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14Genesis20M ヤコブを大いに祝福された神様

14genesis20m, ヤコブを大いに祝福された神様, 2014年創世記第20講ヤコブを大いに祝福された神様御言葉:創世記29, 30章要, 節:創世記30:43「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」 先週、私たちはヤコブがベテルでいつもともにおられる神様に出会ったことを学びました。私たちはヤコブが神様に出会ったような経験をすることはできないかも知れません。でも心から神様と出会いたいという願いを持って生きましょう。日々神様と出会って神様の愛と力を感じ、神様と交わることを心から願うのです。すると、神様の力を見、神様がおられることを悟るようになります。そこから神様と交わり、神様とともに歩む生活が始まります。 今日はヤコブが長い旅を続けて目的地に辿り着いた時のことを学びます。ここで私たちは愛の力、ヤコブを訓練し、大いに祝福される神様を学ぶことができます。?.愛に力があります。, 1〜20,  29章1節をご覧ください。「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。」とあります。ベテルの野で一夜を過ごしたヤコブは、旅を続けてようやく目的地である東の人々の国へやって来ました。つまりベエル・シェバからハランまで旅を続けて母リベカの親戚が住んでいる国にたどり着いたのです。ふと彼が見ると、野に一つの井戸がありました。井戸は人と人との自然の出会いの場であり、交わりの場です。私は子どもの時に田舎では村の中にある井戸が情報交換の場所でした。特におばさんたちが水を汲み、洗濯をしながら交わる所でした。だから、小学生の時に隣の村に行って友だちに会うためにまず井戸の所に行って尋ねました。だからヤコブも井戸が見えると、その地域の情報を得ることができると思ったことでしょう。やはり行ってみると、その井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していました。それでヤコブはそこにいる羊飼いたちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか」と尋ねました。すると、彼らはハランの者であることと、ラバンの娘ラケルが羊を連れて来ていることを教えてくれました。そこでヤコブはその娘と二人きりで会いたいと思ったでしょうか。ヤコブは羊飼いたちに「羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」と言いました。しかし、彼らは「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」と言いました。結局、ヤコブがまだ彼らと話しているとき、父の羊の群れを連れてやって来たラケルと出会いました。ヤコブは、その羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませました。それからヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣きました。ヤコブが行き成りに人の娘に口づけしているようですが、先ほど羊飼いたちからラバンの娘であることを聞いていたからでしょう。ほんとうの自己紹介をしてから口づけするものですが、ヤコブはラケルに口づけしてから自己紹介をしました。すると、ラケルはヤコブのことを父ラバンに告げました。するとラバンはすぐ、走って行って彼を迎え、彼を抱いて、口づけしました。ヤコブは自分がここまで来た事の次第のすべてをラバンに説明しました。ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言いました。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在しました。その間にラバンはヤコブが非常に有益な人であることが分かったようです。ラバンはヤコブに「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」と言いました。これは単なる好意から出た言葉ではありません。後で彼が何度もヤコブを騙していることから考えてみると、彼はヤコブの有能さと誠実さを見込み、彼を手放したくないと思っていたと思われます。でもヤコブは、まだラバンがそういう人間だとは思っていなかったようです。ただ、一目惚れしているラケルに関心がありました。ラバンにはレアとラケルと言う二人の娘がいましたが、ヤコブはラケルを愛していたのです。それは姉のレアの目は弱々しかったのですが、ラケルは姿も顔だちも美しかったからです。ヤコブも美人には弱い男でしたね。結局ヤコブは愛するラケルと自分の妻にするためにラバンと雇用契約を結びました。彼は「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言っています。するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言いました。そこでヤコブはラケルのために七年間仕えました。ヤコブはその七年間をどのような思いで過ごしたでしょうか。20節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」ヤコブはラケルを愛していたので七年間仕えてもほんの数日のように思われたのです。ヤコブが七年間仕えても楽な仕事ばかりしたのではありません。31章38節によると、ヤコブは「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。」と告白しています。それでもヤコブにはその七年間がほんの数日のように思われたのです。ここで私たちは愛の力を見つけることができます。この間、勉強会の時に、李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師を愛するようになった時、40ページの所感を書いてもほんの一ページしか書かなかったように思われたことを告白してくださいます。ほんとうに愛には不思議な力があります。第一に愛には、人に仕え、人のために働く力があります。愛しているなら、気持ちよく仕えることができます。夫婦が愛して子どもが産まれると、夫婦は子どもに仕える生活が始まります。オムツを替え、風呂に入れ、遊んであげます。掃除や洗濯もしてあげます。ありとあらゆることで子どもに仕えます。それは子どもを愛しているからです。愛から始まっているから嫌々しながらではなく喜んで仕えることができるのです。子どもがそこそこ大きくなったからと言って、仕えることが終わるのではありません。立派に成長し、大人になるまで、子どものために働きます。職場では上司の無理な要求にも耐えながら一生懸命に働きます。それは子どもを愛し、家族を愛するからできることです。もし、何もかも嫌になっているなら愛が冷えているからでしょう。愛が燃えているなら何をしても疲れを感じないでしょう。ヤコブはラケルを愛していたので、その愛のゆえに7年間仕えることが苦にならなかったのです。愛から始まっていたので、仕えることができたのです。イエス様も弟子たちを愛し、私たちを愛しておられるからこそ仕えてくださいました。さまざまな問題を持ってくる人々に仕えることはやさしくありません。でも、イエス様は人々を癒し、慰め、励まし、教える働きを続けられました。弟子たちの足を洗い、十字架の死に至るまで私たちのために仕えてくださいました。ほんとうに何をしても愛から始まるなら、7年間仕えることも数日のように思われるほどになるのです。第二に愛には、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ力があります。子どもを育ててみれば分かりますが子どもの成長は時間がかかるものです。オムツを替え、風呂に入れてお世話さえして置けば、後は放っておいても大丈夫なのではありません。確かに、子どもが2,3歳頃より10歳、20歳になると細かく仕えることは少なくなるでしょう。でもそれぞれの年齢に応じて、仕える形が違うだけです。子どもを愛する親はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。その愛の中で子どもはすくすく成長し、立派な大人になって行きます。しかし、愛がなければ忍耐できなくなる場合もあります。子どもと一緒に家にいることさえ嫌がるようになります。実際に自分の子どもを手放してしまう親もいます。しかし、ヤコブはラケルを愛していたので7年間も仕えたのに、ほんの数日のように思えたのです。イエス様は弟子たちを召してから3年半といわれている期間に忍耐されることもしばしばでした。また、十字架を担っていかれたときも、架かられた時も、途中でやめることをなさらず、最後まで、その死に至るまで忍耐されました。そして、今もまた、人々が罪の中にいますが、一人でも多くの人が救われるために、全ての人が救われてほしいと願い、忍耐しておられるのです。それらは、イエス様の愛のゆえです。愛から始まるとき、愛しているとき、忍耐することができるのです。そしてそのイエス・キリストの愛によって私たちは癒され、生かされています。私たちが何をしても七年間仕えることもほんの数日のように思ったヤコブのような愛を持ってするなら疲れないでしょう。そして、私たちに仕えるために来られ、十字架にかかって死なれるまでに私たちに仕えてくださったイエス・キリストの愛で愛するなら、どんな人でも愛することができるでしょう。すべての問題は愛があれば大丈夫です。愛は痛みも和らげます。カリフォルニア大学の心理学者アイゼンバーガー助教授が、痛みを感じたときの脳の動きと「愛」という抽象的なものとの関係を探るために行った実験で明らかになったものです。長期にわたって特定の相手と交際中である女性たちに、針で刺したかのような衝撃を与え、そのときの脳の反応をmriで観察しました。被験者には交際相手、知らない人物、蛇や蜘蛛などの写真を順番に見せ、それぞれの写真を見ているときに一度ずつ同じ痛みを与えていきました。そして、実際に感じた痛みの強弱を被験者に記録してもらったところ、交際相手の写真を見ているときがいちばん痛みが弱いという結果になりました。ほんとうに、愛には不思議な力あるのです。何をしても愛から始まると長く仕えることができるし、忍耐することもできます。家にいる時間が楽になるし、疲れた体も癒されるのは家族を愛しているからです。教会でも、学校でも、職場でもに隣人を愛するなら彼らに仕え、忍耐することができます。自分の愛では無理かも知れません。でもイエス様から愛をいただき、イエス様の愛で愛しようと思って愛するなら不思議な力が発揮されるのです。どうか、ヤコブがラケルを愛したように、自分の家族を愛し、隣人を愛する生活ができるように祈ります。?.神様の訓練と祝福, 21〜30, 29章21節をご覧ください。「ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻をください。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」とあります。いよいよ雇用期間も満了しましたので、ヤコブはラバンにラケルを妻として与えてくれることを求めました。ところが、ラバンはヤコブをだましてラケルの代わりに娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせました。騙す者が騙される者となりました。でもラバンはヤコブに騙したと言いません。彼は「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」と言ってラケルをあげる代わり、もう七年間、仕えなければならない」と言いました。結局ラケルひとりを得るためにヤコブは14年間ラバンに仕えました。彼がそのように14年間仕えたことは無駄にはなりませんでした。ラバンは、ヤコブを酷使し搾取しようとしました。しかし、実は、ヤコブがこの地に滞在することで、彼に与えられた子孫の約束、多くの子どもが生まれるという神様の約束は実現していくのです。イスラエル十二部族の先祖は、この地で、このようにして誕生しました。そして、二十年という歳月の後に、彼をカナンの地に「連れ帰る」という約束も実現するのです。 ヤコブだってラケルから子供が生まれることをなによりも望んだでしょう。しかし、ラケルが初めての子ヨセフを産んだのは、結婚後何年かは分かりません。ただ、ヤコブとレア、そしてその召使、ラケルの召使との間に一〇人の子供が生まれた後のことですから、少なくとも一〇年以上は子供が生まれなかったはずです。彼女はもう一人の子ベニヤミンを産むと同時に、旅の途上で死んでしまうのです。恐らく高齢出産であったことが、その一つの原因でしょう。結局、四人の妻と12人の息子と一人の娘を得るようになりました。29, 24節まではレアとラケルが夫に愛されるために子供を産む競争をする内容です。ヤコブの家庭には静かな日々がなかったでしょう。二人の女性が激しい競争をしていたのでまるで戦争をするところのようだったと思います。レアは息子をよく産みましたが、夫に愛されないコンプレックスを持っていました。ラケルには夫に愛されましたが、息子を産めないコンプレックスがありました。彼女達はヤコブを間にして互いに自分たちのコンプレックスを解決するために競争する間、12人の息子たちが産まれました。このような中で神様は二つのことをなされました。第一に、ヤコブの強い自我を訓練されました。ヤコブは四人の妻の間で絶えず訓練を受けました。息子が産まれても自分が名前を付けることさえできなかったことを見ると、彼の強い自尊心が砕かれる訓練を受けたでしょう。神様は人の杖、人の子のむちを持って彼を懲らしめ、彼の強い人間性を砕かれ、多くの国々の父としての内面性を持つようにされました。第二に、イスラエルの12部族の基礎を置かれました。神様は二人の女性のねたみと競争心を用いられ、ヤコブが知らないうちに天の星のような子孫を与えるという約束を成し遂げておられました。このように四人の妻と多くの子供を得た後、ヤコブは財産に関心を持ち始めました。ヤコブは財産を儲けるためにラバンと契約を結びました。それはラバンの羊とやぎの中でぶち毛とまだら毛のもの、黒毛のものを自分の報酬とすることです。ラバンはその日、そのようなものを全部取り出して、自分の息子たちの手に渡し、ヤコブとの間に三日の道のりの距離をおきました。ヤコブは非常に不利な立場に立たされました。しかしヤコブはいつものように落胆せず、頭を使って不可能に挑戦し始めました。神様はこのような彼を助けてくださり、彼は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました, 。神様は約束のとおりにヤコブとともにおられ、彼を祝福してくださいました。ヤコブはラバンのところでラケルを得るために14年、財産を得るために6年、あわせて20年間仕えました。それでは20年間どんな姿勢で仕えましたか。31, 42節を見ると、彼は仕事に怠けたり、適当に働いたりしませんでした。ラバンが幾度も報酬を変えたのにもかかわらず、彼は力を尽くしてラバンに仕えました。彼は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできないほどでした。彼は神様のしもべらしく心と力を尽くして働きました。その時、神様はヤコブを祝福してくださいました。30章43節をご一緒に読んでみましょう。「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」ここでは「祝福」が物質的な意味で用いられているようです。もちろん祝福は物質だけではなく、心身の健康の意味が含まれます。しかし、これはアブラハム以来、イサク、ヤコブが受け継いでいる「祝福」です。ですから、単に物質的な富を意味するだけの言葉ではありません。罪に堕ちた世界を祝福に変える。死の闇の中にある世界を命の光に変える。そのための祝福です。ヤコブがこの言葉を使っている文脈では、ラバンに合わせる形で、家畜の数が増えたことを表面的には言っている訳ですが、それと共に、もっと内的な、しかし、具体的な神の「祝福」、「恵み」とも「愛」とも言える祝福を語っていることは明らかだと思います。以上で、愛の力と神様がヤコブを家族の人間関係において訓練し、祝福されたことを学ぶことができました。家族の人間関係の中に試練があることほど苦しいことはないでしょう。家族は逃れることのできません。生涯付きまとう関係です。ヤコブは、妻たちとの関係に悩み、義父ラバンとの関係に悩んで行きました。ヤコブを騙し、ヤコブを利用しつくそうとするのがラバンでした。そんなラバンに対してヤコブが考え出した脱出の道は、「自分自身のために自分だけの群れをつくることであった」大切なのは、ヤコブは知恵を働かせたが、その知恵自体、あまり根拠のないことです。選択授精によっていくらかは成功したとはしても、なによりも神様がこれを祝福されたからできたことです。 多くの人は、苦労すること、訓練は悪いことだし、不幸なことだと考えます。けれども、苦労があることと幸せであることは別次元のことです。だから苦労があっても本当は幸せであることができます。神様を信じるということは、常識を超えています。もちろん、それは非常識になることではなく超常識になることです。常識的に行動する中で、常識を超えた神様のみ業があることを期待して行くことが信仰です。結論的に愛には人を疲れさせない力があります。愛は奉仕の原動力です。神様はご自分の約束のゆえに私たちを祝福してくださいます。どうか、愛と神様の祝福を信じる信仰を持って人々に仕え、神様に祝福された生活ができるように祈ります。

