も変化するということであり、生き方も変わるということなのです。ところで、親のつけた名前を、今日からあなたは「アブラハム」と、あなたは「サラ」と呼ばなければならないと言われたら、恐らく“いや、今のままがいいです”という人も多いでしょう。勿論クリスチャンだからといって、クリスチャンネームに変える必要はないと思います。生まれてからずっと親しみを持っていた名前で主の御業に仕えることができれば、それもいいことでしょう。ですから、クリスチャンネームを好み、“はい、そのように呼ばれたいです”と願えることも、神様の恵みではないでしょうか。なぜかというと、神様の願いには全人類の救いの意味合いが込められているからです。神様が私たち一人ひとりを通して、この国に願っておられることは何でしょうか。それは、この国の多くの人々がキリストを信じ、全世界の国民の父と母となることでしょう。きっとそれが主の願われるジビョンであるはずです。先々週はこの教会に2人の方が訪れました。聖也さんと彼の祖母です。主にあって出会い、一緒に礼拝を捧げられたことは、本当に嬉しいことです。聖也さんの家族は敬虔なクリスチャン家族で、多くの人にキリスト教を知ってもらいたいと願って、よくチャリティー活動をしているそうです。彼に対する祖父母や両親の願いが何であるかは、機会があれば直接に聞いてみたいのですが、恐らく自分の孫や子供が信仰の持ち主になってほしい、と祈っていることでしょう。私はサラ宣教師から聖也さんの祖母の信仰の話を聞き、主が百人隊長に言われた御言葉が思い浮かびました。マタイ8章10節です。「・・・わたしはイスラエルのうちの誰にも、このような信仰を見たことがありません。」第二に、神様はアブラハムと関係を持たれることを願っておられるということです, 。主はアブラハム及びその子孫と代々にわたる永遠の契約を結んでから、その契約を守るように言われました, 。それから、主はその契約のしるしとして「あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい」と命じられました, 。「割礼」とは男性の性器の包皮を切り取るということですが、そのような儀式はイスラエル民族だけのものではありません。しかしイスラエルにとって、割礼は「神によって命じられた、神との契約のしるし」でした。「しるし」とは、それを見て主の契約を民が思い起こすためのものであり、また、主ご自身がそれをご覧になってご自身の契約を思い起こすためのものです。後に割礼は形式化し、割礼そのものが特権とされて行きます。しかし、主はこう言われます。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」と, 申30, 。つまり「心の割礼」は、心砕かれて、心から主に信頼するようになることなのです。スイスの哲学者・文学者であるアンリ・フレデリック・アミエル(henri, fr?d?ric, amiel, 、1821, 1881)の『アミエルの日記』にはこういう内容が書いてあります。「心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、人生が変わる」。16世紀のヨーロッパを席巻した宗教改革の精神は「聖書に帰れ」でした。この運動によって多くの人が聖書に帰り、聖書に親しみ、信仰による素晴しい救いを体験するようになりました。パウロはいつものように、当時、初代教会の聖書であった旧約聖書に帰り、神に喜ばれる生きた信仰の原点として、ユダヤ人が誇っていたアブラハムの信仰に注目させます。それは割礼を受ける前に、アブラハムは主を信じ、義と認められた, 創15:6, という御言葉です。「神様と正しい関係に入れられた」という中身を保証するしるしが外側の割礼でした。これによって、アブラハムは割礼を受けていない異邦人と割礼を受けたユダヤ人の両者にとって、すべて信じる者の「信仰の父」となったのです, ローマ4:11, 。第三に、神様はアブラハムが信仰を持ち続けることを願っておられるということです, 。15, 16節をご覧ください。主はアブラハムの妻サライの名もサラに変えてくださいました。それはアブラハムだけではなく、妻サラも共に祝福に預かるためでした。いくらアブラハムに強い信仰があっても、妻サラが不信仰に陥って足を引っ張るなら、主の御業はすべて水の泡になってしまいます。ですから、救いの御業に何よりも大切なものは、夫婦が一心になって祈り、協力し合うことです。16節をご覧ください。女性の方に読んでいただきましょう。「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」と。主は一年後に「サラによって」、一人の男の子が生まれるとはっきりと言われたのです。その子の名は「イサク」です。しかし、彼はその神様の約束のことばを信じることができませんでした。彼は笑い、心の中で「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」, と言いました。日本ではプロテスタント宣教開始から150年が過ぎた今でも、クリスチャンは全人口の1パーセントに満たないほど少数です。いくら伝道しても、何も手ごたえがないように思えることもしばしばです。しかし、アブラハムとサラも初めから信仰の持ち主になったわけではありません。ローマ人への手紙4章やヘブル人への手紙11章には、アブラハムの信仰がクリスチャンの鏡のように賞賛されていますが、この箇所を見ますと、アブラハムの信仰は、からし種一粒ほどの小さな信仰でした。私たちのように弱く不信仰な性質をもった人間でした。ところが、神様と交わっていくうちに、アブラハムとサラの信仰は強くなり、「多くの国民の父と母」となったのです。来月6日には福岡開拓礼拝が行われます。今日の礼拝には、竹下さんが参加するそうです。直美牧者は住み慣れていた東京から離れ、主の約束された福岡で新しい生活を始めたばかりですが、その彼女に主はこう言われます。「わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」と。ハレルヤ!今年はイサクのような人が彼女から出て来られますように祈ります。またヨセフ宣教師に毎週力強いメッセージが与えられますように祈りましょう。最後に、皆様に一つの詩を紹介します。この詩には、直美牧者とブリスガ牧者に対する主の願いが含まれてあります。題目は「すごいのじゃ、あの方は」です。「・・・?.あの方は、おっしゃる。あなたは国々の母、あなたのふところには東京がある。日本がある。世界がある。/私はあなたの祈りがほしい。あなたのあたたかい心と涙がほしい。あなたの望みになりたい。/そして二人で手をつないでやりましょう。あなたのふところにある命を咲かせましょう。私の言葉は命を育むもとになるから、とおっしゃる。/あの方の望みを前にして、私の心はウキウキ、ときめいている。私は国々の母になれるのだ。私のふところにある命が見えて来る。子孫たちが近づいて来る。/これから後、どの時代の人々も私を幸せ者だと思うでしょう。/すごいのじゃ、あの方の望みは。」, 李リベカ

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14Easter1M 父よ、彼らをお赦しください

