聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2021]

2021年 11月 23日 (火)

マタイの福音書27:1-26(26)
死刑宣告を受けたイエス様

イエス様が死刑に定められたのを知ったユダは、後悔しました。ユダはイエス様を売った罪を祭司長たちに告白しました。しかし、祭司長たちはユダが自分で始末することだと突き放しました。自分の罪は自分で負うしか無いと言った訳です。残念なことに、ユダは、罪を告白しに行く相手を間違えました。ユダは、後悔と絶望の中ででも、イエス様のところに行くべきでした。もし十字架につかれたイエス様のもとに行っていたのなら、強盗を赦されたイエス様を見ることができたでしょう。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)」と祈られたイエス様を見ることができたでしょう。イエス様が、ユダの罪を代わりに背負ってくださる救い主であることを知るようになったでしょう。他の弟子たちのように、その後は福音を積極的に伝える生き生きとした、力ある人生を生きることができたのではないでしょうか。

総督ピラトは、彼らがねたみからイエス様を引き渡したことを知っていました(18)。彼はイエス様が悪いことを何もされなかったことを悟っていました(23)。また、ピラトは妻の伝言からも、イエス様が無罪だと聞きました(19)。彼は罪のないイエス様を釈放しようと試みました。しかし、群衆は祭司長と長老たちに説得され、イエス様を十字架につけるように叫び続けました。ピラトは人々を抑える気がありませんでした。叫ぶ群衆を見て、ピラトは暴動が起きるのではないかと恐れていたからです。ピラトは最終的に、イエス様を鞭打ちにし、十字架刑を宣告しました。罪のないイエス様に対してピラトは公正に裁判を行うことを放棄し、死刑宣告を下しました。正義を知りつつもそれを実践せず、実利に従い不義を行う姿そのものでした。わたしたちは、実際損害を被りそうであっても、義を行うことをやめてはいけないのです。



適用:真理か、実利か

一言:実利よりも真理の方です



2021年 11月 24日 (水)

マタイの福音書27:27-44(42)
十字架にてご自分を救わなかったイエス様

 総督の兵士たちはイエス様を総督官邸の中に連れてゆき、からかいました。イエス様が着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せました。彼らは茨で冠を編んでイエス様の頭に置きました。イエス様の頭からは血が流れ落ちました。そして右手に葦の棒を持たせ、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかいました。またイエス様に唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたきました。こうしてイエス様をからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出しました。なぜ罪もないイエス様がこれほどまでに苦しまなければならないのでしょう。これは私たちの罪に対する呪いを代わりに受けておられるのです。イエス様の傷は私たちの咎のためであり、イエス様が踏みにじられているのは私たちの罪のためです。イエス様が神様の裁きを受けられ、私たちの罪の代価を贖い、私たちが平安を得、癒しを受けるためだったのです(イザヤ53:5)。

 イエス様はゴルゴタに至りました。はり付けられる際に、イエス様は苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうとされませんでした。すべての苦難からイエス様は逃げることなく、担おうとされたのです。イエス様は十字架につけられました。その苦しみは耐えられるものではありませんでした。通りすがりの人たちは、イエス様を見て、ののしりました。祭司長たち、律法学者たち、長老たちもイエス様を嘲りました。「他人は救ったが、自分は救えない。」人々はイエス様が無力だから十字架につけられたのだと考えました。そうではなく、イエス様が十字架でご自身を救われないのは、人を罪から救うためでした。罪からの救いは、ただひとつ、イエス様が罪を贖うために十字架で死なれたことで成し遂げられるからです。イエス様に従う私たちも、人のために自分を犠牲にする覚悟を心しているでしょうか。



適用:なぜイエス様は十字架から降りてこないのでしょうか

一言:私たちを救うため



2021年 11月 25日 (木)

マタイの福音書27:45-66(46)
わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか

 十二時から午後三時まで闇が全地を覆いました。イエス様は6時間もの間、十字架で苦しまれ、大声で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」これまでどんな苦しみも、ののしりにも、沈黙を貫かれたイエス様が大声で叫ばれました。その理由は、神様に捨てられた苦痛があまりにも大きかったからです。これまでイエス様は神様に捨てられたことはありませんでした。しかし、十字架では神様に見捨てられなければなりませんでした。なぜならイエス様は十字架で、人間の罪に対する神から降り注ぐ怒りを受けなければならないためです。神のひとり子であるイエス様が捨てられるほど、人の罪は深刻なのです。私たちは罪のために、聖なる神様の御もとに出て行けませんでした。しかし、イエス様が亡くなられた時、予期しない出来事がいくつか怒りました。まず神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは、誰でもイエス様の血に頼るならば神様の御前に大胆に出て行くことができると教えてくれます。イエス様の血を受け入れる者は誰でも、罪赦され、神様の子としてくださるのです。

 イエス様の死を最後まで見届けた者がいました。ガラリヤからイエス様に仕えてきた女性たちです。彼女たちはイエス様を愛し、イエス様の苦しみと死にあずかりました。アリマタヤ出身で金持ちのヨセフがイエス様の亡骸を受け取り、新しい墓に納めました。イエス様を慕い、最後まで従ってきた者たちは、イエス様を弔いました。



適用:どうしてイエス様は捨てられなければならなかったのですか

一言:私の罪の代わりとなられるため


<<(1)    前のページ(26)    27    次のページ(28)    (28)>>

聖書別日ごとの糧