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13Mark02.福音を知らせよう

13mark02, 福音を知らせよう, 2013年マルコの福音書第2講福音を知らせよう御言葉:マルコの福音書1:16−45要 節:マルコの福音書1:38,391.16−20節を読んでみましょう。イエス様は、ガリラヤ湖のほとりで、誰が、何をしているのをご覧になりましたか。イエス様は彼らを、どのように召されたのでしょうか。「人間をとる漁師」は、どのようなことをするのでしょうか, マタ28, 。イエス様に召された彼らは、どのように従って行きましたか。イエス様に出会った漁師のことを、考えてみましょう。2.21−28節を読んでみましょう。カペナウムに入ったイエス様は何をされましたか。なぜ人々はイエス様の教えに驚いたのでしょうか。どんな出来事を通して、イエス様の教えに権威のあることが証明されたのでしょうか。3.29−34節を読んでみましょう。イエス様は、熱病で苦しんでいたペテロの姑を、どのようにして癒してくださいましたか。夕方になって日が沈むと、どんな人々がイエス様のもとに連れて来られましたか。多くの病人を癒し、悪霊を追い出されたイエス様について、話してみましょう。4.35−39節を読んでみましょう。イエス様は、朝早くまだ暗いうちに起きて、どこで、何をしておられましたか。イエス様は何をするために、この世に出て来られたのでしょうか。なぜイエス様は、何よりもまず、「福音を知らせよう。」と言われたのでしょうか, ヨハ5, 24,イザ61, 1,ロマ1, 。5.40−45節を読んでみましょう。ツァラアトに冒された人は、イエス様のみもとに来て、何を切にお願いしましたか。イエス様はどのようにして、彼を癒してくださいましたか。イエス様は、彼を立ち去らせる時に、何と言われましたか。イエス様が表立って町の中に入ることができなくなった理由は何でしょうか。

