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14Matthew7M わたしがあなたがたをやすませてあげます

14matthew7m, わたしがあなたがたをやすませてあげます, 2014年マタイの福音書7講                             わたしがあなたがたをやすませてあげます御言葉:マタイの福音書11, 1−30要, 節:マタイの福音書11, 28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 日本は「平均寿命世界一の国」であると言われています。それでもこの日本には多くの人々が「疲れた。疲れている。疲れ切っている。」と言っています。大人から子供まで「疲れた」が口癖で全国共通語になっています。挨拶も「お疲れ様です。ご苦労様です。」と言いますね。どうしてそれほど疲れているでしょうか。どうすれば疲れがとれるでしょうか。 今日の御言葉でイエス様は疲れた人、重荷を負っている人を招かれます。安らぎを得る方法を教えてくださいます。どうか、御言葉を通してイエス様のお招きを受け入れ、イエス様を学ぶことができるように祈ります。そうして、イエス様から与えられる休みと安らぎを得ることができるように祈ります。, ?.疲れている原因 , 第一に信仰の確信が揺らぎ始めると疲れます。1節をご覧ください。「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」とあります。「このように」とは「先週、私たちが学んだように、」と言える言葉です。イエス様は12弟子を遣わされるときに「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」、「人々には用心しなさい」、「人を恐れず、神を恐れなさい。」などの注意を与えてくださいました。その後、イエス様は彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを去りました。12弟子を遣わすことだけではなく、イエス様ご自身も教え、宣べ伝えることを続けられたのです。そうして、キリストのみわざはますます拡張されて行きました。 2,3節をご覧ください。「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」とあります。キリストのみわざについて聞いたヨハネですが、キリストのみわざには関心を示していません。イエス様と12弟子の活動によってキリストのみわざが広がっていたので大変喜ぶべきでした。事実、彼にキリストに対する信仰があった時はキリストのみわざを喜んでいました。イエス・キリストをあがめていました。彼はイエス様に対して「私よりもさらに力のある方です。私は、その方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。, マタイ3章, 。それほどにイエス・キリストに対する確信があったのです。その時、彼は疲れることなく、元気いっぱいに働いていました。監獄に入れられることも恐れずに不義と戦いました。 それなのに彼は、今イエス様がキリストであるかどうかの質問をしています。なぜでしょうか。それは、ヨハネ自身のキリストに対する信仰が揺れていたからです。彼は「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と言っています。彼はイエス様にバプテスマを授けることも躊躇ったほどにキリストとして確信していたのに、その信仰が揺らぎ始めていたのです。なぜこうなったでしょうか。おそらく、彼は獄中にいる自分を助けて来てくださると期待していたことでしょう。彼は困っている人、苦しんでいる人を助ける活動こそキリストのみわざだという先入観を持っていたと思われます。イエス様に対して自分なりの期待感と先入観があったのです。ところが、その通りになりませんでした。そこで、彼の信仰は揺れ始めたのです。イエス様に期待することと、現実のギャップに悩む時、疲れてしまうでしょう。イエス・キリストのみわざに対する確信が弱くなると疲れてしまうのです。 私たちも最初にイエス様に出会って救われた時はどうなりますか。罪深い自分を救ってくださったキリストの恵みのゆえに謙遜になります。「イエス様こそ、生ける神の御子キリストです。」と告白します。キリストのためなら生きることも、死ぬことも益ですと歌います。するとなんだか元気になります。心から生ける水が流れることを感じるようになります。キリストのためなら教会堂の掃除をすることも光栄に思います。「トイレの掃除だけでも私がやります」というほどになります。ところが、自分がイエス様に期待することと現実のギャップが大きくなると、どうなりますか。現実問題が解決されることに集中されるようになります。キリストに出会った時の信仰は弱くなります。「本当にイエス様がキリストなのでしょうか、私の祈りを聞いておられるでしょうか。私は別の方を待つべきでしょうか」と思うようになるのです。イエス・キリストは何もやってくださらないと思って別のところを求める場合もあります。偶像崇拝者に戻り、つまずいてしまう場合もあります。しかし、そのような時こそ忍耐を持ってキリストのみわざを信頼しなければなりません。キリストに対する絶対的信頼をさらに深めて行くべきです。だれでもイエス・キリストにつまずかない者は幸いです。ではキリストは何をしておられたでしょうか。4, 6節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」イエス様はヨハネがキリストに対して正しい知識を持つように、キリストのみわざを確信するように助けてくださいました。ヨハネの活動を無視したのではなく、イエス様ご自身のみわざを教えてくださったのです。先入観や自分中心の期待を捨て、主のみわざを確信することによってヨハネも安らぎを得ることができるからです。ヨハネはヘロデ王の不義と戦いましたが、イエス様は福音のために働いておられました。目の見えない者が見、足のなえた者が歩くことのために働かれました。ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえるように働かれました。死人が生き返ることのためにも働かれました。このようなキリストの働きによって人々は癒され、安らぎを得ました。新しいいのちを得ました。人々から捨てられてしまうほどに弱く病んでいる人たちが癒され、彼らのたましいが行かされるみわざがあったのです。ではヨハネの働きは無用でしょうか。いいえ。私たちは正義のために戦っている人々をさばいてもいけません。イエス様は正しいことを正しく言う正義感のある人を愛し、認めてくださいます。7, 15節を読んでみると、イエス様はヨハネがいかに偉大な人であるかを説明してくださいました。ヨハネはイエス様が「, 女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とお認めになったほどに偉大預言者だったのです。ただ、彼はキリストに対する知識が不十分であったために、イエス様の十字架の死と復活を知っている現代のクリスチャンには及びません。私たち人間はイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって救われるからです。私たちはイエス・キリストの十字架と復活を通して神様の愛がどれほど大きいものか知っています。私たちのためにご自分のいのちまでも惜しまずにお捨てになったイエス様の愛を知り、信じています。その信仰を失い、その信仰が弱くなると、疲れてしまいます。日々の生活の中で「疲れた。