12Luke31M 主の御名によって来られる王
12luke31m, 主の御名によって来られる王, 2012年ルカの福音書第31講主の御名によって来られる王御言葉:ルカの福音書19:28〜48要, 節:ルカ19:38, 「こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」」merry, christmas!クリスマスが先週よりも近づいて来ました。今年のクリスマス礼拝の時は、偉大な預言者イザヤの預言からイエス様の誕生について学びたいと思っています。イザヤはイエス・キリストの誕生について「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」と預言しました。その通りに、イエス様は生涯を通してご自分が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であることを明らかにしてくださいました。今日の本文では平和の君であられるイエス様について学ぶことができます。イエス様は十字架の死を目の前にして威風堂々とエルサレムに入られました。約束されたメシヤ、平和の王としての姿を見せてくださったのです。この時間、御言葉を通して主の御名によって来られる王、平和の王であられるイエス様を心から迎え入れますように祈ります。また、平和の王イエス・キリストの恵みが私たちのうちに豊かに注がれますように祈ります。28節をご覧ください。「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」とあります。先週、私たちはイエス様がエルサレムに上って行かれる途中、エリコに入って失われた人ザアカイを捜して救い、彼に言われたことを学びました。イエス様が十ミナのたとえを話されたことも学びました。その後、イエス様は、さらに進んでエルサレムに上って行かれました。ついに、エルサレムが見えるオリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれました。そのたときです。イエス様はふたりの弟子を使いに出して言われました。30、31節をご覧ください。「言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とあります。イエス様は二人の弟子たちにろばの子を連れて来るミッションを与えました。このミッションを果たすことはなかなか難しいことです。全く面識のない人のろばの子を連れて来ることだからです。しかも、イエス様は弟子たちに不思議な助言をしてくださいました。イエス様はろばの子を買うとか、借りるように命じたのではありません。ただ、「もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」とおっしゃったのです。特に「主がお入り用なのです。」と言う言葉は、日本語では丁寧な言葉ですが、英語ですと「the, lord, needs, it.」となっています。「主がそれを必要です」と単刀直入に、はっきりと言うことなのです。ところが、ふたりが向こうの村に行ってみると、イエス様が話された通りでした。弟子たちは不思議な力を経験しました。ろばの子の持ち主も、ろばの子も、イエス様が言われた通りに動いてくれたのです。そこで、弟子たちは、自分の姿とこのろばの子とが重なり合うことを感じ取ったことでしょう。考えてみると、自分たちもイエス様が言われた通りに動いていたのです。そうです。すべての被造物はイエス様のものだから、イエス様に従っているのです。ヨハネの福音書1, 3節はこの事実を明らかにしています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。すべてのものは、イエス様によって造られました。ですから、この世にあるすべてのものはすべてがイエス様のものです。イエス様はこの世のすべてのものの持ち主です。ろばの子も、ろばの持ち主もイエス様が主人なのです。そして、それは私たちにも言えることです。一般的に、人々は自分の人生の主人は自分だと思っています。日本の女性は結婚すると、夫がご主人です。それで、日本の女性は結婚の相手として世界で一番人気があるそうです。夫を自分の主人として思ってくれるからでしょう。しかし、本当のご主人は神様です。すべての人のご主人は神様なのです。そして、神様が私たちのうちに主権的に働いておられます。ある日、皆さんのところにある人が遣わされてきて、「主がお入り用なのです。」と言ってくれたでしょう。もちろん、単刀直入に言わなかったかも知れません。いろいろ説明して誘われたかも知りません。確かなことは神様から遣わされた人を通して私たちもイエス様のみもとに来ているということです。神様が私たちを尊く思ってくださり用いようとされたのです。そして、ろばの子のように平凡な私たちでも主が用いていてくださいます。あれこれの失敗を恐れ、自分の能力や力の弱さ、才能の乏しさに弱気になります。不安を覚えることがあるでしょう。しかし、本当は、「主がお入り用なのです。すべてのすべての主人であられる神様に用いられているので、そこではもはや、能力も才能も問題ではありません。