14easter1m 父よ、彼らをお赦しください, 2014年イースター修養会第1講, 金サムエル,  4月19日, 15:30父よ、彼らをお赦しください御言葉:ルカの福音書23, 53要 節:ルカの福音書23, 34、43節23, そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。23, イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」今日から明日までイースター修養会を設けて下さった神様に感謝します。先程第1講でイエス様が十字架にかかって死んだ出来事を学びました。明日はよみがえりであり、命であるイエス様について学びます。イースターはイエス様が十字架で死なれ、三日後に復活した事を記念する日です。今回の修養会を通して「イエス様の十字架と復活」が私達にも力強く働き、日常生活にも生かされますように祈ります。1.お赦し下さい。今日の御言葉では色々な人が出ます。先ずクレネ人シモン、犯罪人の二人、ローマ軍人、百人隊長、ヨセフ、女たちです。その中で中心はイエス様です。それぞれの立場になって感情や振る舞いを自分と照らし合わせて考えてみましょう。そうするともっと恵みを受けるようになると思います。イエス様は12弟子の一人であるユダの裏切りによって逮捕されました。23章の前半部を見ると、イエス様はピラートの1次審問, とヘロデ審問, 12節, を受けました。最後にピラートの2次審問後には、十字架の死刑が言い渡されました(13−25)。この十字架刑は人類歴史上最も残酷な刑罰でした。本来ユダヤ人の処刑法ではなく、ペルシア、ギリシャ、ローマで行った刑罰です。反逆者、殺人犯、強盗などの重罪人が受けていました。あまりにも酷い刑罰なので自国民には無く奴隷や植民地の人に限られていました。この十字架刑の死刑囚は自分の十字架を背負って、十字架が立てる所までは運ばなければなりませんでした。イエス様もあの十字架を背負って行かれました。ところが前日の夜、3回の長い審問で力切っていました。もはや十字架を運べなくなりました。そこで、ローマ兵士達は田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえました。そして彼にイエス様の十字架を負わせました。結局シモンは無理矢理にイエス様の十字架を背負って行きました。これはシモンにとって中々理解しがたい十字架でした。しかし、結果的にみるとシモンは幸せな人だと思います。必ず誰かイエス様の十字架を代わりに背負って行かなければならない場合があります。その時、シモンのようにする事は易しくないでしょう。わけも知らずに十字架を背負うとする時は色々な心配事を考えます。何故私が、運が悪いなと背負う前から計算します。理由が分かっても重い十字架は出来るだけ避けたいと思います。私がしなくてもだれが背負ってくれるだろうと思います。しかし、シモンは違いました。彼は勇気を絞って自ら進んで十字架を背負いました。丘まで運ぶのは大変です。肉体的にも疲れます。周りの視線も気になります。しかし、終わった時は背負った人しか経験出来ない、充実感など、学ぶ事が沢山あります。何よりもシモンは人類救いのイエス様の偉大な御業に尊く用いられました。無理矢理に十字架を背負ったとしてもイエス様がなさる救いの御業に用いられる事はこの上もない栄光であり、恵みです。シモンも後にその十字架の意味が分かって救われました。教会史を見ると、彼の家族も救われてますます福音の御業に励むようになりました。私達もシモンのような人になれるように祈ります。私は、しばしば鄭ダニエル宣教師は本当にシモンのような人だなと思います。大学生から小学生まで幅広い4人の子供を育てます。若い高校生の面倒を見る一番大変な地位の学校の教頭です。それだけでもストレスが沢山あります。肉体的にも精神的にも疲れるでしょう。しかし、いつも笑顔です。何よりも教会の牧師として毎週のメッセージを準備して伝えます。教会の行事もリードして行きます。簡単に見えても簡単ではありません。しかし、無理やりでもイエス様の十字架の栄光と恵みを体験しているからこそ、いつも笑顔でいられていることでしょう。無理矢理でも十字架を負っている人はその栄光と恵み、満足感と喜びを経験しているのです。シモンがイエス様の後ろから十字架を運んでいく時です。大勢の民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女達の群れもイエス様の後について行きました。彼らの中にはイエス様から恵みを受けた人がいました。自分の病気を癒してもらった人も、娘の病気を癒してもらった偉い人達もいました。彼らが十字架を背負って行かれるイエス様の姿を見るのはとても悲しいことでした。十字架で死んでしまうイエス様を考えると悲しむのは同然でしょう。そんな彼女達にイエス様は言いました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからです。イエス様は現在ご自分が受けている十字架の苦しみより、エルサレム滅亡のことを心配していました。その時、あまりにもひどい災難のために子どもを生んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだと言うほどになるからです。でも、彼らはイエス様を十字架につけて殺す罪の結果は考えませんでした。彼らはイエス様からエルサレムの滅亡を言われてもイエス様と犯罪人を十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左にし、イエス様を中央にある十字架につけました。そのとき、イエス様はこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」「父よ、彼らをおゆるしください」――その彼らの中に、ローマの兵士もユダもペテロも、そして私達も含まれています。何をしているのか分からないで罪の闇に足を取られる私達です。羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私達です。イエス様は、そんな私達の罪を背負いながら、その赦しを神様に祈られました。この祈りは私達の為です。イエス様はご自分を殺そうとしている人々の為に、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。以前イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と弟子たちに教えました。イエス様は、今、十字架の上で、その通りに実行しています。敵を愛し、敵を赦しなさい。本当に相手を理解し、赦すべきことは赦し、愛するということは本当に難しい事です。自分が相手に与えたかも知れない傷は大抵の場合、覚えていません。いや、そのことに気付いてさえいません。しかし、自分が受けた傷は中々忘れません。ましてや赦すことは中々出来ないでしょう。ところが、イエス様はご自分の愛を踏みにじり、命までも奪おうとする人々の為に、執り成しの祈りを捧げられました。ここに、イエス様の愛、神様の愛があります。罪ある者、罪に生まれたあるがままの人間性では、決して存在することのない神様の愛があります。このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちは罪赦され、救いに与かる恵みを受けた者になりました。そして、神様の愛を知る者とされました。このお方に賛美を捧げましょう。そして、私達も人を赦して愛する生活が出来るように祈ります。やがてこのイエス様の遺言はクリスチャン達も見習って受け継がれました。人を許す時こそ、自分の心に平安が持たされます。相手を許す時、相手を為に死ぬことが出来ます。イエス様とともに十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエス様に悪口を言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。ところが、もう一人のほうが答えて、彼をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。, われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして彼は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。一人はイエス様に悪口を言いましたが、もう一人のほうはイエス様の祈りに受け入れました。彼は自分が罪人であることを認め、告白しました。すると、イエス様は、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ここを見ると、神様の救いは死刑囚という身分とは関係がない事が分かります。死ぬ直前にしても神様の救いを受け入れれば、遅くありません。むしろ遅いと悟った時が一番早いのです。ただ、いつまでは後回してしまうと救われるチャンスを失ってしまいます。イエス様の御言葉を聞いた時に信じて受け入れることが大切です。私たちが救われる時はいつでしょうか。今でしょう。難しいものは後でやればいいでしょうと十字架を避けますが、そうなるといつになっても終わらなくなります。その方は何の成果もありません。発展も成長もありません。今信じて今チャレンジすることが大切です。クレネ人シモンも後回ししないでイエス様の十字架を背負いました。イエス様と一緒に十字架につけられた死刑囚は遅かったけれどもイエス様の赦しの祈りを聞いてその場で信じました。