14Genesis21M ヤコブからイスラエルに

14genesis21m, ヤコブからイスラエルに, 2014年創世記第21講 ヤコブからイスラエルに御言葉:創世記31&#8315, 33章要 節:創世記32:28「その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」先週、私たちはヤコブがラバンの家で20年間をどのように過ごしていたかを学びました。愛には7年間も数日のように思えるほどの力がありました。また、神様はご自分の約束のゆえにヤコブを大いに祝福してくださいました。ヤコブは大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました。そこで、ヤコブは生まれ故郷の帰ろうとしました。では、ヤコブは生まれ故郷に帰って行く時にどのようなことがあったでしょうか。今日はヤコブの名をイスラエルの変えてくださった神様を学びたいと思います。ヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞きました。ラバンの態度が、以前のようではないのにも気づきました。その時に、神様からの命令もありました。31章3節をご覧ください。「主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」と言われたのです。そこで、ヤコブは二人の妻を呼び寄せて自分が生まれ故郷に帰られなければならない理由を説明しました。ヤコブはラバンとその息子たちの態度を考えると一刻早くそこから離れて行きたかったと思います。でも、彼は家族を持つ身として妻たちにもちゃんと神様の導きを説明しました。それに対して妻たちも心を開いてヤコブの決断に同意し、「さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」」と励ましています。素晴らしい夫婦関係であることが示されてあります。このように夫が妻に説明し、妻は夫を理解し、励まして行くなら、家庭に平和が保たられるでしょう。特に夫は妻の励ましがあると確信を持って行動することができるでしょう。17, 21節を見るとヤコブは、家族と全財産をもって出発しました。ラケルは父ラバンの所有のテラフィム, 先祖代々の守り神, を盗み出しました。ヤコブはそんなことは知らぬまま、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かいました。三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされると、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行きます。そしてギルアデの山地でヤコブに追いつきました。その時、ヤコブの一行は何も武装していませんでした。しかし、神様はヤコブの味方になってくださいました。31章24節をご一緒に読んでみましょう。「しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」とあります。もし、この時に神様がこういうことを命じておかなかったら、ヤコブはひどい目に遭わせられたことでしょう。ヤコブたちは取り戻されるしかありませんでした。しかし、前の夜、夢に現れた神様がラバンを注意してくださったのでヤコブたちに害を加えることはしませんでした。ただ、ラバンは守り神のテラフィムが盗まれたことについて言いました。「なぜ、私の神々を盗んだのか。」と責めたのです。ヤコブはラバンに「あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」と言いました。ヤコブは、ラケルが盗んだことを知らなかったので大胆に言えたでしょう。テラフィムが見つかったらラケルは殺されてもいいようなことを言ったのです。ところが、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下に入れ、その上に座っていてラバンに言いました。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」。たまたま女の常のことがあったかも知れませんがラケルは嘘を言ったと思います。結局ラバンはさテラフィムを見つけることができませんでした。すると、今度はヤコブが怒ってラバン咎めます。36節をご覧ください。「そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。」とあります。それから、自分がラバンの家でどのように過ごして来たのかを説明しました。40, 42節もご覧ください。「私は昼の暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間あなたのいふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」とあります。ヤコブは幾度も騙されましたが、それでも忠実に働いてきたことを言いました。神様が味方してくださったこともはっきりと言いました。彼は「私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方」と呼んでいます。ヤコブは幼い時から父イサクは神様を恐れていることを見ていた、その神様が自分についておられることを体験して来ました。長旅の中でも、何度も騙されたラバンの家でも父イサクの恐れる神様が自分の保護者となって守り導かれたのです。ヤコブは神様が自分の悩みと手の労苦を顧みられ、裁きもなされることを証しています。そこでラバンは何も言えなくなりました。ただ、自分の娘たち、孫たちのためにヤコブと契約を結び、子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福しました。それからラバンは去って、自分の家へ帰りました。こうしてラバンの問題は解決されました。しかし、すべての問題が解決されたのではありません。もっと深刻な問題がありました。それは兄エサウの問題です。エサウが住んでいある故郷が近くなれば近くなるほど彼は恐れ、心配するようになりました。それは自分が家から出る時、長子の権利を奪い取り、兄を騙した罪の問題が解決されていなかったからです。かつて怒り狂ってヤコブを殺そうとした兄エサウを思い出すたびに恐くなっていたでしょう。この罪の問題が心から平安を奪い取っていました。ラケルを愛していても子どもたちが生まれ、財産が増えて行っても心の中にある罪意識と恐れは消え去りませんでした。この兄エサウとの関係、罪の問題が解決されない限り、故郷に帰っても恐れと不安の中で過ごさなければなりません。だから兄エサウと関係を改善すること、和解することは、故郷に戻る大前提でした。そんなヤコブを深く哀れんでくださる神様は旅を続けているヤコブに神の使いを送ってくださいました。32章1, 2節をご覧ください。神の使いがヤコブに現れた時、彼は「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼びました。神様は彼を励まそうと二つの軍隊が彼とともにあることを示してくださったのです。詩篇34, 7を見ると「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」とあります。今も神様は軍隊のような主の使いを送って私たちを助け出される方です。ところが、ヤコブは主を恐れるより兄のエサウばかり意識していました。兄のエサウが四百人を引き連れて迎えにやってきていると聞いたヤコブの心はどうでしたか。32章7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。」とあります。ヤコブは今までの生活の中でこれほど恐れ、心配したことはなかったでしょう。彼は非常に恐れたのでいろいろ考えた末に、第一段階として賄賂作戦を立てました。彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」としました。それから神様に祈りもしました。9ー12節をご覧ください。「そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまで打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」とあります。このように祈っても安心できませんでした。今回は4段階の作戦を立てました。ヤコブは手もとの物から兄エサウへの贈り物を選び、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡しました。それから、彼らが兄エサウに「これらすべてのものはヤコブのものであること、それら兄エサウへの贈り物であることを伝えるにようにしました。ものに弱かった兄の心をよく知っていたヤコブは多くの物を兄に上げて心を和らげようとしたのです。それで第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じました。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」と言いました。ヤコブは、自分より先に行く贈り物によってエサウをなだめ、そうして後、エサウの顔を見ると、自分を快く受け入れてくれるだろうと思ったのです。ヤコブは、今まで何度も神様を体験したし、今回も神様の軍隊が自分とともにいることも示されました。それにも関わらず兄エサウのことで恐れていました。彼は何とかして、被害を最小限に食い止めようと思い、宿営を二つに分け、出来る限り、精一杯の祈りも捧げました。その上、エサウの怒りを静めるために、ものすごい綿密な計算をして段階的に贈り物も備えました。しかも、何回かに分けて、時間を置きながら渡そうと考えたのです。 このようにヤコブは、「自分の手で何とか解決する」努力をしました。それでも、目の前が真っ暗でした。全く希望が見えませんでした。私たちの人生にもこのような時があると思います。私たちも長い人生の中でヤコブのように知恵を尽くし、いろいろな対策を立ても希望が見えない時に遭う時があるのです。もちろん、ヤコブのように最善を尽くして生きて行くうちに、自分の力で得られるものがあります。努力の代価として大学に進学し、就職し、地位も上がります。結婚して家族と仲良く過ごします。ところが、あるときは、非常に恐れ、心配せざるを得ない問題にぶつかるときがあるのです。その時には何も助けになりません。骨を折る苦労をして儲かった財産も、社会的な地位も、同窓会や同好会などの人間関係も力になりません。力を尽くして育てた子どもたちも、最愛の妻や夫さえも全く力にならないのです。それがある人には健康の問題であります。進学や就職の問題である場合もあります。職場での上司の問題である場合もあります。ヤコブにおいてはそれが兄エサウの問題であり、罪の問題でした。父を騙し、兄を騙した罪の問題は20年の歳月が流れてもなかなか解決されませんでした。人を騙した罪による恐れと不安の問題は自分の財産を尽くしても、自分にある知恵を尽くしても解決できなかったのです。, 7年間働いても数日のように思ったほどに愛した妻ラケルも非常に恐れ、心配しているヤコブの力になりませんでした。では、神様はこのようなヤコブをどのように助けてくださいましたか。24bをご覧ください。「すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」とあります。ある人」が夜明けまで格闘した。「ある人」は神様であるとされます(28, 30)。格闘は、ヤコブのもものつがいがはずされ、足が不自由になったとあるように体と体をぶつけ合う、肉体的な戦いでした。しかし、それ以上の霊的経験をもたらすものでありました。神様はヤコブと勝てない状況に置かれています。不思議な言い回しです。しかしそれは、神様の弱さというよりも、ヤコブが弱さを認めたことです。自分が弱いからこそ、神様の祝福なくして、これ以上は一歩も先には進めないというヤコブの執拗さを物語っているのです。厚かましいほどに神様にすがりついていることです。自分の底つきを経験すると私たちはどうなりますか。もはや神様の祝福を求めるしかありません。その他に道がありません。そういう心から切に祈る時に私たちが神様に出会い、神様に答えらる場合もあります。26bをご覧ください。「しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」とあります。そこで神様はヤコブに言いました。「あなたの名は何というのか。」。そこで彼は答えた。「ヤコブです。」と言いました。ヤコブは自分が嘘つき、詐欺師であると告白したことです。つまり、私は父親を騙し、兄も騙した人間ですと告白したのです。そこで神様は何と言われましたか。28節をご一緒に読んでみましょう。「その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」 神様は「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った!」と勝利を譲ってくださいます。神様は私たちの所まで来て格闘してくださるお方です。慈しみと恵みに満ちた神様が私の内面が変わるように、存在と人格が変えられて行くようにしてくださいます。真の勝利は神様に出会い、私の存在が変えられるところにあります。ヤコブはこの戦いで「イスラエル」という新しい名を与えられていきます。それは「神と争う者」という意味です。ヤコブの存在が変わりました。神様と格闘して自分の存在が変わると周りも変わっていました。そこでヤコブは神様との格闘の故に得た祝福の素晴らしい経験を記念し、その場所を「ペヌエル」と名づけました(31節)。そこに太陽が昇りました。まさに新しい出発を照らす、希望の光であったことでしょう。実に素晴らしい光景です。今までは暗かった夜の世界から、明るくすがすがしい、朝の世界が甦ってきました。そこで、ヤコブは平安を与えられて歩き出しました。太ももを傷めた足を引きずりながらも、彼は主が共にいて祝福を与えてくださった、という確信を与えられていました。平安と愛を持って兄と出会うために、歩き始めました。彼は、たといどんなことがあっても、殺されてもよいから、兄と和解しよう、と心に決めたことでしょう。そういう素晴らしい希望を持って一歩一歩大地を踏みしめました。そして33章にはヤコブとエサウの和解が記されてあります。神様はヤコブの思いに勝る仕方で、兄弟の和解をなさしめて下さったのです。神様を信じる者にとって窮地は神様と出会う機会になります。直接に働いてくださる神様と格闘する機会になります。その格闘の中で私と付き合ってくださる神様の愛と力の体験ができます。信仰を失わない限り、失敗も成功に繋がります。絶望、孤独、非常に恐れ心配せざるを得ない状況は神様が真に祝福の神様であることを知る、重要な機会になるのです。真に神様にすべてをゆだね、神様が動いてくださることを知る時であります。私たちの予測する結果がすべてではなく、神様の出される結果があることを知る時でもあります。私の自我が砕かれ、新しい存在に生まれ変わるチャンスでもあります。私たちが神様への信仰を持ち続けるなら、計り知れない可能性と祝福を経験して行く事ができます。どうか、私たちもヤコブのように神様の御言葉を覚えて祈り、神様と出会って神様を体験して行きますように祈ります。

