聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 01月 29日 (金)

マタイの福音書5:1-12(3)
幸いな者

この世では、健康でお金持ちで権力がある人を、幸せだと言います。しかし、イエス様は八つの幸いについて話して下さいます。心の貧しい者は幸いです。貧しいとは、乏しい状態です。心の貧しい者は神様だけに頼り、謙遜かつ低い心を持つ者です。神様はこのような魂を持っている人に、天の御国を与えて下さいます。多くの人が、霊的破産状態に陥っている自分の姿に気づかないまま(ヨハネの黙示録3:17)、物質的に豊かな中で満足し、富む心をもっています。神様は、人生の艱難と試練を通して、富む私たちの心が打ち砕かれることを願います。そうすれば天の御国を所有できるからです。

罪の故に悲しむ者は、罪の赦しの恵みを受け、聖霊の慰めを受けます。この世には誘惑と迫害が多く、競争も激しいです。ところが、厳しい状況をよく忍び、柔和に神様に仕えるなら、地を受け継ぐことになります。義は、神様との正しい関係性です。あわれみ深いとは、あわれむ心です。弱い兄弟をあわれむ時、あわれみを受けます。心のきよい者は聖なる神様を見るようになります。平和をつくる者は神の子と呼ばれます。神様がなさることは平和をつくることだからです。私たちが弟子の道を進む時、イエス様の故に悪口を浴び、迫害されるときもあります。しかし、イエス様は、「喜びなさい。大いに喜びなさい。(12)」と話されます。なぜなら、天において、そのような者たちの受ける報いは大きいからです。迫害を受けるということは、私たちが信仰によって生きている明確な証拠なのです。



適用:幸いな者ですか

一言:心の貧しい者



2021年 01月 30日 (土)

マタイの福音書5:13-16(13)
地の塩

イエス様の弟子は、地の塩のような存在です。塩は少量だけでも食べ物の味を出し、腐敗を防ぐ物質です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。イエス様は、なぜ弟子たちを塩に例えたのでしょうか。それは、弟子たちの影響力について説明するためです。八つの幸いに表れる内面を所有する弟子は、イエス様の味を出し、この世に良い影響力を及ぼします。弟子たちの影響力で、罪の故腐敗したこの世が保たれます。

一方、弟子たちは、光の源であるイエス様から光を受けるので、暗闇のうちにあるこの世を照らす、この世の光となります。山の上にある町は隠れることができません。弟子たちの生き方は、この世の中で、全てにおいて表れます。弟子たちは必ず、この世の不信者から注目を受けます。弟子たちが悪い行いをすれば非難され、良い行いをすれば神様の栄光を表します。人々は明かりをともして升の下に置かず、燭台の上に置きます。そうすれば家にいるすべての人を照らします。イエス様の弟子は、自分の生き方を、人の前に表すべきです。これは、八つの幸いに表れた立派な内面性を積極的に表すことを意味します。このようにすれば、この世の不信者たちが、私たちの良い行いを見て、天におられる神様をあがめるようになります。これは、言葉で宣べ伝えるより、もっと確実な宣教です。



適用:この世に対してどんな人ですか

一言:塩と光



2021年 01月 31日 (日)

マタイの福音書5:17-32(20)
まさった弟子の義

当時、イエス様の教えは新鮮で型破りでした。よって、ユダヤ人たちは、イエス様が律法や預言者を廃棄するために来られたのだと思いました。しかしながら、実際には、イエス様は律法を廃棄するためではなく成就するために来られたのです。律法学者やパリサイ人たちは、律法の精神を理解しようとしないで、ただ形式的に守りました。弟子たちの義は、このような宗教指導者たちよりも、まさらなければなりません。弟子たちは、イエス様の罪の赦しの恵みと聖霊の導きで、義を所有できます。イエス様は、弟子たちの義がどのようなものであるかを具体的に教えて下さいます。殺してはならないという戒めは、兄弟の命を殺すことだけでなく、兄弟を悪く言ったり、言葉で軽蔑したり、傷つけることまでが含まれます。今日の、ネット上での悪意ある匿名投稿は、殺人に至る恐ろしい言語暴力です。又、祭壇の上にささげ物を献げるよりも、兄弟と和解することがもっと大事です。姦淫してはならないという戒めは、事実上の姦淫だけを指しているのではありません。情欲を抱いて女性を見る者は誰でも、心の中で姦淫を犯しています。私たちは、異性を情欲の対象として見るのではなく、その高貴な人格を見なければなりません。私たちに罪を犯させ、つまずかせる肢体があれば、切り捨てたほうが良いのです。そのくらい、罪に対して断固たる姿勢を持たなければなりません。淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。イエス様の弟子の義は、律法学者やパリサイ人の義よりまさっています。



適用:私の義の水準はどれくらいですか

一言:パリサイ人よりまさらなければ



2021年 02月 01日 (月)

マタイの福音書5:33-48(48)
自分の敵を愛し

 モーセの十戒には、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」(出エジ20:7)という掟があります。「あなたの神、主の名によって偽りの誓いをしてはならない」という意味です。当時の律法学者やパリサイ人は、これを捻じ曲げて、天と地、エルサレム、自分の頭にかけて、偽りの誓いを口にしていました。そして、神の名によって誓っていないのだから、誓いを破っても大丈夫だと簡単に考えていました。しかし、何にかけて誓おうが、どんな誓いも本質的には神様の前での誓いであり、真実で誠実なものでなければなりません。誓ったことは、必ず果たさなければならず、果たすことができない誓いは、してはいけません。そして、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とし、自分の立場だけを明らかにしなければなりません。私たちが話す言葉は、どんなものであっても、信頼できるものでなければなりません。一度、言葉に出したのなら、その言葉に責任を持たなければなりません。

 「目には目を、歯には歯を」という言葉は、感情的な報復を防ぐためでした。しかし、イエス様は、報復をしないだけではなく、「悪い者に手向かってはいけません」と言われました。むしろ、悪者を愛し、仕えなさい、と言われます。善によって悪に打ち勝ちなさい、という意味です。隣人を愛し、敵を憎むことは、自然な感情です。しかし、敵を愛し、自分を迫害する者のために、祈らなければなりません。神様は、悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせてくださるように、慈しみと憐みが豊かな方です。もし、自分を愛する者だけを愛するなら、異邦人や取税人と何の違いもありません。イエス様は、天におられる父なる神様が完全であるように、私たちも完全であることを願われます。神様のご品質に従い、非凡な弟子の道を実践することを願われます。



適用:悪い敵に、歯向かいますか

一言:愛しましょう


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