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12Luke31M 主の御名によって来られる王

12luke31m, 主の御名によって来られる王, 2012年ルカの福音書第31講主の御名によって来られる王御言葉:ルカの福音書19:28〜48要, 節:ルカ19:38, 「こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」」merry, christmas!クリスマスが先週よりも近づいて来ました。今年のクリスマス礼拝の時は、偉大な預言者イザヤの預言からイエス様の誕生について学びたいと思っています。イザヤはイエス・キリストの誕生について「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」と預言しました。その通りに、イエス様は生涯を通してご自分が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であることを明らかにしてくださいました。今日の本文では平和の君であられるイエス様について学ぶことができます。イエス様は十字架の死を目の前にして威風堂々とエルサレムに入られました。約束されたメシヤ、平和の王としての姿を見せてくださったのです。この時間、御言葉を通して主の御名によって来られる王、平和の王であられるイエス様を心から迎え入れますように祈ります。また、平和の王イエス・キリストの恵みが私たちのうちに豊かに注がれますように祈ります。28節をご覧ください。「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」とあります。先週、私たちはイエス様がエルサレムに上って行かれる途中、エリコに入って失われた人ザアカイを捜して救い、彼に言われたことを学びました。イエス様が十ミナのたとえを話されたことも学びました。その後、イエス様は、さらに進んでエルサレムに上って行かれました。ついに、エルサレムが見えるオリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれました。そのたときです。イエス様はふたりの弟子を使いに出して言われました。30、31節をご覧ください。「言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とあります。イエス様は二人の弟子たちにろばの子を連れて来るミッションを与えました。このミッションを果たすことはなかなか難しいことです。全く面識のない人のろばの子を連れて来ることだからです。しかも、イエス様は弟子たちに不思議な助言をしてくださいました。イエス様はろばの子を買うとか、借りるように命じたのではありません。ただ、「もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とおっしゃったのです。特に「主がお入り用なのです。」と言う言葉は、日本語では丁寧な言葉ですが、英語ですと「the, lord, needs, it.」となっています。「主がそれを必要です」と単刀直入に、はっきりと言うことなのです。ところが、ふたりが向こうの村に行ってみると、イエス様が話された通りでした。弟子たちは不思議な力を経験しました。ろばの子の持ち主も、ろばの子も、イエス様が言われた通りに動いてくれたのです。そこで、弟子たちは、自分の姿とこのろばの子とが重なり合うことを感じ取ったことでしょう。考えてみると、自分たちもイエス様が言われた通りに動いていたのです。そうです。すべての被造物はイエス様のものだから、イエス様に従っているのです。ヨハネの福音書1, 3節はこの事実を明らかにしています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。すべてのものは、イエス様によって造られました。ですから、この世にあるすべてのものはすべてがイエス様のものです。イエス様はこの世のすべてのものの持ち主です。ろばの子も、ろばの持ち主もイエス様が主人なのです。そして、それは私たちにも言えることです。一般的に、人々は自分の人生の主人は自分だと思っています。日本の女性は結婚すると、夫がご主人です。それで、日本の女性は結婚の相手として世界で一番人気があるそうです。夫を自分の主人として思ってくれるからでしょう。しかし、本当のご主人は神様です。すべての人のご主人は神様なのです。そして、神様が私たちのうちに主権的に働いておられます。ある日、皆さんのところにある人が遣わされてきて、「主がお入り用なのです。」と言ってくれたでしょう。もちろん、単刀直入に言わなかったかも知れません。いろいろ説明して誘われたかも知りません。確かなことは神様から遣わされた人を通して私たちもイエス様のみもとに来ているということです。神様が私たちを尊く思ってくださり用いようとされたのです。そして、ろばの子のように平凡な私たちでも主が用いていてくださいます。あれこれの失敗を恐れ、自分の能力や力の弱さ、才能の乏しさに弱気になります。不安を覚えることがあるでしょう。しかし、本当は、「主がお入り用なのです。すべてのすべての主人であられる神様に用いられているので、そこではもはや、能力も才能も問題ではありません。主がそういう力の足りない私たちを用いて尊い御業をなさることを心から感謝します。では弟子たちはろばの子を連れて来ることを通して何が分かったでしょうか。35、36節を読んでみましょう。「そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。」とあります。弟子たちは「主がお入り用なのです。」と言ったことだけでもロバの子を連れて来ることができました。それを通して彼らはイエス様が見えない世界も支配しておられるまことの王であることが分かりました。そこで、彼らはろばの子の上に自分たちの上着を敷きました。これは王様に対する態度です。ユダヤでは、王の即位式などに際し、自分の命を捨てて服従するという象徴的行為です(列王下9・13)。彼らはイエス様に王様への尊敬と服従を表したのです。そして、ろばの子にイエス様をお乗せしました。ろばの子にとっては身に余る大役を担うことになりました。自分のようなか弱い者が、まことの王であられるイエス様をお乗せして大切なご用をすることは、力をも分をも越えることだ、と思ったことでしょう。37、38節を読んでみましょう。「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」とあります。弟子たちの群れはみな、イエス様を祝福し、賛美しました。その日に、イエス様は王の王としてエルサレムに入城されました。事実、イエス様はすべての人々が喜んで迎え入れるべき全人類の救い主、王の王です。預言者ゼカリヤは預言して言いました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。, ゼカリヤ9, 9、10, 」とあります。この預言の中にイエス様はどんな王として来られたかがよく表われています。 第一に、イエス様は救いの王です。ゼカリヤはメシヤに対して「この方は正しい方で、救いを賜わり、」と預言しました。つまり、イエス様は救いを賜わる方なのです。イエス様が先に立ってエルサレムに入城される目的は救いを賜わるためです。イエス様は救いの王です。イエス様は罪と死のかげに座っている人々を救うために救いの角としてお生まれになりました。そして、私たち人間のすべての罪と咎を贖うために十字架につけられて死なれました。そして、死者の中から三日目によみがえられて私たちの主・キリストであることを明らかにしてくださいました。このイエス様こそ、私たちを罪と永遠の破滅から救う救いの王です。 私たちは生活の中で様々なことで苦しみ、悩みますし、なかなか克服できない罪の習慣のために絶望します。しかし、救いの王イエス様を信じて受け入れるなら、イエス様が暗闇の世界から救ってくださるのです。救いの王イエス様は今年も、弱い私たちをさまざまな苦難と試練、罪と咎から救ってくださいました。正しい方で、救いを賜る救いの王イエス・キリストの御名を賛美します。 第二に、イエス様は柔和と謙遜によって治める平和の王です。イエス様の時代に、ローマ帝国の王たちは戦争に勝つと、軍馬や戦車に乗ってローマに入城しました。しかし、イエス様はろばの子に乗って入城されました。ロバは馬とは違って、戦争には使われません。重いくびきを負って人に仕える動物です。大人しくて柔和で、その上背も低いのです。そのロバにお乗りになった主御自身こそは、まさに柔和なお方です。弱い者の弱さを担い、病める者の病を担い、低い者の低さに身を置いてくださる王です。それで、平和の王イエス様を迎え入れて信じる人は平和に生きることができます。シャローム人生を生きるようになります。それで、イエス様がお生まれになった時、御使いたちといっしょに、多くの天の軍勢が現われて神様を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように, 」。今年のクリスマスにも数多くの人々が平和の王イエス様を迎え入れてシャローム人生を始めることができるように祈ります。12月は年末で忙しくなります。なかなか落ち着かない日々を過ごしているとサタンは私たちの心に不和、憎しみ、競争心などを植え付け、高ぶらせます。自分も知らずに高慢になって心が騒ぎ、平和がありません。しかし、私たちのうちに住まわれる平和の王、イエス様と交わるなら、イエス様が柔和と謙遜によって治めてくださいます。すると、私たちの心は穏やかになり、平和に生きることができます。39節をご覧ください。パリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエス様に向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言いました。すると、イエス様は答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」とあります。つまり、この日には必ずメシヤを喜ぶように神様がしてくださっていたのです。41, 44節をご覧ください。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」とあります。エルサレムを見られたイエス様は、その都のために泣かれました。もし、エルサレムの人たちが平和のことを知っていたなら、イエス様は泣かれなかったはずです。平和の王、イエス・キリストを知り、信じたなら、エルサレムは聖なる神の都として保たれたはずなのです。しかし、エルサレムにいる宗教指導者たちは平和のことを知っている弟子たちを叱ってくださいと言いました。彼らは霊的に無知でした。しかも、聖なる都エルサレムの中でも聖なるところであるはずの宮の状態はどうでしたか。 45、46節をご覧ください。宮にはいられたイエス様は、商売人たちを追い出し始め、こう言われました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」主の家は祈りの家です。ところが、彼らはそこで商売して強盗の巣にしてしまいました。それほどエルサレムの中心である宮も堕落していました。聖なる宮で商売をしていました。それだけではありません。彼らは神様にそむき続けてきました。いまや神の子イエス様を十字架につけて殺します。その結果、彼らは滅亡し、エルサレムの神殿は崩されます。紀元前20年にヘロデ王が建築を始めたエルサレムの神殿は工事を始めてから80年以上たった紀元64年に完成しますが、その神殿は紀元70年8月にローマ帝国との戦いの末、一日で崩壊します。平和への道を知らず、平和の王イエス様の訪れの時をわきまえなかったからです。そのために、イエス様は神の都、エルサレムのために涙を流し、高慢で利己的な彼らの心を嘆き悲しまれたのです。そして、彼らが滅びることを預言してから商売人たちを追い出し、「私の家は祈りの家でなければならない」と宣言なさいました。それから、イエス様は毎日、宮で教えておられました。それによって祈りの家である宮では毎日神様の御言葉が教えられるべきことも示してくださいました。それでも、宮で祈り、御言葉を教えるべき祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエス様を殺そうとねらっていました。彼らは悔い改めて平和の王イエス様を迎え入れるべきなのに、むしろイエス様を殺す殺意に満ちていたのです。イエス様は、それを前もってご存知であり、その人たちのために泣かれたのです。では、2012年のクリスマスが近づいている日本の都東京をご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。平和の王イエス・キリストの誕生、イエス・キリストの訪れを知らずに商売ばかりしている人々をご覧になる聖霊様の御心はどうでしょうか。私たちの教会では毎週姉妹宣教師たちは早稲田大学に行って伝道しています。何回も注意されたそうです。それでもキャンパスのたましいたちのために祈り、伝道していますが、追い出される時もあるそうです。最近はキャンパスの中に入ることもできず、外の庭で伝道しているそうです。このような現実のために、ある宣教師は涙が出たと言いました。このような今のキャンパスをご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。あの宣教師よりも嘆き悲しまれるのではないでしょうか。すぐに滅ぼすことはなさらず、泣いてくださるでしょう。それが平和の王イエス様の御心です。堕落してしまった人々をご覧になると、彼らがさばかれることを前もってご存知であり、そのために悲しまれるのです。特に、私たちのからだは聖霊の宮です。?コリント6, 19節を見ると「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」とあります。つまり、私たちのからだは私たちのうちに住まれる主と交わる祈りの家なのです。神様は私たちがいつも聖霊と交わることを望んでおられます。そして、この教会堂は目に見える主の宮です。祈りの家です。ここで、神様は私たちが平和の王イエス様と交わる祈りと賛美をすることを望んでおられます。どころが、私たちのからだは祈りの宮としての役割を果たしているでしょうか。主と交わる場所として用いられているでしょうか。私はこのメッセージを準備するうちに、イエス様が私とこの教会を見て泣いておられるのではないかと思いがしました。主と交わることよりも、この世の事で騒いでいる私の心です。夜明けに教会に来ても寂しさを感じてしまう時も多いこの教会堂です。イエス様がご覧になってどう思われるでしょうか。こんな私たちを責めるのではなく、涙を流してくださいます。私たちが本当に平和のこと、平和の王イエス様のことを知っていたなら、祈っているはずです。イザヤ55章6、7節を見ると「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」とあります。どうか、クリスマスが近づいて来たこの時期に、主に帰りましょう。心から平和の王としてお生まれになったイエス様を受け入れ、イエス様と交わる祈りに励むことができるように祈ります。お会いできる間に、近くにおられるうちに呼び求めましょう。そうすれば主は哀れんでくださいます。私のために泣いてくださいます。どうか、私のために涙を流してくださる主の愛に感謝し、主に御名によって来られる平和の王イエス様を心から迎え入れますように祈ります。

