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14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

14Genesis9M あなたの名は祝福となる

14genesis9m, あなたの名は祝福となる, 2014年創世記第9講あなたの名は祝福となる御言葉:創世記11:27−12:20要 節:創世記12:2「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」 今日、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に遣わす派遣礼拝をささげるように導いてくださった神様に感謝します。二人の前で言うことは失礼なことですが私はこの二人にさまざまな面で助けられて来ました。また二人の謙遜と忠実さから教えられる時も多くありました。ほんとうにこの教会にも多大な影響を及ぼして来たと思います。だから、この家族を福岡に遣わしたくありませんでした。なんとか東京に戻って来てほしいと思っていました。私にはバベル塔を建てたノアの子孫たちのように、彼らと一緒にこの東京ubf教会を大きくして行きたいという心もあったのです。しかし、神様は私たちが一つのところに集まってバベル塔を建てることより、散らされて行くことを望んでおられました。神様はアブラハムを召して祝福し、彼を通してすべての民族が祝福されるようにしたようにヨセフ宣教師家族を祝福し、彼らを通して九州大学の学生たち、福岡の人々も祝福されることを望んでおられます。 ですから、神様は派遣礼拝の御言葉として創世記12章の御言葉を与えてくださったと信じます。実際に今日の本文は派遣礼拝だから私が特別に選んだのではありません。私たちが選んだ聖書の個所でもありません。私たちは16日に派遣礼拝をささげようとしていました。そうなったら派遣礼拝の御言葉が12章ではなかったはずです。ヨセフ宣教師の事情があって一週間前にしたのですが、不思議にも創世記メッセージの順番が12章になっているのです。神様の導きに驚き、心から感謝します。では神様はアブラハムをどのように召され、どのようにして遣わされたでしょうか。アブラハムは神様の召されに対してどのように反応したでしょうか。この時間、アブラハムの神様を深く学び、御言葉を聞いて従ったアブラハムも深く学ぶことができるように祈ります。先週、私たちはノアの方舟による新しい歴史は失敗したことを学びました。神様は人々が集まってバベル塔を建てるのをやめさせました。主が人々をそこから地の全面に散したからです。しかし、愛の神様は人間をあきらめませんでした。人類の歴史がバベルの町を建てることで失敗しても全くあきらめませんでした。そして今度は神様とともに歩み、全き人であったノアとは違う人を得られます。神の御心にかなっていたノアのように偉い人ではなく、平凡な人です。偶像崇拝が盛んなところでそこの人々と一緒に偶像崇拝をしている人です。この世の知者でもなく、権力者でもなく、この世の愚かな者であり、この世の弱い者です。75歳の年寄りアブラハム、その年までひとりの子どももいなかったアブラハムを選んだのです。神様はこのアブラハムを通して全く新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられました。そこで、創世記の著者は12章から紹介するアブラハムの歴史を始める前に彼の家族関係と生まれ故郷についても書き記しています。11章27、28節をご覧ください。「これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。」とあります。アブラムの父はテラです。ヨシュア記24章には彼が偶像崇拝者であったことを記しています。アブラムの3人兄弟の中でハランは父テラの存命中に死にました。後でハランの息子ロトはアブラムが連れて行きます。娘ミルカはナホルの妻になります。そして、アブラムの妻サライがいますが、彼女は不妊の女で、子どもが生まれませんでした。 そこで、テラはアブラム、ロト、サライとを伴い、カナンの地に行くために、カルデヤ人のウルから一緒に出掛けました。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住み着きました。そこで平凡な生活をしていたテラは205歳の時に死にました。その時、アブラハムにどんなことがありましたか。12書1節をご一緒に読んでみましょう。「主はアブラムに仰せられた。『あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』」「アブラム」は後に名前を変えられて、アブラハムと呼ばれるようになった人物です。今から4千年ほど前の人で、イスラエル民族の先祖となった人です。神様はアブラハムに「生まれ故郷、父の家」を出て行くように命じられました。年寄りの人が生まれ故郷を出て行くことはそれだけでも厳しいことです。普通はなかなか忍び難いことです。さらに、父の家を出て行くことも大変なことでしょう。今から4000年前の古代社会においては、一切の人間の絆と、身の安全、命の保証すら、捨て去ることを意味します。神様が私たちをお招きになるときにも、「自分を捨てて私に従いなさい」と言われます。それは、私たちにとっても人間の絆、身の安全、いのちの保証すら神様に委ねなさいと言われることでしょう。今まで築き上げてきた人間の絆、自分の安全、生活のすべてを捨てるほどに神様に委ねるということはなかなか厳しいことでしょう。神様のお招きに「はい!」と言って従うことは、やさしくないと思います。ところが、神様は出て行くことを命じるだけではなく、それに伴う祝福も約束してくださいました。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ここに、「祝福」という言葉が5回も繰り返されています。創世記3章のアダムの堕落から11章のバベルの塔までの間には「呪い」という言葉が何度もありました。そのすべての呪いを覆すような力を感じます。神様は今までの人類の呪いの歴史を、祝福の歴史へと変えようとしておられるのです。その決定的なターニング・ポイント、転換点においてアブラハムの信仰が用いられるのです。ヘブル人への手紙11章によるとアブラハムがそれを聴いて信じたのですが、その信仰が人類の歴史を祝福の歴史に変えて行くターニング・ポイントになったのです。私は個人的に大学1年生の冬が呪われる人生から祝福される人生に変えられるターニング・ポイントになったと思っています。その時、私は神様がアブラハムに与えられたこの御言葉を自分にも与えられたと信じて祝福の人生を始めたからです。その時、牧者宣誓をした私の所感のタイトルは「あなたは福のかたまりになれ, &#45320, &#45716, &#48373, &#45929, &#47532, &#44032, &#46104, &#46972, 」でした。振り返ってみると、その後の私は祝福された人生を生きて来たと思われます。何の問題もなかったわけではありませんが神様から愛され、祝福された人生になったと告白できます。神様に心から感謝しています。神様がアブラハムに約束された祝福は、内容的に考えてみますと、大きく四つ数えることが出来ます。一つ目はアブラハムが大いなる国民となることです。二つ目は彼が祝福そのものになることです。つまり、祝福の源、祝福の基(もとい)となることです。三つ目は彼に土地が与えられることです。四つ目は彼に約束の子、イサクが生まれることです。 先ず、大いなる国民となります。これは、バベルの塔を建てて名を挙げようとして失敗した人々と、ちょうど対照的です。