今日も疲れた。」と言わざるを得ない状態になってしまうのです。,  第二に、人は幼子のようにならないと疲れます。16, 19節をご覧ください。「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」とあります。 ここに喜びも悲しみも感じない人々の姿があります。何でもかんでも弁解し、批判的な人々の姿もあります。ヨハネも、イエス様も素晴らしい福音を伝えましたが、人々は喜びませんでした。悔い改めて悲しむこともしませんでした。むしろ福音に対して勝手な評論家になっていました。食べないと悪霊につかれているのだと言い、食べると食いしん坊だと言いました。ああいえばこう言い、こういえばああ言っていたのです。このように、何もかも批判する人の心には安らぎがありません。人に対するさばき、不平と不満などで騒いでいます。だから、いつも疲れるだけです。哀れな人たちです。イエス様が彼らのことを考えると、とても心を痛められたようです。イエス様は悔い改めない町々の不信仰について嘆かれました。21, 24節をご覧ください。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」とあります。このようなイエス様の嘆きには理由があります。それは、イエス様がメシヤであることを証明する数多くのみわざを見ているのにもかかわらず、これらの町々が悔い改めなかったからです。イエス様が彼らの町に来られたので、イエス様に関する知識を増えていたでしょう。でも、本当の意味ではキリストを知らなかったのです。25, 27節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」とあります。自分の賢さや知恵を誇る評論家のようではなく、幼子のようになると、神様を知ることができるということです。幼子は笛を吹いてやると、踊ります。うちの子どもたちがまだ幼かった時は、cdフレアから音楽が流れるだけでも踊りだしていました。恐い顔をしたり、弔いの歌を歌っているような顔をしたりすると、子どもたちの顔も悲しい表情になりました。幼子は素直に反応するのです。ですから、イエス様が私たちに要求されるのは、多い知識ではなく、幼子のような素直さです。幼子のように素直に反応して喜び、悲しむのです。幼子は疲れていません。だから、神様の御言葉が語られるときに反応できる方は幸せです。御言葉を通して疲れがとれる生活ができます。パウロチーム勉強会の時によく笑います。御言葉に素直に反応できるからだと思います。私は先輩の宣教師たちが御言葉に反応して素直にお話をし、大笑いすると、一日の疲れが完全に癒されます。李ヨシュア宣教師はよく言います。「今日も実はここまで来るのが重かったけれども御言葉を勉強すると元気になりますね」と。本当にそうです。私自身もよく経験していることです。もし、ヨシュア宣教師が「俺はこの箇所を何度も勉強したよ。」と思って家で休んでいると疲れが取れるでしょうか。そうではないと思います。疲れていても教会に来て御言葉に反応すると、不思議に疲れが癒されるし、ストレスも解消されるのです。たましいに安らぎが来ます。従って私たちはどうするべきでしょうか。?.休み、安らぎを得る方法(疲労回復の方法)28, 30節をご一緒に読んでみましょう。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」ここで、私たちは休み、安らぎを得る具体的な方法を学ぶことができます。第一に、イエス様のお招きを受け入れることです。イエス様は。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と招いてくださいました。, 私たちはみな、生活を営む以上、疲れと重荷から逃れる事はできません。「この頃、いつも疲れを感じている。いくら寝ても疲れが取れない、身体が重くだるい。」こんな悩みを抱えている方がたくさんいます。それが私たちの生活でしょう。ところが、疲れているときに疲れている人に行くと、ますます疲れます。一日中、職場で働き、疲れたまま家に帰った時、奥さんから「今日は疲れた。ちょっとご飯を炊いてくれる。」と言われたらどうなりますか。さらに疲れてしまうでしょう。しかし、心やさしく、へりくだっている人に行くと、休まれるし、安らぎを得ます。たとえば、旦那さんが仕事から家に帰ったとき、奥様が優しく謙遜に迎えてくれるなら、一日のすべての疲れがとれるでしょう。でもそれは一時的です。私たち人間はお互いに疲れているからです。ところが、イエス様は誰よりも心やさしくへりくだっておられます。何よりもイエス様は私たちの弱さも重荷も背負って十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は私の内側で私を責めたてている全ての罪と、その記憶をご自分の身に引き受けてくださったのです。キリストがあなたのすべての罪の身代わりとなって十字架の上でさばきを引き受けてくださったのです。したがって神様はキリストにあって私たちのことを少しも怒っていません。私たちを迎え入れようと優しく待っておられる方なのです。恐れの原因は全部キリストが十字架の上で取り除いて下さったのです。また、イエス様は死者の中からよみがえることで死を滅ぼされたお方です。イエス様は死という人生最大の重荷を自らの復活によって滅ぼしてしまわれたのです。ですから、私たちがイエス様のお招きを受け入れ、イエス様のところに行くなら、休まれるし、安らぎを得ることができるのです。第二に、イエス様のくびきを負って、イエス様から学ぶことです。人生は荷車を引いて行くようなものです。私は子どもの時に、牛にくびきをかけてリヤカーを引いて行くようにしました。リヤカーに乗っていると楽しかったです。でも牛がいないと、自分が荷物を載せたリヤカーに引いて行く時もありました。その時に、誰かが一緒になって車を引いてくれると楽になりました。これが休みです。そのように、さまざまな重荷を載せたリヤカーを引いて行くような人生の中にイエス様が来てくださいました。それで、だれでもイエス様のくびきを負って行くなら、イエス様が重いリヤカーを一緒に引いてくださるのです。私たちの重荷が多くてもイエス様が引いてくださるから楽になります。私たちは平安な生活ができるようになります。やすらぎのある素晴らしい人生を持つことができるのです。それから、イエス様を学んでいくうちに、自分のたましいに来る安らぎを体験することができます。人々を休ませることもできるようになります。イエス様はやさしく、へりくだっているとおっしゃいました。人は短期で高慢になっていると自ら疲れます。しかし、イエス様のように心やさしく、へりくだっていると、平安になります。神様を愛し、人を愛する歩みです。イエス様と一緒になった私たちも、神様を愛し、人を愛するなら、その人生がどうなりますか。「そうすればたましいに安らぎがきます」これが、イエス様の約束です。 , 人生の中には疲れや心配事があります。きよくなりたいと思ってもきよくなれない、また、家庭や夫婦、親子問題、経済、事業、健康など、人生には色々な問題があります。しかし、イエス様が招いておられます。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』, これはクリスチャンであっても、クリスチャンではなくても、全ての人に対するイエス様の招きの言葉です。素晴らしい御言葉です。『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』私たちがイエス・キリストを正しく知り、信じる信仰によって疲れた生活から救われて安がりのある生活ができますように祈ります。