12Luke30 きょう、救いがこの家に来ました。

12luke30, きょう、救いがこの家に来ました。, 2012年ルカの福音書第30講きょう、救いがこの家に来ました。御言葉:ルカの福音書19:1−27要 節:ルカの福音書19:9, “イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。”クリスマスが近づいてきました。キリスト教ではクリスマスの4週間前の日曜日から24日までの期間をアドベント(待降節)と呼びます。「アドベント」には、「到来」、「接近」、「出現」などの意味があります。このアドベントの期間にクリスマスに向けて本格的に準備を始めます。私たちも先週、幼児洗礼式と聖餐式を行い、心をきよくしてクリスマス礼拝の準備を始めています。今年も心を込めて準備してイエス・キリストのお誕生をお祝いしたいと思います。今日の本文を見ると、イエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」と言っておられます。そして、自分の家に来られたイエス様を迎え入れたザアカイは変わりました。お金を取り立てる人生から人のために自分の財産を施す者に変えられたのです。そこで、イエス様は救われた者がどのように生きるべきかを教えてくださいました。どうか、心からイエス様を迎え入れることができますように祈ります。今日も神様の救いを経験し、ほんの小さな事にも忠実な者として生きるように祈ります。1, 2節をご覧ください。イエス様は、エリコにはいって、町をお通りになりました。エリコは貿易の中心地であって税金を納めるのに良いところでした。そこに、ザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで、金持ちでした。「ザアカイ」という名前は「純潔、きよい」あるいは「正義、正しい」を意味しています。彼の両親は子どもがきよく、正しく生きることを望んだでしょう。ところが、彼は、どういうわけか、民族の裏切り者、不正にお金を集める者の代名詞である取税人になっていました。しかも、取税人のかしらになっていました。でも、彼の心はきよく正しくいきることへの憧れがあったでしょうか。彼は、町を通られるイエス様がどんな方か見ようとしました。イエス様に対する関心、好奇心があったのです。今日、多くの人々は学校の歴史の時間でイエス・キリストがキリストのことを聞いています。特に、クリスマスシーズンになると、テレビを通してもイエス様のことを聞いています。ところが、ほとんどの人々はただ、聞いているだけです。イエス様がどんな方か知ろうとしません。しかし、ザアカイは違いました。彼はイエス様がどんな方か見ようとしました。思うだけではありません。4節をご覧ください。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」とあります。ザアカイはイエス様を見るために走り出ています。積極的に行動していることが分かります。彼がイエス様を見ることができそうな所を探して走り出てみると、一本のいちじく桑の木がありました。背が低い弱点も木登りには長所になりました。素早く登れたのです。すると、どうなりましたか。5節をご覧ください。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」」とあります。イエス様は上を見上げて木の上にいるザアカイに声をかけてくださいました。『ザアカイ!』と。ザアカイはイエス様がどんな方か見ようとしましたが、実はイエス様がすでに彼の名前も知っておられました。彼が木に登っていることも知っておられました。イエス様は彼の内面も知っておられたでしょう。心からは自分の名前の通りにきよく正しく生きようとしながらも汚い取税人になっている人生の迷い、不安と恐れを知っておられました。そして寂しい、孤独な人生を生きている彼を探しておられました。だからこそ、イエス様は彼の家に泊まることにしてあると言われたのです。イエス様は彼の家にはいり、彼と交わる中で彼を救おうとされました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と書いてある通りです, ?ヨハネ4, 10)。神様がザアカイのことを知っていて彼のためにイエス様を遣わしてくださったのです。私たちに対しても同じです。皆さんはイエス様がどんな方を見るために教会に来ました。ザアカイは木登りをしましたが、皆さんは階段をのぼって三階の礼拝堂まで来ました。ところが、神様はこんな私たちのことをすでに知っておられます。私がイエス様を知る前から私を知っておられます。そして、罪深い私を救うためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様は十字架に掛かって死なれ、三日目に復活することによって私たちへの愛を貫いてくださいました。そして、今も私たちのところに来ていてくださいます。黙示録3章20節に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。心の扉を開けてイエス様を迎え入れましょう。では、イエス様に呼ばれたザアカイはどうしましたか。6節をご一緒に読んでみましょう。「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」ザアカイは急いで降りてきました。大喜びでイエス様を迎えました。ほんとうに素晴らしい光景です。ザアカイにとって忘れられない瞬間でした。ザアカイは踊りながら自分の家に案内したことでしょう。ところが、それを見ている人々の反応はどうでしたか。7節をご覧ください。「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」とあります。彼らはイエス様を非難し、つぶやきました。それはイエス様に対する関心よりも、イエス様が罪人のザアカイのところに行くことに関心がありました。このように、私たちもイエス様に対する関心よりも罪人に関心があるとつぶやきます。教会に来てもイエス様よりも人のことばかり考えるとつぶやくようになります。たとえば、皆さんが罪人の私を見ると、讃美歌もまともに歌えないくせに牧師なのか…、発音もよくないくせに説教なんて…とつぶやくようになるでしょう。私だけではなく、他の人に対してもそうでしょう。しかし、ザアカイはつぶやく彼らの言葉を気にしませんでした。イエス様だけに関心を持ち、イエス様に喜ばれることを考えました。8節をご覧ください。「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」とあります。彼はイエス様の御前で自分がどうするべきか、自分の決断を告白しています。ほんとうに、素晴らしい光景です。ザアカイは自分の財産の半分も貧しい人たちに施すと決断しました。取税人の先輩レビは自分の財産をどうしたのかを調べたり、彼と比較したりしませんでした。彼は神様の御前でものごとを考えて「だれからでも、だまし取った物は、四倍にして返します。」と言っているのです。大変なことが起こっています。『大変』と言うのは大きく変わると書きますが、その通りにザアカイは大きく変えられたのです。彼は今まで自分中心に生きてきました。当時、イスラエルの国を統治していたローマ帝国のために税を取り立てるという仕事をしていたのです。無理に税金を取り立てる人生でした。ところが、これからは自分の財産を施す人生に変わったのです。しかも、イエス様から言われたからそうしようと言い出したのではありません。自ら進んで人々に施し、与える人に変わったのです。そうです。ほんとうに、イエス様に出会い、イエス様を迎え入れるなら、その人はザアカイのように変わります。価値観が変わります。人に施すことができる幸せな人生に変わるのです。そこで、イエス様は彼に何と言われましたか。9、10節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼に言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」イエス様はザアカイの告白を聞いて彼の救いを感心しました。そして彼の家に救いを宣言なさいました。そして、アブラハムの子としての名誉と祝福を回復させてくださいました。ザアカイはもはや孤独な人生ではなく、アブラハムの子として生きることができます。隣人と愛し合いながら、仲よく平和に生きられるのです。12月になり、クリスマスが近づいて来ています。世界中の人々がイエス・キリストのご降誕を祝います。世界中の人たちがなぜ、それほど喜び、祝っているでしょうか。それは、荒野で羊の番をしながら野宿していた羊飼いたちに、天使が語った言葉がその事を伝えています。「「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」, ルカ2, 。と。ザアカイはイエス様を迎え入れることによって素晴らしい喜びをいただいたのです。その生き方を変えようとするまでの力も一緒にいただきました。私たちも純粋にイエス様を迎え入れる時に、ザアカイに起こったことを体験することができます。大喜びと救いをいただきます。今年のクリスマスにも、ザアカイのように寂しく孤独に生きている人々がイエス様を受け入れて救われますように祈ります。では救われた人はどのような姿勢で生きるべきでしょうか。イエス様はたとえを通して救われた人々がどのように生きるべきかという方向を示してくださいました。11節をご一緒に読んでみましょう。「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」イエス様は人々がザアカイのことに耳を傾けているときに一つのたとえを話されました。12、13節を読んでみましょう。「それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』とあります。ここで、「身分の高い人、主人」は、イエス様ご自身のことです。主人はひとりひとりに1ミナを与えられました。一ミナは今の日本では約100万円くらいです。主人は「私が帰るまで、これで商売しなさい。」と命じられました。この一ミナに対する解釈がいろいろありますが、福音であると言えます。イエス様は救われた人々が福音で商売することを教えておられるのです。イエス・キリストによって救われたクリスチャンには皆同じく、平等に与えられている一ミナがあります。イエス・キリストによって救われたという福音です。それはザアカイにも、私たちにも与えられています。イエス様は私たちに「わたしが帰るまでこれで商売しなさい。」と命じておられます。そして、福音には、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力があります(ローマ1, 16)。この福音は利己的な取税人のかしらザアカイを隣人に施す人として新しく生まれさせました。ですから、私達がこの福音を預けてくださった神様を信じてよく商売するなら、多くのいのちの実を結ぶことができます。そういうわけで、イエス様はそのしもべたちに言われました。「私が帰るまで、これで商売しなさい」。14節をご覧ください。「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。」とあります。ここで見ると、商売する環境は良くなかったことが分かります。1ミナを預けた主人を認めず、憎んでいる環境で主人から預かった1ミナで商売することは難しいでしょう。では、決算の時にどうなりましたか。15節をご覧ください。「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」とあります。主人は人々の反対にも関わらず、身分の高い人は王位を受けて帰って来ました。時になると、イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って再び来られます(マルコ13, 26)。その日は人生の決算を求める日です。私たちは自分の行ないに応じて神様の前で人生の決算をしなければなりません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです(ヘブル9, 27)。それでは、しもべたちの商売の決算はどうでしたか。16節をご覧ください。「さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』」最初の者はよく商売して10倍の利益を残しました。商売できない環境の中でも10倍の利益です。彼は人々が主人を憎んでいたにもかかわらず、主人を全く信頼して商売したでしょう。彼に対する主人の評価がどうですか。17節をご一緒に読んでみましょう。「主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」主人は彼を称賛し、十の町を支配するように言われました。一人が10の町を支配する権威が与えられたのです。英語では10Citiesになっています。東京都の多摩地域には西東京市、八王子市などの26市があります。そのうち10の市を治める「権威」が神様から授与されるのです。それほどその人の影響力が大きくなることでしょう。この教会におられる皆さんで東京都のほとんどの地域までに影響を及ぼすことができます。小さな事に忠実であれば神様からそういう権威が与えられて影響を及ぼすようになるのです。実際にパウロ宣教師はビジネスをしていますが、小さな事に忠実にやって行くと、それが10倍に繁栄します。神様が権威を与えてくださると、都市全体に神の国が来るのを見るのです。それでは、18、19節をご覧ください。二番目の者が来て言いました。「ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。」主人はこの者にも言いました。「あなたも五つの町を治めなさい。」二番目の者に対して主人は最初の者と比較してもっと多くの利益を残せなかったことをお叱りになりませんでした。そのしもべが最善を尽くして努力したことを認め、賞賛しました。そして、彼の行ないに応じて五つの町を支配する報酬を与えました。しかし、商売しないでいる人はどうなりますか。20、21節をご覧ください。「ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。」とあります。この言葉から見ると、このしもべには主人に対する信頼がありません。主人との信頼関係ができてなかったのです。神様に対する信頼がなければ、何をしても不安と恐れのために人生を投資することができません。結局怠け者になってしまいます。自分には能力がないからあれもこれもできないと言いますが、恐れているからです。遠慮しているようですが、実は能力のない者として、実力のない者として見られることを恐れていることでしょう。主人はそのしもべに「悪いしもべだ」と叱りました。そして、そばに立っていた者たちに「その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。」と言いました。26節をご覧ください。主人は結論的に言いました。「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。」これがまさに福音の原則です。誰でも、主人から責任を与えられていることを自覚して忠実に働く者は、さらに多くの責任が与えられ、責任を持っていないと思っている者、すなわち、神様からのいのち、福音を軽んじている者は、持っているものまでも取り上げられてしまうのです。まとめますと、ザアカイのように、私たちはイエス様に出会って救われました。イエス・キリストは今も、私たちひとりひとりを捜しておられます。そして、私たちに出会おうとしているのです。私の名前を知っていて声をかけ、迎え入れられるのを待っているのです。そして迎え入れるなら、主は私たちを今の苦しみ、悩み、病、罪、孤独などから救ってくださいます。そして、自分を救ってくださった福音で商売するように導かれます。どうか、今日も私たちの所に来ておられるイエス様を迎え入れ、忠実に生きることができるように祈ります。

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収穫感謝祭

収穫感謝祭, 2012年収穫感謝祭私の杯はあふれています御言葉:詩篇23:1−6要 節:詩篇23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」 突然ですが、皆さんは今、心が満たされているでしょうか。「心のストレッチルーム」, http, //www, kokoro, というサイトには、「どうしても『心が満たされない人』の特徴」(ローリー・アシュナ ミッチ・マイヤーソン著)というチェックリストが載っていました。そこには、11のチェック項目がありますが、その中の三つ以上に該当する人は、「心に恐れや不安、悩みを抱えている人たち」だそうです。たとえば、?「手に入れたいと思ったものを手に入れても、喜びを感じない。次はうまくいくだろうか?と不安になるだけ。」?「『他人に頼るな』と教えられてきたために、人間関係や仕事、あるいは家族のなかで、もめごとがあったとき、必要以上に自分を責める傾向にある。」?「過去に味わった失望を、無意識のうちに繰り返している。両親や友人とのもめごとが、現在の人間関係にも尾を引いている。」などです。いかがでしょうか。 さて、今日学ぶ、詩篇23篇の著者ダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と告白しています, 。では、なぜダビデはこのように告白することができたのでしょうか。この時間、ダビデの羊飼いである神様について深く黙想する中で、神様が私の羊飼いであることを告白できるよう、祈ります。そしてダビデのように、「私の杯は、あふれています。」, と告白できるように祈ります。 1節をご覧ください。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」ダビデは、神様と自分の関係を、「羊飼いと羊」の関係にたとえています。イエス様もご自分と人間との関係を、「牧者と羊」の関係にたとえておられます, ヨハネ10章, 。では、なぜ牛や馬ではなく、羊なのでしょうか。皆さんも知っている通り、ダビデは統一イスラエルの王でした。百戦練磨の勇士であり、優れた詩人でした。立琴の名手でした。周りから見ると、非の打ちどころのない完璧な人に映ったことでしょう。サウルも嫉妬するほど、民たちの関心はダビデにありました。一方、羊は家畜の中で最も弱く、どの家畜よりも飼い主の深い関心と愛情が必要です。あまり目が良くありません。足が短く、自分一人では立ち上がることができません。ほかの動物のように、自分で自分の身の安全を守ることができません。羊飼いは、必要な時に羊を養うのではなく、いつも羊の様子を顧みなければなりません。この羊とダビデの姿を見ると、あまりにも対照的でした。しかしダビデはもともとベツレヘムに住むエッサイの子で、八人兄弟の末っ子でした。家では父親の羊の面倒を見ていました。誰もダビデには、関心を示しませんでした。むしろ無視されていました。ところが、神様はダビデに深い関心を示されました。ある日、神様はサムエルを通して、ダビデに油を注ぎ、イスラエルの君主とされました。ダビデは、この神様の豊かな恵みと大きな愛を、いつも覚え感謝する生活をしていたようです。そしてこの神様を、羊飼いとしてお迎えした時、ダビデの心は満たされていました。「私は、決して、乏しいことがありません。」と告白することができました。では、羊飼いである神様は、ダビデをどのように導いてくださったのでしょうか。また、私たちをどのように導いてくださるのでしょうか。 2,3節をご覧ください。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」羊飼いは、どこに羊たちを導けば良いのか、をよく知っています。ユダヤでは主に羊たちを放牧させますが、羊飼いは緑の牧場に羊たちを導いて行きます。そこは、新鮮で、若く、やわらかな草が豊富に生えている所です。羊たちは思う存分、「うめー」と言いながら、お腹いっぱいに食べることができます。食べて満腹になるとそこで横になって、お昼寝をします。ところが、時には、羊たちが草を食べているのに、羊飼いが別の場所に羊たちを移動させてしまうこともあります。その時、羊たちは「なぜ食事中に自分たちを歩かせようとするのか、自分の牧者がいじわるをしているのではないか」と疑ってしまうこともあります。しかし羊飼いを信頼してついて行った羊たちは、また別の場所でお腹いっぱい新鮮な草を食べることができます。それだけではありません。羊飼いは、「いこいの水のほとり」に、羊たちを連れて行きます。そこは新鮮で澄んだ水がわき上がる泉です。羊たちはそこの水を飲んで、疲れと渇きを潤します。そして自然のマイナスイオンによって、心も体もリフレッシュします。このように羊飼いは羊たちに必要なものをすべて満たしてくれます。神様はダビデの羊飼いとして、ダビデに必要な全てのものを満たしてくださいました。それだけではありません。聖書の御言葉を通して、ダビデのたましいを生き返らせてくださいました。今日、物が満ち溢れても、心が満たされない人々が多くいます。それは、人は肉体とたましいを持った存在であるからです。動物のように本能のまま生きても本当の満足を得ることができません。預言者アモスは今の時代を指して次のように預言しています。「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。」, アモ8, 。人は、神様の御言葉によって、たましいの満足を得ることができます。イエス様は言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」, ヨハ7:37, 。私たちは、日ごとの糧を通して、主日礼拝の御言葉を通して、聖書勉強を通して、神様の御言葉にふれ、たましいの満足を得ることができます。誰でも、神様を羊飼いとして受け入れるなら、心も体もたましいも満たされるようになります。 4節をご覧ください。「たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」時には、毒蛇が潜んでいる草むら、獰猛な獣が住んでいる野を歩くこともあります。その時、羊たちはいのちの危険にさらされてしまいます。しかし羊飼いは、そのような環境の中でも、羊たちの命を守ります。毒蛇に遭遇すると、むちで一撃します。また、羊を奪いに獣が襲いかかってくると、杖で応戦します。この羊飼いに守られた羊たちは、死の陰の谷を歩くことがあっても、決して恐れません。実際に、著者ダビデも、羊たちにとって良い牧者でした。サムエル記第一17章には、巨人ゴリアテに立ち向かうダビデの勇敢な姿が現れています。ところがサウルを始め、イスラエルの民たちはみな、戦争にも行けないほど幼いダビデを見て、到底勝目がないと思いました。しかしダビデはサウルに言いました。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」, ?サム17, 神様は勇敢に戦うダビデを保護してくださいました。そしてダビデに勝利をお与えになりました。ダビデは命をかけて羊たちを守っただけではなく、巨人ゴリアテを倒して、イスラエルの民を危機から救い出しました。また、イエス様は私たちにとって、良い牧者となられます。イエス様は言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」, ヨハ10, 私たちはもともと罪と死の勢力に支配されていました。サタンの支配を受けていました。そのため絶えず罪の誘惑を受け、死に対する恐怖に恐れおののいていました。ところがイエス様は、私たちを罪と死の勢力から救い出すために、十字架の上で尊い血を流されました。そして死んで三日目に死者の中からよみがえられました。このイエス様を信じることによって、私たちは全ての罪と咎が赦されました。さらに進んで、よみがえられたイエス様を信じる信仰によって、死に対する恐れは、もはや消え去りました。永遠のいのち、天の御国に対する望みが与えられました。このイエス様によって、力強く、大胆に歩むようになりました。それだけではありません。 5節の御言葉を、皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。」神様は私たちに完全な勝利を与えてくださいました。それで敵の目の前で、私たちは勝利の喜びを味わい、恐れることなく、自由に飲み食いすることができます。また、神様は私たちの全ての傷を癒し、病を治してくださいます。全ての涙をぬぐい取ってくださいます。羊飼いは、羊から虫を追い払うために頭に油を注ぎます。その油はけがを癒す役割も果たします。さらに進んで、羊同士が、頭からぶつかりあっても、注がれた油によって激しく頭をぶつけることはありません。多少、傷を受けるとは思いますが、少しは痛みも残ります。イザヤは次のように預言しました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。・・・彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53, 5)イエス様の十字架は私たちの罪と咎を赦すだけではなく、私たちの心の病、心に受けた傷、体の病をすべて癒してくださいます。さらに進んで、神様との関係を回復させ、壊れた人間関係を回復させる役割を果たしています。私たちは信仰によって救いを受けました。ところが、昔の悪い習慣、古い自分から抜け出すことができず、なかなか変わることのできない自分に絶望することがあります。実際に信仰によって生きようとしても、神様の愛に対する疑い、将来に対する恐れと不安、目の前の誘惑に落ちたことによる罪意識のために、自虐することもあります。また、家庭や職場、学校での人間関係によって悩み、心に深い傷を負ってしまうこともあります。そのような時、なかなか羊飼いであるイエス様の御姿が見えなくなることもあるでしょう。しかしイエス様の私に向けられた愛によって、もう一度、罪、悪い習慣に立ち向かって勝利する力を得るようになります。自分のことしか考えなかった人が、イエス様の十字架の愛と恵みによって、ほかの人をも顧みる牧者として生きるようになります。自分のような者でも愛し、受け入れてくださったイエス様のことを考える時、私たちは慰めを受け、傷がいやされます。そしてイエス様のように、どんな人をも愛し、受け入れ、担える力を得るようになります。人から愛情を受けようとする人は、むしろ愛に飢え渇くしかありません。しかしイエス様から受けた愛に基づいて、積極的にその愛を施そうとする人は、むしろ心に喜びが満ち溢れるようになります。後から後から喜びがあふれ出て、その喜びを分かち合わずにはいられなくなります。するとその愛情を受けた人も、恵みを受け、同じように今度は、ほかの人に対して、その愛情を与える生活をするようになります。すると、この世の全ての問題が解決されるようになります。なぜならこの世の問題のほとんどは、愛の欠如から生じるものだからです。6節をご覧ください。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」ダビデの人生を振り返って見ると、いつも平穏であったわけではありません。サウルのねたみによって、いのちからがら荒野に逃げ込み、いつもいのちの危険にさらされた時もあります。サウルの死後、イスラエルの王になりましたが、国が二つに分裂して戦争になったこともあります。また、最愛の子アブシャロムが謀反を起こし、再びいのちが狙われました。ところが、そのようなでも、ダビデは神様の大きな愛と豊かな恵みを仰ぎ見る生活をしていました。それで、ダビデは、生涯の中で「いつくしみと恵みが私を追って来る」と告白しました。「いつくしみと恵みを求めて歩む」のではなく、いつくしみと恵みがダビデに向かって来ることを信じ確信しました。ダビデが逃げても、いつくしみと恵みが追いかけて来るのです。それでダビデは、いつまでも変わることなく、主の家に住むことを決断しています。私たちも、ダビデのように、生涯の中で、いつくしみと恵みとが追って来ることを信じ、どんなことがあっても最後までキリストを信じて歩んで行くことができるように、祈ります。今日は、収穫感謝祭として、主に礼拝をささげるようになりました。皆さんにとって、今年はどんな時だったのでしょうか。どのような面で、神様から恵みを受けたのでしょうか。皆さんの中には、「今年はあまり神様から恵みを受けることができなかった」とつぶやく人もいるかも知れません。しかし本の些細なことであっても、神様に感謝できる方は幸いだと思います。 私は、この御言葉を準備する中で、勝利をくださった神様について、深く考えるようになりました。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」今年を出発する時、「正社員になることができるよう」と祈りの課題をかかげました。が、正直、心のどこかには「無理だ」というあきらめの心もありました。ところが、神様は、もう一度信仰によってチャレンジするように助けてくださいました。その時、私は失敗を挽回させてくださる神様を仰ぎ見ました。それで、「正社員になる」という望みの中で、介護福祉士試験にチャレンジしました。会社生活で忙しい中でも、神様は私と共におられ、試験勉強ができるように助け導いてくださいました。3月には、念願の合格通知を手に入れることができました。4月には、「サービス提供責任者が介護福祉士であること」という法の改正によって、「正社員になる」という望みがさらに具体的に現れるようにしてくださいました。そして6月には、ついにその望みが現実のものとなりました。ところが、その喜びも長くは続きませんでした。社員にはなったものの、具体的な仕事の内容すら教えてもらえず、慣れない仕事のためにストレスを受けました。また、そのことによって、ほかの社員から無視されるようになりました。その時、私はダビデと共におられる神様のことを考えるようになりました。どこにいても、ダビデを守り、導いてくださる神様のことを信頼するようになりました。私がこの神様を期待した時、神様は、私が謙遜に学ぶように導いてくださいました。多くの研修を通して、実際の仕事で活用できるように助けられました。そしてありのまま受け入れ、その人を支えようと決断した時、神様はその人の心を動かされました。するとその人の態度も少しづつ態度が変わるようになりました。顔を見るたびに文句を言っていた人が、週1回になり、月1回と、次第に文句を言う頻度が減るようになりました。同時に、私の心に平安も与えてくださいました。今月に入り、人事異動によって、今まで一緒に仕事をしていた人が別の営業所に移り、新しく入った人だけが残ることになりました。その中で、神様は私が信仰によって職場生活において勝利できる環境を備えてくださいました。いつのまにか、介護福祉士が4人になり、会社の基盤を固めてくださいました。また、知恵と信仰によって、的確に指示できる力をくださいました。続けて、私が職場生活において、実を結び、主の栄光を現わすことができるように祈ります。神様は、ここにいる一人一人と共にいてくださいます。イエス様の十字架の血潮によって、私たちのすべての罪を赦してくださいました。日ごとの糧の御言葉を通して、義の道に導いてくださいました。私たちの祈りを聞いてくださいました。私たちに必要なすべてのものを満たしてくださいました。日々、健康と知恵を施してくださる中で、実生活において勝利をくださいました。事故や災害から守ってくださいました。どんな時にも、私たちと共におられ、心に平安をくださいました。このように神様から受けた恵みを考える時、私たちは神様に感謝せずにはいられません。 今年、私たちと共におられ、祝福してくださった神様が、これからも共にいてくださいますように祈ります。この神様のことを覚えながら、この時間、もう一度、恵みを覚え、共に分かち合うことができるように、祈ります。そして、私たちが、自分の回りにいる人々に主の愛を施す牧者として日々、成長して行けるように、祈ります。