14Genesis9M あなたの名は祝福となる

14genesis9m, あなたの名は祝福となる, 2014年創世記第9講あなたの名は祝福となる御言葉:創世記11:27−12:20要 節:創世記12:2「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」 今日、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に遣わす派遣礼拝をささげるように導いてくださった神様に感謝します。二人の前で言うことは失礼なことですが私はこの二人にさまざまな面で助けられて来ました。また二人の謙遜と忠実さから教えられる時も多くありました。ほんとうにこの教会にも多大な影響を及ぼして来たと思います。だから、この家族を福岡に遣わしたくありませんでした。なんとか東京に戻って来てほしいと思っていました。私にはバベル塔を建てたノアの子孫たちのように、彼らと一緒にこの東京ubf教会を大きくして行きたいという心もあったのです。しかし、神様は私たちが一つのところに集まってバベル塔を建てることより、散らされて行くことを望んでおられました。神様はアブラハムを召して祝福し、彼を通してすべての民族が祝福されるようにしたようにヨセフ宣教師家族を祝福し、彼らを通して九州大学の学生たち、福岡の人々も祝福されることを望んでおられます。 ですから、神様は派遣礼拝の御言葉として創世記12章の御言葉を与えてくださったと信じます。実際に今日の本文は派遣礼拝だから私が特別に選んだのではありません。私たちが選んだ聖書の個所でもありません。私たちは16日に派遣礼拝をささげようとしていました。そうなったら派遣礼拝の御言葉が12章ではなかったはずです。ヨセフ宣教師の事情があって一週間前にしたのですが、不思議にも創世記メッセージの順番が12章になっているのです。神様の導きに驚き、心から感謝します。では神様はアブラハムをどのように召され、どのようにして遣わされたでしょうか。アブラハムは神様の召されに対してどのように反応したでしょうか。この時間、アブラハムの神様を深く学び、御言葉を聞いて従ったアブラハムも深く学ぶことができるように祈ります。先週、私たちはノアの方舟による新しい歴史は失敗したことを学びました。神様は人々が集まってバベル塔を建てるのをやめさせました。主が人々をそこから地の全面に散したからです。しかし、愛の神様は人間をあきらめませんでした。人類の歴史がバベルの町を建てることで失敗しても全くあきらめませんでした。そして今度は神様とともに歩み、全き人であったノアとは違う人を得られます。神の御心にかなっていたノアのように偉い人ではなく、平凡な人です。偶像崇拝が盛んなところでそこの人々と一緒に偶像崇拝をしている人です。この世の知者でもなく、権力者でもなく、この世の愚かな者であり、この世の弱い者です。75歳の年寄りアブラハム、その年までひとりの子どももいなかったアブラハムを選んだのです。神様はこのアブラハムを通して全く新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられました。そこで、創世記の著者は12章から紹介するアブラハムの歴史を始める前に彼の家族関係と生まれ故郷についても書き記しています。11章27、28節をご覧ください。「これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。」とあります。アブラムの父はテラです。ヨシュア記24章には彼が偶像崇拝者であったことを記しています。アブラムの3人兄弟の中でハランは父テラの存命中に死にました。後でハランの息子ロトはアブラムが連れて行きます。娘ミルカはナホルの妻になります。そして、アブラムの妻サライがいますが、彼女は不妊の女で、子どもが生まれませんでした。 そこで、テラはアブラム、ロト、サライとを伴い、カナンの地に行くために、カルデヤ人のウルから一緒に出掛けました。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住み着きました。そこで平凡な生活をしていたテラは205歳の時に死にました。その時、アブラハムにどんなことがありましたか。12書1節をご一緒に読んでみましょう。「主はアブラムに仰せられた。『あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい』」「アブラム」は後に名前を変えられて、アブラハムと呼ばれるようになった人物です。今から4千年ほど前の人で、イスラエル民族の先祖となった人です。神様はアブラハムに「生まれ故郷、父の家」を出て行くように命じられました。年寄りの人が生まれ故郷を出て行くことはそれだけでも厳しいことです。普通はなかなか忍び難いことです。さらに、父の家を出て行くことも大変なことでしょう。今から4000年前の古代社会においては、一切の人間の絆と、身の安全、命の保証すら、捨て去ることを意味します。神様が私たちをお招きになるときにも、「自分を捨てて私に従いなさい」と言われます。それは、私たちにとっても人間の絆、身の安全、いのちの保証すら神様に委ねなさいと言われることでしょう。今まで築き上げてきた人間の絆、自分の安全、生活のすべてを捨てるほどに神様に委ねるということはなかなか厳しいことでしょう。神様のお招きに「はい!」と言って従うことは、やさしくないと思います。ところが、神様は出て行くことを命じるだけではなく、それに伴う祝福も約束してくださいました。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ここに、「祝福」という言葉が5回も繰り返されています。創世記3章のアダムの堕落から11章のバベルの塔までの間には「呪い」という言葉が何度もありました。そのすべての呪いを覆すような力を感じます。神様は今までの人類の呪いの歴史を、祝福の歴史へと変えようとしておられるのです。その決定的なターニング・ポイント、転換点においてアブラハムの信仰が用いられるのです。ヘブル人への手紙11章によるとアブラハムがそれを聴いて信じたのですが、その信仰が人類の歴史を祝福の歴史に変えて行くターニング・ポイントになったのです。私は個人的に大学1年生の冬が呪われる人生から祝福される人生に変えられるターニング・ポイントになったと思っています。その時、私は神様がアブラハムに与えられたこの御言葉を自分にも与えられたと信じて祝福の人生を始めたからです。その時、牧者宣誓をした私の所感のタイトルは「あなたは福のかたまりになれ, &#45320, &#45716, &#48373, &#45929, &#47532, &#44032, &#46104, &#46972, 」でした。振り返ってみると、その後の私は祝福された人生を生きて来たと思われます。何の問題もなかったわけではありませんが神様から愛され、祝福された人生になったと告白できます。神様に心から感謝しています。神様がアブラハムに約束された祝福は、内容的に考えてみますと、大きく四つ数えることが出来ます。一つ目はアブラハムが大いなる国民となることです。二つ目は彼が祝福そのものになることです。つまり、祝福の源、祝福の基(もとい)となることです。三つ目は彼に土地が与えられることです。四つ目は彼に約束の子、イサクが生まれることです。 先ず、大いなる国民となります。これは、バベルの塔を建てて名を挙げようとして失敗した人々と、ちょうど対照的です。アブラハムの子孫は自分の力によってではなく、神様の祝福によって大いなる国民となるのです。 二つ目にアブラハムは「祝福となる」ということです。これは神様がアブラハムを通して全世界をお救いになるという、約束です。彼が選ばれたことの使命が、この中に語られています。アブラハムは祝福そのものとして救いのみわざに用いられるのです。三つ目にアブラハムに土地が与えられる、と約束されています。7節を見ると神様は「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と約束してくださいました。土地は人間が生きて行く支えです。罪を犯した人類に対する神様の呪いは、全部「土地を追い出される」という形で語られていました。アダムとエバも、カインも祝福されていた土地から追い出されました。農耕社会において人間に土地がないということはとても悲しいことです。私は農民の子どもとして育ちましたからその悲しみと苦しみを少しは理解しています。2011年東日本大地震以後、福島、東北地方の人々が今なお苦しんでいるのは何でしょうか。それは土地を使えなくなっているからです。多くの人々が生存の根拠を奪われ、故郷から出て行きました。ところが、アブラハムには、土地が与えられると約束されているのです。四つ目に、約束の子が生まれることです。具体的に、イサクが与えられます。それは、地上の命が神様によって祝福されていることを意味します。このようにして、不妊の女だったアブラハムの妻サラの胎から子どもが生まれるようになりました。夜空に輝く星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫が生まれるようになったのです。実際に、アブラハムの生存の時に息子が生まれ、その後、すべてが実現されています。では、アブラハムはどのようにお応えしたのでしょうか。4節をご一緒に読んでみましょう。「アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけました。彼は「なぜ自分なのか」と問い返すようなことを言いませんでした。具体的な説明も要求しませんでした。彼は問い返す必要も感じなかったようです。ただ、約束してくださった方は真実な方だ、と信じているのです。無条件的に、単純に従いました。ほんとうに幸いな人です。イエス様はトマスに「「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。これを、「見ないで(確かめないで)信ずる信仰」とか、「聴いて信じる信仰」と言います。アブラハムの信仰は、「聴いて信じる信仰」です。そして神様は、このアブラハムと共に、新しい、人類を救う歴史を始められました。神様の御言葉を聞いて信じる人はアブラハムのように祝福され、用いられます。 また、アブラハムには感謝と祈りの信仰がありました。7、8節をご一緒に読んでみましょう。「そのころ、【主】がアブラムに現れ、そしてと仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。」 「祭壇を築いた」というのは神様への感謝を表したことです。事実、これから展開される彼の人生を見るとこのようにして、祭壇と共にあった生涯でした。私たちの人生の歩みにはいろんなことが起こります。経済的困難な時もあります。精神的に疲れている時もあります。病気、失敗、挫折、そういう暗い道を歩む時もあるのです。でもそのような中でも神様が私たちと共にいてくださいます。私たちを必ずいやし、救い、回復してくださいます。時には試練を通して、私たちを訓練し、そのような試練に打ち勝つ信仰へと成長させて下さいます。先ほど、私はアブラハムに与えられた約束の御言葉を信じた時が呪われる人生から祝福される人生へのターニング・ポイントだったと言いました。でも、毎日が順風満々ではありません。その後も何度も困難や試練に遭いました。今月、私は弟の墓を造ってあげるために韓国に行きますが、9年前に亡くなった弟の遺骨を葬るためです。私の弟が交通事故で亡くなってから6年の間に私の祖母、父、母が次々天に召されて行きました。愛すると死別することはとても悲しいことです。, 大変つらくて悲しい時期を通りました。でもそのような経験の中で私は人を赦すこと、愛することなどを学び、神様の愛と恵みも強く感じることができました。そして、感謝の祭壇を築くたびに、主からの恵みと祝福が段々大きく感じられるようになりました。それで何事も神様に頼り、祈れるようになりました。アブラムは晩年、人生最大の危機と同時に最高の祭壇を築かなければならない時を迎えます。それは自分の独り息子イサクを祭壇に献げるということでした。どんなに辛くて大変だったでしょうか。自分が死んだほうがましだと強く感じたでしょう。でもそれを通してアブラハムは神様が御独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに自分を愛しておられるということが分かったことでしょう。このようなアブラムの感謝と祈りの祭壇は私たちも常に神様への感謝と祈りが必要であることを教えてくれると思います。それを通して私たちも神様の愛を体験して行くことができるからです。本当に、私たちが神様に自分自身をささげる生活をするときに不思議な神様の祝福も体験して行くことができます。パウロはそれを深く悟ったことでしょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。, ローマ12, 」どうか、私たちが神様の約束の御言葉を信じてアブラハムのように自分自身を神様にささげる生活ができるように祈ります。以上で、私たちはアブラハムの新しい出発、神様の御言葉に動かされて動く祝福の人生を出発したことを学びました。今日の御言葉がヨセフ宣教師と直美牧者の人生においてターニング・ポイントになりますように祈ります。呪いから祝福へ変えられるターニング・ポイントではないでしょう。すでに救われているからですう。でも、私は日本ubfのみわざにおいて一つの家庭から大いなる国民を形成して行くみわざのターニング・ポイントになりますように祈ります。昨日、聞いたのですが、ヨセフ宣教師の長男の禄也は夢の中で多くの友達に御言葉を宣べ伝えていたそうです。その中でお母さんは信仰がない顔をしていたとも言ったそうです。それもあって○○牧者は新しい福岡のみわざを準備して行くために断食祈りを決断したそうです。このような話を聞きながら私は繊細な神様の導きを感じました。神様が子どもの夢を通して福岡開拓のみわざを備えて行かれることも悟りました。これから○○牧者は寂しさも経験すると思います。すると子どもの目には信仰がなさそうに見えるかも知れません。でも、禄也君が夢の中で御言葉を宣べ伝えていたことを思いだしてください。それからアブラハムひとりから夜空の星のように、海辺の砂のように数え切れない子孫ができたことを覚えていてください。神様が○○牧者家族を大いに祝福して九州大学の学生を始め、福岡の人々を祝福してくださることを信じます。私たちひとりひとり神様の御前で個人的に御言葉を聞いて従いますように祈ります。そうしてほんとうに祝福された人生に変えられて行きますように祈ります。

