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14X-mas2.インマヌエルのイエス様

mas2, インマヌエルのイエス様, 2014年クリスマス特集第2講(新聖歌75番)インマヌエルのイエス様御言葉:マタイの福音書1:18−25要 節:マタイの福音書1:231.マリヤは、ヨセフとどんな関係にありましたか, 。マリヤは、何によって身重になったことが、分かりましたか, 18b,ルカ1, 。「聖霊によって身重になった」ことは、イエス・キリストが、どんな方であることを語ってくれるのでしょうか, ルカ1, 。2.マリヤが身重になったことが分かった時の、ヨセフの心境はどうだったのでしょうか, 。なぜヨセフは、彼女を内密に去らせようと決めたのでしょうか, 19,申22, 。夢の中で、ヨセフに現れた主の使いは、ヨセフをどのように助けてくれましたか, 。3.また、主の使いは、生まれてくる男の子に、どんな名前をつけるようにと、命じましたか。この方は、何をするために、お生まれになったのでしょうか, 21,ルカ2, 。4.このすべての出来事は、どんな預言の言葉が成就するためだったのでしょうか, 22,イザ7, 。「インマヌエル」とは、どんな意味でしょうか, 。「神は私たちとともにおられる。」ことは、私たちにとって、どれだけ大きな恵みなのでしょうか, ヨハ1, 。5.眠りから覚めたヨセフは、どのようにして、その妻を迎え入れましたか, 。ヨセフが、このことを真剣に信じていたことが、何によって示されているのでしょうか, 。私たちが素晴らしい救い主の誕生を迎えるためには、どうしたら良いのか、話してみましょう。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

14genesis17m, わたしがあなたに示す地に住みなさい, 2014年創世記第17講                           わたしがあなたに示す地に住みなさい御言葉:創世記25, 26:33要 節:創世記26, 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム, 25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。5, 6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。?.祈りによって問題を解決したイサク, 19, 34, 19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。, 」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。二つ目の試練は経済的な問題でした。26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク, 神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。

14Genesis23M 夢見るヨセフ

14genesis23m, 夢見るヨセフ, 2014年創世記第23講                               , 夢見るヨセフ御言葉:創世記37−38章要, 節:創世記37, ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。 皆さんは、何か夢をもっていますか。それともただなんとなく生きていますか。あるいは、考え中ですか。私が職場で生徒たちに聞いてみると「考え中です。」と答えるが人が意外に多くいますね。今日から学ぶヨセフは夢見る人でした。彼はどんな夢を持っていたでしょうか。その夢はどのようにして実現されて行ったでしょうか。聖書に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言16, 9、新共同訳)」とあります。計画するということは夢見ることでもあります。私たちが夢を持っているだけでも、主は私たちの一歩一歩を備えてくださるのです。私たちはヨセフの生涯を通してそのことを学ぶことができます。この時間はヨセフ生涯の初期段階で彼が夢を見たこと、それによって試練の場に追い出されるようになったことを学びました。またそのころのこととしてイエス・キリストの先祖となるユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを学びます。ここで、私たちはヨセフの生き方、救いの計画を進められる神様の働きを学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して夢見るヨセフを学び、哀れみ深い神様の救いのご計画を学ぶことができるように祈ります。37章1, 2節をご覧下さい。「ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。」とあります。先週まで私たちはアブラハム、イサク、ヤコブの神様を学びました。ついに創世記の中心人物の最後の人であるヨセフを学びます。ところが、創世記の著者は「これはヤコブの歴史である。」と書いてあります。なぜでしょうか。それはヤコブの後半部の生涯がヨセフの生涯と不可欠な関係があるからだと思います。つまり、ヨセフはアブラハム、イサク、ヤコブのように神様に選ばれた族長ではありません。族長時代の最後の人物であるヤコブの子どもです。そこでヤコブの歴史の中に中心人物であるヨセフの生涯が紹介されているのです。 そしてヨセフの生涯も十七歳のときから紹介されています。彼は兄たちとともに羊の群れを飼っていました。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいました。ビルハとジルパは父の妻であっても奴隷だった人たちです。その奴隷から生まれた兄たちの悪いうわさを父に告げました。どんな内容を告げたのかは分かりません。確かなことは良い話ではなく兄弟たちの悪いうわさを告げたことです。それが兄たちに知らされると兄たちの気持ちを良くありませんでした。ヨセフが嫌になったでしょう。結局、ヨセフは兄達から憎まれるようになりました。その上にヨセフはヤコブの年寄り子です。父から最も愛されました。それは父の偏愛でした。ただ父親からヨセフのことを考えてみると彼にはこのような愛が必要でした。ヨセフの母親ラケルは早く死んだからです。でも父の偏愛は子どもたちの不和の火種になりました。腹違いの兄たちには理解できません。兄たちはヨセフを憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。さらに、兄達がますますヨセフを憎むようになったことが起こりました。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げました。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」この夢はヨセフが兄弟たちを支配するようになることを意味します。ヨセフにとっては嬉しい夢です。しかし、兄達にとっては嫌な夢です。腹が立つ夢でした。ところが、ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話しました。「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」。今度の夢は兄達だけではなく父と母も彼を拝む内容でした。ヨセフがイスラエルのすべてを支配することを意味します。父ヤコブにとってもあまり好ましい夢ではありません。父は彼をしかって「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と言いました。でも、父は兄たちとは違いました。兄弟たちはヨセフをねたみましたが、父はこのことを心に留めていました。自分も石を枕にして横になった時に見た夢を通して神様に出会い、ベテルまで守まれ、導かれ、祝福されことを経験したからでしょう。以上で私たちは兄たちとヨセフの考え方の違いを発見することができます。兄たちは父の偏愛ぶりを見てヨセフを憎みました。ヨセフの告げ口、ヨセフの高慢な態度を見たので、彼らはますますヨセフを憎みました。しかし、ヨセフは兄たちの心を見ないで夢を見ました。それはある意味では空気を読めない人の態度です。でも青年の時に夢を見ることはとても大切です。特に、自分が心に抱く野望としての夢ではなく、神様が心に示しておられるご計画としての夢を見るのことです。特に若い時に夢を見る、夢を持つということはとても大切です。これまで、この世界は夢を見た青年によって支配されて来ました。1800年代後半、ライト兄弟は人類が金属の翼で空を飛ぶ姿を夢見ました。十年後の1903年12月17日、ライト兄弟の飛行機がノースキャロライナの砂浜で初飛行しました。