12Luke11御言葉を聞いて守りなさい

12luke11御言葉を聞いて守りなさい, 2012年ルカの福音書第11講 御言葉を聞いて守りなさい御言葉:ルカの福音書8:1, 18要 節:ルカの福音書8:15「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」 先週、私たちはイエス様をよけい愛した女の人の愛を学びました。彼女は多くの人々が見ているところでイエス様の足に口づけし、香油を塗ったほどに積極的に情熱的にイエス様への愛を表現しました。本当に、素晴らしいことです。ただ、心からイエス様を愛していても彼女のような表現はできない女性たちもいます。名もなく誉れもなく、自分を犠牲にして主と主のみわざのために献身する女性たちです。彼女たちは自分たちの名前が知らされることさえ望まないでしょう。ところが、イエス様の活動を綿密に調べたルカは彼女たちのことを書かずにいられなかったでしょうか。本文の御言葉に黙々とイエス様に仕えていた何人かの女性たちの名前、その他大ぜいの女たちのことが記されてあります。彼女たちはイエス様と12弟子たちに仕えていました。ルカは彼女たちの活動を紹介してからイエス様が話されたたとえを記しています。恐らく、ルカはあの女性たちの労苦は無駄にならないことを示そうとしたと思われます。つまり彼女たちが仕えているイエス様が町や村の人々に蒔かれた神様の御言葉の種は良い地の人にも落ちて実を結ぶことです。また、彼女たちの奉仕と献身も知らされ、現われて輝くようになる日も来ることも伝えようとしたということです。この時間、そのようなルカの意図、何よりも叫ばれるほどに御言葉を聞いてほしいと願っておられるイエス様の御心を考えながら本文の御言葉を学びたいと思います。そのうちに、御言葉の奥義を悟ってイエス様の希望を見つけ、自分自身も成長して豊かな実を結ぶ人生を生きることができるように祈ります。1節をご覧ください。「その後」とはイエス様がイエス様をよけい愛した女性に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と言われた後にと言うことです。その後、イエス様は、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられました。十二弟子もお供をしました。2,3節をご覧ください。悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、自分の財産を持ってイエス様の一行に仕えたヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナの名前が記されてあります。そして、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであったことが記されています。彼女たちは名前も知らされていませんが、イエス様が神の国を説き、福音が宣べ伝えられることのために奉仕し、献身していました。2, 000年を超えるキリスト教の歴史はそういう女性たちの仕えによって支えられていると言っても過言ではないでしょう。東京ubf教会にも自発的に、献身的に主に仕える女性たちがいることを感謝します。先週、水曜日の勉強会の時にも姉妹牧者宣教師たちはもっと自分の財産を持って主に仕えようと話し合ったことを聞きました。私たちの教会ではイースター、収穫感謝祭、クリスマスの時に食事会を開いていますが、それも自分のものを持って来て仕えましょうと話し合ったということです。私は心の中でやはり女性の宣教師・牧者たちの純粋な信仰と献身的だなあと思いました。こういう信仰の女性たちによって神の国が広められ、福音が宣べ伝えられていることを感謝します。ルカは献身的に福音のみわざに仕えている女性たちを紹介してからイエス様のたとえ話を紹介しています。4, 8節をご覧ください。イエス様はたとえを用いて話されました。このたとえ話は話自体、難しいところは何もありません。当時の人々が毎年目にしていた光景でした。イエス様がこのたとえを話されると、誰でもそのとおりだとよく理解できたはずです。当時の人々は畑のあぜ道のところから種を風にまかせて「バーット」まき散らしたそうです。すると、道端に落ちる種もあれば、岩の上や茨の中に落ちる種もありました。そして、良い地に落ちて100倍の実を結ぶ種もありました。イエス様はそのことを話されたのです。それで、人々は興味を示しませんでした。事実、すでに分かっている話を聞くことは面白くないでしょう。私は学校で数学を教えていますが、すでに分かっているような生徒は注意深く聞こうとしません。皆さんはよく知っている御言葉を伝えても謙遜に聞いてくださいますね。でも、知っているような話には耳を傾けたくないでしょう。眠くなるかも知れません。イエス様がたとえを話される時も、群衆の中には、なぜこんな誰でも知っているような話をするだろうと思う人たちがいたようです。居眠りしている人たちもいたことでしょう。イエス様が叫んでおられます。8節の後半部をご覧ください。イエス様はこれらのことを話しながら、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれました。聖書に「叫ばれた」とあります。なぜ、イエス様は当たり前のようなことを話しながら叫ばれたでしょうか。それは当たり前のような話の中にとても大切な真理が含まれていたからでしょう。どうしても分かってほしい奥義、とても重要なことがあったのです。イエス様はそれを伝えようとしておられました。その切なるイエス様の御心が弟子たちに伝わったでしょうか。弟子たちは手を上げて, 手を挙げたからは知れませんが…, 、「先生、ただいま話されたたとえの意味は何ですか?」と質問しました。このたとえがどんな意味かをイエス様に尋ねたのです。やはり弟子たちは群衆とは違いました。弟子たちのように、イエス様に質問することは素晴らしいと思います。本当に何かを理解するためには問いかけがなければなりません。私が20年以上の教師生活を通して経験していることの一つも問いかけがある生徒は伸びるということです。先週もよく質問する子は伸びるんだということを深く悟りました。高等部3年生の期末考査が終わったのですが、対照的な二人の生徒がいます。一人は知的な顔をしていてまじめな子です。宿題もよくやって来ます。ただ、この子は考え方が否定的であってよく文句を言います。質問するのではなく、一生懸命にノートに書きながら「何で数学は難しいんだ」と文句を言うのです。一方の一人の子はニックネームが「ツルベさん」です。知的には見えないし、彼女が一年生の時も教えたのですが、成績もよくありませんでした。ところが、3年生になってからよく質問していました。私が「先生だって忙しいよ。」と言ってもまた質問をするのです。結果を見るとできそうに見えた生徒は評点「3」でよく質問していた生徒は評点が「5」でした。「5」を取った生徒は大喜びで「先生、本当ですか。」と何度も言いました。彼女はぎりぎりの成績で「5」を取ったのですが、人生において貴重な経験をしたと思われます。御言葉に対しても同じことが言えるでしょう。ただ何となく読み、聞いているだけなら奥義を悟り、恵みを受けることがなかなかできないでしょう。しかし、「この御言葉はどんな意味か」と質問する、問いかける人は奥義を悟り、大切なことを学ぶことができます。つまり、聞く耳のある人々が本当の意味を知り、恵みを受けるようになるのです。ではイエス様が話しながら叫ばれたほどに、分かってほしいと願われたたとえの意味は何ですか。11, 15節をご覧ください。このたとえの意味はこうです。種は神様のことばです。「土」は神様の言葉を聞いている人々のことです。神様の御言葉がいろいろな種類の人々に蒔かれました。そして、人々は道ばた、岩の上、いばらの中、そして良い地のようでした。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。道ばたは人々が通るところです。「通行禁止」になっていない限り、泥棒も、ヤクザも自由に通るでしょう。そして、泥棒やヤクザは良いものが見えたら持ち去ってしまいます。そのように私たちの心もいろいろなものが通ります。人々の声、テレビやインターネットの動画も通ります。その中で悪魔も通ります。そして、私たちの心の中にあるものの中から良いものを持ち去って行きます。私たちの心にあるものの中で最も価値あるものは聖書の御言葉です。だから悪魔は私たちが読んだり聞いたりして受け取った聖書の御言葉持ち去って行くのです。ですから、この悪魔の働きに注意しなければなりません。私たちは悪魔は人のことばやテレビ、インターネットについています。私たちがコンピュータを付けてインターネットをついつい見ているうちに悪魔も入って来て私たちにある宝物、御言葉を持ち去ってしまうからです。特に悪魔は傷つける人の言葉を通しても入って来ます。一度ひどい言葉を聞くと、心の中から波紋が広がり、御言葉も消えていくからです。また悪魔は私たちに蒔かれた御言葉を信じて救われないように私たちの心や頭の中に淫乱な写真と動画などのイメージがを残そうとします。ですから、私たちは御言葉を聞く時に、自分にとって「どんな意味か」と深く考え、心に受け入れることが大切です。次に、岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。この人たちは、聞いた時には喜んで御言葉を受け入れます。御言葉を聞くと「アーメン。ア〜〜メン」とうなずきます。しかし、問題は御言葉の種が根を張ることができないということです。根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。道ばたよりは一段階進んでいるようですが、それでも実を結ぶことができません。種が蒔かれても根を張らなければ実を結ぶことはできないのです。私たちはキリストの中に根ざすことによって良い実が結ばれます。イエス様はこう言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」本当の実はキリストの中に根ざし、キリストに留まるところが結ばれるのです。 三つ目にいばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。」とあります。この人々はそれなりに芽を出していますし、成長しています。御言葉の素晴らしさを味わって喜んでいます。素晴らしい御言葉に励まされて自分の生活もよくなっています。しかし豊かな実を結ぶ所までは到りません。成長を妨げるもののために十分に成長することができないからです。それはイエス様が取り上げておられたように、この世の心遣い、富、楽しみなどがあります。私たちが生活の中で全く心遣いや心配ごとから避けられることは不可能です。また、富や楽しみが悪いわけでもありません。箴言10, 22節を見ると「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。」とあります。問題は優先順位です。神様よりも自分の心配事、富、楽しみに目が行く時、決して成長できません。私たちはbetterのために、bestを失ってしまいがちです。私たちが本当に実らしい実を結ぶためには、自分にとって良いこと、楽しいことを捨てる勇気を持たなければならないのです。私は毎日、日ごとの糧を通して御言葉を受け入れ、こうして毎週のメッセージも伝えています。力量の足りない私にとって職場で土曜日の午前まで仕事をしながら毎週のメッセージを準備して伝えることはやさしくありません。でも、私にとっては楽しみであり、喜びでもあります。生きがいも感じています。でも、時々、私はこの世の心づかいや、富や、快楽によって霊的な力を失ってしまいます。この間、同僚の先生が自分の奥さんのために服を買いにデパートに行ったのですが、とても高かくて変えなかったのですが、「先生はどこで買っていますか」と私に聞きました。それで私は笑いながら「妻に買ってあげるんじゃなく、買ってもらうものでしょう。」と言いました。ところが、後で私の心の中で私は夫として、父として何をして来たんだろうと思うと、力がなくなって行きました。しかし、この世の心づかいは要らないものです。マタイの福音書6, 33節を見ると「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず、第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。本当にこの世の心づかいを捨てて神様の御言葉を聞いて守り行う生活をするなら神様がすべてのことも助けてくださいます。自分のことで凝縮ですが、この間、父の日に書いてくれた子どもたちの手紙に「パパは教師の仕事だけでも大変なのに、牧師の仕事もしながら僕たちのために働いてくれてありがとうございます。今の自分にとってできることは勉強だからもっと一生懸命に努力します」という内容もありました。私は手紙の内容を思う時、感動して涙が出そうになりました。本当に神様が育ててくださるんだなあと思いました。私たちの周りには茨や雑草がよく育ってくるのですがその時にそれらを切り捨てなければなりません。何を選んでいくかと言うことは大切です。私たちクリスチャンにとして神様の御言葉を選び取る時に、私たちの人生は祝福され、豊かな実を結んでいくのです。15節をごいっしょに読んでみましょう。「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」ここで見ると、良い地の心もあるということです。私たちが一生懸命に福音を宣べ伝えても、なかなか受け入れてくれない人々が多くいます。自分の財産を持ってイエス様に仕えた女性たちのように仕えてもなかなか実を見えない時に絶望しやすいです。姉妹宣教師たちは毎週木曜日に早稲田大学に行って福音を宣べ伝えていますが、御言葉を受け入れてくれる方は多くありません。ところが、この間のバイブルアカデミーの時に「絆」というテーマで写真展を開くと、二日間で50人ほどの方たちが来られました。良い地の人たちもいるのです。今年、私たち教会のスローガンは「御言葉を宣べ伝えなさい」です。私たちが御言葉の種を蒔き続けると、必ず福音を受け入れてくれる人もいるのです。それで伝道においても豊かな実を結ぶ時が来ます。私たちの労苦は無駄になりません。16, 18節をご覧ください。「, あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」とあります。つまり、イエス様と一緒だったあの女性たちのように主に仕えたことは現われる時があります。よく聞き入れる生活をしなければ自分のうちに芽生え、成長している御言葉も実らずに消えてしまうということです。また、私たちは15節の御言葉から自分が良い地の人になり、成長して実を結ぶことも学ぶ秘訣も学ぶことができます。百倍の実を結ぶ秘訣です。霊的には愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制など御霊の実を結びます。人生の様々なことにおいても実を結ぶようになります。ではこのたとえの結論を見てみましょう。もう一度15b節をご覧下さい。「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」とあります。良い地の特徴の一つ目は「正しいよい心で御言葉を聞く」ことです。?サムエル記3章を読んでみると、神様の語りかけに対するサムエルの態度が記されています。彼は「主よ。お話ください、しもべは聞いております, と答えました。このような姿勢を持っている人の心こそ、正しい良い心です。そういう準備された心で御言葉を聞くと実を結ぶようになるのです。耳に心地よくても悪くても、正しい心で聞くとそれが成長する秘訣、実を結ぶ秘訣です。二つ目は御言葉をしっかりと守り、よく耐えることです。試練があって耐えることです。私たちは忙しさのために一日の中で御言葉を思い出すことさえできずに、過ごしてしまいます。仕事に流されたような日々を過ごしてしまうのです。だからといってあきらめてしまうなら、どうなるでしょうか。いつの間にか心の中に茨と雑草が生えてきます。ですから、私たちが、本当に実を結ぶ生活を望むなら、御言葉を黙想する時間を保たなければならなりません。御言葉を保っていると御言葉は私たちを導いてくださいます。詩篇119, 105を見ると「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあります。私たちが毎日問いかけを持って御言葉を読み、深く黙想して奥義を悟って行くなら、御言葉が私たちを導いてくださいます。日々御言葉に導かれていくと、本当に神様に喜ばれる人生を生きるようになります。自分の自身も本当の幸せを味わい、いつも喜ぶ勝利の人生を生きるようになります。どうか、私たちが聞く耳を持って御言葉を聞き入れ、それを守り行う生活ができるように祈ります。

