聖書別日ごとの糧   >>   詩篇[2021]

2021年 07月 10日 (土)

詩篇51:1-19(10)
私の心と霊を新しくされた神様

 ダビデは重大な罪を犯しました。自分の軍隊が戦争で戦っている間、王宮で昼寝をしていましたが、将軍ウリヤの妻でバテ・シェバという女性と関係を持ってしまったのです。そして彼女の妊娠が分かると、今度はその罪を隠蔽しようと、ウリヤを戦場で敵に殺されるように手を回すなど、とんでもない罪を犯してしましました(Ⅱサムエル11章)。罪の快楽は甘いものですが、その結果は想像を絶する苦痛です。そこでダビデは神様に罪の赦しの祈りをします。「自分の咎をすっかり洗い去り、罪からきよめ、取り除いてください。…」と切に懇願しました。本文には、重い罪責感による苦しみだけでなく、神からの救いを渇望する彼の切実な願いも描かれています。彼のたましいの上に重くのしかかる罪は、この世のものではきよくすることはできません。しかし彼は、神様が自分の罪を取り除いてくださるなら、きっときよくなれる、そして神様が罪を洗って下さるなら、自分は雪よりも白くなると信じていました(7)。

 ダビデは、自分の罪がきよめられるだけでは満足しませんでした。彼は、神様が彼にきよい心を造り、自分の霊を新しくしてほしいと願いました。何より、聖霊を取り去らないでほしいと願い求めました(10・11)。新しい契約のもとにいる私たちは、ダビデのように御霊が去ってしまうことを恐れる必要はありません(エレミヤ31:31-34、エゼキヤ36:25-27)。だれでもキリストのうちにあるなら、その人のすべてが新しくなっており、神の霊がその内側におられるからです(Ⅱコリント5:17、6:19)。これは、クリスチャンになったら全く罪を犯さなくなるという意味ではありません。使徒パウロも、自分のうちにある罪の本性に大変苦しみました(ローマ7:18-25)。しかし、主の深い慈しみと忍耐と寛容が弱い私たちを罪の悔い改めに導き(ローマ2:4)、栄光から栄光へと、主と同じかたちに私たちの姿を変えていって下さるのです(Ⅰコリント3:18)。罪を犯してしまったのなら、主の慈しみを信じて主の前に出て行きましょう。



適用:わたしを罪の苦しみから救うことが出来るのは誰ですか

一言:慈しみ深い神なる主


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