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14Genesis19M 主がこの所におられるのに

14genesis19m, 主がこの所におられるのに, 2014年創世記第19講主がこの所におられるのに御言葉:創世記27, 46−28, 22要, 節:創世記28, ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。先週、皆さんは朴エズラ宣教師を通してヤコブを祝福したイサクを学んだことでしょう。イサクは双子のエサウとヤコブの中で兄であるエサウではなく、ヤコブを祝福しました。そこで、エサウは、弟のヤコブを恨み、殺そうとしました。それに気づいた母リベカは、ヤコブをしばらくの間、自分の兄ラバンのもとに送るという計画を立てて実践します。それでイサクから祝福されたヤコブは母の実家がある所に向かって旅立ちます。今日は、そのヤコブの旅路の中にあった出来事を学びます。ここで、私たちはイサク夫婦の結婚観、ヤコブが出会った神様について学ぶことができます。この時間、私たちもヤコブのように神様に出会い、いつも自分とともにおられる神様を知って霊的に成長して行きますように祈ります。27章46節をご覧ください。「リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」」とあります。ヘテ人はカナンの住民ですが、彼らには偶像礼拝、近親相姦や不品行など様々な悪習慣がありました。エサウはそのヘテ人の娘たちをめとっていましたが、結婚生活はうまく行きませんでした。イサク夫婦にとっても悩みの種になっていました。姑のリベカが「もう生きるのが嫌になりました。」と言ったほどです。そこで、イサクはヤコブにカナンの娘たちの中から妻をめとってならないと注意し、「母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい」と命じました。それはイサクもエサウの結婚生活を見て信者が不信者との結婚はうまく行かないことが分かったからです。何よりも神様から祝福されないことが分かったでしょう。?コリント6, 14によると「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」とあります。イサクは息子エサウの結婚生活を通してこのことがよく分かったのです。ここに「くびき」とは昔、牛を使って穀物をひいたり、あるいは畑を耕したりする時に、牛の首につけて鋤や車を引かせるために使う、木で作った横木のことです。そして「くびきをいっしょにつける」というのは、同じ形のくびきを2頭の牛を結びつけて仕事をさせることです。もしつり合うくびきをつければ、足並みがそろいます。それで仕事がうまく進みます。しかし、つり合わないくびきをつければ、当然足並みがばらばらになってしまいます。うまく行きません。まさに、エサウの結婚生活がそんなものでした。そこでイサクは神様の祝福を受け継ぐヤコブは必ず神様を信じている人たちの中から妻をめとるように命じたのです。もちろん、結婚の時は神様を信じていなかった人でも救われてクリスチャン夫婦になる場合もあります。教会には兄弟よりも姉妹たちが多いので、妻の方が先に救われている場合が多いです。それで、まだ救われていない夫との関係において一致ができなくなって苦しみます。でも女性は強いですね。まだ救われていない夫の救いのために必死に祈ります。それで、夫のための祈りが聞かれて、クリスチャン夫婦になり、神様に祝福されているという証をたくさん聞きました。ミッション・バラバという宣教団体の牧師たちの証を聞いてみると、奥さんたちの祈りによって救われたと証していました。ですから、夫婦の中でまだ救われていない夫や妻がいるなら必死に祈り続けなければならないでしょう。ほんとうは、エサウも妻たちの救いのために一生懸命に祈ったら救われる可能性があったでしょう。ところが、彼はカナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気付いた時にエジプト人女奴隷から生まれたイシュマエルの娘を妻としてめとってしまいました。結局、信者が不信者と結婚している場合は相手の救いのために祈り続けるべきですが、まだ結婚していない場合は不信者と結婚してはいけないのです。特に、アブラハムの祝福を受け継いでいかなければならないヤコブは必ず信仰の人と結婚しなければなりません。そこで、イサクはヤコブをリベカの実家の親戚たちが住んでいるバダン・アラムに行かせたのです。こうしてヤコブは、パダン・アラムのベトエルの家へと旅立ちました。今までお母さんから愛され、守られていました。しかし、これから彼はたった独りで遠い道のりを旅しなければならなくなりました。何日かかったでしょうか。ベエル・シェバから歩き続けて「ある所」につきました。19節によると、その町の名は、以前はルズでベエル・シェバから80?も離れた所です。そこにたどり着いた時、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにしました。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になりました。もちろん、ヤコブは町の中の宿屋とかホテルに泊まったのではありません。町から離れた野原に野宿したのです。皆さん!野原に野宿したことがあるでしょうか。夜中に一人で野宿するのは恐いでしょう。なかなか眠れないものです。でも、朝から晩まで歩いていると、体が疲れているから眠くなるものです。ヤコブは石を枕にして横になると眠りについたのです。人が眠りにつくというのはどういうことなのでしょうか。私の母は、私の兄弟たちによく言いました。「無心な眠りについたら忘れても、お前たちのことを忘れないよ。不安だし、心配だよ。」とよく言われました。ほんとうに、人は起きている時は絶えず緊張し、恐れ、心配するけれども眠りについたら何もかも忘れてしまいます。ヤコブが起きている時は、さまざまな危険に対する恐れがあったでしょう。母と父のことが思い出されて涙する時もあったでしょう。何よりもエサウが追いかけて来ているのではないかという不安があります。兄と父を騙して長子の権利や祝福を手にしましたがいつになったら現実のものになるのかなあという不安もあったでしょう。でも、眠ると、すべての恐れと不安を忘れて安息につきます。ところが、そういう安息の中で夢を見る場合があります。その夢が悪夢である場合もありますし、気持ちをさわやかにしてくれる場合もあります。ヤコブはとても素晴らしい夢を見ました。28章12節をご覧ください。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」とあります。「見よ, ヒンネー, 」というのは、「これから先が大事だよ」と語りかけながら促す言葉です。したがって大事なのは「一つのはしごが地に向けて立てられている」ということです。一般的にはしごは地から天に向けて立てられています。地上から二階、三階に上る時に使うからです。もちろん、降りるときも使いますが、地から天に向けて繋がっているのです。ところが、ヤコブが見たはしごは地に向けて立てられているのです。天からから降りてくるために使うはしごなのです。つまり、ヤコブは一生懸命にはしごを上って行って神様と交わったのではなく、神様が彼と交わるために降りてきてくださったのです。ここに驚くべき神様の恵みの世界があります。神様の祝福と恵みは上から降りてくるのです。人間は何とかして天にまで上ろうとします。天にまで達する塔を建てたいと願います。バベル等を建てたように自分の努力によって上の地位につきたい、神様の地位にまでつきたい、神様のようになりたいとと思います。はしごを上りついたときに、神様との交わりができると思うのです。しかし、ヤコブが見たはしごは地から天に向かって伸びているのではなく、天から地に向かって伸びていたのです。そして、このはしごを神の御使いたちが上り下りしていました。ですから、私たちが天から降りて来られる神様を心から受け入れることによって神様との交わりができます。私のところに来てくださる聖霊様を信じて受け入れる所が神様に出会う所になります。そこに神様の約束の御言葉があります。13, 14節をご一緒に読んでみましょう。「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムの神、イサクの神、主です。そしてこの神様はヤコブの神様となられるために彼を訪ねてこられ、約束を与えてくださいました。神様はアブラハムとイサクに与えられた約束の御言葉をヤコブにも同じく与えられました。神様は彼に約束だけではなく、彼とともにあり、彼がどこへ行っても、彼を守り、彼をこの地に連れ戻すと約束して下さいました。この神様は実に恵み豊かな神様です。ヤコブは決して偉い信仰者だとは言えません。彼は逃亡者です。嘘つきであり、詐欺師です。ほんとうに卑劣な男です。彼は自分の利益のために父を騙し、兄を騙した人間です。人を騙すために神様の名前すら平気で使った人です。そういう人を神様は選び、彼に出会ってくださいました。彼を祝福し、使命を与えてくださいます。その使命を果たすことができるように彼を守り、導いてくださいます。今までヤコブは寂しくて辛い旅をして来ました。誰一人頼れる対象がいませんでした。ヤコブが野原で野宿している時はどんなに絶望的だったでしょうか。ところが、神様はそんな彼のために天から降りて来られ、彼に出会ってくださいました。彼と人格的な関係性を結び、彼が頼れる約束の御言葉も与えてくださいました。15節を見ると「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」とあります。