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13Mark06.人手によらない神様の働き

13mark06, 人手によらない神様の働き, 2013年マルコの福音書第6講, 344)人手によらない神様の働き御言葉:マルコの福音書4:21−41要 節:マルコの福音書4:28,291.あかり(ともし火)を持って来るのは何のためでしょうか, 。それと同じように、隠れているもの(神様の奥義)やおおい隠されているものは、どのようになるのでしょうか, 。どのような人がそれを悟ることができるのでしょうか, 。2.私たちは何に注意すべきでしょうか, 。「量り(枡)」とはどのようなものでしょうか。大きな量りで量るその人は、どのようなことが増し加えられるのでしょうか, 25,cf, ヨハ1, 。3.「神の国」は、どんなものにたとえられますか, 。人が寝起きしている間に、種はどのように育ちますか, 。「人手によらず・・・実ります。」, 、この御言葉は、何を物語っているのでしょうか, ?コリ3, 。実が熟して収穫の時が来たら、人は何にずかるのでしょうか, 。4.また、「神の国」は、何にたとえられていますか, 。からし種はどのようなものですか。どれが蒔かれると、どこまで生長するのでしょうか, 。イエス様は、このような多くのたとえを、どのように話されましたか, 。5.イエス様は弟子たちに何を提案されましたか, 。イエス様一行が乗った舟は、何に襲われましたか, 。舟が沈みそうになった時にも、イエス様は何をしておられましたか。弟子たちは、どのような気持ちで、イエス様を呼び起こしたのでしょうか, 。6.起き上がったイエス様は、風と湖に向かって、何と言われましたか。すると、どうなりましたか, 。なぜ、弟子たちは、そんなに怖がったのでしょうか, 。風や湖まで静められたイエス様について、話してみましょう。

13Mark07.悪霊につかれた人を癒してくださったイエス様

13mark07, 悪霊につかれた人を癒してくださったイエス様, 2013年マルコの福音書第7講悪霊につかれた人を癒してくださったイエス様御言葉:マルコの福音書5:1−20要 節:マルコの福音書5:19,201.1−3a節を読んでみましょう。イエス様がゲラサ人の地に着いた時、どんな人がイエス様を迎えましたか。なぜ彼は墓場に住み着いていたのでしょうか。2.3b−5節を読んでみましょう。人々は、彼をどのように扱っていましたか。なぜ彼を鎖でつないでおいたのでしょうか。彼は、どれだけ深刻な状態に、ありましたか。3.6−8節を読んでみましょう。彼は遠くからイエス様を見つけると、何と言って叫びましたか。なぜ彼は苦しんでいたのでしょうか。苦しんでいた彼を、イエス様はどのように助けてくださいましたか。4.9−15節を読んでみましょう。イエス様は、悪霊の正体を、どのように明らかにされましたか。その人は、自分はだれだ、と答えましたか。悪霊は、イエス様に、どこに追い出すようにと懇願しましたか。汚れた霊が乗り移った豚の群れは、どうなりましたか。また、レギオンを宿していた人は、どうなりましたか。5.16−20節を読んでみましょう。この出来事を見ていた人たちは、イエス様に何を願いましたか。悪霊につかれていた人は、イエス様に何をお願いしましたか。イエス様は彼にどんな方向を与えましたか。彼はどのように従いましたか。その結果、どうなりましたか。

13Mark08.恐れないで、ただ信じていなさい

13mark08, 恐れないで、ただ信じていなさい, 2013年マルコの福音書第8講(200)恐れないで、ただ信じていなさい御言葉:マルコの福音書5:21−43要 節:マルコの福音書5:361.会堂管理者のヤイロはイエス様に何をお願いしましたか, 。彼の娘に対する愛と、イエス様に対する信仰について、話してみましょう。イエス様は、彼の願いに対して、どのようにされましたか, 。2.十二年の間長血をわずらっている女が病を治すために費やした時間とお金、その苦労について、話してみましょう, 。ところが、彼女はイエス様のことを耳にした時、何をしましたか, 。彼女は、どのような信仰で、イエス様の着物にさわったのでしょうか, 。その結果、どんな驚くべきことが起こりましたか, 。3.イエス様がご自分の着物にさわった人を知ろうとして、見渡しておられた時、なぜその女は恐れおののいたのでしょうか, 。しかし、彼女がイエス様に真実を余すところなく打ち明けた時、どんな祝福を受けましたか, 。4.イエス様が、また話しておられた時、ヤイロはどんなに絶望的な知らせを聞きましたか, 。ところが、イエス様はヤイロに何と言われましたか, 。ここで、イエス様が求めておられる信仰について、話してみましょう。5.イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネと一緒にヤイロの家に着いた時、人々は何をしていましたか, 。イエス様は彼らに何と言われましたか, 。人々の反応はどうでしたか, 。しかし、イエス様はどのようにして、ヤイロの娘を生き返らせましたか, 。ここで、死者を生き返らせるイエス様について、話してみましょう, ヨハネ11, 26,?コリント15