14Matthew05M 私たちのわずらいを身に引き受けられたイエス様

14matthew05m, 私たちのわずらいを身に引き受けられたイエス様, 2014年マタイの福音書第5講私たちのわずらいを身に引き受けられたイエス様御言葉:マタイ8, 17要 節:マタイ8:17「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」先週、私たちは主イエス様のことばを聞いてそれを行なう者について学びました。それと関連してマザーテレサのことばを紹介したいと思います。彼女は「キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがよくあるからです。人々がキリスト教を信じようとしない一番の原因はそこにあります。」と言いました。, 『マザーテレサ 愛と祈りのことば』, 。信者である私も最悪の障害物になり得ることが分かりました。先週は日ごとの糧からも、ただ聞くだけの者ではなく、実行する信仰の人にならなければならないことを学びました。今日の御言葉では私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負ってくださるイエス様について学ぶことができます。どうか、私たち一人ひとりがイエス様にタッチされて癒されますように祈ります。さらに、私たちも人々の弱さを担い、癒すことのできるリーダーとして成長して行きますように祈ります。?.イエス様はツァラアトに冒された人をきよくし、癒してくださいました, 。 1、2節をご覧ください。「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来てひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」とあります。ツァラアトとはらい病、ハンセン病とも呼ばれる病気です。当時のユダヤ人社会においては汚れた病気とされていました。町の外に住まなければならなかったし、もし道を歩く場合は、口に手を当てて、「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければなりませんでした, レビ13,14章, 。だから、ツァラアトの人が多くの群衆の所にいることはほとんどありませんでした。ところが、この人は多くの群衆の前でイエス様のみもとに来てひれ伏しました。「主よ。お心一つで、自分をきよくしていただけます」とも言いました。ここで積極的にイエス様に求める彼の祈りと信仰を学ぶことができます。彼は多くの群衆の中に隠れていたのではなく、イエス様のみもとに来てひれ伏しました。イエス様を「主」と呼び、「お心一つで、私をきよくしていただけます」と言いました。イエス様への信仰を告白したのです。それに対してイエス様はどうなさいましたか。3aをご覧ください。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。」とあります。イエス様はわざと手を伸ばして彼にさわられました。イエス様は彼にタッチすることを通して彼の病を理解し、その痛み重さを知られたのです。ツァラアトの人はどんなに感動し、心が熱くなっていたでしょうか。イエス様にタッチされ、「私の心だ。きよくなれ。」と言われると、すぐに彼のツァラアトはきよめられました。やはり、イエス様のお心は彼がきよめられることでした。イエス様は汚れている人がきよめられることを願っておられたのです。そうです。イエス様は罪のために汚れている私たちもきよめられることを願っておられます。イエス様は私たちが汚れた罪のために、人々に言い表せない病気であっても、その罪を赦してきよめ、癒してくださいます。新しくなって新しい人生を生きるようにしてくださいます。?コリント5, 17節を見ると「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。私たちがキリストのうちにあるなら、イエス様のお心の通りにきよめられ、すべてが新しくなるのです。このツァラアトの人もきよめられて新しい人生が始まりました。これからは道を歩く時に「私は汚れている者、汚れている者」と叫ばなくてもいいです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなったからです。イエス様は彼に新しく生活の出発も助けてくださいます。4節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」とあります。イエス様は人々へのあかしのために自分を祭司に見せ、供え物をささげることを教えてくださいました。イエス様は彼が正常な社会生活を営むことができるようにガイドしてくださいました。今まで病気のために束縛されていた生活から解放されて自由に生きるように助けてくださいました。夏修養会の時に所感を聞いてみると、人々はなかなか人に言えないような悩み、痛みを持って苦しんでいたことが分かります。しかし、聖書の御言葉を学んで信仰によってイエス様のところに出て行ったなら、イエス様は私たちをタッチし、きよめてくださいました。多くの方たちが自分の罪と咎を真実に告白し、悔い改めてきよめられました。イエス・キリストによってすべてが新しくなりました。では、皆さんがこの教会堂に来て主に礼拝をささげていることは何を意味することでしょうか。それはイエス様のお心を信頼していることでしょう。その信頼を皆さんとともにイエス様に告白しましょう。