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m14easter2.よみがえりといのち

m14easter2, よみがえりといのち, 2014年イースター修養会主題講義第2講よみがえりといのち御言葉:ヨハネの福音書11:1−44要 節:ヨハネの福音書11:25,26「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」 私たちは、昨日の御言葉を通して、イエス・キリストの十字架の恵みについて、学びました。イエス様は、私たちの罪のために、十字架の上で死なれました。しかし、聖書に記されている通りに、三日目に死者の中からよみがえられました。イエス様のよみがえりによって、私たちの罪は赦されました。そして、長い間私たちを苦しめていた死の勢力から解放されました。セレブレイト ジーザス。主の御名を褒め称えます。 今日学ぶ御言葉は、ヨハネの福音書に出て来る七つの奇跡の中で、一番最後の奇跡にあたります。イエス様は、死んだラザロをよみがえらせることによって、ご自分がよみがえりであり、いのちであることを明らかにされました。誰でも、このイエス様を信じるなら、イエス様のようによみがえる望みが与えられます。この時間、聖書の御言葉を通して、一人一人が、よみがえりであり、いのちであるイエス様を受け入れる中で、復活信仰の上に堅く立てられますように、お祈りします。?.この病気は死で終わるだけのものではない(1―18) エルサレムから3km離れた所にベタニヤという町がありました。その町に、ラザロとマリヤ、その姉妹マルタが住んでいました, 。このラザロが病気にかかりました。危篤状態にあり、生死の境をさまよっていました。一刻の猶予も許されない緊急事態でした。しかし近くには救急病院もありませんでした。その時、マリヤとマルタはどうしたのでしょうか。 3節をご覧ください。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」彼女たちには、「イエス様ならきっと直してくださる」という確信がありました。それですぐにイエス様の所に使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」  では、イエス様はどのようにされたのでしょうか。4節をご覧ください。「イエスはこれを聞いて、言われました。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」一般的に病気はつらく、悲しいものです。まして、愛する兄弟ラザロが病気にかかり、死んでいく姿をそばで見ているマリヤとマルタは、どれだけつらい思いをしているのでしょうか。もちろん、イエス様も彼女たちのつらい気持ちを理解してくださいました。彼らを愛しておられるからです, 。しかし、イエス様は神様の観点からご覧になりました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」では、イエス様はどのようにして、神様の栄光を現わそうとされたのでしょうか。 6節をご覧ください。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」なぜイエス様は、すぐにラザロのもとに行かれず、そのおられた所になお二日とどまられたのでしょうか。3節に出てくる「愛」は、ギリシャ語では「フィレオ」(友情)となっています。マリヤやマルタは、イエス様との関係を、単なる友情としてとらえていました。ところが、5節に出て来る「愛」はそれとは違っていました。ギリシャ語で「アガぺ」、すなわち神様の絶対的な愛で表現されています。ラザロとマリヤ、その姉妹マルタに向けられたイエス様の愛は、条件のない、絶対的な愛、完全なものでした。イエス様は死んだラザロをよみがえらせることによって、彼女たちに「復活信仰」を植えようとされました。彼女たちがさらに一歩、霊的に深い世界に踏み出すことを願っておられました。そのことを通して、イエス様は神様の子の栄光を現わそうとされました。 7節をご覧ください。イエス様は、弟子たちに言われました。「もう一度、ユダヤに行こう。」それを聞いた弟子たちは非常に驚きました。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」弟子たちは、死を恐れていました。死ぬと終わりだと考えているからです。弟子たちだけではなく、ほとんどの人が死を恐れていると思います。しかし、イエス様は違います。 11節をご覧ください。イエス様は言われました。「わたしたちの友、ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」イエス様にとって、死は「眠り」です。それで、使徒パウロは、コリント人への手紙第一15章で、「死んだ」という言葉の代わりに、「眠っている」という単語が使っています。死は恐怖を与えますが、「眠り」は安らぎを与えます。どんなに疲れていても、一晩眠ると、心もからだもリフレッシュします。同様に死は、イエス様を信じる人にとっては、安息となります。 ヨハネ5:24節で、イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」誰でも、イエス様の御声を聞くなら、その人はいのちを受けます。そして死からいのちへ移されます。さばきから永遠のいのちへ移されるのです。それで、私たちは主にあって、死を恐れる必要はありません。?.「よみがえり」と「いのち」, 19節をご覧ください。ラザロの死によって、ベタニヤはひどい悲しみにつつまれていました。愛する人、頼るべき人を失ったマルタとマリヤの心はどうだったのでしょうか。大勢のユダヤ人たちが、彼女たちを慰めるために集まっていました。故人を偲んで、涙を流し、大声を上げて泣いていました。日本では「香典」(お花代)を包みますが、灰色の筆ペンを使います。これは、「悲しみのあまり、涙で墨が薄れてしまった。」という意味があります。生前、あまり親しい間ではなくても、その人が死んでしまうと、悲しむことがエチケットとされています。ところが、マルタとマリヤは違いました。彼女たちは心の底からラザロの死を悲しんでいました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」, 。彼女たちはイエス様に助けを求めたのに、なぜイエス様はすぐに来てくださらなかったのか、と不満をもらしました。私たちも、イエス様に祈ったのに、すぐに祈りを聞いてもらえず、以前よりも状態が悪くなった時に、彼女たちと同じような気持ちになることがあるのではないかと思います。「あなたがいてくれたら、こんなことにはならなかったのに。」では、イエス様は何と言われたのでしょうか。23節をご覧ください。「あなたの兄弟はよみがえります。」深い悲しみと失意の中にいるマルタにとって、イエス様のこの御言葉は、なかなか受け入れがたいものでした。理解できないことでした。それでも、マルタは答えて言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」, 。彼女にとって、ラザロが生き返るのは、遠い未来のことのように思えました。彼女は聖書を通して、「復活」を信じていましたが、それが今起こることを知りませんでした。そこで、イエス様は彼女の抱いている復活信仰が確かなものになるように、助けてくださいました。 25,26節を皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか。』」イエス様は、ご自分がよみがえりであり、いのちであることをはっきりと現わされました。そして、このイエス様を信じる者はみな、誰でもその力を受けると約束されています。 第一に、肉体の復活があります。25b節をご覧ください。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とあります。私たち人間は肉体のからだを持った弱い存在です。けがをしたり、病気にかかったりします。不慮の事故にあって、尊い命を失ったりもします。何気ない言葉によって傷ついたり、相手を傷つけてしまったりもします。何よりも、罪の誘惑を受けて、心ならず罪を犯してしまうこともあります。時には、このような自分のことを考えると、自分が自分で嫌になってくることもあります。しかし、イエス様のよみがえりによって、私たちクリスチャンたちに希望が与えられています。使徒パウロは言いました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」, ?コリ15, 。私たちが主なるイエス様と共に歩む時、主と共に死にます。主と共に墓に葬られます。そして、主とともに、死者の中からよみがえるようになります。私たちは初穂であるイエス様を仰ぎ見る時に、イエス様のように死者の中からよみがえる望みを持つことができます。そして永遠の都、天の御国に入る望みを持つことができます。私たちが天の御国に入るその日、卑しい、朽ちる弱い体を脱ぎ捨て、栄光ある朽ちることのない、強いものに変えられていくのです。肉体の体を脱ぎ捨て、御霊に属するからだによみがえります, 。 第二に、霊的な復活が起こります。26a節をご覧ください。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。」とあります。もちろん主にあって、死は眠りです。いつかイエス様が起こしてくださるでしょう。それだけではありません。根本的に私たちのからだの中にあるたましいは決して死ぬことはありません。私たちがイエス様と共に歩む生活をする時、多くの苦難、迫害を受けることがあります。イエス様を信じているのに、なぜ苦しみを受けなければならないのか、と疑問に思うことがあります。それは、悪魔が私たちをイエス様から引き離すために妨害しているからです。しかしどんなに迫害されても、苦しめられても、私たちの主に対する思いは決してなくなることはありません。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」, ロマ8, 。私たちが主につながっている生活をしている限り、私たちのたましいは滅びることがありません。マルタはイエス様に信仰告白をしました。27節をご覧ください。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」イエス様はマルタが復活信仰を持つように助けてくださった後、ラザロが眠っている墓に行かれました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました, 。そこで、イエス様は言われました。「その石を取りのけなさい。」, 。 イエス様の御言葉を聞いて、マルタはすぐに現実の世界に連れ戻されてしまいました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」, 。常識で考えると、それは不可能なことのように思えました。しかしイエス様は、マルタの信仰が確かなものになるように助けてくださいました。40節をご覧ください。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」, 。イエス様の御言葉を信じて、マルタは信仰によって、墓をふさいでいた重い石を取りのけました。その時、イエス様は神様に祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」, 。そして墓に向かって、大声で呼ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」, 。ラザロは、イエス様の御声を聞いてすぐに手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。彼の顔は布切れで包まれていました。イエス様はマルタとマリヤの姉妹のもとに、ラザロを帰らせてくださいました。悲しみと絶望が喜びと希望に変えられた瞬間でした。この日、ユダヤ中に賛美が満ち溢れました。この時間も、イエス様は言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 私は、一昨年前の会社での健康診断で「逆流性胃炎」と診断されました。ちょうどそのころから右目の様子がおかしく、パソコンの画面がかすんで見える日が続きました。そして毎年、この時期になると、ひどい花粉症に悩まされていました。このような状態の中で、イースター礼拝のメッセージを準備して証しすることに、少しためらう気持ちもありました。その頃、パソコンの画面がかすんで見え、仕事に支障をきたし始めました。その時、マリヤ宣教師から医者に行くようにと言われました。それで、意を決して、眼科で受診した結果、右目は末期の白内障で手術が必要であり、左目も初期の白内障であると診断されました。最初状況がうまく飲み込めず、放心状態になりました。あまり実感がわきませんでした。ところが、「手術」という言葉に、絶望するしかありませんでした。自分がそんな深刻な病気にかかっていたなんて、到底信じられませんでした。し、状況をうまく説明できませんでした。それでも、神様の憐れみが私の上に臨まれました。この2−3年の間、私は左目だけで生活したことになりますが、特に、これといった支障もありませんでした。それで私が白内障の手術を受けるようになったことを会社に話した時、会社の人々はみな驚いていました。「よく仕事ができるね。」「大丈夫」 また、神様はヤコブの手紙5:15節の御言葉で、私を力づけてくださいました。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」そして今この時間も、神様は私の祈りを聞いてくださることを信じ、確信するようになりました。すると、神様は私の心を強くしてくださいました。どんな時にも、心から神様を賛美できるように助けてくださいました。6月の中旬には、手術を受ける予定ですが、そのことを通して、メッセージを証しするのに、支障がないように助けてくださいました。 よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今この時間も私と共にいてくださいます。イエス様の奇跡は今でも起きると信じています。このイエス様に頼る時、恐れや不安がありません。今よりもよく見えるようになるという望みがあるだけです。そのことを思うと喜びで満たされるようになります。イエス様はまず、閉ざされていた私の霊的な目を開いてくださいました。そして肉体の目も開いてくださることを信じ感謝します。私によくしてくださったイエス様の御業を証しで来ますように、お祈りします。もう一度、25、26節の御言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今も私たちのうちに、語りかけてくださいます。そしてこのイエス様を信じる者は、だれであっても、死の勢力から抜け出し、永遠のいのちへと移って行きます。死の勢力に打ち勝ち、喜びで満たされる人生を過ごすことができます。この時間、一人一人が復活信仰の上に堅く立ち、喜びに満ち溢れる人生を歩んでいくことができるように祈ります。「唄おう声を合わせてイエスを祝うために勝利に胸躍らせイエスの誉れを見よイエスは, よみがえられた輝くその姿喜び賛美しようとこしえまで共におられる主イエスを

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

14genesis17m, わたしがあなたに示す地に住みなさい, 2014年創世記第17講                           わたしがあなたに示す地に住みなさい御言葉:創世記25, 26:33要 節:創世記26, 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム, 25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。5, 6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。?.祈りによって問題を解決したイサク, 19, 34, 19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。, 」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。二つ目の試練は経済的な問題でした。26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク, 神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。

