聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 07月 25日 (日)

マタイの福音書20:1-16(14)
ぶどう園の主人の心

 天の御国について説明するために、イエス様は、ぶどう園の主人のたとえ話をされました。この主人は、労働者の実際の労働時間関係なく、みなに同じ賃金を支払いました。主人が利潤を追求する経営者であるなら、朝早く雇用した労働者以外は、そもそも絶対雇用しなかったはずです。しかし、この主人は、作業の終了時間一時間前になっても、労働者たちに賃金を約束してぶどう園に入れました。それは、この主人が利潤自体を求めていたのではなく、彼らを哀れむ心を持っておられたからです。この主人は、仕事が無いため市場でぶらぶらし、心配と憂いに包まれていた労働者たちに心を留め、彼らの苦しみを理解した寛大な方でした。

 夕方になって賃金を払う時間になりました。主人は最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちまで賃金を払ってやりました。五時ごろに来た者たちが一デナリずつ受け取ると最初の者たちは、自分たちはもっともらえるだろうと思いました。ところが彼らも一デナリずつもらいました。彼らは受け取ると、主人に不満を漏らしました。一時間しか働かなかった最後に来た人たちと一日中労働し、焼けるような暑さを辛抱した自分たちとが同じ扱いを受けるのは不当だと訴えました。しかし主人のしたことは、不当なことではありませんでした。何も間違ってはいません。なぜなら、初めから一デナリずつ与えると約束したからです。主人は、遅く後から来た者たちを哀れまれただけでした。最初に来た人たちは、主人の善意と寛大な心を理解できませんでした。彼らは、一所懸命に働いたという自己義と比較意識のために、喜びと感謝を失ってつぶやきと不満を漏らしたのです。最初に来た者たちも、はじめの時はぶどう園に入って働けること自体を喜び感謝したことでしょう。しかし、一所懸命に働いていると、いつの間にか彼らのうちに自己義が生まれました。初心を忘れて自己義を持つようになった時、彼らは先に来た者であったのに、後になるしかありませんでした。



適用:ぶどう園の主人の心を知っていますか

一言:憐れみと慈悲



2021年 07月 26日 (月)

マタイの福音書20:17-34(26)
仕えるもの

 イエス様はエルサレムに上るまで三回に渡って十字架の苦難と復活について話されました。イエス様がキリストとして行かれる道は、富と栄華を誇る道ではなく人々に売られ殺される道です。しかし弟子達は、栄華や権勢を得たい夢を持っていたので、イエス様の御言葉が耳に入ってきませんでした。ヤコブとヨハネの母は、イエス様の御国で二人の息子をイエス様の右と左に座れるようにとお願いしました。他の十人の弟子たちはこれを聞いて腹を立てました。二人が先手を打ったので、序列からはみ出るかもしれないという恐れが生じたからでした。弟子たちはイエス様と一緒でしたが、彼らの心には世の成功理論でいっぱいでした。彼らには、世の権力者たちのように生きたい心が満ちていました。

 しかし、イエス様が行かれる道はそうではありません。偉くなりたいと思う者は仕える者にならなければならず、先頭に立ちたいと思う者は皆のしもべにならなければなりません。イエス様は創造主神様であられる方なのに、仕えられるためにエルサレムに上られるのではなく、仕えるために上られるのです。人々を支配するためにではなく、ご自分の命を多くの人々の贖いの代価として与えるために行かれます。イエス様と一緒に働いても、イエス様と価値観が違うなら、一緒に働いても意味がありません。イエス様を信じながらも、世俗的な成功理論のまま生きようとしているなら、イエス様についていく弟子とは言えないでしょう。イエス様が行かれる道こそが私が願う道となるように祈りましょう。



適用:偉くなりたいですか

一言:仕えるものになりなさい


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