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13Romans2M神の怒り

13romans2m神の怒り, 2013年ローマ人への手紙第2講                         神の怒り御言葉:ローマ人への手紙1, 32要, 節:ローマ人への手紙, 18「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」先週、私たちはローマ人への手紙の序論を学びました。パウロのあいさつのことばに現わされている自己認識について学び、福音の力について学びました。特に16、17節はローマ人への手紙の主題を要約しています。とても重要な個所なのでもう一度ご一緒に読んでみたいと思います。「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」この17節までがローマ人への手紙の全体の序論で、18節から本論に入ります。福音は救いを得させる神の力です。ところが、パウロは17節で神の義の啓示を語った後に、18節で神の怒りの啓示を語ります。つまり、信仰によって救われるという神様の義、救いを語ってから神様のさばきを語っているのです。まず異邦人の罪とそのさばきを語り、次いで、ユダヤ人の罪とそのさばきを取り上げています。そして、最後に、すべての人が罪人として神様のさばきのもとにあることを証しています。今日の本文は異邦人の罪に対す神様の怒りに関することです。神の怒りを招いたのは人間の不敬虔と不正の罪であって、それを解決するものは信仰による義以外にありません。ここで、私たちは福音の必要性を学ぶことができます。神様の怒り、自分の罪部深さを知らなければイエス様の福音がどんなに必要であるかは分かりません。私たちの人生において、神様に深い感謝を覚えるのはどんなときでしょうか。苦しみ、悩み、痛みなどの逆境を克服した時です。人生の最大の危機にまで落ち込んで、その後で上って来る経験の中にこそ、真の感謝と喜びがあるのです。同じように、私たちの救いの喜びと感激と言うものを実々に感じるためには、イエス・キリストを信じる以前の自分の姿がどのようなものであったのかを深く悟る必要があります。そういう意味で今日の御言葉は私たちの以前の姿を思い起こしてくれます。私たちは御言葉を通して私たち人間の罪深い姿が知ることができます。それは恥ずかしいことです。でも、救われた喜びと感激を知り、また救われるためには自分の姿を知らなければなりません。病を癒すためにはきちんとお医者さんに受診して、レントゲン等撮り、診てもらわなければなければなりません。そのように、私たちは御言葉を通してチェックしてみなければならないのです。今日の御言葉を通して人間の内面の実態、神の怒りを知り、福音を堅くつかむことができるように祈ります。さらに、神様をあがめ、神様に感謝する生活、隣人を愛する生活をして行きますように祈ります。?.神の怒りの原因である人間の罪, 18, 2318節をご覧下さい。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」不義と持って真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とは罪人のことです。不敬虔とは神様との関係における罪、不正とは人間関係において正しさを行なわないことを指しています。神様を愛していないことが不敬虔であり、隣人を愛していないことが不正であるということです。人間は神様の似姿に造られているから道徳的に生きることができます。クリスチャンでなくてもやさしく、まじめに生きている方が多くいます。しかし、神様を愛することなく、礼拝しないなら、それは不敬虔の罪です。また、人間関係において聖書は人を愛するように教えています。子どもは親を敬い、親は子どもをよく教え、隣人を愛するように命じています。親の子どもに対する愛にたたくことも命じられています。子どもの悪を取り扱う時に、お尻をむちや杖で叩くのです。お尻ぺんぺんと言いますが、お尻はいくらぺんぺんしても大丈夫なように作られています。私はうちの子どもたちがまだ小さい時は手でよく叩きました。子どもが悪いことをした場合はしっかりお尻を叩くのです。なぜ叩くのか、どういう意味なのかをちゃんと教えながら叩かなければなりません。その後で一緒に祈ってあげることも必要でしょう。それが愛なのです。ところが、人間は神様を愛さないだけではなく、自分の子どもさえも愛していない親が増えていると言われています。家族の会話もく、夫婦の会話もなくなっています。恋愛とか不倫の快楽は増えていても真の愛は枯れていく時代になっています。家庭で愛されて愛する経験が少ないから職場でも隣人を愛することが難しくなっています。自分の家族以上にも愛し合うことが難しいでしょう。数年前、同僚の先生が「生徒さえいなければ学校は良い。」とよく言っていました。「人間さえいなければ仕事は素晴らしい」というようなことでしょう。家庭においても、学校においても、会社においても、結局は人間を愛することが難しいということでしょう。それは人間の不正なのです。では私たちはどうでしょうか。クリスチャンも例外ではありません。神様を愛する心もあるけれども、神様に逆らう心も残っています。日曜日に教会来ることさえ重く感じる時があるでしょう。家族を愛し、隣人を愛しているけれどもなかなか愛することができず憎んでいる時もあります。その不敬虔と不正が神様の怒りを招くのです。そして、神の怒りが天から啓示されています。パウロは、福音の必要性を説明する最初のところで、「神の怒り」が啓示されていることを明らかにしています。それほど重大な問題であるからです。私たちにはいろいろな問題があります。身近に健康問題があります。私は最近2週間くらい健康の問題で悩みました。ところが、50歳になると心臓や肝臓などは20代の人の70%くらいしか機能しないそうです。個人差はあるでしょうが、自覚していなければならないと思いました。しかし、それは一番目に解決しなければならない問題ではありません。私が死んでから復活すると、その時は完全な体を持つようになるからです。その時は人間関係の問題も完全に解決されます。しかし、神の怒りはこの世で解決しなければなりません。私たちの不敬虔と不正に対するこの神様の怒りが啓示されているのにもかかわらず、それを無視していれば永遠のさばきを受けて滅びます。では、神の怒りはどのようにして啓示されていますか。19、20節をご覧ください。「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」ということです。人間には宗教性と良心があります。それは人間が動物と違うところです。猫や犬の宗教を聞いたことがあるでしょうか。サルや犬の自殺を聞いたことがあるでしょうか。しかし、人にはあります。また、人がいるところには宗教もあります。人には瞬間の快楽だけに満足できず、永遠を慕い求める心があるからでしょう。私たちは夜空に輝く星を見ながら、美しい花を見ながら神秘な自然世界に感動し、驚きます。日本人としてノーベル賞受賞第一号の野口英世さんは、「タンポポ一つを見れば、神様の愛と力を知ることができる」と言いました。物理学者アインシュタインは、「この宇宙は神によって造られたというほかない。そう結論させざるを得ないのだ。私の物理学は、神はこれ以外の方法で命を生み出すことはなかった。これは唯一の道であり、いくつかの方法の一つではない。これしかなかったことだということをたどっているのである。」と言いました。もし、私たちが、素直な正直な心を持って、タンポポでも、実のなる木でも、あるいは夜空の星でも研究するなら、神様が知恵と愛を持って、素晴らしい世界を造ったと言わざるを得ないのです。だから、神様を信じないことは知識の問題ではなく、態度の問題であり、心の問題です。あるいは選択の問題です。どんな宗教でもいいのではありません。まことの神様、天地創造の神様を選択して信じることが大切です。それなのに、信仰によって生きる道を選ばないでいて神様の御怒りが下されると、そのときになってやっと「神様を知らなかった。」ということは出来ません。弁解の余地はないのです。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです, 。」もともと、私たち人間は何をするにも神様の栄光を現わすためにしなければなりません。そして、現在の自分に対しては神様に感謝しなければなりません。私たち人間は神様からもらわなければ生きていけない存在です。太陽の光も、空気も、雨も、すべての環境が神様から与えられています。そして、私たちが神様にできることがそれを認めて感謝することだけです。感謝の心を表現するのです。そうすると、それは良い薬のように私たちの体を良くし、生活もよくしてくれます。すべてのことにおいて感謝するならすべてが良くなるのです。今、上を向いて「神様!感謝します。」と告白しましょう。隣人にも感謝しましょう。「隣に座ってくれてありがとうございます。」私たちはいのちを与えてくださった神様に感謝し、空気や光や水を与えてくださった神様に感謝し、一人子イエス・キリストを与えてくださった神様に感謝しなければなりません。それが、キリスト・イエスにあって神様が私達に望んでおられることです。しかし、そのように神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝もしなかった結果人はどうなりましたか。もう一度21節をご覧下さい。第一に、思いがむなしくなります。無駄な考え、無益な考えをするようになります。第二に、無知な心は暗くなります。無知な心は分別力のない心です。人が神様を離れると善悪と真理を見分けることができなくなります。心が暗くなり、顔も、生活も暗くなります。クリスチャンも同じです。積極的に神様をあがめず、感謝もしないと心が暗くなります。信仰生活が無意味に思われます。第三に、自分では知者であると言いながら、愚かな者となります。結局、彼らはどうなりますか。23節をご覧下さい。「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人が神様に仕えなければその代わりに偶像に仕えるようになります。人間や、獣、はうものに仕えます。動物の中でも牛が一番崇められているでしょう。モーセの時、イスラエルの民がアロンに「私たちに神を造ってください」と言うと、彼が作ったのは金の子牛でした。インドでは牛が歩いていれば、人も、自動車も、電車も道を譲らなければいけません。牛肉を食べるなど、絶対に許されないのです。すなわち、人間は動物以下の者に転落してしまいました。ところが、動物以下に転落することだけではありません。彼らには罪に対する罰があります。24, 32節までは罪に対する神様の罰です。神様は、造り主の代わりに造られた物を拝み、仕えた人々をどのように罰せられましたか。24, 26、28節には「神は、彼らを何々に引き渡された」という言葉が繰り返されています。神様が放っておくこと、無関心であることは大きな裁きです。神様は愛する人々を懲らしめられます。それでヘブル12:8節を見ると、「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」と言っています。神様のさばきによって神様の子どもとしての愛を受けなくなるのです。人々は神様を恐れないために心の欲望のままに罪を犯し、それを美化します。それは愛されていないことです。最近はインターネットによる淫乱物が流行っています。親に愛されていない子どもたちは、注意されることも、怒られることもないから、使い放題で中毒されて行きます。たまに、学校で見ると、欠席した生徒がゲームセンターで遊んでいた場合もあります。そのうち、引き渡されたママが自由であると思いがちですが。その人生が滅亡に向かっているのです。ですから、神様から見捨てられていることは恐ろしい罰です。イスラエルの初代王であるサウルは謙遜だった時、神様は彼を高くあげて王としてくださいました。しかし、彼が高慢になって神様の御言葉に聞き従わなかった時、神様から見捨てられました。彼は悪い霊によって苦しみ、最後には自殺することで人生を終えました。ところが、それだけで人生が終わるのではありません。ヘブル11, 27節jを見ると「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。」とあります。死後にさばきがあるのです。そのさばきによっておくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもが受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にあります。これが第二の死です。, 黙示録21, 」26,27節をご覧下さい。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」神様が私たち人間を愛してすべての自由意志、選択権を与えられました。しかし、その自由意志、選択権が神様をあがめ、神様に感謝するために用いられないと、罪を犯し、罪の結果、恐ろしいさばきを受けるようになるのです。「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」とあるとおりです。良くない思いとは、悪い本性、堕落した本性だけが残った心の状態です。そのまま生きていて滅んでいくのです。29, 31節をご覧下さい。罪のリストと言われるところです。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」32節をご覧下さい。「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」彼らは死罪に当たるという神様の定めを知っていながらも悔い改めず、それを行なう者に心から同意しています。彼らは罪を犯すことを合理化する罪を加えているのです。結局、すべての異邦人は有罪です。死罪に当たります。しかし、このようにして異邦人の罪を指差し、さばき、異邦人は有罪であり、死に値するという結論をしたパウロですが、その初めに解決の道を言いました。それは福音だと言ったのです。「福音は信じるすべての者を救う神の力だ」と言うことです。だ、その神様の御怒りの問題の解決は福音によってできます。神様の怒りから救われる道は福音の信じる信仰だけです。私たちのために死んでくださったイエス・キリストの十字架のみにあります。イエス様の十字架を信じる信仰によっての義と認められるからです。パウロはローマ人への手紙を通してそれを明らかにしています。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて」と書いてあります。神の義と言うのは、神様の愛も、神様の慈愛も、神様のあわれみも、神様の永遠性も、神様が全知全能であることも含まれています。私たちはその神様を信じる信仰によって生きるのです。私たちは頑張って生きるのではありません。真面目に生きるのではありません。信仰によって生きるのです。信仰というのは、ただ神様を見上げて神様に頼ること、神様からいただいた力で行うこと、それを信仰といいます。どうか、今週も、御言葉によって知らされた罪を悔い改め、ただ信仰によって生きるように祈ります。神様が深いあわれみを持って私たちを赦し、力と知恵を与え、導いてくださいることを信じます。ただ心に空しいことが入って来ないように、日々、神様をあがめ、感謝し、隣人を愛する生活ができますように祈ります。