12Luke10よけい愛すること

12luke10よけい愛すること, 2012年ルカの福音書第10講よけい愛すること御言葉:ルカ7, 18〜50要, 節:ルカ7, だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」先週、私たちはイエス様を驚かせたりっぱな信仰を学び、慰めといのちの御言葉をいただきました。毎週、イエス様のお言葉をいただけることは幸いです。「パンがなければ、力もない」というトルコのことわざがあります。私たちに「いのちのパンである御言葉がなければ、霊的な力もない」とも言えるでしょう。どうか。今日も神様が私たちにお言葉をいただかせてくださるように祈ります。今日はバプテスマのヨハネのこと、イエス様を招いたパリサイ人の、イエス様をよけい愛した女のことを通して彼らに対するイエス様の評価を学ぶことができます。特によけい愛することについて考えさせていただき、私たちもよけい愛することができるように祈ります。18節をご覧ください。「さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。」とあります。「これらのこと」とは先週、学んだことです。死にかけていた百人隊長のしもべを癒したこと、死んだ青年を生き返らせたこと、それによって人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われたとか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神様をあがめていたことです。さらにイエス様についてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まったことです。当時、ヨハネは国王ヘロデ自分の兄弟の妻だったヘロデヤを奪い取ったことが悪いと厳しく責めたことで、牢屋に閉じ込められていました。そんなヨハネに弟子たちが来て死者も生き返らせたイエス様のことが報告されたのです。そこで、ヨハネはイエス様のみもとに弟子を送って『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』と聞きました。彼は弟子たちの報告を通してイエス様こそ、おいでになるはずの方、キリストであると確信したようです。そして、キリストなら、正義のために戦った自分を助けてくださるだろうと期待したでしょう。何よりも、あの悪質なヘロデ王を王座から降ろし、キリスト王国を立ててくださると信じていたようです。ところが、イエス様は何と答えられましたか。22節をご覧ください。「そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」とあります。イエス様はご自分の活動について何も説明なさいませんでした。ただ、ご自分がメシヤとして働いておられることをそのままヨハネに報告するようにおっしゃいました。ではこの報告を聞いたヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。時代はイエス様の先駆者として働いていたヨハネの時代が終わり、すでにイエス様が働いておられました。このイエス様の働きによってメシヤの先駆者として働いたヨハネの労苦が無駄にならず、今キリストによって実が結ばれていました。でも、ヨハネの弟子から聞く報告寂しいものだったでしょう。メシヤの道を備えるために、正義のために命がけで働いた自分に対しては何も言われず、イエス様がご自分の働きだけを伝えさせたからです。イエス様に対する信仰がなければつまずいてしまうでしょう。そこで、イエス様はこう言われました。 23節をご覧ください。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」とあります。ヨハネの立場から考えると、つまずきやすい状況です。正義のために戦ったのに何も報われず、むしろ牢屋に閉じ込められてしまいました。メシヤとして信じているイエス様は何も助けてくれませんでした。むしろ、自分が悔い改めさせた民を通して多くの実を結んでいました。こうなると、本当につまずきやすいでしょう。それはヨハネだけではありません。イエス様が「だれでも」と言われたように、誰でもつまずく可能性があります。たとえば、ある宣教師が何年間も御言葉の種を蒔き、日本の宣教のために働いたのに、何も実を結ぶことができませんでした。むしろ、自分は牢屋に閉じ込められていないけれども、現実的に良くなっていることが感じられません。一方、自分より遅く始めた宣教師は多くの実を結んでいるのです。すると、つまずきやすいでしょう。それで、日本に遣わされた宣教師たちの中で数多い方たちがつまずいてしまいました。日本は「宣教師の墓」とも言われるほどです。しかし、今もイエス様は言われます。「誰でも、わたしにつまずかない者は幸いです。」本当にそうです。神様のみわざは神様がなさいます。今日も神様は聖霊の働きを通して日本と全世界に福音のみわざを広げておられます。私たちは自分の事が正しく評価されていないと思われる時に、つまずきやすいですが、つまずくようになると、実は何もかも失ってしまいます。私たちは自分の信仰生活が評価されなくてもつまずくことなく信仰の中心を守る時、幸いな者になります。神様はそういう人に永遠のいのちを与えられ、神様の救いのみわざに貴く用いてくださいます。ではヨハネに対するイエス様の本当の評価はどうでしたか。24, 26節を読んでみましょう。「ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」イエス様はヨハネが歴史的にどんなに偉大な人であるか、を称賛してくださいました。ヨハネはどの預言者よりもすぐれた預言者です。どのような点でそうでしょうか。27節をご覧ください。「その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」この御言葉からヨハネの偉大さは、彼が担った使命にあることが分かります。ヨハネはメシヤの先駆者としてメシヤの道を忠実に備えました。彼が荒野にいても数多くの人々が集まって来るほどに人気が上がった時にも、自分を誇らないで謙虚にイエス様を証ししました。彼は名もなく、誉れもなく、ただ、自分に与えられた役割を忠実に果たしていたのです。イエス様はそのような彼を女から生まれた者の中で一番すぐれていると誉められました。ところが、イエス様は「神の国で一番小さい者でも、ヨハネよりすぐれています」とも言われました。それはイエス様を信じることで神の国の民となる新約のクリスチャンたち、イエス様の血によって贖われた人々はヨハネよりも偉大だということです。これは不思議な言葉です。ヨハネもイエス様の血で贖われるはずからです。ただ、その時はまだ、ヨハネは旧約の羊の血による贖いの中にいるから、完全な贖いを受けてはいないという意味なのでしょう。神の国では一番小さい者でもイエス様の十字架の血による恵みのゆえにヨハネよりすぐれた者になるのです。 29節をご覧ください。すべての民は、収税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けたので、神様の正しいことを認めました。彼らはヨハネが悔い改めのメッセージを伝える時、自分たちの罪を告白して罪の赦しを受けました。それで、彼らはイエス様の御言葉を心から認め、受け入れました。しかし、パリサイ人、律法の専門家たちは意図的にヨハネのバプテスマを受けませんでした。彼らはヨハネも拒み、ヨハネが証ししたキリストも拒みました。イエス様はたとえを通して彼らのかたくなさを指摘なさいました。31‐32節をご覧ください。「では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。」とあります。当時、市場では子どもたちが結婚式ごっこやお葬式ごっこをしていました。それで、二組に分けてやりましたが、一つの組が笛を吹いてやると、他の組は踊るべきでした。また、弔いの歌を歌ってやると泣かなければなりませんでした。それがよく守れなかった時は互いに「お前のせいだ。」と言いながら喧嘩し、遊びが喧嘩で終わってしまいました。当時の人々もまるで規則を破った子どもたちのように何を見ても人のせいにし、否定的、批判的でした。バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』と非難しました。イエス様が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と非難していたのです。それをイエス様は叱られました。否定的、批判的な生き方をしている人々は彼ら自身も批判されるでしょうが、まず自分自身の心に喜びも平安もなくなってしまうでしょう。ヨハネのことも、イエス様のことも、パリサイ人のことも、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。ここで、すべての子どもたちとは、神様の御業、実を指しています。つまり、私たちの行動は人々の厳しい批判によって評価されるのではなく、私たちの行動の結果結ばれるその実によって評価されるのです。36節をご覧ください。「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。」とあります。あるパリサイ人が誰かは知りませんが、イエス様を招いたこと素晴らしいと思います。イエス様は彼の招きに応じられました。イエス様は彼も愛しておられたからです。「ただ、自分の敵を愛しなさい。」と教えられたイエス様は、そのとおりにご自分に敵対しているパリサイ人もを愛しておられたことが分かります。 37, 38節をご一緒に読んでみます。「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。」罪深い女と呼ばれている人が人の家に訪ねること、しかもパリサイ人の家を訪問することはほとんどなかったでしょう。それなのに彼女がパリサイ人の家におられるイエス様の身元に来たことは大変な決断があったと思われます。彼女は勇気を出してパリサイ人の家に入り、まっすぐに主イエスのところに行きました。そして、イエス様の御足許に行くと、跪いて泣き始めました。そして、泣きながら、その涙で濡れた主イエスの御足を、自分の長い髪の毛でぬぐい、口づけをして、持ってきた香油を塗りました。それを見ていた、パリサイ人シモンは、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」(39)と、心ひそかに思いました。その心の中の思いを、イエス様は、ご存知でした。神の御子であるイエス・キリストは、私たちの心の中で考えていることさえも、全てご存知なのです。その時、主イエスは、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われました。心の中で、主イエスを批判していたパリサイ人シモンは、ドキッとしたことだと思います。しかし、取り繕って、「先生。お話しください。」と答えました。そこで、イエス様はお話しなさいました。41、42節をご覧ください。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」とあります。それに対して、シモンは、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えました。すると、イエス様は、「あなたの判断は当たっています。」と言われました。そして、その女のほうを向いて、シモンに言われました。44−47節をご覧ください。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして、その女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われました。ここで、私たちはパリサイ人の考え方とこの女の考え方の違いを発見することができます。この女は、自分の罪をしっかりと自覚していました。ですから、主イエスの御足許にひれ伏して、涙を流し、その涙を自分の髪の毛で拭い、口づけして、香油を塗ったのです。この愛は熱く、情熱的なものです。周りの人々を意識せずに愛を表現している若者たちを見ると「燃えているね」と言います。それを聖なる愛に比べるのは良くないかも知れませんが、本当によけい愛していることが分かるほどの表現です。ある程度愛することではないのです。彼女は実に熱くイエス様を愛しました。情熱的に愛しました。献身的に、犠牲的に愛しました。心を尽くし、体を尽くし、力を尽くして情熱的に愛したのです。よけいにしたと言われるほどイエス様を愛したのです。イエス様はこういう愛を喜ばれます。イエス様は私たちの信仰もこの女性のように熱くなることを願っておられます。私たちもイエス様を情熱的に愛することができるように祈ります。周りからイエス様をよけい愛していると言われるほど熱く愛することができるように祈ります。ではよけい愛した彼女の行動に対するパリサイ人シモンの考えはどうでしたか。自分は、律法をしっかりと守っており、その女のような罪人ではないと考えていました。彼はイエス様を自分の家に呼んだものの、イエス様に対する礼儀はありませんでした。自分のしもべたちにイエス様の足を洗うように命じることもせず、対等の立場で、食事を共にしていました。イエス様への感謝も礼儀もなく、ただ、何でもかんでも否定的・批判的に考えていたのです。皆さんは、いかがでしょうか。「自分は、赦されるべき罪人である」と思っておられるでしょうか。それとも、私は、人様から後ろ指を指されるようなことは何もしていません。むしろ、人たちからは、良い人だと言われるし、私に罪があるとは到底思えない。と思われているでしょうか。もし、そうであれば、あなたは、このパリサイ人シモンと同じように、イエス・キリストは必要ありません。私は、時々、人に言えないような、本当に自分がいやになるような汚い、醜いことを考えてしまいます。また、ひどいことを言ってしまいます。学校で生徒や教師「えー、先生は牧師なのにそんなことを言いますか。」と言われる時もあります。そんな時、本当に自分が嫌になります。でも、私は、教会に来ると、表面上は取り繕っているので、皆さんは、私の心の中を知らないでしょう。私のことを良い人だと思ってくださっている人もいるでしょう。でも、皆さんは、私の心のなかまで、読むことは出来ません。しかし、神の御子であられる主イエスは、私の心の中までも、全てご存知なのです。ですから、私は、時々祈る時に、自分の罪が思い浮かび、悔い改めながら泣きます。涙が多いと言われる時もありますが、罪が多いからです。パリサイ人シモンの家で、食事を一緒にしていた人たちは、口には出さずに、心の中で、「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」(49)と、思い始めました。すると、イエス様は何と言われましたか。最後に50節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」彼女はイエス様をよけい愛していたので非常識的な行動をしました。人の家にはいり、泣きながら、その涙で濡れた主イエスの御足を、自分の長い髪の毛でぬぐい、口づけをして、持ってきた香油を塗ったのです。これは確かに常識的な行動とは言えないでしょう。でも、イエス様は彼女がよけい愛してくれたと評価してくださいました。彼女の愛の表現は真実で素晴らしかったのです。しかし、そのような行ないによって救われるのはありません。また、誰も洗ってくれなかったイエス様の御足を洗い、香油を塗ったから赦されたのではありません。彼女の信仰が彼女を救ったのです。私たちも同じです。行ないや品性、業績や言葉によって救われるのではありません。ただ、イエス様を信じる信仰によってのみ救われます。私たちの罪は、全く罪のない、聖なる神の御子であられるイエス・キリストが、あの十字架の上で流された血潮によって赦されました。聖書によれば、イエス・キリストを信じる以外に救いの道は、私たち人類に与えられていません。私たち人類の救いの道は、イエス・キリストにしかないのです。これは、神様の一方的な愛である、恵みによるものです。いくら教会に通い、献金して、一生懸命に奉仕しても、救われません。イエス・キリストを信じて、従っていこうとする、その信仰によって、私たちは、救われるのです。そして、その救いには、大きな喜びが伴います。自分の罪が全て赦され、神の家族とされ、永遠のいのちが与えられたという喜びです。イエス様は言われました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

