聖書別日ごとの糧   >>   アモス書[2019]

2019年 08月 23日 (金)

アモス書7:1-9(8)
重りなわをイスラエルの真ん中に垂れ下げよう

 神様はアモスに幻を見せてくださいました。一つ目は、いなごによる災いです。王に納めるために刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを造って青草を食い尽くすようにされました。そうなると、食べる物がなくなってしまいます。アモスは主に祈りました。「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼らは小さいのです。」アモスは、イスラエルが神様の恐ろしい裁きに耐えられないので、赦してくださいと執り成しています。すると、神様は思い直してくださいました。二つ目は、燃える火による災いです。アモスは、またも主にひれ伏して祈りました。「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼らは小さいのです。」今回も、神様は思い直してくださいました。神様の恐ろしい裁きは避けて通れるものではありませんが、神様ご自身も裁きを望んでおられません。思い起こして罪を悔い改め、帰って来ることを最後まで待ってくださる神様です。神様は裁きの中でも、主のしもべの執り成しの祈りを聞かれ、思い直してくださる愛と憐れみに溢れる神様です。
 三つ目の幻では、主は手に重りなわを持ち、重りなわで築かれた城壁の上に立っておられました。重りなわとは、柱や壁が垂直に立っているかを測る建築道具です。重りなわを垂れ下げて見たら歪んでいました。歪んでいる所は高き所、聖所、ヤロブアムの家でした(9)。高き所には偶像が、聖所にはバアルが、ヤロブアムの家には金の子牛が置かれていました。これらは神様の重りなわで測ってみると、見過ごせない忌み嫌われるものでした。イスラエルは自分の思い通りにヤロブアムの道に歩み、ベテルで金の子牛の偶像を拝みました。間違った礎の上に建てられたものはすべてが歪んでいました。神様はこの罪に対し、二度と見過ごさないと言われます。人々は自分が置かれている環境の中で、仕方なく自分の都合に合わせて、自分の目に良いように判断して暮らします。ところが、終わりの日に神様は聖書の御言葉の通りに、重りなわを手に持って、私たちの真ん中に垂れ下げられます。その時、世の価値観の上に築き上げたものはことごとく崩れ落ちます。特に、偶像は自分の欲を満たすために築き上げたものなので、神様が重りなわを手に持って裁かれます。


適用:どんな重りなわを持っていますか

一言:聖書の御言葉



2019年 08月 24日 (土)

アモス書7:10-17(15)
主が預言せよと仰せられた

 アモスが神様からのメッセージを伝えた時、それを聞きたくないと思っていた人がいました。ベテルの祭司アマツヤです。アマツヤはヤロブアム王によって任命されたべテルの祭司でした。ベテルはイスラエルの主要都市です。金の子牛を拝む聖所として、王の聖所とも、王宮ともされていました(13)。ヤロブアムは政治的な目的のためにベテルに王宮を置きました。王に信頼され、権力をも持っていたアマツヤは、ヤロブアム王にアモスを告発しました。告発の内容は、アモスが謀反を企てているというものでした。また、ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行くという我慢できないでたらめなことを言っていると伝えました。アマツヤは、王の権力を利用してアモスに断固として言いました。「先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。(12,13)」自分の国でもない所で、しかも王宮の前で、一体何をしているのかと、責め立てたのです。
 そこで、アモスは答えて言いました。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。(14)」自分は、祭司家の者でも、預言者学校の出身でもない平凡な平信徒でしかないと証ししています。大事なのは、そんな平信徒を神様が召され、御言葉を伝えるために遣わしたということです。「主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。」(15)神様は羊の群れを追っていた彼を力強い御手で選び抜き、預言者として立てて下さいました。アモスは、神様が自分を召され、預言者として立ててくださったことを自覚し、はっきりと表明しました。そして、アマツヤに対する裁きを余すところなく伝えました。彼の妻は遊女となり、子どもたちは剣で倒れ、彼の土地は分割されます。彼は汚れた地で死に、持っているものをすべて失うことになります。


適用:預言せよと仰せられた方は誰ですか

一言:主なる神様


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