13Mark09.行って見て来なさい

13mark09, 行って見て来なさい, 2013年マルコの福音書第9講行って見て来なさい御言葉:マルコの福音書6:30−44要 節:マルコの福音書6:381.30−33節を読んでみましょう。使徒たちはイエス様に何を報告しましたか。イエス様は彼らになぜ、「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われたのでしょうか。ところが、そこに誰が先に着いてしまいましたか。多くの人々が、それほどまでに、イエス様を捜した理由は何でしょうか。2.34節を読んでみましょう。イエス様は多くの群衆を見て、どのように思われましたか。「羊飼いのいない羊」は、どれだけかわいそうな存在なのですか。イエス様は、彼らのために、何をされましたか。3.35−37a節を読んでみましょう。弟子たちは、食べる物をどのように解決しようとしましたか。しかし、イエス様の方向はどのように違っていましたか。イエス様は、なぜ彼らに、「何か食べる物を上げなさい。」と言われたのでしょうか。4.37b,38節を読んでみましょう。弟子たちは、多くの群衆を食べさせるためには、どれくらいのお金が必要だと考えましたか。しかし、イエス様は弟子たちに、何と言われましたか。彼らには、何がありましたか。5.39−44節を読んでみましょう。イエス様は、五つのパンと二匹の魚で、どれだけ豊かに食べさせてくださいましたか。このイエス様はどんな方なのでしょうか。弟子たちは、この出来事を通して、何を学んだのでしょうか。

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13Sbc1.神を信じなさい

13sbc1, 神を信じなさい, 2013年 日本ubf夏修養会第1講, 新聖歌282, 神を信じなさい御言葉:マルコ11, 25要 節:マルコ11, 22、231.12, 14節を読んでみましょう。イエス様は葉の茂ったいちじくの木から何を期待されましたか。イエス様はその木に向かって何と言われましたか。2.15, 17節を読んでみましょう。人々は宮で何をしてましたか。そこで、イエス様は何をなさいましたか。もともと宮はどんなところなのでしょう。3.18, 19節を読んでみましょう。, 宗教指導者たちがイエス様を殺そうと相談した理由は何ですか。夕方になると、イエス様の一行はどこに行きましたか。4.20, 23節を読んでみましょう。いちじくの木が根まで枯れているのを見たペテロは、イエス様に何と言いましたか。イエス様は何と答えられましたか。信仰の能力を体験しようとするとき、告白しなければならないことは何でしょうか。信仰の能力はどんなに大きいでしょうか。5.24, 25節を読んでみましょう。祈って求めるものに対しては、どんな確信を持つべきでしょうか。信仰と祈りの関係について話してみましょう。神様に祈っている時、誰かに対して恨み事があるなら、どうするべきでしょうか。人を赦すことの重要性について話してみましょう。

13Mark11.そうまで言うのですか

13mark11, そうまで言うのですか, 2013年マルコの福音書第11講, そうまで言うのですか御言葉:マルコの福音書7:24−37要 節:マルコの福音書7:291.イエス様がツロの地方へ行かれた時、どんな女性がイエス様のところにやって来ましたか, 。彼女はイエス様に何を願い続けましたか, 。イエス様は何とお答えになりましたか, 。なぜイエス様はそのようにお答えになったのでしょうか。2.イエス様の話を聞いた彼女は、どのように反応しましたか, 。イエス様が、彼女の答えを聞いた時、どれだけ驚かれましたか, 。また、彼女の信仰に対して、どのように応えてくださいましたか, 。イエス様の御前での、スロ・フェニキヤの女性の姿勢と信仰について、話してみましょう。3.イエス様が再び、ガリラヤ湖に来られた時、人々はどんな人を連れて来て、助けを求めましたか, 。イエス様は、彼をどのように助けてくださいましたか, 。彼を助けてくださったイエス様の心情について、話してみましょう。4.すると、彼にはどんなことが起こりましたか, 。それから、イエス様は何を命じられましたか, 。しかし、なぜイエス様の働きが言い広められるようになったのでしょうか

