聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2022]

2022年 04月 20日 (水)

マルコの福音書6:1-13(6)
近くの村々を巡って教えられた

 イエス様は郷里に行かれました。安息日になって会堂で教え始められました。イエス様の教えを聞いた多くの人々は驚きました。その教えには神様からの知恵があり、力あるわざが現れました。しかし、郷里の人々はイエス様を排斥しました。彼らはイエス様と30年間もともに生活をしてきたので、イエス様を単なる大工の子だとしか考えず、敬いませんでした。人間としてのイエスだけを見て、キリストであるイエス様を受け入れようとしませんでした。それで、イエス様はナザレでは何人かの病人に手を置いて癒す以外は、力あるわざを行われませんでした。彼らの不信仰の代償です。御言葉の奇跡を行うことができず、もどかしく思われました。

 イエス様は自分を排斥する郷里の人々の不信仰に驚かれました。その後、ガリラヤ地方の近くの村々を巡って教えられました。イエス様は十二弟子を呼び、二人ずつ遣わし、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになりました。そして弟子たちに神様の備えにより頼み、身軽な服装と物だけで伝道生活を担うように言われました。特に、彼らを受け入れない人々にはあまり気を払わないように言われました。弟子たちは従順に出て行き、悔い改めのメッセージを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒しました。

 福音を宣べ伝えようとすると、先入観や人間の知性、あるいは経験で見ようとし、イエス様を排斥する、そんな人たちに出会う場合があります。彼らは一言でいえば、不信仰の人々です。福音の恵みと権能を受けることができない哀れな人々です。このような人々の言葉と行動のために、失望したり委縮したりする必要はありません。イエス様もこのような待遇を受けられました。私たちは不信と偏見を持つ人々に縛られないで、大胆に巡って福音を宣べ伝えればよいのです。信仰を持って受け入れてくれる人々が必ずいます。



適用:排斥され落胆していますか

一言:巡って教えましょう



2022年 04月 21日 (木)

マルコの福音書6:14-29(16)
不安と恐れに苛まれたヘロデ

 弟子たちの活動でイエス様の御名が知れ渡りました。人々は、イエス様をエリヤあるいは昔の預言者たちの一人だと言いました。旧約聖書では、エリヤを筆頭に多くの預言者が力強い霊的な働きをしました。イエス様のうわさを聞いたヘロデ(ガリラヤとベレア地域の領主、ヘロデ・アンティパス)は、「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」と言いました。以前、バプテスマのヨハネは、ヘロデがその兄弟の妻であるへロディアをめとったことで、律法にかなっていないと指摘しました。彼は王の前でもはっきりと悔い改めを促しました。勇敢な預言者でした。しかし、へロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いました。ヘロデはというと、彼はヨハネが正しい聖なる人だと知っていました。それで、彼を恐れて牢につないで保護しました。そのころ、ヘロデは自分の誕生日に重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招き、祝宴を設けました。へロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせました。そこで、王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と約束しました。少女は出て行って、母親に聞いてから、バプテスマのヨハネの首を求めました。ヘロデは非常に心を痛めました。しかし、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、結局ヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来るように命令してしまいました。ヘロデはバプテスマのヨハネが死人の中からよみがえって、自分に復讐するのではないかと恐怖に苛まれたことでしょう。

 不義の罪を犯した人生には、平安がなく、その魂には苦難と苦悩があります(ローマ2:9)。罪意識は時間が経っても消えないものです。不義な生き方をすると、たとえ王であっても、不安と恐怖に怯えながら生きるしかありません。罪の問題は神様の前に出て行って悔い改める時に、解決の道が見いだせます。罪の赦しを受け、良心に従って生きるとき、心に平安が生じます。



適用:平安な人生を過ごしたいと思いますか

一言:罪の問題を解決しなさい



2022年 04月 22日 (金)

マルコの福音書6:30-44(37)
あなたがたが食べる物をあげなさい

 使徒たちは伝道の御業を終えて帰ってきました。彼らは自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエス様に報告しました。イエス様は彼らだけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさいと言いました。弟子たちは舟に乗り、寂しいところに行きました。ところが多くの人が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からも徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いて待っていました。休もうとした弟子たちにとって、大勢の群衆の出現は嬉しいことではありませんでした。しかしイエス様は、群衆が羊飼いのいない羊の群れのようであったので、深くあわれみ、休むことなく教え始められました。そのうちに、すでに遅い時刻になったので、弟子たちはみなを解散させるよう、イエス様にお願いしました。ところが、イエス様は、目の前の群衆に、弟子たちが食べるものをあげるよう命令されました。弟子たちは、人々を食べさせるのに必要な二百デナリ(労働者の200日分の賃金)がないと冷ややかに言いました。弟子たちが探してきたのは、五つのパンと二匹の魚でした。しかし、イエス様はそれを受け取って感謝をささげてからパンと魚を取り、人々に分け与えられました。その結果、パンを食べたのは男だけでも五千人で、みな食べて満腹しただけでなく、残りものさえ出ました。

 イエス様は、弟子たちが牧者の心情と責任感を持つことを願われました。また、無いものを見るのではなく、あるものを見ることを願われました。何よりも、創造主であられるイエス様を仰ぎ見ることを願われました。牧者の心情と信仰があれば、どんな状況の中でも、羊の群れを食べさせられます。私たちが信じるイエス様は、出エジプトの時に何もない荒野の中で200万人を食べさせた全能なる神様です。



適用:あげられると思いますか

一言:あげなさい



2022年 04月 23日 (土)

マルコの福音書6:45-56(49)
湖の上を歩いて来られる

 五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせた後、イエスさまは弟子たちと群衆が、イエス様の起こされた奇跡に心を奪われてしまうことを願いませんでした。それで、イエス様は弟子たちを向こう岸のベツサイダに、先に行かせました。そして、イエス様は祈るために山に向かわれました。人々から受ける栄光よりも、祈りを通して神様と深い交わりを持つことを、もっと慕われました。イエス様が山で祈られている間、弟子たちは向かい風のために漕ぎあぐねていました。イエス様はそのような弟子たちの苦しい状況を見て、夜明けが近づいたころ、即ち、夜明け3~6時頃に、弟子たちのところへ行かれました。弟子たちはイエス様を幽霊だと思い、叫び声をあげました。イエス様はすぐに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そして、舟に乗り込まれると、風はやみました。

 湖の上を歩いて来られたイエス様を見た弟子たちは、なぜそれほどまでに驚いたのでしょうか。それは彼らがパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからです。二匹の魚と五つのパンの奇跡は、イエス様が全能なる神様の御子であることを教えてくれます。弟子たちは、このことを通して、イエス様がどんな方であるかを悟るべきでした。ところが、彼らは満腹に食べられたことにしか考えはいかず、イエス様がどんな方であるかについて悟ることはできませんでした。それで彼らは湖の上を歩いて来られたイエス様を見て驚いたのです。

 イエス様は湖の上を歩いて我々のところに来られる方です。難航を極める問題に遭遇した時、イエスさまは私たちのところに訪れてくださり、向かい風がやむようにして下さる方です。私たちがどんな場所で、どのような苦しみを受けていたとしても、その場に訪れて助けてくださる方です。全能の神の御子であられるイエス様を信じる時、私たちはどんな状況の中でもイエス様の助けを受けることができます。



適用:漕ぎあぐねていますか

一言:どんな状況の中でも助けてくださるイエス様


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