1940年、ビリー・グラハムと仲間の数人の大学生が集まって、神様から遠く離れた人々に福音を伝えるために、世界中のスタジアムをいっぱいにすることを夢見ました。資料によると、彼らは2億1千5百万人の人々に福音を直接伝えました。そして十億以上の人々に、テレビやラジオを通して福音を語ったのです。1960年代、私たちubf先輩たちは使徒の働き1章8節を通して地の果てにまで行って世界のキャンパスに福音を伝える世界宣教を夢見ました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」その頃、韓国は朝鮮戦争が終わったばかりでとても荒廃していました。一人当たり国民所得, は80$にすぎませんでした。先進国の援助を受けなければ国の維持ができないほどでした。若者たちはなかなか夢を見ることができずさまよっていました。しかし、故李サムエル宣教師を始め、ubf先輩たちは夢見ていました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、韓国のキャンパスに福音を伝えることは軽いことであって全世界の大学生たちに福音を伝え、救うことができる」という夢を見ていたのです。その夢のためにある先輩は看護師、ある先輩は新聞配達員、ある先輩は留学生、大使館の運転手になって宣教師として世界に出て行きました。事実、まだ後進国であった韓国の青年が、労働のアルバイトをし、勉強しながら宣教をすることは至難のわざでした。でも先輩たちは夢を持っていたから世界の国々に遣わされて福音を宣べ伝えました。今は98か国に宣教師たちが遣わされています。その国々で数多くの大学生たち福音を伝え、救うみわざのために用いられています。ヨセフはエジプトで総理大臣になりますが、世界中の大学で教授として働く宣教師や牧者も多くなって来ました。多くの方が宣教地で弁護士、医者、外交官、事業家としてリーダー的な役割を果たしています。神様を信じている人が夢を持ち続ける時、神様はその夢が実現するように助けてくださいます。ヨセフは少年の時から夢を持っていたゆえにその後の人生は主が一歩一歩を備えてくださいました。私たちも目先のことだけを見ないで10年、20年後のことを考えながら夢を持つことができるように祈ります。2041年までにこの国の47都道府県のキャンパスに聖書先生、牧者たちが立てられること、アジア47か国に宣教師を派遣する夢を持ち続けて祈りましょう。ヨセフは夢を持っていましたが、この夢が実現するためには神様の訓練も必要でした。そこで神様はヨセフが試練の場に追い出されて行くことを赦されます。 37章12節〜28節までの御言葉はヨセフが訓練の場、試練の場に追い出される場面です。ヨセフは父から兄さんたちが羊の群れを飼っているシェケムに行って来ることを頼まれました。ヘブロンからシェケムまでは70キロも離れています。歩いて行くと二日間もかかる距離です。私は子どもの頃、父親から「タバコを買って来なさい」と言われた時、ただ700m位離れた所でも嫌がっていた記憶があります。ヨセフは70キロも離れている所であっても「はい。まいります。」と答えていました。答えただけではありません。ヨセフはヘブロンからシェケムまで行きました。ところがシェケムまで行ってみると、兄達はいませんでした。そこにいる人の聞いてみるとそこからドタンのほうへ行ったことがわかりました。兄たちは良い牧草地を求めながらドタンまで行ってしまったのです。ドタンはそこから24キロも離れた所です。一日も歩いて行かなければならない距離です。こうなると諦めたくなるでしょう。特に穏やかな話もできない兄たちのためにもう一日も歩いて行くことは嫌でしょう。そのまま家に帰ることもできました。しかし、ヨセフはドタンまで行きました。ここでヨセフの生き方も学ぶことができます。彼には父への従順と尊敬がありました。任されたことに対する責任感と忠実さがありました。ヨセフは父かたら頼まれたことに対して素直に答え、その目的を達成するまで忠実に行ないました。仕事も勉強も焦らずコツコツが大切であると言われます。彼は適当にやってしまうのではなく、小さいことにも忠実な人だったのです。こういう生き方で生活して行ったので彼は後に異国の地エジプトでも総理大臣になって行きます。小さな事に忠実であった時、大きなことにも忠実な人になり、大きなみわざにも用いられるようになったのです。ではドタンまで行ったヨセフを迎える兄たちの態度はどうでしたか。18節をご覧ください。「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうと企んだ。」とあります。普通の兄だったら、はるかかなたに弟が見えると走って行って迎えることでしょう。そんなに遠くまで探しに来た弟を喜んで迎えてくれたはずです。ところが兄たちは弟を殺そうと企みました。憎しみはついに殺人に発展しました。ただ、長兄のルベンはこれを聞き、彼らの手からヨセフを救い出そうとしました。それでルベンは兄弟たちにヨセフを荒野のこの穴に投げ込みなさいと言いました。結局、ヨセフが兄たちの所に来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込みました。不幸中の幸いに、穴の中に水がなかったのですが、兄たちが食事をイシュマエル人の商人が来ました。そこでユダの提案があってヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚で売りました。結局、ヨセフは兄さんたちに踏みつけられて、エジプトに奴隷に売られました。来週学びますが、エジプトではヨセフが大変な試練に遭い、過酷な訓練を受けるようになります。でも、ヤコブはそれらのことを知らずにヨセフの兄たちから騙されます。兄たちはヨセフが悪い獣にやられたかのように父を騙したからです。愛する息子を失ったヤコブは幾日もの間、その子のために泣き悲しみました。ヤコブのヨセフへの偏愛は他の子どもたちに憎しみを呼び起こし、自分にも悲しみをもたらしました。ヨセフの兄たちも一生罪悪感にさいなまれるようになります。ところがここにも見えない神様の摂理がありました。もしヨセフが父の家でいたなら彼の夢は果たされなかったでしょう。神様は彼に指導者となる夢を与え、それを実現させるために温室のような家から荒野に連れ出して訓練されました。この訓練はわしの訓練でした。鷲は自分子を翼に乗せて高いところから落とすそうです。するとわしの子は必死に翼をばたばたします。そうして地面に落ちて死ぬ直前に親のわしは翼で受け取ってくれるそうです。このような訓練を繰り返すと後には翼が強くなり力強く空を飛ぶ鳥の王子になります。霊的な指導者になるためにも多くの訓練が必要です。以上で私たちはヨセフから二つのことを学ぶことができると思います。一つ目は人の憎しみを見ないで夢を見て生きていたことです。ヨセフの兄たちは父ヤコブの偏愛を見ました。ヨセフが母親を早く亡くしていたことは考えず、父親から愛されていること、長服を買ってもらっていることを見て彼を憎みました。弟が夢を話しますとそれを可愛がってあげるのではなく、それを妬み、殺そうとしました。その結果、弟を穴に投げ込み、そこから出して売ってしまいました。その後、罪悪感、罪意識に苦しみます。しかし、ヨセフは夢を見ていました。だから兄たちから憎まれても彼らを憎まず、親切に仕えました。兄たちの悪に対して悪を持って仕返しするのではなく、父の言葉に忠実に従い、自分がやるべきことを忠実にやって行く生活をしていました。ヨセフが兄たちと同じように考えていたならいろんな場面で兄たちにつぶやき、仕返しを計画して行ったと思いますが一言も文句を言わず、自分に与えられたことを忠実に行なっていたのです。それは夢を見ていたからだともいます。二つ目は夢を見ている人に試練も伴われることです。ヨセフに夢がなかったら兄たちからの虐めもあれほどひどくなかったでしょう。ヨセフに夢が持ち、その夢を兄たちに話したからこそもっとひどく虐められました。ついに、売られて奴隷になって行きました。そこでもさまざまな試練に遭います。このように、私たちが夢を持っていてその夢が実現されるまでは自分の十字架を負い、訓練も受けれらることを覚悟しなければなりません。私たちは夢を持っていてその夢の実現のためにどんな苦難も受ける覚悟をしなければならないのです。そして、私たちが夢を持ち、その夢のために自分の十字架を負うこと、苦難を受けることも覚悟するなら神様がそれに耐える力も、試練に打ち勝つ力も与えてくださいます。私たちの一歩一歩を備えてくださいます。その神様の導きによって私たちの夢は実現され、私たちもヨセフのように神様に用いられるようになります。38章はユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを言っています。38章を読んでみると、ユダは嫁であるタマルと寝て子供を産んだことが書いてあります。