13Romans17M 隣人を喜ばせる生き方

13romans17m, 隣人を喜ばせる生き方, 2013年ローマ人への手紙第17講隣人を喜ばせる生き方御言葉:ローマ14, 15:13要, 節:ローマ15, 2「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」 ある神学者は「この世界で教会ほど異質的な集団はない」と言いました。「なるほど!」と思われます。ほとんどの集団はそれなりの共通的な特徴を持っています。たとえば、同窓会、同好会、研究会、学校のptaなどは共通点を持っています。しかし、教会はどうでしょうか。なかなか一緒になれないような人々が集まっています。趣味も違うし、国籍も違うし、出身学校、学歴も様々です。金持ちもいるし、貧乏の人もいます。信仰の経歴も様々です。学校は長くても一年生から六年生までがいますが、教会は0歳から100歳までもいられるところです。このような教会で私たちはどのようにして成長し、一致を保つことができるでしょうか。本文の御言葉でパウロは信仰の強いものが弱いものを受け入れるべきであることを教えています。食べ物や日を守ることに対して、それぞれ異なる考え方を持っていますが、信仰のある人は、そういったことにこだわる人々を理解すべきです。そのためには私たちが生きる目的と方向性をはっきりして行かなければなりません。本文の御言葉を通してそれらのことを学んで、私たちが何をしても隣人を喜ばせ、その徳を高め、益となるようにするクリスチャンとして成長して行くことができるように祈ります。?.主のために, 1−12, 1節をご覧ください。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。「信仰の弱い人」とは、必ずしも初心者を指しているのではありません。偶像に捧げられた肉を食べることによって自分の良心が影響を受けてしまうような人です。信仰が中途半端な初心者ではなく、良心的な人々ですが、その良心が過敏すぎて自分で自分を責めてしまうような人のことです。信仰の強い人とは、「クリスチャンは福音によって全ての規則から自由にされている」という人々のことです。?テモテ4, 5節を見ると「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」とあります。これには私も大賛成です。私はどんな食べ物でも神様に感謝してからいただきます。そういう面では私も信仰の強い人だと言えます。問題は食べ物に対して敏感な人たちをさばいてしまうことです。「何で宣教師がお酒を飲むか。」とか、太っている人に「あなたは食べすぎだ。」と言ってさばいてしまうことです。パウロはそれらに対して「さばいてはいけません。」と言っています。安息日や祝祭日などに関しても同じです。ある人は安息日を他の日に比べて、大事だと考えています。どの日も同じだと考える人もいます。日曜日に礼拝をささげることができなかったら月曜日に捧げてもいいじゃないかと考えている人もいます。イエス・キリストを信じている人にとってすべての日に主のために生きるようになったからどの日も同じだと考えているのです。それに対してパウロは何と答えましたか。 5節をご覧ください。「ある日を他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」とあります。「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」と言っています。信仰の良心に従って決定し、それに従いなさいということです。これはとても大切な真理です。私たちは生活の中で明確に判断することが難しい時があります。たとえば、職場の付き合いでお酒を飲んでもいいか。「酔わないくらい」というはどれほどのことだろうか。主日礼拝の後に休まずに仕事をしてもいいだろうか。お寺でのお葬式に参列してもいいだろうかと言うようなことです。皆さんはどのように判断して行動しているでしょうか。パウロは言います。「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」と言うことです。聖書に明確に記されていない事がらについては自分の信仰の良心に従って行動するのです。そして、自分の考えと違う人の考えも認めることです。人の意見をさばいてはいけないのです。それからさらに大切な事は何をしても主のためにすることです。6, 8節までをご一緒に読んでみましょう。「日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」とあります。ここで繰り返されている御言葉は「主のために」です。私たちが生きている根拠も目的も主のためです。私たちは生まれ育ちの違いによってさまざまな見解を持っています。育てられた文化的背景、教育の程度、意識の違いのためにそれぞれ違う見解を持つことができます。国際修養会で宣教師たちの話を聞いてみると、ほんとうにさまざまな文化があります。私たちはそれぞれに違いを認めなければなりません。ただ何をしてもその目的は一つ「主のために」です。何かを食べても食べなくても「主のために」するなら問題になりません。そして、自分のために生きる人々が集まるところには不和と争いが続きますが、主のために生きる人々の集まりには平和と一致があります。家でも、教会でも、職場でも、主のために、主のように生きようとする人々に平和と喜びがあります。なぜなら、「主のために」という目的が一致し、主のものとして謙遜になるからです。では、なぜ私たちは何をしても「主のために」しなければならないでしょうか。9節をご覧ください。「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」とあります。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは私たちの罪を贖うことだけではありませんでした。私たちの主となるためでした。キリストが主であるということは私たちが主のものであるということです。私たちクリスチャンはキリストが私のために十字架にかかって死なれたことを信じています。そして、私のためには死者の中からよみがえられたことも信じています。それは私が主のものになったということです。私たちがイエス様を私の主・キリストとして信じたその瞬間から私は主のものです。パウロは?コリント5, 15でもっと具体的に教えています。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」とあります。この時間、現在の自分の生活を顧みてみましょう。「自分のために生きているでしょうか。主のために生きているでしょうか。私たちが本当に主のために生きているなら信仰の弱い人の意見をさばき、自分の兄弟を侮るようなことはしません。10, 12節をご覧ください。「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」とあります。主のために生きる人「みな、神のさばきの座に立」たなければならないことを意識しています。さばき主であられるイエス様は今も私たちを見ておられます。ですから、私たちはちっぽけなことで人をさばく必要がありません。むしろ、神様の御前で謙遜に主のために人にはやさしく自分には厳しくして生きるのです。?.兄弟のために, 15節をご覧ください。パウロは繰り返して食べ物に関することや日を守ることに関することで互いにさばき合うことのないように勧めています。神様はすべてのものを創造されました。そしてもし、私たちが神様に感謝を返すなら、その時、私が何を食べようとも、それは神様によって、聖別され、祝福されます。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、私が食べている豚肉に対してそれが汚れていると思っている兄弟がいるなら、その兄弟から見ると、私は汚れたものを食べたことになります。そして、その兄弟が信仰の弱い人なら、牧師が汚れたものを食べたことでつまずいてしまうこともありうることです。牧師が自由になってお酒を飲んだことでも信仰の弱い兄弟は心を痛め、つまずいてしまう場合もあるでしょう。したがって私たちは自分の正しい意見を主張することよりも兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないようにするのです。20, 23節をご覧ください。「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」とあります。結局、私たちは食べ物のことで人をさばいてはいけません。主のために生きるべきですし、兄妹のためなら、好きな食べ物でも食べないと決心しなければなりません。ただ、何をしても大切なのは信仰です。神様の御前で自分の信仰を保ち、信仰によって生きることです。?.隣人を喜ばせ、その徳を高めるために, 2節をご覧ください。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」とあります。ここで、パウロは「私たち力のある者」と言っています。つまり、彼は自分とローマの聖徒たちに対して力のある者として認識していたのです。恐らく、パウロは東京ubf教会に対しても「私たち力のある者」という表現を使うでしょう。ローマ人への手紙を読んでいる人たちはパウロと同様に主にあって力のある者なのです。自分は力のない者、弱い者だと考えている人は力のない人たちの弱さを担うことができません。むしろ助けられることを期待し、求めます。もちろん、私たちは神様の御前で限りなく弱い者です。神様にすがりついて生きていかなければなりません。しかし、イエス様を信じている私たちは隣人に対しては力のある者です。大相撲の横綱の白鵬のような力はないかも知れません。でも私たちはイエス様から授けられた力があります。イエス様は言われました。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。ルカ10, 18〜19」「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14, 12)」この約束をされた方は私たちの主イエス・キリストです。主は正しいお方ですからその約束に間違いはありません。イエス様を信じる者はイエス様の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう力があるのです。、隣の人に「あなたは力ある者です。」と挨拶しましょう。私たちは力ある者としてその力を自分のためではなく、隣人のために使わなければなりません。自分の弱さを担ってくれる人を捜し求めるのではなく、人の弱さを担うクリスチャンとして生きるのです。さらに、私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。ところが、私たちは人の弱さを担うことだけでもなかなか難しいでしょう。子ども、妻や夫の弱さでさえ担うことがやさしくありません。 今から300余年前アメリカを代表する神学者、牧師、宣教師であったジョナサン・エドワーズのエピソードの一つを紹介します。彼がニュージャージー大学, 現在のプリンストン大学, の学長であった時のことです。彼はひとりの娘が娘の結婚適齢期になると、心の重荷がどんどん重くなりました。その理由は娘の性格がとても鋭く、わがままなので結婚生活ができるだろうかと心配したからです。ところが、ある日、とても立派な青年が学長の家を訪問して娘と結婚したいと言いました。学長の心はどんなにうれしくなったでしょうか。しかし、学長は冷静になって「私は君と娘との結婚を許可することはできない。あきらめなさい。君は娘と結婚しようとするは娘のことをよく知らないからだ」と言ったそうです。すると、青年は「私は先生の娘を愛しているし、お嬢さんも私を愛しているのにどうしてですか。」と言いました。そこで学長は「君は娘と結婚する資格がない。」と言いました。それでも青年は退くことなく「どんな資格ですか。私もイエス様を信じています。それ以上どんな資格が必要ですか。」と強く言いました。その時、先生はこう答えたそうです。「君は本当にあきらめた方がいいよ。私の娘のような人と生涯を一緒にすることができる人なら、その人はイエス様のようでなければできません。君は自分がイエス様であると言えますか。」このエピソードから娘の弱さを担ってくれる婿を求める父親の愛情とともに、人の弱さを担うことについて学ぶことができます。本当に人の弱さを担うためにはイエス様のようにならなければならないということです。信仰が弱い人、性格的にも弱い人を担うためにはイエス様のようにならなければならないのです。ピリピ2, 8節を見ると「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。このようにしてイエス様は私たちの病と痛みを担ってくださいました。イエス様は私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。そして、イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されました。私たちがこのイエス・キリストの心を抱く時に人の弱さを担うことができます, ピリピ2, 。どうやってキリストの心を抱くことができるでしょうか。つまり、人の弱さを担うイエス・キリストの御姿にまで成長することができるでしょうか。第一に聖書の御言葉によってです。 4節をご一緒に読んでみましょう。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」昔書かれたもの、つまり、聖書が私たちを教えるために書かれたのです。したがって私たちが兄弟の弱さを担うことができるほどに成長するためには聖書勉強を通して忍耐と励ましを学ばなければなりません。私たちは御言葉を学び、御言葉を黙想し、自分の生活に適用して行くうちに変えられて行きます。赤ちゃんがミルクを飲んで成長することと同様に私たちクリスチャンは聖書の御言葉を食べると成長します。パウロは愛する弟子テモテにこう言いました。「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです, ?テモテ3, 。 第二に信仰と聖霊によって私たちは成長します。13節をご覧ください。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」とあります。すべての事は望みの神様の力ある働きによって成し遂げられます。ただ、私たちには信仰を求めておられます。神様はすべての喜びと平和を持って満たしてくださいますが私たちは信仰によって自分のものにすることができるのです。私たちが神様を信じると、神様は聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいます。どうか、私たちがもう一度神様に対する信仰を新たにして主のために、兄妹のために、隣人を喜ばせるために生きるように祈ります。具体的に、信仰の弱い人の意見をさばくことなく、身近にいる自分の家族から人の弱さを担う生活ができるように祈ります。

13Mark11M そうまで言うのですか

13mark11m, そうまで言うのですか, 2013年マルコの福音書第11講そうまで言うのですか御言葉:マルコ7, 37要 節:マルコ7, そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」 先週、私たちは口にはいるものが人を汚すのではなく、心から出て来る言葉が人を汚すことを学びました。神様は私たちの心をご覧になり、心から出て来る言葉を聞いてくださいます。今日はイエス様がひとりの女性のことばを聞いて感動し、彼女の娘から悪霊を追い出してくださったことを学びます。イエス様が「そうまで言うのですか。」と言われたほどに感動されたあの女性の言葉に込められていることは何でしょうか。イエス様を感動させる彼女の信仰の態度、信仰の言葉を学びたいと思います。それから、耳が聞こえず、口のきけない人を助けてくださったイエス様を学びます。ここでは私たちの所まで訪ねて来て私たちの霊的な目と耳が開けることを願われるイエス様の切なる心を感じ、学ぶことができます。?.その通りです24節をご覧ください。「イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。」とあります。イエス様はパリサイ人たちとの激しい論争があったところを出てツロ地方へ行かれました。このツロの地方は、ガリラヤ湖から50キロほど離れた地中海沿岸の港町です。イエス様は、町の一軒の家にはいられました。そこなら誰にも知られないと思われたイエス様は、しばらく休もうとされたようです。ところが、そこでもイエス様は隠れていることはできませんでした。25、26節をご覧ください。「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。」とあります。ひとりの女がイエス様を訪ねてやって来ました。彼女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤでした。マタイの福音書によると、彼女は「その地方のカナン人の女」, であったことが分かります。カナン人は、イスラエル民族がエジプトを脱出して、パレスチナに移り住む以前の先住民族です。いわばイスラエルとは宿敵の関係にありました。その関係は今なお続いているほどです。それにしてもマルコはこの女をギリシャ人であると記しています。それはアレキサンドロス大王の征服後、地中海沿岸の各地は、ギリシャ文化の下で生活するようになっていたからです。特にユダヤ人の目からは、そうした異邦人はすべてギリシャ人であったのです。つまり、彼女は異邦人であり、イスラエルとは宿敵関係であるカナン人であったのです。彼女には汚れた霊につかれた小さい娘がいました。彼女はその娘のためにイエス様の足もとにひれ伏しました。イエス様なら「自分の娘から悪霊を追い出してくださる」と信じていたからです。そこで彼女はイエス様に願い続けました。それだけ願い続けたでしょうか。それは粘り強い祈りでした。親にとって小さい子どもの苦しみは見ていられないようなものです。夜中でも病院に連れて行きます。汚れた霊につかれた小さい娘の母親の心はどうだったでしょうか。本当に切実な心から願い続けたと思われます。ところが、イエス様は何と答えられましたか。27節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」この女の切実な願いに対してイエス様は、実に以外なほどの冷淡な態度を示しておられます。彼女が切実に願い続けても、イエス様は彼女を無視しておられました。その上、イエス様は彼女を人間ではなく、小犬として扱われました。ここで「子どもたち」はユダヤ人であり、「小犬」は異邦人であります。彼女がイエス様のことを聞きつけてすぐにやって来たことを考えてみると異邦人い対するユダヤ人の見解も知っていたはずです。当時のユダヤでは犬のことを不浄なもの、汚れたもののたとえとして使っていました。そこから転じて異邦人のことを指すようになりました。したがってイエス様は、まずユダヤ人のために働くのであって異邦人でないとおっしゃったのです。これは旧約聖書からの原則でした。神様のご計画はまずイスラエルを選び、神の国の受け継ぐものとされるということです。イエス様はその原則に従いました。はじめに福音を語ったのはユダヤの地だったし、最初の弟子たちもユダヤ人でした。だからイエス様は「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われたのです。それにしてもイエス様のお言葉は、彼女にとって軽蔑の言葉です。ところが、スロ・フェニキヤの女は何と答えましたか。28節をご一緒に読んで見ましょう。「しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」ここにスロ・フェニキヤの女のイエス様に対する信仰がよく表わされています。イエス様がどんな言葉を言われても「主よ。そのとおりです。」「主よ。アーメン」と答える人は幸いです。その人はイエス様のお助けをいただくことができます。29節をご覧ください。そこでイエス様は言われました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエス様は彼女の信仰のことばに非常に感動されました。「そうまで言うのですか。」この言葉にイエス様の感動と感激が表われています。イエス様は「ここまで来たのですか」と言われませんでした。「そんなに賢い人だったのですか」とも言われませんでした。「そうまで言うのですか。」と言われたのです。つまり、彼女の言う言葉、彼女の口から出る言葉を聞いて感動されたのです。「主よ。その通りです。」と言う言葉の中に彼女の信仰が表れていたからです。イエス様は彼女の信仰の言葉に感動して「そうまで言うのですか。」と言われたのです。「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」と言われました。イエス様は何かしるしを見せたのではなく、ただお言葉で悪霊は娘から出て行ったことを知らせてくださったことが分かります。すると彼女はどうしましたか。30節をご覧ください。「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」とあります。ここにも、スロ・フェニキヤの女の信仰がよく表れています。彼女はイエス様からお言葉をいただいただけで目に見えるものは何もありませんでした。でも、イエス様のお言葉を信じて家に帰ってみました。すると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていました。やはりイエス様のお言葉通りになっていたのです。以上で私たちはスロ・フェニキヤの女から多くのことを学ことができると思います。ひれ伏して願い続ける謙遜と祈りの態度、イエス様から無視されても聞き続ける傾聴の姿勢、イエス様から何と言われても全幅的に信頼する信仰、イエス様のお言葉に対して賢く答える知恵、娘に対する愛などを学ぶことができます。三つにまとめてみます。第一にスロ・フェニキヤの女の謙虚な態度です。日本では「謙遜」が美徳とされているように思います。謙虚な態度で好感を持てるし、謙虚な人が素晴らしいとされることが多いでしょう。少なくとも、偉そうな態度をとらず、謙虚な態度をとるようになれば嫌な印象を与えることはありません。スロ・フェニキヤの女は謙虚な態度を終わりまで貫いて崩しませんでした。彼女はイエス様のことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏しました。小犬扱いをされましたがそれでも反発しませんでした。「その通りです」と認めています。その上、子どもたちのパンくずでもいただこうとしました。イエス様から「悪霊はあなたの娘から出て行きました。」と言われただけでしたが、それでも文句を言いませんでした。素直に受け止めています。一言も偉そうなことを言わず、へりくだって素直に受け入れていることが分かります。この謙虚な態度は「世渡り上手な人」が生き残れるためにも必要です。しかし、私たちクリスチャンは人々に好かれるためにだけではなく、限りなくへりくだっておられたイエス様に見倣う生活のためです。ピリピ2, 7節を見ると「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」とあります。私たちが建て前だけではなく、心から謙虚な態度を身につけて生きることができるように祈ります。第二に願い続ける祈りです。スロ・フェニキヤの女はイエス様のことを聞いて駆け付けた時にイエス様は人の家に隠れておられました。イエス様は誰にも知られたくないと思われたので彼女の願いに対してすぐに答えませんでした。でも、彼女は願い続けました。自分の願いを聞いてくれるところか、人としての価値さえ踏みにじられても失望しませんでした。イエス様を信頼し続け、願い続けたのです。私たちは他人に対しては自尊心を踏みにじらない言い方・気配りを心がけなければなりません。しかし、自分自身の自尊心が踏みにじられるような思いをさせられる時はそれを心に留めておく必要がありません。「自分はダメな人だ」と自分自身を卑しめ、責める必要もありません。失望しないでイエス様に祈るべきです。人生には良いことだけではなく、嫌なことも経験せざるを得ませんが、失望しないで祈り続けると神様が私たちの尊厳と自尊心を取り戻すようにしてくださいます。イエス様がスロ・フェニキヤの女の小さい娘から悪霊を追い出し、彼女の尊厳と自尊心を取り戻いてくださったように私たちも助けてくださるのです。今、祈りがなかなか答えられないことはないでしょうか。自尊心を踏みにじられ、無視され続けた結果、ボロボロに傷ついた心のままでいる方はいないでしょうか。それでも、あきらめないで、自分を責めないで神様に祈り続けましょう。きっと神様が御手を伸ばし、助けてくださいます。イエス様は私たちが願い続けること、失望しないで祈り続けることを願っておられます。第三に主の主権を信じる主権信仰です。スロ・フェニキヤの女の謙遜も、願い続ける祈りも神様の主権を信じる信仰からできたことでしょう。彼女は人としての価値が無視され、子犬扱いをされたイエス様の御言葉を聞いても「主よ, lord, 。」と答えました。「おい!無視しないでくれ!こう見えても人間ですよ。知恵を誇るギリシャ人だよ。バカにしないでよ。」と言い返しませんでした。「その通りです。」と答えたのです。たいてい、イエス様の身元に出て来る時は何かを求めて来るから謙遜です。へりくだって「神様!イエス様!」と言います。牧者にも「牧者様!」と呼ぶ場合もあります。しかし、勝利を勝ち取ろうとすればするほど、さまざまな形の困難や試練が襲いかかって来ます。このような時、私たちはひるんでしまい、当初抱いていた信仰さえ曲げてしまう妥協をしがちです。代表的な人がヨブの妻です。ヨブ記2, 9によると、彼女はヨブに「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」と言いました。スロ・フェニキヤの女も、ヨブの妻も女性ですし、ふたりとも辱められていましたが彼女たちが言う言葉は違いました。それは神様の主権に対する信仰が違っていたからです。私たちも神様の主権、主権的な働きを信じるか信じないかによって心から出て来る言葉が違ってきます。夫婦であってもそれぞれの信仰によって言葉が違ってきます。ヨブの妻とは違っていました。ヨブ1, 2節で「「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言っています。彼は試練の中でも信仰の言葉で神様を賛美していたのです。 どうか、私たちが神様の主権を堅く信じてどんな場合でも信仰の言葉を言い続けるように祈ります。私たちの自尊心が傷つけられ、無視されて生きる意欲さえ失ってしまうような状況の中でもイエス様の働きを信じてり続け、信仰の言葉を言うならイエス様も感動されるでしょう。「「そうまで言うのですか。もうあなたの祈りはかなえられています。」とおっしゃってくださるでしょう。どうか、私たちひとりひとりが、イエス様から「そうまで言うのですか。」と言われるほどの信仰の人になりますように祈ります。, ?.エパタ。開け!31節をご覧ください。「それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られました。」とあります。ここで「もう一度デカポリス地方を訪問されたことは二度目であるということを教えてくれます。この間学んだように一度目の時は汚れた霊につかれたゲラサ人から悪霊を追い出してくださいました。その結果、その人についていた悪霊が豚に乗り移り、二千匹ほどの豚が湖で溺れ死んでしまいました。そこで、人々はイエス様に「この地方から離れてくださるよう願った」のでした。ところが二度目の訪問の時は住民が変わっています。32節をご覧ください。「人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。」とあります。ここで、人々とはイエス様を追い出していたその町の人々です。彼らはひとりの救いよりも自分たちの豚の方を大切に思っていました。豚の損失のためイエス様を自分たちの町から追い出していたのです。しかし、今は障害のある人を癒してもらうために協力しています。耳が聞こえず、口のきけない人の苦しみを理解し、イエス様を通して癒してもらおうとしてるいのです。どうやってこんなに変わったでしょうか。それはイエス様に出会って救われたあのケラサ人ひとりの影響力によるものだと思います。彼がイエス様から言われた通りに「主がどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか」を知らせた結果なのです。そういう彼の伝道によってあの冷淡な人々でも変えられました。町の人々がイエス様がなさることに期待し、あわれみを信じる人になったのです。この光景をご覧になったイエス様はどんなに嬉しかったでしょうか。でも、イエス様はご自分の業績を誇らず、ひとりの救いに集中しました。33、34節をご覧ください。「そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。」とあります。イエス様は、この耳が聞こえず、口のきけない人の両耳に指を差し入れて、「エパタ」すなわち「開け」と言われました。イエス様は、耳が聞こえない人に向かって「聞こえるようになれ!」と言われませんでした。そうではなくて「開け」と言われました。なぜでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。今、ここにお集まりの皆さんの耳は、聞こえているでしょう。でも、耳が開かれている時もあるし、閉ざされている時もあると思います。特に外の雑音にはずっと閉ざされていることでしょう。私たちが音楽を聴く時も耳が開かれている時もあるし、閉ざされている時もあります。つまり、好きな音楽には、耳を開きますが嫌いなジャンルの音楽が流れと耳をふさぎます。「ああ、うるさい」と思うことでしょう。耳を開くどころか、耳を閉じてしまうのです。音楽だけではありません。人の話す言葉に対しても同じでしょう。自分が好きな人、自分が尊敬している人の話には耳を開きますが、そうではない時は閉ざしてしまう時があります。そういう意味では牧師も聖徒たちに好かれる人、尊敬される人にならなければならないと思います。ただ、教会では、この説教というものを、神様の言葉だと教えています。それは、牧師が神様だということではありません。その牧師を通して、その説教者を通して、神様が教会堂に集っている皆さんに語りかけておられるということです。したがって牧師が尊敬できないような人物であっても、聖書の御言葉は信仰によって神様から語られる言葉として受け入れなければなりません。信仰によって受け取らなければ、このメッセージもどこかの講演会と同じです。私たちが信仰をもって聞く時に主日礼拝の時に語られる説教も神様の声として聞こえます。聖書の御言葉を読む時も、聖霊によって書かれた書物であることを信じて読むと、御言葉が私たちのうちに働きます。そのような信仰を与えられるためには、主によって、信仰の耳を開いてもらわないといけません。「主よ、わたしの耳を開いてください」とお祈りしましょう。聖霊によって耳が開かれると、礼拝のメッセージを聞く時も聖書を読む時も神様の御声が聞こえて来るのです。ではイエス様が「エパタ」と言われた時、どんなことが起こりましたか。35, 37節をご覧ください。「すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」」とあります。ここで見ると、耳が聞こえず、口のきけない人は、自分からは何もしませんでした。まったくの受け身です。イエス様の方から、歩み寄り、彼を見つめ、彼と向かい合われました。そして、「エパタ」と叫ばれました。このイエス様の働きに恵みを受けます。, 私たちには、イエス様に近づきたくも、なかなか祈る元気もない時があります。あのケラサの人々のように、自分をイエス様に連れて行ってくれる人も見当たらない時があります。ところが、そういうとき、イエス様は来てくださいます。私たちの耳が開かれて神様の御声が聞こえるようにしてくださいます。どうか、私たちが信仰の耳で聞き、信仰の言葉で答えて行きますように祈ります。