アブラハムの子孫は自分の力によってではなく、神様の祝福によって大いなる国民となるのです。 二つ目にアブラハムは「祝福となる」ということです。これは神様がアブラハムを通して全世界をお救いになるという、約束です。彼が選ばれたことの使命が、この中に語られています。アブラハムは祝福そのものとして救いのみわざに用いられるのです。三つ目にアブラハムに土地が与えられる、と約束されています。7節を見ると神様は「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束してくださいました。土地は人間が生きて行く支えです。罪を犯した人類に対する神様の呪いは、全部「土地を追い出される」という形で語られていました。アダムとエバも、カインも祝福されていた土地から追い出されました。農耕社会において人間に土地がないということはとても悲しいことです。私は農民の子どもとして育ちましたからその悲しみと苦しみを少しは理解しています。2011年東日本大地震以後、福島、東北地方の人々が今なお苦しんでいるのは何でしょうか。それは土地を使えなくなっているからです。多くの人々が生存の根拠を奪われ、故郷から出て行きました。ところが、アブラハムには、土地が与えられると約束されているのです。四つ目に、約束の子が生まれることです。具体的に、イサクが与えられます。それは、地上の命が神様によって祝福されていることを意味します。このようにして、不妊の女だったアブラハムの妻サラの胎から子どもが生まれるようになりました。夜空に輝く星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫が生まれるようになったのです。実際に、アブラハムの生存の時に息子が生まれ、その後、すべてが実現されています。では、アブラハムはどのようにお応えしたのでしょうか。4節をご一緒に読んでみましょう。「アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけました。彼は「なぜ自分なのか」と問い返すようなことを言いませんでした。具体的な説明も要求しませんでした。彼は問い返す必要も感じなかったようです。ただ、約束してくださった方は真実な方だ、と信じているのです。無条件的に、単純に従いました。ほんとうに幸いな人です。イエス様はトマスに「「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。これを、「見ないで(確かめないで)信ずる信仰」とか、「聴いて信じる信仰」と言います。アブラハムの信仰は、「聴いて信じる信仰」です。そして神様は、このアブラハムと共に、新しい、人類を救う歴史を始められました。神様の御言葉を聞いて信じる人はアブラハムのように祝福され、用いられます。 また、アブラハムには感謝と祈りの信仰がありました。7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そのころ、【主】がアブラムに現れ、そしてと仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。」 「祭壇を築いた」というのは神様への感謝を表したことです。事実、これから展開される彼の人生を見るとこのようにして、祭壇と共にあった生涯でした。私たちの人生の歩みにはいろんなことが起こります。経済的困難な時もあります。精神的に疲れている時もあります。病気、失敗、挫折、そういう暗い道を歩む時もあるのです。でもそのような中でも神様が私たちと共にいてくださいます。私たちを必ずいやし、救い、回復してくださいます。時には試練を通して、私たちを訓練し、そのような試練に打ち勝つ信仰へと成長させて下さいます。先ほど、私はアブラハムに与えられた約束の御言葉を信じた時が呪われる人生から祝福される人生へのターニング・ポイントだったと言いました。でも、毎日が順風満々ではありません。その後も何度も困難や試練に遭いました。今月、私は弟の墓を造ってあげるために韓国に行きますが、9年前に亡くなった弟の遺骨を葬るためです。私の弟が交通事故で亡くなってから6年の間に私の祖母、父、母が次々天に召されて行きました。愛すると死別することはとても悲しいことです。, 大変つらくて悲しい時期を通りました。でもそのような経験の中で私は人を赦すこと、愛することなどを学び、神様の愛と恵みも強く感じることができました。そして、感謝の祭壇を築くたびに、主からの恵みと祝福が段々大きく感じられるようになりました。それで何事も神様に頼り、祈れるようになりました。アブラムは晩年、人生最大の危機と同時に最高の祭壇を築かなければならない時を迎えます。それは自分の独り息子イサクを祭壇に献げるということでした。どんなに辛くて大変だったでしょうか。自分が死んだほうがましだと強く感じたでしょう。でもそれを通してアブラハムは神様が御独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに自分を愛しておられるということが分かったことでしょう。このようなアブラムの感謝と祈りの祭壇は私たちも常に神様への感謝と祈りが必要であることを教えてくれると思います。それを通して私たちも神様の愛を体験して行くことができるからです。本当に、私たちが神様に自分自身をささげる生活をするときに不思議な神様の祝福も体験して行くことができます。パウロはそれを深く悟ったことでしょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。, ローマ12, 」どうか、私たちが神様の約束の御言葉を信じてアブラハムのように自分自身を神様にささげる生活ができるように祈ります。以上で、私たちはアブラハムの新しい出発、神様の御言葉に動かされて動く祝福の人生を出発したことを学びました。今日の御言葉がヨセフ宣教師と直美牧者の人生においてターニング・ポイントになりますように祈ります。呪いから祝福へ変えられるターニング・ポイントではないでしょう。すでに救われているからですう。でも、私は日本ubfのみわざにおいて一つの家庭から大いなる国民を形成して行くみわざのターニング・ポイントになりますように祈ります。昨日、聞いたのですが、ヨセフ宣教師の長男の禄也は夢の中で多くの友達に御言葉を宣べ伝えていたそうです。その中でお母さんは信仰がない顔をしていたとも言ったそうです。それもあって○○牧者は新しい福岡のみわざを準備して行くために断食祈りを決断したそうです。このような話を聞きながら私は繊細な神様の導きを感じました。神様が子どもの夢を通して福岡開拓のみわざを備えて行かれることも悟りました。これから○○牧者は寂しさも経験すると思います。すると子どもの目には信仰がなさそうに見えるかも知れません。でも、禄也君が夢の中で御言葉を宣べ伝えていたことを思いだしてください。それからアブラハムひとりから夜空の星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫ができたことを覚えていてください。神様が○○牧者家族を大いに祝福して九州大学の学生を始め、福岡の人々を祝福してくださることを信じます。私たちひとりひとり神様の御前で個人的に御言葉を聞いて従いますように祈ります。そうしてほんとうに祝福された人生に変えられて行きますように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

14Genesis2M 人をご自身のかたちとして創造された神様