13Mark12.あなたはキリストです

13mark12, あなたはキリストです, 2013年マルコの福音書第12講, あなたは、キリストです御言葉:マルコの福音書8:27−38要 節:マルコの福音書8:291.イエス様は、ピリポ・カイザリヤに向かって行かれる途中、弟子たちにどんな質問をされましたか, 。人々はイエス様をだれだと言っていましたか, 。2.イエス様は、また弟子たちに何を尋ねられましたか, 。ペテロは何と答えましたか, 。「キリスト」とはどんな意味なのでしょうか。イエス様をキリストとして告白することは、どれだけ大切なことなのでしょうか, ロマ10, 。3.イエス様は弟子たちに何を教え始められましたか, 。イエス様が話された事柄に対するペテロの反応はどうでしたか, 。イエス様はペテロを叱って、何と言われましたか, 。「自分を捨て、自分の十字架を負う」とは、何を意味するのでしょうか, 。4.イエス様は、どんな人が「いのちを救う」と言われましたか, 。人のいのちに対する、イエス様の見解は何ですか, 。なぜイエス様を恥じるようなことをしてはいけないのでしょうか

13Mark13.信じる者にはどんなことでもできる

13mark13, 信じる者にはどんなことでもできる, 2013年マルコの福音書第13講, 信じる者には、どんなことでもできる御言葉:マルコの福音書9:14−29要 節:マルコの福音書9:231.イエス様の一行が山から帰って来ると、弟子たちは何をしていましたか, 。イエス様の質問に、群衆の一人は何と答えましたか, 。2.一部始終を聞かれたイエス様は何と言われましたか, 。弟子たちは、どんな点で不信仰な人たちでしたか。イエス様は、「その子」をどのように助けようとされましたか。3.その子をイエス様のところに連れて来た時、霊はどんな反応を示しましたか, 。その子に起こった症状は、いつ頃から続いたことですか, 。子を滅ぼそうとする霊の働きは、どこまで及びましたか, 。父親の心はどれだけ苦しいものだったのでしょうか。4.父親は、どのように、イエス様に助けを求めましたか, 。イエス様は彼にどんな信仰を持つように、助けてくださいましたか, 。イエス様が私たちに求められる信仰について、真剣に考えて見ましょう。5.イエス様の御言葉を聞いた父親の姿勢がどのように変わりましたか, 。イエス様は、汚れた霊を叱って、どのように命じられましたか, 。苦しんでいた子は、どのようになりましたか。6.この出来事を見た弟子たちは、イエス様にどんな質問をしましたか, 。なぜ彼らは汚れた霊を追い出すことができなかったのでしょうか, 。信仰と祈りの関係について、考えてみましょう

