聖書別日ごとの糧   >>   黙示録[2025]

2025年 04月 25日 (金)

ヨハネの黙示録3:1-13(8)
すこしばかりの力があって、わたしのことを守り

サルディスにある教会は大きな教会で、外側から見ると活気があるように見えました。しかしイエス様は「あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」と言われ、「あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。」と責められます。もし目を覚まさないなら、さばかれると言われます。サルディスの教会は、他の教会のような迫害の問題や、教会内での異端の問題も抱えていませんでした。そのせいで霊的な怠けに陥っていました。だんだん熱くなるお湯の中で死んでゆくカエルのように、良い環境の中で霊的に眠っていました。このようにじっとしていると、どうなりますか?死にます。ですから目を覚まし、生きている者となって、死にかけているほかの人達を力づけなければなりません。そのためにも、まずは悔い改めなければなりません。そして聖霊の力を受けなければなりません。1 節で「神の七つの御霊と七つの星」と言っていますが、サルディスの教会が信仰の情熱を回復するためには御霊から油を供給されなければなりません。悔い改めて聖霊様に切に頼る事によって聖霊の助けを体験するなら、霊的な眠りから目覚めて信仰の情熱を回復できます。

フィラデルフィアにある教会はサタンの会衆に属する者、自称ユダヤ人達から迫害を受けました。この教会は小さな教会でした。建物も小さく少人数でした。ところがイエス様は、七つの教会の中でフィラデルフィアにある教会を唯一責めることなく褒められます。この教会は小さくても、少しばかりの力で、イエス様の御言葉を守り、イエス様の御名を否まなかったからです。エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラの教会は大きな力を持ちながらも御言葉を守れずイエス様の御名を否みました。しかし、フィラデルフィアにある教会は、少しばかりの力で御言葉を守り、信仰の中心を良く守って生きている教会、称賛される教会となりました。このようなフィラデルフィアにある教会にイエス様はダビデの鍵を持って現れ、誰も閉じることのない門を開いておかれました。また試練の時には守って下さいます。



祈り:主よ、少しの力で御言葉を守ることに忠実であるように祈ります。

一言:私の少しの力と神様の大きな力



2025年 04月 26日 (土)

ヨハネの黙示録3:14-22(15)
冷たいか、熱いかであってほしい

ラオディキアにある教会の信仰は冷たくも熱くもありませんでした。つまり福音に対する情熱もなく、だからと言って拒否感を持っている訳でもありませんでした。彼らがそのようになった理由は、経済的な富に慣れ親しんだ生活で不自由を感じなくなっていたからです。しかし霊的に見る時、彼らは惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者でした。深刻なことに、彼らは自分たちの信仰が間違っている事実を悟りませんでした。自分の霊性がどんなに地に落ちているか、神様の御言葉に対してどんなに無感覚になっているか、自分の生活がどんなに汚染され汚れているのかを知らないでいました。まるで、盲目で、服を着ていない裸の者のように霊的武装が全く出来ておらず、様々な問題に対して、クリスチャンなのか、ノンクリスチャンなのか分からないような判断や生活しか出来なくなっていました。イエス様はそんな彼らの間違った信仰を厳しく叱られます。

主はそんな彼らをどのように助けられますか。第一に、彼らが主に来て火で精錬された金,白い衣、霊的目が見えるようにする目薬を買うように言われます。即ち、イエス様に出て行って主から救いの恵みを受け、所有することによって心が熱くなるようにされました。第二に、イエス様の懲らしめを心から受け入れて悔い改めるようにされました。そして主の御業に熱心になるようにされました。チャールズ・T・スタッド宣教師(Charles.T.Studd)は言いました。「私たちは情熱的になるべきです。年を重ねるほどもっと情熱的にならなければなりません」。第三に、主と持続的な愛の交わりを持つようにされました。主は聖徒たちの心の戸をノックしておられます。いつどこででも聖徒たちが心の戸を、開きさえすれば、主は親しく訪れ交わりを持って下さいます。そうすると聖徒たちの心が熱くなります。生ぬるかった信仰の原因は主との交わりが足りなく、主の代わりに他の事をもっと近づけるからです。



祈り:主よ、私もなまぬるい信仰生活をしていたことを認めざるをえません。主に近づき、主の熱い愛にあふれる者にならせてください。

一言:悔い改めてイエス様の恵みに集中しなさい


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