2024年 09月 01日 (日)
上からの権威
ピラトは兵士に指示を出しました。兵士はイエス様を鞭打ち、茨の冠を被らせ、紫色の衣を着せました。イエス様を嘲弄し、イエス様の悲惨な姿を持って、訴える祭司長たちと下役たちの声を鎮めようとしたのです。しかし、どうでしょう。イエス様を見た彼らの声はむしろ大きくなり、十字架につけるよう叫んだのです。罪を見出せないイエス様をこうしてまで律法で死に追いやろうとする彼らを理解できないピラトに、逆に恐れが生じました。ピラトはイエス様を釈放できないかと画策しましたが、イエス様は何もお答えになりません。それもピラトには理解できなかったでしょう。イエス様の生死はピラトの権威一つで決まるのに、イエス様はそれに媚びるふりもありません。むしろこう言われたのです。
「上から与えられていなければ、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」イエス様が従うのは、人の権威ではありません。人の力や権力でもありません。ただ上からの権威です。それは神様から与えられた権威です。イエス様が従われるのはピラトではありません。神様です。キリストは十字架の死にまで神に従順であったと聖書にあります。それは、イエス様がただ神の権威だけを権威と認めておられるからです。会社や組織で働く私たちは世の権威の下にいます。パウロも権威には従うようにと勧めていますが、世の権威とは異なる上からの権威があることを聖書は教えています。組織の中の権威だけを見ていないでしょうか。ピラトの上に権威があります。私たちの組織の上にも天の権威があります。キリストのように神の権威に従う者になりましょう。
祈り:主よ、上の立場の人のことを気にするあまり、人になびく信仰である自分がいます。どうか主に真っ直ぐ立たせてくださいますようにお助けください。
一言:上からの権威
2024年 09月 02日 (月)
完了した
イエス様は十字架を背負い「どくろの場所」と呼ばれるところで、はりつけられました。イエス様の両側には二人の者も一緒に十字架につけられました。イエス様の十字架に掲げられた罪状書きは「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれました。ユダヤ人の祭司長はこの内容に異議を申し立てましたが、ピラトはこれを却下し、イエス様はユダヤ人の王として十字架にはりつけられました。十字架で苦しむイエス様の下では兵士たちがイエス様の着物をくじで分け合っています。それは詩篇22:18の預言通りでした。イエス様は苦しみの中でも、母を気遣い、愛する弟子を息子とするように言葉をかけられました。「わたしは乾く」この言葉も預言通りでした。そして、酸いぶどう酒を含んだ海綿を受けると「完了した」と言われました。「完了した」その時、イエス様は頭を垂れて霊をお渡しになられたのです。
「完了した」、それはイエス様が十字架で罪の贖罪を完了したということです。キリストとしての十字架の贖いの務めを完了したということです。聖書に書かれている預言を全うされたことです。その言葉の重みはどれほどでしょうか。イエス様は人々の罪を赦すために、十字架で死なれただけではありません。あなたの罪の赦しを完了されたのです。あなたのいのちを救う道を開いてくださったのです。完了したとは、もう何も付け足すことがないということです。キリストの十字架以上も、未満もありません。ただこの十字架が救いを完了したのです。あなたはこれを十分だと思いますか。何か自分でしないいけないと感じますか。あなたはキリストが十字架の死の間際に発せられた「完了した」、この言葉の重みをそのまま受け止めているでしょうか。
祈り:主よ、あなたの十字架の重み、完了という重みを軽んじて、自分の行いや何かを足そうとしていたことを悔い改めます。ただあなたの十字架のその完了の重みを感じて、感謝していられるようにしてください。
一言:あなたの罪の赦しは完了したのです
2024年 09月 03日 (火)
ピラトに願い出た
イエス様が十字架で亡くなり、すでに日は暮れ夕方となり安息日が始まろうとしていました。安息日に入る前に処刑を終えるべく、兵士はイエス様の脚を折ろうとしましたが、すでにイエス様は死んでいました。兵士はイエス様の脚を折ることはしませんでしたが、脇腹を槍で突き刺しました。この二つのことも、聖書の預言通りのことでした。そのあとでヨセフという人物がイエス様のからだを取り渡してほしいと願い出てきました。彼はイエス様の弟子の一人でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたようです。また彼だけではなく、ニコデモも没薬と沈香を混ぜあわせたものを持ってきて、一緒にイエス様を亜麻布に巻いて埋葬しました。日没までの限られた時間でしたが、彼らはまだだれも葬られたことのない新しい墓に、イエス様を納めました。
これまではユダヤ人や周りの人を恐れて隠れていた二人が、ピラトというエルサレムの最高権力者にイエス様のからだの引き渡しを願い出たことは驚きです。イエス様に従いつつも、公にせず、隠していた彼らの信仰が表に現れたのです。それは彼らがイエス様の十字架に心打たれたからです。イエス様こそまことの神の子であることを告白し、イエス様を仰ぎ見ることを心から選択したのです。信仰を隠すことは自分を隠すことだけではありません。イエス様を隠すことにもなります。しかし、彼らは恐れを乗り越え、信仰を表に出しました。イエス様を神の子として表に出したのです。彼らは、槍を刺した兵士がイエス様を見上げたのと違い、イエス様を神の子として仰ぎ見るようになりました。キリストの十字架を表に出してあなたは生きているでしょうか。
祈り:周りの目や評判、自分にどんな反応があるのかを恐れて、信仰とイエス様を隠していたような振る舞いを悔い改めます。彼らのように恐れを乗り越えてイエス様を公言する者として下さい。
一言:キリストの十字架を仰ぎ見ます
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