13EZRA3M 神の宮の完成

13ezra3m 神の宮の完成, 2013年エズラ記第3講神の宮の完成御言葉:エズラ記5, 6章要, 節:エズラ記6, ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。 先週、私たちは張パウロ宣教師を通して神殿の再建と妨害について学びました。建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、ユダヤ人は主を賛美し、感謝しながら、互いに「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」と歌いあいました。ところが、それを待っていたかのように、神の宮の再建を妨害する人々も現れました。彼らはペルシヤ王にユダヤは反抗的で危険な民族だ、もし彼らの町が再建され、城壁が修復されるなら、税金を納めなくなるし、王に反逆するようになるでしょう。だから、彼らが進めている神殿再建を中止させるべきです。」と言う内容の手紙を送りました, 。こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止されました, 。ユダヤ人は意気消沈し、希望を失ってしまいました。しかし、神様は神の宮の完成をあきらめませんでした。神様はイスラエルの民に御目を注がれ、彼らを助けてくださいました。今日の御言葉を通して神の宮の再建を完成させてくださる神様の愛と力の働きを学ぶことができるように祈ります。?.御目を注いで守ってくださる神様の愛, 5章1節をご覧ください。預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言しました。二人の預言はハガイ書とゼカリヤ書に書いてあります。ハガイは「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。…山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。…, ハガイ1章, 」と預言しました。ゼカリヤは御使いが彼に言ったことを持って「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。, 」と伝えました。すると、どんなことが起こりましたか。 2節をご覧ください。「そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子は立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らと一緒にいて彼らを助けた。」とあります。素晴らしい光景です。御言葉を伝えられると、それに応答して立ち上がる人々がいました。預言の言葉を聞くだけではなく、それを受け入れて行動したのです。御言葉を伝えた預言者たちも、ただ預言しただけではなく、神の宮を建て始める人たちと一緒に工事を手伝いました。宗教指導者たちの中には良い言葉を語るけれども、自分の手を汚さない人もいます。しかし、ハガイとゼカリヤは主の御言葉を語るだけでなく、自分たちもその御言葉に従って言ったのです。これは私たちが目指す教会の姿でもあります。1, 1聖書勉強や主日礼拝のメッセージを通して伝えられる御言葉に従って立ち上がり、御言葉を教えている牧者や宣教師も一緒に実践して行くのです。自分のことで恐縮ですが私は皿洗いやトイレの掃除をしている時に「牧師先生がやるんですか」と言われることもあります。しかし、当たり前のことです。牧師だからこそ聖徒たちと同じことをやって行かなければならないでしょう。そうすることによって初めて神様の御言葉は生きたものとして伝えられて行きます。すると、ノンクリスチャンの反応も変わって来ます。  3、4節をご覧ください。「そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか」と尋ねた。」とあります。川向こうの総督タテナイは宮を建てないことを望んでいます。何とかして宮を建てないようにすることがタテナイの使命です。先週、4章で学んだように、ペルシヤの総督たちは根本的にイスラエルの神殿再建を好みませんでした。しかし、彼らの反応は変わっています。彼らがダリヨス王に書き送った手紙の写しは友好的になっています。8節を見ると、イスラエルの神殿を指して「大いなる神の宮」として表現しています。11節ではイスラエルの指導者たちを指して「天と地の神のしもべ」と呼んでいます。また、ユダヤの長老たちの返事もそのままに写しています。「私たちの先祖が、天の神を怒らせたので、神は彼らをカルデヤ人であるバビロンの王ネブカデネザルの手に渡されました。…バビロンの王クロスの第一年に、クロス王はこの神の宮を再建するよう命令を下しました。」と書いています。それから、最後に王のご意見を求めています。17節をご一緒に読んでみましょう。「ですから今、王さま、もしもよろしければ、あのバビロンにある王の宝物倉を捜させて、エルサレムにあるこの神の宮を建てるためにクロス王からの命令が下されたかどうかをお調べください。そして、このことについての王のご意見を私たちにお伝えください。」タテナイたちは以前のように宮を建てないように誹謗する手紙を送りませんでした。ただ、事実関係を調べて王のご意見を伝えてくださるようにお願いしています。彼らが、どうしてこんなに友好的になったのでしょうか。ユダとエルサレムの住民を非難する告訴状を書いて送ったのに、今回はユダヤ人の意見までもそのまま送ったのです。なかなか理解しがたいことです。