14genesis2m, 人をご自身のかたちとして創造された神様, 2014年創世記第2講, 張パウロ,                                  人をご自身のかたちとして創造された神様御言葉:創世記, 3要 , 節:創世記, 「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」,  みなさんは東京スカイツリーにのぼったことはありますか。日本が誇る世界で一番高い電波塔!!東京スカイツリーは日本の建築技術の集大成ともいわれている構造物です。人々はその電波塔のスケールと雄大な形に感動します。しかし、これを誰がつくったのかを知る人は意外にも少ないです。東京スカイツリーは、事業主の東武鉄道、設計者の日建設計、施工者の大林組が一体になってつくりあげた傑作品です。日建設計は社内で東京スカイツリーのデザインを決定させるために、社内でコンペを開きました。その中で、いい案を絞って事業主の東武鉄道と何度も打ち合わせをしました。電波が阻害されにくく、地デジ放送の他に、ワンセグやマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにすることが建設目的とされました。この建設目的に沿って、今の場所で今の形の東京スカイツリーになりました。また、高所での風の影響や強い地震などに耐えられるよう関係者が知恵を出し合って丈夫で素晴らしい傑作品が誕生しました。しかし、この世において一番の傑作品は、人です。なぜならば、人は神のご自身の形として創られた、唯一の被造物だからです。これは、人が動物や他の被造物とは違う存在で、神様と特別な関係にあるという証拠です。そして、神様は、人に他の被造物や自然界を支配せよという重要な使命(ミッション)を任されました。私たちが、本文のメッセージを通して、神様にかたどって造られた人としての存在価値と存在目的を学び、神様が喜ばれる生き方ができるように祈ります。26節をご覧ください。“神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」”, 神様が人を造られた時は、他の被造物とは違う点があります。まず、神様が複数形になっており、互いに相談された点です。人は貴重な存在なので、最高に良いかたちとしてつくるために、三位一体である神様、イエス様、聖霊様が相談されました。もう一つの違いは、神様のかたちとして、神様に似せて、私たち人間をつくられた点です。他の被造物は神様が御言葉だけでつくられましたが、私たち人間は、神のかたちをもった特別な存在としてつくられたのです。, それでは、神様のかたちとは、いったいどのようなものでしょうか。神様は、人間と同様な外面的な形をしているのでしょうか。この箇所は、神学者の中でも議論が絶えない難しいところです。しかし、私たちが聖書全体をよく理解すると、神の形というものがどんなものなのか浮かびあがると思います。神のかたちとは目に見える外形よりは神の品性を指しています。それでは、人間は、どんな点で神様のかたちに似ていますか。先ず、人がもっている神様のかたちの一つは、霊です。人は、肉体と理性の意外に霊を持っています。人間は霊的な存在です。ヨハネの福音書4:24節では、“, 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。”と書いてあります。私たちは、霊によって神様に礼拝することができ、祈ることができます。聖霊の感動により、この世が御言葉によってつくられたことが判ります。また、聖霊により自分がアダムの堕落した罪の本性をもっていること、イエス様の十字架の血潮だけが私たちを永遠の滅びから救うことができることも悟るようになります。人間は、この世でどれだけ贅沢で良い生活を送ることが出来ても霊的に満たされないと, 根本的に喜びを感じることはできません。ヨハネの福音書3章を見ると、二コデモというユダヤ人の指導者がいました。彼は、バリサイ人として神様の律法に詳しく、世の名誉や富をも得ていました。しかし、御霊によって生まれ変わっていなかったとき、彼の人生は空しく、喜びがありませんでした。  サマリアの女は、5回も結婚を繰り返しながら男の愛をもとめました。しかし、彼女の心は喜びで満ちているところか渇ききっていました。こんな彼女が、真の礼拝の対象であるイエス様に出会ったとき、聖霊の体験をして喜びで満たされるようになります。これは、神の愛を体験できたからです。私たちが聖書を読むと感動し、祈るときに胸が熱くなって主に感謝をささげることができるのは、聖霊との交わりがあるからです。次に、神のかたちとして考えられるのは愛です。人はいつ、大きな幸せを感じるでしょうか。それは、金持ちになったときでも、有名(名誉)になったときでもありません。人は愛するときに一番幸せを感じます。他人が大きな悲しみや困難にあったときに、わたしたちは心を痛め、助けようとします。2011年の東日本大地震の爪痕で、多くの人が悲しみの中にいたとき、世界中の人々は精一杯義援金を集めました。家族や家をなくした人のために現地に駆け付けて炊出しをしたり、あらゆる方法で慰めた人も少なくありません。去年、フィリピンが台風で甚大な被害を受けた時には日本UBFでも昨年クリスマス礼拝に彼らのために心をこめて献金しました。人間の愛も素晴らしいですが、神様の愛はわたしたちの想像を超えます。神様は、ひとりごイエス様を十字架の上で死なせるほどに私たちを愛してくださいました。イエス様は、あなたを捨てて死なせようとした人たちを愛しました。イエス様を苦しめ、釘づけた兵士はもちろん、宗教指導者、群衆のためにイエス様は祈りました。, “父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。”, わたしたちがこのイエス様の愛を受け入れるとき、真実に愛することができます。また、人はどんな点で神に似ていますか。感謝することが出来る点も人でしかできないことです。感謝する気持ちは、人々に感動に与えます。この他に知性、感情、自由意志と良心があり、創造活動をし、言葉をもって議論することも神様に似ている人間の大きな特長と言えます。28節をご覧ください。“神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」”神様は、人を観賞用としてつくられたのではありません。人にはっきりとしたミッションを与えてくださいました。ひとつ目は、生きている間、子供を生み、子孫をたくさん増やすことです。そして、神様が造られた自然界と生き物を支配するように命じられました。“支配せよ”という命令は、生き物の上に立ちなさいという意味ではありません。被造物を、使命感をもってよく管理せよという意味なのです。管理者には、オーナーである神様が委託されたすべてを忠実に管理することが求められます。ホテルの支配人のような役割です。神様は自然界や動物などの生き物をうまくマネジメントするように全権大使として人をたてられました。現代を生きているわたしたちは、神の被造物をよく管理しているのでしょうか。人たちは20世紀に入って経済成長を目標に掲げて無慈悲な開発に走ってきました。その結果、自然界は人間に怒りを発しています。地球温暖化、集中豪雨や砂漠化によって、地球は悲鳴をあげています。そして、人間がつくりあげた文明に警告しています。私たちが再び“地を従えよ、生き物を支配せよ”という神様の御言葉に耳を傾け、神様のつくられた被造物をよく管理できるように祈ります。イエス様が来られた新約時代には、新しいミッションがあります。福音を知らないまま罪とくらやみのまみれになっている人たちにいのちの御言葉、福音を宣べ伝えることです。今年、東京UBFの新年のメッセージでも神様は命じられました。“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。”(?テモ4, 2)今年もいままで以上に日本の霊的な環境は良くないかもしれませんが、わたしたちが時が良くても悪くてもしっかり御言葉を宣べ伝えるように祈ります。