この力強い約束の御言葉をいただいたヤコブは眠りから覚めました。目覚めたときのヤコブの言葉がとても印象的です。16節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。」, 彼は父母を離れて自分は一人ぼっちになったと思っていたでしょう。神様からも捨てられたのではないかと思っていたかも知れません。しかし、主は彼とともにいてくださいました。ほかでもなく自分がいるその場所に主がおられたのです。ヤコブは夢の中であっても天から降りてこられた神様がともにいてくださることがはっきり分かったのです。「ああ、神様はいつも私のそばにいてくださったんだ。」「すぐ近くにあって私を守り助けてくださる方であったのに、私はそのことを知りませんでした。」ほんとうはずっと前から私とともにいてくださったのに、ただいたずらに絶望していたことに気づかされました。ヤコブは不思議ですが、力強くも温かい神様との出会いに目が開かれたのです。これはヤコブの信仰生涯にとって、忘れらない経験だったでしょう。私たちもそういう経験させられることがあります。私も今までの人生の中で何度も経験していることです。特に私が大学生の時にバスの中で経験したことは何度も証しました。その時、私は、本当に自分の罪深さを思い知らされ、もうだめだと思いました。絶望感や羞恥心に打ちのめされて、自分は神に見捨てられたのだと思いました。けれども、実はそうではなくて、まさに自分の最も暗い罪の深みに主は来てくださいました。天からの「はしご」はしっかりと、自分の絶望の底に着地していました。主の十字架は私たちの最も暗い罪の深みに立っていたのです。そこで、私は個人的に神様に出会い、神様と交わる生活が始まりました。ヨーロッパでは重く垂れこめた雲を割って天から射す光の筋を、「ヤコブの梯子」と呼ぶそうです。分かるような気がします。私たちの人生の、心の黒雲を割るようにして、光のような主の恵みのみことばが来ます。神様は今もこの所におられます。ここにおられるのに、私たちが知らないでいるだけです。実は今も私たちにも語りかけてくださいます。「わたしはあなたとともにある。わたしはあなたを守り、決してあなたを捨てない!」主は一つの場所に限定される方ではなく、いつでも、どこにでもともにいてくださる方なのです。その時、彼は主に個人的に出会いました。彼は神様が自分に会ってくださった場所を記念にするために自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそぎました。そして、その場所の名をベテル、すなわち、神の家と呼びました。そしてヤコブは神様の御前に誓願を立てました。20, 22節をご覧ください。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」彼の旅路にはどんな危険が待っているか知りません。また、これから衣食住の問題はどうやって解決したらいいのか、本当に父の家に帰ることができるのか、彼の将来は不安でいっぱいでした。しかし、彼はそのような切実な問題を主が解決してくださることの信仰告白をしました。そして、主がこのように成し遂げてくださることに対して彼は誓願をもって主に応答します。一番目は、主が自分の神となるということです。これは神様を個人的に受け入れるという以上の意味が含まれています。それは偶像礼拝が氾濫している時代の雰囲気の中でも唯一の神様を信じて従うという意味です。二番目は、彼が石の柱として立てた石は神の家となるということです。つまり、これは偶像礼拝が盛んになっている異邦文化の中でも神様の御名を呼び求めながら礼拝する神の家を建てることです。三番目は、所得の十分の一を必ず主にささげるということです。これは与えられるもののすべては主からの賜物であることを信じることの信仰告白です。これを見ると、彼の誓願は彼が神様の御前にどんな人生を送るかという決断であり、約束です。 この誓願はヤコブの側からは神様の御前に生活を出発した大切な意味を持っています。アブラハムが祝福の源とする神様の約束の御言葉に基づいて信仰生活を出発しました。そのようにヤコブも、自分とともにおられるという神様の約束の御言葉に基づいて新しく信仰生活を出発しました。私たちも神様の御言葉に基づいて新しく人生を出発する時、神様の御前に意味ある人生を過ごすことができます。また、この誓願は神様の側からは彼とともにおられ、彼の人生に具体的に働かれるきっかけになりました。神様は彼の誓願を受けられ、それに基づいて導いてくださいました。ここで私たちは誓願を立てる重要性について学ぶことができます。誓願は私が神様の御前でどんな人生を送るかと心を定めることです。ところが、人々は神様から恵みと祝福を受けることは好みますが、誓願を立てることは好みません。それは誓願を立てると捕らわれると思うからです。しかし、神様に捕らわれないことがいいことではありません。神様に捕らわれないとサタンに捕らわれるようになります。神様の御手に捕らわれる時、神様がその人の人生の責任を負ってくださいます。誓願を立てると神様がそれを守れる力も与えてくださいます。私たちが神様の御前で決断することを通して神様との関係性を結ぶことができます。どうか、私たちが心を新たにして御言葉に基づいた新しい出発ができるように祈ります。

14Genesis16M イサクの結婚

14genesis16m, イサクの結婚, 2014年創世記第16講 イサクの結婚御言葉:創世記24, 67要 節:創世記24, 44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』 先週、私たちはアブラハムが神様の命令に従って最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげたことを学びました。実際に全焼のいけにえとして捧げたのは神様が備えられた雄羊でしたが、神様はそれをアブラハムが自分のひとり子を惜しまずにささげたことにしてくださいました。アブラハムの信仰の忠実さと神様を恐れ、愛し、第一とする心が認められたのです。さらに、それは「主の山の上には備えがある。」という信仰へつながって行きました。今日、学ぶ24章でもアブラハムは最愛の息子イサクの結婚において神様が彼の妻も備えておられると信じていたことが分かります。ここで、息子の結婚に関するアブラハムの信仰、アブラハムからイサクの妻を見つける任務を命じられたしもべの祈りと忠実さ、イサクの妻として迎えられるリベカの信仰と内面性を学びたいと思います。24章1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。先週も学んだようにアブラハムの人生は決して平坦ではありませんでした。生まれ故郷を離れて行くことからチャレンジであり、一つの冒険でした。信仰の危機も、失敗もありました。信仰の体験もありました。そうこうしているうちにアブラハムは年を重ねて老人になっていました。ではさまざまな試練の中でも信仰を守り通したアブラハムの人生はどうなっていましたか。聖書に「主は、あらゆる面でそのアブラハムを祝福しておられた」と記しています。アブラハム人生はあらゆる面で祝福されていたのです。これが私たちクリスチャンの人生ではないでしょうか。若い時は挑戦と冒険を経験します。神様を信じている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしよう。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。飛行機や船、電車の事故が怒ったら…などいう恐れがあります。実際に失敗もあります。自分の不信仰や怠けが原因であっても失敗は私たちを落胆させます。アブラハムのように結婚して25年間も子どもが生まれないような試練もあり得ることでしょう。ところが、そのような時にも信仰から離れないならどうなりますか。祈り、望みえない時に望みを抱いて信じるなら神様を体験することができます。さまざまな出来事の中で神様の深い哀れみと愛、力と不思議な導きを体験して行くことができるのです。結局、年を重なっていて見ると、ほんとうにあらゆる面で神様から祝福されていることが分かるようになります。年を重ねているおびただしいクリスチャンは言っています。「私はイエス・キリストを信じてからあらゆる面で祝福された」と。私はubf教会でも数多くの先輩から聞いています。私自身も告白できます。私は田舎者で人々からも田舎者として卑しく見られていると思い、自分自身も自信感を無くしていました。しかし、年を重ねてきた今は人々から愛され、尊敬されていると感じる時があります。先月は弟子から頼まれて500人位が集まった結婚式の司式もやって来ました。「あらゆる面で祝福されているんだなあ」と感じております。もし、現在は、何もかもうまく行かないと思っている方がいるかも知れません。毎日が辛い、苦しいと思われる試練の中に置かれている方がいるかも知れません。でもあきらめてはいけません。若い時はアブラハムのように信仰によってチャレンジし、冒険して行くものです。どんな時にもアブラハムのように祈り、感謝し、礼拝する生活をしてください。きっと神様はあらゆる面で祝福してくださいます。2, 4節をご一緒に読んで見ましょう。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。年を重ねて老人になっているアブラハムにとって息子イサクの結婚のことを考えなければならなりませんでした。アブラハムにとって人生の最後に残された重大な仕事は、信仰の後継者である息子にふさわしい妻を見つけることでした。