何でこんな汚い話がヤコブの歴史、美しいヨセフの話の中に出て来たでしょうか。それを理解するのは難しいです。ただ、マタイ1, 3に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されてあります。ユダはイエス様の系図に出るほど大切な人物であることが分かります。そして、彼も生まれ変わる前には淫らな人であり、約束を守らない不真実な人であったことも分かります。遊女の格好していた嫁と寝て二人の子どもを産んだのです。そんな彼が悔い改めた時にイエス様の系図に出るようになったのです。それは一方的な神様の恵みです。私たちもユダのように生まれながらにしてのろいの子でした。しかし、今や、私達は怒りの子でもなければ、滅びの子でもありません。主イエス・キリストによっていっさいの古きものは葬られ、彼とともによみがえされたのです(コロサイ3:1)。これが恵みの世界です。これが福音の世界です。そういうわけで、私たちも恵みの世界に生きています。自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストの十字架による赦しと救いを信じることによって救われています。イエス・キリストの系図に載せられる人になっています。「いのちの書」に名前が記されている人間なのです。だから、イエス・キリストは世の終わりまでいつも私たちのともにいてくださいます。どうか、今週も主の一方的な恵みに感謝し、主とともに歩んで行きますように祈ります。

14Genesis24M ヨセフとともにおられる主

14genesis24m, ヨセフとともにおられる主, 2014年創世記第24講, 賛美200,           2014, 29ヨセフとともにおられる主御言葉:創世記39, 41章要 節:創世記39:3 「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」今日の御言葉には、ヨセフの波乱万丈の人生が生々しく描かれています。兄たちから嫌われて奴隷として売られ、エジプトに連れて行かれたヨセフが、様々な試練を乗り越えてエジプトの総理大臣に昇進していく物語です。今日のみことばを通して、ヨセフがどうやって厳しすぎるほどの試練を凌いで勝利の人生を過ごすことができたのか、また彼とともにおられた主がどのように彼を祝福してくださったのか、その秘訣を皆様と一緒に探って恵みを分かち合いたいと思います。さて、39章1節をご覧ください。ヨセフはエジプトへ連れて行かれ、パロの廷臣ポティファルに奴隷として買い取られました。それによってヨセフは多くのものを奪われてしまいました。いつも肌身離さず身に付けていたあの「長服」も奪われ、無一文で故郷から離れなければなりませんでした。それまでヨセフは、父ヤコブの最愛の妻の忘れ形見として、父の寵愛を一身に受けてきました。また、「親の七光り」の中で自由奔放に生活してきました。そんなヨセフが、今は奴隷として異国での生活を余儀なくされたのです。この時の彼の気持ちはどうだったのでしょうか。きっと言葉では言い表せない苦しみがあったはずです, 41:51, 。言語も、習慣も、生活様式も違う異国の地に着いた彼の心は、不安や恐れで潰れそうになっていたでしょう。さらに、彼は神様さえも奪われたと思われたかもしれません。アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたその地から引き離されたからです。ところが、こういう試練の時にこそ、かえって人は成長していくものです。2節をご覧ください。「【主】がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」とあります。ここで目に留まることばがあります。「主がヨセフとともにおられる」とのことです。そのことばは39章だけで4回も繰り返されています, 。主がともにおられたから、彼は「自分が何をしても、主がそれを成功させてくださった」, 39:23, と告白しています。彼はきっと「主がともにおられる」ことを信じ、切に祈っていたはずです。また彼は、一人ぼっちになっても、辛い試練に遭っても、「にっちもさっちもいかない」時にも、自分を見捨てずいつもともにおられる主を信じていたはずです。人は「目に見えるもの」、例えば、お金や肉親、友達、名誉、知識などに頼りがちですが、それらは「草のようにしおれ、花のように散る」、無用なものにすぎません。ヨセフは目に見えるすべてのものを奪われましたが、それと引き替えのように最高のものを得ました。それは「主がともにおられる」という信仰だったのです。では、主がともににおられたヨセフは、どんな者となったのでしょうか。第一に、ヨセフは幸運な人となりました, 39:2〜6, 。2節で使われている「幸運」は、英語のNIV聖書では、「the, lord, with, joseph, prospered, 」となっており、即ち、「繁栄する」という意味です。新共同訳では「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と訳されています。いずれにせよ、ヨセフは「主が彼とともにおられた」ことによって幸運な人になり、彼の人生は繁栄したのです。彼は恐らく奴隷根性でのらりくらりと働いたのではなく、信仰の持ち主としてのアイデンティティーを持って、一生懸命に働いていたはずです。なぜかと言うと、「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た」, からです。それでヨセフは主人に愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねたわけです。その時から、さらに【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を大いに祝福してくださったのです, 。最近「ブドウの木fellowship」が繁栄しつつあるのを目で見て感じています。ブドウ木の枝から実が実りつつあります。先週は聖也兄弟のお父さんが礼拝に参加されました。ブドウの木の同労者たちは笑顔で輝いています。毎週の礼拝後の集まりは修養会のようだそうです。恵みを分かち合う話が長くて、昼ごはんを食べる気にならないほど盛り上がっているみたいです。それは、「主がともにおられる」からでしょうが、その裏には信仰を守っている方、毎日夜明けに切に祈っている方、そしてお互いに手を携えて仕える良き同労者がいるから、主に祝福されているだろうと思います。第二に、ヨセフは人に仕える者、即ち、良き牧者となりました, 39:7, 。39章7節をご覧ください。主によって幸運な人となったヨセフに、再び大きな試練が襲いかかってきました。それは若いヨセフにとっては甘い誘惑でした。ある日、主人の妻がヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言ったのです。彼女は「体格も良く、美男子」, だったヨセフに惹かれたようです。そのうえ彼の誠実さや忠誠心などの人柄に心を奪われていたのかもしれません。ヨセフはそれをきっぱりと拒みました。それでも彼女は毎日、執拗にヨセフに言い寄りました, 。若い青年として、ヨセフも性的な誘惑に全く動じない男だったはずがありません。しかも、奴隷の身分であるヨセフにとって、主人の妻からの誘惑を断ることは非常に困難だったに違いありません。しかし、彼はどうやってその誘惑に打ち勝つことができたのでしょうか。39章9節にその秘訣があります。「ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」。ヨセフには、主人の愛と信頼を裏切ることは出来ない、即ち、「恩を仇に返す」わけにはいかない、という強い信念が、まず、ありました。また、神様に罪を犯すことはできない、という揺るぎない信仰も持っていました。ヨセフは、その不倫を「大きな悪事」と言っています。現代では、不倫を誇りに思う人もいるほど、軽く見なされ、流行のように吹聴されていますが、ヨセフは罪に妥協せず信仰を守り抜いたのです。3つ目の秘訣として、彼が自分の弱さを知っていたことがあげられます。ですから、ヨセフは彼女と一緒にいることもしなかったし, 、上着を掴まれた時には「逃げて外へ出た」, のです。ヨセフがこの誘惑に打ち勝てたことは、彼の人生にとっては大きな意味を持ちます。それは人に仕えるしもべ、即ち、良き牧者となるためには、避けては通れない道だからです。後に彼は自分の家族やイスラエルの民を救うために用いられます。そのためにもこの試練は必要不可欠なものだったわけです。39章21〜23節をご覧ください。ヨセフは主人の妻に嫌われ、「濡れ衣を着せ」られて監獄に入れられてしまいました。このことは、ヨセフにとっては非常に辛いことであり、神様を呪うようになっても当然なほどでした。しかし、彼はいじけず腐らず、悲しみに明け暮れず、試練の中でも、いつも自分とともにおられる主を信じ続けました。