2023年 08月 14日 (月)
わたしを不義に定めるのか
神様は、ヨブを「非難する者」「神を責める者」と呼びました。ヨブは、それに対して言い訳することなく、自分が取るに足りない者であることを認め、もう主に口答えしないと答えました。
しかし、主は、もう一度、嵐の中からヨブに語りかけます。「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。」(8) ヨブは自分が取るに足りない者であることを認めはしましたが、何のあやまちもない自分が苦難を受けることは正しくない、という考えを続けて持っていました。しかし、これは信仰から離れた考え方です。榎本保郎牧師は、人間が自分の罪に気づき、自己義認から信仰義認に移るべきことの重要性について、次のようにおっしゃっています。「信仰とは自分の小ささ、卑しさを知ることから始まるものではない。自分の罪に気づき、それにもだえ悔い改めることから始まるのである。昔ギリシャの哲人ソクラテスは『汝自身を知れ』と説き、自分の無知を知ることをもって哲学の始めとすると教えたそうである。しかし、聖書は私たちの無知や卑小さを示すのではなく、罪をさし示す。ここに哲学とキリスト教の根本的な違いがある*。」イエスさまの十字架は、自分の足りなさに泣く者のために立てられたものではなく、自分の罪に泣く者のために立てられたものです。それで神さまは、ヨブの自己義認を完全に砕くために、再び嵐の中から語られました。自分の正しさにしがみつくヨブを咎められました。私たちを自己義認から救うために、しつこく私たちと付き合ってくださる主は、なんと恵みと慈しみに深いお方なのでしょうか。
*『ちいろば牧師の一日一章』p.519
祈り:イエス様、あなたは私の罪のために死んでくださったのに、私は、自分の罪よりも、自分の足りなさや弱さのことでもっと泣いていました。私が自分の罪についてもっと悟り、十字架の贖いをはっきりと受け取れるように助けてください。
一言:信仰義認
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