私はこの死刑囚からも勇気を学びます。自分の弱さ、罪深さの為にためらうのではなく、イエス様を信じて信仰告白する事が大切です。その信仰によって救われます。私は35歳になって就職活動をしました。今の会社から営業技術の人を探す案内を見た時、本当に迷いました。私は日本人ではないので、日本の方に品物を売れるか。余り人の前で話すのが得意でもない、色々心配がありました。しかし、勇気を絞って、日本で生活する為に、家族を養う為にやりますと祈りました。そうしたら、無試験で今の会社に採用されてもう10年も働いています。今は一人でお客様に行って説明し、納品にも行きます。昨年度は営業売り上げが2倍になりました。神様が色々助けて下さいます。自分は弱いし、足りない者です。神様から与えられる御言葉を信じるとき、4年間貧血で大変でしたが、今年は正常値に戻りました。病気も安定になりました。イエス様が十字架にかかって赦しの祈りを捧げました。死なれることによって私の罪を贖い、癒して下さったからです。イザヤ53章4、5節を見ると、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。そのとおりにイエス様は私の病を負い、私の痛みを担って下さいました。イエス様の打ち傷によって私は癒されたのです。このようにイエス様の十字架には赦しがあり、癒しがあります。私の罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれたイエス様の十字架を信じる人に赦しと癒しを下さることを心から感謝します。若し、告白した死刑者の心が私に無かったなら、今の私はありません。ただ、信じたとき、不思議なイエス様の十字架による赦しと癒しの力が私のうちに働きます。この十字架の恵みを心から感謝します。2.今日パラダイスにいます。犯罪者の1人が死ぬ前、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。すると、イエス様は彼に言いました。誠に、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。この短い対話の中に大きな恵みがあります。人は本当に死ぬ時、二つのパータンになることです。一つのパータンは何の祝福もなく肉体的に死ぬことだけです。しかし、死刑の一人のようにイエス様に信仰の告白した人は霊的に祝福されます。信仰の告白をした死刑者は肉体的に死んでも、彼は霊的に永遠に生きることです。彼は罪を犯しましたが、どうか私の思い出して下さいと言いました。これが彼の素直な気持ちでした。そんな彼にイエス様は最高の祝福の言葉を言いました。あなたは今日私と共にパラダイスにいます。そうです。私たちは信じたその時からパラダイスにいる事になります。イエス様は過去や未来の事ではなく、今信仰の告白をして欲しいと言います。今、信仰の告白をしないと行けません。今、信仰の告白をするとイエス様と共にパラダイスにいる事になります。私達も死刑者のように信仰の告白をして見ましょう。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」死刑者が最後の信仰の告白をした時はすでに12時頃になっていました。その時、全地が暗くなって、三時まで続きました。, 太陽は光を失っていました。神殿の幕は真二つに裂けました。イエス様は大声で叫びました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」いいました。そして息を引き取られました。イエス様は十字架で肉体的な生命を切られ死なれました。イエス様は33歳とう若さで肉体的な生を終えました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえました。「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言いました。イエス様の知人たちと、ガリラヤからイエス様について来ていた女達とはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていました。ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな正しい人がいました。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいました。彼が、ピラートのところに行って、イエスの体の下げ渡しを願っていました。それから、イエス様を取り降ろして、亜麻布で包みました。そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めていました。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていました。, ガリラヤからイエスと一緒に出て来た女たちは、ヨセフについて行って墓とイエスのからだの納められる様子を見届けていました。そして、戻って来て香料と香油を用意しました。安息日には、戒めに従って休んでいました。これでイエス様は完全に地上での御業は終わりになります。イエス様が十字架につけられた時刻が午前9時です。完全に命を絶った時刻が午後3時になります。6時間十字架で全ての苦痛を耐えました。誰の為でしょうか。それは私達の為です。アダムが犯した罪で人間が永遠に罪から束縛して死んでしまう定めを無くすためです。多くの人がこのイエス様の大きな愛を知らなくて苦しんでしまう人が沢山います。パラダイスに導くイエス様を信じましょう。私も今年「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」を信じて一年を過ごしたいと祈っています。特に今年から会社で自分の担当商品の責任者になり、予算達成が出来るか心配ばかりしていました。いつも恥かしく思っている重奏団の賛美も恵みで力強く歌いたいと祈っています。この教会も愛に満ち溢れる、皆が平安に過ごせる1年になりますように祈ります。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。

14Genesis01M 神が天と地を創造した

14genesis01m, 神が天と地を創造した, 2014年創世記第1講神が天と地を創造した。御言葉:創世記1, 1−25要 節:創世記1, 1「初めに、神が天と地を創造した。」 先週、私たちは新年修養会を通して豊かな恵みを受けました。定期小会を通して去年のみわざの決算をし、今年の計画も立てました。去年も私たちが頼っていた御言葉の通りに「神の力の働き」を体験できたことを感謝します。そして新年も修養会を通して御言葉を深く受け入れることができたことを感謝します。御言葉に従って時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えることができるように祈ります。 今週からは創世記の御言葉を学びます。「創世記」とは原語のヘブル語では「ベレシート」です。創世記の最初の言葉がそのままタイトルになっています。「初めに」という意味です。ギリシャ語では「genesis」と翻訳されました。英語の聖書ではギリシャ語のままタイトルとして使っています。それで英語では創世記がgenesisになっています。この創世記に現在私たちの周りに存在する全ての始まり(ルーツ)が記録されています。そこで、私たちは人類の始まり、罪の始まり、福音の始まり、救いの始まり、文化と言語の始まり、民族の始まりなどについて学ぶことができます。つまり、自分とかかわるすべてのルーツを知ることができます。それによって今の自分の存在を知ることでもあります。また、どのように生きて行くべきかと言う人生の目的も知ることができます。すると、私たちは癒されたり、生かされたりします。たとえば、私たちは仕事で失敗したり、人間関係で悩んだりして、自分なんかどうでもいい存在なのだ、と思う時があるでしょう。スランプの時、落ち込んでいるときがあるのです。そういう時に自分のルーツを知ると、なんともいえない有難い気持ちになります。自分のおじいちゃん、おばあちゃん、自分の両親とつないできてもらった命がいま自分の中にあると思うようになります。すると、そう思うだけで自分はどうでもいい存在ではなく、ご先祖さまに生かされている大切な存在なのだ、と思えるようになります。