2023年 04月 16日 (日)
ヨブの信仰観
ヨブは神様と自分との間を取り持つ仲裁者を求めましたが、見つけることができませんでした(9:33)。それで、直接神さまに不平をぶちまけます(1)。ヨブは、なぜ神さまが、正しい自分を正しくない者(不義)として扱うのか、理解できずに苦しみました(2)。ヨブは、友人たちの信仰観に対しては激しく反論しますが、実は、彼自身も、因果応報的な信仰観に縛られていました。自分が正しく生活しているのなら、それ相応の報いが与えられて当然であり、神さまの対応のほうが間違っている、不公平だと考えました。このような因果応報的な考えは、自己義認や自己責任論を生み出します。試練を通して、ヨブの中にあった自己義認の根が現れるようになりました。
神様の前で正しい者(義)と認められることは、私たちの行いや功績とは関係ありません。私たちが神様の前で自分の正直な姿を認め、神様の恵みとあわれみに頼る時、主は正しい者(義)と認めてくださるのです。ルカの福音書に出てくる取税人は、一人だけ遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて「罪人の私をあわれんでください。」と祈りました。自分がいかに正しいかを説明しようとせず、主のあわれみだけに自分の身を任せました。彼は、神さまに義と認められて家に帰るようになりました(ルカ18:13,14)。ヨブは、神さまが慈愛に富み、あわれみに満ちた恵みの神さまであることを、試練を通して学ぶようになります(ヤコブ5:11)。
祈り:理解できない苦しみを受けた時、神さまを責めるばかりしていたことを悔い改めます。主が私を愛してくださっていることを、そして、主が恵みとあわれみをもって助けて下さることを信じるように助けて下さい。
一言:私は恵みの信仰観
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