そこで、アブラハムは息子の結婚を長年忠実に仕えてきた最年長のしもべに命じました。このしもべが誰なのかは分かりませんが聖書学者たちは15章2節に記されているエリエゼルだと言っています。アブラハムはエリエゼルに天の神、地の神である主にかけて誓わせています。何を誓わせましたか。一つ目は、カナン人の娘の中から息子の妻をめとってはならないということです。アブラハムの生まれ故郷に行き、親族の中からイサクの妻を選ぶことです。つまり、神である主を信じる信者の中から選ばなければならないということです。カナンには神様を信じる娘たちがいませんでした。しかしイサクの妻になるリベカの家族は主を信じる信者でした。リベカの兄と父親は「主に祝福された方、主から出たこと」と言っています, 31、50, 。そして、22章20, 23節を見ると、アブラハムにはアブラハムの兄弟ナホルから子どもたちが生まれたことが伝えられていました。ですから、アブラハムは必ず神様を信じる信者の中から息子の妻を見つけなければならないと命じたのです。二つ目は、息子は約束の地カナンにいさせることです。しもべはアブラハムに「もしかして、その女の人が私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と質問しました。それに対してアブラハムは「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」」と言いました。つまり、約束の子イサクが約束の地を離れてはいけないということです。ではどうやってアブラハムはしもべにこのようなことを誓わせることができたでしょうか。7節をご一緒に読んでみましょう。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分の信仰生活を通して神様を体験し、確信していたことが分かります。彼は神様の御心を第一にして従うなら、必ず神様が働いてくださると信じました。したがって彼はしもべに「天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ることができました。アブラハムは神様の御心を第一にして従うなら、必ず天の神、主は御使いを遣わして助けてくださると確信していたのです。ここで、私たちは息子の結婚でも自分の心ではなく、神様の御心を第一にしているアブラハムの信仰を学ぶことができます。私たちは大切なことほど神様の御心を求めなければなりません。人生において最も大切な結婚だけではなく、就職や進学など重要な決断をする時も、神様の御心を考え、従うことです。そして結婚、就職、進学などの大事なことを決断する時に神様の御心を第一にするなら必ず神様が助けてくださると確信することです。神様は私たちの前に御使いを遣わしてくださいます。私たちのために道を備えられ、助けてくださるのです。特に、私たちの人生の中で結婚ほど大切なこともないと思います。だからこそ、神様の御心を求めべきですし、自分の恋愛感情や親の心よりも神様の御心を第一にして決断するべきです。神様は私たちの結婚が愛と喜びと幸せが満ちていることを望んでおられます。私たちの結婚生活が潤され、私たちの心も満たされることを望んでおられます。ですから、神様は神様の御心を第一にするアブラハムが息子の妻を見つけるために遣わしたエリエゼルの働きを助けてくださいます。ここで、私たちに自分に与えられた使命を忠実に果たしたアブラハムのしもべから、神様のしもべとしての姿勢を学ぶことができます。第一に、しもべは重大な使命を果たすことを祈りから始めました。12, 14節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたががしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」とあります。さすがにアブラハムに長年仕えていたしもべですね。信仰の先祖アブラハムの影響を受けています。アブラハムの祈り生活を学んでいたことでしょう。アブラハムが祈ると、神様が彼に恵みを施してくださることを見て来たのです。だからこそ彼は何よりも先に祈りました。また、アブラハムのように具体的に祈っています。以前アブラハムがロトの救いのために祈る時、正しい人50人から10人まで減らして行きました。そのように、しもべも切に祈ったし、具体的なしるしを求めました。普通では起こらないようなことを求めて神様の働きを確かめようとしたのです。中東地域では旅人に水を飲ませることは、たいていの女性たちが行ないました。けれども旅人のラクダに水を飲ませることはしませんでした。しかも10頭のラクダに女性一人が水を飲ませるようなことは普通ではありません。でも、彼はわざと普通ではないことを求めて神様の働きを目撃し、御心を確認しようとしたのです。また、しもべは女性の外見上の美しさではなく、内面性を求めたことが分かります。彼は背が高い人を求めませんでした。目が美しい人を求めませんでした。心の美しい人を求めました。愛の豊かな女性、思いやりのある人、気配りのある女性を求めたのです。イエス様は山上の説教においてこう言われました。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい, マタイ5, 。この原理は夫婦生活でも同じです。夫か5回頼んだら、妻は10回従います。妻が5回要求したら、夫は10回答えます。このような態度で行なうならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現われるでしょう。ですから、アブラハムの信仰生活を受け継いで行くイサクの妻にもそういう態度、内面性が求められます。そこでしもべは人のために最善を尽くして仕えることだけではなく、動物までも助け、仕えることができる人を祈り求めたのです。では祈りの結果はどうなりましたか。  15, 20節をご覧ください。エリエゼルがまだ言い終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。彼女はブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘でした。彼女は非常に美しく、処女で男が触れたことがありませんでした。何よりも彼女は心の美しい女性でした。彼女は旅人のしもべに水を飲ませました。彼に水を飲ませ終わると、彼女はラクダのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言いました。井戸から水を汲んでラクダに水を飲ませることは決して簡単ではありません。私は子どもの時、牛に水を飲ませていましたが一度に20リトル以上も飲んでしまいます。ラクダは牛よりもいっぱい飲むでしょう。しかも10頭のラクダに水を飲ませることは大変な仕事です。ところが彼女は急いで水瓶の水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のラクダのために汲んだのです。しかも、隣にいたしもべは水を飲ませてもらうだけで何も手伝ってくれませんでした。彼は主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。一度に20リトルを運んだとしても20回も走りながら水を汲みに行ったり来たりしていたのに、隣の男は、ただ黙って彼女を見つめていたのです。それでもリベカは何も文句を言わず、黙々と働きました。何と素晴らしい娘でしょう。エリエゼルはリベカが祈り求めたとおりの女性であって主が自分の旅を成功させてくださったことが分かりました。彼女に尋ねて彼女がアブラハムの兄弟ナホルの孫であることも確認できました。そこで、エリエゼルはひざまずき、主を礼拝してアブラハムの神、主をほめたたえました。結局、エリエゼルが自分の仕事を神様に祈ることから初めた時に神様がそれを成功させてくださることを体験することができました。祈りが成功の出発点であり、成功の近道だったのです。イエス様も一日一日の仕事をまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから始められました, マルコ1, 。私たちも何かをする時、具体的に祈ることから始めるなら神様がそれを成功させてくださることを見ることができます。素晴らしい神様の働きを体験する基礎となるものは祈りです。すべての問題の解決のカギも祈りです。どうか、私たちが日々の生活の中で切に祈り、具体的に祈ることを通して自分の仕事を成功させてくださる神様を体験することができるように祈ります。第二に、しもべは自分に与えられた任務に忠実でした。しもべは神様が彼の旅を成功させてくださったのでリベカの家の中にはいりました。ラクダの荷は解かれ、ラクダにはわらと飼料が与えられました。しもべの足と、その従者たちの足を洗う水も与えられました。それから、しもべの前に食事が出されました。先ほど水だけを飲ませてもらった彼としてすぐにでも食べたかったでしょうか。しかし、彼はまず何をしましたか。33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は家に招き入れられ、もてなしを受けましたが、用事が終わるまでは、それを食べようとしませんでした。しもべは食べることよりも使命を大切にしたのです。そして「お話ください」と言われたとき、彼は「私はアブラハムのしもべです。」と自己紹介をし、あらゆる面で祝福されたアブラハムを紹介しました。それから、アブラハムの命令によってアブラハムの息子の妻を迎えるために来たのですが、アブラハムの神、主が自分の旅を成功させてくださったことを丁寧に説明しました。そこでリベカの家族は神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命に忠実な人だったかが分かります。