12Luke09りっぱな信仰

12luke09りっぱな信仰, 2012年ルカの福音書第9講 りっぱな信仰御言葉:ルカ7, 1〜17要, 節:ルカ7, 9「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」今日は、父の日です。案外、「母の日」の陰に隠れて忘れがちかもしれません。私も父の一人でもあるから凝縮ですが「母の日」だけでなく、「父の日」も覚えてお祝いしましょう。聖書は「あなたの父と母を敬え。」と記しています。お父さんへのプレゼントは、まだ間に合います。言葉だけでも父親への深い感謝の気持ちを表しましょう 聖書は私たちの神様が私たちの父であることを教えています。イザヤ64:8節に「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」とあります。そして、イエス・キリストは父なる神様です。イエス様は「わたしと父とは一つです, ヨハネ10, 」言われました。そういうわけで今日は肉親の父親だけではなく、父なる神様への深い感謝の気持ちを持ってイエス様のお言葉をいただきたいと思います。一般的にも「言葉には力がある」と言われます。東京都には「言葉の力再生プロジェクト」もあります。この言葉の力をよく理解し、経験していたある百人隊長はイエス様に言いました。「ただ、お言葉をいただかせてください。」と。ここでの「お言葉」とは天皇の言葉ではなく、イエス様のお言葉です。この時間、本文の御言葉を通して百人隊長の立派な信仰を学び、信仰によってイエス様のお言葉をいただきたいと思います。私たちが心からお言葉をいただくなら、それは思いかけない時にふっと私たちの中でよみがえります。私たちが悲しい時に慰めと励ましなります。死にかけている時に癒しと命となります。どうか、聖霊の助けによってイエス様が驚かれるりっぱな信仰を学び、イエス様のお言葉を深くいただく時間となりますように祈ります。?.イエス様のお言葉に対する百人隊長のりっぱな信仰, 1−10, 2節をご覧ください。イエス様は先週私たちが学んだ平地の説教が終わると、カペナウムに入られました。カペナウムはイエス様の宣教のうちもっとも重要なガリラヤ伝道の本拠地になっていました。そこで熱病で寝ていたペテロのしゅうとめ、中風の人が癒されました。また、マタイの福音書を記した元収税人マタイがイエス様の弟子として召されました。その町に、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていました。百人隊長は百人ほどの軍人を指揮する人です。当時の階級からすれば上級職でした。ユダヤ人の長老たちでも使いに送るほどに権力を持っていました。一方、しもべは当時の世界で「物を言う道具」に過ぎない存在でした。使い捨てのもののように扱われていたのです。多くのローマ軍人たちは現地で採用されたしもべが働けなくなると捨ててしまいました。ところが、本文の百人隊長はどうしましたか。 3, 5節をご覧ください。百人隊長は、イエス様のことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いしました。ひとりのしもべのために長老たちを使いに送るほどに部下を愛していました。しもべが働いてくれる時だけではなく、死にかけている時も愛し続けていました。自分のしもべだけではありません。彼は町の人々も愛していました。それはユダヤ人の長老たちの言葉から分かります。4、5節をご覧ください。「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」とあります。百人隊長は敵対関係であったユダヤ人を愛していました。ルカはイエス様の平地説教に続いてイエス様の教えをそのまま実践しているような異邦人のことを記しています。彼は異邦人でありながらもユダヤ人を愛し、彼らのために善を行なっていました。ぱりさい人や律法学者たちは豊富な知識を持って人々をさばいていましたが、彼は人をさばくのではなく、町の人々と交わり、彼らのために会堂を建てるほどに愛を行なっていました。すると、彼自身も愛され、尊敬されるようになりました。ユダヤ人の長老たちが彼もが彼のためにイエス様に熱心にお願いするほどに重んじられていました。しもべでも重んじる彼は自然に人々から評価され、愛され、尊敬されていたでしょう。本当に素晴らしい人です。彼は地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人のように賢い人生を生きていたと言えるでしょう。私たちもこの百人隊長のように愛を実行する生活ができるように祈ります。また、自分が属している組織やコミュニティーの中で重んじられる人として生きるように祈ります。 イエス様は長老たちのお願いを聞いてから彼らと一緒に行かれました。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られました。その時です。百人隊長は友人たちを使いに出して、イエス様に伝えました。6bをご覧ください。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」とあります。彼はイエス様が自分の家の近くに来ておられることを聞いたでしょうか。彼はイエス様が異邦人である自分の家に入らなくてもいいように使いを出しています。「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」と言っています。本当に謙虚な姿です。この謙遜さは、どこから来たでしょうか。それはイエス様に対する正しい知識から来たと思われます。7、8節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」≪ただ、お言葉をいただかせてください。≫百人隊長はイエス様のお言葉の力を正しく知り、信じていました。彼は自分の生活の中で言葉の力を経験し、それをイエス様のお言葉に適用しています。百人隊長だとしても彼の上には千人隊長もいるし、軍団長も、司令官もいたはずです。当時の世界を支配するローマ皇帝もいます。彼らの権威に従わなければなりませんでした。また、自分の部下たちを見ると、誰も逆らうことなく自分の命令に従っていました。カペナウムで目撃し、人々から聞いたイエス様は間違いなく天においても、地においても一切の権威を持っておられる方でした。イエス様は海の中にある魚たちを動かし、病人を癒し、悪霊を追い出しておられたからです。こういうことを通して彼はイエス様のお言葉には時間空間を超えて働く力があることを信じました。そこで彼はイエス様に「ただ、お言葉をいただかせてください。」と言ったのです。では、イエス様のお言葉に対する百人隊長の信仰を聞かれたイエス様は何と言われましたか。 9, 10節を読んでみましょう。「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。」イエス様は驚かれました。イエス様は百人隊長の人々への愛、イエス様への尊敬と謙遜を聞かれた時に感動されたでしょう。確かに彼に対する長老たちの話を聞かれた時に「彼は素晴らしい!本当に偉い!」と感激されたと思います。でも驚かれるほどではありませんでした。しかし、イエス様のおことばに対する深い信頼、その信仰を聞かれた時は驚かれました。イエス様は彼のお言葉に対する信仰に驚いて「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」と賞賛されたのです。結局、その信仰のとおりに彼のしもべはよくなっていました。離れていても遠隔治療ができたのです。 ここで、私たちはイエス様が驚かれる立派な信仰とはお言葉に対する信仰であることが分かります。本当に神様のお言葉には力があります。創世記1章3節を見ると、「神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。」とあります。9節では「神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。」とあります。このようにして神様は天地万物を、その御言葉によって創造されました。このように神様の御言葉には力があり、権威があります。しかし、不信仰の人には何の意味もありません。律法学者たちのように知識的に知っていても意味がありません。神様のお言葉は信じる者のうちに働きます。「求めなさい、そうすれば与えられます。」という御言葉を信じる者はその通りに、神様に求めて与えられることを体験します。約束の御言葉を信じる者はその通りに成就されることも体験できます。信仰の先祖アブラハムは神様から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と言われた時、それを信じて従いました。ただ、神様からいただいた御言葉を信じたからこそ、行く先を知らないで出かけて行ったのです。すると、彼は大いなる国民の父のなり、祝福の源となりました。モーセも神様の御言葉を信じて従いました。すると約束の通りに、偉大な指導者としてエジプトでの奴隷として苦しんでいたイスラエルを導き出すことができました。イザヤ、エレミヤ、アモスなどの預言者たちも御言葉を聞き、それに従うことを通して御言葉の力と権威を体験し、祝福された人生、偉大な人生を生きることができました。 最近、私たちがルカの福音書を通して学んできたペテロも、ヨハネ、ヤコブ、マタイたちも御言葉に従うことによって御言葉には力があること、人を癒し、人にいのちを与えることを体験する人生を生きるようになりました。本当にお言葉をいただくと人生が変わるのです。この世で偉人たちもいい言葉を残し、その言葉によって癒される人々もいます。いい言葉はいい人生をつくってくれるでしょう。ところが、変な人の言葉に惹かれていくと変な人生になってしまいます。先週、高橋容疑者逮捕によってオウム真理教のすべての逃亡犯が逮捕されました。オウム真理教元代表・松本智津夫死刑囚の言葉に騙された人々の被害はどんなに大きいものでしょうか。また彼らの地下鉄サリン事件によって犠牲になった人々がどれだけ多いことでしょうか。だからいい言葉のように聞こえても人間の言葉には気を付けなければなりません。しかし、聖書にあるイエス様のお言葉は真理です。人類の歴史がそれを証明しています。新約時代だけでも2、000年以上、数えきれない人々が御言葉を信じて救われました。御言葉の力と権威を体験して来ました。?.慰めといのちのお言葉をいただいた親子, 11‐17,  11, 13節をご覧ください。イエス様がナインという町に行かれました。その時、どんな行列に出会いましたか。イエス様が町の門に近づかれると、死の行列に出会いました意。やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところでありました。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていました。彼らはひとり息子を亡くしたやもめをどのように慰めていたことでしょうか。もし、年寄りの母親を亡くした息子なら、慰めることができます。「もうこれ以上、, 泣かなくてもいいの。これからはもっとしっかりしなくちゃ。」と言うことができるでしょう。あるいは「「泣きなさい。もっと泣きなさい。泣けるときに泣きなさい。」と言えるかもしれません。しかし、子どもを亡くした母親にはそのように言えません。早くも夫をなくし、続いて今ひとり息子を失ったやもめに言えることばがあるでしょうか。どんな言葉を聞いても彼女にとって、それは心引き裂かれるものになったのではないでしょうか。できるものなら、息子と一緒に葬られたいと切実に願っている母親に言える言葉はありません。私たちはこのような悲惨な現実の中で語る言葉を失います。ただただ心を痛めながら、共に涙を流す以外にはないのです。しかし、イエス様は違いました。私たちの悲しみの深い淵の底に降りて来られるだけでなく、その現実を造り替えてくださるのです。13節をご覧ください。「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。」とあります。ここで「かわいそうに思い」という言葉の元々の意味は「はらわたが揺り動かされる」という意味です。これがこの時にイエス様が感じられた思いです。やもめの悲しみと絶望にはらわたが揺り動かされる痛みを感じられたのです。そして、その心、悲しみにはらわたが揺り動かされる母親の悲しみに共感して「泣かなくてもよい」と言われたのです。このイエス様のお言葉を聞いたやもめの心はどうなったのでしょうか。恐らく、今までは感じることができなかった深い同情のお言葉に慰められたことでしょう。自分の悲しみに共感してくださるイエス様のお言葉に本当の慰めを受けたと思います。イエス様は私たちのことをよく知っておられるからです。詩篇56篇8節をみると「あなたは、わたしのさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にくわえてください。」とあります。新共同訳では「あなたは私の嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの皮袋に私の涙を蓄えてください。, 56:9, 」とあります。神様は私のさすらい、私の嘆き、私の波を数えられました。親友が分かってくれない苦しみ、親も、夫が分かってくれない苦しみも、神様は知っておられます。それだけではなく、その涙までも数えておられます。このようにイエス様は私たちをよく知っておられるからこそ私たちを哀れんでくださいます。そして、私たちの問題を解決してくださいます。イエス様はひとり息子を亡くした母親の悲しみに同情し、かわいそうに思われることだけではなく、根本的に助けてくださいます。母親の問題を解決してくださるのです。ですから、「泣かなくてもよい」と言われるイエス様のお言葉は彼女にとって本当の慰めになります。では、イエス様はどのようにして彼女の悲しみの問題を解決してくださいましたか。14節をご一緒に読んでみましょう。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。」イエス様は「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われました。イエス様は若い人に言われます。「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」ここで「起きなさい」とは新約聖書に144回出る言葉です。ギリシャ語では「エゲイロー」ですが、それは「目を覚ます、起きる、立ち上がる、よみがえる」という意味だそうです。イエス様はヤイロの娘にも言われました。「子どもよ。起きなさい。, ルカ8:54, 」このことばに力があります。この声に死の力を打ち砕く愛の力があります。イエス様の声は死んでいる者の耳に届くのです。ただこのような権威ある声に私たちは従うしかないでしょう。どうか「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」という主の声を聞くことが出来るように祈ります。その権威ある言葉に圧倒されて目を覚まし、起きて立ち上がることが出来るように祈ります。「愛は死より強い。」とありますがそのとおりです。主の愛の力、御言葉の力が死んだ青年に届きました。15−17節をご覧ください。イエス様のお言葉を聴いた青年は起き上がって、ものを言い始めました。彼は何と言ったでしょうか。おそらく「ほめたたえよ。イエスの御名を(praise, jesus, )。イエス様!ありがとうございます。そして、お母さん!もう泣かなくても良いよ。」と言ったでしょう。その光景を見た人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神様をほめたたえました。イエス様についてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まりました。以上で見ると百人隊長は隣人を愛する人、言葉や口先だけではなく、隣人のために会堂を建ててあげるほどに愛を人選する人でした。何よりも彼はイエス様のお言葉に対する深い信頼、信仰がありました。イエス様も驚かれるほどの信仰がありました。その信仰によって死にかけていたしもべを生かしていただきました。ところがナインのやもめはどのような生活をしていたのかが記されてありません。ただ、町の外でイエス様に出会ったことで意外な恵みを受けました。ただ、共通していることはイエス様のお言葉をいただいたことです。御言葉をいただいた時に、しもべが治りました。本当の慰めを得ました。死んだ者が生き返りました。どうか、私たちが毎日の生活の中で朝一番にお言葉をくださいと祈りましょう。「今日も大切な営みをしていきたいです。お言葉をいただかせてください。」と祈る者に神様の祝福があります。今週も、ただ、お言葉を信じるりっぱな信仰によってイエス様の慰めを、生かされて青年らしく生きることが出来るように祈ります。