すると、なんと彼は監獄にいるすべての囚人と、そこでなされるすべてのことを管理する囚人のリーダーになったのです。それは、「【主】がヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」からです。そこで彼は何をしていたでしょうか。彼は自分の「波乱万丈」の人生について、囚人たちに証していたのかもしれません。また、「アブラハム、イサク、ヤコブの神様」や、罪の赦しのために「人となって私たちの間に住まわれた主」を教えていたのかもしれません。「彼が何をしても、【主】はそれを成功させてくださった」, という御言葉から、彼の監獄での生活ぶりが見て取れます。暗い雰囲気の監獄での聖書の学びは、小さな窓から照らされてくる明りのように、きっと囚人たちの心に希望の光となったことでしょう。第三に、ヨセフは夢を解き明かす者となりました, 40:1, 41:39, 。40, 41章には、夢を解き明かすヨセフのことが記されています。ヨセフが監獄に入れられてから10年が過ぎた頃でしょうか。ある日、パロ王の怒りを買った地位の高い者がヨセフと同じ牢に入れられました。献酌官長と調理官長です。ある日、彼らは同じ夜にそれぞれ夢を見ました, 40:5, 。不思議な夢で、しかも誰もが解き明かせない夢であり、彼らの顔色は悪くなりました。朝になってヨセフは彼らのいらいらしている姿を見て可愛そうに思い、「なぜ、きょうあなたがたの顔色が悪いのですか」, 41:7, と尋ねました。それからヨセフは「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか」と関心を神様に向けるようにさせてから、彼らのそれぞれの夢を解き明かしてあげました。まず献酌官長の夢は、「三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう」, という縁起の良い夢でした。ヨセフは、この時こそ神様が自分をこの監獄から救い出すために与えられたチャンスだと思い、「あなたが幸せになった時には、きっと私を思い出して・・・私のことをパロに話して・・・この家から私が出られるようにしてください」(14)とお願いしました。反面、調理官長の夢は、三日のうちにパロが彼を木につるし、鳥が彼の肉をむしり取って食ってしまう, 、悪夢でした。三日目に、彼らはパロの誕生日に呼び出され、ヨセフが解き明かした通りになりました。献酌官長は元の地位に戻り、調理官長は木につるされてしまったのです, 20‐23, 。ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さず、皮肉にも彼のことを忘れてしまいました, 。ヨセフの期待は一時のぬか喜びに終わりました。彼は自分のことで有頂天になっていたのか、恩人ヨセフのことをすっかり忘れたのです。それでヨセフはなおも二年間監獄の中にとどまることになります。私たちも、「なぜまだなのか」と焦ってしまう時があります。しかし、ヨセフの気の毒な境遇にも、神様のみこころがあったはずです。もしこの時に監獄から出されたのならば、二年後にパロの夢を解き明かすチャンスが与えられたかどうか分かりません。聖書に「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」(詩105:19)、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい・・・」(伝3:11)という御言葉があるように、ヨセフはきっとこの出来事を通して、「神の時」を待つ忍耐を身に沁みて学んだに違いありません。41章を読んでみますと、ヨセフはパロが見た夢をも解き明かしています。献酌官長がヨセフのことを忘れてしまってから二年の歳月が過ぎ去りましたが、主はヨセフのことを忘れていたのではありません。むしろ、やがて彼を用いるために着々と準備しておられたのです。パロは二つの夢を見ました。一つは、肉づきの良く肥えた七頭の雌牛が、醜いやせ細った七頭の雌牛に食い尽される夢でした, 41:2, 。もう一つは、肥えて豊かな七つの穂が、しなびた七つの穂に飲み込まれる夢でした, 。何か不吉な予感がする夢です。これらの夢を見たパロは心が騒ぎ、エジプトのすべての呪術師と知恵のある者たちを呼び寄せました。しかしその夢を解き明かせる者は一人もいませんでした, 。ちょうどその時、献酌官長が2年前に獄中であった一部始終をパロに告げたので、ヨセフは王の前に出されました。そして「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが」との王のことばに、ヨセフは即座に答えます。「私ではありません。神が・・・」, と。かつて「私は夢をみたよ!」と自慢げに言っていた頃と比べると、今の彼の品性は謙遜な器に変えられています。これがヨセフのいつものことば、姿勢、心のあり方です。この証しによって、ヨセフに接する人々は、彼が信じている神様のすばらしさを認めないわけにはいかなかったのです。では、ヨセフが解き明かしたパロの夢の意味は何でしょうか。まず第一に、この夢は偶然ではなく、「神がなさろうとすることをパロに示された」(25)ものであるということです。第二に、この夢はエジプトにまず七年間豊作があり、その後、七年間飢饉が起こることを示しています。ヨセフは、夢を解き明かすとともに、具体的な解決策も提案しました。その策は、豊作の七年のうちに食糧を備蓄しておいて、後に来る七年の飢饉に備えることです。夢が夢で終わったら、それはつまらない夢にすぎませんが、それを正しく解き明かすのが何よりも大切です。聖書のみことばは正しく解き明かさなければなりません。聖書のみことばは、青年には幻を、老人には夢を与えます(使2:17)。実に無尽蔵の夢が秘められています。そこには罪人が救われる夢も、すべての悩みが癒される力もあるのです。そういう面でヨセフは立派な聖書の教師であると言えます。なぜかというと、彼によってパロやその国の問題が解決され、パロと全ての家臣たちの心にかなったからです(37)。なぜヨセフはそのような者となったのでしょうか。パロはヨセフのことをこう認めています。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか」(38)、「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない」(39)。このように一人の霊に満ちた知恵ある聖書先生は、人を生まれ変えさせ、国を変えさせていきます。この教会は小さいですが、聖書の学びを大切にし、知恵ある聖書先生が多く立てられるように祈ります。第四に、ヨセフは囚人からエジプトを治める総理大臣となりました, 41:40〜57, 。ヨセフは30歳の時にエジプトの王パロに仕えるようになりました。エジプトに連れて来られてから実に十三年後のことでした。奴隷、そして囚人だった自分がエジプトの全土を支配する者になるとは、彼は「感慨無量」だったことでしょう。そして彼には権威のしるしとしての指輪や支配者に相応しい亜麻布の衣服も、宝石も、車も与えられました。今のエジプトでの地位、生活は、以前のものと「雲泥の差」でした。一般的には「鳶の子は鷹にならぬ」と言われていますが、何と彼は外国人として初めてエジプトの総理大臣になったのです。彼は厳しい飢饉が来るのに備えて、七年間全土を巡り歩きながら自分に任された使命を忠実に全うしていきました。彼は大臣の椅子にふんぞり返って、「あごで人を使う」ような人ではなく、むしろ謙遜な人となって、人々の悩み苦しみを助け、飢え死にしかねない民を救い、全世界に及んだひどい飢饉から人々を救ったのです。英語に、「prosperity, tries, fortunate, adversity, great, 」という諺があります。「繁栄(順境)は幸運な人を試練し、苦難, 逆境, は偉大な人を試練する」と訳することができます。これは繁栄に溺れず、さらに自分を磨いて繁栄を続ければ、まさに幸運な人となり、苦難があろうとも、それを乗り越えていく人は偉大な人となる、という意味です。私たちは順境におごらず、逆境にへこたれず、信仰と夢を持って主とともに歩んでいきたいものです。「正しい者は七たび倒れても、また起き上がり」, 箴言24:16, ます。私たちといつもともにおられる主を賛美いたします。アーメン

14Genesis25M 私をここに遣わしたのは、実に、神なのです