14Genesis19M 主がこの所におられるのに

14genesis19m, 主がこの所におられるのに, 2014年創世記第19講主がこの所におられるのに御言葉:創世記27, 46−28, 22要, 節:創世記28, ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。先週、皆さんは朴エズラ宣教師を通してヤコブを祝福したイサクを学んだことでしょう。イサクは双子のエサウとヤコブの中で兄であるエサウではなく、ヤコブを祝福しました。そこで、エサウは、弟のヤコブを恨み、殺そうとしました。それに気づいた母リベカは、ヤコブをしばらくの間、自分の兄ラバンのもとに送るという計画を立てて実践します。それでイサクから祝福されたヤコブは母の実家がある所に向かって旅立ちます。今日は、そのヤコブの旅路の中にあった出来事を学びます。ここで、私たちはイサク夫婦の結婚観、ヤコブが出会った神様について学ぶことができます。この時間、私たちもヤコブのように神様に出会い、いつも自分とともにおられる神様を知って霊的に成長して行きますように祈ります。27章46節をご覧ください。「リベカはイサクに言った。「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は何のために生きることになるのでしょう。」」とあります。ヘテ人はカナンの住民ですが、彼らには偶像礼拝、近親相姦や不品行など様々な悪習慣がありました。エサウはそのヘテ人の娘たちをめとっていましたが、結婚生活はうまく行きませんでした。イサク夫婦にとっても悩みの種になっていました。姑のリベカが「もう生きるのが嫌になりました。」と言ったほどです。そこで、イサクはヤコブにカナンの娘たちの中から妻をめとってならないと注意し、「母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい」と命じました。それはイサクもエサウの結婚生活を見て信者が不信者との結婚はうまく行かないことが分かったからです。何よりも神様から祝福されないことが分かったでしょう。?コリント6, 14によると「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」とあります。イサクは息子エサウの結婚生活を通してこのことがよく分かったのです。ここに「くびき」とは昔、牛を使って穀物をひいたり、あるいは畑を耕したりする時に、牛の首につけて鋤や車を引かせるために使う、木で作った横木のことです。そして「くびきをいっしょにつける」というのは、同じ形のくびきを2頭の牛を結びつけて仕事をさせることです。もしつり合うくびきをつければ、足並みがそろいます。それで仕事がうまく進みます。しかし、つり合わないくびきをつければ、当然足並みがばらばらになってしまいます。うまく行きません。まさに、エサウの結婚生活がそんなものでした。そこでイサクは神様の祝福を受け継ぐヤコブは必ず神様を信じている人たちの中から妻をめとるように命じたのです。もちろん、結婚の時は神様を信じていなかった人でも救われてクリスチャン夫婦になる場合もあります。教会には兄弟よりも姉妹たちが多いので、妻の方が先に救われている場合が多いです。それで、まだ救われていない夫との関係において一致ができなくなって苦しみます。でも女性は強いですね。まだ救われていない夫の救いのために必死に祈ります。それで、夫のための祈りが聞かれて、クリスチャン夫婦になり、神様に祝福されているという証をたくさん聞きました。ミッション・バラバという宣教団体の牧師たちの証を聞いてみると、奥さんたちの祈りによって救われたと証していました。ですから、夫婦の中でまだ救われていない夫や妻がいるなら必死に祈り続けなければならないでしょう。ほんとうは、エサウも妻たちの救いのために一生懸命に祈ったら救われる可能性があったでしょう。ところが、彼はカナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気付いた時にエジプト人女奴隷から生まれたイシュマエルの娘を妻としてめとってしまいました。結局、信者が不信者と結婚している場合は相手の救いのために祈り続けるべきですが、まだ結婚していない場合は不信者と結婚してはいけないのです。特に、アブラハムの祝福を受け継いでいかなければならないヤコブは必ず信仰の人と結婚しなければなりません。そこで、イサクはヤコブをリベカの実家の親戚たちが住んでいるバダン・アラムに行かせたのです。こうしてヤコブは、パダン・アラムのベトエルの家へと旅立ちました。今までお母さんから愛され、守られていました。しかし、これから彼はたった独りで遠い道のりを旅しなければならなくなりました。何日かかったでしょうか。ベエル・シェバから歩き続けて「ある所」につきました。19節によると、その町の名は、以前はルズでベエル・シェバから80?も離れた所です。そこにたどり着いた時、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにしました。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になりました。もちろん、ヤコブは町の中の宿屋とかホテルに泊まったのではありません。町から離れた野原に野宿したのです。皆さん!野原に野宿したことがあるでしょうか。夜中に一人で野宿するのは恐いでしょう。なかなか眠れないものです。でも、朝から晩まで歩いていると、体が疲れているから眠くなるものです。ヤコブは石を枕にして横になると眠りについたのです。人が眠りにつくというのはどういうことなのでしょうか。私の母は、私の兄弟たちによく言いました。「無心な眠りについたら忘れても、お前たちのことを忘れないよ。不安だし、心配だよ。」とよく言われました。ほんとうに、人は起きている時は絶えず緊張し、恐れ、心配するけれども眠りについたら何もかも忘れてしまいます。ヤコブが起きている時は、さまざまな危険に対する恐れがあったでしょう。母と父のことが思い出されて涙する時もあったでしょう。何よりもエサウが追いかけて来ているのではないかという不安があります。兄と父を騙して長子の権利や祝福を手にしましたがいつになったら現実のものになるのかなあという不安もあったでしょう。でも、眠ると、すべての恐れと不安を忘れて安息につきます。ところが、そういう安息の中で夢を見る場合があります。その夢が悪夢である場合もありますし、気持ちをさわやかにしてくれる場合もあります。ヤコブはとても素晴らしい夢を見ました。28章12節をご覧ください。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」とあります。「見よ, ヒンネー, 」というのは、「これから先が大事だよ」と語りかけながら促す言葉です。したがって大事なのは「一つのはしごが地に向けて立てられている」ということです。一般的にはしごは地から天に向けて立てられています。地上から二階、三階に上る時に使うからです。もちろん、降りるときも使いますが、地から天に向けて繋がっているのです。ところが、ヤコブが見たはしごは地に向けて立てられているのです。天からから降りてくるために使うはしごなのです。つまり、ヤコブは一生懸命にはしごを上って行って神様と交わったのではなく、神様が彼と交わるために降りてきてくださったのです。ここに驚くべき神様の恵みの世界があります。神様の祝福と恵みは上から降りてくるのです。人間は何とかして天にまで上ろうとします。天にまで達する塔を建てたいと願います。バベル等を建てたように自分の努力によって上の地位につきたい、神様の地位にまでつきたい、神様のようになりたいとと思います。はしごを上りついたときに、神様との交わりができると思うのです。しかし、ヤコブが見たはしごは地から天に向かって伸びているのではなく、天から地に向かって伸びていたのです。そして、このはしごを神の御使いたちが上り下りしていました。ですから、私たちが天から降りて来られる神様を心から受け入れることによって神様との交わりができます。私のところに来てくださる聖霊様を信じて受け入れる所が神様に出会う所になります。そこに神様の約束の御言葉があります。13, 14節をご一緒に読んでみましょう。「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムの神、イサクの神、主です。そしてこの神様はヤコブの神様となられるために彼を訪ねてこられ、約束を与えてくださいました。神様はアブラハムとイサクに与えられた約束の御言葉をヤコブにも同じく与えられました。神様は彼に約束だけではなく、彼とともにあり、彼がどこへ行っても、彼を守り、彼をこの地に連れ戻すと約束して下さいました。この神様は実に恵み豊かな神様です。ヤコブは決して偉い信仰者だとは言えません。彼は逃亡者です。嘘つきであり、詐欺師です。ほんとうに卑劣な男です。彼は自分の利益のために父を騙し、兄を騙した人間です。人を騙すために神様の名前すら平気で使った人です。そういう人を神様は選び、彼に出会ってくださいました。彼を祝福し、使命を与えてくださいます。その使命を果たすことができるように彼を守り、導いてくださいます。今までヤコブは寂しくて辛い旅をして来ました。誰一人頼れる対象がいませんでした。ヤコブが野原で野宿している時はどんなに絶望的だったでしょうか。ところが、神様はそんな彼のために天から降りて来られ、彼に出会ってくださいました。彼と人格的な関係性を結び、彼が頼れる約束の御言葉も与えてくださいました。15節を見ると「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」とあります。この力強い約束の御言葉をいただいたヤコブは眠りから覚めました。目覚めたときのヤコブの言葉がとても印象的です。16節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。」, 彼は父母を離れて自分は一人ぼっちになったと思っていたでしょう。神様からも捨てられたのではないかと思っていたかも知れません。しかし、主は彼とともにいてくださいました。ほかでもなく自分がいるその場所に主がおられたのです。ヤコブは夢の中であっても天から降りてこられた神様がともにいてくださることがはっきり分かったのです。「ああ、神様はいつも私のそばにいてくださったんだ。」「すぐ近くにあって私を守り助けてくださる方であったのに、私はそのことを知りませんでした。」ほんとうはずっと前から私とともにいてくださったのに、ただいたずらに絶望していたことに気づかされました。ヤコブは不思議ですが、力強くも温かい神様との出会いに目が開かれたのです。これはヤコブの信仰生涯にとって、忘れらない経験だったでしょう。私たちもそういう経験させられることがあります。私も今までの人生の中で何度も経験していることです。特に私が大学生の時にバスの中で経験したことは何度も証しました。その時、私は、本当に自分の罪深さを思い知らされ、もうだめだと思いました。絶望感や羞恥心に打ちのめされて、自分は神に見捨てられたのだと思いました。けれども、実はそうではなくて、まさに自分の最も暗い罪の深みに主は来てくださいました。天からの「はしご」はしっかりと、自分の絶望の底に着地していました。主の十字架は私たちの最も暗い罪の深みに立っていたのです。そこで、私は個人的に神様に出会い、神様と交わる生活が始まりました。ヨーロッパでは重く垂れこめた雲を割って天から射す光の筋を、「ヤコブの梯子」と呼ぶそうです。分かるような気がします。私たちの人生の、心の黒雲を割るようにして、光のような主の恵みのみことばが来ます。神様は今もこの所におられます。ここにおられるのに、私たちが知らないでいるだけです。実は今も私たちにも語りかけてくださいます。「わたしはあなたとともにある。わたしはあなたを守り、決してあなたを捨てない!」主は一つの場所に限定される方ではなく、いつでも、どこにでもともにいてくださる方なのです。その時、彼は主に個人的に出会いました。彼は神様が自分に会ってくださった場所を記念にするために自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそぎました。そして、その場所の名をベテル、すなわち、神の家と呼びました。そしてヤコブは神様の御前に誓願を立てました。20, 22節をご覧ください。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」彼の旅路にはどんな危険が待っているか知りません。また、これから衣食住の問題はどうやって解決したらいいのか、本当に父の家に帰ることができるのか、彼の将来は不安でいっぱいでした。しかし、彼はそのような切実な問題を主が解決してくださることの信仰告白をしました。そして、主がこのように成し遂げてくださることに対して彼は誓願をもって主に応答します。一番目は、主が自分の神となるということです。これは神様を個人的に受け入れるという以上の意味が含まれています。それは偶像礼拝が氾濫している時代の雰囲気の中でも唯一の神様を信じて従うという意味です。二番目は、彼が石の柱として立てた石は神の家となるということです。つまり、これは偶像礼拝が盛んになっている異邦文化の中でも神様の御名を呼び求めながら礼拝する神の家を建てることです。三番目は、所得の十分の一を必ず主にささげるということです。これは与えられるもののすべては主からの賜物であることを信じることの信仰告白です。これを見ると、彼の誓願は彼が神様の御前にどんな人生を送るかという決断であり、約束です。 この誓願はヤコブの側からは神様の御前に生活を出発した大切な意味を持っています。アブラハムが祝福の源とする神様の約束の御言葉に基づいて信仰生活を出発しました。そのようにヤコブも、自分とともにおられるという神様の約束の御言葉に基づいて新しく信仰生活を出発しました。私たちも神様の御言葉に基づいて新しく人生を出発する時、神様の御前に意味ある人生を過ごすことができます。また、この誓願は神様の側からは彼とともにおられ、彼の人生に具体的に働かれるきっかけになりました。神様は彼の誓願を受けられ、それに基づいて導いてくださいました。ここで私たちは誓願を立てる重要性について学ぶことができます。誓願は私が神様の御前でどんな人生を送るかと心を定めることです。ところが、人々は神様から恵みと祝福を受けることは好みますが、誓願を立てることは好みません。それは誓願を立てると捕らわれると思うからです。しかし、神様に捕らわれないことがいいことではありません。神様に捕らわれないとサタンに捕らわれるようになります。神様の御手に捕らわれる時、神様がその人の人生の責任を負ってくださいます。誓願を立てると神様がそれを守れる力も与えてくださいます。私たちが神様の御前で決断することを通して神様との関係性を結ぶことができます。どうか、私たちが心を新たにして御言葉に基づいた新しい出発ができるように祈ります。