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエス様は私たちにも言われます。「わたしの心だ。きよくなれ。」イエス様は私たちをきよくしてくださいます。それがイエス様のお心です。イエス様によって私たちの罪が緋のように赤くても雪のように白くなります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになります, イザヤ1, 。どうか、私たちをきよくしてくださるイエス・キリストによってきよめられて秋にはもう一度新しい出発ができるように祈ります。?.イエス様は百人隊長のしもべを癒してくださいました, 5−13, 6節をご覧ください。「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」」とあります。百人隊長とは言葉の通りに百人を統率する隊長です。ローマの軍団は六千人から成りますが、それは六十の百人隊に分かれていました。この百人隊の隊長はローマ軍に長く勤務する正規兵で、軍隊の規律と団結を保つ責任が与えられていました。それで、百人隊長はローマ軍の中でも最も優秀な人で人格者も多かったそうです。実際に、新約聖書に出て来る百人隊長はみな立派な人物です。十字架上のイエス様を見て「この方はまことに神の子であった」と言った人も百人隊長です。キリスト教に改宗した最初の異邦人コルネリオも百人隊長です。いちはやくパウロをローマの市民として認めて、彼を暴徒の襲撃から守った人も百人隊長でした。この他にも立派な百人隊長たちがました。この百人隊長も素晴らしい方です。特に自分のしもべに対する彼の愛は感動的です。このしもべは奴隷であったと思われます。ローマ帝国では奴隷に何の価値も認めていませんでした。一般的に人々は奴隷が苦しもうと、生きようと、死のうと、そんなことはどうでも良いと思っていました。奴隷を物のように扱い、病気の奴隷は捨てました。しかし、この百人隊長は奴隷の状態をよく把握し、奴隷のためにイエス様のみもとに来て懇願しました。イエス様に対する態度も素晴らしいです。彼は無理やりに要求したのではありません。ひどく苦しんでいる自分のしもべの状態をイエス様に知らせただけです。それほどイエス様を信頼していたのです。彼はイエス様なら、人々からは捨ててもいいと思われている奴隷であっても貴く思い、助けてくださると信じたのです。ほんとうに素晴らしい信仰です。ではこの百人隊長の愛と信仰に対するイエス様のお答えはどうですか。7節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」」とあります。やはり、イエス様は奴隷であっても貴く思ってくださいました。イエス様ご自身が行って、直して上げようとされたのです。ところが、百人隊長はイエス様に何と言いましたか。8, 9節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」ここで、私たちは百人隊長の謙遜とイエス様の御言葉の権威に対する信仰を発見することができます。特に、彼は軍人としてことばの権威についてよく理解していました。私も軍人生活をしましたが、軍隊では上官のことばには絶対的な権威があります。例えば、軍団長がカペナウムの百人隊長に「ローマに行け」と命じられると行きますし、やっとローマに着いたのに「すぐに来い。」と命じられるとすぐに来ます。同様に百人隊長のことばには百人の部方たち動かす権威があります。これらのことを通してこの百人隊長はイエス様には全宇宙の司令官としての権威があると信じました。特にイエス様のお言葉は遠く離れた所でもすべてを動かす権威があることを信じました。ただ、おことばをいただかせてくだされば、自分のしもべが直ると信じていたのです。何と素晴らしい信仰でしょうか。本当にりっぱな信仰です。イエス様も驚かれました。10b, 12節をご覧ください。「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」」とあります。イエス様は異邦人である百人隊長の信仰を賞賛しながら、ユダヤ人の不信仰を指摘されました。彼らは不信仰のゆえに外に追放され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。ここで、信仰があればイエス様を驚かせることもできますが、反対に、不信仰の人は追い出され、さばかれることも学ぶことができます。私たちが生活の中でイエス様の大いなる力の体験ができない理由は不信仰のゆえです。百人隊長のように自分の生活を通してもイエス様の御言葉の権威を信じれば偉大なイエス・キリストの力を体験することができます。聖書に「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう, 詩編81, 」とあります。イエス様は百人隊長の立派な信仰を大きく祝福してくださいます。 13節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」」とあります。ここで、私たちは私たちの信仰のとおりに祝福してくださるイエス様を学ぶことができます。もし、百人隊長が病気のしもべに対してしようがないと思っていたらなら、どうなったでしょうか。しようがなかったでしょう。しかし、百人隊長がしもべを愛し、イエス様の御言葉の権威を信じからこそ、しもべは癒されたのです。