13Mark21M 契約の血

13mark21m, 契約の血, 2013年マルコの福音書第21講                 契約の血御言葉:マルコの福音書14:1ー31要, 節:マルコの福音書14:24 「イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」メリークリスマス!クリスマスが近づいて来ています。皆さんいかがお過ごしでしょうか。先週、アメリカ・ホワイトハウス前の広場では、オバマ大統領一家が出席して恒例のクリスマスツリー点灯式が行われました。オバマ大統領は「寛容のために闘った南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領に感謝の気持ちをささげたい。彼は信じられない勇気をもってわれわれに恵みを与えてくれた」と語りました。クリスマスシーズンなのに、イエス様ではなくマンデラ氏の功績をたたえたことは残念です。もちろん、マンデラ氏は寛容のために戦った戦士であり、世界に平和と人権のメッセージを訴え続けた平和の使徒であったと思います。私自身も心から尊敬する方です。あの柔和な笑顔から心の強さと優しさを感じて来ました。できれば、私も反キリストの勢力とは戦い続け、人に対しては限りなく優しい人として生きて行きたいと思っています。だから、オバマ大統領を含めて世界中からマンデラ元大統領に哀悼の意を示すことは素晴らしいと思います。 しかし、今はクリスマスシーズンです。私たちクリスチャンは平和主義者マンデラよりも平和の王であられるイエス・キリストを拝み、礼拝しなければなりません。マンデラは偉い人でしたが私たちのために死んでくれたのではありません。しかし、イエス様は私たちのために死んでくださいました。私たちの罪を贖うために、イエス様はご自分の体を裂いてくださいました。私たちのために、イエス様は血を流してくださいました。 この時間、私たちのために契約の血を流してくださったイエス様を覚えて感謝し、イエス・キリストの血の恵みを心に刻んで行きたいと思います。神様は先週も日ごとの糧に記されたレビ記の御言葉を通して罪のいけにえ、罪の償い、和解のいけにえなどについて教えてくださいました。この時間、レビ記の御言葉も思い出しながらイエス様が流された契約の血の意味を学んで行きます。それによってイエス様が何のために生れてきたのか、どのように生き、また死ぬために生れてきたのかを、より鮮やかに心に刻むことができると思います。まず、イエス様に対して尊い物をささげた「ひとりの女」の信仰を学びます。ここで、私たちのささげ物の意味を知ることができます。1節をご覧ください。「さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。」とあります。「過越の祭り」とはエジプトの奴隷であったユダヤ人が、モーセに率いられてエジプトを脱出したことに由来しています。その時、神様は、エジプトに何度も災いを下しました。最後には、人であれ家畜であれ、すべて初子が打ち殺される災いを下されました。しかし、神様の御言葉に従って小羊の血を入口に塗ったユダヤ人の家だけは過ぎ越しました。それで、ユダヤ人は家の入口に塗った小羊の血によって初子が殺される災いから救われました。エジプトの奴隷の状態からも解放されました。その日は、ユダヤ人にとって救いの日、解放記念日になりました。何よりも神様は、この歴史的なその日を過ぎ越の祭りとして行ない、神様がイスラエルに行なわれたことを思い出しなさい、と命じられました。それで、ユダヤ人は過越の祭りを守り、先祖がエジプトの奴隷の身分から救い出されたことを記念しています。種なしのパンを食べながら七日間も行っています。ところが、祭司長、律法学者たちは歴史的な「過越の祭り」のことを考えませんでした。それよりどうしたらイエス様をだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいでありました。ところが、このような状況の中でもイエス・キリストに愛を示すひとりの女性がいました。3節をご覧ください。「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」とあります。このナルド油は、弟子たちの何人かが「三百デナリ以上」に売れると言っています。一デナリは一日分の給料です。今の日本の円に換算すると三百万円ぐらいになります。マリヤはその高価な香油を注いだのです。家中に香りがしたのでしょう。ただ、今回、私が気づいたのは香りが濃すぎて芳しくなかったのではないかと言うことです。たまに、娘たちからお父さん匂いがすると言われて私も香水をつける時があります。少しつけると良い香りがします。しかし、つけ過ぎると逆に不快感を与えてしまいます。だから、「ナルド油」の香りは、良い香りを通り越して人々に不快感を与えたかも知れません。何人かの者が憤慨して互いに言いました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人達に施しができたのに。」と言って香油を注いだその女をきびしく責めました。彼らはイエス様のことより、香油の価値だけを考えました。もし、ひとりの女性が高価なナルド油の代わりに、高価なプレゼント、高級料理を持って来てくれたら大歓迎したことでしょう。しかし、彼らの目には無駄に無くなってしまう香油に見えたから、マリヤの行動に憤慨したのです。ところが、イエス様は、マリヤの行為に対して何と言われましたか。6節をご覧ください。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」イエス様は彼女の真心と献身をりっぱなこととして高く評価してくださいました。彼女はりっぱなことをしようと思わなかったも知れません。彼女は自分の香油が300万円もする高価なものであることも知らなかったでしょう。ただ、ただ、彼女は自分にできることをしたのです。持ち物でイエス様への愛を表現しました。イエス様はその純粋な行動を喜ばれました。?