14Genesis16M イサクの結婚

14genesis16m, イサクの結婚, 2014年創世記第16講 イサクの結婚御言葉:創世記24, 67要 節:創世記24, 44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』 先週、私たちはアブラハムが神様の命令に従って最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげたことを学びました。実際に全焼のいけにえとして捧げたのは神様が備えられた雄羊でしたが、神様はそれをアブラハムが自分のひとり子を惜しまずにささげたことにしてくださいました。アブラハムの信仰の忠実さと神様を恐れ、愛し、第一とする心が認められたのです。さらに、それは「主の山の上には備えがある。」という信仰へつながって行きました。今日、学ぶ24章でもアブラハムは最愛の息子イサクの結婚において神様が彼の妻も備えておられると信じていたことが分かります。ここで、息子の結婚に関するアブラハムの信仰、アブラハムからイサクの妻を見つける任務を命じられたしもべの祈りと忠実さ、イサクの妻として迎えられるリベカの信仰と内面性を学びたいと思います。24章1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。先週も学んだようにアブラハムの人生は決して平坦ではありませんでした。生まれ故郷を離れて行くことからチャレンジであり、一つの冒険でした。信仰の危機も、失敗もありました。信仰の体験もありました。そうこうしているうちにアブラハムは年を重ねて老人になっていました。ではさまざまな試練の中でも信仰を守り通したアブラハムの人生はどうなっていましたか。聖書に「主は、あらゆる面でそのアブラハムを祝福しておられた」と記しています。アブラハム人生はあらゆる面で祝福されていたのです。これが私たちクリスチャンの人生ではないでしょうか。若い時は挑戦と冒険を経験します。神様を信じている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしよう。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。飛行機や船、電車の事故が怒ったら…などいう恐れがあります。実際に失敗もあります。自分の不信仰や怠けが原因であっても失敗は私たちを落胆させます。アブラハムのように結婚して25年間も子どもが生まれないような試練もあり得ることでしょう。ところが、そのような時にも信仰から離れないならどうなりますか。祈り、望みえない時に望みを抱いて信じるなら神様を体験することができます。さまざまな出来事の中で神様の深い哀れみと愛、力と不思議な導きを体験して行くことができるのです。結局、年を重なっていて見ると、ほんとうにあらゆる面で神様から祝福されていることが分かるようになります。年を重ねているおびただしいクリスチャンは言っています。「私はイエス・キリストを信じてからあらゆる面で祝福された」と。私はubf教会でも数多くの先輩から聞いています。私自身も告白できます。私は田舎者で人々からも田舎者として卑しく見られていると思い、自分自身も自信感を無くしていました。しかし、年を重ねてきた今は人々から愛され、尊敬されていると感じる時があります。先月は弟子から頼まれて500人位が集まった結婚式の司式もやって来ました。「あらゆる面で祝福されているんだなあ」と感じております。もし、現在は、何もかもうまく行かないと思っている方がいるかも知れません。毎日が辛い、苦しいと思われる試練の中に置かれている方がいるかも知れません。でもあきらめてはいけません。若い時はアブラハムのように信仰によってチャレンジし、冒険して行くものです。どんな時にもアブラハムのように祈り、感謝し、礼拝する生活をしてください。きっと神様はあらゆる面で祝福してくださいます。2, 4節をご一緒に読んで見ましょう。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。年を重ねて老人になっているアブラハムにとって息子イサクの結婚のことを考えなければならなりませんでした。アブラハムにとって人生の最後に残された重大な仕事は、信仰の後継者である息子にふさわしい妻を見つけることでした。そこで、アブラハムは息子の結婚を長年忠実に仕えてきた最年長のしもべに命じました。このしもべが誰なのかは分かりませんが聖書学者たちは15章2節に記されているエリエゼルだと言っています。アブラハムはエリエゼルに天の神、地の神である主にかけて誓わせています。何を誓わせましたか。一つ目は、カナン人の娘の中から息子の妻をめとってはならないということです。アブラハムの生まれ故郷に行き、親族の中からイサクの妻を選ぶことです。つまり、神である主を信じる信者の中から選ばなければならないということです。カナンには神様を信じる娘たちがいませんでした。しかしイサクの妻になるリベカの家族は主を信じる信者でした。リベカの兄と父親は「主に祝福された方、主から出たこと」と言っています, 31、50, 。そして、22章20, 23節を見ると、アブラハムにはアブラハムの兄弟ナホルから子どもたちが生まれたことが伝えられていました。ですから、アブラハムは必ず神様を信じる信者の中から息子の妻を見つけなければならないと命じたのです。二つ目は、息子は約束の地カナンにいさせることです。しもべはアブラハムに「もしかして、その女の人が私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と質問しました。それに対してアブラハムは「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」」と言いました。つまり、約束の子イサクが約束の地を離れてはいけないということです。ではどうやってアブラハムはしもべにこのようなことを誓わせることができたでしょうか。7節をご一緒に読んでみましょう。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分の信仰生活を通して神様を体験し、確信していたことが分かります。彼は神様の御心を第一にして従うなら、必ず神様が働いてくださると信じました。したがって彼はしもべに「天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ることができました。アブラハムは神様の御心を第一にして従うなら、必ず天の神、主は御使いを遣わして助けてくださると確信していたのです。ここで、私たちは息子の結婚でも自分の心ではなく、神様の御心を第一にしているアブラハムの信仰を学ぶことができます。私たちは大切なことほど神様の御心を求めなければなりません。人生において最も大切な結婚だけではなく、就職や進学など重要な決断をする時も、神様の御心を考え、従うことです。そして結婚、就職、進学などの大事なことを決断する時に神様の御心を第一にするなら必ず神様が助けてくださると確信することです。神様は私たちの前に御使いを遣わしてくださいます。私たちのために道を備えられ、助けてくださるのです。特に、私たちの人生の中で結婚ほど大切なこともないと思います。だからこそ、神様の御心を求めべきですし、自分の恋愛感情や親の心よりも神様の御心を第一にして決断するべきです。神様は私たちの結婚が愛と喜びと幸せが満ちていることを望んでおられます。私たちの結婚生活が潤され、私たちの心も満たされることを望んでおられます。ですから、神様は神様の御心を第一にするアブラハムが息子の妻を見つけるために遣わしたエリエゼルの働きを助けてくださいます。ここで、私たちに自分に与えられた使命を忠実に果たしたアブラハムのしもべから、神様のしもべとしての姿勢を学ぶことができます。第一に、しもべは重大な使命を果たすことを祈りから始めました。12, 14節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたががしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」とあります。さすがにアブラハムに長年仕えていたしもべですね。信仰の先祖アブラハムの影響を受けています。アブラハムの祈り生活を学んでいたことでしょう。アブラハムが祈ると、神様が彼に恵みを施してくださることを見て来たのです。だからこそ彼は何よりも先に祈りました。また、アブラハムのように具体的に祈っています。以前アブラハムがロトの救いのために祈る時、正しい人50人から10人まで減らして行きました。そのように、しもべも切に祈ったし、具体的なしるしを求めました。普通では起こらないようなことを求めて神様の働きを確かめようとしたのです。中東地域では旅人に水を飲ませることは、たいていの女性たちが行ないました。けれども旅人のラクダに水を飲ませることはしませんでした。しかも10頭のラクダに女性一人が水を飲ませるようなことは普通ではありません。でも、彼はわざと普通ではないことを求めて神様の働きを目撃し、御心を確認しようとしたのです。また、しもべは女性の外見上の美しさではなく、内面性を求めたことが分かります。彼は背が高い人を求めませんでした。目が美しい人を求めませんでした。心の美しい人を求めました。愛の豊かな女性、思いやりのある人、気配りのある女性を求めたのです。イエス様は山上の説教においてこう言われました。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい, マタイ5, 。この原理は夫婦生活でも同じです。夫か5回頼んだら、妻は10回従います。妻が5回要求したら、夫は10回答えます。このような態度で行なうならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現われるでしょう。ですから、アブラハムの信仰生活を受け継いで行くイサクの妻にもそういう態度、内面性が求められます。そこでしもべは人のために最善を尽くして仕えることだけではなく、動物までも助け、仕えることができる人を祈り求めたのです。では祈りの結果はどうなりましたか。  15, 20節をご覧ください。エリエゼルがまだ言い終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。彼女はブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘でした。彼女は非常に美しく、処女で男が触れたことがありませんでした。何よりも彼女は心の美しい女性でした。彼女は旅人のしもべに水を飲ませました。彼に水を飲ませ終わると、彼女はラクダのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言いました。井戸から水を汲んでラクダに水を飲ませることは決して簡単ではありません。私は子どもの時、牛に水を飲ませていましたが一度に20リトル以上も飲んでしまいます。ラクダは牛よりもいっぱい飲むでしょう。しかも10頭のラクダに水を飲ませることは大変な仕事です。ところが彼女は急いで水瓶の水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のラクダのために汲んだのです。しかも、隣にいたしもべは水を飲ませてもらうだけで何も手伝ってくれませんでした。彼は主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。一度に20リトルを運んだとしても20回も走りながら水を汲みに行ったり来たりしていたのに、隣の男は、ただ黙って彼女を見つめていたのです。それでもリベカは何も文句を言わず、黙々と働きました。何と素晴らしい娘でしょう。エリエゼルはリベカが祈り求めたとおりの女性であって主が自分の旅を成功させてくださったことが分かりました。彼女に尋ねて彼女がアブラハムの兄弟ナホルの孫であることも確認できました。そこで、エリエゼルはひざまずき、主を礼拝してアブラハムの神、主をほめたたえました。結局、エリエゼルが自分の仕事を神様に祈ることから初めた時に神様がそれを成功させてくださることを体験することができました。祈りが成功の出発点であり、成功の近道だったのです。イエス様も一日一日の仕事をまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから始められました, マルコ1, 。私たちも何かをする時、具体的に祈ることから始めるなら神様がそれを成功させてくださることを見ることができます。素晴らしい神様の働きを体験する基礎となるものは祈りです。すべての問題の解決のカギも祈りです。どうか、私たちが日々の生活の中で切に祈り、具体的に祈ることを通して自分の仕事を成功させてくださる神様を体験することができるように祈ります。第二に、しもべは自分に与えられた任務に忠実でした。しもべは神様が彼の旅を成功させてくださったのでリベカの家の中にはいりました。ラクダの荷は解かれ、ラクダにはわらと飼料が与えられました。しもべの足と、その従者たちの足を洗う水も与えられました。それから、しもべの前に食事が出されました。先ほど水だけを飲ませてもらった彼としてすぐにでも食べたかったでしょうか。しかし、彼はまず何をしましたか。33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は家に招き入れられ、もてなしを受けましたが、用事が終わるまでは、それを食べようとしませんでした。しもべは食べることよりも使命を大切にしたのです。そして「お話ください」と言われたとき、彼は「私はアブラハムのしもべです。」と自己紹介をし、あらゆる面で祝福されたアブラハムを紹介しました。それから、アブラハムの命令によってアブラハムの息子の妻を迎えるために来たのですが、アブラハムの神、主が自分の旅を成功させてくださったことを丁寧に説明しました。そこでリベカの家族は神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命に忠実な人だったかが分かります。数多くのクリスチャンは彼から管理者の忠実さを学んだことでしょう。パウロもコリント人たちに送った手紙で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。, ?コリント4, 」と言いました。私たちは教会でも職場でも、学校でも何か任されている任務に忠実でなければなりません。この忠実なしもべの働きによってアブラハムは愛する息子の妻を見つけることができました。では、アブラハムのしもべに見つけられたリベカの信仰はどうでしたか。 58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。」とあります。結婚の最終決定はリベカがするようにしましたが、リベカは『はい。まいります。』と言いました。ほんとうに、すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。リベカは神様の御心、神様の導かが分かった時、顔も知らないイサクとの結婚を自ら決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。ほんとうに信仰のある人は神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」結論的にイサクは神様の御心を第一にする父親アブラハムの信仰、しもべエリエゼルの祈りと忠実な働きが用いられて素晴らしい信仰の女性リベカと結婚することができました。ここで結婚している人は自分の子どもたちの結婚をどのようにするかを学ぶことができました。まだ結婚していない人はどのような信仰、どのような内面性を持っているべきかを学ぶこともできました。職場や学校、あるいは家で自分に任された仕事をどのように成し遂げ行くべきかも学ぶことができました。ここで共通することは私たちの神様の御心を第一にする価値観と神様に対する信仰です。私たちもそういう価値観と信仰を持って生きるなら、私たちの仕事を成功させてくださる神様を、あらゆる面で祝福してくださる神様を体験して行くことができます。アブラハムの神様が私たちの神様であることを信じて感謝します。