13Mark16M 仕えるために来られたイエス様

13mark16m, 仕えるために来られたイエス様, 2013年マルコの福音書第16講仕えるために来られたイエス様御言葉:マルコ10:32−45要 節:マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 皆さん、私たちが毎週の礼拝の時に使っている新聖歌の中で一番好きな聖歌は何でしょうか。私が好きな讃美歌の一つは382番です。1節は「心から願うのは/主のようになること/御形に似るために/世の宝捨てます/主のように主のように/きよくしてください/この心奥深く/御姿を写して」です。特に「心から願うのは/主のようになること」とは私の願いです。本当に心から願うのは主のようになることです。私を始め、私が仕える教会のみんなが主のようになることです。主のようになり続けてイエス・キリストの御姿にまで変えられて行くことです。では、主のようになることはどのようになることでしょうか。 今日の御言葉にはマルコの福音書全体を通して伝えようとするイエス様の姿がよく現われています。それは仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたイエス様の御姿です。このイエス様の姿から私たちは一番偉くなる秘訣、一番偉大な人生の生き方を学ぶこともできます。どうか、本文の御言葉を通して私たちひとりひとりがイエス様のようになって行きますように祈ります。32節をご覧ください。イエス様の一行は、エルサレムに上る途中にありました。イエス様は先頭に立って歩いて行かれました。今までもイエス様は先頭になって歩いて来られたはずです。ところが、今回は日頃、弟子たちが見ていた御姿ではなかったようです。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちも恐れを覚えました。なぜ、驚き、恐れを覚えたでしょうか。恐らく、弟子たちは十字架に向かって進んでおられるイエス様の御姿から驚き、恐れるほどの重さを感じていたようです。そこで、イエス様はご自分に起ころうとしていることについて教えてくださいました。 33,34節をご覧ください。イエス様はこれまで、2回にわたって弟子たちに、ご自身が十字架の受難を受け、三日目によみがえられることを教えて来られました, 8:31、9:31, 。そして、三回目が33,34節です。一緒に読んでみましょう。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」とあります。1回目、2回目と比較してみると三回目が最も具体的で詳しくなっています。御自身が「エルサレム」で十字架にかかり復活すると言われているのは、3回目だけです。御自身が「異邦人に引き渡される」と言われているのも3回目だけです。また3回目には「あざけり」「つばきをかけ」「むち打ち」「ついに殺します」というように、御自身が具体的にどのような苦しみを受けるかということも言われています。このようにイエス様は、御自身の十字架と復活の予告を、旅が進むに連れて、具体的に弟子たちに教えていかれたのです。最初から具体的に詳しく教えるのではなく、徐々に段々と教えていかれたのです。ここで、私たちに対する神様の御心が徐々に、段々と示されることを学ぶことができます。私たちに最初から「神様の御心」が具体的に詳しく示されるのではありません。だから、何が「神様の御心」かと思い悩む時があります。でも、私たちがイエス様の弟子としてイエス様と共に歩んで行くなら、徐々に神様の御心を知るようになります。神様が徐々に段々具体的に詳しく示されるからです。それで、私たちは多くの場合、最初は自分に起こっていることにどんな意味があるのか分かります。同じことが二度も、三度も起こっても神様の御心がよく分からない場合があります。しかし、長い年月が経ち、振り返ってみれば、あの時の意味は、あの時の「神様の御心」は、こういうことだったのではないか、ということがそれぞれに示されていくのです。 弟子たちもイエス様から十字架の受難と復活について一度だけではなく、二度も、何度も聞いてもその意味がよく分かりませんでした。イエス様が十字架と復活の道を行かれるのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためです。また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。ところが、弟子たちは、その十字架の受難と復活の意味が分からなかったのです。イエス様から三度も言われましたが、イエス様の十字架の受難と復活のことは考えようとしませんでした。むしろ、自分たちの頼み事ばかり考えていました。 35節をご覧ください。ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエス様のところに来て言いました。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」この二人は何を考えていたでしょうか。おそらく、彼らはイエス様が「栄光の座」につかれる時が近いと感じていたようです。イエス様がいよいよ神の国の王となり、栄光の座に着かれる時が近い、そう感じ取った彼らは、イエス様に頼み事をしました。情けない弟子たちです。そんな彼らにイエス様は何と言われましたか。36、37節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座でひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」」とあります。イエス様は弟子たちの頼み事を無視しませんでした。イエス様は彼らの頼み事を聞いてあげようとされたのです。すると、彼らは栄光の座に座ることを求めています。それに対してイエス様は何と言われましたか。 38節をご覧ください。「しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」」とあります。イエス様は、はっきりと彼らに「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。」と言われました。それから、イエス様は彼らに「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」と尋ねられました。この質問から彼らはイエス様が飲もうとする杯、イエス様が受けようとするバプテスマを分かっていなかったことが分かります。では、それはいったい何を意味するのでしょうか。 旧約聖書において「杯」は、「苦難」の象徴であり、特に神様の怒りを耐え忍ぶことの象徴でありました。ですからイエス様は十字架にかかる前、「ゲッセマネという所」で「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られたのです。「バプテスマ」も同じような意味があります。「バプテスマ」もまた「苦難」の象徴であり、神様の怒りを耐え忍ぶことの象徴でありました。ですからイエス様は、ルカの福音書12章50節で「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」と言われるのです。イエス様が飲もうとする「杯」、イエス様が受けようとする「バプテスマ」というのは、これから受ける「苦難」であり、直接的には、神様の怒りを耐え忍ぶ「十字架」であったのです。イエス様にとって「栄光の座」とは、「苦難」であり「十字架」でありました。ですから「栄光の座」の右と左にすわるということは、イエス様と一緒に「苦難」を経験するということです。同時に、イエス様の「十字架」の右と左につけられるということでした。ところが、実際にイエス様の「十字架」の右と左につけられるのは、ヤコブとヨハネではなく、「ふたりの強盗」であったのです。ヤコブとヨハネは、イエス様と一緒に「苦難」を経験し、イエス様の「十字架」の右と左につけられるどころか、イエス様を「見捨てて、逃げてしまった」のです。ですからイエス様は、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」と言われました。だから、彼らはイエス様の「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」という問いかけに対して「できます」と答えました。分かっていないから言える答えでした。それに対してイエス様は何と言われましたか。 40節をご覧ください。「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」イエス様は彼らが十字架の苦難を分かっていないことを知っておられましたが、彼らの願いを無視されませんでした。栄光の座を求めることを無視しなかったのです。ただ、「わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。」と言われました。神様がそれに備えられた人々があるからです。ここで、私たちは大切な真理を学ぶことができます。すべての結果、決定権は神様にあることです。私たちがイエス様の右と左に座るために苦難の杯を飲むことができます。本当に栄光の座に就きたいなら骨を折る苦労が必要でしょう。しかし、自分なりに骨を折る苦労をしたからと言って確かな地位と権力を手に入れるのではありません。それは神様が決めることです。使徒パウロはそれをよく理解していました。ピリピ人への手紙3章13、14節を開いて見ましょう。「兄弟たちよ。私はすでに捕らえたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」彼は神の栄冠を頼むのではなく、それを得るために目標を目指して一心に走っていたのです。そして、その結果は神様にお任せしました。私たちにもこういう姿勢が必要だと思います。目標を目指して最善を尽くしますが、結果は神様にお任せするのです。すべての主権は神様にあるからです。いつか、私が紹介したと思いますが「努力したからと言って成功するとは限らない。でも成功した人は必ず努力をした。」という言葉があります。世の中でも成功したと言われる人々は努力したから栄光の座についたとは言えないのです。ただ、栄光の座に着くのは、骨を折るような苦労が必要なのです。福音のみわざにおいても同じです。この間、金サムエル宣教師は牧者宣誓式を一番喜ぶのは誰でしょうと質問してから1:1牧者だと言いました。多くの時間をささげて仕えたからこそ喜びも大きいでしょう。ただ、一生懸命に仕えても実が結ばれない場合もあるのです。栄光の座にすわれない場合もあるのです。しかし、私たちクリスチャンはすべての事を働かせて益としてくださる神様を信じて栄光の座、神様の栄冠を求めていくのです。誰かに頼み事をして栄光の座に着こうとするのはクリスチャンの態度ではありません。41節をご覧ください。「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。」とあります。要するに、残る10人の弟子たちもこの兄弟と全く同じ思いを持っていたことが分かります。この十人は自分たちよりも先にイエス様に頼み事をしたことに対して腹を立てました。自分たちも支配者となり、権力を振る舞いたいと願っていたからです。そこで、イエス様は彼らを呼び寄せて、大切な教えを語られました。42bをご覧ください。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」とあります。イエス様はここで、「異邦人の支配者」を、ただ「支配者」と言うのではなく、「支配者と認められた者たち」と言っています。なぜイエス様はこのような言い方をされたのでしょうか。ここには皮肉が込められていると思います。この「支配者と認められた者たち」とある中の「認められた」という言葉は、「見られている」「思われている」という意味の言葉です。イエス様がここで「異邦人の支配者」を、「支配者と見られている者」「支配者と思われている者」と表現しているのは、「異邦人の支配者」は「支配者と見られている」だけ、「支配者と思われている」だけで、本当の「支配者」ではないのだということを言おうとされているのだと思います。では本当の支配し、本当に偉い人はどんな人でしょうか。43、44節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」イエス様は弟子たちが異邦人の支配者たちのようであってはならないことを教えてくださいました。さらに、積極的にどうすべきかを教えておられます。本当の支配者は「みなに仕える者」です。「しもべ」になって仕える人です。私たちは聖書全体を通して知ることができます。旧訳聖書を通してみると、ヨセフ、モーセ、ダビデは本当の支配者でした。本当に偉大な指導者でした。今も数え切れないほどの人々が彼らの思想に支配されています。彼らの人生を通して感動を受けています。その理由が何でしょうか。それは彼らが多くの人々に仕える人生を生きたからです。ヨセフは兄弟たちから捨てられてエジプトの奴隷になりましたが、ポティファルに忠実に仕えました。曖昧に苦難を受け、監獄に入れられましたが、そこでも監獄にいる人たちに仕えました。パロにも仕え、飢饉になった時、エジプトの全国民に仕え、自分を売り捨ててしまった兄弟たちにも仕えました。こういう仕える生活を通して彼はすべての人々から尊敬される偉大な支配者になりました。 モーセは奴隷の民を連れて出エジプトをしましたが、数多くの非難を受けました。「水がない。道が悪い。食べ物がおいしくない。エジプトに帰りたい。」という言葉を何度何度も聞きました。ある時には意志でモーセを殺そうとしました。それでもモーセはその民に仕えました。民たちと戦うのではなく、神様にひざまずいて祈りながら彼らに仕えました。結局、彼は地上で誰よりも柔和な人、偉大な指導者になりました。ダビデもサウルを始め、イスラエルの民に仕えました。自分を殺そうとしているサウルに仕えるだけではなく、サウルの子どもにも、サウルの孫にも仕えました。すると、王の中でも最も偉大な王になりました。しかし、ヨセフも、モーセも、ダビデも、イエス様の偉大さには至りません。イエス様はどうなさいましたか。45節をご一緒に読んでみましょう。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」イエス様はしもべのように低くなって多くの人々に仕えてくださいました。その一例としてヨハネの福音書13章4,5節を見ると「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」とあります。仕えられるにふさわしいイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。イエス様は上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの足を洗ってくださいました。イエス様は奴隷のようになって弟子たちに仕えてくださったのです。このように、イエス様は本当に卑しい私のような人に仕えるために来られました。そして、こんなに情けない、醜い罪人を贖うためにご自分のいのちをお与えになりました。多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちをお与えになったのです。事実、イエス様は私たちの罪を贖うために十字架でいのちまで捨ててくださいました。私たちのために、イエス様は徹底して仕え尽くし、いのちまで捧げてくださいました。その結果、どうなりましたか。ぺうろは言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。, ピリピ2:6−9, 」 イエス様が仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られて皆に仕える生涯を過ごされた時、神様は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。イエス様は最も偉大な人生を生きられたのです。私たちがこのイエス・キリストの生き方を学び、実践して行きますように祈ります。へりくだって人々に仕えることは決してやさしくありません。45節の御言葉は私たち夫婦の結婚要節でありますが、その通りに生きることはやさしくないと言うことは何度も経験して来ました。でも、イエス様のように仕えられるためではなく、仕えるために生きようと心掛けている時、神様が助けてくださることを体験して来ました。ですから、まだまだ足りませんが、仕えるしもべイエス・キリストを見習う生活をして行きたいと思っています。 どうか、私たちが心を新たにして仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたイエス様に見倣い、イエス様のようになって行きますように祈ります。イエス様の御姿にまで成長して行きますように祈ります。

