聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 02月 02日 (火)

マタイの福音書6:1-8,16-18(6)
隠れたところで見ておられる父

 人は、他人に見せるために人前で善行をしやすいです。人から称賛されたり、認められたりしたい魂胆があるからです。善行を人前ですること自体は、悪いことではありません。イエス様も「人々があなたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(5:16)とおっしゃいました。しかし、どんなに良い行いであっても、正しい動機によるものでないのなら、人には認められても、天の父なる神様からの報いは受けることができません。私達は、パフォーマンスや結果で、人や自分自身を判断してしまいがちですが、神様は、心の底にあるものをご覧になるということです。そして、たとえ誰にも見てもらえず、また認めてもらえなくても、私達の心にあるものをご覧になって報いてくださる神様がおられるのです。

当時、施しをする時、偽善者たちは、人にほめてもらおうと、会堂や通りでラッパを吹き鳴らし、宗教指導者たちは、自分たちが敬虔であることを見せるために、会堂と大通りの角に立って、祈ることを好みました。しかし、施しも、祈りも、隠れたところにおられる父なる神様のみ前でしなければなりません。特に、祈りは、神様との秘密の会話です。つらい心を密かに吐き出す時、神様は、私の傷ついた心に触れ、慰めてくださいます。密かに罪を告白して、赦しを求める時、罪の赦しの恵みをくださいます。イエスさまの弟子たちは、同じことばを繰り返す異邦人の祈りを見習ってはなりません。神様は、私たちが求める前から、私たちに必要なものを知っておられます。それでも、私たちが求めるようにされるのは、祈りが、神様との関係を結ぶ通路であるからです。断食する時、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。主の弟子は、隠れたところで見ておられる神様の御前に生きなければなりません。人からの賞の代わりに、神様からの賞に望みを置かなければなりません。イエスさまの弟子は、密かに敬虔な生活をする者です。



適用:誰の前で、善を行なっているのでしょうか

一言:神様の御前で



2021年 02月 03日 (水)

マタイの福音書6:9-15(9)
こう祈りなさい

 弟子たちが祈りをささげる対象は、天にいます父なる神様です。神様をお父さんと思い、呼ぶことは、当時のユダヤ人の通念では、衝撃的なことでした。しかし、神様は、私たちの霊的な父親として、生涯、私たちを愛し、慈しみをもって顧み、支えてくださる方です。私のことを最もよく知っておられ、最も良い道に導いてくださる方です。この父なる神様の御前に出て行き、祈ることができるのは、大きな特権であり、恵みです。

 弟子の第一の祈りは、御名が聖なるものとされるように、です。これは、創造主神様として、ふさわしく扱われ、誉れと栄光が帰されるように、という意味です。弟子が世の塩と光として、正しく行動する時、神様の御名は聖なるものとなります。弟子は、自分の国と思いよりも、神様の御国と神様のみこころのために、祈らなければなりません。日ごとの糧は、自分の力で得るものではなく、神様がくださるものです。このことを信じ、日ごとの糧のために祈らなければなりません。私たちは日々、罪と咎を犯します。罪(負い目)は、神様との関係を邪魔し、喜びと自由を奪って行きます。それで、日々、生命力があふれる弟子の人生を歩むためには、私たちの負い目を赦してくださるように、祈らなければなりません。私たちは、試みにあう弱い存在です。これを認め、謙遜に祈る時、神様は私たちを試みから守ってくださいます。また、祈る時は、まずほかの人の負い目を赦さなければなりません。



適用:どんな内容で祈っていますか

一言:こう祈りなさい



2021年 02月 04日 (木)

マタイの福音書6:19-34(33)
まず神の国と神の義を求めなさい

 わたしたちは、イエス様の弟子としての生活をしていても、日々の生活の心配をしてしまいがちです。そして、生活を心配するあまり、熱心に地上に宝を蓄えるようになります。それが自分の今や老後を保証してくれる、と思います。しかし、地上に蓄えた宝は盗難にあったり、さびで傷物になったりします。そして、宝に執着していくうちに、目と全身が暗くなり、健康も失い、生涯さまようようになります。また、神様より宝にもっと頼る偶像崇拝者になってしまいます。このような過ちに陥ってしまわないためには、宝を地上に蓄えるのをやめ、永遠に保証してくれる天に宝を蓄える必要があります。地上の財産の本当の所有者は、私ではなく神様である、と認識を持つことが必要です。私は、財産を神様から任された管理者でしかありません。そして、任された財産を用いて、主に任された働きをする者なのです。

 神様は、種蒔きもせず、刈り入れもしない空の鳥をも食べさせてくださいます。働きもせず、紡ぎもしない野の花をも育て、装ってくださいます。それで、日々の生活を心配し、宝に執着することよりも、神様を信じ、ゆだねなければなりません。私たちがすることは、心配せずに、まず神の国と神の義を求めることです。神の国は、神様が治める、愛と公義が満ちた国です。この地上に神様の御国が臨むように、熱心に神様が喜ばれる生活をするなら、神様は私に必要なすべてのものを加えて与えられます。これが、イエス様について行く弟子たちの生活の原則です。



適用:まず、何を求めますか

一言:神の国と神の義


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