何よりも私たちクリスチャンは「私の創造者であられる神様に生かされている大切な存在なんだ」と思えるようになります。それによって落ち込んでいた心が癒され、元気づけられて強くたくましく生きられるようになるのです。その上、私を造られた方は、どんなに大きな偉大な方なのかを知れば知るほど心強く、偉大な人生を生きるようになります。そういう意味で、私たちが創世記を通して私たちの周りに存在するすべてのルーツを知り、そのすべてを始められた神様を学ぶことはとても大切であると思います。どうか、私たちが創世記の御言葉を通して自分のルーツ、自分の原点を知り、その始まりを始められた神様はどんな方を深く学ぶことができるように祈ります。1節をご一緒に読んでみましょう。「初めに、神が天と地を創造した。」この御言葉は驚くべき宣言です。ここには何の説明も、弁明も、論理の展開も、説得もありません。初めに神様が天と地を創造したことはあまりにも確実な真理だからです。「初めに、神が天と地を創造した」という事実は、人間の力で説明できるような領域ではありません。たとえば、ここにあるピアノを作った人はそれをいつ、どのように造ったかを説明することができます。でも、造られているピアノは自分がいつ、どのように作られたかを説明することはできないでしょう。私は私の両親を両親として知っていたし、自分が52年前生まれたことも知っています。それは誰かが科学的に、論理的に説明してくれたからではありません。ただ、両親を信じることによって自分のルーツ、自分の存在について知っているのです。同様に、私たちは信仰によってのみ、神様が天と地を創造したことが分かります。それでヘブル人への手紙の著者は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と言っています。私たちは「初めに、神が天と地を創造した。」という宣言を信じる信仰によって神様の創造を悟るのです。それによって聖書全体に対する霊的な目も開かれます。「神が天と地を創造した。」何と厳粛で神秘なひびきの言葉でしょうか。人類歴史上、最も多くの人々に愛読された一文であるでしょう。私たちも毎週使徒信条を通して「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しています。「神が天と地を創造した。」という事実が分かった時、数え切れない人々が高潔な人に造り替えられました。落ち込んでいる人々は慰められ、励まされ、光を照らされました。若い日に創造者を覚えた人は希望と将来が与えられました。創造者の神様を信じることによって聖書に記された多くの奇蹟も信じて体験することができました。神様が紅海を渡らせることも、岩から水を出させることも、死んだ人を生き返らせることも知り、信じて体験することができました。どうか、神様が私たち一人一人に創世記1章1節に関する確信を与えてくださるように祈ります。ローマ9, 21節を見ると「しかし、人よ。神に逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。」とあります。私たち人間はなかなか神様の主権的な働きを素直に受け入れようとしません。神様に逆らって不満を抱き、つぶやいたり、反発したりします。しかし、この世界は神様が主権的に造られた神様のものなのです。形造られた者が形造った者に対して文句を言えません。それは陶器師が陶器を作ることに例えることができるでしょう。陶器師には、同じ土のかたまりから尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っています。そのように私たちのすべてのもの、人生そのものに対して権利を持っている方は私たちを造られた神様なのです。したがって、私たちはすべてのことにおいて神様の主権を認めて神様に感謝し、神様を礼拝する生活をしなければなりました。そうする時こそ、神様からもっとすばらしい祝福をいただくことができます。私たちが素直に天と地を創造した神様を信じるなら大きな偉大な神様の力と栄光が私たちの生活の中にも現わされます。黙示録4, 11節を見ると「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」とあります。ここで「自分の冠」とは自分が受ける栄光ある報い、自分のプライドや功績などを意味します。それらを御座の前に投げ出してしまうほどに二十四の長老は神様を信じきっていました。そういう信仰を通して自分の生活に現われる神様の栄光と誉れと力を感じ、知ることもできて神様を賛美しているのです。私たちも信仰によってすべてのことを神様に頼り、日々新しく生まれさせる創造の力を体験して行きますように祈ります。では初めに神様が天と地を創造した時の地球はどういう状態でしたか。 2節をご覧ください。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。地は茫漠として何もありませんでした。人が住める場所ではりませんでした。この後、神様は最初の3日間で、この宇宙に秩序を造り、形を造って行かれます。この状態は先ほど話した陶器師が素晴らしい陶器を作ろうと準備している状態です。粘土の塊をとって、それをロクロの上に置いた状態です。神様が天と地を創造した時の地球はロクロの上に置かれた粘土の塊のような状態だったのです。ところが、神の霊、聖霊が地球の上を動いていました。現代語訳によると「神の霊が水の表面をおおっていた。」とあります。そして、「おおう」という言葉はヘブル語ではニワトリが翼をひろげて、卵をおおい、愛育しているという意味を持っています。つまり、, ニワトリが翼をひろげて卵を覆って孵化するようなことです。神の霊はまるでひよこが出て来るまで卵を覆っているニワトリのように、この地上を温かい愛によって覆っていました。それからいろいろ造り始められます。3節をご覧下さい。「, 神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とあります。神様が「光があれ」と仰せられると、光がありました。この光は太陽の光ではありません。太陽はまだ現われず、月も星もまだ現われない前のことです。永遠の暗黒を破る神様の荘厳, そうごん, な言葉によって地球に光の世界が始まりました。神様は創造の第一日に光を造って、新しく生まれようとしている天地を祝福されたのです。 第二日目の働きは、大空を造ることでした。これは宇宙と、無数の星を意味します。また地球を地球たらしめる物質の「水」を創造されました。第三日目の働きは、天の下の水を集めて海を造り、乾いたところを陸とされたことです。また様々な植物も、種類にしたがって創造されました。第四日目に、太陽と月と星を創造されたことが記されています。これは、地球の自転と公転が始まったことでしょう。また地球を太陽の光がより強く差し込むようになった状態を表わしているのでしょう。第五日には、空の鳥と海の生きものを造られました。神様は光合成によって酸素がどんどん増えて動物の住める環境を造ってから空には多数の鳥、海には無数の魚が生きるようにしてくださいました。また、これも種類にしたがって創造されました。そして第六日には、地上に色々な動物が種類にしたがって造られたのです。そして、人間もこのとき創られました。人間創造に関しては来週学ぶことになります。以上で六日間の創造の御業を学びました。この神様の創造のみわざから四つのことを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。第一に「夕があり、朝があった, 5、8、13、18、23、31, 」ということです。神様が六日間を創造された間、毎日、「夕があり、朝があった」と記されています。一般的に、私たちが一日を言うとき、朝起きてから夜眠るまでを言います。朝が新しい一日の始まりなのです。この間、静岡に行った時、ラジオ体操に参加しましたが「新しい朝が来た, 希望の朝だ喜びに胸を開け・・・」と歌も流れました。本当に朝は、さわやかで、朝日はとても心地よいものです。一方、夕方はどうでしょう。一日の終わりが近づいて来ているイメージです。私たちの人生にも朝のように出発しますが、夕方のようにだんだん暗くなっていくものです。ところが、創世記は、「朝があり、夕があった」ではなく、「夕があり、朝があった」と記しています。これはどういうことを示唆しているでしょうか。, 「夕があり、朝があった」と記されていることには意味があると思われます。