数多くのクリスチャンは彼から管理者の忠実さを学んだことでしょう。パウロもコリント人たちに送った手紙で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。, ?コリント4, 」と言いました。私たちは教会でも職場でも、学校でも何か任されている任務に忠実でなければなりません。この忠実なしもべの働きによってアブラハムは愛する息子の妻を見つけることができました。では、アブラハムのしもべに見つけられたリベカの信仰はどうでしたか。 58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。」とあります。結婚の最終決定はリベカがするようにしましたが、リベカは『はい。まいります。』と言いました。ほんとうに、すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。リベカは神様の御心、神様の導かが分かった時、顔も知らないイサクとの結婚を自ら決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。ほんとうに信仰のある人は神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」結論的にイサクは神様の御心を第一にする父親アブラハムの信仰、しもべエリエゼルの祈りと忠実な働きが用いられて素晴らしい信仰の女性リベカと結婚することができました。ここで結婚している人は自分の子どもたちの結婚をどのようにするかを学ぶことができました。まだ結婚していない人はどのような信仰、どのような内面性を持っているべきかを学ぶこともできました。職場や学校、あるいは家で自分に任された仕事をどのように成し遂げ行くべきかも学ぶことができました。ここで共通することは私たちの神様の御心を第一にする価値観と神様に対する信仰です。私たちもそういう価値観と信仰を持って生きるなら、私たちの仕事を成功させてくださる神様を、あらゆる面で祝福してくださる神様を体験して行くことができます。アブラハムの神様が私たちの神様であることを信じて感謝します。

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14X-mas1.神様に見捨てられたイエス・キリスト

mas1, 神様に見捨てられたイエス・キリスト, 2014年クリスマス特集1, 私たちを救うために、神様に見捨てられたイエス・キリスト御言葉:マタイの福音書27:11−66要 節:マタイの福音書27:461.イエス様は、ピラトの尋問とユダヤ人たちの告訴に対して、どのようにされましたか, 。ピラトはなぜ、イエス様を釈放しようとしましたか, 。しかし、群衆はピラトに、イエス様をどうするように、求めましたか, 。2.結局、ピラトはどんな判決を下したのですか, 。イエス様は、どのようにあざけられましたか, 。総督の兵士たちは、誰に、イエス様の十字架をむりやりに背負わせましたか, 。3.イエス様は、なぜ苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうと、されなかったのでしょうか, 。兵士たちはイエス様を十字架につけてから、何をしましたか, 。イエス様の頭の上には、どんな罪状書きが掲げられましたか, 。4.人々は、何と言って、イエス様をののしりましたか, 。十二時から三時まで、全地はどのようになりましたか, 。イエス様は、何と言って叫ばれましたか。それを聞いた人々は、どんな誤解をしましたか, 。イエス様はなぜ、神様から見捨てられなければならなかったのでしょうか, イザヤ53, 。5.イエス様が息を引き取られた時、神殿ではどんなことが起こりましたか, 。その出来事には、どんな意味があるのでしょうか, ヘブル10, 。そして、地上ではどんなことが起こりましたか, 。6.百人隊長はどんな告白をしましたか, 。誰が、イエス様の死を、見守っていましたか, 。アリマタヤのヨセフは、イエス様のために、何をしましたか, 。宗教指導者たちはなぜ、番兵にイエス様の墓の番をさせたのでしょうか

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14Easter1M 父よ、彼らをお赦しください

14easter1m 父よ、彼らをお赦しください, 2014年イースター修養会第1講, 金サムエル,  4月19日, 15:30父よ、彼らをお赦しください御言葉:ルカの福音書23, 53要 節:ルカの福音書23, 34、43節23, そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。23, イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」今日から明日までイースター修養会を設けて下さった神様に感謝します。先程第1講でイエス様が十字架にかかって死んだ出来事を学びました。明日はよみがえりであり、命であるイエス様について学びます。イースターはイエス様が十字架で死なれ、三日後に復活した事を記念する日です。今回の修養会を通して「イエス様の十字架と復活」が私達にも力強く働き、日常生活にも生かされますように祈ります。1.お赦し下さい。今日の御言葉では色々な人が出ます。先ずクレネ人シモン、犯罪人の二人、ローマ軍人、百人隊長、ヨセフ、女たちです。その中で中心はイエス様です。それぞれの立場になって感情や振る舞いを自分と照らし合わせて考えてみましょう。そうするともっと恵みを受けるようになると思います。イエス様は12弟子の一人であるユダの裏切りによって逮捕されました。23章の前半部を見ると、イエス様はピラートの1次審問, とヘロデ審問, 12節, を受けました。最後にピラートの2次審問後には、十字架の死刑が言い渡されました(13−25)。この十字架刑は人類歴史上最も残酷な刑罰でした。本来ユダヤ人の処刑法ではなく、ペルシア、ギリシャ、ローマで行った刑罰です。反逆者、殺人犯、強盗などの重罪人が受けていました。あまりにも酷い刑罰なので自国民には無く奴隷や植民地の人に限られていました。この十字架刑の死刑囚は自分の十字架を背負って、十字架が立てる所までは運ばなければなりませんでした。イエス様もあの十字架を背負って行かれました。ところが前日の夜、3回の長い審問で力切っていました。もはや十字架を運べなくなりました。そこで、ローマ兵士達は田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえました。そして彼にイエス様の十字架を負わせました。結局シモンは無理矢理にイエス様の十字架を背負って行きました。これはシモンにとって中々理解しがたい十字架でした。しかし、結果的にみるとシモンは幸せな人だと思います。必ず誰かイエス様の十字架を代わりに背負って行かなければならない場合があります。その時、シモンのようにする事は易しくないでしょう。わけも知らずに十字架を背負うとする時は色々な心配事を考えます。何故私が、運が悪いなと背負う前から計算します。理由が分かっても重い十字架は出来るだけ避けたいと思います。私がしなくてもだれが背負ってくれるだろうと思います。しかし、シモンは違いました。彼は勇気を絞って自ら進んで十字架を背負いました。丘まで運ぶのは大変です。肉体的にも疲れます。周りの視線も気になります。しかし、終わった時は背負った人しか経験出来ない、充実感など、学ぶ事が沢山あります。何よりもシモンは人類救いのイエス様の偉大な御業に尊く用いられました。無理矢理に十字架を背負ったとしてもイエス様がなさる救いの御業に用いられる事はこの上もない栄光であり、恵みです。シモンも後にその十字架の意味が分かって救われました。教会史を見ると、彼の家族も救われてますます福音の御業に励むようになりました。私達もシモンのような人になれるように祈ります。私は、しばしば鄭ダニエル宣教師は本当にシモンのような人だなと思います。大学生から小学生まで幅広い4人の子供を育てます。若い高校生の面倒を見る一番大変な地位の学校の教頭です。それだけでもストレスが沢山あります。肉体的にも精神的にも疲れるでしょう。しかし、いつも笑顔です。何よりも教会の牧師として毎週のメッセージを準備して伝えます。教会の行事もリードして行きます。簡単に見えても簡単ではありません。しかし、無理やりでもイエス様の十字架の栄光と恵みを体験しているからこそ、いつも笑顔でいられていることでしょう。無理矢理でも十字架を負っている人はその栄光と恵み、満足感と喜びを経験しているのです。シモンがイエス様の後ろから十字架を運んでいく時です。大勢の民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女達の群れもイエス様の後について行きました。彼らの中にはイエス様から恵みを受けた人がいました。自分の病気を癒してもらった人も、娘の病気を癒してもらった偉い人達もいました。彼らが十字架を背負って行かれるイエス様の姿を見るのはとても悲しいことでした。十字架で死んでしまうイエス様を考えると悲しむのは同然でしょう。そんな彼女達にイエス様は言いました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからです。イエス様は現在ご自分が受けている十字架の苦しみより、エルサレム滅亡のことを心配していました。その時、あまりにもひどい災難のために子どもを生んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだと言うほどになるからです。