コリント15, 58を見ると「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分達の労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」。とあります。そうです。私たちが励んでいる福音のみわざは無駄なことのように思われる時もあります。毎週、姉妹宣教師たちの中には毎週木曜日にキャンパスに行って伝道します。警備員さんから追い出されたり、変なおばさんに見られたりして寂しい時もあるでしょう。特に何年間も続けているのに伝道のみが見えないことで虚脱感があるかも知れません。その時間にアルバイトをしていたら300万円は儲けたのにと思われる時があるかも知れません。しかし、私たちの労苦は主にあって無駄ではありません。イエス様は「わたしのためにりっぱなことをしている。」と言ってくださいます。何をしても主のためにするなら、主が高く評価してくださいます。7、8節をご覧ください。「貧しい人達は、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに前もって油を塗ってくれたのです。」とあります。イエス様は彼女の行ないを高く評価することだけではなく、『埋葬の用意にと』意味を与えてくださいました。 確かに当時、死体の腐敗した匂いを打ち消すために油を塗るという習慣があったようです。16章を見ると、イエス様が死なれて三日目の朝、女たちはイエス様に「油を塗りに行こう」としたことが記されてあります。でも、彼女たちはイエス様の死体に油を塗ることはできませんでした。イエス様は油を塗られる前に復活されたからです。だから、この女性はイエス様の埋葬のために油を塗った唯一の人になります。彼女はイエス様が死なれてからはできないから、前もってイエス様のお体に油を塗ったのです。それがイエス様の解釈です。もちろん、彼女はイエス様の埋葬のために油を注ぐつもりではなかったかも知れません。彼女はとにかく、イエス様への愛を現すために、「自分にできること」をしただけだと思います。イエス様を愛して「自分にできること」をしたのです。ところが、イエス様はそれを見て「りっぱなことだ」と、「これは、わたしの埋葬の用意なのだ」と言われました。イエス様は主にあって彼女の行ないを評価し、意味を与えてくださったのです。このように、イエス様は私たちが自分にできることさえすれば喜んでくださるお方です。イエス様は私たちに無理な要求をなさいません。できることをやることを願っておられます。クリスマスが近づいて来ました。自分にできることは何でしょうか。賛美ができる方もいらっしゃるでしょう。教会堂の掃除ができる方もいらっしゃるでしょう。祈りしかできない方もいらっしゃるでしょう。大切な事は自分にできることをすることです。小さな事でも主にあってするならイエス様はそれを高く評価し、喜んでくださいます。小さなことでも自分のできることをやれば、神様はそれを喜んでくださいます。私は今回メッセージ準備の中で「この女は、自分にできることをしたのです。」と言う言葉に大きな恵みを受けました。私たちは仕事や勉強をしながら主のみわざに仕えています。私も普通のサラリマンのように毎日仕事をしています。大学生から小学生までいる子どもたちの父親としての役割も果たしています。それで、神様のみわざに専念できなくて神様の御前に「申し訳ない。」と思わされる時があります。神様に「こんなに足りない私に何ができると思っておられますか。」と言いたくなります。でも、イエス様は私に「あなたは、自分にできることをしているのだ。」と言ってくださいます。主は私に無理な要求をなさいません。自分にできることをすればいいです。私が足りないけれども最善を尽くして自分にできることをして行きますように祈ります。特にクリスマス礼拝を準備し、年末年始のみわざもよく準備して仕えることができるように祈ります。9節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」とあります。このイエス様のことばの通りに今日も世界中でこの物語が語られています。香油を注いだ女とは対照的にイスカリオテのユダは、何をしていましたか。 10,11節を見ると彼は、イエス様を売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行きました。結局、ユダは自分の先生をも売ってしまい、人類歴史の中で裏切り者の代名詞になりました。 12, 16節をご覧ください。種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子達はイエス様に言いました。「過越の食事をなさるのに、私達は、どこへ行って用意をしましょうか。」そこで、イエス様は、弟子のうちふたりを送って、こう言われました。「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子達といっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」とあります。弟子達が言われた通りに出かけて行って、都にはいると、まさしくイエス様の言われたとおりでした。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をしました。では、過越の食事の時にイエス様は12弟子たちに何を教えてくださいましたか。18−20節をご覧ください。イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」と言われました。最も親しい弟子であった十二人のうちの一人によって裏切られると言われたのです。それを聞いた弟子達は悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエス様に言い出しました。「かわるがわるイエスに言いだした」とあることからユダも「まさか私ではないでしょう。」と言ったようです。このことは彼が建前と本音が違う生活をしていたことが分かります。最後まで本音を隠していました。