13Mark 12Mあなたはキリストです

13mark, 12mあなたはキリストです, 2013年マルコの福音書第12講メッセージあなたはキリストです御言葉:マルコ8, 38要 節:マルコ8, するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」先週は、スロ・フェニキヤの女性の信仰を通してイエス様を感動させる信仰について学びました。私たちの祈りが答えられないように見える絶望的な状況の中でも、彼女のように諦めずチャレンジする信仰を学べるように祈りたいと思います。今日は、私たちが不思議な世界を体験できるかどうか、その境目の秘密について学びたいと思います。この世の中では、なかなか理解難いことがあります。先月のNHK大河ドラマ、八重の桜では、お兄さんの山本覚馬の勧めによって、八重がゴードン宣教師のもとで耶蘇教(キリスト教)の聖書を学ぶ場面が出ます。彼女は、「悲しむ人は幸い」、「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」、「敵を憎むな、敵のために祈れ」、「自分の十字架を背負え」という聖書の教えがなかなか理解できず、悩む姿が描かれました。とくに、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められる」(マタイ5, 4)という聖書箇所を読んだ八重はこう質問します。「悲しむ人がなぜ幸いなのでしょう。逆ではないですか?」。一緒に学ぶ女たちもまた、「ほんまやな。悲しんでいる人はかわいそうや。」「ヤソ(イエスキリスト)様は薄情なお方なんやろうか…。」と続きます。ゴードン宣教師は「いいえ、人は悲しみ、絶望したときにこそ、主の愛の深さにふれることができるのです。それこそが真の慰めです。」と説明します。八重はボソッと「それでも、悲しい事なんか無い方がいいに決まってる…」とひとりごとを言うシーンが出ます。こうした八重がいずれ同志社大学を設立した新島襄に出会い、理解できなかった聖書の不思議な世界に入り込み、真のクリスチャンになります。今日の本文の御言葉は、私たちの人生がその不思議な世界に入れるその秘密について教えてくださいます。私たちが、イエス様の前で「あなたは、キリストです」と告白することで、その不思議を体験する人生、さらに深い不思議な世界に入れるきっかけとなるように祈ります。?。あなたはキリストです(27, 29)8章27節をご覧ください。「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」」8章前半では、イエス様が7つのパンで四千人を食べさせたこと、その後のイエス様の教え, 8:1, 、それから盲人の目をいやされること(22−26)が記されています。今日の8章後半部では、多くの群衆に仕えてきた弟子たちだけを連れて、ピリポ・カイザリヤというところで弟子修養会を開催する場面が出てきます。ピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖の北40キロにある町であり、ヘロデ大王の息子ピリポが拡張補修し、カイザルに敬意を表してカイザリヤと改めたところです。ピリポ・カイザリヤは現在も、バニヤスという遺跡が残っており、有名な観光地となっています。イエス様は、美しい渓谷と川に囲まれた場所で、弟子たちに質問をかけました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」28節をご一緒に読んでみましょう。「彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」」ここにあげられている「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「預言者のひとり」は、すべて預言者という共通性があります。つまりイエス様は、旧約に登場した預言者のイメージとして人々の目に映っていたのです。預言者とは神のメッセージを民に伝える神の代弁者のことです。エリヤはアハブ王の時代の預言者でした(?列王記17,18)。北イスラエルの王、アハブはシリアの王女イゼベルを妻に迎えて、イゼベルが持ってきたシリアのバアル崇拝をイスラエルに導入させた人物です。エリヤはそういったアハブとイゼベルのバアル崇拝がどれほど虚しいかを明らかにするために、数多くの奇蹟を行い、最後は火の戦車に乗って天に引き上げられた旧約の代表的な預言者です。また、旧約聖書のマラキ書で、メシヤの先駆者としてエリヤが再び現れると預言されており(マラキ4, 5)、バプテスマのヨハネがそのエリヤではないかと言われたことがあります(ヨハネ1:21)。人々はイエス様の数多くの奇跡を体験することで、イエス様をこうしたエリヤのように力ある働きをする「バプテスマのヨハネ」だと思ったかもしれません(マタイ14:1−12)。しかし、彼らは神様の偉大な預言者ですが、人という共通的な特徴があります。イエス様のことを、現代でも社会科の授業の中で「世界三大聖人」と言うような言い方で教えています。すなわち、イエス様は偉大な、素晴らしい人だと教えているのです。日本の有名な小説家である太宰治(1909年6月19日, 1948年6月13日)氏も、聖書には親しんでいて、イエス様の事も良く勉強していましたが、イエス様が罪の赦しのために来られた方、神のひとり子だとは信じられず、人生に絶望し、38歳の若さで玉川上水で自殺しました。彼の家には聖書があったと言われていますが、イエス・キリストを偉大な人としか受け入れられず、惨めな人生で終わってしまったと思われます。弟子たちに、人々の意見を聞いたイエス様は、続いて弟子たちの意見を尋ねました。29節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」」私たちが人々の意見を客観的に知ることも大事ですが、私の個人の考えがはっきりしていないといけません。大学で先生が学生たちにレポートや論文などの書き方を教える時も、最初はその分野で人々がどんな理論を展開したかを調べるように教えますが、その後、自分の考えをはっきりと持たせるように指導しています。イエス様も弟子たちにそのバランスを教えたかったかもしれません。とにかく、イエス様の質問に対して、リーダーになりたがったペテロが素早く反応しました。「あなたは、キリストです。」キリストとは、古典ギリシャ語「クリストス(khristos)」の慣用的日本語表記であり、「油を注がれた者」を意味するヘブライ語「メシヤ」の訳語です。つまり、旧約聖書で預言者たちが登場を預言した救い主を意味します。ペテロの告白は、「あなたは、私の救い主です」と言い換えることができます。彼の告白の中には、キリスト、すなわち救い主として来られたイエス様を明らかにしています。言い換えれば、イエスキリストを通さないと、救いにつながらないことを示しています。イエス様ご自身もヨハネ14, 6でそれを明らかにされました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」先ほど説明したように、ピリポ・カイザリヤは、ヘロデの息子ピリポがローマ皇帝カイザルに捧げたところであり、当時はそこにカイザルを祭る神殿があり、その前を歩く時、人々は「生ける神の子キリスト」と言って、礼拝しなければなりませんでした。つまり、ローマ皇帝が、当時、神として礼拝されていたのです。そういった状況の中で、ペテロは「あなたはキリストです」と告白したのです。したがって、ペテロの告白は、公に告白すれば反逆罪に問われる危険が伴われる言葉でした。マタイ福音書16:17を見ると、イエス様はペテロのこの告白を受けて、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と言われました。そして、この信仰の上に教会を建てると約束されました。ここで明らかになっているように、私たちクリスチャンが聖書を読み、イエス様をキリストとして告白することがどれほど大切であるかを学びます。また、その告白は、人間の理性と知性で出来るものではなく、神様の助けによるものであることも分かります。イエス様を自分の救い主として告白するためには、まず自分が罪人だという自覚が必要です。しかし、その自覚は神様の前で自分を省みる時はじめて、生まれるのです。同じく聖書を読んで、同じく教会に通っても、神様の前で自分を省みて、自分が救われないといけない罪人としての告白が出来ない人にとって、イエス様はその人のキリストとなれず、単なるすばらしい教訓を教えてくれる偉大な思想家にすぎません。そのため、イエス様をキリストとして告白することは、すごい理解力と知識を持っている賢い人でも、できるものではありません。上記で挙げた太宰治氏は、東大の仏文科に入った秀才でしたが、その能力でもイエス様を救い主として受け入れることができず、惨めな最後を遂げました。一方、同じ東京大学医学部出身の加賀乙彦(1929年4月22日, )氏は、聖書を読みながら、キリスト教関連の小説を書いたりしましたが、聖書を繰り返し読みながら、彼は、あるところまでで理解が止まってしまう感じがして、戸惑っていたのです。そんなある日、遠藤周作氏から、「君はキリスト教を無免許運転しているね」と言われたのです。この言葉に触発された加賀氏は、「よし、それならば免許を取ってやろう」という思いに至り、1987年のクリスマス(58歳)に洗礼を受けるようになります。洗礼の決心をしてみると、大きな変化を感じたそうです。その時の心境を次のように言っています。「聖書の読み方がすっかり変わってしまった。読んでいて渇く人が水を与えられたような喜びが起こってきたのだ。福音書がこんなに楽しい文書だとは、今までついぞ知らなかった。おそらくわずかな一歩なのである。…このわずかな一歩は、しかし、無限に大きな一歩でもあった」と。「あなたはキリストです」と告白したペテロの信仰告白は、加賀氏が踏み出した「わずかな一歩」かもしれませんが、それが新しい人生の出発になり、深い神の世界を味わうきっかけになるのです。以上を通して、私たちが聖書を読むだけではなく、個人的な信仰告白がどれほど大事であるかを新たに学ぶことができます。ローマ10:10によると、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」となっています。他人がどう言うかが重要ではありません。神様の前で、イエス様をキリストとして信じることによって義と認められ、私の口で告白することによって、救われることになります。私たちがいつも神様の助けによってイエス様をキリストとして告白する人生を生きることが出来るように祈ります。?。自分を捨て、自分の十字架を負いなさい(30, 38)30節をご覧ください。「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。」おそらくイエス様は、まだ神の時ではないのに、反逆罪に訴えられ、弟子たちが捕えられることを懸念されたか、「自分のことをだれにも言わないように」と、彼らを戒められました。31,32節をご一緒に読んでみましょう。「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。/しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」イエス様当時のメシヤ観は、政治的・軍事的なパワーを持つメシヤがイスラエルの民をローマの植民地から救い出すと考えられていました。イエス様は、当時のメシヤ観を改め、弟子たちが正しいメシヤ観を持つように、ご自身の十字架の死と三日目によみがえられることを教えられました。すると、今度も、気の短いペテロが、イエス様をわきに連れて行って、いさめ始めました。「イエス様、とんでもございません。断じて、こんなことはあってはいけません」と興奮して、イエス様を諭したでしょう。そのようなペテロに対して、イエス様は何と言われますか。33節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」前では、イエス様に褒められたペテロが、いきなり「サタン」と言われました。私たち以上に、「下がれ。サタン」と言われたペテロ本人が驚いたことでしょう。それでは、ペテロの何が問題でしょうか。「あなたはキリストです」と告白したペテロと、イエス様を戒めたペテロは、違う人物ですか。いや!二つの場面のペテロは同一人物です。なぜ、それが起きたでしょうか。それは、「神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われたイエス様の言葉にその答えがあります。私たちも、ペテロのように、だれでもその奥底には二重性が潜んでいるわけです。ペテロが神のことを思っている時は、聖霊の助けによって、イエス様を「キリスト」として告白できましたが、人のこと、すなわち自分の夢と野望を考えた時、自分の計画通りに行かないイエス様を止めようとしたのです。私たちも全く同じです。イエス様をキリストとして受け入れた私たちでも、毎日、聖書を読み、祈る時は、神様の御心に従うように決断ができますが、自分の思いと計画が強くなると、「神様の導きは理解できない。到底私は従うことができない」と、主張するのです。こうした姿が私たちの実状です。イエス様はペテロの問題を受けて、群衆と弟子たち全員に正しくイエス様について行く道を教えてくださいます。34節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ここで「自分を捨てる」ことは、自己中心的に考える思いを捨てることを意味します。人々は、イエス様について行くときに、自分の思いに基づき、自分の必要と欲望も満たそうとします。ペテロが、人のことを思って、イエス様をいさめた時の自然体の本能的な彼の状態も全く同じです。私たちがイエス様をキリストとして認めて告白しても、その神の力を自分の思う通りに使おうとした時、神様の力を体験することが全くできません。イエス様はそのような私たちの自己中心的な思いを捨てて、ご自身についてくるように言われたのです。それと同時に、「自分の十字架を背負う」生活を目指すべきです。イエス様は、神様から与えられた使命の道に従うために十字架への道を進まれ、結局人類を救うための十字架を背負いました。イエス様にも、神様から与えられた十字架があったように、私たちにもそれぞれ神様から与えられた十字架があります。学生は勉強の十字架、社会人は仕事の十字架、主婦には家事と子育ての十字架があります。その上で、私たちはイエス様のように人々に救いの道を伝えないといけない十字架があります。とても忙しい生活を強いられている私たちにとって、時にはその十字架が重く感じられる時があります。しかし、自分を捨てるために祈る時、その十字架から逃れず、背負うことができるようになります。イエス様のゲツセマネの祈りにその答えがあります。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22, 42)このイエス様を見習い、私たち一人一人が、「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」生活に励むことができるように祈ります。最後に、35−37節をご一緒に読んでみましょう。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。/人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。/自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」いのちをもって生きているわたしたちの人生には、逆説, paradox, の真理に出会う時が多くあります。冒頭で紹介した、ドラマの主人公、八重もその逆説の不思議がなかなか理解できませんでした。しかし、イエス様はいのちの世界の不思議な逆説の真理を教えてくださいます。ここで、「自分を救おうと思う者」とは、命を与えられて生きている人生にもかかわらず、自分中心に生きる生き方です。自分を捨てず、自分を中心にして、人々を自分の回りに回転させている人を意味します。言い換えれば、自分が太陽になって、他の人々を惑星にして、自分の回りを回らせている「私動説」を主張する人のことです。そういった人は、褒められることを望み、名誉や権力を求めます。人々に仕えるより、仕えられることに多大な努力をします。ところが、イエス様の言われるいのちの大きな逆説は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、イエス様と福音とのためにいのちを失う者は命を得る」ということです。この逆説は、毎日の生活の中でいつでもどこでも見ることが出来ます。人から与えられることばかり求めている人が、より貧しくなるケースが多いです。自分の幸福ばかり考えている人は、他人の幸せに関心がなく、結局自分も不幸になります。自分がいつでも、人々の中で中心にいたいと願っていても、人々から嫌われ、中に入れず、外側の人生で終わってしまうケースもあります。しかしその反対に、人々から認められることに関心を置かず、日々自分を死なせる人は、いつの間にかその人の周りに人々が集まり、重んじられることを見ることが多くあります。イエス様は、わたしたちに自分の命や人生を軽んじたり、憎んだりしなさい、と言っているのではありません。そうではなく、自分の人生の目的、目標、その運命を、自分で左右できるかのように思わず、すべてのことを知り尽くしておられる神様に委ね、その真理に従って、その真理の福音のために生きるように勧めておられるのです。しかし、姦淫と罪の時代、つまりいのちの逆説の真理に従って生きることを好まない時代では、イエス様とイエス様のことばを恥じる人が多くいますが、イエス様の再臨の時、イエス様もそのような人たちを恥じるようになります(8, 38)。聖書の中では、このようにたくさんの不思議の逆説の真理が記されてあります。私たちが、「イエス様をキリスト」として告白し、十字架の道の不思議を体験する人生を生きることができるように祈ります。