でも、彼らはイエス様を十字架につけて殺す罪の結果は考えませんでした。彼らはイエス様からエルサレムの滅亡を言われてもイエス様と犯罪人を十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左にし、イエス様を中央にある十字架につけました。そのとき、イエス様はこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」「父よ、彼らをおゆるしください」――その彼らの中に、ローマの兵士もユダもペテロも、そして私達も含まれています。何をしているのか分からないで罪の闇に足を取られる私達です。羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私達です。イエス様は、そんな私達の罪を背負いながら、その赦しを神様に祈られました。この祈りは私達の為です。イエス様はご自分を殺そうとしている人々の為に、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。以前イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と弟子たちに教えました。イエス様は、今、十字架の上で、その通りに実行しています。敵を愛し、敵を赦しなさい。本当に相手を理解し、赦すべきことは赦し、愛するということは本当に難しい事です。自分が相手に与えたかも知れない傷は大抵の場合、覚えていません。いや、そのことに気付いてさえいません。しかし、自分が受けた傷は中々忘れません。ましてや赦すことは中々出来ないでしょう。ところが、イエス様はご自分の愛を踏みにじり、命までも奪おうとする人々の為に、執り成しの祈りを捧げられました。ここに、イエス様の愛、神様の愛があります。罪ある者、罪に生まれたあるがままの人間性では、決して存在することのない神様の愛があります。このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちは罪赦され、救いに与かる恵みを受けた者になりました。そして、神様の愛を知る者とされました。このお方に賛美を捧げましょう。そして、私達も人を赦して愛する生活が出来るように祈ります。やがてこのイエス様の遺言はクリスチャン達も見習って受け継がれました。人を許す時こそ、自分の心に平安が持たされます。相手を許す時、相手を為に死ぬことが出来ます。イエス様とともに十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエス様に悪口を言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。ところが、もう一人のほうが答えて、彼をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。, われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして彼は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。一人はイエス様に悪口を言いましたが、もう一人のほうはイエス様の祈りに受け入れました。彼は自分が罪人であることを認め、告白しました。すると、イエス様は、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ここを見ると、神様の救いは死刑囚という身分とは関係がない事が分かります。死ぬ直前にしても神様の救いを受け入れれば、遅くありません。むしろ遅いと悟った時が一番早いのです。ただ、いつまでは後回してしまうと救われるチャンスを失ってしまいます。イエス様の御言葉を聞いた時に信じて受け入れることが大切です。私たちが救われる時はいつでしょうか。今でしょう。難しいものは後でやればいいでしょうと十字架を避けますが、そうなるといつになっても終わらなくなります。その方は何の成果もありません。発展も成長もありません。今信じて今チャレンジすることが大切です。クレネ人シモンも後回ししないでイエス様の十字架を背負いました。イエス様と一緒に十字架につけられた死刑囚は遅かったけれどもイエス様の赦しの祈りを聞いてその場で信じました。私はこの死刑囚からも勇気を学びます。自分の弱さ、罪深さの為にためらうのではなく、イエス様を信じて信仰告白する事が大切です。その信仰によって救われます。私は35歳になって就職活動をしました。今の会社から営業技術の人を探す案内を見た時、本当に迷いました。私は日本人ではないので、日本の方に品物を売れるか。余り人の前で話すのが得意でもない、色々心配がありました。しかし、勇気を絞って、日本で生活する為に、家族を養う為にやりますと祈りました。そうしたら、無試験で今の会社に採用されてもう10年も働いています。今は一人でお客様に行って説明し、納品にも行きます。昨年度は営業売り上げが2倍になりました。神様が色々助けて下さいます。自分は弱いし、足りない者です。神様から与えられる御言葉を信じるとき、4年間貧血で大変でしたが、今年は正常値に戻りました。病気も安定になりました。イエス様が十字架にかかって赦しの祈りを捧げました。死なれることによって私の罪を贖い、癒して下さったからです。イザヤ53章4、5節を見ると、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。そのとおりにイエス様は私の病を負い、私の痛みを担って下さいました。イエス様の打ち傷によって私は癒されたのです。このようにイエス様の十字架には赦しがあり、癒しがあります。私の罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれたイエス様の十字架を信じる人に赦しと癒しを下さることを心から感謝します。若し、告白した死刑者の心が私に無かったなら、今の私はありません。ただ、信じたとき、不思議なイエス様の十字架による赦しと癒しの力が私のうちに働きます。この十字架の恵みを心から感謝します。2.今日パラダイスにいます。犯罪者の1人が死ぬ前、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。すると、イエス様は彼に言いました。誠に、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。この短い対話の中に大きな恵みがあります。人は本当に死ぬ時、二つのパータンになることです。一つのパータンは何の祝福もなく肉体的に死ぬことだけです。しかし、死刑の一人のようにイエス様に信仰の告白した人は霊的に祝福されます。信仰の告白をした死刑者は肉体的に死んでも、彼は霊的に永遠に生きることです。彼は罪を犯しましたが、どうか私の思い出して下さいと言いました。これが彼の素直な気持ちでした。そんな彼にイエス様は最高の祝福の言葉を言いました。あなたは今日私と共にパラダイスにいます。そうです。私たちは信じたその時からパラダイスにいる事になります。イエス様は過去や未来の事ではなく、今信仰の告白をして欲しいと言います。今、信仰の告白をしないと行けません。今、信仰の告白をするとイエス様と共にパラダイスにいる事になります。私達も死刑者のように信仰の告白をして見ましょう。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」死刑者が最後の信仰の告白をした時はすでに12時頃になっていました。その時、全地が暗くなって、三時まで続きました。, 太陽は光を失っていました。神殿の幕は真二つに裂けました。イエス様は大声で叫びました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」いいました。そして息を引き取られました。イエス様は十字架で肉体的な生命を切られ死なれました。イエス様は33歳とう若さで肉体的な生を終えました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえました。「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言いました。イエス様の知人たちと、ガリラヤからイエス様について来ていた女達とはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていました。ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな正しい人がいました。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいました。彼が、ピラートのところに行って、イエスの体の下げ渡しを願っていました。それから、イエス様を取り降ろして、亜麻布で包みました。そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めていました。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていました。, ガリラヤからイエスと一緒に出て来た女たちは、ヨセフについて行って墓とイエスのからだの納められる様子を見届けていました。そして、戻って来て香料と香油を用意しました。安息日には、戒めに従って休んでいました。これでイエス様は完全に地上での御業は終わりになります。イエス様が十字架につけられた時刻が午前9時です。完全に命を絶った時刻が午後3時になります。6時間十字架で全ての苦痛を耐えました。誰の為でしょうか。それは私達の為です。アダムが犯した罪で人間が永遠に罪から束縛して死んでしまう定めを無くすためです。多くの人がこのイエス様の大きな愛を知らなくて苦しんでしまう人が沢山います。パラダイスに導くイエス様を信じましょう。私も今年「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」を信じて一年を過ごしたいと祈っています。特に今年から会社で自分の担当商品の責任者になり、予算達成が出来るか心配ばかりしていました。いつも恥かしく思っている重奏団の賛美も恵みで力強く歌いたいと祈っています。この教会も愛に満ち溢れる、皆が平安に過ごせる1年になりますように祈ります。

