聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 04月 28日 (水)

マタイの福音書10:16-25(22)
すべての人に憎まれます

イエス様は弟子たちをこの世に遣わしますが、彼らが蛇のように賢く、鳩のように素直であることを願われました。弟子たちは知恵ある振る舞いによって、不必要な苦難を避けることが出来ます。知恵ある振る舞いは、信仰的に妥協するという意味ではありません。弟子たちはどんな場合であっても、信仰の純粋さを守るべきです。弟子たちは人々に用心すべきです。彼らの中には弟子たちを地方法院(サンヘドリン)に引き渡し、会堂でむち打つ者もいるからです。弟子たちはイエス様のために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。神様は聖霊様というお姿で、弟子たちと共におられ、彼らに話すことをその時に与えられ、福音を証しすることになります。兄弟、父母あるいは子どもたちによって死に至る弟子たちもあるでしょう。しかし、弟子たちは最後まで信仰によって耐え忍ばなければなりません。そうするなら、神様は救いと報いを下さるのです。

弟子たちがこの世に出て行って福音を宣べ伝える時、この世は彼らを歓迎しません。むしろ迫害し、憎みます。それは、この世が暗闇に属しているからです。悪魔に属しているからです。しかしそうだとしても、私たちはこの世に出て行き、福音を宣べ伝えなければなりません。そうしなければ、人々が福音を聞く機会がないからです。弟子たちの先生であられるイエス様ご自身が世に憎まれ、迫害を受けたのならば、その弟子たちも迫害を受け、憎まれるのは当然です。むしろ、イエス様の弟子でありながら一度も迫害を受けたこともなく、憎まれたこともないとしたら、そのほうが不自然です。私たちが迫害を受けることは当然なことだと考え、揺るがない信仰で担うべきです。



適用:イエス様のために憎まれたことがありますか

一言:証しすることになります



2021年 04月 29日 (木)

マタイの福音書10:26-33(32)
人々の前で私を認めるなら

弟子は、迫害してくる者たちを恐れてはいけません。なぜなら、暫くは誤解され、憎まれても、福音が救いに至らせる真理であることが現される時が来るからです。弟子は、勝利に対する確信を持って明るみで福音を伝えます。屋上で堂々と言い広めます。この世の権勢は、私たちのからだを殺しても、たましいを殺せないので、恐れてはいけません。むしろたましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方、神様を恐れるべきです。神様は、市場で売られている数多くの雀たちを、一羽一羽ご覧になり、気にかけておられるお方です。神様の許しなしには、そんな小さな一羽の身にさえも、何も起こりません。ですから、神の子供である私たちには、どれほどのことをして下さるでしょうか。神様は私たちの髪の毛さえも、すべて数えられるほど関心と愛を注いで下さっています。私たちのいのちは多くの雀より貴く価値があるので、少しも恐れる必要がありません。

 当時、人々の前でイエス様を認めることは、いのちと死に関わる重大な問題でした。イエス様を否認すれば死を免れますが、認めれば殉教を覚悟しなければなりませんでした。イエス様は最後の裁きの時、イエス様を認める者を神様の前で認めてくださいます。イエス様を否認する者は、天の父もその人を否認します。イエス様を認めれば損害と痛みが伴うので、沈黙や否認をしたいと思うかもしれません。しかし、忍耐し、信仰が現れるなら、イエス様が認めて下さり、最後の勝利を得るようになります。



適用:イエス様を勇敢に認めますか

一言:私も認めます



2021年 04月 30日 (金)

マタイの福音書10:34-42(34)
平和をもたらすためだと思ってはいけません

 イエス様は、この世に平和ではなく剣をもたらすために来られました。人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来られました。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。通常、イエス様を信じてその弟子になった人は、以前よりも良い父、良い母、良い嫁、良い夫、良い姑になります。しかし、確かな信仰で生きる時、その信仰を理解できない家族や親類との間に葛藤が起こる場合があります。これをおかしなことだと考えてはいけません。なぜなら、信仰生活は聖霊と悪霊との間の戦いであり、光と闇との間の戦いだからです。

 両親をイエス様よりも愛する人は、弟子としてふさわしくありません。両親から迫害される時、妥協して両親の言うことを聞こうとしてはいけません。息子や娘をイエス様よりも愛することは、弟子としてふさわしくありません。親が子供に対する期待と望みのために人間的な考えや方法で助けようとしてしまうことがあります。しかし、子供は信仰で助けなければなりません。イエス様は、私たちが使命の十字架、家族からの迫害と誤解の十字架を負いながらイエス様に従わない限り、私たちはイエス様にふさわしい者ではないと言います。 私たちがイエス様に自分のいのちを預けるならば、私たちはいのちを得るようになると約束して下さいます。 人々を得るためにイエスからの召しをあきらめるなら、救おうとしている命そのものが失われます。

 弟子を受け入れる人はイエス様を受け入れることであり、イエス様を受け入れる人は、神様を受け入れることです。弟子だからということで一杯の冷たい水でも飲ませる人は、これにふさわしい報いを受けるのです。弟子は、イエス様を代表する全権大使です。人々のイエス様に対する姿勢は、弟子にどのように接するかによってあらわれます。弟子はこれほどの驚くべき特権と権威を持っているのです。



適用:イエス様のために受ける不和をおかしく思いますか

一言:剣をもたらすために来た


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