聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 09月 20日 (月)

マタイの福音書22:1-14(2)
結婚の披露宴のたとえ

 イエス様は、天の御国は自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができると言われました。王は皇太子の結婚式が近づくと、招待した客を呼びにしもべたちを遣わしました。ところが、彼らは来ようとしませんでした。それで王は再び別のしもべたちを遣わしました。ところが、彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまいました。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払いました。この世のことに没頭し、天国への招待を断る人々は、このように不幸な結果を迎えます。

王は前もって招待した人々はふさわしくなかったと考え、大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招くよう命令しました。しもべたちは王の命令に従い、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになりました。王が客たちを見ようとして入って来ました。ところが、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いました。彼は王から授かった礼服を着て披露宴に出席しなければなりませんでしたが、それを断った人です。王は召使いたちに、その人の手足を縛って、外の暗闇に放り出すように命令しました。彼はそこで泣いて歯ぎしりするようになりました。神様の救いはすべての人に開かれています。しかし、礼服、すなわちイエス様を信じることによる義がなければ、天国に入ることはできません。信仰による義の礼服を着て、正しい生活をする人が天国の披露宴に参加することができます。



適用:天国の披露宴に参加する準備はできていますか

一言:義の礼服



2021年 09月 21日 (火)

マタイの福音書22:15-22(21)
カエサルのもの、神のもの

パリサイ人たちの弟子たちとヘロデ党の者たちが一緒にイエス様に尋ねて来ました。彼らはイエス様にカエサルへ税金を納めることが律法にかなっているのか、かなっていないのかを尋ねました。当時ローマ政府はイスラエルの民を軍隊に徴集しない代わりにたくさんの税金を徴収しました。そのため、イスラエルの民は重い税金に苦しめられていました。そのような状況下、ローマ皇帝カエサルに税金を納めることは正しいとイエス様が言われるなら、民からの非難は避けられないでしょう。反対に、税金を納めることは正しくないと言われるなら、ヘロデ党の者たちがイエス様をローマ政府に訴えることでしょう。イエス様は、彼らの悪意を見抜いておられました。彼らがイエス様を試していることも分かっておられました。イエス様は彼らに税として納めるお金を見せなさいと言われました。彼らの持ってきたデナリ銀貨を指して、「これは誰の肖像と銘ですか。」とイエス様は聞かれました。そのデナリ銀貨にはカエサル皇帝の肖像とともに「神々の子カエサル・ティベリウス」と書かれていました。彼らは「カエサルのです」と答えました。その時イエス様は「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言われました。イスラエルはローマ政府に対しても税金を納めなければなりません。なぜならローマ政府を建てて権力を与えた方が神様だからです。しかし、何よりもイスラエルは神様に従順でなければなりません。神様は世のすべての権威を持っておられる方として、私たちが真の敬拝と従順を献げるべき唯一のお方です。



適用:果たすべき責任を知っていますか

一言:カエサルに、神様に



2021年 09月 22日 (水)

マタイの福音書22:23-33(32)
生きている者の神

 復活がないと主張するサドカイ人たちが、イエス様のところに尋ねて来ました。彼らは、そもそも死後のいのちは無く、魂は身体の死とともに死ぬと考えていました。ですから、復活などありえなかったのです。それを主張するために、到底あり得ないような作り話をもってきて質問しました。モーセは、「もしある人が、子がないまま死んだなら、兄の妻と結婚して、兄のために子孫を残さなければならない」と言いましたが、次の場合どうするのかということでした。ある家系に七人の兄弟がいました。結婚した長男は子がないまま死に、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後にその妻も死にました。サドカイ人たちは、復活の際、彼女は誰の妻になるのか、という問題がおきるから、復活はありえないと主張しました。         

 イエス様は彼らが聖書も神の力も知らないので、思い違いをしていると言われました。なぜなら復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるからです。イエス様はサドカイ人たちもその権威を認めているモーセ五書を引用して復活を証しされました。神様はモーセに現れた時、ご自分のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。「…の神であった」と過去形では言いませんでした。アブラハムたちが、まだ生きているからです。死が全ての終わりだと考える人々の価値観は、「明日は死ぬのだから飲み食いしよう」というものです。彼らは世に望みを置いて、世にあるものに執着して生きます。しかし死は終わりではありません。イエス様をキリストとして信じる聖徒たちは、栄光ある復活の体を着て神様の御前で永遠に生きるようになります。この望みがある時、私たちは揺り動かされることなく主が与えられた使命にもっと励むことができます。                                        



適用:復活信仰を持って生きていますか

一言:復活はある



2021年 09月 23日 (木)

マタイの福音書22:34-46(37)
あなたの神、主を愛しなさい

 宗教的ライバルであるサドカイ人たちがイエス様に惨敗したという知らせは、パリサイ人たちにとって喜ばしいことでした。そして彼らは集まってイエス様を試し、自分たちがサドカイ人たちよりひと際上だと証明したかったかのように、律法の中でどの戒めが一番重要であるかとイエス様に尋ねました。これは律法に精通している人だけが答えられる難問でした。すると、イエス様は、「あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」が重要な第一の戒めであるが、第二の戒めである「あなたの隣人をあなた自分自身のように愛しなさい」もまた、第一の戒めと同様に重要だと言われました。神様を愛し、隣人を愛することが旧約聖書の核心であるとを明快に答えられたのです。イエス様は聖書に精通しておられるお方です。イエス様に聖書について問うことは、本の著者に本の主題を問うようなものです。今度は、イエス様がパリサイ人たちに質問されました。イエス様は詩篇110:1に基づいて彼らに質問された後、キリストの神聖さを明快に証されました。すると彼らは一言も答えられなくなりました。

 律法の核心は愛です。愛は人間が励むべき一番大切な徳目であり、生きる方向です。神様を愛さず、隣人を愛さないなら、他の何かをいくら良くやっても無価値で虚しく生きることになります。パリサイ人たちは聖書をたくさん知っているように見えます。実際、彼らは聖書の知識をたくさん持っていました。しかし、彼らは神様よりこの世で享受する宗教的権力をもっと愛しました。また隣人より自分自身をもっと愛しました。そのような彼らの人生は、神様が喜ばれる生き方から遠く離れていて、その内面には、真の幸福はありませんでした。



適用:自分を愛していますか

一言:神様を愛し、隣人を愛する


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