そこで、イエス様は十二人の中のひとりで、イエス様といっしょに、同じ鉢にパンを浸している者だと言われました。イエス様はますます具体的に話してユダが悔い改めるように助けておられます。しかし、彼は悔い改めませんでした。残念ながら悔い改める機会を失ってしまいました。そこで、イエス様は彼に警告の御言葉を言われました。21節をご一緒に読んでみましょう。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」イエス様はどれだけ心を痛めながらおっしゃったのでしょうか。愛する弟子に「生まれなかったほうがよかった」と言うのも辛いことでしょう。でも何とかして最後までイスカリオテ・ユダが悔い改めるように助けられたのです。しかし、彼は悔い改めませんでした。彼が出て行ってしまいました。そこで、イエス様は弟子たちに何を教えてくださいましたか。22節をご覧ください。「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」とあります。イエス様はパンをご自分のからだと言われました。それはイエス様が私達の罪のために十字架につけられ、体が裂かれることを言ってくれます。イエス様は、また杯に対しては何と言われましたか。23,24節をご一緒に読んで見ましょう。「また、杯を取り、感謝を捧げて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」すでに、イエス様が「わたしのからだ」と言われました。そのからだの中に、肉も、血も含まれているはずです。なのに、ここでまた「血」だけを取り出されたのは何か意味があるのでないでしょうか。確かに意味があります。血を流すことなしに罪の赦しはあり得ません。先週、日ごとの糧を通して分かるように罪を犯す者は誰であってもその代価を払わなければなりません。和解のいけにえ、罪のためのいけにえなどをささげなければなりません。出エジプト29:36節を見ると「毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。」とあります。毎日、注がれる動物の血によって贖われていたのです。ところが、ヘブル人への手紙9, 13,14は言います。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私達の良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」。むかし、やぎと雄牛の血も力がありました。ましてキリストが傷のないご自身をとこしえの御霊によって神様におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめてくれるでしょうか。イエス様ご自身が血を流して神様にささげることによって私たちのすべての罪の代価を払われたのです。キリストの血によって私たちは罪と快楽の死んだ行いから離れて生ける神様に仕える神様の子ども、聖なる国民として生きることができます。どうか、キリストの血の力を信じましょう。悔い改める生活を通して血の力を体験しましょう。イエス様の血は十字架の強盗を新しく生まれさせる力がありました。サマリヤの女を新しく生まれ変わらせる力がありました。取税人レビを聖マタイに変える力がありました。誰でもキリスト・イエスの血の力によって新しく造られた者になります。24節をもう一度ご覧ください。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」とあります。イエス様は愛する弟子たちのためだけではなく多くの人のために血を流されました。だれのためにキリストは御血を流されたでしょうか。私たちのためです。この私のためです。イエス様は私を永遠のさばきから救うために、サタンの奴隷の状態から救うために御血を流されたのです。この血を飲む者は死んだ良心がきめられてきよく正しく主に仕える人生になります。それで新聖歌235番は次のように歌っています。「罪重荷を除くは、血の力 主の血は、悪魔のわざをこぼつ 奇しき力なり、力ある主イエスの血、受けよ、受けよ、力ある主イエスの血、受けよ。今受けよ。」肉の欲を除くのも血の力です。私たちを雪より白くするのも血の力です。どうか、心からキリストの血を受け入れ、信じることによって私たちがきよめられますように祈ります。25節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とあります。先週、私たちはイエス様が再び来られることを学びました。その時に神の国が建設されます。私たちは新しい天と新しい地を見るようになります。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もありません。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界です。イエス・キリストの血によって契約が結ばれているクリスチャンはその神の国で永遠に生きるようになります。そこでは罪を犯すことも、罪を贖う必要もありません。ですから、イエス様は「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われました。26節をご覧ください。イエス様と弟子たちは食事ののち、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行きました。目指すところは「ゲツセマネ」です。ゲツセマネでの出来事は来週学びたいと思います。 私たちは高価なナルド香油を主に注いだひとりの女の人の真心と信仰を学びました。彼女の行為に対してイエス様ご自身の死を前もって用意したと言われたイエス・キリストの御心も学びました。何よりも、イエス様は私たちを愛してくださり私たちの罪を贖うために十字架につけられて貴い御血を流してくださったことを学びました。どうか、私たちが日々この御血の恵みを覚えて感謝し、香油を注いだマリヤのように主のために自分のできることをして行きますように祈ります。