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14Easter1M 父よ、彼らをお赦しください

14easter1m 父よ、彼らをお赦しください, 2014年イースター修養会第1講, 金サムエル,  4月19日, 15:30父よ、彼らをお赦しください御言葉:ルカの福音書23, 53要 節:ルカの福音書23, 34、43節23, そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。23, イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」今日から明日までイースター修養会を設けて下さった神様に感謝します。先程第1講でイエス様が十字架にかかって死んだ出来事を学びました。明日はよみがえりであり、命であるイエス様について学びます。イースターはイエス様が十字架で死なれ、三日後に復活した事を記念する日です。今回の修養会を通して「イエス様の十字架と復活」が私達にも力強く働き、日常生活にも生かされますように祈ります。1.お赦し下さい。今日の御言葉では色々な人が出ます。先ずクレネ人シモン、犯罪人の二人、ローマ軍人、百人隊長、ヨセフ、女たちです。その中で中心はイエス様です。それぞれの立場になって感情や振る舞いを自分と照らし合わせて考えてみましょう。そうするともっと恵みを受けるようになると思います。イエス様は12弟子の一人であるユダの裏切りによって逮捕されました。23章の前半部を見ると、イエス様はピラートの1次審問, とヘロデ審問, 12節, を受けました。最後にピラートの2次審問後には、十字架の死刑が言い渡されました(13−25)。この十字架刑は人類歴史上最も残酷な刑罰でした。本来ユダヤ人の処刑法ではなく、ペルシア、ギリシャ、ローマで行った刑罰です。反逆者、殺人犯、強盗などの重罪人が受けていました。あまりにも酷い刑罰なので自国民には無く奴隷や植民地の人に限られていました。この十字架刑の死刑囚は自分の十字架を背負って、十字架が立てる所までは運ばなければなりませんでした。イエス様もあの十字架を背負って行かれました。ところが前日の夜、3回の長い審問で力切っていました。もはや十字架を運べなくなりました。そこで、ローマ兵士達は田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえました。そして彼にイエス様の十字架を負わせました。結局シモンは無理矢理にイエス様の十字架を背負って行きました。これはシモンにとって中々理解しがたい十字架でした。しかし、結果的にみるとシモンは幸せな人だと思います。必ず誰かイエス様の十字架を代わりに背負って行かなければならない場合があります。その時、シモンのようにする事は易しくないでしょう。わけも知らずに十字架を背負うとする時は色々な心配事を考えます。何故私が、運が悪いなと背負う前から計算します。理由が分かっても重い十字架は出来るだけ避けたいと思います。私がしなくてもだれが背負ってくれるだろうと思います。しかし、シモンは違いました。彼は勇気を絞って自ら進んで十字架を背負いました。丘まで運ぶのは大変です。肉体的にも疲れます。周りの視線も気になります。しかし、終わった時は背負った人しか経験出来ない、充実感など、学ぶ事が沢山あります。何よりもシモンは人類救いのイエス様の偉大な御業に尊く用いられました。無理矢理に十字架を背負ったとしてもイエス様がなさる救いの御業に用いられる事はこの上もない栄光であり、恵みです。シモンも後にその十字架の意味が分かって救われました。教会史を見ると、彼の家族も救われてますます福音の御業に励むようになりました。私達もシモンのような人になれるように祈ります。私は、しばしば鄭ダニエル宣教師は本当にシモンのような人だなと思います。大学生から小学生まで幅広い4人の子供を育てます。若い高校生の面倒を見る一番大変な地位の学校の教頭です。それだけでもストレスが沢山あります。肉体的にも精神的にも疲れるでしょう。しかし、いつも笑顔です。何よりも教会の牧師として毎週のメッセージを準備して伝えます。教会の行事もリードして行きます。簡単に見えても簡単ではありません。しかし、無理やりでもイエス様の十字架の栄光と恵みを体験しているからこそ、いつも笑顔でいられていることでしょう。無理矢理でも十字架を負っている人はその栄光と恵み、満足感と喜びを経験しているのです。シモンがイエス様の後ろから十字架を運んでいく時です。大勢の民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女達の群れもイエス様の後について行きました。彼らの中にはイエス様から恵みを受けた人がいました。自分の病気を癒してもらった人も、娘の病気を癒してもらった偉い人達もいました。彼らが十字架を背負って行かれるイエス様の姿を見るのはとても悲しいことでした。十字架で死んでしまうイエス様を考えると悲しむのは同然でしょう。そんな彼女達にイエス様は言いました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからです。イエス様は現在ご自分が受けている十字架の苦しみより、エルサレム滅亡のことを心配していました。その時、あまりにもひどい災難のために子どもを生んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだと言うほどになるからです。でも、彼らはイエス様を十字架につけて殺す罪の結果は考えませんでした。彼らはイエス様からエルサレムの滅亡を言われてもイエス様と犯罪人を十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左にし、イエス様を中央にある十字架につけました。そのとき、イエス様はこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」「父よ、彼らをおゆるしください」――その彼らの中に、ローマの兵士もユダもペテロも、そして私達も含まれています。何をしているのか分からないで罪の闇に足を取られる私達です。羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私達です。イエス様は、そんな私達の罪を背負いながら、その赦しを神様に祈られました。この祈りは私達の為です。イエス様はご自分を殺そうとしている人々の為に、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。以前イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と弟子たちに教えました。イエス様は、今、十字架の上で、その通りに実行しています。敵を愛し、敵を赦しなさい。本当に相手を理解し、赦すべきことは赦し、愛するということは本当に難しい事です。自分が相手に与えたかも知れない傷は大抵の場合、覚えていません。いや、そのことに気付いてさえいません。しかし、自分が受けた傷は中々忘れません。ましてや赦すことは中々出来ないでしょう。ところが、イエス様はご自分の愛を踏みにじり、命までも奪おうとする人々の為に、執り成しの祈りを捧げられました。ここに、イエス様の愛、神様の愛があります。罪ある者、罪に生まれたあるがままの人間性では、決して存在することのない神様の愛があります。このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちは罪赦され、救いに与かる恵みを受けた者になりました。そして、神様の愛を知る者とされました。このお方に賛美を捧げましょう。そして、私達も人を赦して愛する生活が出来るように祈ります。やがてこのイエス様の遺言はクリスチャン達も見習って受け継がれました。人を許す時こそ、自分の心に平安が持たされます。相手を許す時、相手を為に死ぬことが出来ます。イエス様とともに十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエス様に悪口を言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。ところが、もう一人のほうが答えて、彼をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。, われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして彼は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。一人はイエス様に悪口を言いましたが、もう一人のほうはイエス様の祈りに受け入れました。彼は自分が罪人であることを認め、告白しました。すると、イエス様は、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ここを見ると、神様の救いは死刑囚という身分とは関係がない事が分かります。死ぬ直前にしても神様の救いを受け入れれば、遅くありません。むしろ遅いと悟った時が一番早いのです。ただ、いつまでは後回してしまうと救われるチャンスを失ってしまいます。イエス様の御言葉を聞いた時に信じて受け入れることが大切です。私たちが救われる時はいつでしょうか。今でしょう。難しいものは後でやればいいでしょうと十字架を避けますが、そうなるといつになっても終わらなくなります。その方は何の成果もありません。発展も成長もありません。今信じて今チャレンジすることが大切です。クレネ人シモンも後回ししないでイエス様の十字架を背負いました。イエス様と一緒に十字架につけられた死刑囚は遅かったけれどもイエス様の赦しの祈りを聞いてその場で信じました。私はこの死刑囚からも勇気を学びます。自分の弱さ、罪深さの為にためらうのではなく、イエス様を信じて信仰告白する事が大切です。その信仰によって救われます。私は35歳になって就職活動をしました。今の会社から営業技術の人を探す案内を見た時、本当に迷いました。私は日本人ではないので、日本の方に品物を売れるか。余り人の前で話すのが得意でもない、色々心配がありました。しかし、勇気を絞って、日本で生活する為に、家族を養う為にやりますと祈りました。そうしたら、無試験で今の会社に採用されてもう10年も働いています。今は一人でお客様に行って説明し、納品にも行きます。昨年度は営業売り上げが2倍になりました。神様が色々助けて下さいます。自分は弱いし、足りない者です。神様から与えられる御言葉を信じるとき、4年間貧血で大変でしたが、今年は正常値に戻りました。病気も安定になりました。イエス様が十字架にかかって赦しの祈りを捧げました。死なれることによって私の罪を贖い、癒して下さったからです。イザヤ53章4、5節を見ると、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。そのとおりにイエス様は私の病を負い、私の痛みを担って下さいました。イエス様の打ち傷によって私は癒されたのです。このようにイエス様の十字架には赦しがあり、癒しがあります。私の罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれたイエス様の十字架を信じる人に赦しと癒しを下さることを心から感謝します。若し、告白した死刑者の心が私に無かったなら、今の私はありません。ただ、信じたとき、不思議なイエス様の十字架による赦しと癒しの力が私のうちに働きます。この十字架の恵みを心から感謝します。2.今日パラダイスにいます。犯罪者の1人が死ぬ前、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。すると、イエス様は彼に言いました。誠に、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。この短い対話の中に大きな恵みがあります。人は本当に死ぬ時、二つのパータンになることです。一つのパータンは何の祝福もなく肉体的に死ぬことだけです。しかし、死刑の一人のようにイエス様に信仰の告白した人は霊的に祝福されます。信仰の告白をした死刑者は肉体的に死んでも、彼は霊的に永遠に生きることです。彼は罪を犯しましたが、どうか私の思い出して下さいと言いました。これが彼の素直な気持ちでした。そんな彼にイエス様は最高の祝福の言葉を言いました。あなたは今日私と共にパラダイスにいます。そうです。私たちは信じたその時からパラダイスにいる事になります。イエス様は過去や未来の事ではなく、今信仰の告白をして欲しいと言います。今、信仰の告白をしないと行けません。今、信仰の告白をするとイエス様と共にパラダイスにいる事になります。私達も死刑者のように信仰の告白をして見ましょう。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」死刑者が最後の信仰の告白をした時はすでに12時頃になっていました。その時、全地が暗くなって、三時まで続きました。, 太陽は光を失っていました。神殿の幕は真二つに裂けました。イエス様は大声で叫びました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」いいました。そして息を引き取られました。イエス様は十字架で肉体的な生命を切られ死なれました。イエス様は33歳とう若さで肉体的な生を終えました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえました。「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言いました。イエス様の知人たちと、ガリラヤからイエス様について来ていた女達とはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていました。ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな正しい人がいました。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいました。彼が、ピラートのところに行って、イエスの体の下げ渡しを願っていました。それから、イエス様を取り降ろして、亜麻布で包みました。そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めていました。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていました。, ガリラヤからイエスと一緒に出て来た女たちは、ヨセフについて行って墓とイエスのからだの納められる様子を見届けていました。そして、戻って来て香料と香油を用意しました。安息日には、戒めに従って休んでいました。これでイエス様は完全に地上での御業は終わりになります。イエス様が十字架につけられた時刻が午前9時です。完全に命を絶った時刻が午後3時になります。6時間十字架で全ての苦痛を耐えました。誰の為でしょうか。それは私達の為です。アダムが犯した罪で人間が永遠に罪から束縛して死んでしまう定めを無くすためです。多くの人がこのイエス様の大きな愛を知らなくて苦しんでしまう人が沢山います。パラダイスに導くイエス様を信じましょう。私も今年「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」を信じて一年を過ごしたいと祈っています。特に今年から会社で自分の担当商品の責任者になり、予算達成が出来るか心配ばかりしていました。いつも恥かしく思っている重奏団の賛美も恵みで力強く歌いたいと祈っています。この教会も愛に満ち溢れる、皆が平安に過ごせる1年になりますように祈ります。