神様は、私たちにミッションだけを与えたではありません。29、30節をみると、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を人とすべての生き物の食物として与えたことがわかります。人々は最初のころは、草食をするようにつくられたことがわかります。肉食をするようになったのは、アダムが罪を犯した後のことです。神様は、わたしたちに種類にしたがって、野菜と果物などを足りないことのないように用意してくださいました。創造の原理から考えても加工食品より、新鮮な野菜や果物などを種類にしたがって摂取することが健康の素となります。31節をご一緒に読んでみましょう。“神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日”, 神様は、最後に人間をつくられた後、すべてのものをご覧になってすごく感動しました。 “見よ、それは非常によかった” わたしたちは神様から見るに非常に良い存在です。誰ひとり、良くない存在はいないのです。日本人も、アメリカ人も、韓国人も、その他のどの人種も神様が見て尊い被造物なのです。 私はUBFでいろいろな方の人生所感を聞きました。自分の存在価値、生まれてきた意味を分からずさ迷っていた方が多くいたことを覚えています。「生まれて来なかった方がいいのに!」「お母さん!なぜ私を生みましたか?」とうめき悲しんだ告白をよく耳にしました。これは、神様の前でどのような存在ないのかを悟ることが出来なかったからです。聖者アウグスティヌスは、神様に出会ってから次のようにかたりました。‘主よ。あなたはあなたのために私たちを造られました。従って、私たちがあなたを発見する前には、私たちの心の中には安息がありませんでした。’ 神様を私たちが発見し、神様を迎え入れる前にはどこもがいばらの道であり、白い砂場であり、私たちの憩いの場所は見つけることができないのです。, 私たち一人ひとりは、神様にとって非常に良い存在です。これは進化論では説明できない私たち人間の存在意味、存在価値なのです。今年御言葉のくじ引きをしたとき、わたしにイザヤ書43, が当たりました。, “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。”, 私はこの御言葉を黙想すると、神様の愛に包まれたよ うな満足感を感じました。主の豊かな愛を感じて胸がいっぱいになりました。2章に1〜3節に入ります。神様は六日間天と地を創造し、七日目にそのわざを休まれました。神様が疲れたから、休んだわけではありません。創造活動を完成させる意味の休止です。神様はこの七日目を祝福され、聖なる日とされました。わたしたちも六日間、自分の場所で一所懸命働き、主日を聖なる日として過ごさなければなりません。六日間、神様がよくしてくださった恵みを覚えて感謝をもって礼拝しなければなりません。七日目は、夕があり朝があったという御ことばが見当たりません。六日目の朝でとまっています。この記述は、私たちが行くべき天国でこの安息が続くことの暗示です。私たちは、この世の終わりに、暗闇の一欠けらもない天国でひかりである神様に礼拝しながら永遠の安息を憩うことになります。今日のメッセージをまとめましょう。私たちは神様にかたどってつくられた非常に尊い存在です。そして、私たちは神様の被造物の管理をおこなう代理人であり、福音を宣べ伝える全権大使です。私たち一人一人が、神様のかたちが刻まれた素晴らしい存在であることを感謝して主に喜ばれるわざを担うことができるように祈ります。

14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。

14Genesis21M ヤコブからイスラエルに

14genesis21m, ヤコブからイスラエルに, 2014年創世記第21講 ヤコブからイスラエルに御言葉:創世記31&#8315, 33章要 節:創世記32:28「その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」先週、私たちはヤコブがラバンの家で20年間をどのように過ごしていたかを学びました。愛には7年間も数日のように思えるほどの力がありました。また、神様はご自分の約束のゆえにヤコブを大いに祝福してくださいました。ヤコブは大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました。そこで、ヤコブは生まれ故郷の帰ろうとしました。では、ヤコブは生まれ故郷に帰って行く時にどのようなことがあったでしょうか。今日はヤコブの名をイスラエルの変えてくださった神様を学びたいと思います。ヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞きました。ラバンの態度が、以前のようではないのにも気づきました。その時に、神様からの命令もありました。31章3節をご覧ください。「主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」と言われたのです。そこで、ヤコブは二人の妻を呼び寄せて自分が生まれ故郷に帰られなければならない理由を説明しました。ヤコブはラバンとその息子たちの態度を考えると一刻早くそこから離れて行きたかったと思います。でも、彼は家族を持つ身として妻たちにもちゃんと神様の導きを説明しました。それに対して妻たちも心を開いてヤコブの決断に同意し、「さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」」と励ましています。素晴らしい夫婦関係であることが示されてあります。このように夫が妻に説明し、妻は夫を理解し、励まして行くなら、家庭に平和が保たられるでしょう。特に夫は妻の励ましがあると確信を持って行動することができるでしょう。17, 21節を見るとヤコブは、家族と全財産をもって出発しました。ラケルは父ラバンの所有のテラフィム, 先祖代々の守り神, を盗み出しました。ヤコブはそんなことは知らぬまま、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かいました。三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされると、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行きます。そしてギルアデの山地でヤコブに追いつきました。その時、ヤコブの一行は何も武装していませんでした。しかし、神様はヤコブの味方になってくださいました。31章24節をご一緒に読んでみましょう。「しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」とあります。もし、この時に神様がこういうことを命じておかなかったら、ヤコブはひどい目に遭わせられたことでしょう。ヤコブたちは取り戻されるしかありませんでした。しかし、前の夜、夢に現れた神様がラバンを注意してくださったのでヤコブたちに害を加えることはしませんでした。ただ、ラバンは守り神のテラフィムが盗まれたことについて言いました。「なぜ、私の神々を盗んだのか。」と責めたのです。ヤコブはラバンに「あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」と言いました。ヤコブは、ラケルが盗んだことを知らなかったので大胆に言えたでしょう。テラフィムが見つかったらラケルは殺されてもいいようなことを言ったのです。ところが、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下に入れ、その上に座っていてラバンに言いました。