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

14genesis17m, わたしがあなたに示す地に住みなさい, 2014年創世記第17講                           わたしがあなたに示す地に住みなさい御言葉:創世記25, 26:33要 節:創世記26, 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム, 25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。5, 6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。?.祈りによって問題を解決したイサク, 19, 34, 19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。, 」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。二つ目の試練は経済的な問題でした。26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク, 神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。

14Genesis2M 人をご自身のかたちとして創造された神様

14genesis2m, 人をご自身のかたちとして創造された神様, 2014年創世記第2講, 張パウロ,                                  人をご自身のかたちとして創造された神様御言葉:創世記, 3要 , 節:創世記, 「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」,  みなさんは東京スカイツリーにのぼったことはありますか。日本が誇る世界で一番高い電波塔!!東京スカイツリーは日本の建築技術の集大成ともいわれている構造物です。人々はその電波塔のスケールと雄大な形に感動します。しかし、これを誰がつくったのかを知る人は意外にも少ないです。東京スカイツリーは、事業主の東武鉄道、設計者の日建設計、施工者の大林組が一体になってつくりあげた傑作品です。日建設計は社内で東京スカイツリーのデザインを決定させるために、社内でコンペを開きました。その中で、いい案を絞って事業主の東武鉄道と何度も打ち合わせをしました。電波が阻害されにくく、地デジ放送の他に、ワンセグやマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにすることが建設目的とされました。この建設目的に沿って、今の場所で今の形の東京スカイツリーになりました。また、高所での風の影響や強い地震などに耐えられるよう関係者が知恵を出し合って丈夫で素晴らしい傑作品が誕生しました。しかし、この世において一番の傑作品は、人です。なぜならば、人は神のご自身の形として創られた、唯一の被造物だからです。これは、人が動物や他の被造物とは違う存在で、神様と特別な関係にあるという証拠です。そして、神様は、人に他の被造物や自然界を支配せよという重要な使命(ミッション)を任されました。私たちが、本文のメッセージを通して、神様にかたどって造られた人としての存在価値と存在目的を学び、神様が喜ばれる生き方ができるように祈ります。26節をご覧ください。“神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」”, 神様が人を造られた時は、他の被造物とは違う点があります。まず、神様が複数形になっており、互いに相談された点です。人は貴重な存在なので、最高に良いかたちとしてつくるために、三位一体である神様、イエス様、聖霊様が相談されました。もう一つの違いは、神様のかたちとして、神様に似せて、私たち人間をつくられた点です。他の被造物は神様が御言葉だけでつくられましたが、私たち人間は、神のかたちをもった特別な存在としてつくられたのです。, それでは、神様のかたちとは、いったいどのようなものでしょうか。神様は、人間と同様な外面的な形をしているのでしょうか。この箇所は、神学者の中でも議論が絶えない難しいところです。しかし、私たちが聖書全体をよく理解すると、神の形というものがどんなものなのか浮かびあがると思います。神のかたちとは目に見える外形よりは神の品性を指しています。それでは、人間は、どんな点で神様のかたちに似ていますか。先ず、人がもっている神様のかたちの一つは、霊です。人は、肉体と理性の意外に霊を持っています。人間は霊的な存在です。ヨハネの福音書4:24節では、“, 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。”と書いてあります。私たちは、霊によって神様に礼拝することができ、祈ることができます。聖霊の感動により、この世が御言葉によってつくられたことが判ります。また、聖霊により自分がアダムの堕落した罪の本性をもっていること、イエス様の十字架の血潮だけが私たちを永遠の滅びから救うことができることも悟るようになります。人間は、この世でどれだけ贅沢で良い生活を送ることが出来ても霊的に満たされないと, 根本的に喜びを感じることはできません。ヨハネの福音書3章を見ると、二コデモというユダヤ人の指導者がいました。彼は、バリサイ人として神様の律法に詳しく、世の名誉や富をも得ていました。しかし、御霊によって生まれ変わっていなかったとき、彼の人生は空しく、喜びがありませんでした。  サマリアの女は、5回も結婚を繰り返しながら男の愛をもとめました。しかし、彼女の心は喜びで満ちているところか渇ききっていました。こんな彼女が、真の礼拝の対象であるイエス様に出会ったとき、聖霊の体験をして喜びで満たされるようになります。これは、神の愛を体験できたからです。私たちが聖書を読むと感動し、祈るときに胸が熱くなって主に感謝をささげることができるのは、聖霊との交わりがあるからです。次に、神のかたちとして考えられるのは愛です。人はいつ、大きな幸せを感じるでしょうか。それは、金持ちになったときでも、有名(名誉)になったときでもありません。人は愛するときに一番幸せを感じます。他人が大きな悲しみや困難にあったときに、わたしたちは心を痛め、助けようとします。2011年の東日本大地震の爪痕で、多くの人が悲しみの中にいたとき、世界中の人々は精一杯義援金を集めました。家族や家をなくした人のために現地に駆け付けて炊出しをしたり、あらゆる方法で慰めた人も少なくありません。去年、フィリピンが台風で甚大な被害を受けた時には日本UBFでも昨年クリスマス礼拝に彼らのために心をこめて献金しました。人間の愛も素晴らしいですが、神様の愛はわたしたちの想像を超えます。神様は、ひとりごイエス様を十字架の上で死なせるほどに私たちを愛してくださいました。イエス様は、あなたを捨てて死なせようとした人たちを愛しました。イエス様を苦しめ、釘づけた兵士はもちろん、宗教指導者、群衆のためにイエス様は祈りました。, “父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。”, わたしたちがこのイエス様の愛を受け入れるとき、真実に愛することができます。また、人はどんな点で神に似ていますか。感謝することが出来る点も人でしかできないことです。感謝する気持ちは、人々に感動に与えます。この他に知性、感情、自由意志と良心があり、創造活動をし、言葉をもって議論することも神様に似ている人間の大きな特長と言えます。28節をご覧ください。“神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」”神様は、人を観賞用としてつくられたのではありません。人にはっきりとしたミッションを与えてくださいました。ひとつ目は、生きている間、子供を生み、子孫をたくさん増やすことです。そして、神様が造られた自然界と生き物を支配するように命じられました。“支配せよ”という命令は、生き物の上に立ちなさいという意味ではありません。被造物を、使命感をもってよく管理せよという意味なのです。管理者には、オーナーである神様が委託されたすべてを忠実に管理することが求められます。ホテルの支配人のような役割です。神様は自然界や動物などの生き物をうまくマネジメントするように全権大使として人をたてられました。現代を生きているわたしたちは、神の被造物をよく管理しているのでしょうか。人たちは20世紀に入って経済成長を目標に掲げて無慈悲な開発に走ってきました。その結果、自然界は人間に怒りを発しています。地球温暖化、集中豪雨や砂漠化によって、地球は悲鳴をあげています。そして、人間がつくりあげた文明に警告しています。私たちが再び“地を従えよ、生き物を支配せよ”という神様の御言葉に耳を傾け、神様のつくられた被造物をよく管理できるように祈ります。