それによって空間を超えて働くイエス様の権威も確認することができました。では今は、どうでしょう。今でも、イエス様の御言葉には権威があります。私たちがイエス様の御言葉を信じると、その信仰のとおりに主の力が現われます。病が癒され、不可能なことが可能になります。中風やみで寝ているような状態から目を覚めて積極的に活動する人になります。私たちがこのようないのちのみわざを体験するために必要なのは何でしょうか。多くの知識ではありません。信仰経歴でもありません。百人隊長のように信じる信仰です。御言葉の力と権威を信じるなら、驚くべき主の力を体験することができます。 私は7月からひとりの青年と1, 1聖書勉強しています。彼は韓国系のアメリカ人ですが朝鮮学校の英語先生として働くために日本に来ました。ところがなかなかビザが出ませんでした。8月になって入管に聞いてみると、後1か月、最小限3週間はかかると言われたた。彼はその悩みを私に打ち分けてくれましたが私には法務省に知り合いもいません。ただ、24年前に自分もビザが出なかったために予定していた結婚式も上げることができず恐れていたことを言いました。日ごとの糧の御言葉を通して「恐れないでただ信じていなさい。」という御言葉が与えられたので信仰の祈りをしたら、ビザが出て結婚もしたし、今の自分になっていることも話しました。すると、彼は頷いてくれましたが、その後、彼はビザのために断食祈りをしたそうです。韓国行きの航空券が土曜日だったので金曜日まではビザが出るように切に祈ったのです。ところが、その通りに金曜日にビザが出ました。ハレルヤ!先週韓国から帰って来た彼は電話でちょっと興奮しながら宣教師の助けと祈りのお蔭でビザが出ましたと報告してくれました。信仰の祈りをささげると、その通りになったのです。そうです。私たちが神様の約束の御言葉を信じて祈ると、驚くべき神様の力を体験することができます。ですから、私たちはさまざまな問題に対してまず御言葉を求め、御言葉に頼って祈ることが大切です。どうか、私たちも百人隊長のように「ただ、おことばをいただかせてください。」と祈り求め、御言葉を信じて祈る生活ができるように祈ります。 ?.イエス様はペテロの姑を癒してくださいました(14, 17)14、15節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」とあります。「熱病」とは高熱が出ることを特徴の一つとする病気です。マラリア、チフス、肺炎などがあります。最近、西アフリカで感染が拡大するエボラ出血熱のように治療が難しく、致死率が高い熱病もあります。ところがイエス様が手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエス様をもてなしました。16節を見ると、イエス様はみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになりました。このイエス様にはイザヤが預言した通りにメシヤの姿がありました。結論的に17をご一緒に読んでみましょう。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」とあります。イエス様は実に私たちの病を負ってくださいました。町から隔離されて悲しく、さびしい人生を生きていたツァラアトの人のわずらいを負い、彼の苦しみと痛みを担ってくださいました。イエス様は中風やみで家に寝ていて、ひどく苦しんでいる百人隊長のしもべの病も背負ってくださいました。ペテロの姑の熱病も背負ってくださいました。人のわずらい、病を背負うことは簡単ではありません。私は小学校2年生の夏に一か月ほど足を動かすことができなくなった時があります。その時、私の父は私を背負ってあちこち歩き回りました。私は他の友だちより太っていたので重かったと思われます。父はあの暑い日に小学2年生の男の子を背負って歩き回っていたのです。ほんとうに大変だったでしょう。でも、父が背負ってくださったからこそ、私は楽にトイレも行けたし、治療を受けることもできて癒されました。イエス様は1人だけではなく、全人類のわずらいを身に引き受け、病を背負ってくださいました。その時にどんなに重かったでしょうか。人々のわずらいと病を背負わせた十字架はどんなに重かったでしょうか。イエス様はそれを背負うだけではなく、神様に打たれ、苦しめられました。ついにその十字架にかかられ、十字架の上で御血を流されたのです。実にイザヤの預言の通りです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」とあります。イエス様はご自分の十字架の死によって私たちのわずらいと病も「身に引き受け」、取り去ってくださいました。ですから、イエス様を信じる者は、だれでもすべてのわずらいと病が癒されて健やかに生きることができます。イエス様のお心を信じるなら、イエス様は私たちをきよめてくださいます。私たちがイエス様からおことばをいただくと、私たちの信仰によって自分の家族も、職場の同僚も癒されることができます。もし、家族が遠く離れていても百人隊長のように御言葉の権威を信じるなら、神様はその信仰のとおりに癒してくださいます。私たちのわずらい、私たちの病と痛みを引き受けて十字架にかかって死んでくださったイエス様の愛を心から賛美します。私たちも人に対する愛とイエス様に対する信仰を新たにして行きますように祈ります。イエス様のように人の弱さを担って彼らのために祈る良い牧者として生きることができるように祈ります。