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13New Year’s Eve 若い日に、あなたの創造者を覚えよ。

13new, year, 若い日に、あなたの創造者を覚えよ。, 2013年年越しメッセージ(12月29日)若い日に、あなたの創造者を覚えよ。御言葉:伝道者の書11−12章要, 節:伝道者の書12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」2013年の新年修養会を始めたと思ったら、このように年越しのメッセージを聞いています。私たちの教会の最もちびっこのヒョンス君がいつの間にか歩けるようになり、色んなことに興味を示しています。私もいつも大学生だと思っていましたが、最近は物忘れがひどくなり、今年の自分の要節も忘れてしまいました。永久に続くように見える私たちの人生もつかの間に虚しく過ぎ去ります。伝道者の書はこの短い人生をどのように最も楽しく幸せに効果的に生きられるかについて教えています。伝道者の書の著者は知恵の王ソロモンだと言われていますが、彼は人性のあらゆる喜怒哀楽を経験し、人生の黄昏の時期にこの本を書いたとされます。そこで伝道者の書には、ソロモンの全人生からにじみ出る素晴らしい知恵と告白と教訓が生々しく証されています。とくに、11−12章は本書の結論になりますが、著者は若い人に注目しています。皆様の中で若くない方はおられないでしょう。本文を通して、今年を顧み、私たちの創造者である神様を覚えることに年末の時間を投資できるように祈りたいと思います。?。人生の投資と決算(11章)1節をご覧ください。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」少しもったいないと思うかもしれませんが、パンを水の上に投げると、その見返りが後で現れる、という意味です。すなわち、伝道者は自分にあるパンを積極的に投げる人生を生きるように勧めています。当時ソロモン時代に行っていた海上貿易から考えると、貿易船が長い航海を終えてその利潤を持って帰るまで忍耐心を持って商品を引き続き海に浮かべる、すなわち送り続ける必要がありました, hitzig、delitzsch、mendelssohn、wildeboer, 。パウロ宣教師のように事業を行う方、また将来の夢のために勉強に時間を投資する方、職場での成功のために働いている方たちはそういった忍耐心が必要だと思います。一方、ここで「投げよ」という表現は、「見返りを期待せず、善を施す」という意味があるそうです。伝道者は1−10章までで「自然、知恵、人生などの虚無」について話した後、私たちが人生をどのように生きるべきかについて語っており、残りの人生の間、他人のために善良な事を行うことを促しているとも解釈できます。使徒パウロも、私たちが失望せず、積極的に善を行うように勧めています。そうすれば、必ず刈り取ることになります(ガラテヤ6, 9)。有名なタイタニックという映画がありますね。船が沈没する際にジョンハーパー, john, harper, という牧師も一緒に溺れ死にました。当時、船が沈み始めたとき、ハーパー牧師はデッキに残っている人達に、彼らがイエス・キリストを信頼するよう一人ひとり駆け寄り懇願しました。ある人は牧師に、「黙れ」と叫びました。最後に、ハーパー牧師は、海の中で自分の救命具をまだ救われていなかった若い人に渡し、「あなたには、私以上にこれが必要です」と言いました。ハーパー牧師は溺れ死にましたが、彼の救命具をもらったその人は助かりました。その後、その人が生き延びて、4年ぶりに救われた証をしたことがありますが、「私はジョンハーパー牧師によって最後に救われた人です」と言ったそうです。時が良くても悪くてもどんな時でもしっかりとみことばを宣べ伝えるべきです(?テモテ4:2)。またポールレーダー, paul, rader, 牧師が一人の銀行員に福音を伝えたのですが、全く受け入れなかったそうです。そこで、諦めていたのですが、ある日、急に聖霊の声が聞こえて、早く彼に行って伝道するように言われたそうです。そして、急に汽車に乗ってその銀行に立ち入ったら、その銀行員が嬉しく迎えて、「レーダー牧師先生、『ちょっと来てください』と電報を打つために書いておきましたが、とても申し訳なくて送らなかったのですが、どのような用件で来られましたか」と答えたそうです。そこで、レーダー牧師は「あなたは電報を打たなかったのですが、神様が行ってみなさいと言われて来ました」と回答しました。しかし、その話の途中で、急にその銀行員が息苦しくなり、「ぜいぜい」と言いながら、レーダー牧師の懐の中で死んだそうです。結局、その銀行員は最後の瞬間に救われたのです。私たちが年末自分だけではなく、周りを顧み、物質的にも精神的にも乏しい人たちを助けることに私たちの時間を投資しましょう。そうすると、年末の虚無感に陥らず、新年に向かって新しく出発する意欲がわいてくると思います。2節をご覧ください。「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。」この御言葉は、直接的には、悪いことが起こったときに備えて保険に加入しなさいという意味があります。銀行に行くと、資産運営のリスクを減らすためのポートフォリオマネジャーがおり、預金と国債、株式などに分散して投資することでリスクを減らす働きをしています。イエス様のたとえ(ルカ16:1−8)の中にも、不正な管理人が抜けめなく、主人の債務者に対して、債権書の額を半分に下げることで恩を売ったことがあります。イエス様はこのたとえを通して、私たちがこの世の富で友を作るように勧めています(ルカ16, 9)。3−6節をご覧ください。「雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。/風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。/あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。/朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」イスラエルのパルレスティン地方では、風が吹いて来る方向によって雨が降るかどうかが決まります。, 普通、西風や北西風または南西風が吹いてくると、雨が降るそうです, ?列18, ヨブ37, 。そのため、風の動きによって天気を予測しますが、こうした外部の自然界の環境のせいにして全く働かない怠け者の問題について指摘しています。雲や風のような自然界の動きや、母親の体内で子供の成長について私たちは分かりませんが、そうだとしても、手をこまぬいては何の変化も起きません。外部の環境を言い訳にして、何もしない人はいつまでたっても何もできません。今、自分に与えられている時間と能力を使って最善を尽くす必要があります。普通の農夫は朝だけに種を蒔きますが、神様を信じる人は、自分に与えられた能力の種を、朝も夜も休まずに一生懸命に蒔きます。私は偉大な人たちには、ほかの人と異なる姿勢があると思います。ほかと違った能力もあるかもしれませんが、特別に生き方の姿勢が違うと思いました。メジャーリーグにおいて10年連続年間200本安打の記録を達成したヤンキーズのイチロー選手も、小学校3年生から中学校3年生まで、正月の2日を除く363日間、名古屋のバッティングセンターで、毎日平均250球を打ち続けた練習狂として知られていますが、40歳になり、あまり試合に出られなくなった彼の姿勢に驚きました。ヤンキーズのバッティングコーチのケビン・ロング氏は、「イチロー選手ほど準備にこだわる選手は見たことがないと言います。まるで宗教儀式を見ているようだと。毎日1分の狂いもなく6時15分にバッティングボックスに来て、同じ回数だけバッティングをするイチロー選手はここまで来ると精密機械のようだ」と評しました。