12Luke08御言葉を聞き、行なう人

12luke08御言葉を聞き、行なう人, 2012年ルカの福音書第8講 聞き、行なう人御言葉:ルカの福音書6, 49要, 節:ルカの福音書6, 「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」先週、私たちは祈るために山に行かれ、神様に祈りながら夜を明かされたイエス様が弟子たちの中から12人を選び、使徒という名をつけられたことを学びました。その後、イエス様は彼らと共に山を下り、平らな所にお立ちになりましたが、大勢の民衆がそこにいました。そこで、イエス様は彼らに教え、大きな力で彼らを癒されました。そして、イエス様は目を上げて弟子たちを見つめながら話し出されました。大勢の民衆がいましたが、イエス様は弟子たちを見つめながら話し出されたのが今日の本文なのです。従ってイエス様を学び、イエス様に従おうとする弟子たちの生き方を学ぶことができます。それは人生を幸いに生きる生き方です。本文の御言葉を通して自分の生き方の方針を明確にして行くことができるように祈ります。 第一に、常に謙遜である者は幸いです20, 23節をごいっしょに読んでみましょう。「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は、幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」一般的に貧しい者に「あなたは幸いです」と言えません。今飢えている人にもそうです。食べ物だけではなく、愛情に飢えている人にも「あなたは幸いです。」と言えません。そのように言うなら怒られるでしょう。もし、近くの戸山公園にいるホームリスの方に「あなたは幸いです。」と言うなら怒られるのではないでしょうか。キリストの弟子ではない人にそんなことを言ってはいけないでしょう。事実、イエス様の弟子でもなく、ただ貧しく飢えているなら不幸せでしょう。さらに、貧しさのために無視され、辱められるなら本当に悲しいことです。しかし、キリストの弟子たちは違います。イエス様は弟子たちを見つめながら「貧しい者は幸いです。」とおっしゃいました。弟子たちは貧しい者が幸いなのです。なぜなら、「神の国」が自分のものだからです。「神の国」とは、『神様が支配する所』という意味です。つまり、全能の神様、愛と公平の神様が支配してくださる国です。自分は金持ちだ、富んでいるのだと思っている人は神の国を求めません。神様に頼り、神様に支配されることを願いません。ですから「神の国」を経験する事もない訳です。しかし、実際的な生活面においても、心の面において貧しい者、今飢えている者は本気で神様を追い求めていくでしょう。キリストの弟子なら神に祈りながら夜を明かされたイエス様のように神様に頼り、懇切に祈り求めるのです。すると、全能の神様が彼を助け、満ち足りるようにしてくださいます。それで夜通し働いても魚を一匹も取れなかった人がたくさんの魚で網が破れそうになる奇跡を体験します。海の中にいる魚たちも支配しておられる神の国を体験し、神様によって満ち足りるほどに祝福されるのです。偉大なが神様が大きな力で癒してくださることも体験します。だから幸いなのです。弟子なら、いま泣く者も幸いです。やがて笑うようになるからです。この世の人々は良いことも悪いことも一緒にしながら親しくなります。時には酔っぱらっても付き合いをしなければ親しくなりません。それで弟子たちが敬虔に生きようとすると迫害を受ける時があります。お酒を飲まなかったことで、二次会、三次会に行かなかったことで憎まれ、辱められるのです。しかし、キリストのために憎まれ、辱められるなら、天での報いがあります。キリストのために迫害を受ける人が受ける報いは大きいです。それで、イエス様の弟子たちはキリストのために憎まれ、辱められ、自分の名が悪しざまにけなされる時はおどり上がって喜ぶほどに幸いな者であること知らなければなりません。ではどんな人が哀れな者なのでしょうか。24, 26節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、あながた富む者は、哀れです。慰めを、すでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れです。やがて、飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは、哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。みなの人にほめられるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。」イエス・キリストは『あなたがた富む者は、哀れです』と言われました。それは『慰めを、すでに受けているからです。』地上で既に富みを得てしまったが為に、天国ではもうもらえないのです。また、いま食べ飽きている人も哀れです。やがて、飢えるようになるからです。結局、イエス・キリストの貧しい者が幸いです。マタイの福音書によると心の貧しい者です。つまり、イエス様の弟子として自分の貧しさ、飢えている現実を認めて泣く者が幸いです。謙遜になって自分を貧しい者、飢えている者、泣く者として理解し、認識している人は幸いです。その人は神様に頼り、神様に祈ることによって神の国を体験します。神様の民として神様に愛され、助けられてこの世でも満ち足りるようになるからです。さらにキリストの弟子らしく生きるために憎まれ、辱められている人も幸いです。その人はおどり上がって喜びなさいと言われました。その人の天での報いは大きいからです。しかし、ちっぽけな自尊心のために今の自分は富む者だ、食べ飽きているから大丈夫だと思っている人は哀れです。さらに自分の失敗、自分の罪と咎のために人々から嫌われ、憎まれ、辱められているならなおさら哀れです。その人はやがて飢えるようになるからです。その人は地獄での報いが大きくなるでしょう。どうか、私たち一人一人がイエス・キリストの弟子として心の貧しい者として常に謙遜に生きることができるように祈ります。第二に、積極的に愛を実践する人は幸いです。27, 28節をご覧ください。「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」イエス様は弟子たちが自分の存在をどのように理解し、認識するべきかを教えてから四つのことを命令しておられます。それは愛すること、善を行なうこと、祝福すること、祈ることです。一つにまとめると愛することです。イエス様は弟子たちを見つめながら「あなたの敵を愛しなさい。」と言われました。自分の敵とはどういう人でしょうか。人柄が優しくて「自分には敵なんかいないよ。」と言える方もいるでしょう。でも、本文の御言葉から考えてみると、敵とは自分を憎み、辱め、自分の名を悪しざまにけなす者たちのことでしょう。また、自分を侮辱し、頬を打つ者、上着を奪い取る者、人の前で自分のことを言いふらしさばいている人たちのことでしょう。一般的にこのような人を憎むことは当たり前のように思っています。彼らの酷い仕打ちに対して我慢し、非難しないことだけでも難しいでしょう。普通はバカにされたり、いじめられたりすると、「いつか必ず復讐してやるぞ、仕返ししてやるぞと思うでしょう。しかし、キリストの弟子たちはそうであってはなりません。ノンクリスチャンが「やられると必ずやり返す。」という価値観を持っていてもキリストの弟子である私たちクリスチャンはそのように考えていてはいけないのです。イエス様は弟子たちを見つめながら「あなたの敵を愛しなさい。」と言われたからです。ではどうやって敵を愛することができるでしょうか。それは私たちを愛するイエス・キリストの愛によってです。イエス様は私たちが神様に敵対し、罪人であった時に愛してくださいました。私たちが神様によくしたから愛してくださったのではありません。私たちがまだ罪人であった時に私たちを愛してくださいました。聖書にこう書いてあります。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。, ローマ5, 6−8, 。イエス様はご自分を憎み、妬み、十字架につけて殺す人々のために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。」イエス様は敵であった私たちをも愛してくださいました。そして、イエス様が私たちを愛したように、そのように、私達も互いに愛し合うことを命じられました(ヨハネ13, 34)。つまり、人が自分を愛したようにではなく、親が自分を愛したようにでもなく、イエス様が愛したように愛するのです。具体的に言えば私の片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けることです。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えるのです。31節をご覧ください。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」とあります。イエス様は自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさいと教えておられます。皆さん。自分の家族が自分にしてもらいたいことは何でしょうか。怒られたいですか。怒ってください。優しくしてもらいたいでしょうか。優しくしてあげてください。友達に、先生に、上司に、部下にしてもらいたいことがあるでしょうか。自分にしてもらいたいと望むとおり、彼らにもそのようにしてください。自分にしてもらった通りではなく、自分にしてもらいたいと望むとおりにするのです。32, 34節をご覧ください。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。」とあります。自分を愛する者を愛することは当たり前のことです。誇れるものではありません。神様の愛は、正しい者にも正しくない者にも同じように包み込む愛です。神様は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。そのような愛で敵をも愛する人たちがキリストの弟子です。この間、紹介しましたがイエス・キリストの弟子ウォンソンオ宣教師は62年間の宣教師生活の中で一番記憶に残る実績は何かと聞かれる記者に言いました。「ただ、幸せでした。何もありません。」。少しでも宣教師の活動を知っているだけに私の心の深くまで響いて来ました。本当にそうでしょう。イエス様の愛を実践する人は幸いです。人生の最後に残るのも愛、天国に行っても誇れるのは愛であるからです。愛の実践が私たちに幸せをもたらします。人々にも幸せをもたらし、良い影響を及ぼすことができます。ですから、イエス様は愛することを繰り返して教えられました。35, 36節をご一緒に読んでみましょう。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」もし、自分が貸してあげた資金で栄えて行く敵がいるなら、どう思うでしょうか。イエス様はそういうことがあっても返してもらうことを考えずに貸しなさいと言われました。敵であっても彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸してあげるのです。第三に、人をさばかない人は幸いです。37節をご覧ください。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」イエス様は「さばいてはいけません。」と言われました。どういう時に私たちは人をさばくでしょうか。一つ目に自分はできると思うからさばきます。会社で同僚がいるにもかかわらず、上司が退社しようとしている自分に仕事を持って来ると、あいつができないからまた私に持ってきたと人をさばきます。数学ができる人ができない人をさばきます。私の娘は私が歌う時、「楽譜の通りに高くしたり、低くしたりすれば良いのに…」と言います。夫婦関係もなかなかうまく人たちがいます。すると、その人はうまく行かない夫婦をさばきます。子育てもどんなにしても難しい場合がありますが、簡単にできる場合もあります。ところが簡単にできる人はできない人に対して何でできないかとさばくのです。二つ目は自分と違うからさばきます。ある牧師先生はアメリカに行った時、何でこの国の人々は布団をたたまないのかとさばいたそうです。ベットのままに置くのが理解できなかったからです。「何で中国人はなかなかお風呂に入らないの。何で韓国人は声がでかいか。何でインド人は手で食べるのか」というふうに裁くのです。私たちクリスチャンでもそういうところがあります。なんであの教会は賛美ばかりか。ハリストス正教会はずっと立って礼拝をささげますが、それに対して律法的だという人もいますし、座って礼拝することは無礼なことだと思う人もいます。そういうわけで互いにさばくのです。しかし、人をさばく人の心に幸せはありません。イエス様はさばかないで赦すように教えておられます。私たちは人の長所は生かし、短所や弱さをになうべきです。そして人の過ちに対しては積極的に赦すべきです。私たちが他人を赦す時、私たちも赦されます。イエス様は主の祈りの中でそれを教えてくださいました。「私たちが私たちに罪を犯す者を赦すごとく、私たちの罪をも赦してください。」私たちクリスチャンには人をさばかないで赦すことだけではなく、人に与える生活も求められています。与える時に神様は祝福してくださいます。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ただ、与える生活をすると、自分も知らずに自分を誇らしく思ってしまいがちです。高ぶってしまうのです。そこで、イエス様は自分を省みる生活をしなければならないことも教えています。41,42節をご覧ください。「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」とあります。まず自分の目から梁を取りのけることが必要です。すなわち、私たちは他人の弱さや過ちを正そうとする前に神様の御前で自分を省みて悔い改める生活に励まなければなりません。私たちが自分を顧みて悔い改める生活をすると、それが生活に現われます。実を結ぶようになるのです。43、44節を見ると「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」とあります。私たちの考え、心が実として結ばれるのです。45節はもっと具体的に教えてくれます。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とあります。イエス様は人の言葉や行ないはその人の心に何が入っているのかによって決まることを教えてくださいます。しかし、思っていることだけに留まっていてなりません。言葉でいうことだけでも足りません。行わなければならないのです。イエス様は弟子たちを見つめながら素晴らしいことを教えてくださいましたがそれを行なわなければ何の意味もなくなってしまうのです。そこでイエス様は岩の上に建てた家のことを教えてくださいました。46, 49節をご一緒に読んで見ましょう。「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」このたとえはよく知られています。皆さんも知っているでしょう。御言葉を聞いても実行しない人は土台なしで地面に家を建てた人に似ています。困難が襲ってくると信仰を失ってしまいます。しかし、ペテロのように、理解できなくても「でも、おことば、網をおろしてみましょう。」と言って行う人は数々の体験をして信仰がますます強くなります。どんなに大きな試練が来ても倒れることなく強くなって行きます。今日の御言葉の通りに謙遜になって愛を実践する人は幸いです。行うことを通して信仰は成長し、ますます深く、多く神の国を体験して行くからです。どうか、今週も御言葉を聞いて行う生活ができるように祈ります。

12Luke7十二使徒をお立てになったイエス様

12luke7十二使徒をお立てになったイエス様, 2012年ルカの福音書第7講, 寺崎アブラハム牧者記)十二使徒をお立てになったイエス様御言葉:ルカの福音書6:1−19要 節:ルカの福音書6:13「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」 5章で、イエス様はペテロを「人間をとる漁師」として召されました。また、収税所に座っていたレビには、「わたしについて来なさい。」と言って招かれました。このようにイエス様は、一人一人に望みを置いて、招いておられます。さて、本文の御言葉には、イエス様が十二使徒を立てるようになった動機と目的が記されています。?.十二使徒をお立てになった動機,  ある安息日に、イエス様が麦畑を通っておられました。その時、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていました。すると、あるパリサイ人たちが言いました。2節をご覧ください。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」彼らは、弟子たちが「安息日にしてはならないことをしている」と非難しました。パリサイ人たちは安息日を大切に思いました。そして安息日を守るためには、具体的にどのようにすれば良いのかを考え、研究しました。そして1261条からなる「安息日法」を定め、熱心に守りました。この安息日法に、弟子たちの行動を照らし合わせて一つ一つチェックしました。その結果、「安息日に麦畑を通ること」「麦の穂を摘むこと」「それを手でもみ出して食べていること」が引っかかり、厳しく追及しました。弟子たちは何も言えず、ただただ小さくなっているしかありませんでした。その時、イエス様はどうされたのでしょうか。 3,4節の御言葉を皆さんと一緒に読みたいと思います。「イエスは彼らに答えて言われた。『あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。』」イエス様はユダヤ人たちが尊敬しているダビデを例に上げて、弟子たちを弁護してくださいました, ?サム21, 。ダビデは何の罪もありませんでしたが、サウルの妬みによって、逃亡生活を余儀なくされました。その時、ダビデはノブにいる祭司アヒメレクに助けを求めました。ところがアヒメレクのところには、供えのパンしかありませんでした。この供えのパンは祭司以外の者はだれも食べることができませんでした, レビ24, 。ところがアヒメレクは神様の戒めを破り、ダビデと供の者に上げてしまいました。しかし神様は、ダビデもアヒメレクも、罰することをされませんでした。なぜでしょうか。それはダビデが空腹に耐えきれずにいたからです。また、アヒメレクはこのダビデを見て憐れみ、やもえず供えのパンを与えたからです。神様は聖なる方なので、罪は見過ごさず、厳しく罰せます。しかし、罪人を愛しておられます。ひもじい思いに耐えきれない人を憐れまれ、保護してくださいます。イエス様の観点から見ると、弟子たちもダビデも、同じ罪人であり、神様を愛する人です。イエス様は、神様の愛で弟子たちを抱いてくださいました。5節をご覧ください。そして彼らに言われました。「人の子は、安息日の主です。」イエス様は、安息日を定められた神様です。誰でも、安息日の主であるイエス様の中にいるなら、わずらわしい「安息日法」から解放されます。弟子たちは弱く、多くの失敗もしました。しかし憐れみ豊かなイエス様は、弟子たちが信仰を失わない限り、大きな愛で抱いてくださいました。このイエス様の愛によって、弟子たちは成長することができました。 一方、イエス様に言い負かされたパリサイ人たちは腹の虫がおさまりませんでした。それで、別の安息日に、「右手のなえた人」を利用して、イエス様を訴える口実を見つけようとしました, 。イエス様は彼らの考えをよく知っておられました。すると、多くの人は日を改めて、別の日になえた手を直そうとします。ところが、イエス様は違いました。イエス様は手のなえた人に言われました。「立って、真中に出なさい。」そして宗教指導者たちの前に立たせました。 9節をご覧ください。「イエスは人々に言われた。『あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。』」右手がなえることは、直接いのちに関わることではありません。しかし右手がなえた事によって、日常生活において支障が生じてしまいます。のどが渇いても、片手では簡単にペットボトルのキャップを開けることはできません。右手が使えないことで、うまく字を書くこともできません。すばらしい賛美を聞いても、拍手することができません。何よりも、他の人に比べ、思うようにいかないという劣等感、羞恥心、自意識が生じてしまいがちです。そのことによって、なえた右手を隠そうとします。ところが宗教指導者たちは、このような「片手のなえた人」の悩みを理解しようとはしませんでした。イエス様を殺したい一心で、むしろ弱い彼を利用しようとしました。イエス様は、このような宗教指導者たちに、立ち向かわれました。身の危険も顧みずに、貴いいのちを助けようとされました。安息日は神様に礼拝をささげるためにあります。同時に、善を行ない、助けが必要な人に愛を実践する場でもあります。  10節をご覧ください。イエス様はその人に「手を伸ばしなさい」と言われました。すると、彼の手は元どおりになりました。それを通して、宗教指導者たちは安息日に対する認識を新たにし、心を変えるべきでした。ところが彼らはすっかり分別を失ってしまい、イエス様をどうしてやろうかと話し合っていました, 。このような宗教指導者たちによって、絶望だけがこの世をおおっていました。その時、イエス様は何をされたのでしょうか。?.十二人を選び、使徒という名をつけられたイエス様,  12節をご覧ください。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」宗教指導者たちは民たちに聖書を教えることよりも、イエス様を殺すことに情熱を注ぎました。ところがイエス様は感情の赴くまま、彼らと争いませんでした。また、自らサンヘドリン議会に入り、根本的に変えようともされませんでした。山に上り、祈られました。それも神様に祈りながら、夜を明かされました。イエス様は神様に頼り、知恵を求められました。どうすれば、羊飼いのいない羊のような大勢の群衆を助けることができるのか、祈りによって解決しようとされました。時代の流れよりも、神様の御心を知ろうとされました。では、祈りの後、イエス様は何をされたのでしょうか。 13節を皆さんと一緒に読んでみましょう。「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」 第一に、イエス様は弟子たちの中から十二人を選ばれました。大勢の群衆を目の前にして、十二人はあまりにもちっぽけな存在です。しかしイエス様は十二弟子を通して、福音の御業を成し遂げられようとされます。弟子たちと寝食を共にし、繊細に助けようとされるのです。この十二弟子を通して、世界中のたましいを生かそうとされます。考えて見ると、救いの御業は信仰の先祖アブラハム一人から始まりました。アブラハムから始まった救いの御業はイサク、ヤコブへと受け継がれました。そしてついには、イスラエル十二部族が生まれました。イエス様は十二弟子を通して、新しいイスラエルを立て、万民救いの御業を成し遂げようとされます。 第二に、彼らに使徒という名をつけられました。福音書に出て来る弟子たちは弱く、自己中心的であり、自分のことしか考えていませんでした。一方、使徒の働きに出て来る弟子たちは信仰があり、多くの群衆を抱き、どんな迫害の前でも大胆に福音を宣べ伝えました。今の弟子たちの姿を考えると、使徒とはほど遠いように思えます。ところが、イエス様は十二弟子を「使徒」と名づけられました。弟子たちが使徒になるという望みの中で、「使徒」と名づけられました。また、弟子たちが「使徒」になるまで、イエス様が責任を持って育てようとする御旨が込められていました。 14−16節には、使徒として召された十二弟子の名前が記されています。シモン・ペテロは単純で、忠実で、情熱家でした。反面、感情的で、衝動的な行ないによって多くの失敗もしました。アンデレはぼーっとしていましたが、信仰があり、ペテロをイエス様に導いた人です, ヨハネ1, 。ヤコブとヨハネは兄弟で、いつもno1の座を狙っていました。実力で奪い取ることが難しいと分かると、母親を利用してでも栄光ある座に座ろうとしたほどです。ピリポは頭がよく回り、計算が早く、正確な答えをはじき出すことができました。が否定的な考えもしました。バルトロマイはナタナエルであり、曲ったことが嫌いな純粋な人でした。マタイは悪名高き取税人レビで、トマスは疑い深い人でした。シモンは熱心党員であり、マタイとは性格が到底合いそうにありません。アルパヨの子ヤコブとヤコブの子ユダは聖書に名前が出るものの、あまり知られてはいません。イスカリオテ・ユダはお金を愛し、イエス様を裏切りました。弟子たちの性格はみなバラバラでした。しかし彼らは「イエス様を愛している」という共通点がありました。イエス様は生涯弟子たちに仕え、育てられました。すると、弟子たちは使徒へと変わりました。多くの群衆を抱き、いのちがけで福音を伝える人へと生まれ変わりました。 イエス様は、今日の御言葉に基づいて、89年に韓国のアナンセンターで私を聖書の先生として立ててくださいました。当時、自己中心で、自分さえも担うことができないのに、どうしてキャンパスの学生に仕えることができるだろうか、という思いがありました。当時、私の一年後輩で英文科の兄弟(現在、カナダの宣教師)がいました。マンツーマン牧者が同じだったせいもあり、彼が自分よりマンツーマン牧者に愛されていると言っては妬みました。また、大学を卒業するまで、ずっと同じfellowshipでしたが彼がfellowship牧者になったと言っては妬みました。彼が修養会のメッセンジャーになったと言っては妬みました。他の牧者に対しても、同じように妬んでいたため、私の心には平安も喜びもありませんでした。そんなある日、現アナンセンターの支部長である金モーセ牧者が私に言いました。「他の人と比較して妬むのは、神様の御業を妨害することであり、神様の栄光にはなりません。」その言葉を聞いて、私は深く心を痛めました。普段は、言葉の壁を乗り越えて、祈る中で韓国の兄弟たちに仕えていました。同労者たちに対しては仕えるどころか、むしろ彼らが失敗することを願っていることに気づかされたからです。それで妬む代わりに、とりなしの祈りをしようと決断するようになりました。すると、私の心から嫉妬が消え去りました。それまで失敗するように願っていた同労者たちに対して、成功するように心から願えるようになりました。すると私の心には平安と喜びで満ち溢れるようになりました。イエス様は、今度は私を日本のキャンパスの牧者として立ててくださいました。 ところが実際には、二十年もの間、私にはマンツーマンする兄弟たちがいませんでした。しかしイエス様は日本の救いのために、私が祈るように方向をくださいました。そして今年は職場生活を通して、私を訓練してくださいました。昨年は、職場での人間関係で心を悩ませました。いくら忠実に仕事を担っても、正社員になることができないことに恐れと不安すら感じました。そして私の後から入って来る人がサービス提供責任者として、私の上司になることに、不満がつのる一方でした。そのたびに、心が砕かれ、悔い改めるようになりました。主が立ててくださった指導者として受け入れ、聞き従おうと方向をつかみました。その一方で、祈りを聞いてくださる神様に頼り祈りました。神様は昨年ケアマネジャー合格に続いて、今年介護福祉士に合格するように導いてくださいました。その一方で、職場の救いのためにとりなしの祈りをするように助けてくださいました。ところが私は忙しいことを言い訳にし、あまり祈ることをしませんでした。そんなある日、介護保険制度の改正が行なわれました。会社も優秀な人材を確保するために必死でしたが、うまく行かず、人材不足に悩まされていました。その間、私は半信半疑の中にいましたが、マリヤ宣教師と正社員になるために祈りました。時になると、神様は私の祈りを聞いてくださり、正社員になるように導いてくださいました。十年目にようやく祈りが聞かれました。そして平のヘルパーからサービス提供責任者へと昇進させてくださいました。その時、私の心は他の社員に対する嫉みから憐れみへと変わっていました。彼らの健康を気遣い、心から仕事がうまく行くように祈っていました。将来、救いに導くビジョンを抱くようになりました。続けて、とりなしの祈りをささげ、いのちを生かす御業に尊く用いられますように祈ります。そしてもう一度、キャンパスの学生たちに仕えるビジョンを持ち、実際に仕えることができるように祈ります。 イエス様は、この時代も、大きなビジョンの中で、私たちを召してくださいました。多くの日本人の中で、みなさんを選ばれ、今日まで導いてくださいました。礼拝に参加している数は少ないかもしれません。しかし将来、ここにいる人々を通して、日本の500キャンパスが開拓され、日本が福音化する御業が起こります。そしてアジア47カ国が開拓される御業が起こります。私たちがこのビジョンの中で、日々主と歩む生活ができるように祈ります。更に進んで、一人の学生に出会い、マンツーマンで仕えることができるように祈ります。