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」。たまたま女の常のことがあったかも知れませんがラケルは嘘を言ったと思います。結局ラバンはさテラフィムを見つけることができませんでした。すると、今度はヤコブが怒ってラバン咎めます。36節をご覧ください。「そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。」とあります。それから、自分がラバンの家でどのように過ごして来たのかを説明しました。40, 42節もご覧ください。「私は昼の暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間あなたのいふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」とあります。ヤコブは幾度も騙されましたが、それでも忠実に働いてきたことを言いました。神様が味方してくださったこともはっきりと言いました。彼は「私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方」と呼んでいます。ヤコブは幼い時から父イサクは神様を恐れていることを見ていた、その神様が自分についておられることを体験して来ました。長旅の中でも、何度も騙されたラバンの家でも父イサクの恐れる神様が自分の保護者となって守り導かれたのです。ヤコブは神様が自分の悩みと手の労苦を顧みられ、裁きもなされることを証しています。そこでラバンは何も言えなくなりました。ただ、自分の娘たち、孫たちのためにヤコブと契約を結び、子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福しました。それからラバンは去って、自分の家へ帰りました。こうしてラバンの問題は解決されました。しかし、すべての問題が解決されたのではありません。もっと深刻な問題がありました。それは兄エサウの問題です。エサウが住んでいある故郷が近くなれば近くなるほど彼は恐れ、心配するようになりました。それは自分が家から出る時、長子の権利を奪い取り、兄を騙した罪の問題が解決されていなかったからです。かつて怒り狂ってヤコブを殺そうとした兄エサウを思い出すたびに恐くなっていたでしょう。この罪の問題が心から平安を奪い取っていました。ラケルを愛していても子どもたちが生まれ、財産が増えて行っても心の中にある罪意識と恐れは消え去りませんでした。この兄エサウとの関係、罪の問題が解決されない限り、故郷に帰っても恐れと不安の中で過ごさなければなりません。だから兄エサウと関係を改善すること、和解することは、故郷に戻る大前提でした。そんなヤコブを深く哀れんでくださる神様は旅を続けているヤコブに神の使いを送ってくださいました。32章1, 2節をご覧ください。神の使いがヤコブに現れた時、彼は「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼びました。神様は彼を励まそうと二つの軍隊が彼とともにあることを示してくださったのです。詩篇34, 7を見ると「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」とあります。今も神様は軍隊のような主の使いを送って私たちを助け出される方です。ところが、ヤコブは主を恐れるより兄のエサウばかり意識していました。兄のエサウが四百人を引き連れて迎えにやってきていると聞いたヤコブの心はどうでしたか。32章7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。」とあります。ヤコブは今までの生活の中でこれほど恐れ、心配したことはなかったでしょう。彼は非常に恐れたのでいろいろ考えた末に、第一段階として賄賂作戦を立てました。彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」としました。それから神様に祈りもしました。9ー12節をご覧ください。「そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまで打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」とあります。このように祈っても安心できませんでした。今回は4段階の作戦を立てました。ヤコブは手もとの物から兄エサウへの贈り物を選び、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡しました。それから、彼らが兄エサウに「これらすべてのものはヤコブのものであること、それら兄エサウへの贈り物であることを伝えるにようにしました。ものに弱かった兄の心をよく知っていたヤコブは多くの物を兄に上げて心を和らげようとしたのです。それで第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じました。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」と言いました。ヤコブは、自分より先に行く贈り物によってエサウをなだめ、そうして後、エサウの顔を見ると、自分を快く受け入れてくれるだろうと思ったのです。ヤコブは、今まで何度も神様を体験したし、今回も神様の軍隊が自分とともにいることも示されました。それにも関わらず兄エサウのことで恐れていました。彼は何とかして、被害を最小限に食い止めようと思い、宿営を二つに分け、出来る限り、精一杯の祈りも捧げました。その上、エサウの怒りを静めるために、ものすごい綿密な計算をして段階的に贈り物も備えました。しかも、何回かに分けて、時間を置きながら渡そうと考えたのです。 このようにヤコブは、「自分の手で何とか解決する」努力をしました。それでも、目の前が真っ暗でした。全く希望が見えませんでした。私たちの人生にもこのような時があると思います。私たちも長い人生の中でヤコブのように知恵を尽くし、いろいろな対策を立ても希望が見えない時に遭う時があるのです。もちろん、ヤコブのように最善を尽くして生きて行くうちに、自分の力で得られるものがあります。努力の代価として大学に進学し、就職し、地位も上がります。結婚して家族と仲良く過ごします。ところが、あるときは、非常に恐れ、心配せざるを得ない問題にぶつかるときがあるのです。その時には何も助けになりません。骨を折る苦労をして儲かった財産も、社会的な地位も、同窓会や同好会などの人間関係も力になりません。力を尽くして育てた子どもたちも、最愛の妻や夫さえも全く力にならないのです。それがある人には健康の問題であります。進学や就職の問題である場合もあります。職場での上司の問題である場合もあります。ヤコブにおいてはそれが兄エサウの問題であり、罪の問題でした。父を騙し、兄を騙した罪の問題は20年の歳月が流れてもなかなか解決されませんでした。人を騙した罪による恐れと不安の問題は自分の財産を尽くしても、自分にある知恵を尽くしても解決できなかったのです。, 7年間働いても数日のように思ったほどに愛した妻ラケルも非常に恐れ、心配しているヤコブの力になりませんでした。では、神様はこのようなヤコブをどのように助けてくださいましたか。24bをご覧ください。「すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」とあります。ある人」が夜明けまで格闘した。「ある人」は神様であるとされます(28, 30)。格闘は、ヤコブのもものつがいがはずされ、足が不自由になったとあるように体と体をぶつけ合う、肉体的な戦いでした。しかし、それ以上の霊的経験をもたらすものでありました。