イチロー選手は、「試合の本番にあまり興味を示さない。本番は準備の確認作業に過ぎないのだから、本番よりも、準備に多くの情熱を注ぎます。」と言ったことがあります。つまり、成功する人生のためには、本番の前に準備が求められます。私たちも新年をしっかりと準備して臨むことができるように祈ります。7−8節をご覧ください。「光は快い。太陽を見ることは目のために良い。/人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。」ここで、太陽は生命を象徴しています。言い換えれば、私たちの人生を意味すると言えます。その意味で、伝道者は、今あるものを楽しみなさいと奨励しているのです。しかし、いずれ人生を決算する「闇の日」が来ることも忘れてはいけません。9−10節をご覧ください。「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。/だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」引き続き、伝道者は、若い人たちは若さを楽しむように言っています。ここでの若さは、40代までを意味すると言っている方もいます。そのように解釈すると、ここの一部の方を除いてみんな若い方ですね。もちろん、50代以上の方たちも歳は若くないとしても、心は若いと思います。私たちの教会のすべての方は心の面ではみんな若いと思いますが、若い日の間は私たちの心を楽しませる必要があります。毎日を喜びの中で生きても、私たちの人生は長くありません。いつも悲しんだり、心配したりしながら、暗い人生を過ごすことはもったいないです。しかし、その楽しみは、神様を知らない人々のようになってはいけません。「しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」この御言葉のように、必ず神様の裁きがあることを認めて、神様の中で与えられた夢とビジョンを持って喜び、楽しむことです。私たちに与えられた力と能力を使えない時が来ます。医者先生たちも50代になると、手が震えて、オペ(手術)ができなくなるそうです。いくらすごい能力を授かったとしても、若いうちにその能力を発揮しないと発揮できなくなる時が来ます。?。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(12章)1節をご一緒に読んでみましょう。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」」伝道者の書もいよいよクライマックスに来ました。「空の空。すべては空。」(伝道書1:2)という言葉で始まった伝道者の書ですが、この世の中のどんなものをもってしても、この虚しさ(空虚感)をどうすることもできません。それが、すべてのことを経験した伝道者自身の人生経験の結果でした。けれども、彼は単に人生の空しさを言いたかったのではありません。神なき人生の空しさを言ったのです。伝道者は、若い人に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」と語りかけます。神を知るのに早すぎることはありません。私たちを造り、私たちの人生に目的をもっておられる神様を覚えて生きることは何と幸せなことでしょう。彼が提示した最終的な結論はこうです。13−14節を一緒に読んでみましょう。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。/, 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」私たちにとって何ができるとか、何を知っているとか、何を持っているとかと言うことにまさって大切なことは神を神とし、この方に従うことなのです。それは、そのことによってこの世における祝福が伴うことを知るからではなく、私たちが人間である以上大切にすべきことなのです。若ければ若いほど、早ければ早いほど創造者を覚えることは重要なことです。なぜ、若い日に創造主神様を覚えるべきかについて、ある牧師先生は二人の例を紹介したことがあります。一人目は、「荒城の月」の作曲者として有名な瀧, たき, 廉太郎, れんたろう, 氏(1879−1903年)であり、彼は敬虔なクリスチャンホームに生まれました。16歳で東京音楽学校に入学を許され、彼の創作三曲が文部省の音楽教科書に採用されました。20歳(1900年10月7日)に洗礼を受けてクリスチャンになったそうです。彼はドイツに留学し、天才的作曲家として将来を嘱望されましたが、肺結核にかかり、23歳でこの世を去りました。非常に残念ですが、彼の早死にしたことを考えると、若いとき、神様を信じることはとても大切です。二人目は、最近nhk大河ドラマ「八重の桜」にも出ましたが、津田塾大学の創立者津田, つだ, 梅子, うめこ, 氏(1864, 1929年)は、日本最初の留学生として、明治4年(1871年)に岩倉欧米視察団一行とともに咸臨丸でアメリカに渡りました。日本を出る時は6歳でした。ワシントンのランマン夫妻の許から、小学校に通い9歳でバプテスマを受けました。その時、牧師は、彼女が幼いので幼児洗礼の形で行うと言ったら、本人は、成人のバプテスマを求めたので、その信仰を確かめて見ると、ずっと年上の子よりも確かであったということです。その信仰によって神の栄光が現われたのです。自分の創造主である神様を知るのは、早ければ早いほど良いことが分かります。そうすれば自分の高ぶりや貪欲に支配されないで、有意義な一生を神様に捧げることができるでしょう。もちろん、年老いてからでも遅くはありませんが、若いとき自分に与えられた神様の使命と能力を悟ることはとても掛け替えのないことだと思います。私たちがイエス・キリストを通して創造主である目に見えない父なる神様に結びついたその日から、永遠の命の人生が始まったのです。使徒パウロは、「外なる人は衰えても、内なる人は日々に新しくされる」と言いました(?コリ, 16)。使徒パウロの生き方のように、私たちも、2014年も、命に躍動して永遠の若い人となって生き通していけるように祈ります。私はまだ40代半ばですが、物忘れがひどくなっています。今年を顧みると、自分の1年の要節が何かが思い出されなくなりました。その話をエステル宣教師に言ったら、「ひどいね。最初から、あなたの要節はどんな意味でつかんだかよく分からなかったよ。」と言ってくれました。その時、これからは「エステルと同じ要節にしたほうが忘れず良いかも」と答えて、二人で大笑いにしたことがあります。私は今年をスタートする時、パウロのように生きたいと思い、使徒19:21b「そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」と言った。」にしました。使徒パウロは年を取っても、その情熱は冷えず、ますます強くなりました。私はパウロのような情熱を学び、もっと高い目標のためにチャレンジすることを祈りましたが、今年の1年を顧みると、ネイティブの外国人学生たちをはじめ、東大の学生たちの前で英語講義を行うようになったこと、今までbricsのブラジル、インド、中国、南アフリカは訪問しましたが、今年最後にロシアの訪問ができて、2冊目の英語の本を完成できたことを考えると、神様が今年の要節通りに導いてくださったことを悟りました。今年1年間の東京ubfを顧みると、神様の多くの祝福がありました。○○姉妹、○○姉妹、金潤喜姉妹、椙江亮介兄弟の洗礼式がありました。また、二人の牧者が新たに立てられました。またサムエル君とサラちゃんが大学に入り、大学生たちのヨハネチームが形成されました。さらに、siegmund宣教師が信仰結婚をし、張パウロ宣教師は新しく会社を設立されました。ここのすべての方々にも大きな恵みが与えられたと思います。私たちが1年を顧み、1年間神様の導きに感謝し、また2014年も私たちの創造者神様を覚えてスタートすることができるように祈ります。