ただ、本文の流れから二つのことを発見することができます。その一つはユダヤ人が預言者の伝える御言葉を聞いて神の宮を建て始めたことです。それとともに預言者たちも彼らを助けたことです。もし、ユダヤ人たちがハガイやゼカリヤの言うことを信じず、神の宮を建て始めようとしなかったら、どうなっていたでしょう。総督タテナイたちはやって来なかったでしょう。当然手紙も送らなかったでしょう。ところが、ユダヤ人は預言者たちが伝える預言の言葉を聞いて立ち上がり、預言者たちも彼らと一緒に協力したのです。まずユダヤ人たちが心を一つにして神の宮を建て始めました。すると、周りの人々も協力的な人に変わって来たのです。神様は、ご自分の民の業績を見て祝福するのではなく、神様のために仕えようとする者を祝福してくださいます。御言葉を聞いて立ち上がる人を祝福し、その目標を達成するように助けてくださいます。始めもしないで「だめだ」と思ったらだめです。しかし、神の宮を建て始めたユダヤ人のように、御言葉を信じて建て始めると神様が助けてくださるのです。多く人々は新年を迎えても年賀状を送ったりもらったりするだけで過ごします。しかし、御言葉を要節にして自分を新しく建て始めようとするなら、神様が助けてくださいます。去年要節シンポジウムの時に、多くの方が神様の助けを経験して告白しました。今年も一月が終わろうとしていますが、何にも始めようとしなければ何も始まりません。しかし、神様を信じて御言葉に頼って新しく決断するなら、神様が助けてくださいます。崩れてしまった祈り生活を新しく建て始めようと強く決意するなら、助けてくださるのです。そういう意味で私はヨシュアチームの宣教師たちに提案します。崩れている土曜日特別早天祈祷会を立て始めることです。どうか、神様が哀れんでくださいますように祈ります。その二つ目は神様の御目が注がれていたからです。神様がユダヤ人の味方になり、守ってくださったのです。5節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。」ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので反対者たちは神殿再建を止めさせることはできませんでした。神様はご自分の民に目を注がれ、守ってくださいます。申命記11, 12節をみると「そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目を留めておられる地である」とあります。私が4人の子どもたちを育てながら分かったことの一つは母親の目が子どもに注がれていることです。父親である私は気づいていないことでも母親は分かっているし、夜中でも子どもたちの行動に目を留め、ひとりひとりの必要に適格に対処していることに感心させられました。私たちの神様は母親どころではありません。私たちの心の中まで目を留め、守ることのできるお方です。年の初めから終わりまで、つまり絶えず愛と関心を持って私たちの教会と私たちひとりひとりに目を留め、守ってくださいます。今年も私たちの敵である悪魔は私たちが志を持って始めることを妨害するでしょう。神様の御言葉に基づいて出発しましたが悪魔の妨害もあるのです。しかし、神様の御目が注がれていることを忘れてはいけません。神様が守ってくださいます。昨日、朝、ホセ安宣教師からホンジュラスのカンダビデ宣教師家族が銃で撃たれたというメールが届きました。私はびっくりして祈り、マリヤ宣教師にも知らせました。ところが、神様は彼らを守ってくださいました。午後にメールを開いてみるとエリサベツ宣教師がgrace, lee宣教師に送ったメールが届いていました。それを紹介します。「同労者様の祈りが慰めと力になります。私たちはサンペドロに住んでいながら一日に20名も銃で撃たれ死んでいく悲惨で恐ろしいニュースを耳にしていました。今まで神様が私たちを守っておられたことを悟ります。今日は信号待ち中…降り注ぐ銃弾によって車に穴ができ、ガラスが粉々になりました。でも、神様がご自分の御手で防いでくださいました。ダビデ宣教師と私のいのちを守ってくださいました。子どもたちは驚いて泣きましたが、私たちのいのちの主人が神様であることを学び、家族一緒に手を合わせて祈りました。私たちにいのちが許されるその日まで復活信仰と神の国に対する真の望みを持って二世宣教師たちと羊たちに忠実に仕えることができるように祈ります。ダビデ宣教師は黙示録2, 10節「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と言う今年の要節を3人の姉妹たちと分かち合い、力を合わせて祈ってからを彼女たちと別れたばかりでした。ところが、その要節が実際に働きました。私がいつも「今日が最後だ」と思い、死に至るまで忠実であるように祈ります。皆様のお祈りを感謝します。―ホンジュラスのカンダビデ・エリサベツよりー」 ダビデ宣教師は頭と心臓に打たれましたが深く入り込まなかったのです。医者は今までなかったことで天使が防いでくださったことしか言えないと言ったそうです。本当に、神様がご自分の民を堅く守ってくださるお方です。パウロは言いました。「…神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。, ローマ8, 31〜37, 」?.すべてのことを働かせて益としてくださる神様の力の働き, 6章1、2節をご覧ください。ダリヨス王は命令を下し、宝物を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、メディヤ州の城の中のアフメタで、一つの巻き物が発見されました。