聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 11月 18日 (木)

マタイの福音書26:1-16(7)
女の人の香油の壺

 過越の祭りの二日前、祭司長たちや民の長老たちは大祭司の邸宅に集まって、イエス様をだまして捕らえ、殺そうと相談していました。ところが、これとは対照的に、一人の女の人が登場します。彼女は非常に高価な香油の入った壺を持って来て、食卓に着いておられたイエス様の頭に注ぎました。この香油は東インド地方で栽培されていた植物から抽出したもので、女性にとっては貴重な財産で結婚持参金のようなものでした。それをイエス様の頭に一滴残らず注ぎました。いくら高価なものでもイエス様には代えられません。いくら大切なものでもイエス様には代えられません。女の人はイエス様に対する尊敬と愛の気持ちをできる限りを尽くして表しました。イエス様は私たちのすべてをささげてあがめられるべき方です。

 弟子たちには女の人のような信仰と愛がありませんでした。彼らは、この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに無駄なことをしたと憤慨しました。このようにイエス様への献身を無駄なことだと思う人たちがいます。特に、イスカリオテのユダは、イエス様を裏切って、銀貨三十枚をもらって祭司長に引き渡す機会を狙っていました。イエス様は女の人の献身を喜んでくださって、高く評価してくださいました。「わたしに良いことをしてくれました」。女の人がしたことは、ご自分を埋葬する備えをしたことだと言われました。それから、世界中どこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも記念として語られるように言われました。



適用:イエス様への献身を無駄だと思いますか

一言:わたしに良いことをしてくれた



2021年 11月 19日 (金)

マタイの福音書26:17-30(28)
契約の血

 種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちはイエス様に命じられた通りに過越の食事の用意をしました。これはイエス様と弟子たちとの最後の晩餐でした。食事の席でイエス様は、弟子たちのうちの一人がご自分を裏切ると言われました。喜びと感謝が溢れるはずの晩餐会が、悲しみと憂いに満ちるようになりました。イエス様は、ご自分は書かれているとおりに去って行きますが、ご自分を裏切るその人にはわざわいがあり、生まれて来なければよかったと言われました。これはユダに向けられた御言葉で、イエス様は彼に悔い改めてほしかったのです。また、そのせいで弟子たちがつまずかないようにするために、予防措置として言われたのです。

 イエス様はパンを取り、神様をほめたたえてからパンを裂いて弟子たちに与えました。ユダヤ人たちは祭りを取り行う際、家長は家族にパンを裂いて与えながら「これは苦難のパン」と言います。先祖たちがエジプトで受けた苦難を忘れないためです。ところが、イエス様は「これはわたしのからだ」と言われました。また、杯を与えながら「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と言われました。今の私たちが忘れてはいけないのは、エジプトでの苦難ではありません。罪を赦すために体が裂かれ、血を流されたイエス様の犠牲です。イエス様の血は契約の血です。イエス様の血を信じるなら、罪の赦しと救いが約束されます。



適用:キリストを食べ、飲むような霊的交わりがありますか

一言:罪の赦しのために流される血



2021年 11月 20日 (土)

マタイの福音書26:31-56(39)
ゲツセマネの祈り

 イエス様は最後の晩餐の後、弟子たちを連れてオリーブ山にあるゲツセマネの園に向かわれました。その道中、イエス様はペテロが三度ご自分を否定することを言われました。それに対して、ペテロは「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と強い意志と固い決意に満ちて言いました。彼はまだ自分の弱さに気づいていませんでした。

 十字架という最大の苦難を前にして、イエス様の心は悲しみのあまり死ぬほどでした。イエス様は地面にひれ伏して、苦しみ悶えて切に祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。人と同じ脆い肉体をまとわれたイエス様は、十字架を前にして大きな苦しみを覚えられました。他の方法があるならば避けたい心境でした。イエス様は父なる神様の前で、心の中のすべての苦しみと悲しみと願いとを注ぎ出して祈られました。

 イエス様の祈りはそこで終わりませんでした。「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」。イエス様は父なる神様の望みをご自分の望みより優先されました。父なる神様の御心のためにご自分の願いを捨てられました。父なる神様の栄光のためにご自分を空しくされました。祈りとは自分の願いを押し付けるばかりではなく、自分の願いより神様の願いを優先することです。神様の望みのために自分の望みを捨てることです。これは簡単なことではありません。それで、イエス様も三度も同じように祈られました。

 弟子たちは誘惑に陥らないために目を覚まして祈らなければなりませんでしたが、眠っていました。彼らの心の底には未だに自分の願いが強くありました。彼らは自分の望みを優先していたのでイエス様を見捨てて逃げてしまうことが起こりました。ところが、神様の望みを成し遂げようとしていたイエス様は捕らえられる時も、一切の動揺もなく堂々としておられました。



適用:私の望み通りになることを祈っていますか

一言:あなたが望まれるままになさってください



2021年 11月 22日 (月)

マタイの福音書26:57-75(64)
キリストであることをあかしされたイエス様

 イエス様は捕らえられ、律法学者たち、長老たちが集まる大祭司のところに連れて行かれました。血に飢えたオオカミの中に入れられた子羊のようでした。祭司長たちと最高法院全体は、イエス様を死刑にするために、多くの偽証人が出て来ましたが、証拠は得られませんでした。逆にイエス様の無罪を彼らが立証しているようなものです。最後に二人の者がでて、イエス様が神の神殿を壊して、それを三日で建て直すと言ったとして、神殿冒涜の罪で告発しました。イエス様は一貫して沈黙を貫かれました。しかし、大祭司から神の子キリストなのかという問いかけには、イエス様は明確に答えられました。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(26)。死を避けるのであれば、このような決定的なことは言わなかったでしょう。しかし、イエス様は神の子キリストであられ、やがて再臨される栄光の主であると告げられたのです。しかし、このことでイエス様は唾をかけられ、拳で殴られ、平手で打たれ、からかわれたのです。すべてのことが神様のみこころの中でなされることをイエス様はご存じだったので、キリストとしての受難の道をひるまずに歩まれました。

 これと比べてペテロはどうでしたか。召使いの女から、イエス様と一緒にいなかったかと追及を受けると、ペテロは恐れにとらわれ、皆の前で、イエス様を知らないと否定しました。別の召使いの女がイエス様と一緒にいたと問いかけると、再び知らないと否定しました。立っていた人たちが、確かに、ペテロはイエス様の仲間だと言うと、ペテロは嘘なら呪われてもよいと誓い始め、イエス様を知らないと否定しました。ペテロは決定的な瞬間に、キリストの弟子であることをあかしできなかったのです。



適用:苦難を前にしても、自分が誰かあかしできますか

一言:私はイエス様の弟子です!


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