主がそういう力の足りない私たちを用いて尊い御業をなさることを心から感謝します。では弟子たちはろばの子を連れて来ることを通して何が分かったでしょうか。35、36節を読んでみましょう。「そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。」とあります。弟子たちは「主がお入り用なのです。」と言ったことだけでもロバの子を連れて来ることができました。それを通して彼らはイエス様が見えない世界も支配しておられるまことの王であることが分かりました。そこで、彼らはろばの子の上に自分たちの上着を敷きました。これは王様に対する態度です。ユダヤでは、王の即位式などに際し、自分の命を捨てて服従するという象徴的行為です(列王下9・13)。彼らはイエス様に王様への尊敬と服従を表したのです。そして、ろばの子にイエス様をお乗せしました。ろばの子にとっては身に余る大役を担うことになりました。自分のようなか弱い者が、まことの王であられるイエス様をお乗せして大切なご用をすることは、力をも分をも越えることだ、と思ったことでしょう。37、38節を読んでみましょう。「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」とあります。弟子たちの群れはみな、イエス様を祝福し、賛美しました。その日に、イエス様は王の王としてエルサレムに入城されました。事実、イエス様はすべての人々が喜んで迎え入れるべき全人類の救い主、王の王です。預言者ゼカリヤは預言して言いました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。, ゼカリヤ9, 9、10, 」とあります。この預言の中にイエス様はどんな王として来られたかがよく表われています。 第一に、イエス様は救いの王です。ゼカリヤはメシヤに対して「この方は正しい方で、救いを賜わり、」と預言しました。つまり、イエス様は救いを賜わる方なのです。イエス様が先に立ってエルサレムに入城される目的は救いを賜わるためです。イエス様は救いの王です。イエス様は罪と死のかげに座っている人々を救うために救いの角としてお生まれになりました。そして、私たち人間のすべての罪と咎を贖うために十字架につけられて死なれました。そして、死者の中から三日目によみがえられて私たちの主・キリストであることを明らかにしてくださいました。このイエス様こそ、私たちを罪と永遠の破滅から救う救いの王です。 私たちは生活の中で様々なことで苦しみ、悩みますし、なかなか克服できない罪の習慣のために絶望します。しかし、救いの王イエス様を信じて受け入れるなら、イエス様が暗闇の世界から救ってくださるのです。救いの王イエス様は今年も、弱い私たちをさまざまな苦難と試練、罪と咎から救ってくださいました。正しい方で、救いを賜る救いの王イエス・キリストの御名を賛美します。 第二に、イエス様は柔和と謙遜によって治める平和の王です。イエス様の時代に、ローマ帝国の王たちは戦争に勝つと、軍馬や戦車に乗ってローマに入城しました。しかし、イエス様はろばの子に乗って入城されました。ロバは馬とは違って、戦争には使われません。重いくびきを負って人に仕える動物です。大人しくて柔和で、その上背も低いのです。そのロバにお乗りになった主御自身こそは、まさに柔和なお方です。弱い者の弱さを担い、病める者の病を担い、低い者の低さに身を置いてくださる王です。それで、平和の王イエス様を迎え入れて信じる人は平和に生きることができます。シャローム人生を生きるようになります。それで、イエス様がお生まれになった時、御使いたちといっしょに、多くの天の軍勢が現われて神様を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように、地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように, 」。今年のクリスマスにも数多くの人々が平和の王イエス様を迎え入れてシャローム人生を始めることができるように祈ります。12月は年末で忙しくなります。なかなか落ち着かない日々を過ごしているとサタンは私たちの心に不和、憎しみ、競争心などを植え付け、高ぶらせます。自分も知らずに高慢になって心が騒ぎ、平和がありません。しかし、私たちのうちに住まわれる平和の王、イエス様と交わるなら、イエス様が柔和と謙遜によって治めてくださいます。すると、私たちの心は穏やかになり、平和に生きることができます。39節をご覧ください。パリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエス様に向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言いました。すると、イエス様は答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」とあります。つまり、この日には必ずメシヤを喜ぶように神様がしてくださっていたのです。41, 44節をご覧ください。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」とあります。