その中に次のように書かれていました。3〜7までをご一緒に読んでみましょう。クロス王の第一年に、クロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めよ。宮の高さは六十キュビト、その幅も六十キュビト。大きな石の層は三段。木材の層は一段にする。その費用は王家から支払う。また、ネブカデネザルがエルサレムの神殿から取って、バビロンに運んで来た神の宮の金、銀の器具は返し、エルサレムの神殿に運び、一つ一つもとの所に戻す。こうして、それらを神の宮に納める。」「それゆえ、今、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚で川向こうにいる知事たちよ。そこから遠ざかれ。この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちにこの神の宮をもとの所に建てさせよ。」巻物には、神殿の構造についての詳しい指示、またその予算も記録されていたことが分かります。さらに、8, 12節を見ると、ダリヨス王は神殿再建を続けさせることだけでなく、手伝わなければならないと命じています。その建築に必要なすべてを支援するようにしました。天の神様にささげるいけにえや日常の糧までも支援するように命じました。さらに、ダリヨスの命令をまちがいなく守るように強く命じています。このように、ダリヨス王が書き送ったので、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイとその同僚たちとは、これをまちがいなく行ないました。結局どうなりましたか。 14、15節をご一緒に読んでみましょう。「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」とあります。ここで、ダリヨス王の治世第6年、アダルの月とは紀元前515年の三月あたりです。そして、ネブカデネザルがエルサレムの神殿を破壊したのは70年と半年前の586年8月頃でした。つまり、エレミヤが預言した七十年の捕囚生活が預言の通りに成就しているのです。神様の預言は本当に確かですそこで、イスラエル人、すなわち、祭司、レビ人、その他、捕囚から帰って来た人々は、この神の宮の奉献式を喜んで祝いました。彼らは神様がクロス王の心を動かし、ダリヨス王を用いて神の宮の完成を成し遂げられた神様の恵みに感動し、感謝したでしょう。異邦人の王までも用いて神の宮を建てて成功するようにしてくださった神様の恵みを感激し、喜んで祝ったはずです。19節から22節を見ると過越のいけにえをささげました。彼らは捕囚から帰って来たイスラエル人と、イスラエルの神、主を求めて、この国の異邦人の汚れから縁を絶って彼らに加えったすべての者たちと一緒に過越のいけにえをほふって食べました。そして、彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守りました。彼らは神様に選ばれた民としてアイデンティティを回復していることが分かります。ではどうやって彼らは神の宮の完成ができ、過越の祭りも守れるようになったでしょうか。結論的に22節をご一緒に読んでみましょう。そして、彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守った。これは、主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」神様は異邦人の王の心までも彼らに向かわせてくださいました。イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされました。ユダヤ人は捕囚の民として自らの力でエルサレムに神の宮を建てることができませんでした。政治的な力も建築資金もありませんでした。エルサレムから遠く離れた所にいました。いざと帰って来て始めた神殿建築は周辺国の妨害によって中断されました。でも、神様が異邦人の王たちを用いて神の宮を完成させてくださいました。つまり、神様はご自分の民を喜ばせるために異邦人の権力者たちも用いられました。ここで、私たちはすべてのことを働かせて益としてくださる神様の力の働きを学ぶことができます。神様は力の働きによって私たちを喜ばせてくださいます。大いなる力によって私たちを守り、助けてくださいます。 この教会堂を購入する時も、私たちはすべてのことを働かせて益としてくださる神様の力の働きを体験しました。私たちは教会堂建築のために20年近く祈り、建築献金をして来ましたがなかなかできませんでした。それで一時的には都心から離れた所に移すことも考えました。私たちは意気消沈し、あきらめかけていました。ところが、2007年の夏修養会から帰って来ると、この教会のメンバーでもない方から100万円の建築献金がありました。それによって私たちの心は奮い立たせられました。その後、3か月間に18年間の献金よりも多い建築建機ができてちょうど5年前の今日、この教会堂の購入ができました。クロス王を奮い立たせてくださったように人々の心を奮い立たせてくださったのです。今年も私たちの周囲の人々を用いて私を助けてくださる神様の力の働きを体験することができます。 どうか、私たちがどんな時にも意気消沈してあきらめることなく、私たちに御目を注いでおられる神様に焦点を合わせて生きるように祈ります。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方の無尽蔵の富を所有して行きますように祈ります, エペソ3