神様はヤコブと勝てない状況に置かれています。不思議な言い回しです。しかしそれは、神様の弱さというよりも、ヤコブが弱さを認めたことです。自分が弱いからこそ、神様の祝福なくして、これ以上は一歩も先には進めないというヤコブの執拗さを物語っているのです。厚かましいほどに神様にすがりついていることです。自分の底つきを経験すると私たちはどうなりますか。もはや神様の祝福を求めるしかありません。その他に道がありません。そういう心から切に祈る時に私たちが神様に出会い、神様に答えらる場合もあります。26bをご覧ください。「しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」とあります。そこで神様はヤコブに言いました。「あなたの名は何というのか。」。そこで彼は答えた。「ヤコブです。」と言いました。ヤコブは自分が嘘つき、詐欺師であると告白したことです。つまり、私は父親を騙し、兄も騙した人間ですと告白したのです。そこで神様は何と言われましたか。28節をご一緒に読んでみましょう。「その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」 神様は「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った!」と勝利を譲ってくださいます。神様は私たちの所まで来て格闘してくださるお方です。慈しみと恵みに満ちた神様が私の内面が変わるように、存在と人格が変えられて行くようにしてくださいます。真の勝利は神様に出会い、私の存在が変えられるところにあります。ヤコブはこの戦いで「イスラエル」という新しい名を与えられていきます。それは「神と争う者」という意味です。ヤコブの存在が変わりました。神様と格闘して自分の存在が変わると周りも変わっていました。そこでヤコブは神様との格闘の故に得た祝福の素晴らしい経験を記念し、その場所を「ペヌエル」と名づけました(31節)。そこに太陽が昇りました。まさに新しい出発を照らす、希望の光であったことでしょう。実に素晴らしい光景です。今までは暗かった夜の世界から、明るくすがすがしい、朝の世界が甦ってきました。そこで、ヤコブは平安を与えられて歩き出しました。太ももを傷めた足を引きずりながらも、彼は主が共にいて祝福を与えてくださった、という確信を与えられていました。平安と愛を持って兄と出会うために、歩き始めました。彼は、たといどんなことがあっても、殺されてもよいから、兄と和解しよう、と心に決めたことでしょう。そういう素晴らしい希望を持って一歩一歩大地を踏みしめました。そして33章にはヤコブとエサウの和解が記されてあります。神様はヤコブの思いに勝る仕方で、兄弟の和解をなさしめて下さったのです。神様を信じる者にとって窮地は神様と出会う機会になります。直接に働いてくださる神様と格闘する機会になります。その格闘の中で私と付き合ってくださる神様の愛と力の体験ができます。信仰を失わない限り、失敗も成功に繋がります。絶望、孤独、非常に恐れ心配せざるを得ない状況は神様が真に祝福の神様であることを知る、重要な機会になるのです。真に神様にすべてをゆだね、神様が動いてくださることを知る時であります。私たちの予測する結果がすべてではなく、神様の出される結果があることを知る時でもあります。私の自我が砕かれ、新しい存在に生まれ変わるチャンスでもあります。私たちが神様への信仰を持ち続けるなら、計り知れない可能性と祝福を経験して行く事ができます。どうか、私たちもヤコブのように神様の御言葉を覚えて祈り、神様と出会って神様を体験して行きますように祈ります。

14Matthew12M 心から兄弟を赦しなさい

14matthew12m, 心から兄弟を赦しなさい, 2014年マタイの福音書12講 心から兄弟を赦しなさい御言葉:マタイの福音書18:15―35要 節:マタイの福音書18:35「, あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」先週、月曜日に、私はある夫婦の赦しに関するニュースを読んで感動しました。19日にabc放送などのアメリカのメディアが報道した内容が紹介されていました。この夫婦はドナルド・ロレントの両親ですが、殺されたロレントは殺人者になったクリストファー・バザ, の友達でした。2011年12月、ロレントとバザはルームメイトとして酒を飲み、タバコも吸っていました。その時に、銃器事故でロレントが打たれて死亡しました。故意的ではありませんでした。しかし、息子を失った親の悲しみはどんなに大きかったでしょうか。一生癒されない悲しみと痛みがあったはずです。ところが、ロレントの両親はそれを乗り越えて赦したのです。バザが逮捕された後に面会を続けられ、彼が釈放されるように努力を続けました。彼らの献身と愛に感動した裁判官は、ついに仮釈放の寛大な措置を下してくださいました。バザは釈放されるようになりました。ロレントのお父さんが経営する会社で働くことにもなりました。この赦しの愛がアメリカ全地域に伝えられて人々は感動し、感激したのです。赦しによってひとりの青年が新しい人生を始めるようになりました。一生悲しみと恨みを持って生きるしかなかったロレントのご両親も新しい人生を生きるようになりました。今日はイエス様のたとえ話を通して赦しについて学びます。イエス様は私たちが兄弟を最後まで赦し続けなければならないということを教えておられます。ところが、イエス様は真理と恵みに満ちた方です。では、イエス様の真理と正義はどうなるでしょうか。そこで、イエス様はまず正義の厳しさから教えてくださいます。 15, 17節をご覧ください。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」とあります。ここで、イエス様は、兄弟が罪を犯した場合にどのように助けるべきかを教えています。 第一段階は個人的に助けることです。私たちの社会生活の中で「ああこの人は明らかに罪を犯した。社会的に罪を犯した」と思われる時があります。すると、親しい関係の人の罪を隠してあげ、人間関係が良くなかった人の罪は暴露しようとします。しかし、まだ、確認されていない場合もあるし、前後の事情をよく知らない状況があるかも知れません。ですから、まず、第一段階として、ひとりでその人のところに行ってその人の罪を責めることが必要です。それで、もしその人がそこで悔い改めたら、その人の名誉を守り、ふたりの信頼関係も深まって行くことでしょう。しかし、もし罪を認めず、社会的に悔い改めるということをしないならどうしますか。 第二段階は二、三人の友達と一緒に助けることです。イエス様は「二、三人友達を連れて行きなさい。」と言われています。どういう友達かと言えば、言うまでもなく、人生の円熟した人、信仰のベテランを連れて行くことです。そうして、三人か、四人でその罪を確認します。そうして、もしその人が自分の罪を認めて、そこで悔い改めたら、彼の名誉を守ることができます。しかし、もしそこでも、悔い改めず、罪を認めないならばどうしますか。 第三段階は教会に告げることです。教会の役員会、あるいは教会の総会に兄弟の罪の問題を持って行くのです。この時も、処罰のためより、罪を犯した兄弟が自分の罪を認めて悔い改めるように助けるためです。しかし、それでも罪を認めて、悔い改めないなら、どうしますか。その時は、彼を異邦人か取税人のように扱うことです。三段階を踏んで祈りと愛を持って訴えても、なお聞き入れないなら、教会の外にいる者として扱いなさいということです。それは大変つらい、お互いの中に傷を残すことになるでしょう。でも、教会に神様の真理と正義がなければなりません。教会はどんな罪を犯してもいい所ではありません。イエス・キリストの十字架の愛によって罪を悔い改めて霊的に成長して行かなければなりません。