聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 05月 31日 (月)

マタイの福音書16:1-12(6)
パン種に用心しなさい

 パリサイたちやサドカイ人たちがイエス様に、天からのしるしを見せてほしいと求めました。彼らは前にも同じようなことをしました(12:38,39)。“しるし中毒”になった人たちのようです。これまでにもイエス様はメシアとしてのしるしを見せてくださいました。しかし、彼らは悟らなかったのです。夕空で空模様を見分けることが出来ながらも、あれほどのしるしを見ても、メシアを見分けることができませんでした。イエス様を受け入れようとする心がそもそもなかったからです。彼らには、もはやどんなしるしも通じません。ただ、十字架の死からよみがえられる事件が、彼らが見る事のできる最後のしるしになることでしょう。

 パリサイたちやサドカイ人たちのパン種に、ぐれぐれも用心しなさいと、イエス様は弟子たちに言われました。しるしを見ても受け入れず、なおしるしを求める彼らを用心しなさいと言われます。パン種は音もたてずに密かに、迅速にパンを発酵させます。パリサイたちやサドカイ人たちは、純粋な信仰を変質させてしまうパン種のような人たちです。彼らは弟子たちを形式的、世俗的なものへと押しやろうとします。みことばよりも、しるしにくぎ付けにさせます。みことばへの従順と悔い改めではなく、しるしばかりを求める信仰生活をさせます。しかし、弟子たちはまだその危険性を悟っていませんでした。食べ物のことに囚われていて、イエス様からの叱責を受けなければならないほどでした。

 今の時代も、形式的、世俗的なことに埋没している人は多くいます。また、みことばよりも、神秘的なしるしで満足を得ようとする人も多いです。私たちはこのパン種に警戒し、十字架とよみがえりによってすべてのしるしを完成されたイエス様のみことばにより一層、耳を傾けてゆくべきです。



祈り:私が用心することは何でしょうか

一言:パリサイたちやサドカイ人たちのパン種



2021年 07月 16日 (金)

マタイの福音書16:13-20(18)
この岩の上に、わたしの教会を建てます

 ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエス様は弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか。」とお尋ねになりました。イエス様をバプテスマのヨハネ、エリヤだと言う人たちもいました。またエレミヤだとか、預言者の一人だと言いました。 人々はイエス様を神様が遣わされた方だとは思いましたが、約束された救い主だとは思えませんでした。その時、ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と答え、イエス様は「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。」と褒められました。なぜなら、ペテロがイエス様の本質を正しく知ったからです。イエス様のことを歴史的な人物や義のために命を捨てた偉い人ぐらいにしか思わないなら、救われることはありません。イエス様を生ける神の子キリストとして信じて告白しなければなりません。しかし人の力では、イエス様を知ることはできません。道徳的な人生を生きて神学を勉強してもわかりません。神様が分かるようにして下さらなければ、分からないのです。イエス様がどんな方であるかは、神様の恵みによって知ることができます。

ペテロがイエス様をキリストであると告白すると、イエス様はこの信仰告白の上にわたしの教会を建てると言われました。教会はイエス様をキリストであると告白した人々の集まりです。そんな人々が「わたしの教会」、すなわちイエス様の教会であり、イエス様の保護と導きを受けるのです。人間の目で見ると、小さくて、たいしたことのない集まりにしか見えませんが、よみの門もそれに打ち勝つことができない程の存在なのです。イエス様は彼らに天の御国の鍵を与えます。彼らは、福音を伝えることによって天の御国の扉を開くことも閉じることもできるほど、霊的な権威を持つ人々です。



適用:教会の特権は何でしょうか

一言:あなたに天の御国の鍵を与えます



2021年 07月 17日 (土)

マタイの福音書16:21-28(24)
自分を捨て、自分の十字架を負って

 弟子たちがイエス様をキリストとして告白した時、イエス様は自分の受ける苦難と死について教え始められました。神様が定められた救いの道は、キリストが私たちの罪のために苦難を受けて殺され、三日目によみがえられることです。しかし、ペテロは武力でローマを征服して地上にメシア王国が建てられるのを待ち望んでいたため、このみことばを受け入れることができませんでした。それでイエス様をわきにお連れして、いさめ始めました。イエス様はこのようなペテロに「下がれ。サタン」と言われました。

キリストが苦難を通じて栄光に入るというのが神様の御心です。キリストに従う者たちも同じです。これを受け入れず、苦難のない栄光だけを夢見ているならば、自分も知らないうちにサタンに従う者となり、イエス様がなさることを妨害するようになります。したがって、イエス様をキリストとして信じて従う弟子たちは、自分を捨て、主のために苦難を覚悟しなければなりません。イエス様に従う道には苦難があります。苦難の道を進んだイエス様に従う道なので、自分の十字架を負わなければなりません。この人生は自分のいのちを失うようですが、最終的にはいのちを得る人生です。だからいのちが最も大切なことを知っているなら、当然自分を捨て、自分の十字架を負うべきです。人の子が父の栄光を帯びて来られる時には、その行いに応じて報いてくださいます。



適用:苦難のない栄光を求めていますか

一言:自分を捨て、自分の十字架を負って


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