12Luke31M 主の御名によって来られる王

12luke31m, 主の御名によって来られる王, 2012年ルカの福音書第31講主の御名によって来られる王御言葉:ルカの福音書19:28〜48要, 節:ルカ19:38, 「こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」」merry, christmas!クリスマスが先週よりも近づいて来ました。今年のクリスマス礼拝の時は、偉大な預言者イザヤの預言からイエス様の誕生について学びたいと思っています。イザヤはイエス・キリストの誕生について「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」と預言しました。その通りに、イエス様は生涯を通してご自分が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であることを明らかにしてくださいました。今日の本文では平和の君であられるイエス様について学ぶことができます。イエス様は十字架の死を目の前にして威風堂々とエルサレムに入られました。約束されたメシヤ、平和の王としての姿を見せてくださったのです。この時間、御言葉を通して主の御名によって来られる王、平和の王であられるイエス様を心から迎え入れますように祈ります。また、平和の王イエス・キリストの恵みが私たちのうちに豊かに注がれますように祈ります。28節をご覧ください。「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」とあります。先週、私たちはイエス様がエルサレムに上って行かれる途中、エリコに入って失われた人ザアカイを捜して救い、彼に言われたことを学びました。イエス様が十ミナのたとえを話されたことも学びました。その後、イエス様は、さらに進んでエルサレムに上って行かれました。ついに、エルサレムが見えるオリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれました。そのたときです。イエス様はふたりの弟子を使いに出して言われました。30、31節をご覧ください。「言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とあります。イエス様は二人の弟子たちにろばの子を連れて来るミッションを与えました。このミッションを果たすことはなかなか難しいことです。全く面識のない人のろばの子を連れて来ることだからです。しかも、イエス様は弟子たちに不思議な助言をしてくださいました。イエス様はろばの子を買うとか、借りるように命じたのではありません。ただ、「もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とおっしゃったのです。特に「主がお入り用なのです。」と言う言葉は、日本語では丁寧な言葉ですが、英語ですと「the, lord, needs, it.」となっています。「主がそれを必要です」と単刀直入に、はっきりと言うことなのです。ところが、ふたりが向こうの村に行ってみると、イエス様が話された通りでした。弟子たちは不思議な力を経験しました。ろばの子の持ち主も、ろばの子も、イエス様が言われた通りに動いてくれたのです。そこで、弟子たちは、自分の姿とこのろばの子とが重なり合うことを感じ取ったことでしょう。考えてみると、自分たちもイエス様が言われた通りに動いていたのです。そうです。すべての被造物はイエス様のものだから、イエス様に従っているのです。ヨハネの福音書1, 3節はこの事実を明らかにしています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。すべてのものは、イエス様によって造られました。ですから、この世にあるすべてのものはすべてがイエス様のものです。イエス様はこの世のすべてのものの持ち主です。ろばの子も、ろばの持ち主もイエス様が主人なのです。そして、それは私たちにも言えることです。一般的に、人々は自分の人生の主人は自分だと思っています。日本の女性は結婚すると、夫がご主人です。それで、日本の女性は結婚の相手として世界で一番人気があるそうです。夫を自分の主人として思ってくれるからでしょう。しかし、本当のご主人は神様です。すべての人のご主人は神様なのです。そして、神様が私たちのうちに主権的に働いておられます。ある日、皆さんのところにある人が遣わされてきて、「主がお入り用なのです。」と言ってくれたでしょう。もちろん、単刀直入に言わなかったかも知れません。いろいろ説明して誘われたかも知りません。確かなことは神様から遣わされた人を通して私たちもイエス様のみもとに来ているということです。神様が私たちを尊く思ってくださり用いようとされたのです。そして、ろばの子のように平凡な私たちでも主が用いていてくださいます。あれこれの失敗を恐れ、自分の能力や力の弱さ、才能の乏しさに弱気になります。不安を覚えることがあるでしょう。しかし、本当は、「主がお入り用なのです。すべてのすべての主人であられる神様に用いられているので、そこではもはや、能力も才能も問題ではありません。主がそういう力の足りない私たちを用いて尊い御業をなさることを心から感謝します。では弟子たちはろばの子を連れて来ることを通して何が分かったでしょうか。35、36節を読んでみましょう。「そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。」とあります。弟子たちは「主がお入り用なのです。」と言ったことだけでもロバの子を連れて来ることができました。それを通して彼らはイエス様が見えない世界も支配しておられるまことの王であることが分かりました。そこで、彼らはろばの子の上に自分たちの上着を敷きました。これは王様に対する態度です。ユダヤでは、王の即位式などに際し、自分の命を捨てて服従するという象徴的行為です(列王下9・13)。彼らはイエス様に王様への尊敬と服従を表したのです。そして、ろばの子にイエス様をお乗せしました。ろばの子にとっては身に余る大役を担うことになりました。自分のようなか弱い者が、まことの王であられるイエス様をお乗せして大切なご用をすることは、力をも分をも越えることだ、と思ったことでしょう。37、38節を読んでみましょう。「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」とあります。弟子たちの群れはみな、イエス様を祝福し、賛美しました。その日に、イエス様は王の王としてエルサレムに入城されました。事実、イエス様はすべての人々が喜んで迎え入れるべき全人類の救い主、王の王です。預言者ゼカリヤは預言して言いました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。, ゼカリヤ9, 9、10, 」とあります。この預言の中にイエス様はどんな王として来られたかがよく表われています。 第一に、イエス様は救いの王です。ゼカリヤはメシヤに対して「この方は正しい方で、救いを賜わり、」と預言しました。つまり、イエス様は救いを賜わる方なのです。イエス様が先に立ってエルサレムに入城される目的は救いを賜わるためです。イエス様は救いの王です。イエス様は罪と死のかげに座っている人々を救うために救いの角としてお生まれになりました。そして、私たち人間のすべての罪と咎を贖うために十字架につけられて死なれました。そして、死者の中から三日目によみがえられて私たちの主・キリストであることを明らかにしてくださいました。このイエス様こそ、私たちを罪と永遠の破滅から救う救いの王です。 私たちは生活の中で様々なことで苦しみ、悩みますし、なかなか克服できない罪の習慣のために絶望します。