聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 02月 05日 (金)

マタイの福音書7:1-12(1)
さばいてはいけません

山上での垂訓の続きです。イエス様は、ここでは、兄弟をさばいてはならないことについて、教えられています。神の国と神の義を求める者は、教会の兄弟姉妹をさばかない者でもあります。私たちは、他人の言動に対して、まるで自分が正しい裁判官でもあるかのように、その理非を明らかにしようとするところがあります。しかし、世の裁判では、被告人には必ず弁護士が付き、また時間と日数をかけてよく調べ、あらゆる角度から検証しながら裁きがなされます。プロの裁判官でさえ、そのようにしながら人を裁くのであれば、何者でもない私達は、尚更に、人をさばくことに対して、気をつけるべきです。驚くべきことに、神様は、私たちに非があることをご存知でありながらも、最強の弁護者イエス様を私達につけてくださいました。そして、赦され、贖われ、新しくされる道をも用意してくださいました。父なる神さまでさえ、これほどの深い憐れみをもって私たちに赦しの道を与えてくださるのですから、わたし達も、憐れみと恵みの精神をもって兄弟を見るべきです。「自分がさばかれたくなければ」は、人からではなく、神さまからさばかれることです。

 さばいてはなりませんが、だからと言って、分別を持つことを止めてはいけません。物事の良し悪しを判断する必要はあります。教会では、兄弟たち、同労者たちの咎が目につきやすいかもしれませんが、まずは、自分自身を日々御言葉の前で点検することが必要です。でなければ、偽善者となります。また、6節に出てくる「聖なるもの」「真珠」は、神さまに属するもの、御言葉、神の国などを意味し、「犬」や「豚」は、神さまに属するものを嫌い、受け入れない人を指していますが、信仰の話や御言葉を伝える時には、一方的な伝え方をせずに、相手が受け入れる状態にあるのかどうかを判断しなければなりません。その人が受け入れる人であるなら、求め、探し、たたくことで、必ず真珠のように尊い真理と出会うようになります。最も良いものを与えてくださる父なる神さまと出会うようになります。



適用:さばきますか、与えますか

一言:人からしてもらいたいことは何でも



2021年 04月 18日 (日)

マタイの福音書 7:13-29(13)
狭い門から入りなさい

滅びに至る門は大きく、その道は広く、入るのが簡単です。多くの人が探し求める大衆性がそこにはあります。しかし、多くの人が捜し求めているからと言って、それが良い門だとは限りません。賢い人は狭い門から入ります。この門は狭く細いので、入るのが大変で求める人もあまりいません。この門はイエス様の御言葉に従って入る門です。この門だけが命に至る門です。

狭い門から入ろうとするとき、広い門から入るように偽預言者たちが私たちを誘惑します。そこにこそ自由と幸せがあると言います。しかし彼らの実を見るべきです。いくら言葉が美しくても、彼らは悪い実を結びます。惑わされないでください。彼らは「主よ、主よ。」と言いながら形式的な信仰生活をしますが、神様の御心を求めて生きていないので、天国には入れません。彼らは自分たちが多くのことを成し遂げてきたと思っていますが、実際には神様と関係がない不法を行なっています。

イエス様の御言葉を聞くだけでなく、御言葉を行なう者になるべきです。それは、狭い門から入る楽ではない生活です。そのような真実な生活よりも、自分の感情や良心、あるいは周囲の人たちがしていることに従って生きることの方が楽に見えます。しかし、そのような人は、砂の上に家を建てた愚かな人のようで、裁きの大雨が降ったときに崩れてしまいます。これに対し、イエス様の御言葉を聞いて従う人は、岩の上に家を建てる人のようです。このような生活は簡単ではありませんが、裁きの豪雨の時に崩れず、永遠の命を得ます。



適用:どの門から入りますか

一言:狭い門から


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