12Luke6イエス様の心

12luke6イエス様の心, 2012年ルカの福音書第6講イエス様の心御言葉:ルカの福音書5, 12−32要, 節:ルカの福音書5, イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。, 先週、私たちはシモン・ペテロに「あなたは人間をとるようになる」と約束されたイエス様のお言葉を学びました。ペテロは「深み漕ぎ出して、網を降ろして魚をとりなさい。」と言われたイエス様のお言葉に従い、深い意味においてイエス様がどんなお方であるかを知りました。今日は、私たち人間に対するイエス様のお心、この地に来られた目的を学びます。ここで、イエス様のお心に対する人々の姿勢も学ぶことができます。どうか、私たちが御言葉を通してイエス・キリストの心、私たちが持つべき信仰の姿を深く学ばせていただくことができるように祈ります。第一にイエス様のお心は私たちがきよくなることです。12節をご覧ください。「, さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」」とあります。「ツァラアト」と言うのは、「らい病」とか「重い皮膚病」と訳されています。しかし、それは皮膚病だけを意味するのではありません。聖書によると人間の皮膚だけではなく、衣服、動物の皮、家の壁にも生じるものです。つまり、「らい病」とか「重い皮膚病」ではその意味を十分に表すことができないのです。そこで、新改訳で原語の発音から「ツァラアト」に訳したのです。このツァラアトが発病すると、その人は愛する家族や友人から離れ、町の外に住まなければなりませんでした。ツァラアトの人は「汚れた者」とされて心身ともに悩み、苦しむ生活を続けなければならなかったのです。また、律法によると、ツァラアトの人だけではなく、ツァラアトの人に触れる人も、汚れた者とされました。だから、誰も全身ツァラアトの人に触ろうとしませんでした。彼自身も健康の人にふれることを避けていたでしょう。ところが、このツァラアトの人はイエス様を見ると、ひれ伏してお願いしました。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」と言っています。彼はイエス様が自分に触れなくても、お心一つで自分をきよくしてくださると信じています。また、彼はイエス様が自分に触ることによって汚されることがないようにお心一つだけに頼っているようにも思われます。ところが、イエス様はどうなさいましたか。 13節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。」イエス様は手を伸ばして、彼にさわりました。それがイエス様はお心です。人々の心はツァラアトの人に触らないことです。ツァラアトの人にさわると、自分も汚れた者とされてしまうからです。だから、人々は心からツァラアトの人のように汚れた人にさわるどころか遠ざけようとします。ところが、イエス様はツァラアトの人にさわり、ご自分も汚れた者とされました。ツァラアトの人の悩みと苦しみをご自分のものとしてくだいました。イエス様は彼の罪と咎を担い、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言っておられます。すると、すぐに、そのツァラアトが消えました。ツァラアトの人はイエス様のお心の通りにきよくなったのです。イエス様はツァラアトの人の人も、私たちもきよくなることを願っておられます。私たちをきよくしてくださることがイエス様のお心です。イエス様は私たちをきよくするために、ご自分が汚れた者とされて罪の代価を贖うために十字架にかけられました。人間の罪と咎による汚れをきよめるためにご自分の血を流されたのです。結局ツァラアトの人も、その十字架による癒しときよめを信じる人もイエス・キリストの十字架によってきよめられます。そして今もイエス様は霊的にツァラアトの人のようになっている私たちに触ることを望んでおられます。憐れむ深い主は私たちに触れようとしておられます。皆さん、イエス様に触れられましょう。では、イエス様にふれることは何でしょう。それは汚れたまま、ありのままの姿でイエス様の御前にひれ伏すことです。隠すことも偽ることもなく、私にさわってくださるイエス様に告白するなら、私たちはきよめられます。心も、体も癒されます。聖書「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と約束しています, ?ヨハネ1, 。それはイエス様のお心です。イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。私たちは生きているうちに厳しい状況や現実にぶつかる時があります。そのうちに心の中には汚れも生じます。それは、身体に垢が生じ、床にほこりが溜まっていくように、とても自然なことなのです。大切なのは、その汚れを落とし、きれいな状態を保っておくことです。毎日身体の汚れを洗い落とすように、心の汚れも落としていく必要があるのです。人に思いを告白することでも少しはできます。心に溜まっているものを人に言ってしまうとスッキリするでしょう。そのように、思っていることを日記や所感に書き出したり、祈りの中で自分の中の濁ったものをイエス様に言い表したりするなら主は心をきれいにしてくださいます。主は私たちがどんな問題を持っていても、それに対して「わたしの心だ。きよくなれ。」と語って下っておられるのです。私たちの罪と咎を担われるイエス様は私たちをきよくしてくださいます。新聖歌210番に「罪咎を担う/友なるイエスに打ち明けるとは/いかなる幸ぞ/安きのなき者/悩み負う者/友なるイエスをば/訪れよかし。〜〜気疲れせし者/重荷負う者/隠れ家なる主に/すがれ直ちに/なが友は笑い/迫害すとも/主はなれを抱き/慰め給わん。」とあります, 一緒に歌ってみましょう, 。どうか、私たちが自分にあるどんな問題でもイエス様に打ち明けしてきよくしていただく生活ができるように祈ります。私たちの罪咎を担われたイエス様は私たちをきよくし、癒してくださることだけではなく、社会生活も助けてくださいます。14節をご覧ください。「イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」」とあります。イエス様はツァラアトの人が祭司のところに行って自分を見せるように言われました。それは彼の社会生活を助けるためです。レビ記14章によると、ツァラアトから癒された人は祭司のとこへ行って自分を見せることになっています。祭司から「きよい」と宣言してもらうことによって、正常な社会生活ができるようになります。町から離れた生活ではなく、町の中で誰にでも触れ合うこともできるようになるのです。これはイエス様のお心です。イエス様は私たちがきよめられて、人々と触れ合う健康な社会生活をすることを願っておられます。そして人々の中に入り、正常な生活をするように助けてくださいます。私たちが寂しく生きることは望んでおられません。汚れた心のまま、ゆがんだ心のまま、つぶやきあい、妬み合う生活ではなく、きよめられてお互いに愛し合う社会生活をする、それがイエス様のお心なのです。それで、イエス様はツァラアトの人をきよくしてあげることだけではなく、彼が触れ合いの中で正常な社会生活ができるように助けてくださいました。ところが、イエス様がツァラアトの人に「誰にも話してはいけない」命じたにもかかわらず、イエス様のうわさがますます広まりました。恐らく、ツァラアトの人が言い広げたことでしょう。多くの人の群れが、話を聞き、また、病気を直してもらいに集まって来ました。それで、イエス様はご自分が目的にしている福音伝道が計画通りにできなくなってしまいました。しかし、イエス様はツァラアトの人を叱られませんでした。それを人のせいにしませんでした。また、人々の要求に振り回されることもありませんでした。ではどうなさいましたか。16節をご覧ください。「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」とあります。多くの人の群れがイエス様の助けを求めて集まって来たのに、なぜ、彼らをそのままにして置いたでしょうか。集まって来た人々にとって悲しいことです。誰か私の話を聞くために、この三階に来たのに、彼をそのままにして私が4階の祈り室に行くなら、彼は私に対してどう思うでしょうか。失礼なことでしょう。それで、聖書勉強や祈りの時に人が来るのではなく、電話がかかって来てもすぐに対応します。ところが、イエス様は多くの人の群れが集まって来たにもかかわらず、荒野に退いて祈っておられたのです。人間的にはなかなか理解しがたいことでしょう。しかし、よく考えてみると、それほど祈りを大切に思っておられたことでしょう。イエス様は人間の横関係も大切にされます。だからツァラアトの人の人を修道院に生かせず、正常の社会生活ができるように案内してあげました。しかし、それよりも神様との縦関係をもっと大切にしておられました。神様との交わる祈りを第一にしておられたのです。ここで私たちは祈りに対するイエス様のお心も学ぶことができます。本当の意味で大きな事を行なう人はよく祈ります。私たちもそのように祈る姿勢を身につけて行く必要があると思います。私たちも神様との交わる祈りを大切にし、イエス様のように祈る習慣を身につけていくように祈ります。第二にイエス様のお心は私たちの罪が赦されることです。17−19節をご覧ください。ある日のことです。イエス様が教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていました。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていました。そこで、イエス様は、主の御力をもって、病気を直しておられました。するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来ました。そして、何とかして家の中に運び込み、イエス様の前に置こうとしていました。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つかりませんでした。すると、彼らは非常手段をとりました。すなわち、「屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした」のです。何と無礼なことでしょうか。ひれ伏してお願いしたツァラアトの人とは全く違う行動です。決しては紳士的な行動ではありませんでした。ところが、イエス様は何と言われましたか。20節をご覧ください。「彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」とあります。イエス様は彼らの信仰を高く評価してくださいました。彼らの行動を道徳に見て罪に定め、さばくのではなく、罪の赦しを宣言なさったのです。つまり癒しを求めてきた人たちに罪の赦しを宣言されたのです。それはイエス様にとって肉体の癒しよりも、罪の赦しが大切であったということです。確かに肉体の癒しは必要です。イエス様もいろいろな病を患っている人々を癒してくださいました。しかし、イエス様が心から願っておられることは罪の赦しです。罪が赦されなければ神様との関係性を回復することができないからです。ところが、罪を赦す権威は神様にしかありません。神様との関係性を回復するためには神様から赦していただけなければならないのです。そこで、罪の赦しを宣言なさったイエス様に対して聖書に精通している律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めました。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」と言ったのです。しかし、イエス様の言葉には病気を直す力も、罪を赦す力も、そのいずれの力も持っておられます。そこで、イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われました。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神様をあがめながら自分の家に帰りました。イエス様に罪を赦す権威があることが現れたのです。そこで人々はみな、ひどく驚き、神様をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言いました。結局、イエス様には病気を癒す力も、罪を赦す権威もあることが明らかにされました。この時間も、イエス様は私たちのところに来てくださっています。私たちが信仰によってイエス様のところに出て行くなら、私たちの罪が赦され、病も癒されて健康に生きることができます。第三に、イエス様のお心は私たちがイエス様について行くことです。 27節をご一緒に読んでみましょう。「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。」レビはクリスチャンネームで「マタイ」と呼ばれている人です。彼は取税人でしたが、当時のイスラエルでは「強盗」「盗人」「罪人」と同じような意味があったと言われています。なぜなら、当時ローマはイスラエル人から直接に税金を取り立てることをユダヤ人にユダヤ人の税金を取り立てさせました。その代わりに取税人たちが誤魔化しやインチキをすることには目をつぶってあげました。すると取税人たちは定まった税金の2倍も3倍も徴収するのが珍しくなかったそうです。それで、取税人は同族から嫌われ、強盗や盗人のように見下げていました。それにもかかわらず、取税人になっているというのは彼らがそれほどお金を大切に思ったからでしょう。「神様!神様!」と言ったって金がなければ何もできない。金がすべてだ」という人生哲学を持っていたと思われます。事実、お金があればいろんなことが便利になるでしょう。買い物も自由にできるし、おごりたい時はおごることもできます。でも、お金を第一とする取税人の生活は寂しいでしょう。取税人はツァラアトの人のように町の外に住まなくてもいいですが、人々との付き合いはできませんでした。誰も収税人が座っている所に近づきませんでした。目を留めてくれませんでした。ツァラアトの人ではなくても、ツァラアトの人のように見下げられていたのです。ですから、イエス様に従っていきたいと心から願ってもイエス様について行くとは言えませんでした。ところが、イエス様が取税人に目を留めて「わたしについて来なさい。」と言われました。「わたしについて来なさい」という言葉は短いですが、この表現の中にレビに対するイエス様の心が表れています。収税所は毎日のように人々から嫌な言葉を聞きながらそこから離れられないレビの生活の場です。人々はその前を嫌悪感と差別の心で通り過ぎていたでしょう。レビにとって孤独なところです。やめたくても辞めたくても生活があるし、家族があるから辞めることもできない職場です。そこで、レビは寂しい生活を続けていました。イエス様はそのレビの現実を直視しました。レビが本当に願っている事をイエス様は見抜いて、彼に目を留めて「わたしについて来なさい。」と言われたのです。イエス様は彼の本当に願いに目を向け、目を留めてくださったのです。私の子どもの頃の夢は小さな島にある学校の教師になることでした。高校生の時は先週紹介した神父に出会い、聖職者になることも夢見ました。でも、それは私の憧れであって、現実的には無理だと思いました。ところが、今、考えてみるとイエス様は私の本当の願いに目を留めてくださいました。夢見たとおりの小さな島ではありませんが島国の日本で教師になったし、宣教師と牧師としても活動するようになったのです。本当にイエス様は私たちの本当の願いに答えることができるお方です。ではイエス様の招待に対するレビの反応はどうでしたか。28節をご覧ください。「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」とあります。大きな決断をしました。今まで持っていたものがあったでしょう。豊かな家やさまざまなものがあったでしょう。それを全部捨ててイエス・キリストに従う決断をしました。素晴らしいです。また、彼は自分の家でイエス様のために大ぶるまいをしました。うらやましいです。ところが、それに対してつぶやく人々もいました。取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていましたがパリサイ人やその派の律法学者たちが、イエス様の弟子たちに向かって、つぶやいて言いました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」イエス様に直接に言えず、弟子たちにつぶやいています。そこで、イエス様は何と言われましたか。結論的に31、32節をご一緒に読んでみましょう。そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」。もし、自分が全く正しい人だと思っている人は教会に来ないでしょう。自分が全く丈夫な人だと思っている人も教会に来ないでしょう。そういう人々は来なくてもいいです。しかし、自分は弱い、罪人だと思っている人はイエス様のところに来てくださいます。特に、聖書は、私たちは全て病人だと告げます。身体の病気ではなく、霊の病気です。いのちの源である真の神様から離れた私たちは、霊のいのちを失って「死に至る病」にかかっており、医者を必要としているのです。, イエス様は私たちを癒し、きよくしてくださる医者です。イエス様は私たちがどんな罪を犯したとしても、どんなに罪深い人間だとしてもその罪を赦して新しい人生を生きるようにしてくださいます。そのためにイエス様が来られました。ただ、私たちの方から悔い改めが必要です。悔い改めとは方向転換のことです。自分が喜べることだけを求めていた人が、神様に造られた存在であることを知り、神様が喜ぶことを求める人になることです。すると、イエス様の心の通りにきよめられ、癒されて健康な社会生活ができるようになります。取税人レビが聖なるマタイに変わったように、私たちも変わります。どうか、イエス様のお心の通りにきよくなり、イエス様の御姿にまで変えられて行きますように祈ります。