14genesis25m, 私をここに遣わしたのは、実に、神なのです, 2014年創世記25講 私をここに遣わしたのは、実に、神なのです。御言葉:創世記42, 28要 節:創世記45, だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。 先週、私たちは主がヨセフとともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださったことを学びました。それは誘惑と試練とに対する勝利でもありました。ほんとうに神様とともに歩む人生には成功と勝利があります。今日はヨセフが兄弟たちと会い、彼らを試し、ついに再会する、感動的な出来事を学びます。ヨセフは奴隷に売られたエジプトでも成功しましたが、兄たちは、飢饉のために食べるにも苦しくなっていました。特に20年の歳月が経ても彼らの罪責感は無くなっていませんでした。そこで、ヨセフは兄たちが悔い改めるように助け、それが確認できた時はすべてを打ち明けて涙を流します。何よりも神様の主権的な働きと導きに感動して喜びの涙を流します。ここで、私たちは夢を成し遂げてくださる神様、神様に対するヨセフの兄弟愛と信仰を学ぶことができます。どうか、私たちも神様を全く信頼して自分の人生をヨセフのように解釈して行く信仰の人として成長して行きますように祈ります。?.人の夢を成し遂げ、愛の人に変えてくださる神様パロの夢をヨセフが解きましたがその通りに、7年間の大豊作は過ぎ去り、ひどい飢饉が続きました。その飢饉はエジプトだけではなく、ヤコブの家族が住んでいたカナンの地にもありました。ついに、どこかで穀物を飼って来なければ死んでしまう状態になりました。そこで、ヤコブはヨセフの十人の兄弟に穀物を買って来るようにエジプトに行かせました。しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょに行かせませんでした。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからです。ヨセフを失っていたヤコブにとってはどうしてもベニヤミンだけは守りたいと思ったようです。こうしてヨセフの10人兄弟はエジプトに下って行きました。 ときに、ヨセフはエジプトの権力者であり、国のすべての人々に穀物を売る者になっていました。では、ヨセフの兄たちはヨセフの前でどうしましたか。42章6bをご覧ください。「ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。」とあります。今日の本文には何度も兄たちがヨセフの前で地に伏せていることを記しています, 26、43, 28、44, 14など, 。また、9a節を見ると「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して彼らに言った。」とあります。ヨセフが夢を思い出したというのは夢を持ち続けていたことも教えてくれます。約20年前、ヨセフは夢を見て兄たちや父に話しました。その中に「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」とも言いました。その後、兄たちはヨセフの夢を潰そうとしました。殺そうとして穴に投げ込みました。ルベンが反対したから殺しはしませんでしたが、イシュマエル人に売りました。それから20年の歳月が流れると、ヨセフは、もはや父にとって死んだ過去の人でした。兄たちにとっても遠い昔に死んでしまった人になっていました。ところがヨセフは夢を持っていたのです。だから、彼はかつて兄弟たちについて見た夢の通りになっていることの確認ができました。それは神様がヨセフの夢を成し遂げてくださったからです。ヨセフの兄弟たちはききんのためにエジプトにくださって来たのですが、実はそこにも神様の働きがありました。ききんは自然現象です。個人とは何の関係もなさそうに思われます。ところがその飢饉が、ヨセフの個人的な夢に関わっていたのです。ききんが穀物不足を生み出し、ヨセフの兄弟たちがヨセフに会わざるを得ない状況を作り出しました。そうして、兄たちは顔を地につけてヨセフを伏し拝みました。ここで、神様は神様からの夢を持っている人の夢を中心に働いてくださることが分かります。神様は何となく生きている人ではなく、神様からの夢を持っている人を中心に世界を動かしておられるのです。ヨセフは兄弟たちを見て、自分の兄弟であることがわかりました。また、ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出しました。ところが、彼らの中に最愛の弟ベニヤミンがいませんでした。ヨセフはベニヤミンも自分のように奴隷として売られたかと思われたでしょうか。ヨセフは自分のことを明かさずに「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」と言いました。そして弟のベニヤミンを連れて来ることによって彼らの真実さを証明するように言い、彼らを三日間、監禁所に入れて置きました。三日目には「兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」と言いました。こうして、飢えている家族を助け、ベニヤミンも連れて来るようにしました。ところが、兄たちは何と言い合っていましたか。21節をご覧下さい。彼らは互いに言いました。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」ルベンが彼らに答えて言いました。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」, 。ここで兄たちは20年前に犯した罪の問題が解決されず、苦しんでいることが分かります。彼らは罪責感のために苦しんでいたのです。でも、彼らはヨセフとの間に通訳者がいたので自分たちの話をヨセフが聞いていたとは知りませんでした。しかし、ヨセフは彼らが自分を奴隷として売った罪のゆえに苦しんでいることが分かりました。同時に、兄たちが自分を憎み、自分を殺そうとして穴に投げ込み、エジプトに売ってしまったことも思い浮かんだことでしょう。ヨセフは心を痛めました。それを耐えられなくなってヨセフは彼らから離れて、泣きました。それでも、心を開いて「私はヨセフです。」と告白するまでには至りませんでした。むしろ、暴君のように、シメオンを人質にし、弟のベニヤミンを連れて来るように言い渡して兄たちをカナンに帰しました。その時、兄弟たちの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返しましたが、兄弟たちが帰る途中の宿泊所で、袋をあけてみると、自分達の銀, が袋の中にそのまま入っていました。彼らは心配し、身を震わせて互いに言いました。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」こうして、彼らがカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて報告しました。ヤコブはヨセフを失ったのに、今度はシメ, オンもいなくなり、そして、ベニヤミンまでも失うのではないかと苦しみました。それでベニヤミンを彼らといっしょには行かせないと言いました。しかし、その地での飢饉は、ひどかったのでヤコブは兄たちがベニヤミンを連れて行くことに対して許さざるを得なくなりました。その時、ユダは父親に「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者, となります。」と説得しました。以前とは全くユダの態度が変わっています。ヤコブは「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」と言ってすべてのことを主にゆだねました。こうして兄弟達は再びヨセフの所に行きました。ヨセフは彼らが来たこと、特にベニヤミンもいっしょに来たのを見て非常に喜んだでしょう。ヨセフは兄弟達を家へ連れて行き、豊かにもてなすようにしました。それからシメオンも彼らのところに連れて来ました。ヨセフはまず父の安否を尋ねました。そして同じ母の子である弟のベニヤミンを見て「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」と祝福しました。30節をご覧下さい。ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなりました。同じ母から生まれた唯一の兄弟であるベニヤミンを見た時、どれほど胸が熱くなったでしょうか。彼は泣きたくなって、急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣きました。やがて、彼は顔を洗って出て来ました。そして自分を制して、「食事を出せ。」と言いつけました。それから、ヨセフは、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらせました。また、ベニヤミンにはほかのだれの分け前よりも五倍も多く与えました。それからヨセフは兄たちを父の所に帰しますが、兄たちの心を知るために再び事件を起こしました。