2022年 11月 23日 (水)
主は私を助けてくださる
自分達がバビロンの捕囚になってしまったのは、神さまのせいだとイスラエルは考えました。彼らは、「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」(49:14)と嘆きました。まるで、父親の離縁状によって母親が家から追い出された家の子どものように、また、借金を清算しようとした父親によって債権者に売られた子どものように、自分達は神様に見捨てられてしまった、と考えました。しかし、神様はご自分の民を問い正します。そんな離縁状が一体どこにあるのか?債権者とは一体誰なのか?と(1)。彼らが捕囚の身となってしまったのは、神様が彼らを見捨てたからではなく、彼ら自身が主に背き、主の呼びかけに答えなかったからです(2)。神の民が、自ら神様から離れたのです。
神から離れてしまったイスラエルを救うのは、一体誰でしょうか。答えは、4節以降にあります。4節から9節は、イエス・キリストが苦難を受けられることを預言している箇所です。イエス様は、苦難を通してご自分の民を罪と咎から贖ってくださいます。イエス様は、神様から受けた使命を成し遂げるまで、どんな侮辱も甘んじて受けられます。苦しみの中にいてもつぶやかず、恥と思いません。それは、神である主が助けてくださるという確信があったからです。また、神様が彼を義と認め、弁護してくださると信じるので何をも恐れませんでした。苦難の中を生きる神の民は、同じく苦難を受けられたイエス様から学ぶことができます。私たちも、イエス様のように、目の前の敵や出来事にではなく、神様の助け、守り、主によって義とされたことに心を向ける必要があります。主の御声に聞き従っていくなら、決して恥を見ることはありません。
祈り:主よ、罪と咎の闇の中を歩いていても、心を主イエスに向け、御名に信頼して御声に聞き従うなら、助けて下さることを信じます。
一言:神様が助ける
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