聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 01月 21日 (木)

マタイの福音書1:1-17(1)
イエス・キリストの系図

マタイの福音書は、イエス・キリストの系図から始まります。イエス様はアブラハムの子、ダビデの子の子孫です。これはイエス様が約束されたメシアであることを示しています。アブラハムとダビデに、彼らの子孫を通してメシアが来られることを約束したからです。(創世記22:18、サムエル記第二7:12-16)

キリストの系図に記された女性たちに注目する必要があります。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻たちです。タマルは夫が死んだ後、娼婦に変装して、義父であるユダと関係を持った女でした。ラハブはエリコ城の遊女です。ルツはモアブを出て、やもめになった運命的な女です。ウリヤの妻はダビデと姦淫を犯した女です。多くの立派な女性が他にいる中で、なぜ、このように過ちを持っている女性たちを系図に記録したのでしょうか。それは、イエスキリストが誕生される世界がどんな世界であるのかを見せるためです。イエス・キリストが誕生される世界とは、過ちを犯した罪人たちが贖い出され、神様の御業に尊く用いられる恵みと望みの世界です。ですから、どんな過ちと罪の中にいる人にも、望みがあるのです。

 一方、この女性たちは、自分が処せられた運命的な条件、過ちを見て、絶望したり、落ち込んだりしませんでした。タマルはどんなことをしてでも神による相続人を産もうとし、ラハブは神さまに不従順な同族側に立たず、神様の側に立ちました。ルツはモアブで再婚し、新しい人生が出発できたのですが、義母の神様を自分の神様として受け入れ、苦難の道を選びました。ウリヤの妻バテ・シェバは、一時過ちを犯しましたが、後になってナタンとソロモンを王に擁立し、神様の御業に大きく貢献しました。彼女たちは、信仰の人たちでした。



適用:自分の過ちと運命的な条件の前で絶望しますか

一言:信仰の女性たち



2021年 01月 22日 (金)

マタイの福音書1:18-25(23)
神が私たちとともにおられる

イエス・キリストの誕生は次のようでありました。母マリアはヨセフと婚約していましたが、二人がまだ一緒にならないうちに聖霊によって身ごもっていることがわかりました。ヨセフは正しい人で、マリアを密かに離縁しようと思い巡らしました。この時、主の使いが夢に現れて、恐れずにアリアを妻として迎えるように言いました。なぜなら、マリアが身ごもっている子は聖霊によるものだからです。主の使いは生まれてくる嬰児に関して、二つのことを教えてくれます。第一に、この方がご自分の民をその罪からお救いになるということです。その名を「イエス」とつけるように言いました。イエスという名は、「神は救い」という意味です。イエス様はご自分の民を救うために生まれたお方です。第二に、神様は私たちとともにおられることです。イエス様の誕生は、イザヤ書7:14の御言葉の成就であり、神様が私たちと共にして下さることを見せてくださいました。ヨセフは眠りから覚めると、主の使いが命じた通りにマリアを妻として迎え、マリアが子を産むまでは、彼女を知ることはありませんでした。そして、その名をイエスとつけました。

「インマヌエル」は、神様が私たちと共におられるという意味です。イエス様がこの世に来られたことは、神様が私たちをどれほど愛し、親密に接してくださるかを表しています。アメリカの人類学者エドワード・ホールは、対人距離を通して親密関係を語っています。45㎝未満は密接距離、45㎝−120㎝は個体距離、120㎝−370㎝は社会距離、370㎝以上は公共距離としました。神様は、私たちを愛するがゆえに、罪の為に生じたご自分と私たちとの深い距離を、これ以上放っておけませんでした。それで、受肉され、私たちのうちに来られました。私たちと共に生きることによって、距離を縮めてくださいました。その距離をもっと縮めるために十字架につかれました。イエス様の受肉の愛と十字架の愛で、私たちは救いを得、聖なる神様と共に生きるようになりました。今もなお、神様は私たちとともにおられる方です。



適用:神様と距離がありますか

一言:インマヌエル


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