ベニヤミンの袋に自分の銀の杯を穀物の代金といっしょに入れておくようにし、彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、彼らのあとを追いついて調べるようにしたのです。その結果、ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかりました。この時、兄たちはベニヤミンを見捨てて帰途に就くこともできました。過去だったらベニヤミンにすべての責任を負わせて自分達だけが生き残る道を考えていたでしょう。実際に兄達には罪がありませんでした。しかし、彼らは自分達に一緒にしもべになると言いました。特に、ユダ゙は自分を犠牲にしてベニヤミンを救おうとしました。44章18〜34節まではユダがそれをお願いする内容です。彼のお願いは非常に感動的で、説得力があります。ユダは、ヨセフをエジプトに売った張本人です。それが今や捨身になって、ベニヤミンを取り戻そうとしています。彼はベニヤミンの代わりに自分が一生奴隷になると言いました。このユダの説得は口先だけではなく、悔い改めから出て来たものです。彼はベニヤミンに何か問題が起こると自分が責任を負うと父に約束したことを守ろうとしました。自分を犠牲にしてでも, 自分がしたことに対して最後まで責任を取ろうとしたのです。また、彼の説得には弟に対する愛があります。過去彼はヨセフを憎み、奴隷として売ることに積極的に働きました。弟の苦しみ、悲しみには関心がありませんでした。子どもを愛する父の心にも関心がありませんでした。しかし、今は弟のことや年老いた父のことを考えています。彼らがどれほど悲しみ、苦しむようになるかを考えました。自己中心ではなく、兄弟を愛し、父を尊敬する人に変えられていたのです。真実な悔い改めによって彼の心も人に対する態度も変わっていることが分かります。神様は彼の真実な悔い改めを受け入れ、彼を救いの御業に貴く用いられました。後にヤコブはユダを祝福して語りました。「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。, 9、10, 」やがてダビデに受け継がれ、メシヤ待望へとつながります。ユダは自己中心の人から自分を犠牲にしても兄弟を愛し、父を愛する人に変わった時に救いのみわざに尊く用いられたのです。?.神様の完璧なご主権と導きを信じるヨセフ45章1節をご覧下さい。ヨセフは、兄達が悔い改めたことを知った時、それ以, 上自分を隠す必要がありませんでした。それで、自分を制することができなくなって、みなを、自分のところから出してから声をあげて泣きました。それがどれほど大きかったか、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞きました。彼が今までわざと事件を起こして兄達を困らせたことは彼らに復讐するためではありませんでした。ヨセフは兄達を真に愛していました。ヨセフは兄たちが犯した罪を悟って告白し、悔い改めにふさわしい行動をすること願いました。そして、それが確認できたときは、感動と和解の涙を流しました。ここで、やっとヨセフは兄たちを心から赦したことでしょう。また自分の心も癒されたことでしょう。かつてヨセフは二番目の子どもをエフライムと名づけました。それは主がこの苦しみの地で、自分に多くの償いをしてくださった、と告白したことです。しかし、それは物質的、社会的なことであって、心の償いではありませんでした。深い心の傷は長らく癒されていませんでした。多くの富と権力で、自分の心の傷を癒すことは無理だったのです。ほんとうの平安と幸せを手にすることはできませんでした。兄たちもヨセフを憎しみ、売ってしまった罪の問題が解決されなかった時は罪責感から解放されませんでした。ききんの時に、食糧の問題が解決されても、宮殿の料理でもてなしを受けても心に平安はありませんでした。しかし、彼らが仲直りをし、互いに愛し合うことができた時に心も癒されたのです。それで、互いに彼らは自分のことを隠すことなく、言い表わすことができました。このように罪の問題が解決され、愛する生活をする人はありのままで生きることができます。ユダの言葉を聞いたヨセフは兄たちに自分を現しました。そして驚きのあまり、声も出せない兄達に神様の摂理を証しました。45章章4, 8節はヨセフの証しです。5節, をご覧下さい。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」ここで私たちはヨセフが兄達を赦し、彼らを暖かく受け入れることができたのは、彼に信仰があったからであることがわかります。ヨセフは自分の人生が兄達の手によって左右されたのではなく、神様の主権と摂理の中で導かれたことを証ししました。兄達はヨセフを憎んで奴隷として売りましたが、神様はそれを働かせて益としてくださいました。彼を鍛錬してエジプトの総理大臣として立てられました。8節をご一緒に読んでみましょう。「だから、今、私をここに遣わした, のは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」素晴らしい信仰告白です。ほんとうに信仰のある人はすべてのことにおいて神様の主権と導きを認めて再解釈することができます。同じ出来事でもどのように解釈するかによって意味が違ってきます。同じことを経験してもある人はつぶやき、ある人は感謝します。不幸に思う人もいるし、幸せに思う人もいます。どのように解釈するかによって苦しい不幸の人生を生きるか、幸せな人生を生きるかが決まると思います。ところが、信仰の人には人の行ないも、自然現象も神様のわざとして再解釈することができます。ヨセフは兄弟によって売られたのではなく、神様に遣わされたと考えました。また信仰の人は、神様の業がなされる目的を理解しています。ヨセフは、自分がエジプトの統治者になったのは、エジプトの民が救われるだけではなく、ヤコブの家族、つまりイスラエルの民も皆救われるためであったと考えました。ここで、ヨセフはかつての夢の本当の意味を悟ったことでしょう。使徒パウロは次のように言っています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。, ローマ8, 28)」パウロはヨセフヨセフの生涯を通して神様のご計画の完璧さが分かったことでしょう。ヨセフを通しても、自分の体験を通しても完璧なご計画の中で私たちの人生が導かれていることが分かったのです。そうです。神様はご計画の中でヨセフを導かれたように私たちひとりひとりも導いておられます。だから、神様を信じる人にとっては神様が自分の人生を常にベストの道に導いておられることがわかります。それで、逆境の時にも明るく、肯定的に考えることができます。すべての弱さと孤独に打ち勝ち、感謝と恵みに満たされた人生を過ごすことができます。順境の時には感謝し、逆境の時でも耐え忍びます。将来のことに対しては、夢を持ち続けて神様にすべてを委ねて最善を望むことが出来ます。それは、悪をも善に変え、死をも命へと変えてくださる神様が、わたしどもと共におられることを、知っているからです。

14Genesis22M べテルに上って行こう

14genesis22m べテルに上って行こう, 2014年創世記第22講                                            べテルに上って行こう御言葉:創世記34:1−36, 43要 節:創世記35:3「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」今日は父の日, 一家を支えてくれる父親に感謝する日, です。昨日、ブドウの木フェローシップではお父さんたちのために手巻き寿司を用意していましたが素晴らしいですね。父親である方たちにお祝いを申し上げます。私も父親のひとりですが、それよりも自分の父親が思い出されます。ほんとうに一家を支えてくれる父親でしたが、私はあまり親への感謝の表現がよくできませんでした。皆さん、両親が生きている間によく感謝することをお勧めします。私たちクリスチャンは天国でも会えますが、この地にいる間も父母を敬うことは神様から与えられた戒めです。今日の御言葉は、神様が娘と息子たちのことで困っている父親を助けてくださった出来事です。ヤコブは一家を支える父親です。でも、まだ子どもたちから尊敬されていなかったようです。子どもたちは自分勝手に行動して父親を悩ませ、困らせました。娘が性的暴行を受け、息子たちが住民の男たちを殺した事件が起こったのです。それはヤコブがベテルまで行かずシェケムに留まっていたから起こった問題でもありました。ところが、憐れみ深い神様はそんなヤコブでも助けてくださいます。では神様は困っているヤコブをどのように助けてくださったでしょうか。ここで、私たちは困っている時はどうするべきか、自分の力では解決できないような問題に対してどうすればいいのかと言うことについて学ぶことができます。34章1節をご覧ください。「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。」