この世の光として神様の真理と正義を知らせる役割も果たすことは大切です。聖なる国民、王である祭司として生きるために、人としてできることは最善を尽くすのです。そうして正義の上に立つ教会でなければなりません。でも、教会の言うことさえ聞いてくれないならからと言ってその人を助けることをあきらめるべきではありません。人にはできないことでも神様にはできるからです。教会の話を聞いてくれない人であってもその人のために神様の助けを求める必要があります。そこで、イエス様は神様から助けられるために祈りについて教えてくださいます。18‐20節をご一緒に読んでみましょう。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」イエス様は異邦人の扱いを受けるようになった兄弟でも悔い改めることができるように心を一つにして祈ることを教えておられます。「つないでいる」ということは祈りをやめないでいることでしょう。私たちが祈りをやめない限り、父なる神様の関係がつながっていて、時になると、その祈りをかなえられるのです。私たちが祈り続ける時、神様が助けてくださいます。どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる神様がそれをかなえてくださいます。私たちubf教会ではよく二人ずつ祈ります。それは、このイエス様の教えに基づいていることでしょう。もちろん、1人で静かにささげる祈りにも神様は御耳を傾けてくださいます。ふたりが心を一つにして祈るなら、なおさらでしょう。ふたりが心を合わせて祈るその祈りには力があります。私たち夫婦は長男サムエルが生れる前はふたりで心を一つにしてよく祈りました。神様はその祈りに答えてくださって結婚3年後にサムエルが生れるようにしてくださいました。この御言葉を準備しながら最近はふたりで祈ることを怠けていることに気づかされました。悔い改めて今週からふたりで祈る時間を増やしていきたいと思っています。旧約時代のサムエルはイスラエルを代表する預言者、霊的リーダーでした。それでも、民はサムエルに王を求めました。リーダーがいるのにリーダーを求めたのです。そこで、サムエルが「それは良くない」と説得しても、民は聞いてくれませんでした。ところが、サムエルはそんな民たちのために、とりなしの祈りを続けました。聖書に「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」とあります。サムエルは民を心から赦し、彼らのために祈り続けたのです。すると、サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいました, ?サムエル7, 。神様はイスラエルを敵から守り、彼らに平和を与えてくださったのです。ところが、私たちが人のために祈ろうとしても、赦せない心があると祈り続けることは無理です。答えられる祈りの第一条件は心から赦すことではないかと思います。そこで、イエス様は私たちに「心から兄弟を赦しなさい」と言うメッセージを与えておられます。 21, 22節をご覧ください。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とあります。 当時、パリサイ人たちは、罪を赦す制度を設けて三度までは赦したそうです。日本では「仏の顔も三度」と言われます。野球でも、打者はストライクを3回宣告されると三振になり、アウトになります。ペテロが「三度」ではなく「七度まででしょうか。」と言ったのは、当時のパリサイ人たちよりも寛容な人になっていることを示唆してくれます。周りからは「七度も、ダメよ〜。ダメダメ」と言われたかも知れません。ところが、イエス様は七度くらいではなく、兄弟が罪を犯した場合、七度を七十倍するまでも赦すように教えられました。ここで、人々はさらに驚いたことでしょう。「ダメよ〜ダメダメ。それは無理ですよ。無理!」と言ったではないでしょうか。ではどうやって七度を七十倍するまでも赦すことができるでしょうか。そこで、イエス様は赦しのたとえ話をされました。23〜24節をご覧ください。「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。」とあります。聖書の欄外の注に「1タラントは6, 000デナリに相当する」とあります。また、28節の欄外の注に「一デナリが当時の一日分の労賃に相当する」とあります。今の日本で一日分の労賃を1万円にして計算すると、1タラントが6000万円、1万タラントは6, 000億円になります。一人の労働者が365日の中で休日を除いて300日間働くとするなら、6, 000億円は、一人の人間が20万年間働いて稼ぐお金です。皆は「すごいなあ」と思ったでしょう。「一万タラントも借金する人はあり得ない。」と思ったでしょう。ところが、実際に、清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが王のところに連れて来られました。しかし、彼の事情はどうでしたか。25‐27節をご覧ください。彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部を売って返済するように命じました。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言いました。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。主人はしもべを赦し、彼が一生涯働いても稼げない借金を免除してくれたのです。ところが、このしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で彼から百デナリ、つまり百万円の借りがある者に出会いました。100デナリは彼が免除してもらった金額に比べれば60万分の1に過ぎません。つまり、60万円を赦してもらったばかりのしもべが、ただ1円貸している仲間に出会いました。ところが、彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と言いました。彼の仲間は、ひれ伏して「もう少し待ってくれ、そうしたら返すから。」と言って頼みました。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。彼の仲間たちが見ると、それは酷いことでした。黙っていられませんでした。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話しました。主人の反応がどうですか。32‐34節をご覧ください。そこで主人は彼を呼びつけて言いました。「悪いやつだ。お前があんなに、頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったようにお前も仲間をあわれんでやるべきではないか。」と。こうして主人は怒って、借金を全部返済するまで、つまり、未来永久に、彼を牢屋にたたき込みました。それから、イエス様は言われます。結論的に35節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」 このイエス様のたとえ話から私たちに与えられるメッセージは何でしょうか。タラントをデナリにするといくらになるか、タラントを円に両替するといくらになるかと言う数学的な問題でもありません。イエス様は私たちに「あなたがたもそれぞれ心から兄弟を赦しなさい。」と言うことです。自分がどれだけ赦されたのか、一生涯働いても返せない赦しを無条件で受けたことを覚えて兄弟を赦しなさいというメッセージなのです。私たちクリスチャンは神様から返すことのできない赦しを受けています。