しかし、救いの王イエス様を信じて受け入れるなら、イエス様が暗闇の世界から救ってくださるのです。救いの王イエス様は今年も、弱い私たちをさまざまな苦難と試練、罪と咎から救ってくださいました。正しい方で、救いを賜る救いの王イエス・キリストの御名を賛美します。 第二に、イエス様は柔和と謙遜によって治める平和の王です。イエス様の時代に、ローマ帝国の王たちは戦争に勝つと、軍馬や戦車に乗ってローマに入城しました。しかし、イエス様はろばの子に乗って入城されました。ロバは馬とは違って、戦争には使われません。重いくびきを負って人に仕える動物です。大人しくて柔和で、その上背も低いのです。そのロバにお乗りになった主御自身こそは、まさに柔和なお方です。弱い者の弱さを担い、病める者の病を担い、低い者の低さに身を置いてくださる王です。それで、平和の王イエス様を迎え入れて信じる人は平和に生きることができます。シャローム人生を生きるようになります。それで、イエス様がお生まれになった時、御使いたちといっしょに、多くの天の軍勢が現われて神様を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように, 」。今年のクリスマスにも数多くの人々が平和の王イエス様を迎え入れてシャローム人生を始めることができるように祈ります。12月は年末で忙しくなります。なかなか落ち着かない日々を過ごしているとサタンは私たちの心に不和、憎しみ、競争心などを植え付け、高ぶらせます。自分も知らずに高慢になって心が騒ぎ、平和がありません。しかし、私たちのうちに住まわれる平和の王、イエス様と交わるなら、イエス様が柔和と謙遜によって治めてくださいます。すると、私たちの心は穏やかになり、平和に生きることができます。39節をご覧ください。パリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエス様に向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言いました。すると、イエス様は答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」とあります。つまり、この日には必ずメシヤを喜ぶように神様がしてくださっていたのです。41, 44節をご覧ください。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」とあります。エルサレムを見られたイエス様は、その都のために泣かれました。もし、エルサレムの人たちが平和のことを知っていたなら、イエス様は泣かれなかったはずです。平和の王、イエス・キリストを知り、信じたなら、エルサレムは聖なる神の都として保たれたはずなのです。しかし、エルサレムにいる宗教指導者たちは平和のことを知っている弟子たちを叱ってくださいと言いました。彼らは霊的に無知でした。しかも、聖なる都エルサレムの中でも聖なるところであるはずの宮の状態はどうでしたか。 45、46節をご覧ください。宮にはいられたイエス様は、商売人たちを追い出し始め、こう言われました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」主の家は祈りの家です。ところが、彼らはそこで商売して強盗の巣にしてしまいました。それほどエルサレムの中心である宮も堕落していました。聖なる宮で商売をしていました。それだけではありません。彼らは神様にそむき続けてきました。いまや神の子イエス様を十字架につけて殺します。その結果、彼らは滅亡し、エルサレムの神殿は崩されます。紀元前20年にヘロデ王が建築を始めたエルサレムの神殿は工事を始めてから80年以上たった紀元64年に完成しますが、その神殿は紀元70年8月にローマ帝国との戦いの末、一日で崩壊します。平和への道を知らず、平和の王イエス様の訪れの時をわきまえなかったからです。そのために、イエス様は神の都、エルサレムのために涙を流し、高慢で利己的な彼らの心を嘆き悲しまれたのです。そして、彼らが滅びることを預言してから商売人たちを追い出し、「私の家は祈りの家でなければならない」と宣言なさいました。それから、イエス様は毎日、宮で教えておられました。それによって祈りの家である宮では毎日神様の御言葉が教えられるべきことも示してくださいました。それでも、宮で祈り、御言葉を教えるべき祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエス様を殺そうとねらっていました。彼らは悔い改めて平和の王イエス様を迎え入れるべきなのに、むしろイエス様を殺す殺意に満ちていたのです。イエス様は、それを前もってご存知であり、その人たちのために泣かれたのです。では、2012年のクリスマスが近づいている日本の都東京をご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。平和の王イエス・キリストの誕生、イエス・キリストの訪れを知らずに商売ばかりしている人々をご覧になる聖霊様の御心はどうでしょうか。私たちの教会では毎週姉妹宣教師たちは早稲田大学に行って伝道しています。何回も注意されたそうです。それでもキャンパスのたましいたちのために祈り、伝道していますが、追い出される時もあるそうです。最近はキャンパスの中に入ることもできず、外の庭で伝道しているそうです。このような現実のために、ある宣教師は涙が出たと言いました。このような今のキャンパスをご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。あの宣教師よりも嘆き悲しまれるのではないでしょうか。すぐに滅ぼすことはなさらず、泣いてくださるでしょう。それが平和の王イエス様の御心です。堕落してしまった人々をご覧になると、彼らがさばかれることを前もってご存知であり、そのために悲しまれるのです。特に、私たちのからだは聖霊の宮です。?コリント6, 19節を見ると「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」とあります。つまり、私たちのからだは私たちのうちに住まれる主と交わる祈りの家なのです。神様は私たちがいつも聖霊と交わることを望んでおられます。そして、この教会堂は目に見える主の宮です。祈りの家です。ここで、神様は私たちが平和の王イエス様と交わる祈りと賛美をすることを望んでおられます。どころが、私たちのからだは祈りの宮としての役割を果たしているでしょうか。主と交わる場所として用いられているでしょうか。私はこのメッセージを準備するうちに、イエス様が私とこの教会を見て泣いておられるのではないかと思いがしました。主と交わることよりも、この世の事で騒いでいる私の心です。夜明けに教会に来ても寂しさを感じてしまう時も多いこの教会堂です。イエス様がご覧になってどう思われるでしょうか。こんな私たちを責めるのではなく、涙を流してくださいます。私たちが本当に平和のこと、平和の王イエス様のことを知っていたなら、祈っているはずです。イザヤ55章6、7節を見ると「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」とあります。どうか、クリスマスが近づいて来たこの時期に、主に帰りましょう。心から平和の王としてお生まれになったイエス様を受け入れ、イエス様と交わる祈りに励むことができるように祈ります。お会いできる間に、近くにおられるうちに呼び求めましょう。そうすれば主は哀れんでくださいます。私のために泣いてくださいます。どうか、私のために涙を流してくださる主の愛に感謝し、主に御名によって来られる平和の王イエス様を心から迎え入れますように祈ります。