とあります。ディナは、13歳から15歳の少女だったと考えられています。好奇心の旺盛な年頃でしょう。彼女はその土地の娘たちを訪ねようとして出かけました。多分祭りの時であったと思います。カーニバルベイビーという言葉がありますが、クリスチャンはいつも敬虔に生きるために注意しなければなりません。ところがシェケムに留まっていたヤコブの家庭が敬虔さにおいて緊張していなかったようです。箴言4章4, 5節を見ると「悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。」とあります。ディナは悪者どもの道にはいってしまいました。結局、少女のふとした好奇心がとんでもない災禍をもたらすことになります。ディナが出かけるとその土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムに見られました。シェケムはディナを見て、これを捕らえ、これと寝てはずかしめました。つまり、ディナは性的暴行を受けたのです。ただシェケムはディナを愛していました。聖書に「心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。」とあります。シェケムはその愛のゆえに、父のハモルに「この女の人を私の妻にもらってください。」とお願いしました。いわゆる、できちゃった結婚を求めたのです。この事態がヤコブとヤコブの息子たちに知らされました。その時にヤコブと息子たちの反応はどうでしたか。5, 7節をご覧ください。ヤコブはシェケムが自分の娘を汚したことを聞きましたが息子たちが帰って来るまで黙っていました。なぜヤコブは黙っていたでしょうか。それはあまりにも大きい悲しみと痛み、あまりにも恥ずかしいことなので人に言えない恥の沈黙だったでしょう。しかし、ヤコブの息子たちはディナのことを聞いた時、心を痛めるだけではなく、ひどく怒りました。シェケムが妹のディナと寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからです。事実、シェケムの人々ができちゃった結婚をしていても神様を信じている人々には許されないことでした。倫理意識が低いシェケムでは許されていたようでハモルはシェケムがディナを恋い慕っているから互いに縁を結びましょうと言いました。しかし、ヤコブの子どもたちには許せるような問題ではありませんでした。ヤコブの息子たちには理解できないことでした。そこで彼らはシェケムとその父ハモルに答えるとき、悪巧みをたくらみました。結婚によって一つの民になりましょうと言って若者たちに割礼を求めました。すると、町の門に出入りする者はみな、割礼を受けました。ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けたのです。割礼を受けることは包茎手術をすることだから傷つけることになります。そして、手術の日だけではなく、傷が直りまで痛みが続けます。ところが、包茎手術する人は三日目になると一番傷が痛むそうです。ヤコブの息子たちは割礼を受けているからそれを知っていて悪巧みをたくらんでいました。しかし、ハモルの息子たちがそれを知りません。割礼を受けてちょうど三日目になるともっと痛くなることを感じるだけです。ところが、ヤコブの息子たちは彼らを攻撃しました。特にヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺しました。その結果、ヤコブはどうなりましたか。30, 31節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」」とあります。ヤコブは困ってしまいました。黙っていた娘の恥がみんなに知らされるようになりました。カナン人とペリジ人からは憎まれ者になってしまいました。その上、ヤコブの家族は少人数しかいません。シェケムの住民がヤコブを攻め、打つなら、ヤコブだけではなく、彼の家族も根絶やしにされます。悪巧みを企んで復讐をした息子たちを非難し、責めることもできません。性的暴行は神の民イスラエルにとって汚れた行為であり、恥ずべきことだからです。敬虔なイスラエル人にとって決してしてはならないことです。そのことをした者は神様の裁きを受けて殺されねばならないのです。そういう意味で息子たちの復讐は当然のことなのです。このような状況でヤコブはどうしたらいいでしょうか。あれもこれもできない状態です。全く解決策が見えません。ほんとうに困ったものです。神様はそんな彼をどのように助けてくださいましたか。35章1節をご一緒に読んでみましょう。「神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたの兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」ヤコブは娘が受けた性的暴行、住民の復讐のことで困っているのにそれに対する具体的な解決策は何も言われませんでした。「乱暴な子どもたちを注意しなさい」と言うことでもなく、シェケムの人たちと戦う秘訣を教えたのでもありません。直面している問題に対しては何も言われませんでした。ただ、霊的方向を与えてくださいました。神様はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」と命じられたのです。「立ち帰れ。」と言うことです。どうしてでしょうか。それは目に見える現実的なことよりも神様との関係性の回復が最も大切であるからでしょう。特にベテルはヤコブが初めて神様と出会ったところです。夢の中で神様を体験したところです。そこで神様は「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。, 」と約束してくださいました。そこでヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました。ヤコブはベテルで神様と出会い、約束の御言葉をいただいて神様との関係性を結んでいたのです。その約束の御言葉を堅く信じてベテルまで行くべきでした。ところが、彼はシェケムに留まりました。神様の御言葉を思い出すこともなく、シェケムの人々と交わっていました。シェケムの族長から信頼されることを喜び、彼らと調子を合わせていました。34章を読んでみるとシェケムでの生活の中に「神、主」と言う言葉が出て来ません。彼はシェケムの人々と調子を合わせながら熱くも冷たくもない信仰生活をしていました。神様を信じている者としての敬虔さも、父親としての霊的権威も失いつつありました。娘が異邦人と交わることも注意することができなくなっていました。その結果、一人娘のディナが性的暴力を受ける事件が起こってしまいました。それは言葉で言い表せないほどの苦しみであったでしょう。さらに息子たちの復讐によって町の人々を殺すことになりました。自分の力では何もできないことが起こり続けて困っていました。神様はそんな彼にまず霊的な方向を与えてくださったのです。最も優先的に必要なのが神様との関係性を回復であったからです。そこで神様が彼に現れたベテルに立ち帰って自分に現れた神様に祭壇を築くように助けてくださいました。つまり、現実生活に妥協していたことを悔い改めて神様に誓った誓願を果たし、神様に礼拝する方向を与えてくださいました。初めて神様と出会ったベテルに上って行って神様から与えられた約束の御言葉を思いだし、それをつかんで生きるように助けてくださったのです。28章20, 22節を見るとヤコブは誓願を立てて言いました。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る十分の一を必ずささげます。」と誓っていたのです。神様はその誓願の祈りを聞かれ、彼の人生を豊かに祝福してくださいました。彼の旅路を守ってくださいました。彼に食べるパンと着る着物を賜っただけではありません。神様は彼の人生を何百倍も祝福してくださいました。多くの子どもたちを与え、財産を持たせてくださいました。ですから、ヤコブも神様のように、神様との約束を守らなければなりません。つまり、シェケムから離れてベテルに上り、そこに住んで神様との関係を回復して誓願を果たさなければならないのです。それは神様との関係性が良くなると親子関係も、人間関係も良くなるからです。私たちもヤコブのようにシェケムのようなこの世で生活しながらさまざまな試練に遭います。ヤコブのように子どもたちのことで悩まされる時があるでしょう。子どもたちのわがまま、自分勝手な行動のために悩まされ、苦しむ時もあります。自分の過ちもあるから強く注意することもできず困ってしまう時もあります。子どものことだけではなく、自分の力ではどうしようもない問題のために困ってしまう時があります。そういう時に私たちに求められることは第一にベテル, 神の家, に上り、神様と交わることです。