13Romans11M すべてのことを益としてくださる神様

13romans11m すべてのことを益としてくださる神様, 2013年ローマ人への手紙第11講                          2013.4.28すべてのことを益としてくださる神様御言葉:ローマ人への手紙8:18〜39要, 節:ローマ人への手紙8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」日本の諺に「楽は苦の種、苦は楽の種」というものがあります。それは、楽をすれば後で苦労を味わうことになり、逆に苦労をしておけば後で楽ができるという意味です。人はだれでも楽な生活を望んでいるはずです。しかし、この世に身を置いている限り、苦しみはつきものだと言われます。時には、地震と津波のような想定外の自然災害や、思いも寄らない重い病、予期せぬ事件、人間関係などで、悶え苦しむこともあります。また、思いがけないことが起こったりした時に、「どうして、こんなことが私に起こるんだろう」と思い悩む人もいるでしょう。ところが、私たちは今の現実がどんなに苦しくても辛くても堪えられます。なぜなら、私たちは神様がどんなお方なのかを良く知っているからです。神様は、ひとり子をお与えになったほどに私たちを愛され、ご計画に従って私たちを召してくださいました。この神様が「すべてのことを働かせて益としてくださる」ということですから、私たちはいろいろの苦しみや困難に直面した時も喜ぶことができるわけです。今日は、御言葉の内容を三つに分けて、皆様と共に神様の愛と栄光の世界へ旅立ちたいと思います。主の御言葉に耳を済ませば、きっとキリスト・イエスの愛による喜びと勝利の歓声が聞こえてくるはずです。今日の礼拝は、感謝と喜び溢れる礼拝としてささげることばできれば、何より幸いです。第一に、今の苦しみは、後に受ける栄光に比べれば、取るに足りないものです, 18〜25, 。 18節をご覧下さい。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」とあります。ここで「いろいろの苦しみは」、クリスチャンが受ける様々な苦しみを意味します。なぜクリスチャンは、この世で苦しみを受けるのでしょうか。それは、キリストと栄光をともに受けるためです, 8:17, 。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願っているから迫害を受けるのです, ?テモテ3, 。パウロは福音を伝えるために、人々から憎まれ、激しい迫害を受け、最後には殉教しました。それは、福音のための苦しみであり、キリストと苦しみをともにすることでした。イエス様の生涯を集約しますと、“no, cross, crown”, (著者william, penn, 1644, 1718)、「十字架なしに、冠なし」、「艱難なくして、栄光なし」と言えます。イエス様は私たちのために十字架の上で苦しみを受けられ、死者の中から甦られて神様の栄光を表されたのです。この教会の中にも、キャンパスで福音を伝える時に警備員から追い出された方も、また教授会に呼ばれて学生に聖書を教えないように厳しく注意を受けた方もいます。それはクリスチャンであれば誰もが経験することだと言っても良いでしょうが、この教会で、主を愛し、この国の人々を愛する信仰の持ち主と共に、主の御業に奉仕できることは、本当に光栄なことだと思っています。パウロは、この手紙の冒頭で、ローマクリスチャンの信仰について、「・・・あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」, 1:8, と言っています。このパウロの言葉を裏返して考えますと、彼らはローマ帝国から約250年もの間、想像もつかない苦しみを受けたことでしょう。紀元64年に起ったローマ市街の大火災の時に、彼らは皇帝ネロによって迫害を受けました。多くのキリスト教徒は逮捕され、中には犬やライオンなどにかみ殺された人、生きたまま火あぶりにされた人もいたと言います。しかし迫害は、かえってキリスト教徒の信仰を強くし、殉教者が増えるたびに新しい仲間が信者として加わりました。それは彼らが、今受けている苦しみよりも、将来に受ける神の栄光を待ち望んでいたからではないしょうか。そういう訳で、そんな彼らの信仰が全世界に言い伝えられ、今に至るまで多くのクリスチャンを勇気付けているのです。日本では、江戸幕府の時に「檀家制度」というものがありました。「檀家制度」とは、徳川幕府がキリスト教を禁止し、民衆を支配するために設けた制度ですが、それに従って、人々は必ずどこかの寺院に所属し、寺に戸籍を登録せざるを得ませんでした。もし寺院が発行する寺請証文(戸籍謄本にあたる)がなければ、就職も、旅行もできないし、そして証文の発行を拒否されますと、「帳外れ」と差別され、それは社会的な抹殺を意味しました。もう一つは、「踏み絵」というものがありましたが、それは、キリスト教弾圧に際して、キリスト教信者か否かを見分けるため、キリスト・イエスや聖母マリアの像を木または金属の板に刻み、足で踏ませたのです。それを拒んだ場合はキリスト教徒として逮捕され、処罰されたと伝えられています。もう一度18節をご覧下さい。人間はだれでも、自分の受ける苦しみを非常に大きく感じてしまうものです。でも18節は、神様の前でその非常に大きく見えてしまう苦しみや恐れさえも、“本当は、「取るに足りない」ものでしかないんだよ”、と言っており、苦しみに対する私たちの視点や考え方、生き方を変えてくれる御言葉です。パウロや日本の初期クリスチャンたちの場合は、実際に命に関わるほどの大きな試練を受けました。私たちは、そんな彼らを見て、自分とは、かけ離れた人間力と信仰の持ち主だと感じてしまいがちです。しかし、彼らが試練を乗り越えていけたのは、神様の用意されている将来の栄光が、自分の苦しみよりもずっとずっと比べ物にならないぐらい大きな栄光である!という聖書の約束を深く悟っていたからでしょう。これは、本当に祈る中でしかつかめない真理であり、聖霊様の助けによってのみ体験できる真理なのです。私を含めた信仰の幼い人達が苦難を乗り越えられない時があるのは、目先のことだけを考えてしまい、目に見えるものだけを望んでいるからではないでしょうか。私たちは、やがて必ず実現される神の栄光を待ち望みながら、日々主に祈り、賛美を歌いつつ、聖書の学びと教えに熱心に励んで行こうではありませんか。やがてキリスト・イエスは、予告もせず再びこの世に訪れます。神様の栄光がこの世に実現されるのです。その時には、アダムが犯した罪によって虚無に服するようになった被造物が本来の姿に回復されます。人は弱いからだが贖われ、罪から完全に解放されるのです, 19〜25, 。からだが弱い人や重い病を患っている人などにとっては、この神の栄光が本当に自分に実現することを望めば、今の苦しみは取るに足りないものと実感することができるわけなのです。第二に、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます, 26〜30, 。私は本当に弱い者です。弱い体のことで、涙もろく、悩みも多いです。時には自分に置かれた現実が苦しくて、何を祈ったらよいか分からず、祈れなかったこともあります。しかし、私たちはそういう時にも思い悩む必要がありません。なぜなら、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」からです, 。また神様は、「人間の心を探り極める方」だからです, 。「探り極める」とは調査する意味です。神様は私たちの必要なものが何かをよく知っておられます。そして助け主なる御霊がとりなしてくださるとは、心強いです。28節をご覧下さい。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」この28節は、多くのクリスチャンが慰められている御言葉です。主の愛によって神様を愛するようになったクリスチャンは、神様の救いのご計画に従って召された者です。私たちが主を愛するようになったのは、先に主が私たちを愛してくださったからです。その方によって私たちは使徒として召されたわけです。神様はすべてを働かせて益としてくださるお方です。すべてのことを益に変えることができる力を持たれる方にとって、不可能なこと、無駄なものは何一つありません。かえって、困難や試練がその人を練り、御子の姿にまで変えていくのです。「神がすべてのことを益としてくださる」というこの箇所は、「人間万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄の如し」といった「世の幸不幸は変転し、寄り合わせた縄のようだ」という意味で受け取られがちです。しかし、この二つの故事はどこまでもこの世の一面を論じたものに過ぎません。それとはまったく次元が異なります。すべてのことを益とされる神様の計画と目的は、やがて私たちが御子キリスト・イエスと同じ栄光の姿に変えられるためでした, 。ですから、私たちは日々生活をしていく中で体験した神様の愛やご計画、導き、栄光の姿などを、体いっぱいに感じられているし、魂いっぱいに喜び歌っているわけなのです。私はすべてを益としてくださる神様を知っています。17年前に私の家庭が宣教師として来日したのは、実に、益としてくださる神様の導きだったとしか言うようがありません。大学3年の時、私は「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の御声に、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と答えました, イザヤ6:8, 。卒業後は鶏を屠る仕事でアメリカに渡ろうとしました。しかし、仲介者だった人がすべてのお金を持って海外に逃げ、それ以降は、宣教の門が14年間も閉ざされていました。ところが、不思議にも同じ立場にあった先輩、友達、後輩たちは、ロシアやリトアニア、ドイツ、豪州などに宣教師として世界へ散らされて行きました。このように神様は福音伝播のために、すべてのことを益に変えてくださったのです。金銭的には損をしましたが、この国に来て皆様と共に主の御業に仕えながら弟子が立てられる喜びを味わったことは、かけがえのない主の御恵みです。今はしばらくの間リベカ宣教師と離れ離れになって生活しているのが凄く寂しいですが、主が私の家庭をどのように導いてくださって益としてくださるのか、本当に楽しみです。先週は皆様が祈っていたワタル君が元気な姿で教会に来ました。幼い子どもにとっては大変な手術だったでしょうが、ワタル君の病は神の栄光を現されるためであることを堅く信じています。私は喜びをもってこう祈りたいです。“神様。私たちの弱さや苦しみが、御霊の助けをいただき、御子の姿に変えていただくチャンスとなっていることを感謝します。どんなときでも主を褒めたたえ、感謝をささげます。アーメン”第三に、神様は、私たちを圧倒的な勝利者としてくださいます, 31〜39, 。この箇所のみことばは、パウロの歓喜極まる雄たけびです。圧倒的な勝利の宣言です。あれほど苦しみ痛めつけられてきたパウロの、この勝利者としての宣言の根拠は何でしょうか。一つ目の根拠は、神様が私たちの味方であるということです, 31〜34, 。しかも、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」神様が味方なのです。神様は私たちすべてのために、たった一人の御子さえ惜しまずに、死に渡されたほどのお方ですから、他のすべてのものをも下さらないわけがあるでしょうか。神様がご自分の者として選ばれた私たちを訴えるのはだれですか。神様ですか。どんでもないです。神様は私たちを赦し、義と認めてくださったお方ではありませんか。これ以上の味方は、他にはありません。34節をご覧下さい。では、私たちを罪に定めるのはだれでしょうか。キリストですか。とんでもありません。キリストは「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません, ヨハネ8:11, 」、と言われたお方です。そのキリスト・イエスは、私たちの最強の味方です。なぜかというと、キリストは私たちのために死に、復活し、今は神様の右の座で、私たちのために祈っておられるからです。二つ目の根拠は、神様が私たちを愛してくださったということです, 35〜39, 。私たちをキリストの愛から引き離すのは、どのようなものでしょうか。「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」, 。確かにこのようなものに直面しますと、キリストの愛から離れていく人もいます。しかしパウロは、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのだ」, 、と力強く言っています。その大きな試練の中で、つぶされずに圧倒的な勝利者になったのは、人生のいかなる場面でも、この神様の愛を見失わなかったからである、というのです。最後の38, 39節で、パウロは、全被造物を引き合いに出しています。そして、それらをすべて否定した後に残る「主キリスト・イエスにある神の愛」を、何とも力強く描き切っています。まるで、全宇宙すら飲み込んでしまうような神様の愛が、パウロの全生涯を包んでいたのだ、という大宣言です。皆様は苦しみに遭うと、神様に見放されたような気持ちになったことはないでしょうか。そんな時にこそ、私たちを勝利に導く神様の大いなる愛を魂いっぱいに頂きましょう。キリストと共にある限り、私たちはどんな試練の中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。最後にキリスト・イエスの言葉を皆様に伝えましょう。ヨハネの福音書16章33節です。「・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ハレルヤ!!!アーメン。

