聖書別日ごとの糧   >>   エゼキエル書[2019]

2019年 02月 17日 (日)

エゼキエル書35:1-15(15)
おまえは荒れ果てる

 神様はセイルの山に対するさばきを言われます。ここで「セイルの山」は、エドム族を象徴しています。エドム族はエサウの子孫であり(創36章参照)、イスラエル(ヤコブ)の兄弟です。ところが彼らはイスラエルに対して敵意を抱きました。弟ヤコブにだまされて兄エサウが長子の権利を奪われたと思ったからでしょう。ヤコブはエサウと和解しましたが、エサウの子孫は敵意を抱き続け、ヤコブの子孫であるイスラエル人が災難に会ったとき、助けずにむしろ殺しました。イスラエルが自分たちの罪のゆえにバビロンによってさばかれたとき、エドムはエルサレムを略奪しました。
 神様は、ご自分の民が罪を犯したとき、裁かれますが、神様の民を苦しめる者たちをも裁かれます。神様の民を祝福する者は祝福されますが、神様の民をのろう者はのろわれます(創世記12:3)。また、兄弟の苦しみを喜び、兄弟の血を流す者たちをも裁かれます。神様はエドムをさばき、荒れ果てさせ、荒廃した地とされます。彼らが残酷に血を流したので、血は彼らを追いかけます。私たちは、人が種を蒔けば、その刈り取りもすることになることを覚えなければなりません(ガラテヤ6:7)。
 何よりも、エドムは神様の御前で高慢でした。主がイスラエルとユダにおられたのに、次のように言いました。「これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。」イスラエルの統治者は神様です。それなのに、エドムは神様を透明人間であるかのように扱いました。自ら高ぶって神様の主権を無視する者の最後は悲惨です。今日もエドムのように神様の御前で高慢なままでいる人々がいます。彼らは、最後まで悔い改めなければ神様の裁きを受けて荒れ果てます。その時、神様が主であることを知るようになります。私たちは神様の御前で自分を顧みて謙遜にならなければなりません。


適用:神様の御前で高慢の者の最後はどうなりますか

一言:荒れ果てます


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