イエス様が来られた新約時代には、新しいミッションがあります。福音を知らないまま罪とくらやみのまみれになっている人たちにいのちの御言葉、福音を宣べ伝えることです。今年、東京UBFの新年のメッセージでも神様は命じられました。“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”(?テモ4, 2)今年もいままで以上に日本の霊的な環境は良くないかもしれませんが、わたしたちが時が良くても悪くてもしっかり御言葉を宣べ伝えるように祈ります。神様は、私たちにミッションだけを与えたではありません。29、30節をみると、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を人とすべての生き物の食物として与えたことがわかります。人々は最初のころは、草食をするようにつくられたことがわかります。肉食をするようになったのは、アダムが罪を犯した後のことです。神様は、わたしたちに種類にしたがって、野菜と果物などを足りないことのないように用意してくださいました。創造の原理から考えても加工食品より、新鮮な野菜や果物などを種類にしたがって摂取することが健康の素となります。31節をご一緒に読んでみましょう。“神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日”, 神様は、最後に人間をつくられた後、すべてのものをご覧になってすごく感動しました。 “見よ、それは非常によかった” わたしたちは神様から見るに非常に良い存在です。誰ひとり、良くない存在はいないのです。日本人も、アメリカ人も、韓国人も、その他のどの人種も神様が見て尊い被造物なのです。 私はUBFでいろいろな方の人生所感を聞きました。自分の存在価値、生まれてきた意味を分からずさ迷っていた方が多くいたことを覚えています。「生まれて来なかった方がいいのに!」「お母さん!なぜ私を生みましたか?」とうめき悲しんだ告白をよく耳にしました。これは、神様の前でどのような存在ないのかを悟ることが出来なかったからです。聖者アウグスティヌスは、神様に出会ってから次のようにかたりました。‘主よ。あなたはあなたのために私たちを造られました。従って、私たちがあなたを発見する前には、私たちの心の中には安息がありませんでした。’ 神様を私たちが発見し、神様を迎え入れる前にはどこもがいばらの道であり、白い砂場であり、私たちの憩いの場所は見つけることができないのです。, 私たち一人ひとりは、神様にとって非常に良い存在です。これは進化論では説明できない私たち人間の存在意味、存在価値なのです。今年御言葉のくじ引きをしたとき、わたしにイザヤ書43, が当たりました。, “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。”, 私はこの御言葉を黙想すると、神様の愛に包まれたよ うな満足感を感じました。主の豊かな愛を感じて胸がいっぱいになりました。2章に1〜3節に入ります。神様は六日間天と地を創造し、七日目にそのわざを休まれました。神様が疲れたから、休んだわけではありません。創造活動を完成させる意味の休止です。神様はこの七日目を祝福され、聖なる日とされました。わたしたちも六日間、自分の場所で一所懸命働き、主日を聖なる日として過ごさなければなりません。六日間、神様がよくしてくださった恵みを覚えて感謝をもって礼拝しなければなりません。七日目は、夕があり朝があったという御ことばが見当たりません。六日目の朝でとまっています。この記述は、私たちが行くべき天国でこの安息が続くことの暗示です。私たちは、この世の終わりに、暗闇の一欠けらもない天国でひかりである神様に礼拝しながら永遠の安息を憩うことになります。今日のメッセージをまとめましょう。私たちは神様にかたどってつくられた非常に尊い存在です。そして、私たちは神様の被造物の管理をおこなう代理人であり、福音を宣べ伝える全権大使です。私たち一人一人が、神様のかたちが刻まれた素晴らしい存在であることを感謝して主に喜ばれるわざを担うことができるように祈ります。

14Genesis 5M神様の哀れみと祝福

14genesis, 5m神様の哀れみと祝福, 2014年創世記第5講 神様の哀れみと祝福御言葉:創世記4:1〜5:32要, 節:創世記4:25, 26「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」先週、私たちは人間が神様の愛を拒み、罪を犯してしまったにもかかわらず、その人間を捜し求め、救いの道を約束してくださった神様の愛を学びました。神様はその愛のゆえにアダムの子孫皆が救われることを望んでおられます。ところがアダムの二人の子どもは二つの道に分かれて行きました。彼らはどのような道を歩んで行ったでしょうか。皆さんと共にカインの道、アベルの道について学びたいと思います。そして「私たちは、はたしてどちらの道を歩み続けているのか」を考え、自分を省みてみることができるように祈ります。その中で、神様は私たちに望んでおられる道を知り、神様の御前で信仰の決断ができるように祈ります。?.カインとアベル, 1節をご覧ください。「人は、その妻を知った。彼女はみごもってカインを、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。」とあります。アダムとエバに最初の子が与えられました。アダム夫妻の喜びはどんなに大きかったでしょうか。エバは「私は、主によってひとりの男子を得た。」と告白しています。それからまたエバは弟アベルを産みました。子宝と言いますが、子どもたちに恵まれるのは幸せです。兄弟が互いに助け合い、愛し合う時、それを見ている親はとても幸せになります。先週、私の長女は誕生に兄から「誕生日おめでとう」という一行のメールが届いたことだけでも非常に喜んでいました。妹からの手紙を読む時は顔が赤くなるほど嬉しがっていました。そんな姿を見るだけでも私は幸せを感じました。おそらく、カインとアベルも仲良し兄弟だったでしょう。ところが、親から独立して大人になり、それぞれの職業を持つと、お互いに助け合い、協力し合う協力関係は崩れてしまいました。兄のカインは農業を営む者となりました。弟のアベルは羊の群れを飼う者となりました。そして、ある時期になると、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から持って来ました。アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はこのアベルとそのささげ物とに目を留められました。しかし、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。それに対するカインの反応はどうですか。「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。このカインの気持ちはわかるでしょう。私も長男のひとりとして彼の気持ちが理解できます。弟のアベルが神様に顧みられ、長男である自分は完全に無視されてしまったと思うと気持ち良くないでしょう。後から来て、自分よりも劣っていると思う者がちやほやされ、早くから来てずっと苦労してきた自分が認められないと思われる時、皆さんはどうしますか。大抵の人は、それに耐えられず、嫉妬や憎しみの情を募らせて行きます。ところで、聖書には意外にも、後から来た者が先にいる者を追い越す例がたくさんあります。創世記を通してみると神様は長男より次男が好きなのかなあと思われます。イシュマエルとイサク、エサウとヤコブもそうです。ヤコブがヨセフの子どもを祝福する時も、長男のマナセではなく、弟エフライムを祝福するのです。後に、イスラエル民族が出エジプトをする時、神様はエジプトの初子をことごとく撃ちます。長男ばかりが死ぬのです。ですから、カインのような人は神様を非難します。なんとかして神様の不条理を発見して怒り、自分の正当性を主張しようとします。カインだけではなく、世間一般の人も、自分なりの価値観を持ち、人々も自分の価値観で自分を判断してくれることを願います。たとえば、うちの学校では父兄が先生を評価しますが、自分が低く評価されると、それは父兄の価値観が間違っているからだと考える人もいます。何でもかんでも人のせいにします。神様に対してもそうです。自分なりに「長男が先に生まれたから自分より優先でなければならない。次男のものは受け入れられたのに、長男のものが受け入れられないようなことがあってはいけない。」と言うような自分の考え方を神様にも要求するのです。しかし、ささげ物を受け入れるかどうかは神様の判断基準に従わなければなりません。それは神様の一方的なあわれみの自由です。新約聖書を見ると、世間では無視されている放蕩息子や収税人や異邦人が神様には招かれています。ぶどう園に朝から来て働いた人にも、夕方5時に来てたった一時間しか働かなかった労働者にも同じ1デナリオンの賃金が払われています。神様はご自分の計画と哀れみの自由によって哀れむべき者を哀れまれ、受け入れるべき者を受け入れてくださるのです。だから私たち人間は、その良し悪しを言う立場にはないのです。どうして神様がそうなさったかと言うのではなく、神様がなさったから正しいのです。ところが、カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。自分の思いとは違っていたからです。このように自分を中心に思うその思いにサタンが働きます。感謝するところに聖霊の働きがありますが、自分の思いから不平不満を抱き、つぶやく人の心の中にはサタンが働くのです。