14Genesis15M 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム

14genesis15m, 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム, 2014年創世記第15講一人子さえ惜しまずささげたアブラハム御言葉:創世記22, 23章要, 節:創世記22:12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 先週、行われたイースター修養会を大きく祝福してくださった神様に心から感謝します。何よりも私たちの罪を赦し、贖うために十字架にかかって死なれ、葬られましたが死者の中からよみがえられた私たちの主イエス・キリストの御名を賛美いたします。 今日からは再び創世記に戻ります。先々週までアブラハムの人生を見て来ました。彼は神様から「あなたは祝福となる」という約束をいただきました。でも彼は「祝福の人生」だとは言えないような歳月を過ごしました。決して平坦ではありませんでした。むしろ試練の連続だったとも言えます。75歳にして自分の生まれ故郷を離れて行きました。飢饉に直面する時もありました。愛する人ロトとの別れがあり、ロトのために戦争に巻き込まれることもありました。女奴隷ハガルのことで夫婦の危機に見舞われたこともありました。特に神様から約束された子どもが25年間も生まれませんでした。ほんとうに山あり谷ありの人生の中でさまざまな試練が彼を襲っていたのです。漸く約束の子イサクが生まれたのは、アブラハム100歳の時でした。その後も先に生まれていたイシュマエルの問題がありました。アブラハムの人生に試練が続いていたのです。ところが、またも神様はアブラハムを試練に会わせられました。この時間、アブラハムが経験した試練を通して神様への愛と信仰を学びたいと思います。また、私たちのために備えてくださる神様を学びたいと思います。22章1節をご一緒に読んでみましょう。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。」とあります。「これらの出来事」とは21章に記された出来事です。神様の約束の通りに、イサクが生まれました。それはアブラハム夫婦にとって大きな喜びでした。アブラハム夫婦の不信仰によって女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの問題も神様の助けによって解決されました。それで、アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在しました, 。その間にイサクはすくすくと成長したことでしょう。6節を見るとアブラハムはイサクに全焼のいけにえのためのたきぎを負わせています。それほど大きくなっていることでしょう。自分のことを思いだしてみると、父からたきぎ、お米、お魚などの荷物を負わせられたのは中学生の時でした。その頃、私が父と一緒に歩いていると、周りから「もう大きくなったね。お父さん。いいね。」とよく言われました。すると、お父さんは幸せそうに笑っていました。イサクも中学生の年齢になっていてアブラハムはイサクの成長を喜び、幸せを感じていたと思われます。ところが神様はアブラハムを試練に会わせられたのです。2節をご覧ください。「神は仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」と言うのが神様からの命令です。単に「子どもを連れて山に行って祈りなさい」とか、「子どもを厳しくしつけなさい」というような命令ではありません。「子どもを連れて行って殺せ」という命令です。しかも全焼のいけにえとして殺すことです。「全焼のいけにえ」とは言葉の通りに全部焼いて煙にしてささげるものです。人が牛や羊を全焼のいけにえとしてささげるときは、まず動物の頭の上に手を置いて殺します。その後その血を祭壇の周りに注ぎかけます。そして、その動物の皮をはぎ、各部分に切り分け、内臓と足は水で洗います。それから全体が全部灰と煙になるまで徹底的に焼き尽くすのです。ところが神様はアブラハムにそのようなささげ方でアブラハムを神様にささげるように命じられたのです。親にとってこれほど残酷な、非人間的な行動があるでしょうか。全く常識では考えられないことです。アブラハムにとってもこれほど残酷な試練はないでしょう。まったく理解に苦しむところです。では、なぜ神様はこんな残酷なことをお命じになったのでしょうか。何のためにアブラハムをこんなに酷い試練に会わせられるのでしょうか。私は本文の御言葉を黙想しているうちに二つのことを考えられました。一つ目はアブラハムに神様を第一に愛することを確かめ、その愛を持たせるためです。神様を第一に愛しているかどうかを試してその愛を持つように訓練するのです。だから試練です。神様は、イサクという子が「あなたの愛している子」であることをご承知でした。イサクはアブラハムが100歳にしてやっと神様からいただいた子どもでした。しかも、彼の正妻サラとの間に生まれた唯一の子どもです。目の中に入れても痛くないほど愛していたのは言うまでもありません。さらに加えて、イサクの誕生は神様の約束の成就であったし、奇跡的な出来事でした。アブラハムはイサク誕生を通して特別な経験をしたのでいつでもどこでもイサクは神様からの素晴らしい贈り物だと証することができたでしょう。そのイサクをささげよ、というのが神様の命令なのです。ここで、神様はアブラハムに神様が与えてくださったイサクを第一に愛するか。それともイサクを下さった神様を第一に愛するかを確かめておられるのです。つまり、「アブラハムよ。おまえはわたしからの贈り物にいつまでも執着するのか。それとも贈り物の贈り主なるわたしにとどまるのか」という問いかけです。神様は私たちに対しても、「あなたは何を第一に愛しているか」と問いかける時があるでしょう。私たちにも神様から与えていただいたものがあります。それはそれで大変尊いものです。家族も、財産も、素晴らしい信仰的な経験も、一つ一つが神様からの贈り物です。それらを尊く思って感謝し、愛するべきでしょう。しかし、そのような賜物や信仰の体験は私たちが第一に愛する対象ではありません。私たちが第一に愛するべき対象は創造主であられる神様です。私たちは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を第一に愛しなければなりません。神様は聖書全体を通して神様がご自身が私たち人間をどんなに愛しておられるかを教え、私たちが神様を第一に愛することを求めておられます。ですから、この時間も神様は私たちに仰せられます。「アブラハムよ。ダニエルよ。マリアよ。あなたは何を第一に愛しているのですか。」二つ目は神様を恐れる信仰を確かめ、その信仰を持たせるためです。神様を恐れる信仰を試してその信仰を持つように訓練されたのです。神様はイサクがひとり子であることをも承知の上でアブラハムに命じられました。「ひとり子」とはどういう意味でしょうか。言うまでもなく「一人しかいない子」という意味です。アブラハムの場合、それ以上の意味があります。アブラハムには二人の子がおりました。イサクとイシュマエルです。そのイシュマエルは「奴隷の子があなたの相続人となってはならない」ということで追い出されました。約束の子イサク一人だけが残されたわけです。神様は「そのイサクをささげなさい」と命じられたのです。すなわち「あなたの子孫は海辺の砂のように、空の星のように数多くなるであろう。あなたから出る子孫が多くの国民となる」という約束を担うたったひとりの子、そのイサクをささげなさいというのが神様の命令だったのです。これは神様を恐れる信仰がなければ従えません。神様を恐れることができず、少しでも疑いがあれば「これこそ残酷だ、裏切りだ、非人間的だ」と騒ぎ立てるでしょう。神様はアブラハムがほんとうに神様を恐れているかを確かめ、その信仰を確実に持たせようとされたのです。それでは神様の命令に対するアブラハムの反応はどうでしたか。3節をご覧ください。「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクといっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」とあります。アブラハムは信じられないほど淡々と行動しています。何も大騒ぎしていません。黙々と、すべきことをしている姿が浮かびます。翌朝早くから行動するアブラハムから「さすがにアブラハムだなあ」とも思われます。羊や牛などを全部焼いて煙にするほどのたきぎだからかなりの量だったでしょう。それを割ったことを考えると、額から流れる汗をあごからポタポタ落としていたことでしょう。それでも何もしゃべらず、神様から言われた場所に着くまで三日も歩き続きました。三日目にアブラハムが目を上げると、神様がお告げになったその場所がはるかかなたに見えました。それでアブラハムは若い者たちにろばといっしょに残るようにしました。そして全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをイサクに負わせました。息子自身にたきぎを背負わせるときのアブラハムの心はどうだったでしょうか。それも痛々しい限りです。アブラハムは火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行きました。この姿を見ると、アブラハムは「イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」という命令を、残酷だ、非人間的だという感情的なレベルでとらえていません。アブラハムはそれを「神様への礼拝」として受け止めていました。だから、彼は若い者たちに「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところの戻って来る」と言ったのです。モリヤの地に向かう途中で、イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」この時、父親のアブラハムは何と答えたらいいでしょうか。なかなか悲しみを押さえることができなかったでしょう。泣き出しそうになったのではないでしょう。しかし、彼はイサクの質問に対して「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。何と素晴らしい信仰の答えでしょうか。神様が備えてくださると信じ切っています。それに対してイサクもイサクです。「それはどういう意味ですか。どうしてそれが分かるんですか。」とも言える場面です。しかし彼は何も言っていません。父親を信頼し切っています。親子が互いに信頼し切っています。素晴らしい親子関係です。9節をご覧ください。神様が告げられた場所に着いた時、アブラハムはその所に祭壇を築きました。その上にたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。その時、イサクは反発して逃げることもできました。たきぎを負わせられるほどの力もあったからこそ反抗もできたのです。しかし、イサクは反発せず、親の指示、神様の御心に従いました。イサクの信仰と従順を見ることができます。それは父なる神様に対するイエス様の姿勢を思い浮かばせてくれます。イサクの従順はやがて神の御子イエス・キリストが神様の小羊として黙々と神様の御心に従われたことを象徴しているのです。10節をご覧ください。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。ここですでにアブラハムはイサクを殺していると思います。いや、全焼のいけにえとして神様に捧げ切ったのです。彼はイサクを捧げることによって、自分自身を神様に全く捧げ切ったのです。アブラハムがまさにイサクをほふろうとしたその時、主は主の使いを通してアブラハムに呼びかけました。「アブラハム。アブラハム。」。刀を振り上げ、今にも振り下ろそうとしているアブラハムに対して神様は、「ストップ!」とは言われませんでした。「アブラハム、アブラハム」と二度名前を呼ばれました。ここで神様はアブラハムの名を2回呼んでいます。今までも神様がアブラハムの名を呼ばれることは何度もありました。でも2回も呼んだことはありませんでした。今回は「アブラハム、アブラハム」と二回も呼んでいます。それほど事態が緊迫していたことでしょう。その緊迫感が伝わって来ます。主は彼がイサクを主にささげたと認められるまでは黙っておられました。しかし、神様を第一に愛し、神様を恐れるアブラハムの信仰を確認した時には二度も彼の名前を呼びました。12節をご一緒に読んでみましょう。「御使いは仰せられました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」神様は神様を恐れるアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。神様はアブラハムがまさしくひとり子イサクをささげたと見なしてくださったのです。 13節をご覧ください。アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。アブラハムはその場所を名付けて「アドナイ・イルエ」、つまり「主が備えてくださる」と呼びました。これはアブラハムの信仰告白です。アブラハムの信仰に対してヘブル人への手紙の著者はこう言います。「信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」アブラハムの行為は、神様がご自身のひとり子、イエス・キリストを死に渡し、三日目によみがえらせたことを指し示す「型」であると言われています。神様は信仰によって生きる人々の「アドナイ・イルエ」の神様です。神様は信仰によって生きる人々の必要なものを備えてくださる方です。アブラハムは今回のことを通して「主は常に私たちを見守り、最善のものを備えていてくださる」ということを経験し、確信したでしょう。ほんとうに、アブラハムのように神様を第一に愛し、神様を恐れる人には必ず神様が最善のものを備えていてくださいます。神様はアブラハムが「アドナイ・イルエ」という真理を体験し、それがもととなって「主の山に備えあり」という言葉が人々に覚えられるようになるために、この試練を与えられたということにもなるわけです。「主の山に備えあり」という真理はそれほど大事なのでしょうか。私自身も経験して来た真理です。皆さんもご存知のように私の長男は中学校まで韓国学校で勉強をしたので都立の戸山高校は遠く感じられました。ところが、私は説明会の時に神様から「主の山に備えあり、戸山にも備えあり」と言うことが示されて確信し、挑戦することができました。その結果長男が卒業することだけではなく次男も戸山高に通っています。「アドナイ・イルエ」は今の真理なのです。 16, 18節をご覧ください。神様はアブラハムに対する祝福を確証されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 ここで、私たちは神様の約束がアブラハムの従順を通して成就して行ったことを学ぶことができます。アブラハムが神様を愛し、恐れて神様の御声に聞き従った時に主は彼に祝福を注いでくださいました。神様はアブラハムとの約束にアブラハムの神様への愛と信仰による従順も求めておられたのです。神様はアブラハムの愛と神様を恐れる信仰を見てアブラハムの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えると言われました。また、将来キリストを通して与える敵に対する勝利と救いの祝福も啓示してくださいました。神様はアブラハムの子孫であるイエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の力を打ち破り、地のすべての人々が祝福を受けるようにしてくださいました。アダム一人の不住順によって人々は罪と死に支配されるようになりました。しかしアブラハムひとりの従順によって救いのみわざは始まり、さらにイエス・キリストの従順によって救いのみわざは完成されました。 23章にはサラの死に関する記事です。そこにも神様の備えがありました。それでアブラハムは自分の妻サラをカナンの地にある、マクペラの畑地のほら穴に葬ることができたのです。以上を通して私たちは神様への愛と信仰、神様の備えを学びました。どうか、日々の生活の中で神様を第一に愛し、神様を恐れる生活ができるように祈ります。神様は私たちのためにベストを備えておられることを信じて今週も力強く信仰によって生きるように祈ります。