聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2022]

2022年 04月 27日 (水)

マルコの福音書8:1-13(5)
パンはいくつありますか

 耳が聞こえず口のきけない人を癒されたイエス様の周りに、大勢の群衆が集まって来ました。ところが、彼らには食べる物がありませんでした。食べる物をもっておらず空腹の群衆をみて、イエス様は彼らを可哀そうに思われました。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるのではないかと心配されました。しかし、弟子たちはイエス様に、「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう。」と尋ねました。この時、イエス様は弟子たちに「パンはいくつありますか。」とお尋ねになりました。彼らにあるのはパン七つだけでした。イエス様はそのパン七つを取り、感謝の祈りをささげてから、それを裂き、配るように弟子たちにお与えになりました。また、小魚が少しあったので、それについて神をほめたたえてから、これも配るように言われました。群衆は食べて満腹しました。そこにはおよそ四千人がいました。 

 弟子たちは大勢の群衆、食べる物がない荒野、そして何も持ってない自分たちのことだけを見ました。しかし、イエス様は弟子たちが持っているものを探すように助けられました。難しい状況になると、私たちは無いことだけに囚われます。そして、どうせ何もできない、と簡単に結論を出してしまいます。しかし、イエス様は、私たちにある物を探してご自分の方に持って来るように願われます。イエス様はそれを通して、驚くべき御業を成してくださいます。

 現在、私にある物は何でしょうか。それがいくら小さくてみすぼらしい物だとしても、イエス様に持って来るなら、イエスさまがそれを通して働いてくださいます。御言葉に聞き従い、あるものを探して持って来るとき、イエス様は私たちの考えを超えた驚くべき御業を成してくださいます。



適用:持ってないことだけを考えますか

一言:あるものを探して見よう



2022年 04月 28日 (木)

マルコの福音書8:14-26(18)
目があっても見ないのですか

 イエス様と弟子たちが群衆を離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行こうとした時、弟子たちは、パンを持って来るのを忘れました。彼らは一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせていなかったことを残念がりました。そのとき、イエス様は彼らに、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけるようにと言われました。パリサイ人のパン種とは、偽善のことで、ヘロデのパン種は、世俗主義を意味します。弟子たちはイエス様に従い、学んでいますが、指導者たちのパン種の悪影響を受けると、彼らの弱い福音信仰は滅ぼされてしまいます。それで、イエス様はパン種から弟子たちを守ることを願われました。しかし弟子たちはこの御言葉の意味を悟れず、パンを持ってくることを忘れた自分たちを責めていると思いました。

 イエス様は、信仰がなく、パンの問題を心配し、悟れないでいる弟子たちを責めました。「目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」イエス様はパンと魚の奇跡を弟子たちに見せられたのに、わからないままでいる彼らに、「まだ悟らないのですか。」と言われました。イエス様は、彼らが五つのパンと二匹の魚の出来事を思い起こし、荒野でも食べさせてくださるという信仰を持つことを願われました。また、霊的な目と耳が開かれ、イエス様が教えてくださる霊的な教訓を悟る力を持つことを願われました。

 一方べツサイダに着いた時、人々が目の見えない人を連れてきて、彼にさわってくださいとイエス様に懇願しました。イエス様はその人の手を取って村の外に連れて行かれました。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当ててさわってくださいました。イエス様は彼を簡単に治せたにもかかわらず、段階を踏んで治されました。このようにされたのは、目の見えない人に対するイエス様の諦めない愛と積極的な仕えの恵みを表すためでした。また、目があっても見ることができない、霊的成長が遅い弟子たちに大きな望みを植え付けるためでした。



適用:目と耳が開かれていますか

一言:見て聞いて思い起こしなさい



2022年 04月 29日 (金)

マルコの福音書8:27-38(34)
だれでもわたしに従って来たければ

 イエス様と弟子たちは、ピリポ・カイサリアの村々に出かけられました。その途中、イエス様は弟子たちにお尋ねになりました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」人々は、イエス様をバプテスマのヨハネだと言ったり、エリヤだと言ったり、預言者の一人だと言う人たちもいました。するとイエス様は、今度は弟子たちにお尋ねになりました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」この質問は、人々がイエス様のことをどう言おうとも、弟子たち自身がイエス様をどのように知っているか、彼らの個人信仰を問う質問でした。ペテロは「あなたはキリストです。」と答えました。これは、「あなたはわたしの王であり、わたしの救い主です。」という告白です。この告白は、イエス様が花婿、信じる私たちが花嫁、という永遠の結婚の約束を確かなものにし、揺れ動くことのない救いの確信を与えます。

 ペテロの告白を聞いたイエス様は、キリストの道について教えられました。その道は、苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目によみがえる」道です。イエス様は続いて弟子たちの道についても教えてくださいました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」人々は自分を捨て、自分の十字架を負うことをいやがります。ところが、自分を捨て、自分の十字架を負うことなしには、イエス様に従えず、約束した勝利と栄光に至ることができません。主は、自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、主と福音のために自分のいのちを失う者は救われると言われました。また人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうかと言われました。世の権力と富をすべて得たとしても、いのちを失ってしまえば何の益もありません。また、だれでもイエス様とイエス様のことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来られるとき、その人を恥じます。



適用:キリストであるイエス様に従おうとしていますか

一言:自分を捨て、自分の十字架を負う


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