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になってしまいました。8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。ここに、自分の思いが100%正しいとしたため、自分の弟さえ殺してしまったひとりの人間が描かれています。そしてこの姿は、まさにカインからの遺伝子を受け続けている人間、私たちひとりひとりの姿でもあります。自分の思いだけが正しいと主張し続ける人は多くの人々を傷つけ、殺して行きます。謙遜に神様の御声に耳を傾けず、悔い改めなければカインのように、人を殺すことまでもしてしまうのが人間なのです。惨めな人間の姿です。ところが、それでも神様は人間を捨ててしまわれませんでした。主は再びカインとお会いになりました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。神様はもちろん、カインが殺人の罪を犯したことを知っておられました。ですから、この質問は、決してカインを尋問するためのものではありません。神様は彼の父にアダムが罪を犯した時も同じような語りかけをしておられます。「あなたは、どこにいるのか。」という言葉です。その時のように、神様はカインに悔い改めの機会を与えたのです。本来なら二人はかけがえのない絆で結ばれた兄弟です。切っても切れない血の繋がりがあります。互いに愛し合う務めがありました。だから神様はわざと「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問いかけられたのです。ところが、カインのことは全く期待はずれでした。彼は「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えています。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。家と土地を捨て、慣れ親しんだ故郷を離れ、さすらいの人となります。15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ、本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3, 9)。?.新しいアダムの子孫セツとアベル(4, 32) 16, 24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2, 24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。このようなカインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、いつも神様には希望があります。私たち人間に対する神様の哀れみと祝福が消えませんでした。25、26節をご一緒に読んでみましょう。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」あわれみ深い神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。その結果、アダムの子孫の中からもカインだけではなくアベルの子孫として神様と共に歩む人、主の御心にかなった人々が現われてきます。ではまず神様と共に歩んだ人は誰でしょうか。5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22, 24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」21節を見ると、エノクは65年生きて、メトシェラを生んでいます。彼が生まれてからメトシェラを生むまで65年間はどのように生きていたでしょうか。私はよく分かりません。ただ、彼にカインの遺伝子はなかったとしても神様に罪を犯したアダムからの遺伝子は繋がっていたはずです。生まれながら完璧な人ではなかったのです。アダムが自分の犯罪をエバのせいにしたように、何でもかんでも人のせいにする、人間同士が憎み合うという原罪から離れていなかったと思われるのです。しかし、彼はメトシェラを生んだ時、信仰の決断をしたようです。アベルのように神様に最上のものを持って行く感謝の生活、セツの子どもが生まれた時から始まった祈りの生活をしようと決断し、神様と共に歩む生活を始めたのです。そして、その決断を300年間も守り通しました。三日坊主ではなく、300年間です。金ヨハネ宣教師は毎年「300日以上教会で夜明けの祈りを捧げる。」ことを祈りの課題にしていますがそれも簡単ではないでしょう。ところが、エノクは300年間神様とともに歩んだのです。そのおかげでしょうか。彼の子どもメトシェラは人類歴上最も長生きした人として彼の一生は969年でありました。彼のひ孫であるノアは神様の御心にかなった人、全き人として神様と共に歩みました。大洪水後は人類の新しい先祖となりました。 以上で、私たちはアダム以後、カインとアベル、アベルの代わりに神様から授けられたセツとセツの子孫の歩みを学びました。皆さんはカインの末裔でしょうか。アベルの末裔でしょうか。カインは自分の行動が認められない時、ひどく怒り、憤っていました。自己中心の人生、不信仰の人生を生きて神様も自分のように評価するだろうと思ったからです。年上が先に認められるべきだと思ったようです。だから、正しく行っていないと神様から指摘されるとそれを受け入れることができませんでした。それは弟のせいだと思って自分の弟を憎しみ、殺してしまいました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけて悔い改める機会を与えましたが、悔い改めませんでした。むしろ、知らないふりをしていました。その結果彼が耕す土地は呪われてしまいました。彼はその土地から追い出され、神様の御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となってしまいました。しかも、弟を殺した彼は殺される不安と恐れの中で生きるしかありませんでした。彼は「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と言っています。神様はご自分の哀れみのゆえに「一つのしるしを下さった」ので生き残りましたが、祝福された人生になりませんでした。しかし、アベルはどうでしたか。神様の御前で謙遜でした。彼が神様にささげ物をささげる時「初子の中から、それも最上のものを持って来た」と言う言葉に彼の心が表れています。彼の心は神様への感謝がいっぱいになっているのです。このことに対してヘブル人への手紙は「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。, 」と解説しています。神様は心をご覧になるお方です。アベルの人生は短かったけれども信仰によって生きたのです。神様は彼の人生を祝福してくださいました。信仰によって生きた彼の人生を受け継がせるセツを授けてくださったのです。そして、彼の子孫から人々は主の御名によって祈ることを始めました。さらに、その子孫の中からエノクが生まれ、彼は神様とともに歩みました。そして、その子孫からノアが生まれ、ノアを通して人類の歴史は新しく始まりました。何よりもその子孫から信仰の先祖アブラハムが生まれ、アブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれました。 したがって私たちは自分の力によって自分中心に生きたカインの末裔ではなく、信仰によって生きたアベルの末裔です。一般的に、人々は自分がカインの末裔だと思っています。自分が本性的に行動し、罪を犯してしまうのはカインの末裔だからしようがないと思います。夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩も当たり前だと思います。しかし、この世にもアベルの末裔がいます。最近、私がインターネットから研修を受けていますが、講師の崔博士はアメリカのカートマン博士が35年間3, 000組以上の夫婦と調べ、追跡してみると夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩もない家庭も多かったと言いました。崔博士自身も両親が夫婦喧嘩するような場面を見たことがなかったと言いました。意外にそういう家庭も多くあるのです。すべては神様から与えられたと信じて神様に最上のものをささげようと思うほどに神様に感謝する人はアベルの末裔として生きていることです。アベルの末裔は自分の思い通りにならないことで不平不満を抱き、つぶやくのではありません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい, 箴言3, 」と信じてすべてのことにおいて神様に感謝し、祈る人です。神様と交わりながら神様とともに歩む人です。祝福そのものだった信仰の先祖アブラハムのように祝福された人生を生きて行く人です。どうか、私たちがアベルの末裔である自覚を持って信仰によって生きることができるように祈ります。300年間神様と共に歩んだエノクのように信仰の決断をしましょう。今まではどのように生きて来たとしてもこれから神様と共に歩もうと決断すれば、神様に喜ばれるでしょう。共に歩むということは完璧に生きるということではありません。それよりも神様に感謝し、祈りながら神様と交わる生活ができるということです。300年ではなくても、金ヨハネ宣教師のように毎年300日でも信仰の決断をして守って行くことができますように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。