13Romans15M 生きた供え物として捧げなさい

13romans15m, 生きた供え物として捧げなさい, 2013年ローマ人への手紙第15講メッセージ, 朴エズラ, 生きた供え物として捧げなさい御言葉:ローマ12, 21要, 節:ローマ12, 1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」イギリスのC・H・スポルジョン牧師(1834−1892)は、神の恵みを水源、信仰を水道管にたとえています。救いは、無尽蔵のダムのような水源である神様の憐れみから流れてきます。信仰は、救いを運ぶ水道管にすぎません。水源とつながっていない水道管が役に立たないように、神ご自身(水源)とつながっていない信仰(水道管)も役に立ちません。私たちはローマ人への手紙1章から11章を通して、人間の罪と信仰、また信仰者の苦悩と勝利、そして先週まで習った9−11章ではユダヤ人と世界の人々の救いに対する神様のご計画について学びました。今までのローマ人への手紙は、手紙というよりは、まるで論文のようです。したがって、初めてローマ人への手紙を学んだ方は大学に戻って一生懸命研究する姿勢で読まないと、なかなか理解難いところがあったでしょう。しかし、今日の12章からは、神様の憐れみによって救われたクリスチャンがどのように生きるべきかという、具体的な生き方について書いてあり、ようやく、手紙らしくなってきます。   今日の御言葉を通して、神様に喜ばれるクリスチャンとしての生き方について深く学ぶことが出来るように祈ります。?。霊的な礼拝(1−8)1節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」1節の「そういうわけですから」というのは、11章まで習った、神様がイエス・キリストによって私たちを罪から救い出してくださったことを指していますが、言い換えれば、神様のあわれみを指しています。神様が、私たちを救ってくださったのは、私たちに救われるに価するだけのものがあったからではありません。私たちは、みな罪人であり、神様の前には、無力なもの、汚れたもの、惨めなものであったばかりか、神様に対して逆らうものでした。そのような私たちが救われたのは、ただ、神様のあわれみによってでした。私たちは、自分の罪のゆえに苦しんでいたのですが、神様はそのような私たちの苦しみを、まるでご自分の苦しみでもあるかのように、思いやってくださったのです。神様の「あわれみ」は、単なる同情やかわいそうに思うこと以上のものです。それは、もっと、深く、高く、大きく、決して変わることのない愛です。だから、使徒パウロは、「12, そういうわけですから、兄弟たち。私は、神様のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と言っているのです。 冒頭でスポルジョン牧師のたとえを引用したように、神様の憐れみの恵みは、いくら飲んでも飲み尽きない膨大なアマゾン川のようです。皆様、日照りでアマゾン川が枯れたという話を聞いたことがありますか。神様の憐れみはそういったものですが、礼拝は、この神様の救いとあわれみに対する応答なのです。そこで、パウロは「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言って、神様のあわれみに対して答えるようにお願いしているのです。クリスチャンの生活は、自分の欲望に支配される生き方でも、人の目を気にしながら生きる臆病な生活でもありません。また、それは、規則でがんじがらめに縛られた窮屈な生活でも、義務感に追い立てられ疲れ果ててしまう生活でもありません。トマス・エリクソンという方が「新約の宗教は恵みであり、その倫理は感謝である。」と言っているように、罪から救われた者の生活は、神様のあわれみに拠り頼み、神様のあわれみに生かされ、神様のあわれみに感謝して生きるものなのです。それでは、その礼拝は具体的にどのようにすることですか。1bを一緒に読んでみましょう。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここで、礼拝とは「私たちのからだ」をささげることであると言っています。この表現は、旧約時代に、祭司たちが神殿で犠牲をささげて礼拝していた様子を思い起こさせます。旧約時代、ささげ物のない礼拝は考えられません。人々は、必ず、いけにえのために雄牛や羊などの動物のささげものを神殿で捧げたのです。これは、私たちが、神様に対して「物」ではなく「命」をささげなければならないということを教えています。神様は、私たちの持っている何かではなく、私たち自身を、求めておられるのです。時間や健康、財産や才能などといった、私たちの持っている一部ではなく、私たちのすべて、私たち自身をささげることを神様は求めておられるのです。「からだ」をささげるというと、手足を使って行う奉仕活動のことだと考えるかもしれませんが、聖書で使われている「からだ」という言葉には、肉体だけの狭い意味ではなく、「全体」という意味があります。したがって、私たちの身も心も、私たち自身を、私たちの人生のすべてをまるごと神様にささげなさいという意味になります。 旧約時代の礼拝では、どんなに多くの犠牲がささげられても、人々が自分自身をささげていなければ、それらは、何の意味もないと、神様は言われます。形式だけで、真実の伴わない礼拝について、神様は、アモス5, 23と語っておられます。「たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。」 大変厳しいことばですが、私たちも、私たちがささげているものが、私たち自身や私たちのすべてではなく、私の一部、私の持ち物だけではないだろうかと、問い直したいと思います。私たちの礼拝を、本当の意味で神様に受け入れられるもの、神様を喜ばせ、また私たちも、それによって神様を喜ぶものにしていきたいと思います。「からだをささげる」ということばは、また、私たちにキリストの十字架を思い起こさせます。イエス様は完全な供え物として傷のないご自分のからだをささげました。イエス・キリストは、私たちを罪から救い出すために、十字架の上で、ご自分を犠牲の子羊として、神様にささげられたのです。私たちは、キリストがご自身をささげられたことによって救われました。キリストがそのからだを神様にささげられたように、私たちもまた、そのからだを神様にささげるよう求められているのです。そして、それこそが、私たちのなすべき礼拝であることを覚えていきたいと思います。2節をご覧ください。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」私たちは、それぞれ、自分が生きてきた時代、生活してきた社会の影響を受けます。「この世と調子を合わせてはいけません。」というのは、その時代の文化や風習を一切拒否しなさいという意味ではありません。ここでいう「この世」というのは、神様にとってふさわしくない世界のことを意味しています。神様を否定し人間をあがめ、神様なしでも幸せな世界を作ることができると主張する考え方、原理、生き方、価値観、人生観、世界観などといったものを指しています。わたしたちは、こういったこの世と調子を合わせることなく、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える」生活に励まなければならないのです。ところが、弱くて無知な私たちは「神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」をわきまえるのが易しくありません。しかし、全く心配する必要はありません。本文で、パウロは、心を新しくし、自分を変えれば「わきまえ知る」ことができると教えてくれています。ここでの、「自分を変える」とは、常に悔い改めて心を新しくすることで霊的な人として内面が変化し成長することだと思います。御言葉の前で内面にある罪のかすを見つけ、悔い改めることで、心を新しくし霊的な人として成長する時、神様のみこころは何か、何が良いことで、神様に受けいれられ、完全であるのかをわきまえ知ることができるということです。罪は、かすのようで、かすがたまって詰まると、魂が疲れて無気力になり腐敗するようになります。悔い改めとは、このような詰まったかすを掃除することと同じだと思います。内面の罪を悔い改めると、魂がすっきりし、喜びが生じます。悔い改める時、聖霊が働かれ、変化した人生を生きるようになります。このように、私たちの心を新しくしてくださるのは、悔い改めによる聖霊の働きによって可能になるのです。それでは、この世と調子を合わせず、心の一新によって自分を変える生活は、具体的にどのような生活でしょうか。3−5節を一緒に読んでみましょう。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。/一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、/大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」まず、私たちに与えられている「信仰の量りに応じて、慎み深い考え方」をすべきです。そうすると、思うべき限度を越えて思い上がるような間違いを犯さなくなります。使徒パウロは、ここで、「体と多くの器官」のたとえを取りあげています。1つの体に、多くの器官がありますが、すべての器官が同じ働きをすることはありません。そのように、私たちもキリストにあった一つの体であり、互いに器官としてキリストの体である教会を構成しているのです。また、それにふさわしい賜物が与えられています。6−8節をご覧ください。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。/奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。/勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」神様は体を構成する一つ一つの器官である私たち一人一人に、その恵みに従って、異なった賜物を与えてくださいました。人によって、預言する人も、奉仕する人も、教える人も、勧める人も、分け与える人も、指導する人も、慈善を行う人もいます。教会の中でも、それぞれ自分の役割があります。ある人は、賛美で、ある人は楽器で、ある人はメッセージで、ある人は掃除で、ある人は食事で仕え、ある人は笑顔で、ある人は、人の話を良く聞いてあげたり、よく食べてあげたりすることで神様に仕えることができます。こうすることでそれぞれの役割を果たしています。目に見える働きも大事ですが、目に見えないがそれぞれに大切な役割があります。重要なことは、自分に与えられた恵みの賜物を見出すことです。ここで、明確に示してくださったように、だれでも必ずその賜物が与えられているのです。しかし、自分に与えられた賜物の価値を、神様の前でその価値を評価せず、世の人々のやり方のように、他人と比較する瞬間、神様から与えられた恵みの賜物がつまらないもののように見えるのです。2節で説明したように、「この世と調子を合わせてはいけない」理由はそこにあるのです。世の人々の基準から見るので、自分に与えられたすばらしい恵みの「賜物」の価値を知らず、他人を妬んだり、劣等感に陥ってしまいがちです。自分に与えられた最高の賜物を見出す時、人は本当に幸せに生きられます。また熱心に喜んで自分に与えられた賜物を発揮することが、「自分の体を、生きた、聖い、供え物として神様にささげる」霊的な礼拝となります。皆様、私たちの健康にすごく良い影響を与える物質である「エンドルフィン, endorphin, 」について聞いたことがありますか。エンドルフィンは笑う時や、愛する時に分泌されるホルモンです。疲労回復や病気を治癒することにおいて卓越した効果があると言われます。逆にストレスを受けると、脳内からアドレナリン(adrenaline)とノルアドレナリン(noradrenaline)がたくさん分泌されますが、これを緩和する役割をするのが、βエンドルフィンです。しかし、エンドルフィンより4000倍も強力な物質が見つかったそうです。それは、ダイドルフィン, didorphin, です。ダイドルフィンは感動した時に分泌されるホルモンだそうです。美しい音楽の旋律に心を奪われた時、心を揺り動かす文章を読んだ時、御言葉の恵みを受け、感動の涙が出た時、美しい風景、例えば富士山の頂上で御来光を見た時などにダイドルフィンが分泌されると言われています。私たちが自分に与えられた賜物を喜び、一生懸命その賜物で人を喜ばせる生活をすると、エンドルフィンとダイドルフィンが脳内から分泌されて、私たちを健康な生活に導くことになると信じます。ただし、エンドルフィンが一度分泌されると、5分間効果が持続されますので、常に健康生活を維持するために、5分ごとに喜びを覚える必要がありますね。周りの人たちから変だと言われても、気にせず、神様から与えられた賜物を考えながら微笑む日々を過ごして生きましょう。?。愛と善を行いなさい(9−21)9節からは具体的に世の人々との間でどのように生きるべきかに対する具体的な指針となる御言葉です。第一に、偽りのない愛に基づき、悪を憎み、善に親しむように勧めています。9−10節をご一緒に読んでみましょう。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。/兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ここでの愛は、兄弟愛を意味しています。つまり、私たちの周りと互いに愛し合うことです。そうするためには、人を尊敬し、互いに人を自分よりまさっていると思うことが必要です。私たちは相手が自分を尊敬してくれれば自分もそのように思う準備ができているのに、と思う時が多くあります。しかし、聖書では「互いに思いなさい」となっています。兄弟愛のベースは相互の関係です。第二に、勤勉で、望みを抱き、旅人をもてなす生活です。11−13節を一緒に読んでみましょう。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。/望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。/聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」神様は、クリスチャンに「勤勉」な生活を求めておられます。「努力に勝る天才無し」ということばは、たとえ天才的な才能を持っていても、コツコツ努力している人にはかなわないということを言っています。エジソンは、電球を作るとき、フィラメントの材料を見つけるのにとても苦労しました。電気を通すとそれが燃えて光るようにするのですが、すぐ燃え尽きるようではだめで、明るく輝き、しかも長く保つ材料をみつけるのに、エジソンはなんと1600もの材料を試したそうです。そして、やっと見つけたのが、日本の京都の竹であり、これを炭にし、細い線にして、電球が出来上がったという話があります。このことは、何かを成し遂げるのに一番大切なのは、勤勉でたゆまない努力であることを教えています。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える生活を送ると、すぐに報われる場合もありますが、あまり評価されない時もあります。そういった場合、望みを抱いて喜び、患難に耐えながら、絶えず祈っていきたいです。さらに、積極的に同じ教会の聖徒たちをサポートしながら、旅人ももてなす生活に励むべきです。クリスチャンライフは、かなりレベル高いことが求められているのです。第三に、迫害するものを祝福する生活です。ますますハイレベルの生活が求められています。14, 16節をご覧ください。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。/喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。/互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」今までの御言葉もかなり高い水準の御言葉でしたが、ここに至ると、本当に順従しにくい御言葉に違いありません。いや、私たちの人間の力では不可能な事でしょう。私たちの本性では、「迫害する者を祝福するどころか、迫害する者が喜ぶと、お腹が痛くなるし、迫害する者が泣くと、嬉しくなり、ご飯がもっと美味しくなるのが現実でしょう」。そこで、心の奥底では、「やったか!?へへっ、ざまみろ!いい気味だ」と快哉を叫びます。しかし、イエス様は、マタイ5章11−12節で、迫害されると幸いだと言われます。だから、むしろ、喜び踊るように言われました。何故なら、天での報いが大きくなるからです。最後に、悪に悪を報いず、すべての人と平和を保つ生活をすべきです。17−18節をご一緒に読んでみましょう。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。/あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ここで、「悪に悪を報いることをせず」という意味は、復讐するなという御言葉です。なぜ、私たちは私たちに悪を行った人に復讐してはいけないのですか。その理由は、復讐は神様がするものだからです(19)。ある牧師は、“復讐を行動で実行しなくても、心で復讐の思いを持っている者は、神様の恵みを忘れてしまうので、自分で復讐してはいけない”と説明しています。何故なら、復讐しようとする考え自体がすでに神様の恵みを忘れてしまっている証拠だからです。私たちが直接復讐することより、神様の御手と神様の時に復讐をゆだねる必要があります。敵が飢え渇いている時、正常な心ではなかなか難しいので、その瞬間だけは、気違いになって、敵を食べさせ、飲ませると、彼の頭に燃える炭火を積むことになります(20)。つまり、世の法則であれば、敵同士であれば、憎むのが当然であるのに、かえって悪を悪で報いず、善を施すことで、私たちの敵は恥ずかしい思いで、頭が燃えるようになります。このように、悪に負けず、かえって、善をもって悪に打ち勝つことによって、私たちは世の人々を感動させることができるのです(21)。相当難しいレベルですが、ここに本当の意味でのクリスチャンライフの魅力があるのではないでしょうか。また、感動があるのです。上で説明したように、感動を受け、感動を与える生活をすることで「ダイドルフィン」がたくさん分泌され、私たちの体が健康になりますし、人を癒すことができます。皆様、数年前、双子のニュースがテレビで報道されたことがありましたが、ご覧になったことがありますか。生まれたばかりの双子のうち、妹が死にかけていました。インキュベーターの中で死にかけていた双子の妹を、元気なお姉さんのそばに横たえると、お姉さんが腕を伸ばして死にかけていた赤ん坊の妹を抱いてあげました。すると、妹の赤ん坊の心臓が徐々に正常に帰って来て、赤ん坊の妹を生かすことができたのです。感動を受けた妹の脳から奇跡的にダイドルフィンが分泌されたでしょう。この時間、十字架の上で死なれることで、敵であった私たちを愛し、救ってくださったイエス様を思い、そのイエス様に感動され、悪に対して、善を持って打ち勝つ生活ができるように祈りたいと思います。私たちが、周りの人々を感動させる格好いいクリスチャンになれるように切に祈りたいと思います。