私はここに、聖書の真理、希望のメッセージがあると思います。「十字架の夕方がありますが、復活の朝がある」ということです。創造主の神様を信じる人の人生は夕があり、夜が来て終わるのではありません。復活の朝があります。詩篇30篇5節には「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。私たちの人生には、夕暮れに涙するそんな一日もあります。いつもさわやかでいたいと思っても、そうはなかなかいきません。疲れも出てくるし、辛いこともあります。寺崎アブラハム牧者はアジア支部長修養会に招かれたことを大変喜んでいました。ところが、会社で休暇を取ることができなかったことを聞きました。そのことを伝えるアブラハム牧者の目は涙が出そうになっていたと聞きました。このように、目の前が真っ暗になるときもあります。しかし、私たたちの人生は夜で終わるのではありません。夕があり朝があるのです。涙のあとには、喜びがあります。もちろん、新しい朝、希望の朝が続くのではありません。また夕方になる時が来ます。私たちに喜びだけでなく、苦しみや涙の時もあるのです。しかし、神様が夕があり朝があることを通して、私たちが常に希望を持って生きることを望んでおられると思われるのです。今、疲れていても、ちょっと辛くてもそれが永遠に続くのではありません。さわやかな朝が来るのです。そして人生の最後を迎える夕があり、この世を離れて行くと永遠に輝く朝になります。永遠に新鮮で明るい朝です。そこで主は私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ですから、私たちは常に希望を持って生きることができます。第二に神様は「種類にしたがって造られた。」ということです, 11、12、21,24、25, 。聖書に「おのおのその種類にしたがって」という言葉が何度も繰り返されています。, 種類にしたがって、動物植物がつくられているのです。学校では進化論を教えています。でも、その進化論は仮説です。たとえば、進化論では、魚類から両生類、次にハ虫類、そして鳥や哺乳類に進化したと主張します。しかし、化石をどれだけ調べても進化の途中にあたる生物は、一切発見されません。突然変異で進化するという説もありました。しかし、遺伝学が進んで、突然変異は次の世代に遺伝されないことがわかりました。また、生命が生まれるために必要なタンパク質が自然発生するためには、偶然が何億回も重ならなければなりません。万が一奇跡的にタンパク質ができたとしても、それが単細胞生物になる確立も微小です。たんぱく質ができる確立も単細胞生物になる確立も無視して、6千億年前の単細胞が、人類の体の1兆個の細胞に進化したとすれば、6千億年は219兆日ですから、219日に一回ずつ進化しないと人類に進化できません。そんな激しい進化がなされるなら、現代の生物も一年に一回は進化してないとおかしいことになります。 また人類は猿から進化した、あるいは猿と共通の祖先から進化したという仮説があります。ネアンデルタール人とかクロマニヨン人とかの骨の化石が発見され、猿から人間に進化する途中の猿人の化石だと言われてきました。しかし、現代の科学でその化石の遺伝子を調べると、それらの猿人の化石といわれてきたものは、猿と人間の骨が混じったものだったり、絶滅した大型の猿の骨だったりすることがわかりました。猿から人間に進化する途中ではないことがわかりました。皆さんが学校で学だ進化論は、絶対に正しい真理ではなく、一つの仮説なのです。犬と猫のあいのこはできません。チワワとセントバーナードならできます。種類が同じ犬だからです。ということは、他の種類に進化する生物進化はありえないのです。 神様がおのおの種類に従って造られたからです。真理は、それぞれの種頻にしたがって植物や動物が造られたのです。すべての生物は種類別に存在意味があるのです。第三に御言葉の力です, 24; 7, 。1章を見ると「神は・・・仰せになった。」という御言葉と「するとそのようになった。」という御言葉が繰り返されています。これは神様が御言葉によってすべてを創造されたことを教えてくれます。見えるものも、見えないものも神様の御言葉によって創造された被造物です。神様の御言葉と関係が無いものは何もありません。神様が仰せられると万物が創造されました。神様が仰せられると、万物の位置が定まり、秩序が立てられました。私たちは神様の被造物です。神様の被造物として最も大切なことは神様の御言葉に耳を傾け、聴き従うことです。神様の御言葉を聞くときに自分の位置が把握され、自分の道が見えます。私の所有者が神様であることを忘れずに神様の御言葉の力を体験して行くことができます。神様の御言葉には無から有を創造する創造の権能があります。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。この世のもので人を根本的に変えることはできません。しかし、神様の御言葉はどんな人でも変えることができます。むなしく、つまらない人生を生きている人でも根本的に変化させて意味あり価値ある人生に変える力があるのです。どうか、私たちが御言葉を聞いて御言葉にとどまることに励みましょう。そして御お言葉を宣べ伝えましょう。私たちが足りなくても、今の時が悪くても御言葉を宣べ伝えると、御言葉が一人一人のうちに働きます。御言葉を聞き、読むことだけでも私たちのうちに新しい創造の働きが始まります。再創造の働きが起こり、新しい人に変えられるのです。第四に神様が造られたものを見てよしとされたことです(10、12、18、21、25)。つまり、神様のなさることはすべてが最善であるということです。, 神様はご自分が創造されたすべてのものを見て良しとされたのです。神様が創造された時点で、この世界は人間もあわせて最善なものだったのです。神様は一番いいことしかされません。みなさんにも何とかして一番いいことをしてあげようとしておられるのです。しかし、人間の側がそれを受け取らなかったり、台無しにしたりしているのです。どうか、素直に、神様は「初めに、神は天と地を創造した。」という事実を信じてください。去年最後の礼拝の時に神様は私たちに言われました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。私たちが天地万物を創造された神様を覚えて信じましょう。創造者の神様を信じる時、私たちの人生の基礎は堅くなり、秩序が立てられます。この神様を信じる時、今の生活の中でも創造の力を体験し、平安と喜びと愛に満ちた人生を送ることができます。何よりも御言葉を信じて御言葉によって動かされ、御言葉によって新しく変えられて行きますように祈ります。

14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

14Genesis 5M神様の哀れみと祝福

14genesis, 5m神様の哀れみと祝福, 2014年創世記第5講 神様の哀れみと祝福御言葉:創世記4:1〜5:32要, 節:創世記4:25, 26「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」先週、私たちは人間が神様の愛を拒み、罪を犯してしまったにもかかわらず、その人間を捜し求め、救いの道を約束してくださった神様の愛を学びました。神様はその愛のゆえにアダムの子孫皆が救われることを望んでおられます。ところがアダムの二人の子どもは二つの道に分かれて行きました。彼らはどのような道を歩んで行ったでしょうか。皆さんと共にカインの道、アベルの道について学びたいと思います。そして「私たちは、はたしてどちらの道を歩み続けているのか」を考え、自分を省みてみることができるように祈ります。その中で、神様は私たちに望んでおられる道を知り、神様の御前で信仰の決断ができるように祈ります。?.カインとアベル, 1節をご覧ください。「人は、その妻を知った。彼女はみごもってカインを、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。」とあります。アダムとエバに最初の子が与えられました。アダム夫妻の喜びはどんなに大きかったでしょうか。エバは「私は、主によってひとりの男子を得た。」と告白しています。それからまたエバは弟アベルを産みました。子宝と言いますが、子どもたちに恵まれるのは幸せです。兄弟が互いに助け合い、愛し合う時、それを見ている親はとても幸せになります。