聖書別日ごとの糧   >>   レビ記[2016]

2016年 07月 07日 (木)

レビ記22:1-16
聖なるものを汚してはならない

 祭司は主の聖なるものをむやみに扱ったり、不正に使ってはいけません。そうすることで、神様の名を汚すからです。祭司が汚れた病気にかかったり、死体に触れたりした場合、聖なるものを食べてはなりません。祭司は、人を汚すものに触れてはなりません。神様に仕えなければならない身分なのに、汚れたものによって汚れてしまうからです。祭司は民を代表して神様に仕える者ですから、神様の御心に従う生活に励まなければなりません。世の中の汚れたものに体と心が触れてはなりません。罪によって汚れた状態で、聖なる神様に仕えることはできないからです。主に捧げる聖なるものに近づく祭司が汚れるのなら、神様はその家を断ち切ります(Ⅰサムエル2章)。神様の聖なるものに近づき、神様に仕えることは、どれほど栄光ある務めでしょうか。これを悟って、感謝と恐れ敬う心で祭司の務めを担わなければなりません。
 一般の者や祭司と同居している者、また雇い人は、聖なるものを食べてはなりません。しかし祭司に金で買われた者は、聖なるものを食べることができます。私たちは罪の奴隷であり、異邦人でしたが、イエス・キリストが血の代価を払って買ってくださいました。こういうわけで、私たちは大祭司であるイエス様とともにいのちのパンを食べることができるようになりました(ヨハネ6:35)。もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります(Ⅰコリント11:27,28)。私たちは主の恵みを覚えて主の聖餐を汚すことがないように自ら気を付けなければなりません。

適用: いのちのパンを食べたいですか。

一言: 悔い改めから



2016年 07月 08日 (金)

レビ記 22:17-33
傷のないものでなければ

 神様に仕える祭司は、聖なる者でなければなりません。神様に捧げるいけにえも聖なるものでなければなりません。誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物としての牛や羊、やぎは傷のないものでなければなりません。盲目のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるものは捧げてはなりません。欠陥のあるもの、傷のあるものは主に喜ばれるものではありません。神様に捧げるものは捧げる人の心を反映したものです。まことに神様に感謝して神様を喜ばせるためには、傷のあるものや欠陥のあるものを捧げることはできません。私たちが神様を愛するなら神様に最高のもの、最上のものを捧げるでしょう。神様は私たちのために大きな恵みを与えてくださいました。一人子を十字架に渡し、私たちが神様の子供となる祝福をくださいました。祭司の王国、聖なる国民として選んで下さいました。それなら私たちも、神様に捧げるものは最高のものを捧げるべきです。
 汚れたものや病気のものを捧げることは、神様に対していい加減な態度をとっていることになります。自分の欲にとらわれて欠陥のあるものを神様に捧げるのなら、神様と完全な交わりができません。神様が受け入れられない礼拝には、神の霊が臨在することができません。傷のあるものを捧げることは聖なる神様を見下す行為です。傷のない完全なものを捧げることは、神様に対する忠誠と献身を意味します。神様はそのような人の神様になること願われ、そのような人を祝福してくださいます。

適用: なぜ傷のないものを捧げるのですか。

一言: 喜んで受け入れられるために


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