13Romans18M 祭司の務め

13romans18m, 祭司の務め, 2013年ローマ人への手紙第18講 祭司の務め御言葉:ローマ15, 14−33要 節:ローマ15, 16「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」先週まで私たちはローマ人への手紙を通して福音の本質的なことを学んできました。パウロは「信仰とは何か、罪の赦しとは何か、クリスチャンはどのように生きるべか」と言うようなことについて記しました。そして、結論的に「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように, 。」と書き記しました。これで手紙が終わったと思われます。ところが、パウロは今日の本文と16章を付け加えて個人的に言いたいことを書いています。ここで、私たちはパウロの恵みに対するパウロの考え、祭司の務めと開拓精神、世界宣教ビジョンについて学ぶことができます。そして、来週学ぶ16章を通してひとりひとりの同労者や聖徒たちに対するパウロの思い、忠実な牧者としての心を学ぶことができます。今日は本文の御言葉を通して神様がパウロに与えられた祭司の務めについて、それを忠実に担うパウロの開拓精神と宣教ビジョンを学びたいと思います。?.祭司の務めを果たしています, 14−21, 。14節をご覧ください。「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」とあります。パウロが確信しているローマ教会の姿を見ることができます。彼らは善意にあふれていました。すべての知恵に満たされていました。また互いに訓戒し合うことができる教会でした。本当に素晴らしい教会の姿です。これ以上何を求めることができるでしょうか。それなのに、パウロはこの長い手紙を書いたのです。その理由は何でしょうか。15, 16aをご覧ください。「ただ、私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。」とあります。パウロはローマの聖徒たちに新しいことを教え、何かを命令するために手紙を書いたのではありませんでした。彼が所々、かなり大胆に書いたのは彼らにもう一度思い起こしてもらうためでした。神様から受けた恵みを思い起こしてもらいたかったのです。福音による恵みを思い起こすことによって聖徒たちに福音による恵みと感動を回復させてあげようとしたのです。パウロは手紙の初めにも、キリストによる恵みと使徒の務めに関して記しました。ところが、最後にもう一度その事実を思い起こしています。パウロがイエス・キリストに出会ってから分かったことの一つは恵みです。彼がイエス様に出会う前は「恵み」という言葉すら知りませんでした。しかし、彼がイエス・キリストに出会ってから胸いっぱい感じました。つねに神様の恵みを心いっぱい身体いっぱいに感じ、体験して来ました。そして、パウロはローマの聖徒たちもその恵みを思い起こしてほしいと切に願ったのです。この恵みについては皆さんも知っているでしょう。恵みとは全くいただく資格のない人が返すことのできないプレゼントをもらうことを意味します。つまり、恵みをいただいたということは第一に自分には資格がないのにもかかわらず過分なものをただでいただいたということを意味するのです。それが恵みです。ではパウロが神様からいただいた恵みとは何でしょうか。一言で「私のような罪人が救われた」と言うことです。パウロはこの事実を何度も告白しています。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。, 」「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。, 」パウロはただ信仰によって救われた恵みがあまりにも大きくて何度も告白し、証しているのです。それは自分自身が神様からの恵みを思い起こして感激し、感謝することだけではなく、ローマの聖徒たちも恩知らずの人間にならず神様の恵みを常に胸いっぱい感じることを願っていたからです。神様はこの手紙を通して私たちにも救いの恵みを思い起こしてほしいと願っておられるでしょう。新聖歌233番歌いながら神様からいただいた恵みを思い起こしましょう。「♪驚くばかりの恵みなりき この身の汚れを 知れるわれに 2恵みはわが身の 恐れを消し まかする心を 起こさせたり…」どうか、私たちがパウロのように常に神様からいただいた救いの恵みを心いっぱい身体いっぱいに感じますように祈ります。パウロは救われた恵みだけではなく、その恵みを伝えることも恵みとして認識し、感謝していました。16節を読んでみましょう。「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいたからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」パウロがいただいた神からの恵みは救われた恵みだけではありませんでした。まだ救われていない異邦人に福音を伝える務めがありました。私たちが何か素晴らしいことを発見するとそれを知らせたくなるでしょう。それが世界的な雑誌に載せられるとどれほど光栄に思うでしょうか。たとえば、朴エズラ宣教師が経営学者として今の日本の経済を生かす論文が書いて、それが有名な雑誌に載せられ、安倍総理大臣にも伝えられるなら、日本のために役立つものになります。しかし、いくら素晴らしい理論でも人々に伝えられなければ意味がないのです。ところが、パウロは自分がイエス・キリストに出会って驚くべき恵みの福音を知りました。そして、それを異邦人に伝える恵みをいただいたのです。では、パウロは神様から与えられた恵みをどのように担いましたか。16bをご一緒に読んでみましょう。「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」パウロが神様からいただいた恵みは「祭司の務めを果たす」ことでした。聖書によると、私たち人間は神様に罪を犯し、神様の敵となりました。神様はそんな人間と和解することを願いました。しかし、創造者の神様と被造物の人間は和解できない関係です。永遠に聖なるお方と永遠に呪われるべき罪人と和解することはできないでしょう。人間と人間なら、敵対関係になったとしても、何とか話し合いながら和解することもできるでしょう。しかし、神様と人間の間にはできないのです。その問題を解決するために神様は「神に受け入れられる供え物」を求めました。供え物をささげるためには神様と人間の間に仲介者の役割を果たす祭司が必要です。そして、神様と人間をつなげる役割を果たす人が祭司のです。この祭司の務めはだれでも担えるものではありません。出エジプト記26, 1,2節を見ると「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。」とあります。神様はアロンとその子を祭司として神様に仕えさせました。全能の神様、聖なる神様、いと高き神様に仕える務めは神様に認められ、選ばれた人だけができたのです。ウジヤは素晴らしい王でしたが、高慢になって祭司の務めをしたら、主が王を打たれたので、彼は死ぬ日まで、らい病に冒され、隔離された家に住みました[?列15, 5]。このように、旧約時代には王であっても神様に選ばれていなければ祭司の務めはできなかったのです。 ところが、私たちは神様からこの聖なる祭司の務めをいただいているのです。それは神の福音を宣べ伝えるためです。?ペテロ2, 9を見ると「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。私たちには自分を罪とやみの中から救ってくださった恵みを伝える祭司の務めが与えられています。ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった神様の素晴らしいみわざを伝える祭司の務めがあるのです。これは驚くべき恵みです。宣教師たちはこの恵みを伝えるために日本まで来ました。どうか、私たちもパウロのように「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」と言える生活ができるように祈ります。それこそ、自分が癒され、生かされる道です。ではパウロは祭司の務めをどのように果たしていましたか。17、18節をご覧ください。「それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより」とあります。パウロは「この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何か話そうなどとはしません」と言っています。「この私を」という言葉の中にこんなに惨めな私を用いて下ったことに対するパウロの謙遜と神様への感謝が込められています。パウロは神様だけを誇りに思っていました。19, 21節をご覧ください。「また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」とあります。パウロは神様ご自身がしるしと不思議をなす力により、さらにまた、聖霊の力によって自分を用い、宣教の働きを成し遂げてくださったと証ししています。その結果、パウロはエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。彼の宣教原則は、他人の土台の上に建てないことでした。私たちUBF教会もこの原則を持っています。つまり、他の教会に通っている人をうちの教会に連れてくるのではなく、できるだけ福音を聞いたこともなく、聖書も知らない人々に福音を伝えることです。それはやさしくありません。でも、私たちUBFはパウロのような原則を持って情熱的に未信者に福音を伝えることのために励んできました。すると、神様は聖霊の力によって私たちを用いてキャンパス宣教、世界宣教を成し遂げてくださいました。どうか、私たちが初心を失うことなく、パウロのような心を持って福音の種を蒔いて行くことができるように祈ります。?.イスパニヤに行くことにします, 世界宣教ビジョン,  22, 24節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので−というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、−」 パウロは幾度もローマに行こうとしましたが、その道が妨げられました。それはローマ帝国の東方にある異邦人たちに福音を宣べ伝える働きを終わらせなければならなかったからです。その働きが終わらなければ、イスパニヤに行くこともできません。それで、イスパニヤに行く旅の途上にローマにも行けなかったのです。しかし、今は、もうその地方には彼の働く所がなくなりました。つまり、パウロは、ローマ帝国の東にあるコリント、エペソなどの地方で自分に与えられた責任を果たしつくしたのです。その時が、パウロはすでに引退する年を過ぎた老人でした。それでも、彼はその働きに満足し、休もうとしませんでした。パウロは、何年も次の働き場所であるイスパニヤ, スペイン, に行くことを希望していました。その旅の途上でローマに立ち寄り、ローマの教会からも祝福を受け、励まされて、送り出してもらいたいと望んでいたのです。結局、パウロは囚人として、ローマに連れて行かれるようになりました。彼は囚人として、ローマに連れて行かれるとは、考えもしなかったかも知れません。けれども、彼の希望はかなえられたのです。 イエス様を信じる人々はビジョンを持っています。聖霊がキリストを信じる人々にビジョンを与えてくださるからです。聖書に『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』, 使徒2, とあります。ここに出て来る預言、幻、夢を合わせたものがビジョンです。それで、キリスト教を指して、夢の宗教、ビジョンの宗教と言います。使徒パウロはいつも世界宣教へのビジョンを抱いていました。そして、神様がそのビジョンを用いてくださいました。 私がUBF教会に通いながらこういうビジョンに燃えている人々に出会ったことは大きな恵みです。学生の時もそうでしたが、今も先輩の宣教師たちがから刺激を受けています。この間、私はパウロのチームの勉強の時、定年になったら、どうしますかと言われた時、休みたいですと答えました。その後、私はいろいろ考えました。すると、60歳、65歳を超えても新しい国に宣教師として遣わされて言う先輩の宣教師たちが思い浮かびました。皆さんが良く知っている全UBF世界総裁であられる全ヨハン宣教師をはじめ、アフリカの鄭ヨセフ宣教師、李サムエル宣教師、李ダニエル宣教師たちなどは70歳を超えて新しく宣教師になったり、宣教師を移して行ったりしています。私たちももう一度、自分の心を点検してみましょう。心を新たにしてビジョンを抱くことができるように祈ります。定年後だけではなく、30代、40代のうちに、50代、60代のうちにどうするか、ビジョンを持つことができるように祈ります。私たちが主にあってビジョンを持つなら、聖霊の力によってかなえられます。イエス・キリストにあって待ち望む希望は神様がかなえさせてくださいます。25, 29節ではパウロがエルサレムによってローマに行く計画を言っています。パウロはエルサレムの貧しい人々のために、パウロ自身が設立した様々な教会からの献金を伝えるために、エルサレムに行くのです。ここで、パウロはこの献金が自発的なものであること、また異邦人の聖徒たちは、エルサレム教会から霊的なことにおいて負債を負っていることを思いこしています。異邦人の使徒とであるパウロ自身もエルサレム教会から派遣されていました。ですから、パウロから救いの福音を受けた異邦人たちは究極的にパウロを派遣したエルサレム教会に負債を負っています。だから彼らも物質的な献金を通しても負債を返さなければならないと言っているのです。成熟するということは恩返しのできる人間になることでもあるでしょう。恩返しが100%できなくても、諦めることなく、感謝する生活はとても大切なことです。私たちもパウロから始まった異邦人宣教のために、福音を受けて救われました。救いの福音が私に伝えられるまでは数え切れない主のしもべたちがキリスト・イエスの仕え人として祭司の務めを忠実に果たしてきたからです。どうか、私たちもその恵みを覚えて、まだ福音を知らない人々に恩返しすることができるように祈ります。?.祈りもお願いします,  パウロは自分のビジョンを知らせることだけではなく、祈りもお願いしています。30, 33節をご一緒に読んでみましょう。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。」パウロはローマの聖徒たちに祈りをお願いしています。その祈りの課題はユダヤにいる不信仰な人々から救い出されること、またエルサレムに対する自分の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなることです。そして、その結果として、ローマに宣教師として行くことです。私たちは聖霊のとりなしと多くの方たちの祈りによって支えられています。ですから、私たちも祭司の務めを果たすことができます。聖霊の力によって世界宣教に用いられることもできます。神様は私たちを愛して、ご自分の御子を惜しみなく私たちに与えてくださいました。私たちがその神様の愛、恵みに感謝し、感激して自分を生きた供え物として、神様にささげましょう。自分に与えられた祭司の務めを忠実に果たして行きますように祈ります。

13Mark 05M 実を結ぶ人たち

13mark, 実を結ぶ人たち, 2013年マルコの福音書第5講実を結ぶ人たち御言葉:マルコの福音書4:1, 20要 節:マルコの福音書4:20「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」  私は農村で生まれ育ちました。小学生の時、学校が終わると、牛の餌のために草取りをしたり、牛を草原に連れて行ったりすることでした。牛を草原に解いておくと、牛は自分でお腹いっぱいになるまで食べたり休んだりしていて暗くなると、私のところに戻って来ました。すると牛と一緒に家に戻ることは私の仕事でした。でも、中学生になると、私も畑仕事をさせられました。それが大変で嫌だったので高校は都会に出て行こうと思って熱心に勉強したほどです。特に夏には水田雑草を取り除く仕事をしますが、イネとノビエを見分けることは困難なものでした。私はよく雑草だけではなく、イネも取り除いたためにおじいさんからよく叱られました。それでも喜びがないわけではありません。収穫する喜びは、素晴らしいものでした。特にうちのおじいさんは自分が耕した良い田んぼから美味しいお米が収穫できたとよく自慢していました。実際に干拓地でまだ塩気が残っている田んぼからは収穫量も少なく、お米の味も期待できませんでした。それで父は冬になると、干拓地の田んぼには山の土を入れて土壌を変えようとしていました。 私がここまでに自分の話をしたのは、今日学ぶ種まきのたとえは、私が生まれ育った農村の生活に密着しているからです。つまり、イエス様は農耕社会だった当時の人々がよく知っている具体的な例を使って神の国の奥義を教えられたのです。ここで私たちは豊かな実を結ぶ人生の秘訣を学ことができます。特に来月には夏修養会がありますが今までの修養会を通してみると同じ御言葉を聞いても実を結ぶ人がいるし、そうでない人もいます。どうか、今年は心を良い地にしておいて30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちになりますように祈ります。1,2節をご覧ください。「イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。」とあります。先週までの御言葉では主にイエス様の祈り、癒し、12弟子の任命などの活動を学びました。今日から学ぶ4章ではイエス様の教えを学びます。イエス様はたとえによって多くのことを教えられました。その中で今日は「種まきのたとえ」を通して実を結ぶ人たちを学びます。このたとえは、他のたとえを理解する基礎になります。なぜなら、イエス様の解説がついているからです。普通、たとえには解説がつけられていませんが、このたとえには解説を付けることに他のたとえに対しても霊的な意味があることを教えておられるのです。では、今日はイエス様が教え始められた種まきのたとえと、イエス様の解説を一緒にして学びましょう。イエス様はたとえで御言葉の種と四種類の土壌について教えられました。一つ目は道ばたに落ちた種です道ばたは多くの人がそこを通ったのでアスファルトの道路のように固くなっています。種が落ちてもそのままです。それで種を鳥が来て食べてしまいました。鳥は解説によるとサタンです。食べてしまったのは、サタンが御言葉である種を持ち去ってしまったことです。14、15節をご覧ください。「, 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。「御言葉が道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・御言葉を聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を持ち去ってしまうのです。」とあります。ここで道ばたとは、御言葉を受け入れない心であることが分かります。偏見とか、高ぶりとか、御言葉に従うことへの恐れとかの理由で心を閉ざしている状態です。あるいは御言葉を聞く前に何かがあって心を閉ざしている状態です。たとえば、人兼関係で傷つけられたとか、土曜日の夜とか主日の朝に夫婦喧嘩があった場合は心の状態が道ばたになっています。私がメッセージを伝えながら見ると、顔も、目つきも堅くなっています。御言葉をはねつけるような表情なので私もその人をまっすぐに見ることができません。すると、御言葉が働けません。礼拝が終わっても心には何も残っていません。サタンが御言葉を持ち去ってしまったからです。ですから、人間関係の中で傷つけられたことがあっても礼拝の前に赦してから礼拝に参加しなければなりません。また、土曜日の夜とか、主日の朝には夫婦喧嘩もしないように気をつけなければなりません。もし、言い争いがあったとしても赦し合って最高のコンディション、良い気持ちで礼拝に来なければなりません。私も土曜日は人間関係においてぶつからないように気をつけます。同労者も私が良いコンディションを維持して主日礼拝に臨むように気配りをしてくれます。私たちの心は生活の中でいろいろな人が通られ、さまざまなことによって踏まれて道ばたのようになってしまいがちです。ですから、私たちはかたくなな心、偏見、赦せない心を取り除いてくださるように神様に祈らなければなりません。エゼキエル36, 26をみると「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。神様に祈ると、神様は私たちに新しい心を与え、新しい霊を授けてくださいます。すると、私たちの心も柔らかになります。サタンが持ち去る前に御言葉が心に吸収されて行きます。二つ目は岩地に落ちた種ですこの岩地とは、「土の薄い」土が深くなかったので、すぐに芽を出しました。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。この岩地に対するイエス様は解説を見てみましょう。 16, 17節をご覧ください。「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」とあります。こういう人は御言葉を聞くと「すぐに喜んで受ける」のです。その人は、御言葉にうなずきながらニコニコと笑顔を見せてくれます。しかし、それはしばらく続くだけです。困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。それで、困難や迫害が起こると、すぐに以前の生き方で生きようとします。本来、太陽の光は、植物の成長には不可欠のものです。植物は根を張っているなら太陽の光によって成長します。同様に、私たちクリスチャンは御言葉の根を張っているなら困難や迫害によって霊的に成長し、実を結びます。自分のことで恐縮ですが、最近の私の心に「神を信じなさい」という御言葉が私のうちに根を張っています。先週、月曜日に学校に行くと、いきなり校長から韓国の日本大使が8月1日に本校を訪問すると言いました。それに伴い、次期の教頭になる鄭先生が責任を持って準備してくださいとも言いました。私は困ってしまいました。その日に私はアメリカにいなければならなかったからです。でもその場では文句を言えず、黙々と校長の話を聞いていました。それから、夜家庭礼拝の時に家族に非常に困難な私の立場を説明し、祈りを頼み、心を合わせて祈りました。ところが、次の日の夜明けに教会に来て祈る時「「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」という御言葉が思い浮かびました。そこで、私は「山を造られ、その山を動かす神様が大使と大使館の関係者たちを動かしてください。」と祈ります。朝ご飯の時、家族にも祈りを頼みました。それから学校に行ったのですが、金ヨハネ宣教師から連絡がありました。大使は8月1日の訪問予定が2学期に移されたのです。このことは初等部の先生に伝えると、彼もクリスチャンですが「ハレルヤ!ですね」と言ってくれました。困難を通して私は神様の御言葉を体験し、信仰が成長するようになりました。昨日は、娘たちのピアノ発表会がありましたが、私は自転車に乗って行きました。ところが1部と2部の間にホールの外を見て来た二人のマリヤ宣教師たちが大雨だと言いながら自転車帰りの私を心配しました。でも、私は「私が帰る時は雨が止む。神様が止ませてくださる。」と答えました。その後、自分の信仰を威張ったことに対する不安もありましたが雨を降らせる神様を信じて心から祈りました。すると、本当に発表会が終わって私が家に帰る時は、傘が要らない小雨になっていました。私が家の玄関に着いた時に大粒の雨になりました。神様は私の心の祈りを聞いてくださったのです。このような困難なことや、大雨も、植物に必要な太陽の光や雨のように、私たちの信仰生活を成長させてくれるのです。しかし、心の中に自分のなりの生き方や信念が岩になっていると、なかなか信仰の体験できません。御言葉の種が蒔かれても芽生え、成長して実を結ぶことができないのです。したがって、私たちは私の考え、私の意志、私の欲よりも御言葉を優先にして御言葉の根を張らなければなりません。年を取ればとるほど自分の考え、先入見、価値観よりも御言葉を優先にすることが難しくなります。それはまるで堅い岩を砕くようなことです。その岩が砕かれる時は痛いでしょう。でも、今まで築いてきた自分の考えを捨てて御言葉の根が張るようにして行くなら、神様が成長させてくださいます。小さな事でも大きな事でも神様を体験しながら実を結ぶ人生を生きるようになります。三つ目はいばらの中に落ちた種ですいばらの中に落ちた種は、芽生え、育ちます。しかし、同じ土壌にあったいばらのほうがよく育ち、ついに「ふさいで」しまったのです。いばらとは私が冒頭で話したイネ農作でノビエ、ヒエのようなものです。ヒエは放っておくと大変な事になります。ヒエの成長は非常に早く、草刈り機などで刈り取ったあとでも一ヶ月もすれば種をつけてしまいます。放置しておくと稲の刈り取りの頃には背丈が稲より, も大きくなって、稲よりも早く種を落としてしまいます。いばらがそのようなものなのです。それに対するイエス様の解説はどうですか。18、19節をご覧ください。「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」とあります。いばらの中に落ちた種は、芽生え、育ちます。道ばたや岩地に落ちた種とは大きく異なります。土地には問題がありません。問題はいばらの中に落ちた種よりもいばらのほうがよく育ち、ついに「ふさいで」しまうことです。ここでイエス様は「いばら」を「世の心づかいや、富の惑わし、その他のいろいろな欲望」のことであると解説されています。この種のものは、私たちにとって最も注意を要するものだと思います。聖書勉強を通して恵みを受け、牧者として生きようと決断した人でも将来に対する心配が生じると、その時まで受けた恵みも、愛も忘れてしまいます。聖書勉強をすることも、日ごとの糧を食べることも、祈ることさえも負担になり、損害意識に縛られてしまいます。霊的闘争をよくしていた人でも、インターネットゲームや淫乱な漫画などの誘惑に倒れると、霊的な力を失い、無気力になってしまいます。つやつやし、輝いているはずの顔がやつれているように見えるし、暗くなってしまいます。事実、私たちが生きている世の中はいばらの中のようになっています。絶えず、私たちの心の中に世の心づかいや、富の惑わし、その他のいろいろな欲望が入り込んできます。サタンはできるだけ多くの心づかいや富の惑わし、欲望を植え付けてそれらが御言葉の種と一緒に芽生え、育つようにします。しかも、それがヒエとイネの区別が困難な時もあります。世の心づかいなのか、気配りなのか、老後対策なのか、富の惑わしに陥っているのかが区別できない時もあるでしょう。だからこそ、私たちは霊的価値観をしっかりしなければなりません。使徒パウロは?テモテ6, 12節でこう言いました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」また、?テモテ2, 22節ではこう言いました。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」とあります。私たちが金銭を愛することや若い時の情欲に気づかずに、無感覚であるなら、いつの間にか、ノンクリスチャンと同じ生き方で生きるようになってしまいます。ノンクリスチャンだから悪いとは言えません。クリスチャンになっても価値観が変わらずに世の心づかいでいろいろなことを心配し、世の快楽も楽しみながら霊的にも祝福されたいと思うなら自分の心に蒔かれた御言葉の種が実を結ぶことができません。私たちがイエス様を信じて180度変わりました。なのに、また180度変わってしまうなら、元通りになってしまいます。どうか、いばらの中に生きているけれども、聖書勉強、日ごとの糧の御言葉、主日礼拝の御言葉を通してしっかりした霊的価値観を持って生きるように祈ります。そうして真の実を結ぶ生涯を送ることができるように祈ります。ではどんな地に落ちた種が実を結ぶでしょうか。 四つ目は良い地に落ちた種です20節を読んでみましょう。「良い地に蒔かれるとは、御言葉を聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」良い地には、種と比べて何十倍の実が結ばれます。では「良い地」とはどんな地でしょうか。ここで考えてみると「良い地」についての解説はほとんどありません。良い地の特徴とは「御言葉を聞いて受け入れ」ることになっています。ここで「受け入れる」のギリシャ語は、「積極的に受け入れる、歓迎する、懇切に慕い求める。」という意味を持ちます。「しょうがないから受け入れよう。」ではなくて、渇いたのどを水で潤すように、自ら進んで受け入れることなのです。すると神様は聖霊の力によって、私たちを変えてくださいます。私たちを罪の束縛、サタンの支配から解放して、私たちの必要を満たし、私たちの弱さを担ってくださいます。すると、私たちは受け入れた御言葉によって2倍や3倍どころではなく、何十倍、何百倍にまでも実をむすぶ人生に変えられて行きます。その実とは内的に聖霊の実を結びます。ガラテヤ人への手紙5:22、23にあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」御言葉を聞いて受け入れる人にはそのような実が約束されています。外的には伝道の実を結びます。ヨハネ15, 16を見ると「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とあります。「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」とありますが、それは伝道と、弟子養成の実です。事実、聖書を読んでみると、御言葉を聞いて受け入れた人は数多くの実を結び、あらゆる面で祝福された生涯を送りました。今度の夏修養会の時、○○姉妹、全ダビデ、鄭サムエル、金サラが信仰の先祖アブラハムを始め、彼の奥さんサラの人生、サムエルとダビデの人生に対して調べ、彼らが信じた神様を紹介してくれます。その時に皆さんももっと深く知るようになるでしょうが、彼らは神様の御言葉を受け入れて本当に豊かな実を結んだ人生になりました。先週学んだ12弟子たちもイエス様の御言葉を聞いて受け入れたので、彼ら自身が宝石のように輝く人生、多くの実を結ぶ生涯を送りました。使徒の働きに彼らによって結ばれた実がどんなに多かったのかが記されてありますが、それだけではありません。その実は今の私たちにまで続けられています。 どうか、私たちも御言葉を聞いて受け入れる者でありますように祈ります。聞き流すのではなく、御言葉を聞いて受け入れるのです。そうすると、私たちも必ず30倍60倍、100倍の実を結ぶ生涯を送るようになることを信じます。聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のある人に変えられていくのです。伝道の実も多く結び、その実によって日本の47都道府県、アジア47か国にも多くの実が結ばれますように祈ります。どうか、私たちひとりひとりが昨日よりは今日、今日よりは明日、もっと多くの実を結ぶ生涯を送ることができるように祈ります。