13Roman13.福音信仰と福音宣教

13roman13, 福音信仰と福音宣教, 2013年ローマ人への手紙第13講信仰告白と福音宣教御言葉:ローマ人への手紙10:1−21要 節:ローマ人への手紙10:91.1−3節を読んでみましょう。パウロが心の望みとし、また神様に願い求めているのは、何でしょうか。しかし、彼らが救われない理由は何でしょうか。2.4−7節を読んでみましょう。神様の義は何でしょうか。律法による義は、何を要求するのでしょうか。信仰による義は、律法による義と、どのように違いますか。3.8−10節を読んでみましょう。人は、どのようにして義と認められ、救われるのでしょうか。イエス様を主と口で告白し、心で信じることは、どんな点で大切なことなのでしょうか。4.11−17節を読んでみましょう。人は、どのようにして主の御名を呼び求めるように、なるのでしょうか。福音を宣べ伝えることの重要性について、考えてみましょう。5.18−21節を読んでみましょう。イスラエルはなぜ、「御言葉が聞こえなかった」とか、「知らなかった」と弁明することができないのでしょうか。彼らに対する神様の御心は何でしょうか。

13Roman10.御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら

13roman10, 御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら, 2013年ローマ人への手紙第10講(新聖歌415)もし御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら御言葉:ローマ人への手紙8:1−17要 節:ローマ人への手紙8:111.1−4節を読んでみましょう。キリスト・イエスにある者は、なぜ今は、罪に定められることが決してないのでしょうか。律法にはできなくなっていることを、どのようにして神様はしてくださったのでしょうか。2.5−8節を読んでみましょう。「肉に従う者」と「御霊に従う者」は、それぞれ、どんなことを考えるのでしょうか。「肉の思い」と「御霊による思い」がもたらす結果は、どのように違いますか。肉による思いは、何に対して反抗することになるのでしょうか。3.9−11節を読んでみましょう。「きりすとのもの」は、そのうちにだれが住んでおられますか。キリストが私たちの中に住んでおられることが、なぜそれほどまでに、大切なことなのでしょうか, 。4.12,13節を読んでみましょう。私たちが、肉に従って生きてはいけない理由は、何でしょうか。御霊によって、「からだの行ないを殺す」なら、私たちはどうなるのでしょうか。5.14−17節を読んでみましょう。神様の御霊によって導かれる人が受ける祝福は何でしょうか, 。「神の子ども」である私たちが受ける祝福は何でしょうか。そして、キリストと栄光をともに受けるためには、どのような覚悟も必要なのでしょうか。

13Roman11.すべてのことを益としてくださる神様

13roman11, すべてのことを益としてくださる神様, 2013年ローマ人への手紙第11講すべてのことを益としてくださる神様御言葉:ローマ人への手紙818−39要 節:ローマ人への手紙8:281.なぜクリスチャンは、この世で苦しみを受けるのでしょうか, 17,?テモ3, 12,ピリ1, 。しかし、「今の時のいろいろの苦しみ」に対して、パウロはどのように考えていますか, 18,?コリ4, 。クリスチャンとして受ける苦しみに対して、私たちはどのように受け止めるべきなのでしょうか, ?ペテ4, 。2.神様は被造物をどのようにお造りになりましたか, 25,ロマ11, 。しかし、神様の栄光であったはずの被造物が、どのようにして」呪われるようになりましたか, 。その被造物が、切実な思いで、何を待ち望んでいるのでしょうか, 。3.また、御霊の初穂をいただいている「私たち自身」は、心から何を待ち望んでいるのでしょうか, 。この望みによって救われた私たちは、どのように生きるべきでしょうか, 。御霊は、弱い私たちを、どのように助けてくださいますか, 。なぜ神様は、助け主なる御霊の思いが何であるのか、をよく知っておられるのですか, 。4.神様を愛し、神様のご計画に従って召された人々のためには、神様はどのようにしてくださるのですか, 。神様が、永遠の昔からあらかじめ定めておられた「ご計画」とは、何でしょうか, 。すべてのことを働かせて益としてくださる神様について、話してみましょう。5.神様が私たちの味方である「あかし」は何でしょうか, 。なぜ神様は、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたのでしょうか, 33,ヨハ3, 16,?ペテ2, 。キリスト・イエスが私たちの心強い味方である根拠は何でしょうか, 。6.私たちをキリストの愛から引き離すのはだれでしょうか, 。しかし、このような試練の中にあっても、私たちは、私たちを愛してくださったキリストによって、どのような者になりましたか, 37,?ヨハ5, 。キリスト・イエスに愛されている私たちは、何を確信しているのでしょうか

13Roman08.義の器として神にささげなさい

13roman08, 義の器として神にささげなさい, 2013年ローマ人への手紙第8講あなたがたの手足を義の器として神にささげなさい御言葉:ローマ人への手紙6:1−23要 節:ローマ人への手紙6:131.1−5節を読んでみましょう。なぜ、私たちは、「恵みが増し加わるために」という口実で、罪の中にとどまってはいけないのでしょうか, 。罪に対して死んだ私たちと、キリスト・イエスにつくバプテスマとは、どんな関係にあるのですか, 。2.6−10節を読んでみましょう。また、私たちは何を知っていますか, 。私たちの古い人は、どのようにして、罪から解放され、キリストとともに生きるようになりましたか, 。キリストは、罪に対して、何度死なれたのでしょうか, 。3.11−14節を読んでみましょう。罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者は、どのように生きるべきでしょうか, 。私たちが、私たち自身と、その手足を義の器として神様にささげるためには、どのように生きるべきでしょうか。4.15−19節を読んでみましょう。「罪の下にあるのだから罪を犯そう」ということは、なぜ絶対にあり得ないことでしょうか, 。私たちは、もとは罪の奴隷でしたが、今はだれの奴隷となりましたか, 。さらに、私たちの手足を義の奴隷としてささげ、何に進むべきでしょうか, 。5.20−23節を読んでみましょう。罪の奴隷であった時は、どんな実を結びましたか, 。しかし、罪から解放されて神様の奴隷となることで、何を得るようになりましたか