12Luke5あなたは人間をとるようになる

12luke5あなたは人間をとるようになる, 2012年ルカの福音書第5講 あなたは人間をとるようになる御言葉:ルカの福音書5, 11要, 節:ルカの福音書5, 10bイエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」先週、私たちはイエス様がイザヤの預言の通りに「貧しい人々に福音を伝え、主の恵みの年」を告げ知らせるメシヤであられることを学びました。実際に4章の後半部を見ると、イエス様はメシヤとして悪霊を追い出し、病人を癒されました。そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられました。今日の御言葉はイエス様が漁師であるシモン・ペテロを人間をとる漁師として召された出来事です。シモンにとってみれば、イエス様に出会い、その後の人生が決定的に変わる人生の節目、再出発点となりました。ここで、私たちはイエス・キリストに出会う、御言葉に従うという人に起こることを学ぶことができます。そして、このような出来事は今日の私たちも起こることです。ではペテロにどのようなことが起こったでしょうか。1,2節をご覧ください。群衆がイエス様に押し迫るようにして神のことばを聞いていました人々は御言葉を聞くためにできるだけ前に座ろうとしてイエス様に押し迫るようにしていたのです。すばらしい光景です。彼らにとって一番前は金の席、次は銀の席でした。一番前に座ろうとする人々が押し迫るのでイエス様は舟に乗り陸から少し離れようとされました。それほど熱心に御言葉を聞こうとしていたのです。ところが、この群衆とは違って自分の仕事の手を止めない人たちもいました。彼らは舟から降りて網を洗っていました。イエス様は彼らのうち、シモンに頼んでおられます。3節をご覧ください。「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。」とあります。そしてイエス様はすわって、舟から群衆を教えられました。シモンは誰よりもイエス様の近くにいてイエス様のお話を聞くことができました。金銀の席ではなくダイアモンドの席で御言葉を聞くことができたのです。話し終わったイエス様はシモンに驚くべきことを命じられます。4節をご一緒に読んでみましょう。「話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。」これは、常識に反することでした。私は漁師ではありませんが、漁師の子どもとして育ちました。父を見ると昼は農業、夜は魚を取る漁師の仕事をしていました。だから言えることですが、漁をするのに最も適しているのは夜なんです。そこで、シモンは口を開きます。5aをご覧ください。「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」とあります。何もとれませんでした。これは、得られる手応えが何もなかったということです。せめて、一匹でもとれたならば、網にほんの少しでも手応えがあったでしょう。しかし、この夜は何度も網を降ろして引き揚げ、降ろしては引き揚げ、繰り返しても何もとれませんでした。自分の漁師としての経験や、知識を尽くしても報われませんでした。その時の気持ちはどうだったでしょうか。皆さんも経験しているでしょう。夜通し働くと、それだけでも大変です。働いた成果があっても疲れるでしょう。私もたまに徹夜する時がありますが、夜通し書き込んだメッセージが何かの問題でコンピュータから消えた時は本当に疲れてしまいました。このように力がなくなると、何もかもめんどくさくなります。ところが、そのような時にシモンはどうしましたか。もう一度5節をご覧ください。「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網を降ろしてみましょう。」とあります。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言っています。彼は従うことができない現実を知っていました。事実、夜通し働きましたから体も疲れていました。それでもイエス様のおことばどおり、従いました。魚がたくさん見えたから主の御言葉に従ったのではありません。何か兆しが見えたから御言葉に頼ったことでもありません。彼自身が考えても再び網を降ろしてみる必要がありませんでした。でも、おことばどおりに従いました。自分の常識では理解できませんでした。でも御言葉通り、網を降ろしてみることにしました。すると、どうなりましたか。6,7節をご覧ください。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」とあります。ペテロが御言葉通りにして網を降ろすと、瞬間的に網の中に魚がいっぱいになりました。網は破れそうになりました。おびただしい魚のために、網を引き上げることができないほどでした。ペテロは急いで友達を呼びました。「オイ。ヤコブさん!ここに来てよ。ヨハネさん!助けてください・・・」。彼らはやって来て助けてくれました。一緒に協力して漁をすると、あっという間に魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになりました。大漁になったのです。これは今まで経験したことがない奇跡です。一隻の舟だけでもいっぱいになると、それは奇跡でしょう。今まで私の人生の中で聖書のこの箇所以外にたくさんの魚のために舟が沈みそうになったことは聞いたことも読んだこともありません。ところが二そうとも沈みそうになったのです。おそらくシモンにとって忘れることはできなかったでしょう。それは、主イエス様に本当に出会った手応えでもありました。ここで、初めてシモン・ペテロは本質的にイエス・キリストに出会います。8節をご覧ください。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言った。」とあります。ペテロはここでイエス様を「主よ」と呼んでいます。これまでシモンは、主イエスを「先生」と呼んでいました。しかし、今や呼び方が変わっています。これまで考えていたのは、素晴らしいお話をしていた宗教の先生でした。しかし、「先生!」ということでは済まされなくなったのです。確かに、今までのイエス様は良い話をし、悪霊を追い出し、病人を癒されるお方でした。しかし、それだけでありませんでした。イエス様は海の中の魚も動かす創造主でした。自分が御言葉通りに従った時、奇跡を体験しました。そこでイエス様こそ私の主ですと告白せざるを得なくなりました。従わなければならない主人となったのです。それと同時に、その主に従うことができない自分の姿をも知りました。なぜなら、自分の本当の姿が、この主にふさわしくなかったからです。自分の本当の姿、それは、聖なる主イエス様の前に罪深く汚れた姿でした。そこで、彼は「私は罪深い人間です]と言っています。この言葉は、自分に罪が少しあるとか、多くあるとか、ということではありません。これ、これの罪があるとか、ないということでもありません。自分が罪の人間、罪ある存在、ということです。自分もいい部分があるけれども悪い部分もあるということでもありません。自分の存在そのものが罪なのです。彼は聖なる存在の前に、自分の存在の根源にある罪がはっきりと示されました。すると、罪深い者が、聖なる方に近づくということは耐えられなくなりました。そこで彼は恐れを抱いて、ひれ伏しつつ、自分から離れてくださいと頼んだのです。このようなペテロの状態をご存知のイエス様はご自分の足もとにひれ伏すシモンに自ら近づかれるように語られます。10節をご一緒に読んでみましょう。「シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」イエス様はまず「こわがらなくてもよい。」と語ってくださいました。それをペテロへの罪の赦しを宣言されたことです。シモンは、創造主であられるイエス様を体験し、イエス様に出会うことによって、自分の罪ある存在が明らかにされました。しかし、その罪は取り除かれたのです。考えてみますと、私たちの抱く不安や恐れ、そして空しさというのは結局この罪に基づいております。だから、私たちは死を迎える時に、結局空しく終わるのではないかと不安に陥ります。そこから、生きることにも不安を覚えます。このさき生きていても、意味が見出せなくなる。それは、罪に基づく根本的な恐れです。このように死ぬことにも、そして生きることにもこわがっている人に対して、主イエスは「こわがらなくてもよい」と語りかけておられます。それから、罪を赦していただいた者にこれからの方向を提示してくださいます。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」イエス様はペテロが人間をとるようになるのです。イエス様は「なってくれないか」と頼まれませんでした。「人間をとる漁師になりなさい」と命じるのでもありませんでした。イエス様は、「あなたは人間をとるようになるのです。」と宣言されたのです。このようにおっしやったからには、そのように「なる]しかありません。ペテロはそのように変えられるのです。事実は、ペテロは人間をとる漁師になりました。人間をとる漁師になって網を降ろして引き揚げると一度に三千人が救われる時もありました。彼を通してタイタニックの舟に乗せても沈みそうになるほどの人々が救われて行ったのです。以上では私たちは大切な教訓を学ぶことができます。第一に、私たちが夜通し働いた仕事に絶望し、疲れているその時にもイエス様が近くにおられるということです。ペテロたちが夜通し働いても何もとれなかった時、どんな絶望したでしょうか。どんなに疲れていたでしょうか。舟から降りて網を洗っている彼らの心、彼らの顔はどうなっていたでしょうか。近くの岸辺に群衆がイエス様に押し迫るようにしていても関心を持つことができませんでした。湖の岸辺にイエス様は立っておられましたが見えませんでした。一刻早く網を洗っておいて家に帰りたかったでしょう。でも、イエス様は近くにおられたのです。そして、さらにペテロのところに近づかれ、彼の舟に座られました。そうです。私たちの主イエス様はいつも私たちの近くにおられます。詩篇73, 28aを見ると「しかし私にとっては、神の近くにいることが、幸せなのです。」とあります。絶望し、疲れると、何もかもめんどくさくなります。しかし、その時も主が近くにおられることに気付かなければなりません。神様が私たちの近くにおられるから主の存在を認め、主と交わるのです。すると、人は本当の平安を味わうことができます。なぜなら、神は、愛だからです。愛なる神と交わって生きる者の全き平安、そこには、つぶやきのない喜びで満ち溢れた本当の自由があります。第二に、主の御言葉に聞き従う者のビジネスを祝福してくださるということです。イエス様は福音を告げ知らせ、悪霊を追い出し、病人を癒すことだけではなく、ペテロのビジネスも祝福してくださいました。二そうの舟がいっぱいになって沈みそうになるほどに祝福してくださいました。イエス様のおことばに聞き従うことによって今まで自分が経験したことがない奇跡を体験し、神様の存在が分かりました。ヨハネの8, 47を見ると「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」とあります。神様から出た者は神様の御言葉に聞き従うのです。皆さんが教会に来ているのは神様から出たからです。そして神様の御言葉に聞き従う者に神様の祝福が注がれます。イザヤ44, 3,4節に「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」とあります。私たちは、潤いのない地、かわいた地のような者かも知れません。特に、押し迫るようにして御言葉を聞いていた群衆とは違って網を洗っていたペテロたちに自分の仕事だけをやっていると、生活に潤いがないでしょう。しかし、そのような状況の中でもすぐ近くにおられるイエス様を信じて御言葉に聞き従うなら、神様は水を注ぎ、次には流れを与えてくださいます。私たちの中の不足しているところを神様が聖霊の働きによって潤してくださるのです。それで私たちは、「流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」のです。私たちを取り巻く状況がどんなに渇ききった砂漠のような状態であっても、私たちは水の流れのそばに生える木のように、しかもまっすぐに育つ柳の木のように成長し、満ち足りて生きることができるのです。それは、オアシスの木々が砂漠の中の泉から水をもらうように、私たちは神様から生きるのに必要なものを受け取ることができるからです。夏の太陽が激しく照り付けても、雨が降らなくて地面がどんなに乾いていても、私たちが神様のそばにいる限り、流れのほとりの柳の木のように完全に潤って生きることができるのです。第三に御言葉に聞き従う者は変えられて人間をとる漁師になるということです。ペテロはイエス様の御言葉に聞き従うことによって神様の存在、自分の存在を知り、人間をとる漁師に変えられました。それは主がご自分の十字架の死によってペテロの弱さを担われ、罪を取り除く神の小羊となられたからです。そして死者の中からよみがえられた主が新しい生き方を与えてくださるからです。そういうわけで、御言葉に聞き従う者は生きるにも、死ぬにも、恐れることはなくなります。 この「人間をとる」とは、生け捕りという意味があるように、いのちに導くことです。私たちに、人をとらえる力はありません。しかし、私たちが福音を告げ知らせるなら、イエス様がシモンをとらえたと同じようにしてくださいます。イエス様が網を洗っているような人々の生活の中に入り、彼らを助けて主の存在を体験させ、とらえるのです。今、この時代にも、自分とイエス・キリストとは無関係である、そのように思う人が多くいます。彼らは夜通し働いても、満足ある収穫を得ることができず空しい思いを覚えています。ただ、マンネリ化された生活の中で次の仕事の網を洗っているのです。私たちが彼らに行って、恐れることはないとの主イエスのお言葉を伝えるならば、そこにはペテロのように主イエス様のお言葉に従う人がいます。主イエス様を拠り所にする生活に変えられ、すべてを捨てて主イエス様に従う弟子になります。先週、私は人間をとる漁師であるカトリック宣教師の記事を読みました。私の高校時代の恩師でもあるウォンソンオ, vincenzo, donati, 神父です。この方は18歳の時に日本に宣教師として遣わされました。日本で司祭の勉強をしながら戦後困難な日本の人々のために献身しました。韓国が朝鮮戦争のために困難であることを聞いたら、志願して韓国の宣教師に遣わされました。そして、朝鮮戦争の後に困難な韓国のために20年間献身しました。そして54歳の時、また、アフリカのケナが困難であることを聞いてケナの宣教師になりました。そして、スーダンが内戦のためにもっと困難であることを聞いてからスーダンの宣教師になることを志願し、遣わされました。遣わされた国々では教育を通してキリストの福音を伝えています。その活動を通して世界中の海で人間をとったと言えるでしょうか、この方を数多くの人々に福音が伝えられ、神様のしもべにもなりました。84歳になった今年、かつて教えていた私の母校の同窓会に招待されたのですが、スーダンに100個の学校を設立する夢を持っておられました。私はかの方を通してひとりの人が人間をとる漁師になる時、本当に多くの人々に福音を伝え、良い影響を及ぼして行くことを見ました。もちろん、人間をとる漁師の人生は簡単ではありません。オォン神父は自分の人生を顧みると、本当に幸せな人生を生きてきましたが苦難がなかったわけではありませんと言いました。でも、教育によって福音を伝え、福音によって教育してきた自分の人生は本当に祝福された人生だとおっしゃっていました。本当に、何をしても自分の仕事をしながら人間をとる人生を生きることは幸せな人生になります。大いなる神様の恵みを体験し、人々を永遠のいのちへ導くことになるからです。私たちにキリストの福音を知らせ、私たちを召して人間をとる漁師にしてくださる主の恵みを賛美します。これからもイエス様に深く出会い、霊的な深い海の中で霊的世界を深く体験しながら人間をとる漁師として生きることができるように祈ります。