13Mark10M 人を汚すものを取り除くためには

13mark10m, 人を汚すものを取り除くためには, 2013年マルコの福音書第10講人を汚すものを取り除くためには御言葉:マルコの福音書7:1〜23要, 節:マルコの福音書7:23「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」先週、私たちは「行ってみて来なさい。」と言われたイエス様の御言葉を学びました。何事もイエス様の御言葉に従って行ってみる行動はとても大切だと思います。行動することを通して神様の奇跡と愛を体験していくらからです。今日の御言葉からは心について学ぶことができます。心にあるものが口から出ますが、それは言葉を通して表わされます。その言葉には不思議な力があります。何気ない一言に傷ついてしまう時もあります。もちろん何気ない一言で,とても勇気づけられたこともあります。その言葉は人の内側、すなわち、人の心から出て来ます。ルカの福音書を見ると、イエス様は「人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と言われました, 。したがって、私たちは外側、外見上の姿よりも内側、心にある悪を取り除き、きよく保たなければなりません。本文の御言葉を通して神様がほんとうに求めておられることを知り、内側、すなわち心がきよめられたクリスチャンとして生きるように祈ります。?.外側より心から神様の戒めを守りなさい1、2節をご覧ください。「さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、」とあります。弟子たちのうちに誰が洗わない手でパンを食べたでしょうか。それはよく分かりません。著者であるマルコは個人情報保護のために名前を書かなかったようです。ただ、マルコはパリサイ人と律法学者が洗わない手でパンを食べている弟子を見ている理由について説明しています。それはユダヤ人社会をよく知らない異邦人の理解を助けるためです。3, 4節をご覧ください。「・・パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。・・」とあります。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、手をよく洗ってから食事をしていました。ですから、ユダヤ人の弟子たちはほとんど手を洗って食べたでしょう。ただ、彼らのうちに汚れた手でパンを食べている人もいたのです。パリサイ人と律法学者はその光景を見て「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」と言いました。彼らは正しいことを指摘していました。ところが、イエス様は弟子たちの問題を指摘するパリサイ人と律法学者たちに何と言われましたか。6, 9節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」イエス様は、口先では神様を敬っていても、実はその心は神様から遠く離れている彼らの偽善を指摘されました。事実、彼らが口先では言い伝えを強調していることが問題ではありません。大きな問題は彼らの心が神様の戒めから遠く離れていることなのです。では私たちはどうでしょうか。毎週、私たちの手、足、口は礼拝をささげ、賛美の歌を歌っています。祈りをささげ、聖書勉強と伝道もしています。ところが、私たちの心はどうなっているでしょうか。神様との親密な関係の中にいるでしょう。私はこのメッセージを準備しながら神様から遠く離れているような気がして悔い改めずにはいられませんでした。パリサイ人と律法学者は、言い伝えによって、「神の戒め」をないがしろにしました。口先では敬虔な言葉を言っていましたが、彼らが言っている言い伝えによって、神様の戒めをないがしろにしていました。それただけではなく、神の戒めに違反するようなことをしていました。10, 13節を読んでみましょう。「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」イエス様は、彼らが大事にしているモーセの律法から、父や母を敬うことについて話されました。十戒によると、私たち人間は父と母を敬わなければなりません。今のことばによると、親を扶養する義務があるのです。口先だけではなく、真実に心から行なうのです。先々週の勉強会の時、ある宣教師は奥様が夫である自分にも知らせないでしゅうとめの通帳に仕送りしていることを告白しました。お母さんとの電話の中でそれが分かったそうです。いくらかは分かりませんがお母さんが非常に喜んでいらっしゃるし、ご自分も本当に感謝していると言いました。そのことをおっしゃっている宣教師の顔はとても幸せに見えました。申命記5, 16に, 「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」とあるように、父と母を敬う人は長生きをし、幸せになるのです。ところが、ユダヤ人の言い伝えの中には、「コルバン」というものがありました。自分の持っている物は神へのささげ物にすれば、父母に支払うお金がなくてもいいということです。今風に言えば、私は教会で献金をしているから父と母には仕送りなんかしなくてもいいということです。神様にささげているので扶養義務を放棄しているようなものです。ですから、言い伝えを守ることによって、結果的に『あなたの父と母を敬え。』という神様の戒めを破っていたのです。こうして彼らは、人の言い伝えによって、神様のみことばを空文にさせました。役に立たないものにしていたのです。そして、これと同じようなことを、たくさんしていました。その上、, 自分たちは言い伝えを守っているので神様を敬う者であるという自信を持っていました。ところが、自分で自分を正しいという自己義認の心は、神様の御心とは全く反対の方向へと彼らを導きました。つまり、彼らは言い伝えを守らない人を常にさばいていたのです。ですから、人々は神様を愛し、隣人を愛する愛の中ではなく、いつもそのさばきの目を恐れていました。言い伝えを守り、戒めを行なうことに熱心であっても、神様の御心を求めることには無関心であったのです。もちろん、戒めも、言い伝えもそれ自体は尊いものです。しかし、それよりそれを与えられた神様の方がさらに尊いのは言うまでもありません。神様がなぜそのような戒めを与えられるのかと、御心を求めることなしに、言い伝えや戒めを守ることは無意味なことなのです。私たちにも言い伝え、ubf教会の伝統などがあります。先輩から言い伝えられている1, 1聖書勉強、所感、日ごとの糧などの伝統があります。一つ一つが素晴らしいことですし、これからも受け継がせていくべきだと思っています。しかし、神様の戒めよりも、それらを守ることを重んじる生き方は神様から離れたものです。1, 1を何チームしたか、礼拝に遅刻しているかどうか、所感を書いているかどうかと言うことばかり気にしていてはなりません。そうすると、よくできている人は自己満足して高ぶったり、できなかった人を見てさばいたりしてしまいます。できない人はできなかった自分のことで心細くなり、劣等感に陥ったりしてしまいます。そういう考え方で教会に来ると、教会も居づらくなるでしょう。何よりもそういう生き方は神様から遠く離れたものなのです。では、皆さんにお聞きしますが、神様が最も大切にしておられることは何でしょうか。それは愛です。父なる神様と交わる愛、私たちが互いに愛し合う愛です。ありのままで互いに赦しあい、愛し合うことです。マタイの福音書22章を開いて37〜40節までをご一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」とあります。律法, 戒め, の中で何が大切ですかと問われた時、イエス様は神様を愛すること、そして隣人を愛することだと答えられました。愛を土台とした神様との関係、隣人との関係こそ、神様が最も大切にしておられることなのです。?.内側、すなわち心をきよくしなさい14、15節をご覧ください。「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」」とあります。イエス様は、「わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい、」と言われました。この御言葉から皆さんは何を悟りますか。どうやら、イエス様のそばで聞いていた人々は悟らなかったようです。群衆どころか、弟子たちも悟らなかったようです。というのは、17節を見ると、イエス様が群衆を離れて家にはいられてから弟子たちは、このたとえについて尋ねたからです。私たちはイエス様の御言葉を聞くことも大切です。聞くことから始まるからです。それで私は教師として生徒たちに勉強も聞くことが大切だとよく言います。ところが、5時間目の授業は眠っている生徒が目立つので「目を覚ましてよく聞きなさい。」とよく言います。すると、ある生徒は「目は閉じていてもちゃんと聞いていますよ。」と言います。それで確かめる質問をすると意外に答える子もいます。目を閉じていても聞くことはできます。礼拝の時に目を閉じている方も聞いていることでしょう。でもイエス様は「みな、わたしの言うことをく聞いて、悟るようになりなさい」と言われました。イエス様の言うことは「外側から人にはいって、人を汚すことのできい」ということです。イエス様は皆がこのことを聞いて悟ってほしいと願われたのです。ところが、弟子たちでさせ、よく分からなかったのです。そこで、イエス様はもっと具体的に説明してくださいました。18、19節をご覧ください。「イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」とあります。一般的に、人は何を食べても、汚いものを食べないでしょう。イチゴやリンゴなどは洗って食べるでしょう。賞味期限が過ぎて腐っているものを食べません。ところが、もし、汚れたものを食べてそれが腹に入っても人を汚すことはできません。もし、私がリンゴを洗わないで汚いものを食べたとしても、それによって汚い人間になるのではないのです。きれいなものも、汚いものも人の心には入らないで腹にはいります。そして腹の中で栄養分だけを取り、要らないもの、必要以上のものは排泄物になります。トイレに出されてしまうのです。では何が私たちを汚すものなのでしょうか。20, 23節をご一緒に読んでみましょう。「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」」ここでは「人の心から悪い考え」として12の罪が記されています。「殺人」にしても「姦淫」にしても、心の内側で恨みや欲情がマグマのようにたまってしまったことの結果です。心にある悪い考えが言葉や行動に現れたものなのです。心が神様への愛と隣人への愛から離れて行った結果として、目に見える様々な罪が現れるのです。パリサイ人は言い伝えや戒めを厳しく守り、厳しく守らせようと思うあまり、神様のあわれみが見えなくなっていました。彼らは道徳的であり、冗談や無駄話もしませんでしたが、神様のあわれみに感動したり、罪の赦しの恵みに涙を流すこともありませんでした。外側を整えていても内側が神様の愛も、人の愛を感じていない生活をしていたのです。しかし、大切なのは神様の愛と人の愛を受けて守られることです。祈りは責任であるよりも特権として思い、聖書を読むことも義務であるよりもいのちの源であると思う心が大切です。ところが、生まれながらの人間の内側には、罪の性質が住みついています。私たちはテレビや新聞を見て、なんて酷いことをするものだろう、と考えます。それだけではなく、「なんであの人はいつも偉そうなこと言うだろうか。あの人は自分のことしか考えていないね。」と考えます。しかし、全く同じような悪が、実は自分の心の奥に潜んでいることに気づかされます。私は誰かの自慢話を聞いていると耳が痛くなるほど嫌な時があります。自分より年上の人とか、地位の高い人が偉そうな話をすると、仕方なく聞いているけれども心の中では「高慢な人間だなあ」と思う時があります。しかし、よく考えてみると、自分も同じ人間です。私もそんな人間なのです。時々、家族から言われます。「自慢話をやめなさい。何度も聞いているよ。」と。本当に私も罪深い人間です。では、どうやって罪深い人間の心がきよめられるでしょうか。パリパイ人のパリサイ人として律法を守り通す生活をしていたパウロは言いました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」, ローマ7, 。だれも私たちを汚れ、腐っていく死のからだから私たちを救い出すことはできないのです。しかし、神様にはできます。イエス様は言われました。「それは、人にはできないことですが、神は、そうではありません。(マルコ10:27)」神様にはできるのです。神様は御言葉によって私たちをきよめてくださいます。詩編の記者は言いました。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるのでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(119:9)」心を守らないと心に、人の話、雑誌、インターネットのサイトなどからつまらない情報、汚い情報が積み上げていきます。すると、私たちはどうなりますか。心から腐っているものが出てくるしかありません。しかし、心に御言葉を積み上げていくなら、ますますきよめられ、信仰の言葉、肯定的な言葉、愛の言葉が出てきます。汚れから身を避けることよりも、自分の心に響いてきた御言葉を思い巡らす生活をするとき、御言葉によって私たちの姿は変えられて行きます。顔もきよく輝くようになって行きます。何よりも私たちはイエス・キリストが十字架上で流された血によって聖霊によってきよめられます。ヘブル書9:14にこう言っています。「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」私たちは傷のない神の子羊として十字架にかかって御血を流し、死んでくださったイエス・キリストの血潮によってきよめられるのです。イエス・キリストの十字架による赦し、贖いを信じて罪を告白し、悔い改めることによってきよめられます。ヨハネの手紙第一1, 7‐9節に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。, もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。またパウロは、ガラテヤ5, 16節でこう言いました。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」どうか、私たちが日々神様の御言葉を読み、学んで心を満たしますように、その御言葉を思い巡らす生活をし、キリストの御血よる贖いを信じて十字架にすがる生活ができるように祈ります。そのときに、私たちの心はきよめられます。そして、聖霊が私たちのうちに働かれ、良い実を結ばせてくださいます。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。, ガラテヤ5