エルサレムを見られたイエス様は、その都のために泣かれました。もし、エルサレムの人たちが平和のことを知っていたなら、イエス様は泣かれなかったはずです。平和の王、イエス・キリストを知り、信じたなら、エルサレムは聖なる神の都として保たれたはずなのです。しかし、エルサレムにいる宗教指導者たちは平和のことを知っている弟子たちを叱ってくださいと言いました。彼らは霊的に無知でした。しかも、聖なる都エルサレムの中でも聖なるところであるはずの宮の状態はどうでしたか。 45、46節をご覧ください。宮にはいられたイエス様は、商売人たちを追い出し始め、こう言われました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」主の家は祈りの家です。ところが、彼らはそこで商売して強盗の巣にしてしまいました。それほどエルサレムの中心である宮も堕落していました。聖なる宮で商売をしていました。それだけではありません。彼らは神様にそむき続けてきました。いまや神の子イエス様を十字架につけて殺します。その結果、彼らは滅亡し、エルサレムの神殿は崩されます。紀元前20年にヘロデ王が建築を始めたエルサレムの神殿は工事を始めてから80年以上たった紀元64年に完成しますが、その神殿は紀元70年8月にローマ帝国との戦いの末、一日で崩壊します。平和への道を知らず、平和の王イエス様の訪れの時をわきまえなかったからです。そのために、イエス様は神の都、エルサレムのために涙を流し、高慢で利己的な彼らの心を嘆き悲しまれたのです。そして、彼らが滅びることを預言してから商売人たちを追い出し、「私の家は祈りの家でなければならない」と宣言なさいました。それから、イエス様は毎日、宮で教えておられました。それによって祈りの家である宮では毎日神様の御言葉が教えられるべきことも示してくださいました。それでも、宮で祈り、御言葉を教えるべき祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエス様を殺そうとねらっていました。彼らは悔い改めて平和の王イエス様を迎え入れるべきなのに、むしろイエス様を殺す殺意に満ちていたのです。イエス様は、それを前もってご存知であり、その人たちのために泣かれたのです。では、2012年のクリスマスが近づいている日本の都東京をご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。平和の王イエス・キリストの誕生、イエス・キリストの訪れを知らずに商売ばかりしている人々をご覧になる聖霊様の御心はどうでしょうか。私たちの教会では毎週姉妹宣教師たちは早稲田大学に行って伝道しています。何回も注意されたそうです。それでもキャンパスのたましいたちのために祈り、伝道していますが、追い出される時もあるそうです。最近はキャンパスの中に入ることもできず、外の庭で伝道しているそうです。このような現実のために、ある宣教師は涙が出たと言いました。このような今のキャンパスをご覧になるイエス様の御心はどうでしょうか。あの宣教師よりも嘆き悲しまれるのではないでしょうか。すぐに滅ぼすことはなさらず、泣いてくださるでしょう。それが平和の王イエス様の御心です。堕落してしまった人々をご覧になると、彼らがさばかれることを前もってご存知であり、そのために悲しまれるのです。特に、私たちのからだは聖霊の宮です。?コリント6, 19節を見ると「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」とあります。つまり、私たちのからだは私たちのうちに住まれる主と交わる祈りの家なのです。神様は私たちがいつも聖霊と交わることを望んでおられます。そして、この教会堂は目に見える主の宮です。祈りの家です。ここで、神様は私たちが平和の王イエス様と交わる祈りと賛美をすることを望んでおられます。どころが、私たちのからだは祈りの宮としての役割を果たしているでしょうか。主と交わる場所として用いられているでしょうか。私はこのメッセージを準備するうちに、イエス様が私とこの教会を見て泣いておられるのではないかと思いがしました。主と交わることよりも、この世の事で騒いでいる私の心です。夜明けに教会に来ても寂しさを感じてしまう時も多いこの教会堂です。イエス様がご覧になってどう思われるでしょうか。こんな私たちを責めるのではなく、涙を流してくださいます。私たちが本当に平和のこと、平和の王イエス様のことを知っていたなら、祈っているはずです。イザヤ55章6、7節を見ると「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」とあります。どうか、クリスマスが近づいて来たこの時期に、主に帰りましょう。心から平和の王としてお生まれになったイエス様を受け入れ、イエス様と交わる祈りに励むことができるように祈ります。お会いできる間に、近くにおられるうちに呼び求めましょう。そうすれば主は哀れんでくださいます。私のために泣いてくださいます。どうか、私のために涙を流してくださる主の愛に感謝し、主に御名によって来られる平和の王イエス様を心から迎え入れますように祈ります。