先週、私の長女は誕生に兄から「誕生日おめでとう」という一行のメールが届いたことだけでも非常に喜んでいました。妹からの手紙を読む時は顔が赤くなるほど嬉しがっていました。そんな姿を見るだけでも私は幸せを感じました。おそらく、カインとアベルも仲良し兄弟だったでしょう。ところが、親から独立して大人になり、それぞれの職業を持つと、お互いに助け合い、協力し合う協力関係は崩れてしまいました。兄のカインは農業を営む者となりました。弟のアベルは羊の群れを飼う者となりました。そして、ある時期になると、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から持って来ました。アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はこのアベルとそのささげ物とに目を留められました。しかし、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。それに対するカインの反応はどうですか。「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。このカインの気持ちはわかるでしょう。私も長男のひとりとして彼の気持ちが理解できます。弟のアベルが神様に顧みられ、長男である自分は完全に無視されてしまったと思うと気持ち良くないでしょう。後から来て、自分よりも劣っていると思う者がちやほやされ、早くから来てずっと苦労してきた自分が認められないと思われる時、皆さんはどうしますか。大抵の人は、それに耐えられず、嫉妬や憎しみの情を募らせて行きます。ところで、聖書には意外にも、後から来た者が先にいる者を追い越す例がたくさんあります。創世記を通してみると神様は長男より次男が好きなのかなあと思われます。イシュマエルとイサク、エサウとヤコブもそうです。ヤコブがヨセフの子どもを祝福する時も、長男のマナセではなく、弟エフライムを祝福するのです。後に、イスラエル民族が出エジプトをする時、神様はエジプトの初子をことごとく撃ちます。長男ばかりが死ぬのです。ですから、カインのような人は神様を非難します。なんとかして神様の不条理を発見して怒り、自分の正当性を主張しようとします。カインだけではなく、世間一般の人も、自分なりの価値観を持ち、人々も自分の価値観で自分を判断してくれることを願います。たとえば、うちの学校では父兄が先生を評価しますが、自分が低く評価されると、それは父兄の価値観が間違っているからだと考える人もいます。何でもかんでも人のせいにします。神様に対してもそうです。自分なりに「長男が先に生まれたから自分より優先でなければならない。次男のものは受け入れられたのに、長男のものが受け入れられないようなことがあってはいけない。」と言うような自分の考え方を神様にも要求するのです。しかし、ささげ物を受け入れるかどうかは神様の判断基準に従わなければなりません。それは神様の一方的なあわれみの自由です。新約聖書を見ると、世間では無視されている放蕩息子や収税人や異邦人が神様には招かれています。ぶどう園に朝から来て働いた人にも、夕方5時に来てたった一時間しか働かなかった労働者にも同じ1デナリオンの賃金が払われています。神様はご自分の計画と哀れみの自由によって哀れむべき者を哀れまれ、受け入れるべき者を受け入れてくださるのです。だから私たち人間は、その良し悪しを言う立場にはないのです。どうして神様がそうなさったかと言うのではなく、神様がなさったから正しいのです。ところが、カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。自分の思いとは違っていたからです。このように自分を中心に思うその思いにサタンが働きます。感謝するところに聖霊の働きがありますが、自分の思いから不平不満を抱き、つぶやく人の心の中にはサタンが働くのです。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になってしまいました。8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。ここに、自分の思いが100%正しいとしたため、自分の弟さえ殺してしまったひとりの人間が描かれています。そしてこの姿は、まさにカインからの遺伝子を受け続けている人間、私たちひとりひとりの姿でもあります。自分の思いだけが正しいと主張し続ける人は多くの人々を傷つけ、殺して行きます。謙遜に神様の御声に耳を傾けず、悔い改めなければカインのように、人を殺すことまでもしてしまうのが人間なのです。惨めな人間の姿です。ところが、それでも神様は人間を捨ててしまわれませんでした。主は再びカインとお会いになりました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。神様はもちろん、カインが殺人の罪を犯したことを知っておられました。ですから、この質問は、決してカインを尋問するためのものではありません。神様は彼の父にアダムが罪を犯した時も同じような語りかけをしておられます。「あなたは、どこにいるのか。」という言葉です。その時のように、神様はカインに悔い改めの機会を与えたのです。本来なら二人はかけがえのない絆で結ばれた兄弟です。切っても切れない血の繋がりがあります。互いに愛し合う務めがありました。だから神様はわざと「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問いかけられたのです。ところが、カインのことは全く期待はずれでした。彼は「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えています。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。家と土地を捨て、慣れ親しんだ故郷を離れ、さすらいの人となります。15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ、本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3, 9)。?.新しいアダムの子孫セツとアベル(4, 32) 16, 24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2, 24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。このようなカインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、いつも神様には希望があります。私たち人間に対する神様の哀れみと祝福が消えませんでした。25、26節をご一緒に読んでみましょう。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」あわれみ深い神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。その結果、アダムの子孫の中からもカインだけではなくアベルの子孫として神様と共に歩む人、主の御心にかなった人々が現われてきます。ではまず神様と共に歩んだ人は誰でしょうか。5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22, 24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」21節を見ると、エノクは65年生きて、メトシェラを生んでいます。彼が生まれてからメトシェラを生むまで65年間はどのように生きていたでしょうか。私はよく分かりません。ただ、彼にカインの遺伝子はなかったとしても神様に罪を犯したアダムからの遺伝子は繋がっていたはずです。生まれながら完璧な人ではなかったのです。アダムが自分の犯罪をエバのせいにしたように、何でもかんでも人のせいにする、人間同士が憎み合うという原罪から離れていなかったと思われるのです。しかし、彼はメトシェラを生んだ時、信仰の決断をしたようです。アベルのように神様に最上のものを持って行く感謝の生活、セツの子どもが生まれた時から始まった祈りの生活をしようと決断し、神様と共に歩む生活を始めたのです。そして、その決断を300年間も守り通しました。三日坊主ではなく、300年間です。