2025年 04月 23日 (水)
初めの愛から離れてしまった
エペソ教会は真理を守るために行ない、苦労し、ひとりの魂のためによく忍耐しました。またイエス様の御名のために耐え忍び、疲れたことがありませんでした。彼らは御言葉からかけ離れた教えと戦い、使徒と自称している者たちをためして、その偽りを見抜いて追い出しました。アルテミス女神を崇拝し、人々を淫行に陥れているニコライ派を憎みました。ところが、エペソの聖徒たちは真理を守ることに熱心でありましたが、イエス様の初めの愛からは離れてしまっていました。イエス様はそんな彼らの問題を指摘し、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めるように言われます。彼らは神様との人格的な関係を持たずに律法を守ろうとしました。自己中心的な熱心と欲によって主に仕えていました。ですから、彼らの信仰生活には愛も喜びもありませんでした。主はそんな彼らが初めの愛を回復し、その愛の中で信仰生活をすることによって、いのちの木の実を受けて食べることを願われました。
スミルナ教会は、ローマの迫害によって、苦しみと貧困を味わいました。また、将来サタンの働きによって、ある人たちは牢に投げ入まれる大きな患難を受けるようになります。しかし主は、むしろ彼らに、苦しみを恐れず、死に至るまで忠実でありなさい、と言われます(10b)。私たちは、死ぬことがあっても、死に至るまで主に忠実であることを求められています。そうすれば、いのちの冠を得ることができるのです(10b)。
祈り:主よ、初めの愛を忘れると、形式的で喜びのない信仰生活に陥ってしまうことを学びます。どうか十字架の愛で私に触れ、私を満たしてください。主の愛で同労者たちを抱く者に変えてください。
一言:初めの愛に戻ろう
2025年 04月 24日 (木)
持っているものをしっかりと保ちなさい
ペルガモンはサタンの王座があるところです。ゼウス神殿があり、皇帝アウグストの神殿があって偶像崇拝を強要したところです。このために忠実な主の証人アンティパスは殉教しました。ペルガモンの聖徒たちは殉教精神で生きていました。ところが少しばかり責めるべきことがありました。彼らの一部が、偶像に捧げられた食物を食べさせたり、姦淫を容認するバラムとニコライ派の教えを信奉したりしていたのです。エペソ教会は、ニコライ派の人々の行いを憎み、そのことで褒められましたが(6)、ペルガモン教会は、快楽や情欲の罠に陥っていました。サタンは小さな問題で信者を倒そうと接近します。ですから、現実的な小さな問題に対しても、福音精神をもって戦うべきです。
ティアティラにある教会は、主が認めるほど行いと愛と信仰と奉仕と忍耐が立派でした。ところが責めるべきところがありました。自称預言者のイゼベルをなすがままにさせていたことです。当時、事業をするためには同業組合に加入し、神殿でも事業のための会議をするようになり、自然と偶像崇拝をしたり、淫乱を楽しんだりしました。サタンはこのようなことを利用して淫行させ、偶像に献げた物を食べさせていました。現代も、商売や事業を優先し、仕事の付き合いを言い訳にお酒と淫乱を許容します。このようなサタンの策略が分かったなら、イゼベルの淫乱な勢力を容認してはいけません。容認するとは、寛容的な態度で受け入れることであり、そうしているうちに魂がつまずきます。主は、淫らな行ないをする者たちが悔い改めないなら病の床に投げ込み、大きな患難の中に投げ込み、その子供たち(従う者たちのこと)をも死病によって殺すと警告されます。主は彼らに頼まれます。「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。」(25)。彼らにあるものは十字架の福音です。絶対的な福音信仰です。これを主が来られるときまでしっかり持っているべきです。そうすれば諸国の民を支配する権威を与えてくださいます。
祈り:主よ、忍び込んでくる物質と快楽を警戒するように助けてください。
一言:十字架の福音をしっかりと保ちなさい
<<(1) 前のページ(1) 2 次のページ(3) (7)>> |