13Mark01.悔い改めて福音を信じなさい

13mark01, 悔い改めて福音を信じなさい, 2013年マルコの福音書第1講悔い改めて福音を信じなさい御言葉:マルコの福音書1:1−15要 節:マルコの福音書1:151.1節で、著者は、何のはじめだと記していますか。預言者イザヤは、誰について預言していますか。また、その人がなすべきことは何でしょうか, 。バプテスマのヨハネは、どのようにして主の通られる道を用意しましたか, 。これに対する人々の反応はどうでしたか, 。また、ヨハネの生き方はどうでしたか, 。2.バプテスマのヨハネは、イエス様をどんな方として紹介していますか, 。ヨハネが授けるバプテスマと、イエス様が授けるバプテスマは、どのように違いますか, 。3.ガリラヤのナザレから来られたイエス様は、まず何をされましたか, 。イエス様がヨハネからバプテスマをお受けになると、どのようなことが起こりましたか, 。天からはどんな声がしましたか, 。4.御霊は、イエス様をどこに追いやられましたか, 。イエス様は、荒野でどんな誘惑を受けられましたか, 13,マタイ4, 。イエス様がサタンの誘惑を受けておられる間、だれがイエス様に仕えていましたか。5.ヨハネが捕えられた後、イエス様はどこで何をされましたか, 。イエス様が宣べ伝えられた「神の福音」の内容は何でしょうか