初めて神様と出会った時の御言葉を思い出して信じ、それをつかんで行くことです。神様の御前に決断したことを守ることです。そのために時に神様と出会った最初のところに行く必要もあります。地理的には移動ができなくても最初に出会った時の御言葉を思い出して信じることです。つまり、神の家である教会に来て神様と交わる祈りをしなければならないのです。エレミヤ書29書12, 13節を見ると「あなたがたが私を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」とあります。私たちがほんとうに困っている時でも神様に祈り求めるなら神様が聞いてくださるし、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちが神様と出会ったその時の心を回復して礼拝して行くうちに、全能の神様の愛と力を体験して行くことができます。私も生活の中で困っている時があります。職場では中間管理者として校長と先生の間、時には校長とpta, の間でどうすればいいのか分からなくて困る時があります。子ども教育においても叱っていいのか、黙っていた方がいいのかよ分からなくて困る時もあります。でも、毎日夜明けに教会に上り、神様に祈って行くうちにさまざまな問題が解決されて行くことを何度も体験して来ました。 ういう意味では、私たちが日々心を新たにして神の家に立ち帰ること、神様と交る祈りと礼拝はとても大切です。特に何か問題が生じたならば、自分の感情や知恵に引っ張られるのではなくて、まずは、神様の御前に出て行くことです。そして神様の御声に聞き従っていくことです。神様に真に心を寄せる歩みをして行くのです。ではヤコブは神様の命令に対してどのように反応しましたか。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」素晴らしい場面です。ヤコブは、即座に行動に移しました。彼は、家族と自分と一緒にいるすべての者が身につけている異国の神々、つまり、偶像とかお守りの一切を取り去るように命じます。多くの神々の一つとしてイスラエルの神、主を崇めるのではなく、ただ主なる神様だけを神として崇めるためです。そうではなかった時に、ヤコブは自分たちのあり方に、現在の困難があったことを知ったからです。 そのヤコブの言葉を聴いて、彼の家族と一行は、「異国のすべての神々と、身につけていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木下に埋め」ました。つまり、これまでの多神教的な信仰を完全に捨て去ったのです。自分が神様よりも大切にして拝み、楽しんでいたものを捨てました。その上で、彼らはベテルに向かって出発しました。神様の御言葉に応えて悔い改め、礼拝へと出発したのです。彼らは悔い改め、悔い改めにふさわしい行動をしました。その時、どんなことが起こりましたか。 5節をご覧ください。「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」とあります。カナンの連合がヤコブの息子たちの殺人に憤って追撃して来ましたが、神様が彼らに恐怖を植え付けました。すると、彼らはそれ以上ヤコブ一行のあとを追うことができなかったのです。ヤコブが自分の頭を回すのではなく悔い改めた時に、神様がすべての問題を解決してくださったのです。こうしてヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来ました。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・べテルと呼びました。そして、リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木に葬られました。神様はベテルに帰ってきたヤコブを再び祝福してくださいました。ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけました。結局、神様との関係を回復した時、神様が問題を解決して下ったことが分かります。それだけではありません。神様は再びヤコブを祝福してくださいます。35章9, 12節をご覧ください。「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」」とあります。神様は30年前、ヤコブが石を枕にして横になっていた時にくださった御言葉を再び与えられました。それによって神様が彼に与えられた祝福とビジョンを思い起こしてくださいました。結局、神様は去る30年間ヤコブとともにおられ、彼を訓練して育てられたことが分かります。ヤコブは利己的であり、自己中心的な人でした。兄を騙し、父親も騙した人間でした。ところが神様が彼とともにおられ、彼を訓練して育てられると、神様中心の人、祈りの人になって行きました。神様は彼がどんな問題でも神様に祈り、神様と交わり、神様に礼拝する人になるように助けてくださいました。ここで、私たちがどのように人として成長して行くべきかを学ぶことができます。どうか、私たちも自己中心から神様を中心に生きる者に変えられて行きますように祈ります。困った時には自分の知恵や人に頼ることよりも神の家に行って神様に祈り、神様に礼拝する者として成長して行きますように祈ります。すると、神様が私たちを大いに祝福してくださいます。創世記を通して学んでいる私たちの神様は祝福の神様です。どうか、祝福された人生、祝福そのものとして生きるように祈ります。

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14X-mas1.神様に見捨てられたイエス・キリスト

mas1, 神様に見捨てられたイエス・キリスト, 2014年クリスマス特集1, 私たちを救うために、神様に見捨てられたイエス・キリスト御言葉:マタイの福音書27:11−66要 節:マタイの福音書27:461.イエス様は、ピラトの尋問とユダヤ人たちの告訴に対して、どのようにされましたか, 。ピラトはなぜ、イエス様を釈放しようとしましたか, 。しかし、群衆はピラトに、イエス様をどうするように、求めましたか, 。2.結局、ピラトはどんな判決を下したのですか, 。イエス様は、どのようにあざけられましたか, 。総督の兵士たちは、誰に、イエス様の十字架をむりやりに背負わせましたか, 。3.イエス様は、なぜ苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうと、されなかったのでしょうか, 。兵士たちはイエス様を十字架につけてから、何をしましたか, 。イエス様の頭の上には、どんな罪状書きが掲げられましたか, 。4.人々は、何と言って、イエス様をののしりましたか, 。十二時から三時まで、全地はどのようになりましたか, 。イエス様は、何と言って叫ばれましたか。それを聞いた人々は、どんな誤解をしましたか, 。イエス様はなぜ、神様から見捨てられなければならなかったのでしょうか, イザヤ53, 。5.イエス様が息を引き取られた時、神殿ではどんなことが起こりましたか, 。その出来事には、どんな意味があるのでしょうか, ヘブル10, 。そして、地上ではどんなことが起こりましたか, 。6.百人隊長はどんな告白をしましたか, 。誰が、イエス様の死を、見守っていましたか, 。アリマタヤのヨセフは、イエス様のために、何をしましたか, 。宗教指導者たちはなぜ、番兵にイエス様の墓の番をさせたのでしょうか

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14x-mas3.この上もない喜びのクリスマス

mas3, この上もない喜びのクリスマス, 2014年関東地区聖誕礼拝この上もない喜びのクリスマス御言葉:マタイの福音書2:1−12要 節:マタイの福音書2:101.イエス様はいつ、どこでお生まれになりましたか, 。この時、東方の博士たちがエルサレムに来た目的は何でしょうか, 。なぜ、ヘロデ王とエルサレム中の人は恐れ惑ったのでしょうか, 。2.ヘロデは、どのようにして、イエス様がお生まれになる場所を知るようになりましたか, 。預言者の預言によると、この地でお生まれになるイエス様はどのようなお方ですか, 6,ミカ5, 。3.博士たちは、どのようにして幼子のおられる所まで、進んで行くことができましたか, 。星を通して、博士たちを幼子イエス様のところに導いてくださった神様について、話してみましょう。博士たちの喜びはどうでしたか, 。4.博士たちが幼子を見、ひれ伏して拝んだのにはどんな意味がありますか, 。彼らはなぜ、三つの贈り物をささげたのでしょうか, 。私たちは、今年のクリスマスをどのようにして、迎えたら良いでしょうか。5.博士たちは、なぜ別の道から自分の国へ帰って行ったのでしょうか, 。ここに、幼子イエス様を保護しておられる神様の御手の働きが、どのように現れているのでしょうか。