金ヨハネ宣教師は毎年「300日以上教会で夜明けの祈りを捧げる。」ことを祈りの課題にしていますがそれも簡単ではないでしょう。ところが、エノクは300年間神様とともに歩んだのです。そのおかげでしょうか。彼の子どもメトシェラは人類歴上最も長生きした人として彼の一生は969年でありました。彼のひ孫であるノアは神様の御心にかなった人、全き人として神様と共に歩みました。大洪水後は人類の新しい先祖となりました。 以上で、私たちはアダム以後、カインとアベル、アベルの代わりに神様から授けられたセツとセツの子孫の歩みを学びました。皆さんはカインの末裔でしょうか。アベルの末裔でしょうか。カインは自分の行動が認められない時、ひどく怒り、憤っていました。自己中心の人生、不信仰の人生を生きて神様も自分のように評価するだろうと思ったからです。年上が先に認められるべきだと思ったようです。だから、正しく行っていないと神様から指摘されるとそれを受け入れることができませんでした。それは弟のせいだと思って自分の弟を憎しみ、殺してしまいました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけて悔い改める機会を与えましたが、悔い改めませんでした。むしろ、知らないふりをしていました。その結果彼が耕す土地は呪われてしまいました。彼はその土地から追い出され、神様の御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となってしまいました。しかも、弟を殺した彼は殺される不安と恐れの中で生きるしかありませんでした。彼は「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と言っています。神様はご自分の哀れみのゆえに「一つのしるしを下さった」ので生き残りましたが、祝福された人生になりませんでした。しかし、アベルはどうでしたか。神様の御前で謙遜でした。彼が神様にささげ物をささげる時「初子の中から、それも最上のものを持って来た」と言う言葉に彼の心が表れています。彼の心は神様への感謝がいっぱいになっているのです。このことに対してヘブル人への手紙は「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。, 」と解説しています。神様は心をご覧になるお方です。アベルの人生は短かったけれども信仰によって生きたのです。神様は彼の人生を祝福してくださいました。信仰によって生きた彼の人生を受け継がせるセツを授けてくださったのです。そして、彼の子孫から人々は主の御名によって祈ることを始めました。さらに、その子孫の中からエノクが生まれ、彼は神様とともに歩みました。そして、その子孫からノアが生まれ、ノアを通して人類の歴史は新しく始まりました。何よりもその子孫から信仰の先祖アブラハムが生まれ、アブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれました。 したがって私たちは自分の力によって自分中心に生きたカインの末裔ではなく、信仰によって生きたアベルの末裔です。一般的に、人々は自分がカインの末裔だと思っています。自分が本性的に行動し、罪を犯してしまうのはカインの末裔だからしようがないと思います。夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩も当たり前だと思います。しかし、この世にもアベルの末裔がいます。最近、私がインターネットから研修を受けていますが、講師の崔博士はアメリカのカートマン博士が35年間3, 000組以上の夫婦と調べ、追跡してみると夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩もない家庭も多かったと言いました。崔博士自身も両親が夫婦喧嘩するような場面を見たことがなかったと言いました。意外にそういう家庭も多くあるのです。すべては神様から与えられたと信じて神様に最上のものをささげようと思うほどに神様に感謝する人はアベルの末裔として生きていることです。アベルの末裔は自分の思い通りにならないことで不平不満を抱き、つぶやくのではありません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい, 箴言3, 」と信じてすべてのことにおいて神様に感謝し、祈る人です。神様と交わりながら神様とともに歩む人です。祝福そのものだった信仰の先祖アブラハムのように祝福された人生を生きて行く人です。どうか、私たちがアベルの末裔である自覚を持って信仰によって生きることができるように祈ります。300年間神様と共に歩んだエノクのように信仰の決断をしましょう。今まではどのように生きて来たとしてもこれから神様と共に歩もうと決断すれば、神様に喜ばれるでしょう。共に歩むということは完璧に生きるということではありません。それよりも神様に感謝し、祈りながら神様と交わる生活ができるということです。300年ではなくても、金ヨハネ宣教師のように毎年300日でも信仰の決断をして守って行くことができますように祈ります。

14Genesis2M 人をご自身のかたちとして創造された神様

14genesis2m, 人をご自身のかたちとして創造された神様, 2014年創世記第2講, 張パウロ,                                  人をご自身のかたちとして創造された神様御言葉:創世記, 3要 , 節:創世記, 「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」,  みなさんは東京スカイツリーにのぼったことはありますか。日本が誇る世界で一番高い電波塔!!東京スカイツリーは日本の建築技術の集大成ともいわれている構造物です。人々はその電波塔のスケールと雄大な形に感動します。しかし、これを誰がつくったのかを知る人は意外にも少ないです。東京スカイツリーは、事業主の東武鉄道、設計者の日建設計、施工者の大林組が一体になってつくりあげた傑作品です。日建設計は社内で東京スカイツリーのデザインを決定させるために、社内でコンペを開きました。その中で、いい案を絞って事業主の東武鉄道と何度も打ち合わせをしました。電波が阻害されにくく、地デジ放送の他に、ワンセグやマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにすることが建設目的とされました。この建設目的に沿って、今の場所で今の形の東京スカイツリーになりました。また、高所での風の影響や強い地震などに耐えられるよう関係者が知恵を出し合って丈夫で素晴らしい傑作品が誕生しました。しかし、この世において一番の傑作品は、人です。なぜならば、人は神のご自身の形として創られた、唯一の被造物だからです。これは、人が動物や他の被造物とは違う存在で、神様と特別な関係にあるという証拠です。そして、神様は、人に他の被造物や自然界を支配せよという重要な使命(ミッション)を任されました。私たちが、本文のメッセージを通して、神様にかたどって造られた人としての存在価値と存在目的を学び、神様が喜ばれる生き方ができるように祈ります。26節をご覧ください。“神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」”, 神様が人を造られた時は、他の被造物とは違う点があります。まず、神様が複数形になっており、互いに相談された点です。人は貴重な存在なので、最高に良いかたちとしてつくるために、三位一体である神様、イエス様、聖霊様が相談されました。もう一つの違いは、神様のかたちとして、神様に似せて、私たち人間をつくられた点です。他の被造物は神様が御言葉だけでつくられましたが、私たち人間は、神のかたちをもった特別な存在としてつくられたのです。, それでは、神様のかたちとは、いったいどのようなものでしょうか。神様は、人間と同様な外面的な形をしているのでしょうか。この箇所は、神学者の中でも議論が絶えない難しいところです。しかし、私たちが聖書全体をよく理解すると、神の形というものがどんなものなのか浮かびあがると思います。神のかたちとは目に見える外形よりは神の品性を指しています。それでは、人間は、どんな点で神様のかたちに似ていますか。先ず、人がもっている神様のかたちの一つは、霊です。人は、肉体と理性の意外に霊を持っています。