13Roman09.だれが、・・・救い出してくれるのでしょうか

13roman09, だれが、・・・救い出してくれるのでしょうか, 2013年ローマ人への手紙第9講(370番)だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。御言葉:ローマ人への手紙7:1−25要 節:ローマ人への手紙7:24,251.1−4節を読んでみましょう。律法が人に対して権限を持つのは、どんな期間だけですか。私たちは、どのようにして律法から自由になりましたか。その目的は何ですか。2.5,6節を読んでみましょう。私たちが肉であった時は、律法は私たちにどのような実を結ばせましたか。しかし、律法から解放された今は、どのようにして神様に仕えているのですか。3.7−13節を読んでみましょう。律法と罪はどんな関係なのでしょうか, 。律法は、どのようにして、私たちを死に導きましたか, 。それによって、何が明らかにされましたか, 。4.14−21節を読んでみましょう。パウロはなぜ、自分がしていることが分からないのでしょうか, 。彼が願う「善」を行なわないで、願わない「悪」を行なう理由は何でしょうか, 。それを通して、彼は何を知ることができたのでしょうか。5.22−25節を読んでみましょう。私のからだの中に、どんな戦いがありますか。どちらが勝つのでしょうか, 。罪の律法のとりこになっている者は、どのように嘆き悲しんでいるのでしょうか, 。だれが、この死のからだから、私たちを救い出してくれるのでしょうか

13Roman17.隣人を喜ばせる生き方

13roman17, 隣人を喜ばせる生き方, 2013年ローマ人への手紙第17講, 隣人を喜ばせる生き方御言葉:ローマ人への手紙14:1−15:13要 節:ローマ人への手紙15:21.14:1−6節を読んでみましょう。信仰を持っている人は、信仰の弱い人に対して、どのような態度を取る出来でしょうか, 。なぜ食べ物のことで他人をさばいてはいけないのでしょうか, 。「日を守る人」と「食べる人」は、だれのために行なうべきでしょうか, 。2.7−12節を読んでみましょう。私たちは、だれのために、生きるべきでしょうか, 。イエス様のことを考えると、私たちはなぜ、兄弟をさばいてはいけないのでしょうか, 。すべての人は、神様の御前にひざまづいて、何を申し開きすることになりますか, 。3.13−17節を読んでみましょう。私たちは何を決心すべきでしょうか, 。たとえ、主イエスにあって、汚れているものは何一つないとしても、なぜ私たちは愛によって行動すべきでしょうか, 。神の国は、飲み食いのことではなく、どんなことでしょうか, 。4.18−23節を読んでみましょう。キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また、人々にも認められるために、何を追い求めるべきでしょうか, 。すべての物はきよいのですが、何が良いことになるのでしょうか, 。神様の御前で、私たちの信仰を保つことが、どれだけ大切なことなのでしょうか, 。5.15:1−7節を読んでみましょう。力のある者は、力のない人たちに対して、どのような態度を取るべきでしょうか, 。また、隣人に対して、どのようにすべきでしょうか, 。私たちを受け入れてくださったキリストのように、私たちはお互いにどのような態度を取るべきでしょうか, 。6.8−13節を読んでみましょう。なぜキリストは、割礼のある者のしもべとなられたのでしょうか, 。異邦人が、あわれみのゆえに、神様をあがめるようになる根拠は何でしょうか

13Roman18.祭司の務め

13roman18, 祭司の務め, 2013年ローマ人への手紙第18講祭司の務め御言葉:ローマ人への手紙15:14−33要 節:ローマ人への手紙15:161.14,15節を読んでみましょう。パウロは、ローマの聖徒たちに対して、何を確信していましたか。彼がローマ人の手紙を書くようになった動機は何でしょうか。2.16−19a節を読んでみましょう。パウロは神様からどんな恵みを受けましたか。また、彼に与えられた祭司の務めは、具体的には何をする務めでしょうか。3.19b−21節を読んでみましょう。パウロは、どんな所に福音を伝えることを、切に求めていましたか。彼の開拓精神について、考えて見ましょう。4.22−33節を読んでみましょう。パウロの宣教計画は何でしょうか。また彼は、ローマの聖徒たちに、どんなことを切にお願いしているのでしょうか, 。ここで、パウロの宣教に対するビジョンについて、考えてみましょう。