聖書に「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます, ローマ5, 7‐8, 。キリストが死んでくださったことによって返すことのできない私たちの罪は赦されたのです。キリストはアダムの原罪が始まって今まで犯して来た私のすべての罪、これからもあり得るすべての罪のために死んでくださったことにより私たちを赦してくださったのです。しかも、無条件で一方的な恵みによって私たちを赦して下さいました。この無尽蔵の赦しを覚えると、どんな人でも赦せるようになります。事実、人の悪や罪を赦すことは難しいです。私自身も赦せなくて眠れぬ夜を過ごす時もしばしばありました。でも、イエス・キリストの十字架の赦しを経験している恵みのゆえに赦すことができた時に私には大きな益になりました。それは心理学に証明されています。「赦しの技術, forgive, 」という本によると「赦しは、精神的、肉体的な万病の治療薬だ。」と言っています。赦しはうつ病、不安、慢性的な憎しみ、高血圧、心臓病、ガン、そして免疫欠乏症に至るあらゆる病を癒す治療剤である」とあります。また、著者は「私たちが受けた傷に対しては責任がありませんが傷から回復することは自分の次第である」とも言っています。ほんとうに、そうだと思います。私たちが赦さないでいると、敵対心、憎しみ、不安などによって苦しみ、心も体も傷つけられて行きます。しかし、赦すと、心に平安があり、人に対しても自信感を持つようになります。何よりも、私たちがイエス・キリストの赦しを覚えて人を赦すなら神様からの報いと祝福があります。ヨセフは兄弟に奴隷として売られて、本当に大変な苦しみを経験しました。彼の人生に苦難が続きました。でも、彼は兄弟たちに対して憎しみも恨みも持ちませんでした。十数年の時を経た後、彼はエジプトの宰相となりました。ところが、それを知らずに穀物を買いにエジプトにやってきた兄弟たちにヨセフは言いました。「あなた方は私に悪を企んだが、主はこれを善に変えられた」と言ったのです(創世記50:20)。人がした悪を赦す時、その悪が主の御手のうちに祝福に変えられたのです。ここで、注意して置くことの一つは兄弟が罪を悔い改めている場合に赦したことです。この借金があったしもべたちは前の人も、後の人もひれ伏して赦しを求めました, 。私たちが人の罪に対しては赦しますが、自分の罪に対しては謙遜にひれ伏して赦しを求める姿勢が必要だということです。自分の過ちや罪に対しては「ごめんなさい。」と謝る態度が必要なのです。自分の罪に気づかされたら、素直に「ごめんなさい。悪かったです。申し訳ありません。」と言う悔い改めの心も大切です。多くの場合に家でも、職場でも「ごめんなさい。」と言えば赦されます。ところが、年をとればとるほど難しくなる言葉が「ごめんなさい。」だと言われます。実力がつけばつくほど、プロの世界に入れば入るほど、肝腎な時に言えなくなるなって来るのが「ごめんなさい。」です。しかし、あいさつと「ごめんなさい。」は早く言った方が勝ちだということは事実です。私が教会でも職場でも観察してみると生まれつき、なかなか「ごめんなさい」と言えないタイプの人は非常に損をします。「ごめんなさいの一言がない、悔い改めがない、謝罪がない。」と言うことで、問題が大きくなっていくケースを何度も見ました。しかし、すぐに「ごめんなさい」というタイプの人は人間関係ではものすごく得をします。問題があっても、早くごめんなさいと言うと、赦してもらい、かばってもらいます。ですから、私たちは自分の過ちや罪に対しては早く悔い改めて「ごめんなさい。」と言える人にならなければならないと思います。私たちクリスチャンはイエス様の十字架の愛によって赦されていますが、人にも赦される経験を通してさらに、人々を赦すことができるようになります。どうか、自分のことでは早く謝り、人のことに対して七度も赦し、七度の七十倍も赦すことができるクリスチャンとして成長して行きますように祈ります。私たちが赦されると、赦すこともできるようになります。神様からの祝福も受けます。神様は私たちが、自分の罪を認めて悔い改め、謝る時も、人を赦すときに神様はその心を見ていてくださるからです。時になると、私たちもヨセフのように自分が赦した分の悪や罪が祝福に変えられるのを見ることができます。どうか、この事実を覚えて兄弟が罪を犯したとしても心から赦しましょう。自分の息子を殺した人さえも赦して愛するロレントの両親のように、私たちも赦すことができるように祈ります。さらに、自分の過ちや罪に対してはすぐに悔い改めて神様にも、人にも赦される生活ができるように祈ります。

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14X-mas2.インマヌエルのイエス様

mas2, インマヌエルのイエス様, 2014年クリスマス特集第2講(新聖歌75番)インマヌエルのイエス様御言葉:マタイの福音書1:18−25要 節:マタイの福音書1:231.マリヤは、ヨセフとどんな関係にありましたか, 。マリヤは、何によって身重になったことが、分かりましたか, 18b,ルカ1, 。「聖霊によって身重になった」ことは、イエス・キリストが、どんな方であることを語ってくれるのでしょうか, ルカ1, 。2.マリヤが身重になったことが分かった時の、ヨセフの心境はどうだったのでしょうか, 。なぜヨセフは、彼女を内密に去らせようと決めたのでしょうか, 19,申22, 。夢の中で、ヨセフに現れた主の使いは、ヨセフをどのように助けてくれましたか, 。3.また、主の使いは、生まれてくる男の子に、どんな名前をつけるようにと、命じましたか。この方は、何をするために、お生まれになったのでしょうか, 21,ルカ2, 。4.このすべての出来事は、どんな預言の言葉が成就するためだったのでしょうか, 22,イザ7, 。「インマヌエル」とは、どんな意味でしょうか, 。「神は私たちとともにおられる。」ことは、私たちにとって、どれだけ大きな恵みなのでしょうか, ヨハ1, 。5.眠りから覚めたヨセフは、どのようにして、その妻を迎え入れましたか, 。ヨセフが、このことを真剣に信じていたことが、何によって示されているのでしょうか, 。私たちが素晴らしい救い主の誕生を迎えるためには、どうしたら良いのか、話してみましょう。

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14x-mas3.この上もない喜びのクリスマス

mas3, この上もない喜びのクリスマス, 2014年関東地区聖誕礼拝この上もない喜びのクリスマス御言葉:マタイの福音書2:1−12要 節:マタイの福音書2:101.イエス様はいつ、どこでお生まれになりましたか, 。この時、東方の博士たちがエルサレムに来た目的は何でしょうか, 。なぜ、ヘロデ王とエルサレム中の人は恐れ惑ったのでしょうか, 。2.ヘロデは、どのようにして、イエス様がお生まれになる場所を知るようになりましたか, 。預言者の預言によると、この地でお生まれになるイエス様はどのようなお方ですか, 6,ミカ5, 。3.博士たちは、どのようにして幼子のおられる所まで、進んで行くことができましたか, 。星を通して、博士たちを幼子イエス様のところに導いてくださった神様について、話してみましょう。博士たちの喜びはどうでしたか, 。4.博士たちが幼子を見、ひれ伏して拝んだのにはどんな意味がありますか, 。彼らはなぜ、三つの贈り物をささげたのでしょうか, 。私たちは、今年のクリスマスをどのようにして、迎えたら良いでしょうか。5.博士たちは、なぜ別の道から自分の国へ帰って行ったのでしょうか, 。ここに、幼子イエス様を保護しておられる神様の御手の働きが、どのように現れているのでしょうか。