13Mark02.福音を知らせよう

13mark02, 福音を知らせよう, 2013年マルコの福音書第2講福音を知らせよう御言葉:マルコの福音書1:16−45要 節:マルコの福音書1:38,391.16−20節を読んでみましょう。イエス様は、ガリラヤ湖のほとりで、誰が、何をしているのをご覧になりましたか。イエス様は彼らを、どのように召されたのでしょうか。「人間をとる漁師」は、どのようなことをするのでしょうか, マタ28, 。イエス様に召された彼らは、どのように従って行きましたか。イエス様に出会った漁師のことを、考えてみましょう。2.21−28節を読んでみましょう。カペナウムに入ったイエス様は何をされましたか。なぜ人々はイエス様の教えに驚いたのでしょうか。どんな出来事を通して、イエス様の教えに権威のあることが証明されたのでしょうか。3.29−34節を読んでみましょう。イエス様は、熱病で苦しんでいたペテロの姑を、どのようにして癒してくださいましたか。夕方になって日が沈むと、どんな人々がイエス様のもとに連れて来られましたか。多くの病人を癒し、悪霊を追い出されたイエス様について、話してみましょう。4.35−39節を読んでみましょう。イエス様は、朝早くまだ暗いうちに起きて、どこで、何をしておられましたか。イエス様は何をするために、この世に出て来られたのでしょうか。なぜイエス様は、何よりもまず、「福音を知らせよう。」と言われたのでしょうか, ヨハ5, 24,イザ61, 1,ロマ1, 。5.40−45節を読んでみましょう。ツァラアトに冒された人は、イエス様のみもとに来て、何を切にお願いしましたか。イエス様はどのようにして、彼を癒してくださいましたか。イエス様は、彼を立ち去らせる時に、何と言われましたか。イエス様が表立って町の中に入ることができなくなった理由は何でしょうか。

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13Sbc1.神を信じなさい

13sbc1, 神を信じなさい, 2013年 日本ubf夏修養会第1講, 新聖歌282, 神を信じなさい御言葉:マルコ11, 25要 節:マルコ11, 22、231.12, 14節を読んでみましょう。イエス様は葉の茂ったいちじくの木から何を期待されましたか。イエス様はその木に向かって何と言われましたか。2.15, 17節を読んでみましょう。人々は宮で何をしてましたか。そこで、イエス様は何をなさいましたか。もともと宮はどんなところなのでしょう。3.18, 19節を読んでみましょう。, 宗教指導者たちがイエス様を殺そうと相談した理由は何ですか。夕方になると、イエス様の一行はどこに行きましたか。4.20, 23節を読んでみましょう。いちじくの木が根まで枯れているのを見たペテロは、イエス様に何と言いましたか。イエス様は何と答えられましたか。信仰の能力を体験しようとするとき、告白しなければならないことは何でしょうか。信仰の能力はどんなに大きいでしょうか。5.24, 25節を読んでみましょう。祈って求めるものに対しては、どんな確信を持つべきでしょうか。信仰と祈りの関係について話してみましょう。神様に祈っている時、誰かに対して恨み事があるなら、どうするべきでしょうか。人を赦すことの重要性について話してみましょう。

13Roman09.だれが、・・・救い出してくれるのでしょうか

13roman09, だれが、・・・救い出してくれるのでしょうか, 2013年ローマ人への手紙第9講(370番)だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。御言葉:ローマ人への手紙7:1−25要 節:ローマ人への手紙7:24,251.1−4節を読んでみましょう。律法が人に対して権限を持つのは、どんな期間だけですか。私たちは、どのようにして律法から自由になりましたか。その目的は何ですか。2.5,6節を読んでみましょう。私たちが肉であった時は、律法は私たちにどのような実を結ばせましたか。しかし、律法から解放された今は、どのようにして神様に仕えているのですか。3.7−13節を読んでみましょう。律法と罪はどんな関係なのでしょうか, 。律法は、どのようにして、私たちを死に導きましたか, 。それによって、何が明らかにされましたか, 。4.14−21節を読んでみましょう。パウロはなぜ、自分がしていることが分からないのでしょうか, 。彼が願う「善」を行なわないで、願わない「悪」を行なう理由は何でしょうか, 。それを通して、彼は何を知ることができたのでしょうか。5.22−25節を読んでみましょう。私のからだの中に、どんな戦いがありますか。どちらが勝つのでしょうか, 。罪の律法のとりこになっている者は、どのように嘆き悲しんでいるのでしょうか, 。だれが、この死のからだから、私たちを救い出してくれるのでしょうか