人間は霊的な存在です。ヨハネの福音書4:24節では、“, 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。”と書いてあります。私たちは、霊によって神様に礼拝することができ、祈ることができます。聖霊の感動により、この世が御言葉によってつくられたことが判ります。また、聖霊により自分がアダムの堕落した罪の本性をもっていること、イエス様の十字架の血潮だけが私たちを永遠の滅びから救うことができることも悟るようになります。人間は、この世でどれだけ贅沢で良い生活を送ることが出来ても霊的に満たされないと, 根本的に喜びを感じることはできません。ヨハネの福音書3章を見ると、二コデモというユダヤ人の指導者がいました。彼は、バリサイ人として神様の律法に詳しく、世の名誉や富をも得ていました。しかし、御霊によって生まれ変わっていなかったとき、彼の人生は空しく、喜びがありませんでした。  サマリアの女は、5回も結婚を繰り返しながら男の愛をもとめました。しかし、彼女の心は喜びで満ちているところか渇ききっていました。こんな彼女が、真の礼拝の対象であるイエス様に出会ったとき、聖霊の体験をして喜びで満たされるようになります。これは、神の愛を体験できたからです。私たちが聖書を読むと感動し、祈るときに胸が熱くなって主に感謝をささげることができるのは、聖霊との交わりがあるからです。次に、神のかたちとして考えられるのは愛です。人はいつ、大きな幸せを感じるでしょうか。それは、金持ちになったときでも、有名(名誉)になったときでもありません。人は愛するときに一番幸せを感じます。他人が大きな悲しみや困難にあったときに、わたしたちは心を痛め、助けようとします。2011年の東日本大地震の爪痕で、多くの人が悲しみの中にいたとき、世界中の人々は精一杯義援金を集めました。家族や家をなくした人のために現地に駆け付けて炊出しをしたり、あらゆる方法で慰めた人も少なくありません。去年、フィリピンが台風で甚大な被害を受けた時には日本UBFでも昨年クリスマス礼拝に彼らのために心をこめて献金しました。人間の愛も素晴らしいですが、神様の愛はわたしたちの想像を超えます。神様は、ひとりごイエス様を十字架の上で死なせるほどに私たちを愛してくださいました。イエス様は、あなたを捨てて死なせようとした人たちを愛しました。イエス様を苦しめ、釘づけた兵士はもちろん、宗教指導者、群衆のためにイエス様は祈りました。, “父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。”, わたしたちがこのイエス様の愛を受け入れるとき、真実に愛することができます。また、人はどんな点で神に似ていますか。感謝することが出来る点も人でしかできないことです。感謝する気持ちは、人々に感動に与えます。この他に知性、感情、自由意志と良心があり、創造活動をし、言葉をもって議論することも神様に似ている人間の大きな特長と言えます。28節をご覧ください。“神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」”神様は、人を観賞用としてつくられたのではありません。人にはっきりとしたミッションを与えてくださいました。ひとつ目は、生きている間、子供を生み、子孫をたくさん増やすことです。そして、神様が造られた自然界と生き物を支配するように命じられました。“支配せよ”という命令は、生き物の上に立ちなさいという意味ではありません。被造物を、使命感をもってよく管理せよという意味なのです。管理者には、オーナーである神様が委託されたすべてを忠実に管理することが求められます。ホテルの支配人のような役割です。神様は自然界や動物などの生き物をうまくマネジメントするように全権大使として人をたてられました。現代を生きているわたしたちは、神の被造物をよく管理しているのでしょうか。人たちは20世紀に入って経済成長を目標に掲げて無慈悲な開発に走ってきました。その結果、自然界は人間に怒りを発しています。地球温暖化、集中豪雨や砂漠化によって、地球は悲鳴をあげています。そして、人間がつくりあげた文明に警告しています。私たちが再び“地を従えよ、生き物を支配せよ”という神様の御言葉に耳を傾け、神様のつくられた被造物をよく管理できるように祈ります。イエス様が来られた新約時代には、新しいミッションがあります。福音を知らないまま罪とくらやみのまみれになっている人たちにいのちの御言葉、福音を宣べ伝えることです。今年、東京UBFの新年のメッセージでも神様は命じられました。“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”(?テモ4, 2)今年もいままで以上に日本の霊的な環境は良くないかもしれませんが、わたしたちが時が良くても悪くてもしっかり御言葉を宣べ伝えるように祈ります。神様は、私たちにミッションだけを与えたではありません。29、30節をみると、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を人とすべての生き物の食物として与えたことがわかります。人々は最初のころは、草食をするようにつくられたことがわかります。肉食をするようになったのは、アダムが罪を犯した後のことです。神様は、わたしたちに種類にしたがって、野菜と果物などを足りないことのないように用意してくださいました。創造の原理から考えても加工食品より、新鮮な野菜や果物などを種類にしたがって摂取することが健康の素となります。31節をご一緒に読んでみましょう。“神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日”, 神様は、最後に人間をつくられた後、すべてのものをご覧になってすごく感動しました。 “見よ、それは非常によかった” わたしたちは神様から見るに非常に良い存在です。誰ひとり、良くない存在はいないのです。日本人も、アメリカ人も、韓国人も、その他のどの人種も神様が見て尊い被造物なのです。 私はUBFでいろいろな方の人生所感を聞きました。自分の存在価値、生まれてきた意味を分からずさ迷っていた方が多くいたことを覚えています。「生まれて来なかった方がいいのに!」「お母さん!なぜ私を生みましたか?」とうめき悲しんだ告白をよく耳にしました。これは、神様の前でどのような存在ないのかを悟ることが出来なかったからです。聖者アウグスティヌスは、神様に出会ってから次のようにかたりました。‘主よ。あなたはあなたのために私たちを造られました。従って、私たちがあなたを発見する前には、私たちの心の中には安息がありませんでした。’ 神様を私たちが発見し、神様を迎え入れる前にはどこもがいばらの道であり、白い砂場であり、私たちの憩いの場所は見つけることができないのです。, 私たち一人ひとりは、神様にとって非常に良い存在です。これは進化論では説明できない私たち人間の存在意味、存在価値なのです。今年御言葉のくじ引きをしたとき、わたしにイザヤ書43, が当たりました。, “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。”, 私はこの御言葉を黙想すると、神様の愛に包まれたよ うな満足感を感じました。主の豊かな愛を感じて胸がいっぱいになりました。2章に1〜3節に入ります。神様は六日間天と地を創造し、七日目にそのわざを休まれました。神様が疲れたから、休んだわけではありません。創造活動を完成させる意味の休止です。神様はこの七日目を祝福され、聖なる日とされました。わたしたちも六日間、自分の場所で一所懸命働き、主日を聖なる日として過ごさなければなりません。六日間、神様がよくしてくださった恵みを覚えて感謝をもって礼拝しなければなりません。七日目は、夕があり朝があったという御ことばが見当たりません。六日目の朝でとまっています。この記述は、私たちが行くべき天国でこの安息が続くことの暗示です。私たちは、この世の終わりに、暗闇の一欠けらもない天国でひかりである神様に礼拝しながら永遠の安息を憩うことになります。今日のメッセージをまとめましょう。私たちは神様にかたどってつくられた非常に尊い存在です。そして、私たちは神様の被造物の管理をおこなう代理人であり、福音を宣べ伝える全権大使です。私たち一人一人が、神様のかたちが刻まれた素晴らしい存在であることを感謝して主に喜ばれるわざを担うことができるように祈ります。