13Roman18.祭司の務め

13roman18, 祭司の務め, 2013年ローマ人への手紙第18講祭司の務め御言葉:ローマ人への手紙15:14−33要 節:ローマ人への手紙15:161.14,15節を読んでみましょう。パウロは、ローマの聖徒たちに対して、何を確信していましたか。彼がローマ人の手紙を書くようになった動機は何でしょうか。2.16−19a節を読んでみましょう。パウロは神様からどんな恵みを受けましたか。また、彼に与えられた祭司の務めは、具体的には何をする務めでしょうか。3.19b−21節を読んでみましょう。パウロは、どんな所に福音を伝えることを、切に求めていましたか。彼の開拓精神について、考えて見ましょう。4.22−33節を読んでみましょう。パウロの宣教計画は何でしょうか。また彼は、ローマの聖徒たちに、どんなことを切にお願いしているのでしょうか, 。ここで、パウロの宣教に対するビジョンについて、考えてみましょう。

13Roman19.福音の同労者たち

13roman19, 福音の同労者たち, 2013年ローマ人への手紙第19講福音の同労者たち御言葉:ローマ人への手紙16:1−27要 節:ローマ人への手紙16:3,41.1,2節を読んでみましょう。パウロはフィベを推薦しながら、何を頼んでいますか。パウロがフィベを推薦する理由は何でしょうか。2.3−5a節を読んでみましょう。プリスカとアクラは、パウロにとって、どんな同労者でしたか。彼らの家はどのように用いられたのでしょうか。3.5b−16節を読んでみましょう。パウロはどんな人々にあいさつをしていますか。ローマの聖徒たちに向けられた、使徒パウロの人格的な愛について、話してみましょう。4.17−20節を読んでみましょう。ローマ教会には、どんな問題を引き起こす人々がいましたか。そのような彼らに対して、どのような姿勢を持つべきでしょうか。パウロは何を確信しているのでしょうか。5.21−27節を読んでみましょう。誰がパウロと一緒にいて、あいさつしていますか。どのようにして福音が現わされたのでしょうか。その目的は何でしょうか。

13Mark04.十二弟子を任命されたイエス様

13mark04, 十二弟子を任命されたイエス様, 2013年マルコの福音書第4講(432番)十二弟子を任命されたイエス様御言葉:マルコの福音書3:1−19要 節:マルコの福音書3:14,151.イエス様が会堂に入られた時、どんな人がいましたか, 。パリサイ人たちは、どんな目的で、イエス様をじっと見ていたのでしょうか, 。イエス様は手のなえたその人に、何と言われましたか, 。2.それから、イエス様は彼らに何と言われましたか, 。彼らの反応はどうでしたか, 。イエス様は彼らの心のかたくななのを嘆きながら、何をされましたか, 。彼がイエス様の御言葉に聞き従って、手を伸ばした時、どうなりましたか, 。3.イエス様が弟子たちとともに湖のほうに退かれた時、どれだけの人がついて行きましたか, 。なぜ人々は、イエス様のところに集まって来たのでしょうか, 。また、イエス様は汚れた霊どもを厳しく戒められて、何を命じられましたか, 。4.イエス様は山に登り、どんな人たちを呼び寄せられましたか, 。イエス様が十二弟子を任命された目的は何でしょうか, 。任命された十二弟子の特徴について、話してみましょう(16

13Mark03.罪人を招くために来られたイエス様

13mark03, 罪人を招くために来られたイエス様, 2013年マルコの福音書第3講罪人を招くために来られたイエス様御言葉:マルコの福音書2:1−22要 節:マルコの福音書2:171.イエス様がみことばを話しておられた時、どんな人がイエス様のみもとに連れて来られましたか, 。群衆のために、イエス様に近づくことができなかった彼らは、どんな行動に出たのでしょうか, 。イエス様は中風の人に何と言われましたか, 。2.律法学者たちは、心の中で、どんな理屈を言いましたか, 。彼らの心の中を見抜いたイエス様は、ご自分が罪を赦す権威を持っておられることを、どのように現わしてくださったのでしょうか, 。3.イエス様は道を通りながら、誰を招かれましたか, 。レビの家で、イエス様はだれと一緒に食卓に着いておられましたか, 。なぜ律法学者たちはイエス様を非難したのでしょうか, 。イエス様は、どんな人を招くために来られましたか, 。4.なぜイエス様の弟子たちは断食をしないのでしょうか, 。真新しい布切れで古い着物の継ぎをすると、どうなりますか, 。また、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる理由は何でしょうか